超重量対決!追い詰められた血震丸、最期の秘策?!虎千代は…?
鬼小島弥太郎と、知切狠禎。
二人はともに、身の丈二メートルに近い巨体の持ち主だ。
巨岩のようなその肉体が、泥を巻き上げ真っ向から衝突する。
「ウオアアアアッ」
雄叫びを上げ、ぶつかりあう肉体同士の衝撃音は、周囲をたじろがせるほどだ。
互いに長柄の武器を構え、身体ごと衝突したその力は、まさしく互角。刃を振るう隙もなく、激しく重量をぶつけあった二人の身体は、まさにへし合い、相手を押しつぶそうとするかのように競り合う。
これぞ肉弾戦だ。
「シアアアッ」
狠禎が鬼小島を押し切り、刃を振るおうとした刹那、とっさに武器を手放した鬼小島の拳が顔面を捉える。
「おらあっ」
鬼サザエの殻のような拳は、狠禎のあごをまともに撃ち抜いた。十分に体重の乗り切った打ち下ろし気味のミドルレンジでのフックは、恐ろしいまでの破壊力だ。鎧がへしゃげ、骨と肉が打ち据えられる音が、無惨に響く。これが普通の人間ならば兜ごと、頭蓋の中の脳を破壊されるに違いなかった。
しかしだ。
「むうんっ」
狠禎も負けてはない。前につんのめった反動を利用して、兜の前立てを接近した鬼小島の顔面にぶつける狠禎。これも超破壊力のヘッドバッドだ。
「しゃらくせえやっ」
と、右足を上げてよろけかけたかに見えた鬼小島は、硬い鉄扉を蹴破ろうとするかのように、その足で踏みこんでのミドルキックだ。
内臓破裂を起こしそうな強烈な踏みこみざまの蹴りを、狠禎は真っ向から足を踏ん張って受け止めきる。
「くたばれえいっ」
鬼小島の攻撃に耐えた狠禎は、押し返しざま大鉈を閃かせ、一刀両断を狙う。その大鉈を振るう両手を、ぐっと間合いを詰めた鬼小島が掴み上げると、今度は反動を利用しての足払いだ。大木を引っこ抜くような力押しの大内刈り。強烈な足刈りに受け身を取る間もなく、狠禎は頭からぶっ倒れる。
「しゃらくせえって言っただろうがこの野郎ッ」
手に残った狠禎の武器をがしゃりと放り棄てると、鬼小島は吼えた。
「ぶった斬る前にてめえは、おれが直々にぶちのめしてやらあっ」
のっけから、男相撲だ。容赦なしの武器なしの肉弾戦に移行した真剣勝負の迫力に、武器を持った周囲の誰も手出しを出来ずにいる。
「立て、もう一発、ブッ飛ばさせろや」
と言う鬼小島の前にいきなり立ちはだかると、狠禎、真っ向から鬼小島の顔面に頭突きを入れた。油断していた鬼小島は思わず膝をつく。そのあごを狙ってさらに右膝の蹴り上げだ。今度は鬼小島が、まともに真後ろにぶっ倒れた。血と歯の混じった唾を吐き捨て、狠禎は腰刀を抜こうとする。
「何が素手ぞ。邪教徒が図に乗りおってっ」
柄を上げて、仰向けに倒れた鬼小島を刺そうとする狠禎だったが、そのあごを垂直に伸びあがった鬼小島に思い切り、蹴り上げられる。馬の後ろ脚に蹴りあげられたみたいな、パカアッ、と言う衝撃音が、ダメージの強さを物語る。
「ぐっ…」
まともにあごにもらった狠禎は、脳しんとうで気が遠くなりかけたに違いない。後ずさりする隙に、鬼小島は再び立ち上がった。その鬼小島にしても、さっきの狠禎の頭突きで無骨がひん曲がっている。
「素手に文句があるのかよっ」
右拳を添えて、鬼小島はバナナのように曲がった鼻骨を力任せに直した。鼻血を噴き、
「けっ、ぶちのめしてやるっつったのは、おれだって言ったんだよ」
相手が刃物を持っているにも関わらず、再び殴りかかる。
「てめえは黙って殴られてやがれっ」
もはや防御など度外視だ。鬼小島と狠禎の間には、二人が肉体をぶつけあう不気味な打突音だけが響いていた。工業機械に似たその凄まじい重低音は、二人の兜の前立てをへし折り、胴丸をへこませ、血と骨と肉を砕いた。まさに総力戦だ。
「らあっ」
腰を沈めた鬼小島の渾身のアッパーが、狠禎をふっ飛ばし、ついにあの巨体がその場に尻もちをついた。
「さあて、そろそろ決めるかよ」
鬼小島が拳を固めたそのときだ。
「図に乗るな若造っ」
また這い上がるようにして立ち上がった狠禎は、泥田の中から取り出した何かを鬼小島の腿に突き立てたのだ。
あれは、さっきふっ飛ばされた脇差だ。
「ぐううっ」
思わず膝を突いた鬼小島を、身体ごと体重を乗り込んだロシアンフックで狠禎が逆に殴り倒す。この一撃はさすがに強烈過ぎた。衝撃で鬼小島の巨体が浮き上がり、数メートルふっ飛ばされた身体はしばらく起き上がることが出来なかったのだ。
「どうだ。もうその足では立てまい。下らん茶番も終わりよっ」
アッパーをもらって砕かれたあごを、無理やり手で直すと狠禎は叫んだ。
「こいつは中々の獲物だったわ。待っておれい…今度こそ、おのれの素っ首落としてくりょう」
狠禎は血反吐を吐くと、肩で息をしながら、泥の中にまみれてしまった自分の凶器を捜した。大鉈は鬼小島のすぐ近くにあった。
「おのれの頭蓋で飲む酒は美味かろうよ」
ぐふふふっ、と狠禎は含み笑いをしながらそれを取り上げた。
「弥太郎さんっ」
と、飛び出しかけた僕は、黒姫に引き留められる。
「もうっ、何を邪魔してるですかっ、真人さんっ」
「なにすんだよっ」
「大丈夫ですってば。でかぶつはあの程度じゃやられたりしませんですよ」
そんな無茶な。
あれほど体力を消耗し、足に脇差を突き立てられた上、最大級の一撃をもらっているのだ。げんに仰向けになったまま、鬼小島の身体はぴくりとも動いていない。
「大人しくしておれよ」
狠禎は大鉈を振り上げると、鬼小島の兜と首の隙間辺りに狙いをつける。僕にはまだ、鬼小島の狙いが分かっていなかった。そして黒姫が、鬼小島が何を狙っているかに気づいていたことも。だってこのままでは断頭台に架けられたようなものなのだ。
「これで決めてくれんっ」
狠禎がその大鉈を振りおろそうとした、まさにその刹那だ。
鬼小島が一瞬の隙をついて立ち上がり、間合いを詰めて狠禎に組みついた。
傷ついた足を庇い、まだ中腰だ。しかし上手い。鬼小島は姿勢低く、狠禎の身体の芯を捉えて離さないのだ。この密着した間合いではあの長い武器を使うことなど到底できまい。
「おっ、おのれっ、何をするっ!小癪な悪あがきを」
「へへへっ、おれの狙い通りよ」
狠禎はもがいたが、鬼小島を振りほどくことなど出来ない。だが鬼小島の狙い通り、しがみついたはいいが、あの姿勢から一体、何が出来ると言うのか。
「悪あがきじゃねえってんですよ!こいつを待ってたですよ!」
やはり、黒姫は次に鬼小島がどうする気かをよく分かっていたようだ。
「さあ、遠慮なく行くですよ!」
と叫び、黒姫が右手の親指をぐるんと下に向けた瞬間だ。
「るせえやっ、腹黒!黙ってみとけやっ!」
咆哮とともに鬼小島が狠禎の巨体をドラム缶でも抱えるように。
引っこ抜いた。
大鉈を持ったままのあの巨体をだ。一体、何キロあるか想像もつかない。それが鬼小島に抱えられて宙に浮いた。両足が離れた。
「放せっ、おのれ、何をする気だ」
「言われなくても、すぐに放してやるよ」
ここで何をする気なのかは、僕にもぴんと来た。うわっ、これって。
「おらああっ」
狠禎をリフトした鬼小島はそのまま、自分の全体重を重力に預けて背後に倒れこんだのだ。狠禎は顔面から地面に杭打たれるように、墜落する羽目になった。言うまでもなくこれこそプロレスとかで見る必殺技、ブレーンバスターだ。
自分の武器と鎧の重さで威力も倍加して、顔面から落ちた狠禎の頸は激突の衝撃で物凄い方向にへしゃげた。
破壊の衝撃音は、恐ろしく凄まじいものだ。ちょうどエレベーターのワイヤーが切れて重たい部屋が落下したような危険すぎる音だ。それはその場にいた誰もが、はっとして動きを停めたほどだった。それにしても鬼小島は無茶苦茶だ。狠禎を本当に素手でぶちのめしたばかりか、最後は常識外れの投げ技で粉砕したのだから。
「見たかっ、てめえら!」
ぐるりを見渡すと、鬼小島は敵味方に向かって豪腕を引き上げてアピールする。
「おおおっ、さすがは兄貴だっ!」「一生ついていきます!」「たまには、やるじゃねーですか!さすがは脳筋ですよ!」
最後は黒姫の野次だ。
「こいつで最後だ!おおいっ野郎ども、ここで一仕事しねえでどうするっ!?」
力士衆たちがこれに呼応して大きな鬨を作る。それはすでに誰にも留め難い、大きな波になりつつあった。
頃合いがいいと見た鬼小島は自分の長巻を取り出して、咆哮する。
「さあっ、さっさと片付けてお嬢に合流するぜっ!」
その雄叫びが、僕たちを一気に鼓舞した。
「おおおおっ!!」
鬼小島を呑みこむように、武器を持った力士衆たちの波が突撃する。その勢いは狗肉宗を圧して、強く押し返した。不死身の軍隊が相手なのに、誰ももはや前後を顧みたりはしない。
この現象を一言で言う。
馬鹿だ。
正直言って、鬼小島がしたことは、戦術的な利点から考えるまでもなく不合理とも言え、まったく意味のないこととも言えた。しかし、それだけではなかった。鬼小島が見事に狠禎を叩きのめし、僕たちに虎千代と合流しようと叫んだ瞬間、そこに言語に尽くし難い力が驚くほど強烈に、働いたのだ。
相手が秘術を使い尽くし、肉体を極限まで強化した化け物だと言うにも関わらず。
命知らずの力士衆たちは再び、一気に突貫する士気を取り戻したのだ。
当の鬼小島がこれを知ってか、知らずしてか。
たぶん、そんな理屈なんて、はなから関係がないのだろう。
気がつくとこの僕ですら、松鴎丸と黒姫とともに突撃に参加していたからだ。なぜだか思いっきり、笑い出したいような、叫びたいようなそんな気分だ。
「あははははっ、でかぶつにしては中々いーこと思いつくじゃねーですかっ!」
傍らの黒姫など、爆笑しながら両手に持った爆弾を容赦なく迫る狗肉宗たちに投げつけていた。さっきまで狠禎の顔を怖がって、僕の後ろに隠れていたのと同じ人間とは思えない。
「さあっ、みんなでこのまま虎さまのところまで押し切るですよっ!」
「見ていて飽きぬ。そんな連中だ」
虎千代がいつか、苦笑とともに僕にそう言っていたのを思い出す。確かにそうなのかも知れない。だからこそ、理屈を超えて虎千代と繋がっていこうと大きな力が出るのだ。
勢いに乗った僕たちは一気に狗肉宗を圧倒した。もう、この流れを押しとどめることは出来ない。ちょうどさっき、虎千代が弾正を敗走させたようにそれは、強く抗いがたい不可避の力だ。
狠禎は大の字で倒れたまま、その戦場に取り残されている。砂埃が渦を巻いて、黄色い風を巻き起こす中、その巨体が弾かれたように突然びくりと動いた。
「あんた、気がついたか」
「ぐうっ…おのれえいっ、ふざけた真似しおって」
狠禎がようやく意識を取り戻した。その傍らに鬼小島が立っている。この大混乱のさなか、その姿は意識を失っていた狠禎をどこか護るようでもあった。
「悪いがおれらの勝ちだ。このままおれらはお嬢のところへ行かせてもらうぜ」
「阿呆が。我らがおのれらを、素直に行かせると思うか」
見ろ、と言うように鬼小島はあごをしゃくる。すでに戦場の勝敗は決している。狠禎のいない狗肉宗は犠牲者を出し続け、爆煙と砂埃が舞い上がる戦場で、立って戦い続けている姿はまばらになっていた。
「あんたも、血震丸にそこまで義理があるわけじゃねえだろ。ここで退いたっておれらは追いはしねえ」
「この期に及んで、邪教徒の情けは受けぬわっ」
叩きつけるように、狠禎は叫んだ。
「おのれらには判るまい。ここでおめおめと山に戻れば我ら狗肉の者は藪に潜み、人目を憚り、獣の残した腐肉を喰らって生きるしか道はないのだ。おのれの骨に齧りついてでも我らは、ここを退く気はないわっ」
そうか、と頷くと、鬼小島は狠禎の大鉈を拾ってその足もとに投げた。
「おれの勝負には付き合ってもらった。だからせめて、決着はあんたの納得いくようにしてやる。あんたの答えが訊きたくてな。わざわざ待ってたんだよ」
「おのれえいっ、どこまでも愚弄するかっ」
「…嫌いじゃねえって言ってんだ。あんたの考え方もな。ここで退かねえなんてのは、実際、本物の武人だけだ」
と言うと鬼小島は腰を沈め、利き手の長巻を脇構えに振りかぶる。拝むように突き出した左手を添えて振れば一瞬で、威力は倍加するだろう。
狠禎も大鉈を振り上げ、鬼小島を一気に叩き潰す構えだ。その身体にはなお、無数の戦場で血肉を浴びてきたなりの、凄惨な殺気と剛力が居残っていた。
お互い、鎧ごと相手の肉体を豪断する力は十分に秘めている。
慌ただしい戦場でまるでそこだけ、時間が停まったかのようだ。
二人とも相手の間合いをはかりながら、地に根を生やした石像と化したかのようにっぴくりとも動かない。
勝負はまさに寸毫の刹那でついた。
一撃。
はっ、と狠禎が振りかぶった大鉈を下ろすより速く、放胆に相手の間合いに飛び込んだ鬼小島があの肉食獣の牙のような剣で右袈裟を叩きこんだ。鋭い刃は狠禎の獣の甲冑に見事過ぎる切り口の斜線を刻みこんでいた。
血走った狗の目が、その傷口を視認した瞬間、そこからおびただしい血と臓物が一気に噴き出した。武器を取り落とした狠禎はまるでその傷口を両手で庇おうとするかのように、前のめりに膝を突いた。
「お見事」
すでに意識のない狠禎の骸に向かって、鬼小島は言った。そして左手を立て、今度は狠禎のために念仏の偈を立ててやると、ひと息で狠禎の首を斬り飛ばした。
狠禎が死に、今度こそ狗肉宗は完全に壊滅した。
それでも絶息丸につかれた狂信者たちは、ほとんどが逃げずに最期まで戦ったと言えた。僕たちは、持てる残りの力を注ぎ込んでやっと彼ら全員を行動不能にすることに成功したのだ。
「さあて、ここは片付きましたですよ!さっさと虎さまのところへ行きますですよ!」
黒姫がはりきって言った。虎千代が追い散らしたため、すでにこの辺りに敵兵はいない。本当に勝利まであと、一歩と言うところだ。
「虎千代は大丈夫かな」
と、僕は言った。僕たちは狗肉宗と戦いながら、血震丸の遁走路をたどっているはずなのだが、行けども行けども虎千代たちの姿もまだ見えない。
「おう、小僧、怪我はねえか」
鬼小島がのっそりと追いついてくる。こちらは頭から足の先まで、傷だらけだ。平然としているところを見ると、命に関わるような傷は負っていないようなのだが、それでもその凄まじい姿には、一瞬ぎょっとさせられる。
「弥太郎さんこそ、大丈夫ですか」
「馬鹿野郎、これくらいでおたついてちゃこっちは戦闘にならねえんだよ。つうかお前こそ、確か鉄砲傷あったろうが。無茶しやがって」
どん、と、僕は鉄砲でえぐられた肩を小突かれる。あれは弾が貫通して、肉が少しえぐり取られただけなんだけど。興奮していたせいか、痛みも気にならなくなっていたのに。たっ。殴られたら痛いって。
「腹黒、てめえに土産だ」
どん、と、鬼小島は風呂敷包みを差し出す。心なしか下が濡れてる。まさかこれって狠禎の首?
「こうすりゃあ、奴は生き返らねえんだよな」
「決まってますですよ。他にも狗肉宗の遺体は見つけ次第、首を切り取って別々に埋葬するよう命じてありますからねえ。奴らももう生き返ることはないはずですよ」
死を恐れず戦い、死の淵からも平然と立ち上がってくる兵士を作る。それにしても、恐ろしい秘術を使う連中だった。だが本当に恐ろしいのは人体実験によって、その秘術を高め、この人界に送り出してしまった張本人、血震丸そのものだろう。
「しかし、こいつは大物だったぜ」
「う…これ重たいですよ」
あの巨体にしてか、首はかなり大きい。黒姫も重たそうに首包みを抱えて中身を検めていた。
「気が済んだたら、首はさっさと返せよ。こいつはおれ様の武功なんだからな」
「言われなくても返しますですよ、こんな気色悪い首。大体ですねえ、そもそもわたくしたち軒猿衆はこんな胸糞悪い首稼ぎがお仕事ではないのですからねえ」
「へっ、羨ましいならそう言えってんだよ。こいつは今日の第一武功だぜ」
「うっ、羨ましくないってんですよ。虎さまに一番に褒めて頂くのは、狗肉宗の秘密を解き明かしたわたくしなのですよっ」
二人の意地の張り合いは相変わらずだ。しかし、どうでもいいが僕の前で二人してその不気味な首包みをやり取りするのは出来ればやめてほしいものだ。
「虎千代はどこまで行ったんだろ」
そこで、僕はさりげなく話題を変える。もう何キロか行くと山道に入りそうだが、敵勢の姿も虎千代たちも見当たらない。
「血震丸め、総崩れしてましたからねえ。今頃は虎さまに討ち取られているに違いないですよ」
黒姫は得意げに言う。弾正を逃がすのは、今回の作戦の要でそれは成功したが、血震丸ばかりは逃がすわけにはいかないのだ。虎千代のことだから、抜かりはないとは思うが、気が逸る。
「おい、小僧あすこじゃねえか」
鬼小島が、ぬっ、と太い人差し指を突き出したのはそのときだ。
山道に至る林の間に、人の群れが見えたのだ。槍足軽たちのようだが、その間にたたずむ白い龍の突撃旗。あれは確かに虎千代の隊に違いない。
それにしても、なぜ、あんなところにいるのだろう。
虎千代は突撃旗の下にいた。すぐに僕たちに気づいたようだ。
月毛の白馬の頭を翻すと、虎千代は僕たちの方へ近づいてきた。
「早かったな。上々、追いつきしか」
「お嬢、狗肉宗の連中は片づけてきましたぜ。これ、狠禎の首です」
ひょいと鬼小島が、首の入った不気味な包みを持ち上げてみせる。
「うむ、ようやった。やはり弥太、おのれがあやつを討ち取りしか。その首は夜にでも実検致そう。首注文(記録簿)に書きつけてもらうがいい」
「へへへっ、こいつもさすが結構な野郎でしたよ。どんなもんすか」
と、鬼小島は得意そうだ。
「と、虎さま!わたくしも活躍したですよ。狗肉宗の秘術、暴いたのはこの黒姫なのですからねえ!わたくしのお蔭ででかぶつだって、勝てたですよ」
黒姫も両手をばたばた動かして必死に武功をアピールする。子供か。ううん、確かに狠禎の秘術の謎を解き明かしたのはすごいけど、鬼小島が黒姫のお蔭で勝ったと言うのはどうだろう。
「お前、狠禎の素顔が怖くて、小僧の後ろに隠れてたじゃねえか」
「怖いのは仕方がないではないですか。あっ、でも狠禎以外の奴はちゃんとやっつけましたですよ!虎さまあ、わたくしも褒めて下さいですよお。まずはこの、頭を撫で撫でしてほしいですよお」
艶やかな黒髪の頭を黒姫はぐいぐい、馬上の虎千代に押しつける。
「分かった分かった。黒姫、お前の武功も認めるゆえ委細、いくさ目付に話しておけ」
と、虎千代は仕方なく黒姫の頭を撫でてやっている。
「ところで、血震丸たちは?」
僕が訊くと、
「ああ、実は、この先の寺へ逃げ込んだのだ。今、下手に逃げださぬよう我らで囲っておる」
虎千代の凄まじい追撃で、血震丸たちはちりぢりになって逃げたようだ。その軍団の大部分を構成する金ずくの足軽たちはほとんどいなくなったが、血震丸は手廻りの十五名ほどを連れて近在の寺へ立て籠もったようだ。血震丸の乱入で住職以下数名の小僧が、人質に取られている。包囲を敷いた虎千代の元にも助命を嘆願するため、人質の一人が使者として遣わされてきていた。
「厄介なことになったね」
と、僕が言うと、まったくだ、と虎千代は眉をひそめた。
「だがあやつらを逃がすわけには行かぬでな」
「虎さまっ、まどろっこしいことは抜きですよ!」
さっき活躍し損ねたと思ったのだろう、はいはい、と黒姫が手を上げて武功をアピールしてくる。
「この黒姫にお命じ下さい。まだ爆薬もふんだんに残ってますですから、いざと言うときは寺ごと血震丸を爆殺」
「無駄な犠牲を出すのは避けたいところなのだが、血震丸とともに黒田家を乗っ取った、飛騨古折家以来の奸臣どもが居残っているのだ。それを残してしまっては、必ずしも後々のためにはならず」
黒姫の強行突破論を黙殺し、虎千代は忸怩たる面持ちだ。非戦闘員を犠牲にしたくないとは言え、確かに、あれだけの壮大な陰謀の絵図を描いて、京都政界まで巻き込んだ血震丸たちだ。このいくさを期に一切の禍根を断ってしまうべきだと考えるのは、もっともなことだ。
「ともかくも我らだけでも寺へ入り、血震丸と直接話せるよう掛け合っているところだ。あやつらも元は由緒ある武士の端くれゆえ、武士らしくここで腹を切らせると言えば、やみやみと見苦しき沙汰は演ずまい。黒姫、弥太郎、いざと言うときは頼むぞ」
まだ出番がありそうだ。二人は、胸を張って頷いた。
しかし本当に、小さな寺だった。血震丸も相当に、追い詰められているに違いない。虎千代の話によれば下手をすれば寺に火をつけて、すべてを道連れにしかねない。
「姫さま、向こうの使者がまだぞろ来たわ。こちらも人を選んで、使者数名で入るならば、奴らと直接話せるやも知れん」
包囲陣を見守るのは、柿崎景家だ。この猛将が取り囲む限りは、血震丸は万に一つも逃げ道がないと考えていい。
「無論我が行く。和泉、おのれはここを隙なく固めていてくれ。何があってもあやつらを逃がすわけにはいかぬのだ」
「何を仰るか。姫さま、そいつはならんぞ。そうなりゃ、奴らは姫さまと刺し違える覚悟を決めるはずじゃぞ」
総大将自ら使者に出る。虎千代の無謀な物言いは毎度のことだが、やっぱり景家はびっくりして目を剥いた。
「あやつめは我が生んだ禍根。ゆえに始末は必ず己でつけると決めているのだ」
と、虎千代は涼やかな表情で返した。
「贄姫についてもそのようにしてきた。当然我も、あやつと刺し違える覚悟でゆく気だ。ここは悔いのなきようやらせてくれ。長尾景虎としてではなく、一己の武士として頼む」
「むむう。そいつは…」
と、そこまで言われて虎千代に頭を下げられると、さすがに景家も止められそうにない。
「おおいっ、弥太郎!何とかせんか。まあた姫さまがとんでもないことを言いおるぞ」
「オヤジ、これはしょうがねえですよ。お嬢が武士として、けじめをつけてえって言うんだ」
鬼小島も苦笑気味だ。しかし、虎千代の気持ちは誰より分かっていた。
「とにかくお嬢、中へ入るんならおれを供に。いざと言うときは、おれがあいつらを道連れにしてもお嬢を救い出しますぜ」
「すまぬな、弥太」
虎千代は鬼小島にも頭を下げた。
「虎さま、人質救出はこの黒姫と軒猿衆にお任せ下さいですよ。虎さまが中に入ると同時に忍び入って、人質を逃がしてみせますです」
「黒姫、かたじけなし」
虎千代は本当に律儀だ。一見依怙地にみえるが、しかし、そう言うところにこそ、長尾家の家士は身を尽くすのだ。
「僕も行くよ」
さらりと言うと、僕は虎千代を見た。もちろん虎千代もこの期に及んで否やは言わなかった。
「絶対、虎千代の助けになってみせる」
と、僕は思い切って、彼女に言った。
「ありがとう。真人も頼りにしている」
虎千代は頷くと、屈託なく微笑んだ。
それからほどなく、交渉の準備が整った。
正面から中へ入るのは、虎千代、僕、鬼小島の三人。これに後衛として、鉄砲を携えた松鴎丸が狙撃班として見晴らしのいい場所に潜伏する。
そして屋根伝いからは黒姫率いる軒猿衆。こちらは精鋭数名で人質救出にあたる。
「若造、姫さまに無茶はさせるなよ」
柿崎景家にはくれぐれも頼まれた。
「和泉安心せい。この真人は武器も持たず単身、弾正を撤兵させた男ぞ」
と、さりげなく虎千代が僕のハードルを上げてくる。確かに弾正との交渉は奇蹟的に上手くはいったが、あれは僕だけの力じゃないし。
「真人、その…入る前に、なのだが」
僕が鬼小島と黒姫と打ち合わせを済ませると、虎千代がなぜかいそいそと小手を外してやってくる。
「どうしたの?」
「…その、手を」
「手?」
と差しだした僕の手を取りすがるように、虎千代は握るとそっと自分の身に寄せた。
ええっ?
「やはりだ。こうすると、本当に落ち着く」
と、言って虎千代は僕を恥ずかしそうに見上げた。
「憶えているか。お前が教えてくれたことなのだ。出陣前、わたしがずっと不安がっていたら、お前がこうして手を握ってくれただろう。実は、お前が戻ってきたら、ずっとこうしたかったのだ。お互い生きて、もう一度こうして出来ることをいくさの最中ずっと考えていた」
「そっ、そうだったんだ」
いや、こっ、これは不意打ちだ。そんなこと急に言われたら、どきっとして虎千代の顔もまともに見れないじゃないか。
「温かいな。叶うものなら、いくさ場など行かず、ずっとこうしていたいものだ」
と言うと、虎千代はふんわりと微笑んだ。濡れた瞳が、僕を映して輝く。ううっ、だから反則だ。いつもながらこいつ、女の子してるときは、なんでこんなにかわいいのだ。
僕としても今やっと、ちょっと正気に戻れたけど、このいくさの最中なのに虎千代の手はひんやりとしていて、かすかに桃の葉の香りがした。さらにはこうして身体を寄せると少し汗を掻いた肌が上気して、熟れた花が甘く蒸れたような悩ましい香りが虎千代から漂ってくるのだ。
いや、今いるのは血で血を洗う戦場なんだって。ここでこれ以上、密着は危険だ。このままだと、まずい。僕は弾正と渡り合った危険な交渉とか、贄姫に刃を突きつけられたこととか必死にピンチだったことを思い出して必死に正気を保った。
「ま、真人っ…一つ頼みがあるのだが、いいかっ」
「う、うんっ」
あっあー、今の一瞬、理性ぶっ飛びかけるところだった。
「な、なあ…このいくさが終わったら、もう一度、こうしてわたしの手を握ってほしいのだ。…その、出来れば二人だけのときに」
「うっ、うん。分かった」
と、僕が言うと、本当か?と言うように、虎千代が上目遣いになる。
「かっ、必ず約束するよ。心配しないで。それでさ二人で、またデートしよう」
「でいと!?ほっ、本当か」
「うん。絶対行こうよ」
と、虎千代は嬉しそうに頷いた。
「生きて帰らなくちゃな。僕たち二人で。ちゃんと絢奈たちのところにさ」
「そうだな」
僕の指に、名残惜しそうに虎千代は細く華奢な自分の指を絡めるとそっと、僕の胸にそれを押し戻した。その瞬間、
「うっ、うううんっ。うんっ!」
と、言うわざとらしい咳ばらいが背後から聞こえてきた。
振りむくとそこにずらりと、人数がわだかまっている。
「…小僧、お前お嬢といちゃつくのもときと場合を考えろよ」
めちゃくちゃ恥ずかしい。今のやり取り、鬼小島たちに丸聞こえだったのだ。
「あーあーあー気楽でいいですねえー真人さーん」
黒姫からはどす黒い怨霊のような気配が漂っていた。
「ところで知ってますかあ。…生きて帰ったらこうしよう、とか何とか言ってる人は高い確率で死ぬんですよ?」
「さっ、さてー、我も中へ入る支度をせねばなー」
そそくさと立ち去る虎千代を尻目に居残った僕は、鬼小島と黒姫の視線が痛かった。
血震丸が立て籠もる寺はそう大きなものではない。藁ぶきの小さな山門に仏堂、主殿が続いているくらいのもので防御施設と言えばそれに低い土塀を巡らせてある程度だ。血震丸たちはそれに押し入ると、戸板を外させ、各所に引き立て即席の防壁を整えていた。いわゆる矢玉避けなのだが、それだって火矢を射かけられれば一溜まりもない代物だ。そんな場所で民間人を人質にとって血震丸が徹底抗戦をしようと考えているのならば、よほど窮しているのだとしか言いようがない。
しかしだ。あの男のことだ。まったくもって油断は出来ない。虎千代は血震丸も武士である以上、名誉の死を望むだろうと言ったが、身を潔くするとか、最期を飾るとか、血震丸についてはそう言った考え方は、僕としては不似合いなのではないかと思った。
僕がそれを指摘すると、
「さもあろう」
と虎千代も苦笑気味に同意したが、いくら血震丸でもこの状況で生還を見込んでいるとするならば、人質を楯にして単身脱出に賭けることぐらいしかあるまい。
「いくさ中ゆえ、土足の非礼は御許し頂こう」
虎千代は迎えの寺男に断ると、仏教徒らしく山門の敷居をまたぐときに手を合わせていた。
会見は仏間ではなく、母屋の方で行うようだ。それほど広くもない板の間には灯明皿が置かれ、急ぎつけられた火種が暮れかけの冷たい風を浴びてほろほろとおぼめいている。しかし窮屈な客間だ。寺男によるとそれでも住職を含め十名近くがここに住んでいるらしいのだが、この場所も僕たち三人で入ると、かなり手狭に感じた。
「お待たせした」
ほどなく、登場した血震丸も三人だ。いずれも兜を脱ぎざんばら髪のまま、中には胴丸さえ脱いで肩衣姿のものもいた。鎧を脱いだ人は怪我人のようだ。傷が重いらしく、額に脂汗を掻いている。
しかしその中でも血震丸はやはり、堂々と座っていた。そのふてぶてしさは敗残の将とは思えなかった。
「手短に話したい。まず、お前の存念をうかがいたし」
と、話は虎千代から切り出した。
「弓矢をまじえ決着をつけるときはすでに過ぎた。いくさのこと次第は武門のならいのことゆえ、もはやその是非は問うまい。潔く本意遂げる意志あらば我も過去の遺恨に関係なく、しかるべき場を設けるに相違なしと心得るが返答はいかがか」
「長尾の虎姫さまはおれに、腹を切れと申すか」
虎千代の申し出ににたりと笑って、血震丸は不敵に応えた。
「名誉と思うか、恥と捉えるかはおのれ次第ぞ」
虎千代もその視線をまったく動かしたりはしない。
「名家、古折家の末裔ともあろうものが、かような家籠りの果てに盗人のごとく死ぬるは家名を穢す末期になろう。よく考えるがよい」
刺すような虎千代の視線を、血震丸はじっと受け止めていたが、
「そうじゃな。この期に及んでじゃが、おれの腹を割ろうか。おれはな虎姫さまよ、家名を大事と思うたことはないのだ。さればこそ、古折家を焼き払い、黒田家を割った。そして長尾家を打ち壊し、新たな家を興す。それが我が野望の要諦であった」
「そうか」
と、虎千代は異論を差し挟まない。
「旧家の家名大事のおのれらからすればおれは罪人も罪人であろうな。そう言う名家の名誉なるものを、踏みにじり、凌辱し、消し去ることこそ身についた我が生涯の欲望に相違ないのだ。よっておれには御家大事、名こそ惜しけれの気などさらさらない」
ふーっ、と息を吐くと、この稀代の謀略家は一気にそれを言った。
「それがおのれの宿業と言い張るなれば仕方なし。だが、おのれ大事で最期に罪もなきものを犠牲となすか。または、おのれの野望に賭けた者たちもおのれが晩節を穢すに道連れとなすか」
「ははは、そうじゃな。我が最期しめくくるにそれもまた一興と言えようが」
腰から脇差を抜くと、血震丸は虎千代の前にそれをどん、と置いた。
「死ねと言うなれば死のう」
血震丸は唇を片方に歪めて言った。
「おれも武士だ、この期に及んで否やは言わん。しかしとどのつまりはだ、おれはな、おのれら長尾家に殺されるが何より業腹と言うことよ。我ら主従十五名、ここで互い刺し違え果てたく思う。湊川に敗れた楠公のごとくじゃ。おのれらは存分に取り巻いて我が最期、確かめるがいい。だが、我らが死するに一切、手を下すことは認めぬ」
「我らの手にはかからず、ここで果てたいと。それがお前の望みか」
「ああ」
すると、じろりと、虎千代は血震丸を見上げた。
それから、
「いいだろう」
あっさりと虎千代は言った。
「好きにするがいい。人質は、お前らが果てた後に返そうと言うのだな」
「ああ、されば我らここで末期の盃をかわす。その上、腹を切る故、半刻(一時間)は待ってもらおうか」
「あい分かった」
虎千代はそれに応じると、鬼小島に命じて最期の酒と肴を血震丸たちに届けさせるよう、手筈を命じた。
「外で待つ。きっかり半刻、仇強きおのれの本意遂げるがいい」
「いいの、虎千代」
気になって僕は訊いた。方法は判らないが、もしかしたら一時間、時を稼いで逃げる気ではないだろうかと思ったのだ。
「好きにさせてやれ」
虎千代は、それ以上何も言わなかった。
それからの一時間は、僕たちは野営し、血震丸の自殺を待つことにした。
虎千代は周囲の包囲は厳重にしたが、彼らに配慮してか、中をうかがう兵たちは立ち退かせた。こうして、暮れゆく闇の中で主従の最期の酒宴が始まった。僕たちはその姿は見えなかったが、気配や音は外に漏れ出でて来た。ことに彼らにとっては最期の酒宴だ。火を盛大に灯して中は明るく、しばらくは大声で笑う声や叫び声なども喧しい。さすがは血震丸も武士だと言うことだ。覚悟を決めたか、股肱の家臣を盛大に労っているのだろう。
その声が鎮まったのは、ぴったり一時間後だった。黒姫に伴われて寺男が人質の住持たちを連れ出し、安否を確認していた。
「奴らは死んだか」
こくりと黒姫が頷き、虎千代が、自殺し果てた血震丸たちのいる中を検めようとしたときだ。
「中が燃えておるぞ。火じゃっ」
その声に僕も虎千代も、思わずはっと息を呑んだ。
長尾家の手にかからない。
そう血震丸は言っていた。最期までそれを徹底したとでも言いたいのか。
気がついたときには中にはすでに炎が回り、虎千代たちは再び外へ戻ることを余儀なくされた。必死の消火活動にも関わらず、炎は小さな古寺をすぐに包みこんだ。血震丸は余った火薬類などを持ち込んでいたのだろう。ふいの爆発音が断続的に響き、消火の作業は何度か中断される。宵の口を回る頃には、炎は天を舐め、虎千代は囲みの兵たちを避難させ、火が収まるまで近くに野営を設けることにした。
(なんて奴だ)
しかし、恐ろしい男だった。
僕はその業火が盛るから目が離せず、いつまでも見ていた。
この噴き上がる焔は、血震丸のまだ収まりきれない血みどろの野望の断末魔に思えた。この男の得たいの知れない執念こそが人を陥れ、誰の心にも触れず、最期は虎千代の温情を振り切ってまで自らの魂を業火によって跡形もなく灰燼に帰しせしめたのか。天魔に近いこの謀略家はかくして天に帰ることを選んだのだ。
炎の勢いが衰えかけたときだ。虎千代は、景家に命じて山上撤退の準備を始めた。
「もういいの」
「ああ」
と、虎千代はなぜか気のない返事で言った。
「いつまでもこうしていても仕方あるまい」
すると虎千代の命令か、焼けだされた寺の住持たちが黒姫たちに伴われてやってきた。血震丸のお陰で彼らこそ、災難だ。口ぐちに念仏を唱えては、泣き叫ぶものもあった。虎千代は黒姫に命じて茶を点てさせると、気付にとそれを与えていた。
「おっ、恐ろしき男にござりました」
住持らしき五十代のお坊さんはぶるぶると震える手に茶碗を持ったまま、虎千代に引き攣った表情で訴えかけた。
「お坊、これからどうするか。身一つで焼け出されゆくところもあるまい」
「大事はありませぬ。この近くに、有力な檀家がござりますればそこに身を寄せまする」
「そうか」
虎千代は頷くと、次に信じられないことを命令した。
「黒姫、この坊主ども逃がすな。残らず縄をかけよ」
「はいはーいっ」
あわてるお坊さんたちを尻目に待ってましたと言うように、黒姫はほいほいと全員を縛り上げた。
「と、虎千代っ、これどう言うこと…?」
「真人、忘れたか。血震丸たちには自在に姿を変える霊薬があろう」
そこまで言われて、僕はようやくぴんと来た。いやまさか、もしかして。この期に及んで血震丸たちと人質が入れ替わっていたなんて言うことがあるのだろうか。
「こっ、これはいかなるっ!ごっ、ご無体にござりまするっ」
目を剥いて不当を訴えたのは、さっきの住持さんだ。
「わしらがあの連中とすり変わっているなどと世迷言を。いい加減にせぬと、仏罰が下りまするぞっ」
しかし虎千代はまったく動じない。色のない目で黒姫が縛り上げたお坊さんたちを引き立てるとのを眺めていたが、ちらりと住持を見やって、
「さっき、茶を点てさせた。見たところ誰も口をつけておらぬようだが」
「ちゃ、茶ごときで!何を申しまするか」
そこで虎千代は剣を抜くと、問答無用で突きつけた。
「飲んでもらおう。懐かしき味のはず。あれこそは黒姫が仕立てた、霊薬の下毒薬よ」
「うっ」
その一言で住持が絶句したとき、僕にもやっとことの真相を悟った。
「はいはいっ、悪あがきは無駄ですよお!飲まねーってんならわたくしが飲ませてあげますですよ」
「なっ、なにを…ぐぶっ」
黒姫は言うとその脇から二人の軒猿衆がこの坊主を捕え上げ、無理やりその茶を飲ませた。すると、
「げええっ」
激しくえづいた住持の口から黒い粘状のものが吐きだされ、ひざまずいたままその老いた肉体がみるみる若く変貌した。
それはまさしく髪を落とし、僧の姿に身をやつした血震丸だったのだ。
「なっ、なぜおれが死なぬと分かった」
脂汗に濡れた顔を上げ、血震丸は言った。さっきと異なり、目を剥き頬を引き攣らせ、今度こそその顔は心底追い詰められたものに変わり果てていた。
「判らぬはずがあるまい。お前はそう言う男よ」
虎千代は詰まらなそうに鼻を鳴らすと、小さく肩をすくめた。
「さっき果てると言ったおのれの目、死ぬ者の目ではなかった。お前と違い、贄姫はわたしの前でその目を見せたぞ。死を恐れぬその目をな」
「くっ、くそおおっ、はっ、放せっ」
暴れ出した血震丸を黒姫が、すかさず雁字搦めに縛り上げた。
「血震丸よ、我は慈悲を与えた」
虎千代は冷たい瞳でそれを見下ろすと、刺すような声で言った。
「これより先は容赦はせぬ」




