誰も援けてはくれない。真人、命を賭した説得!捨て身の交渉に弾正は…?
視界が、晴れてきた。
その頃の、黒姫だ。鳶爪を追って雑木林の中に入った黒姫は、両手に鉤棍を構えつつ、辺りに気を張り巡らせていた。鬱蒼とした雑木林は日中でも暗い。さっきから視界を澱ませていた、霧が晴れてきただけでも、黒姫にとっては有難かった。なにしろ頭上から息も吐かせぬ勢いで迫ってくる鳶爪を捕捉するには、寸毫の油断も命取りになるからだ。
(さっきはしくったですよ)
鉤棍を持つ黒姫の左袖の裾が切れ、腕につけられた鋭い太刀痕から血が流れ続けている。これはさっき、鳶爪の攻撃を凌いだときに、刃が滑って肌を傷つけたものだ。
まるで野猿のように素早い代わりに、あの少女の目方はびっくりするほど軽いのだ。だから本来、攻撃もそれほど威力がないはずだが、並み外れた跳躍力を使い勢いをつけた上、全体重を乗せて撃ち込んでくるので侮れない。この傷も鉤棍が自分の腕を守る構造をしているから少しは防げたものの、まともに喰らっていたなら腕一本、骨ごと斬りこまれていたとしてもおかしくはない。知切狠禎と言い、血震丸も厄介な連中を連れてきたものだ。
傷を庇いながら黒姫は、少し拓けた場所に身を置く。そこには大きな梅の古木が、咲き誇る白い花を匂わせている。黒姫は古木を背に立ち、大きく息をついた。
さてもう、あまり時間がない。
黒姫はさっき、二発の銃声を聞いた。僕と松鴎丸が作戦を開始したことをそれで、悟ったのだ。この少ない人数でどうやって松永勢を止めようと考えたのか、僕は具体的に考えを話してはいなかったのだが、黒姫にも僕がどうするかは、薄々察しはついていたのだと言う。
(絶対にあのお方は、わたくしたちなら絶対しない無茶するに決まってますですよ)
黒姫の予想は当たっていた。だけに嫌な予感は、もっともこのとき強かっただろう。
「居るのは知ってますですよ!」
おとがいを上げ、天に向かって呼びかけるように黒姫は言った。
「たまには山猿と遊ぶのも悪くないですけど、わたくしにも仕事があるですよ。そろそろお互いここが鍔際ではないですかねえ。決着をつけましょうですよ」
黒姫の呼びかけも、虚しく思われた。その声だけが響き、山はいぜん、鎮まり返っている。梅の小枝が傾いで、花がこぼれたのは、小鳥が立ったからだ。あれは目白だ。若草色をした小さな身体が、残像を見せて飛び、暗い林の梢の連なりに一瞬で姿を消した。
黒姫は梅の幹から背を外すと、目を閉じて再びその身体を古木にもたせかけた。
その瞬間だ。
ざあっ、と音を立てて白梅の花弁がこぼれ落ち、そこから黒い影が黒姫に向かって躍りかかった。黒姫の身体がほとんど呑みこまれたと思われた刹那、鈍い打撲音とともに、その姿は消えている。
鳶爪は黒姫を追わず、交差した両手に握り懐剣を構えたまま梅の花を浴びている。顔つきも体格も、下手をすると菊童丸を少し大きくしたほどの少女だ。薄汚れた顔の中で、はっきりと白く潤んだ目が、真水のように澄んだ無表情で黒姫を見ている。
「ほっほう、そんなお顔をしてたですか」
数メートル離れて、黒姫と鳶爪は対峙した。これまで際どい攻防を何度も続けていたのだが、お互いに表情が確認出来るほどに静止して向き合ったのは、これが初めてだったようだ。
「お前、腹黒い女。どれだけ汚い武器を持ってる」
ぺっ、と鳶爪は何かを地面に向かって、何かを吐く。黒姫が吐きつけた含み針だ。
「苦い。毒まで塗ってある。腹黒い女」
「にっ、二回言いましたですねっ」
やはり誰から見ても、そう見えるものなのか。
「だいたい不意打ちがお得意なあんたに、腹黒いなんて言われる筋合いねーですよ。それにわたくしは武士ではないのですからねえ。邪魔な奴は最短で、てっとり早く消すのがお仕事なのですよ」
「わたしにも仕事がある。もういいから、早く死ね」
鳶爪は獲物に飛びかかる犬がそうするように、さらに低く、ぐっ、と腰を落とすと、そのまま伸びあがるように一気に間合いを詰めてくる。
速い。
黒姫も傷を負っているが、鳶爪も黒姫にそれなりの傷を負わされているはずなのだ。さっきの攻防で黒姫は鳶爪の剣を受け止めざま肝臓の急所に一撃放ったのだが、鳶爪の呼吸は乱れた様子もなく、攻撃の威力もスピードもまるで衰えた感じがしない。知切狠禎といい、その異常な頑丈さには何か理由があるのだろうか。
鳶爪は身体ごと押し込むように、右手を大きく振って放った。全体重の乗ったロシアンフックだ。いなしながらもかわした一撃に、黒姫の身体は大きく後ずさりする。
(ったく、なんて威力ですか)
返す間もなく、横薙ぎの左。頭を下げてこれもかわすと、そのまま左の蹴足が飛んでくる。辛うじて右の鉤棍で衝撃を和らげたが、また間合いが遠ざかる。まるで独楽だ。渾身、遠心力の塊で手を出そうとすれば、回転の勢いでますます弾き返される。とっさに鉤棍を引っ込めた黒姫は、二指に手裏剣を挟んで振り上げかけたが、そのときには鳶爪の姿はそこにいない。
上だ。
高い木の枝があるわけではない。全身のばねだけで。平地なのに、まったく化け物じみた跳躍力だ。
「フウウウッ」
反応が間に合おうはずがない。黒姫の身体にまともに懐剣の一撃が叩き込まれた。
「ううっ」
ずん、と骨まで痺れるような衝撃だ。しかしまだ、肉を断たれてはいないはずだ。黒姫は自分の胸元を見た。鎖の着込みがほつれて、下着の布が弾けている。思った通り、打撲傷は負ったが、肉は切れていない。左手の鉤棍で威力を軽減したのか幸いだったのか。しかしだ。
鋼鉄の鉤棍は、今の衝撃で断たれて地に落ちていた。
「このっ」
痛みに顔をしかめて黒姫が降った反対側の右袖から、白い飛沫のようなものがほとばしる。一瞬、鳶爪が油断していたなら、それを真っ向から被っていたはずだ。
「酸か」
火傷や布の焦げ目からしゅうしゅうと音を立てて舞い上がる煙を見て、鳶爪はすぐに察した。
「さすがは冶金(金属精製のこと)に優れた山の民ですね。酸は鉄を腐食させる秘薬、気づいてすぐに避けたのは正解でしたよ」
「臭い」
鳶爪は鼻の頭を歪め、火傷にかかった酸を振り払うように身体を震わせると、牙を剥いて黒姫を睨み上げた。
「そんなものまで隠し持ってる。お前、どこまで卑怯な女だ」
「うっ、うるさいですよ。あんたに腹黒いとか卑怯とか言われたくないですよ」
敵にずるいと罵られる黒姫も黒姫だが。
「秘薬で思い出したですよ。獣じみたあんたの動きや知切狠禎の頑丈さ、あれは自然に得たものではありませんですねえ。恐らくは薬効の賜物か」
鳶爪は答えない。代わりに、表情を硬くした。
「血震丸が実験した秘薬のうちにもありましたよ。姿を変えたり、義理の父親に毒を盛ったりするものばかりではないですねえ。例えば、いくさ場で血を流すことを厭わず、死ぬまで戦う兵士を造る霊薬とか」
ぴくり、と鳶爪はそこで柳眉を逆立てた。その鳶爪の表情をうかがうように睨むと、
「やはり図星ですか」
「お前になんの関わりがある」
鳶爪は突っぱねるように言った。
「あんたらは知らないでしょうけど、わたくしたちにはあるですよ」
黒姫は大きく息をつくと、胸を張り、
「我ら、軒猿衆の根拠地も飛騨なのですからねえ。その聖域で天下に悪名を広めるような連中は、里の誇りに賭けて許せませんのです」
決まった、と黒姫は思ったようだが、無論、僕も虎千代もこのときはこの場にいない。
「呪われた邪宗徒が」
代わりに鳶爪は、総毛を逆立てるようにして怒った。
「お前、絶対に生かしておけない。必ずここで刻み殺す」
「上等ですよっ!大体ですねえっ」
と、黒姫が啖呵を返しかけたときに、鳶爪の姿がもう視界にない。さっきより数段速い。黒姫が防御反応をとる間もなく、鳶爪がすぐそこに迫っている。
「死ねっ」
鳶爪の渾身の力をこめた一撃が、黒姫の顔面に叩きこまれた。
かに、思えた。
確かに響いたのは、金属同士がぶつかり合う衝撃音ではなく、攻撃が肉に喰い込んだ紛れもない打突音だった。しかし、鳶爪の攻撃は黒姫の身体に触らず、虚しく空を切っている。苦痛に顔を歪めたのは、むしろ鳶爪だ。
黒姫の左袖から出た鎖分銅が鳶爪の脾臓に喰い込んでいる。今の一瞬、半身をかわしざま、黒姫は袖の中に仕込んであった小型の手鎖を打ち放ったのだ。それは護身用に身体に仕込む、長さ一メートルほどの短い鎖のついた分銅で密着した間合いでも十分に機能する。
「くっ」
鳶爪は正体不明の危険を感じ、さっきと同じほどのスピードで飛び下がった。
(何が起きた)
鳶爪は内心で思っただろう。
理屈が通らないのだ。さっきまででさえ黒姫は、自分の動きに思うさま翻弄されていたではないか。そして今の刹那は、完全な不意打ちだった。にも、関わらずだ。まったく反応しきれていなかったはずの黒姫がわずかに身体を開いただけの動きで鳶爪の攻撃を見切ると、その力を利用して逆に攻撃すら仕掛けてきた。鳶爪が混乱するのも無理はない。鳶爪の動物的な経験知は激しく動揺しただろう。実際、信じられない事態だった。
(ただの偶然だ)
鳶爪は向き直ると、猛然と反撃に出たが、もう二度と黒姫を捉えることは出来なかった。ついさっきまで、黒姫が防げなかった頭上からの打ち下ろしから、首なぎ、蹴足のコンビネーションも寸でのところで黒姫に当たらないのだ。それどころか焦りで粗くなった鳶爪の動きに、黒姫はノイズのように、何度も手鎖での一撃を挟んでくる。
「ふふふ」
鳶爪から見て、黒姫の身のこなしは、格段に素早くなったとは思われないのだ。それなのになぜか、鳶爪の攻撃は不思議なほど黒姫をすり抜けていく。まるで風に泳ぐ旗か、見えるのに実体のない雲を相手にしているようだ。
「くうっ」
気を抜いた一瞬、黒姫の鎖分銅が鳶爪の鼻頭を掠める。ついに急所に踏み込まれるほどに、黒姫の攻撃が届いてきた。そのとき、鳶爪は自分の動きの速さが、みるみる衰えてきているのを自覚した。
「腹の攻撃は足を止めるですよ。ようやく、脾臓への一撃が効いてきましたようですねえ」
黒く血で濡れた鎖分銅を構え、悠々と黒姫は鳶爪のダメージを確認する。さっきとはまるで違う様子だ。何があったのだ。そんな短期間のうちに。判らない。だが、確実に何かをしている。なにしろ目の前にいるのは全身に得体の知れない暗殺兵器を仕込んだ、鳶爪が今まで見たこともないほど腹黒い女なのだ。
「おっ、足が止まりましたよ」
「くそっ」
と、不用意に踏み込んだのがまずかった。接近しすぎたのだ。さっき手鎖を喰らった鼻頭に今度は黒姫の頭突きが容赦なく叩きこまれる。その次の瞬間、袂をぐっと掴まれた。
「おらっ、行きますですよ!どっせええいっ」
黒姫の背負い投げが極まった。小さな鳶爪が吹っ飛ばされた。辛うじて鳶爪は受け身をとれたが、鼻骨を折られ、鼻血が顔を汚している。
「やあっと足がとまったですねえ」
気がつくとさっきまでの俊足は完全に停まっている。
その様子を見るまでもなく、完全に戦況が逆転していた。文字通り、手も足も出なくなったのはさっきまでの黒姫ではなく、今や鳶爪の方だ。得意のスピードに任せ攻撃しようにもすでに、攻め手はほとんど封殺されている。それもわけのわからないうちにだ。
「う…っ」
立ち上がったはいいが、これ以上動けない。本能的に鳶爪の身体は、持ち主の意志とは裏腹に攻撃を忌避し出したのだ。
「あなたの負けですよ」
黒姫はそんな鳶爪の心情を見抜いてか、これみよがしに肩をすくめて挑発する。
「で?まだやりますですか」
「こっ…殺すっ」
それでも鳶爪は、狂った思考を立て直そうと、必死にぎらついた目で黒姫を睨み上げた。
「きっ、汚い女だっ、わたしに何をしたっ」
確実に、何かしたはずなのだ。毒か。それとも幻戯か。しかしそのいずれにも、鳶爪は掛からない自信があったし、かかっている自覚もなかったのだ。
「あんたにゃ何もしてねーですよ」
「嘘だっ」
でなければ、あれほど急激に黒姫の動きが変わるはずはない。確実にあそこで、何かが起こったことは確かなのだ。
「だから言ったでしょう。あんたにはね。わたくしは何もしてないのですよ」
「どっ、どう言うことだ」
意味不明のことを言って黒姫は肩をすくめる。
「あんたと、同じですよ。わたくしも里の秘密を守る人間なのですよ。他言無用、知ったものには死んでもらわなきゃならないと言う秘密をね」
黒姫が音もなく近づいてくる。鳶爪は身構えたが、なぜか間に合わない。気づくと驚くほど近くに、黒姫の姿があった。
「はっ、離れろっ」
鳶爪の一撃をかわしざま、今度は右の指拳が鳶爪の肝臓に喰い込む。鳶爪は折れ崩れ、ついに黒姫の足もとにひざまずいた。
「こうやって、わざわざ見せてあげたですよ。最後までとくと話してあげますですよ。追い足盗みの秘伝をね」
「追い足、盗み…」
そう、それは黒姫が自家の奥義に数える、秘中の秘だ。僕たちがかつて贄姫を尾行したとき、贄姫にそれと悟られぬよう、黒姫が僕に施したのがそれだった。それは人の足音や歩調を完全に記憶し、その人間の姿形がどれほどに変わろうと追跡し尽くせると言う、秘術だったはずだ。
「追い足盗みは、そもそもかけた相手の動作を盗む技ですよ。でも読めるのは、足配りや歩調だけではありません。極めれば相手の動きそのものを、こうして盗み取ることが出来るですよ」
「まっ、まさかっ」
鳶爪は愕然と目を見張った後、あわてて首を振った。つまりは、今の一瞬で黒姫は鳶爪からその動きを盗み取ったと言うのだ。信じられないのも無理はない。鳶爪の動きは、天性の機敏さを、霊薬の作用により倍加した、ほとんど人間の動きを超えたものだったはずなのだ。
「どれほど速く動こうと人間の動きには、癖があります。わたくしの追い足盗みは、それを余すところなく写し取るのですよ。わたくしは読み取ったあなたの動きの癖を、わたくしに反映させてわたくしはほんの少し、その癖を崩す動きをすれば良かったわけです。そうなればかわすのも、反撃するのも自由自在ですよ。つまり、あんたの速さも動きの凄まじさも、変化したわけじゃないってことですよ。変化したのは、わたくしの動きってわけです」
黒姫が滔々と秘術の説明をするのを鳶爪は、暗い顔を上げて訊いていた。確かに毒ではない。薬物や催眠術を使った幻でもない。純然たる秘伝だ。しかし、使い手のせいか、どうにも釈然としたものが残るのだが。
「あんたの瞳から写し取るのには、時間が掛かりましたよ。あんたはちょこまか動きますし、清純乙女なわたくしと話が合わなそうですしねえ」
「あっ」
そこまで話を聞いて、鳶爪は黒姫が仕掛けたもう一つの罠に気づいた。
「秘薬の話はわたしの足を留めるために…?」
黒姫は唇をかすかに綻ばせて微笑んだ。
「言うまでもないことですよ。したくもない話をして、何とか間に合いましたですよ」
「里の誇りとかそう言う話も嘘かっ」
「そっ…それは本当ですよ!でも別に、そんなことあんたに話すようなことじゃねーってんですよっ!」
「どっ、どこまでっ薄汚い女…っ」
血で汚れた顔をどす黒い怒りに歪ませた鳶爪は、恨みをこめて黒姫を見上げる。
「ったくさっきから聞いてりゃ、わたくしのことを腹黒いだの汚いだの。清楚で汚れなきわたくしの乙女の品格を真っ向から、否定してくれましたですねえ。正直あんただけは許しませんですよ。里の誇りとか関係なく、わたくしは、わたくしの乙女としての沽券のためだけにあんたをぶちのめしますですよっ」
鳶爪がふいを突いて殴りかかろうと懐剣を振り上げた瞬間、黒姫の袖からほとばしった鎖分銅がその手に叩きつけられる。
「おっと」
がん、と硬い金属音とともに懐剣は鳶爪の手を離れ、吹っ飛んでいく。鳶爪が防御反応をとろうと動いた瞬間だ。
「無駄ですよ」
すでにすべてが読まれている。黒姫の言うことに間違いはない。みるみるうちに、鳶爪の顔に絶望が拡がった。
「おのれっ、おぼえていろっ」
「逃がしはしませんですよっ」
鳶爪が背を向ける間もなくだ。
黒姫が放った無数の乱撃が、鳶爪の全身を雨のように打ちのめした。右に手を動かせばそこに、左の足を動して退こうとすればその可動部に、容赦なく分銅が突き刺さった。まったく情け容赦のない乱撃だ。手足を滅茶苦茶に動かされ、血まみれのまま立ち尽くす鳶爪はさながら絡んだ糸をほぐそうと操り人形がもがき、暴れているようだ。
肉を打ちひしぎ、骨を砕く音が過ぎ去るとそこには、意識を断たれ完全に身動きを失った鳶爪の残骸が、辛うじて膝をついたまままだ立ち尽くしていた。
「自家で血絡み傀儡と称する奥義なのですよ」
と、黒姫はその言葉が、もはや届いているかもわからない鳶爪に向かって、最後の説明を訊かせた。
「追い足盗みの秘伝を漏らした人間や、術をかけられた人間を葬るための暗殺術なのですよ。文字通りえげつないですが、我慢してもらいますよ。なにしろ、あんたは里の秘密を知ったし、わたくしを怒らせた。でも殺しはしませんですよ。あんたにはわたくしから、訊きたいこともありますしねえ」
その途端、どさりと砂埃を上げて、鳶爪は声もなく倒れた。
「ふう…しんどかったですよ。そもそも出来れば使いたくないと書いて、奥義って読むんですからねえ」
黒姫は梅の木に鳶爪を拘束すると、疲労の溜まり切った顔で息をついた。天を仰ぎ、太陽の位置から時刻の経過を図る。あの銃声から、思えば大分時間が経ってしまっている。
「今、行くですよ、真人さんっ」
大人しく兵を退け。
僕が言い放ったほとんど脅迫とも取れる言葉が、武装した軍勢を前にはっきりと響き渡った。男たちは唖然とし、ほとんどの者はあっけに取られていた。だが僕の要求を踏みつぶしてここから進むことが出来そうにないことは、二発の銃弾が証明している。
「ソラゴトビトの小僧、おのれ、自分がやってることが分かってるのか」
弾正は大きく息をつくと、内心のいらだちを抑えかねている口調で尋ねた。
「あの長尾の虎姫の威を駆って、おのれも偉くなったなどと詰まらん考えを持ってるとしたら、すぐに、目を覚ますがええぞ。即刻ここを去れば巻き添えにはならんのやぞ。見ての通り、今のおれに冗談は通じん」
「僕は本気だ」
突っぱねるように言葉が、口から飛び出た。
自分が何をしているのか、分かっているのか。今さら弾正に言われるまでもない。そんなこと、僕にだって分かっている。僕は今、斎藤道三と並ぶ戦国随一の極悪人と言われた松永弾正久秀と対峙しているのだ。
「僕を殺して通れば、さっきの通りあなたは自分の命を代償にここへ置いておくことになる。強引に通った軍勢だって同様だ。この先、無事に通れるか保証はしない。ただ確実に言えるのは、ここから退く決断をしなければ、あんたの命はなくなるってことだけだ」
「おれを殺すか」
多量の殺気を孕んだ弾正は潤んだ白眼を多く含んだ瞳で僕を見つめていたが、やがて大きく息をついた。
「煉介のことといい、始末に負えん餓鬼ばかりで困るわ。ほんにお前らには、こちらが理解に苦しむ。そもそも訊きたいのやが、おれとあの虎姫さまの争いに参加して、お前らの何が得なのや」
「虎千代との争いじゃない。これは、あなたがたと朽木谷将軍家の争いだ」
間髪入れず、僕はきっぱりと言いなおした。だってそうだ。そもそも煉介さんのことがなければ、虎千代は弾正の陰謀、ひいては将軍家を巡る複雑怪奇な畿内の政情に無関係だったのだ。
「今さらなんの関係があるかい。始まったんは、おれとあの虎姫さまの間だけのことやろうが」
「それは違う」
弾正の剣幕に呑まれまいと、僕は声音を抑えつつ、反論した。
「あなたがいくさをしているのは確かに虎千代だろう。でも、相手にし、目的にしているものは違うはずだ。よく分かるだろう。これ以上の戦いは無意味だ」
「無意味なら、お前らが止めんかい。大人しく、御曹司を引き渡すのや」
埒が明きそうにない。のちにこの男を知り、石田三成に仕えた島左近が弾正を称して、果断の人(人が躊躇するような苛烈な決断に踏み切る人)と言ったのが分かる気がする。松永弾正と言う男は、確かにそう言う男なのだ。でもだ。
「あなたがそれをするのは何より、三好長慶公のためだろう」
と、僕は弾正の瞳を見据えて、言った。
「たとえ逆賊の汚名を被っても、両細川家の争いに巻き込まれた三好家のため、ひいては長慶公のために打てる手立てのすべてを尽くす。それが僕が見た、あなただった」
「だからどうした」
「あなたは天下の極悪人なんかじゃない」
「あ?」
これ以上は、僕がこの日本史に干渉する領分を破ることになりかねない。でも、僕は意を決して言った。
「五百年後から来た僕が知っているあなたとは、そこだけが違っていた。あなたは長慶公を幼い頃から守り立て、長慶公とひいては三好家のためなら何でもする、そんな人だった。そのためにはいかなる非道は辞さないにしても史上言われているような、主君を毒殺しようと考える人間にはどうしても思えなかった。でなければ煉介さんも、あなたを頼ったりはしなかっただろう。僕はそのあなたに話している。このいくさ、本当に長慶公のためになることなのか」
胸の内を吐き出した僕の言葉に、弾正は気圧されたように黙っていたが、その顔には、さっきのような苛烈な殺気は消え失せ、どこか思い詰めたような表情だけが残っていた。かつて煉介さんが慕ったように、この人もただ、一途な人なのだ。その一途さが回りまわって過度の残虐性になり、やがて天下に戦国随一の極悪人の名が残ったのかも知れない。
「おのれに何が分かるのや。おのれごとき餓鬼が…」
と、言いかけた弾正の顔に、みるみる血の気が注した。癇癖を示す青白い静脈の脈打った痕が、色白の顔にくっきりと表れている。
「言うにことを欠いて、ご当主の名でおれを言いくるめようとは、どう言う了見や。お前や煉介なんぞに、おれとご当主のことが判ってたまるか。もう一度、おれの前でそんな詰まらんこと口にしたら承知せんぞ」
どっ、と弾正の怒気が一気に噴出した。さすがにたじろぎそうになるほどの剣幕だ。でもこっちだって、命を懸けている。ここで退いたら、全てが水の泡だ。ここで覚悟を決めなくちゃ踏み切れるわけがない。
「あんたが長慶公を大切に思うように、生まれたときから菊童丸を守り立てて命を懸けている人がいるんだ。そんな人たちの気持ちを踏みにじってまで奪った戦果で長慶公が喜んだりすると思うか。三好家三代に渡ってとり憑いた呪われた覇権争いから、あんたの大切な長慶公を救いだすことが出来ると思うか。菊童丸を殺せば、人の恨みや罪は、あんたよりはるかに先の世代に伝わっていくことになる。煉介さんだって、あんたに命を懸けて忠告したはずだ。幼い菊童丸ひとりを犠牲にして、本当に全てが円く治まるものか!」
言葉を吐き尽くした僕は、いつの間にか肩で息をして弾正に食ってかかっていた。思っていることの全てを言った。意識が遠のきそうになった。喉を突き上げてくる苦いものをずっと堪えていた。
弾正は表情に激情を上らせたまま、どす黒い顔色で僕を睨みつけていた。しかし、僕が言ったことを反駁する言葉は出ない。僕は最後に言った。
「このいくさも遅かれ早かれ、終わる。そうしていずれあんたが菊童丸を害しようと思ったことも、三好家に将軍家を牛耳らせようと思ったことも、全く無意味なことになるだろう。そんな人間が今に必ずあんたの前に現れる」
この瞬間、僕は、はっきりとは言わずとも弾正がたどる未来を言った。言うまでもない。弾正の前半生を全く無意味にするのは、織田信長と言う男なのだ。信長は弾正がこだわった室町幕府そのものを崩壊させ、今の京都政界そのものを吹き飛ばしてしまうはずだ。そのとき、この男の手元には何も残らない。最期には弾正は信長に追い詰められ、砂礫のように粉微塵に、おのれをも爆発させて果ててしまうのだから。
「おれに、どうしろと言うのや」
弾正は暗い目で僕を見上げて、ぽつり、と言った。どこかすがるような口調でもあった。
その黒い淀みを帯びた表情を目の当たりにしても、僕はもうたじろぐことはなかった。弾正の表情に現れたその暗さも、それだけで人を刺し殺しそうな殺気や怨念と言ったものではなかったからだ。すでにこの下剋上の世で巨大な運命を身に背負ってしまった男の苦悩が、滲み出たものに過ぎなかった。その弾正の気持ちに、僕は応えなければならなかった。僕はそこで自分の言葉を探した。
「僕は、戦国時代の人間じゃない。だから、あなたのことは、本当には分からないかも知れない。長慶公のこともそうだ」
でもこれだけは言える、と、僕は言った。
「あなたはあなたが大切にしているものを、大切にすべきだ。周りの誰が、後世の誰がどう思おうと、あなたがそう思った気持だけは、あなただけのものだ。そして、同じ思いでいる人間があなたと同じ時代に、生きていることも忘れないでほしい」
このときの。その言葉が、どこまで弾正に届いたのか、僕は判らない。でもこの時代に来てから僕が悟ったことだ。それは虎千代たちのみならず、目の前にいる松永弾正と言う男にだって教えてもらったことなのだ。
史資料には、事実しか書いていない。もちろんそれはそれで尊いことなのだ。大切なのはその事実に含まれた無数の想いを感じること。自分の中の想いで代弁することなのだ。虎千代がかつて僕に言った。自分はこのままでは、僕にとって過去の記録でしかない、そんなのは堪えられないと。僕はこの時代に来て、沢山の想いを目の当たりにしていたのだ。そして自分の中にあった言葉で、気持ちでそれを代弁することが大事なのだと感じさせられた。たぶんそのことが、過去に生きた人たちと、現在の僕たちがつながること、そのものなのではないか。
「おのれはやっぱり、おれには理解出来ん。なぜ、おれのような人間にも、かように肩入れするか」
弾正はやがてつぶやくように言うと背後を振り返り、ついにその言葉を口にした。
「仕切り直しや。この男は殺せん、おれも死ねん。この先にはこのままでは進めぬわ。全軍、反転せよと誰ぞ下知あれ」
弾正の撤退の声に、満座がどよめいた。動揺するのも無理はない。
「今は戦機にあらず、一時撤退や。地形を踏査して明日、もう一度押し出す」
と、弾正は、軍勢を宥めるように収めると僕に向かってこう言った。
「お前の言うことだけ呑むのも癪や。一時撤退やぞ。明日は分からん。はきと結果が出ぬうちは、いくさは誰にも止められんのや。誰も納得せんからな。もう二度とこの手は通じんと思え」
頷きも、否定もせず、僕は弾正を見つめ続けた。退き陣を知らせる陣貝が鳴り響くと、弾正は馬に乗り直し、立ちつくす僕をじっとりと見下ろしてきた。
「ったく、嫌な餓鬼や。あの小うるさい虎姫のところへ、とっと去ね」
弾正は、舌打ちすると、うるさそうに手を払った。
「ひよっこやと思ってほかしといたが、早めに殺しておくべきやったわ。お前のような奴はおれは一等好かん。二度とその顔見せるなや」
撤退や撤退、と叫び散らすと、弾正は馬を翻して去って行った。
どうにか上手くいった。僕は息をついて力を抜こうと思ったが、全身の筋肉が凝り固まっている。肩に鉄骨のフレームが入ったみたいだ。そこから吊り下げられたみたいに足元も覚束ないし、意識は遠のく寸前だ。このまま息が詰まって倒れてしまうかと思った。
「まっ、待てしばらくっ、弾正殿っ」
馬首を翻し、去ろうとする弾正に、どこから出てきたのか血震丸の馬が追いすがる。
「どこへ行かれる。敵大将は目の前ではないかっ」
「おれは死にとうない。それに今日は、もともと気が乗らんのや」
弾正は相手にしない。さっさと行ってしまった。それに追いすがるように、軍勢の波が潮を引くように立ち去って行く。
「しっ、しばらく!我らが話も聞いて下されっ!この先では我ら狗肉宗が奮闘しておりまする、今こそがまこと、戦機でござりまするぞおっ!」
その後を血震丸があわてて追いかける。
弾正は急襲を諦めたのだ。ほ、本当に助かったのだ。膝が笑いそうになるのを堪えながら、僕は泣き叫びそうな心を必死に抑え込んでいた。
その後すかさず黒姫が駆けつけ、味方の軍勢に囲まれても僕は何だか実感なくぼんやりとしていたほどだった。本当に僕は助かったのだろうか。虎千代も黒姫の援けもない、そんな状況下で敵の真っただ中へ飛び出して、僕に何が出来たのだろう。本当はもうとっくに死んでしまったんじゃないか。そう思えるほどの無感覚だったのだが。
そんな水の中を漂っているような感じも、虎千代の顔を見たら吹っ飛んだ。
「まっ、真人っ」
血と泥にまみれたぼろぼろの甲冑装束のまま、虎千代は力いっぱい僕に抱き着いてきたのだ。
「黒姫から聞いたぞ。なんと言うことを考えるか!何度言わせるのかっ…わ、わたしのことなど心配するより、お前が…生きて帰って、くる…ことを…」
そこまで言うと虎千代は目に涙を溢れさせて、言葉を詰まらせた。
「ごめん」
と言いかけて、どん、と胸を拳で突かれた。いたっ。思わず虎千代を見返すと、
「第一武功ぞ」
彼女は顔を上げて僕にこう言った。
「賞するに筆舌に尽くし難し。さすがは我が婿たる男よ」
涙と嗚咽で顔を歪めながら、それでも虎千代は僕に微笑んでみせる。その言葉と笑顔を目の当たりにしたとき、僕の身体から瀕死の無感覚と疲労がすべて吹っ飛んだ。弾正に言った言葉じゃないがこうして虎千代が生きて、僕の前に現れてくれることこそ、本当に僕がこの時代で大切にすべき心なのだ。
「いやはや、良かったですよお。真人さん、わたくしが来たときには弾正にばらばらにされてるかと思ってましたからねえ」
黒姫も安堵の余りか、ひどすぎることを言う。そんな風に死んでたまるか。でも実際、身体がばらばらになるんじゃないかと思うくらい、疲労した。
僕は黒姫から改めて戦況を聞いた。
あれから知切狠禎は虎千代に討ち取られたと言う。虎千代の太刀を浴びた傷は全身、八十八カ所。ようやく倒れたそうだ。
「しぶといとは思うていたが、尋常でなきは例の飛騨の霊薬のせいであったか」
この虎千代にしても黒姫にしても、そんな化け物じみた奴を倒してしまうのだから、並みの腕ではない。ちなみに鳶爪を倒した自慢を、僕は黒姫にさんざ聞かされた。
「真人さん、わたくしが虎さまより真人さんの方を心配してきてよかったですねえ。じゃなきゃ、弾正にやられなくても逃げてくる残党の餌食でしたですよ」
と、黒姫が言ったので疑問に思ったのだが、それから虎千代はどうやって助かったのだろう。虎千代は狠禎を倒した後で体力を使い果たしてしまったのだ。戦場で動けなくなってはそれこそ、死を待つだけだ。狠禎は死んだ、とは言ってもそこには力士衆と狗肉宗の門徒たちが入り乱れている。敵に発見されれば、命を取られるばかりのはずだった。
「馬鹿野郎っ、そこはおれたち柿崎勢の活躍よ」
小僧てめえ、いいとこばっか取りやがって、と、鬼小島が僕の背中を叩く。あれっ、山上にいたはずの鬼小島たちがどうしてここにいるのだ。
「決まってやがるだろ。お嬢の急を軒猿どもから聞いてすぐ、おれがオヤジに直談判したのさ」
部隊の突出を強硬に主張した鬼小島が、空っぽの本陣に柿崎勢を突入させてくれたお蔭で、虎千代は何とか助かったのだ。
地獄の本陣突入戦はこうして一旦、幕を下ろした。虎千代は前線で兵をまとめると、景綱の張る山中の陣に合流して野営した。際どすぎることばかりの襲撃戦はどうにかこれで、ひと段落ついたのだ。
その夜、陣では夜通し酒宴が張られた。弾正たちを警戒するために眠るわけにはいかないというのが口実だったが、みんな死線を潜り抜けてきて興奮が冷めやらないのだ。鬼小島たちを中心に大盛り上がりだった。敵陣から奪った兵糧が軒並みぶちまけられ、景気づけにあった酒樽はすべてぶち破られた。僕も疲れ切っていたが、まったく眠れる気配がなかった。松明のかがり火が暗く見えるまで、彼らに付き合った。
ようやく重たく目蓋が降りて来た頃だ。僕は眠れる静かな場所を探して立ち上がった。きいんと頭の中の耳鳴りしか聞こえなくなるほどに、疲れ果てていた。幔幕の外ではすでに時刻が変わるほどになっている。虎千代も明日に備えていつの間にか、姿を消していた。騒いでいるのは、いつの間にか鬼小島と柿崎景家たちだけになっていた。
大きな桜の古木が陣の中にあった。そこを中心にいくつか寝所の幕が張られている。僕はそのひとつに入ろうとした。幔幕をくぐろうとしたとき、僕は藪があるうす闇の中で何かきらりと光るものを見た。眺めているとぼんやりと引き込まれてしまうような妖しい光に、僕は見覚えがあった。だが一瞬、それを認識をしても何だかが思い出せなかった。
ふわりと梅の香がどこかで匂ったと思ったとき、その光はこちらへ近づいてきた。あれは。刀だ。月明かりに照らされて、誰か抜き身を下げてこちらへ歩いてくる。その顔を。黒髪を振り乱して、現れたその女の顔を間近で見て僕はようやく愕然とすることが出来た。
この女は紛れもない。血震丸が戦場に居残した地獄の使いだった。
あっ、と叫び声をあげそうになったのと、咽喉元にその切っ先が突き付けられたのが、ほぼ同時だった。
「やっと会えましたわね」
贄姫は言った。凄絶な笑みを口元にこぼしていた。
「声を出さない方が賢明ですわよ」




