全滅の危機!虎千代を救え、僕が死を賭して決断した一策とは…?
「あっ、暗殺などと」
あっけにとられた後、黒姫は驚いて目を剥いた。
「なんて物騒なのですか。わたくしや虎さまが言うならともかく、真人さん、あーた、いつからそんな剣呑な発想をするようになったですかっ?」
「暗殺はごめん、言い過ぎた」
でも、血震丸たちを放っておくわけにはいかないはずだ。なにしろ今は、一刻も惜しいときだ。真っ向から軍勢を駆って挑むよりも、機動力に富む軒猿衆や早崎衆からえりすぐって、弾正の居所を突き止めて乾坤一擲の一撃を喰らわせるに限る。
「し、しかし真人さん、どんなことをするにせよ無茶ですよ。判っていますでしょう。虎さまが、あなたのことをどうして、戦場から遠ざけようと努力なさっているのか」
それは。うん、理解はしているつもりだ。虎千代はいつも、自らの身を案じるよりも僕がなるたけ危険を冒さないように、身を案じてくれてきた。それは虎千代が不本意ながら、僕をいつか現代に戻るかも知れないと思い、配慮してくれた証だったのだろう。
「それは判ってるよ黒姫。でも虎千代に守られているだけだったら、ろくに戦いも出来ない僕がここにいる意味がないんだ。あくまで僕は、虎千代を守るために戦場に出たんだ。それが出来ないなら、虎千代や、景綱さんの言うことに従ってじっと砦に籠もっていたら良かったんだ」
そうだろ?と、問うと、黒姫はむむむう、とうなり声を上げて腕を組んだ。
「真人さんの言いたいことは分かりますが、戦闘はど素人の真人さんがこれから敵陣真っただ中に飛び出すなんて、やっぱりとんでもないですよお」
「僕に考えがあるんだ」
二の足を踏む黒姫に僕は、詰め寄った。
「隠密行動が出来る軒猿衆と、接近戦闘に長けた早崎衆から人数を選んでほしい。で、もし不安なら、黒姫もついてきてくれないか。とにかく何としても、あいつらを退けなくちゃ、僕たちは全滅だ」
黒姫は少し、思案してから訊ねてきた。
「…真人さん、本当に良案があるですか」
声をひそめる黒姫に、僕は無言で、でもしっかりと頷いて見せた。
黒姫は僕の目をしばらく見ていたが、やがて意を決したようだ。
「分かりましたです。血震丸のこともあります。ここは、真人さんに賭けましょう。すぐ使える人数を選びますですよ。もちろん、わたくしも行きますです」
正直に言う。
名案がある。そう断言したのだが、このときの僕に、確たる名案があったわけじゃかった。でも、やるべきことは十分に分かっていた。僕たちが弾正を力づくで撤退させるしか、虎千代を救う道もないのだ。今、虎千代の力になれるなら、僕だって命を賭けて全力を尽くしてみせる。それが今まで僕を守ってくれたあいつを救うためにこそ、してやらなくちゃいけないことなのだ。
黒姫は軒猿衆と早崎衆から合わせて十人ほどの人数を割くと、僕に同行してくれた。多いとは言えないが現在の軍勢では人数的にも、隠密行動の取れるぎりぎりの兵数だ。特にありがたかったのは、僕たちをここまで案内した少年がついてきてくれたことだ。彼はこの辺の地理を知っている上に、銃を持っている。
「ありがとう。…えと」
と、声をかけかけて僕は思わず口ごもる。まだ僕は彼から名乗りを聞いていない。
「松鴎丸」
少年はさっき、僕たちを狙撃した銃を取り上げて言った。
「殿は、私に松風を渡る鴎の名をつけられました。漂泊の明人から私に砲術を習わせ、その名のごと、戦場を遊撃する銃隊を作る心づもりであられた」
上杉謙信には織田信長のような鉄砲隊はないものの、少なくとも天正六年には鉄砲火薬の大事な原料である硝石の量産を開始している。松鴎丸の言うことが真実であるとするならば、松鴎丸が鉄砲を身につけさせられたのは、それを先駆けてのことだったのだろう。
「長尾殿のためなら働きまする」
松鴎丸は僕を見ると相変わらず無表情で言った。
「士太夫たるもの、己の居場所を与えてくれる方のために、一心働くものですから。殿にもそう教えられ申した」
「ありがとう、黒姫、色々我がままを聞いてもらって」
「礼は要りませんです。わたくしも真人さんに賭けてるですから」
でも、と黒姫は、苦い顔で僕にこう言った。
「ただ、先に言わせてもらいますです。この人数で血震丸や弾正の本陣に真っ向からあたるのは不可能です。無駄足になるかも知れないと言うことも考えて下さいですよ。そのときはわたくしは何を置いても、虎さまのお命だけは救いに戻らせて下さいです」
悲痛な表情になりつつある黒姫に、僕はしっかりと頷いて見せた。
力士衆との激しい衝突のうち続く山野を迂回して、僕たちは一路、血震丸を追った。黒姫の状況判断によると、弾正の軍勢は貴船口から真っ直ぐ南下し、それほど遠くないところに様子見の野陣を張っている可能性が高いと言う。
「言うまでもなく弾正は、もっとも厳重な馬廻りの軍勢に守られているはずですよ。我ら十名ほどの人数では見つかっただけで命取りだってこと、ご理解下さいですよ」
川を下る人目につかない道を選びながら進む。僕は頭上を覆う木の間から、山上の戦闘状況をうかがおうとしたが、よく判らなかった。鬼小島たちはどこまで来ているのだろうか。それらしい音も聞こえない。なにしろここも戦場だし、はるかに人の気配や音がしたとしても、それがどこで何が起こっているのかを表しているものか、判らないのだ。
先を行く黒姫も同様らしく、彼女はもう無駄な話は一切しなかった。恐らく、心配するだけ足が前に出なくなることを経験的に知っているのだ。
なんと僕たちはこの間に、知切狠禎と一騎討ちする虎千代を見たのだ。異形の大行者と虎千代は戦場からかなり離れた岩場で一対一の死闘を演じていた。
一見、形勢は虎千代に有利に見えた。なにしろあの知切狠禎の巨体は、虎千代の攻撃で見る影もなくぼろぼろだったからだ。
馬上の戦闘よりも虎千代は地上戦の方が、身体のこなしが機敏だ。大きな武器にも余裕で対抗する虎千代の剣を無傷でしのぐのは、かなりの使い手でも至難の業だ。
知切狠禎も山犬だたらに翻弄され、狼の群れに狩られる大熊のように全身に傷を負わされ続けたに違いない。その異様な具足の硬い毛は千切れ、冷えてねばった黒い血糊がその足もとに溜まって見える。引きちぎれたちぎれた肩鰭と胴の隙間や、破れた草摺りの辺りには虎千代が攻撃したものか折れ矢や小柄が突き立ったままだ。
しかしだ。のそり、と狠禎は動き出すと、あの大鉈を振るい何事もなかったかのように虎千代に襲いかかっていく。その攻撃はまるで、虎千代の攻撃で傷を負わされていないかのようだ。
「シッ」
あの野太い斧槍を、狠禎は渾身の力を込めて振り回す。あれだけの手傷を負ってその威力にもスピードにも、まったく衰えは見られない。
(化け物か)
狠禎は明らかに異常だ。
相対している虎千代がそれを如実に感じているのではないか。
「惜しかった。もう少しで首を薙げたものを」
ぐふふ、と不気味にくぐもった笑い声を立てて狠禎は言う。その様子は傷を負わされることすら、愉しんでいるかのようだ。
「待っておれ。すぐにばらばらにしてやる」
致命の一撃をかわされ、さらに手傷を負わされても狠禎は揺るがない。小首を傾げ、何か些細な間違いがあったかのように愚直に攻撃を繰り返してくる。
「こやつ、痛みを感じぬのか」
荒い息の下で虎千代がつぶやいていたのを僕は訊いた。
気のせいか。虎千代の方がより消耗しているように見えるのは。これだけの攻勢を展開してなお、知切狠禎は一枚岩のように立ち向かってくる。虎千代の体力も限界に近づいているのかも知れない。肩で息をする虎千代には見るからに、放っておけないほどの消耗が感じられた。
体力的な消耗もさることながら、心理的な消耗も大きいだろう。狠禎はどうすれば倒れるのか。虎千代にしてみれば、まるで到着点の見えない道のりを必死に走らされ続けているようなものに違いない。
「真人さん、何してるですか。とっとと行きますですよ」
こちらまで胸が詰まるような思いをして戦局を見守っていると、黒姫が強く僕の袖を引く。
「いつまでみていても、わたくしたちにはどうにも出来ませんです。虎さまを救うためにゆく、そう言ったのは真人さんではないですか」
あえて冷然と言う黒姫に、僕は、はっと息を呑んだ。反論することも出来なかった。まったく黒姫の言うとおりだ。ここは苦しくても、虎千代を信じるしかないのだ。恐らく虎千代の窮状に居ても立ってもいられないのは何より黒姫のはずなのだ。このまま虎千代を見捨てる判断をしたのも、まさに断腸の思いだったに違いない。
どうあっても僕たちは気づかれてはいけないのだ。
虎千代があの邪宗徒の頭目を足止めしてくれているからこそ、僕たちは血震丸を追って行けるんじゃないか。それが判っているからこそ、黒姫は消耗している虎千代に一顧だにせず、一途に向かうことを決意したのだ。
とにかく急ぎ、戦況を動かすしかない。ことは一刻を争うのだ。
血震丸が戦線を離脱したルートを特定するのは、それほど難しいことではない。問題はそれをいかに後から追い、手遅れにならないうちに本営の位置を迅速に突き止めるかだ。頼りは松鴎丸だ。この少年が馬では迂回するしかない山路を先取って血震丸が単騎、移動した松永の本営に駆け込み、威勢を駆って立ち戻ってくるのを待ち伏せる手段をとることを可能にした。その点では不幸中の幸いともいえる。
しかし自分が言い出したこととは言え、この強行軍にはほとほと参った。
隠密たちの足取りの速さはもちろん、山路でも一向に衰えない。全力で走って、何とかついていくのがやっとなのだ。油断しているとみるみるうちに距離が広がり、追いつこうとペースを上げるとあっと言う間に、息が上がった。
「真人さんが提案した作戦なのですからねえ。無理して下さいですよ」
と、黒姫は僕に容赦ない。
「走れないなら、武器以外の重いものはみんな棄てたらいいですよ」
僕はついに鎧を脱ぎ捨てることにした。こういう状況に少し慣れが出てきたとは言え、僕はまだまだ十人の中では一般の人間だ。足手まといにならないようにするすら必死になってどうかと言うところ。何度もへばりつつ先頭の黒姫たちのところへ追い着いたときには心臓ばくばくで、この寒い中、汗にまみれて言葉も出なかった。
「へたってる暇はないですよ、真人さん。早く見て下さいですよ」
僕たちはいつの間にか小高い一本松がぽつんとたたずむ崖の上に乗っている。はるか彼方、森が絶え、平地が拓けるのが見えてくる。
「あれが賀茂川」
と、黒姫ははるか遠方にかすかに見える白く光る川幅らしき辺りを指して言った。
「弾正たちはあの付近に、駐屯しているはずですよ。血震丸はここを通ったはずですよ」
僕は考え込んだ。僕たちが血震丸の離脱に気づいてから、かなり経っている。単騎早馬を走らせたなら、もうそろそろ本営の弾正に戦局を知らせているだろう。
「血震丸が弾正たちとともに、ここを攻め帰ってくるかな」
僕は訊いてみた。
「十中八九は。先の撤退のときも、弾正たちはここを通ったと思われますよ」
黒姫が言うには山野の戦闘に慣れない松永勢が、いくつも行軍ルートを持っていることはまず考えにくいとのことだ。
道に降りてみよう、と僕が言うと黒姫は物の数分で僕を下へ連れていってくれた。下は霜が溶けたぬかるみでぐちゃぐちゃの緩やかな傾斜道である。
山道はさすがに獣道でくねっているが、道幅は十分にあり、軍勢の移動にも不便はなさそうだった。
「ほらここ、よく見てくださいですよ」
黒姫が指摘するまでもなく、道は歩兵が通った軍沓の跡や馬の蹄の跡などで至るところ固く踏みならされていた。やはり間違いなく、ここから血震丸は弾正を連れて戻ってくると思われた。
「松鴎丸」
と、僕は最近憶えた少年銃兵の名前を呼んだ。
「ここを通る弾正を狙撃できるかな」
「やれ、と申されるなら」
松鴎丸は、造作ないと言うように頷いた。
「ただ、殺しちゃまずいんだ。馬を撃ち抜くか、出来たら兜の前立てを撃ち落として脅かして欲しいんだけど」
松鴎丸は少し考えると、
「近くに隠れるところがあるなら」
と、僕たちがさっき、降りてきた崖の方を見て言った。
「あそこなら、十分狙えましょう」
僕も言われてその崖の辺りを見渡してみた。
確かにあの一本松のある崖なら、見晴らしもよく距離もそれほどに遠くない。この坂も遮蔽物がなく、あつらえたように狙撃に向いた場所だった。
松鴎丸の腕前は僕が身をもって体験している。この少年なら、十分にやれるかも知れなかった。
「何度も言うけど、殺してしまったらこのいくさそのものに意味がなくなる」
松鴎丸に余計なプレッシャーをかけたくなかったけど、僕はくれぐれも、念を押した。一発の弾丸が文字通り、コインの表裏のように運命を激変させてしまうのだ。
「まっ、真人さん。判ってるですか。弾正を殺してしまったら元も子もないんですよ!」
黒姫などは真っ青になって抗議した。
「わたくしは反対です。そもそもその鉄砲、と言うやつ、信用なりませんですよ!」
黒姫が不安がるのももっともだ。まだこの時代、戦場に鉄砲の常識が十分に流布していない。だが逆に言えばこの見慣れない兵器の出没は松永勢にも格好の脅しになるだろう。それも考えてのことだ。
当時の火縄銃の最大有効射程は百メートルと言われているが、命中精度を考えるなら、二、三十メートルが限度と言うところだろう。日本きっての鉄砲術稲富流には鳥や猪の目撃ちと言ったピンポイント射撃の奥義が伝わっていると言うが、実際に残った射撃の記録などを見ると、織田家いちの鉄砲の名手と言われた明智光秀でさえ命中は七割とされる。弓に比べれば確かに命中率はやや心もとない。しかし火薬で撃ちだされた鉛玉の衝撃と派手な炸裂音は、一気に大勢の耳を通じて影響を与えるだろう。
「これは急場を争う勝負だ。僕たち十人前後の人数で、弾正の馬廻り勢を釘付けにしなくちゃいけない。他には方法がないと思う。黒姫、他にいい方法があれば訊く。僕だって出来れば、危険な橋は渡りたくないんだ」
いきなり兜を射抜かれれば、弾正ですら背筋を凍りつかせるはずだ。血震丸の誘いに乗ってうかつに軍勢を進めれば、もっと危険なことがあると感じてくれるかも知れない。
「そっ、それを言われますと…確かに、真人さんの言うように、わたくしたち程度の人数で引き返してくるあの連中を足留めする手段などそうそう思いつきはしませんですが」
でもそれでどうするのだ、と黒姫は、僕に詰め寄る。狙撃が成功すれば確かに弾正の進軍は一旦停止するだろうが、その程度では軍勢を退くところまで至らないだろうと、黒姫は言うのだ。
「後は残りの人数で軍勢をかく乱する。火薬を使ったり、罠を張ってもいい。この先にどれだけ敵が多くいるか弾正に警戒させればいいんだ」
「騒ぎを起こすことは出来なくはない、とは思うですよ。でもさすがにこの人数で、弾正が進軍を諦めてくれるほどの伏兵を装うのは、明らかに無理が」
そこまで言いかけて何かに気づいたのか、黒姫はぴくん、と背筋を震わせた。
「どうかした?」
「静かに」
黒姫は人差し指を立てると、表情を一瞬で引き締めた。
「誰かここにいますですよ」
と、黒姫が言ったのと、松鴎丸が火縄銃の巣口(銃口のこと)を背後のくぬぎの林に向かって差し向けたのが同時だった。
乾いた銃声が強烈な衝撃音を立てて、鳴り響く。はるか頭上で鳶が鳴いた。
ぼとり、と何かが木の上から落ちてきたのが次の光景だった。
あれは確かに、木の上で様子をうかがっていた何者かのようだ。
松鴎丸に撃たれ、それは死体のように藪の中に真っ逆様に落ちた。
「さっきから様子がおかしいと思ってたですよ。ずっと尾行けられている感じはしてたです。真人さんがおっそいから、わたくしたちの奇襲を察知して、後を追ってきた敵勢がいたかもですよ」
ちくりと厭味を言うと、黒姫は遺体を検めるためにそれが落ちた藪に近づいた。
しかしそれこそが、何より危険だったのだ。
ざわっ、と藪が騒ぎ立つと、そこから何かが輪を描いてほとばりし出て、一瞬で黒姫を二方向から狙った。それはまるで二条の大蛇が違う方向から、黒姫を狙ったかに見えた。しかし、腐っても忍者の黒姫だ。黒姫は一足早く飛び下がり、攻撃をかわしている。どうやらそれは人か獣の毛を編み、油で黒く塗り固めた縄のようだ。縄状の武器の先端は黒姫のいた辺りの軟土を噛むように、交互に地面に突き刺さった。
やはり、相手は松鴎丸に仕留められたわけではないようだ。
ついで、藪から黒い影が飛び出して来て黒姫に殺到した。
それは小鹿か、少し大型の猿ほどの小柄な影だ。驚くほど身軽なそいつは、みるみるうちに飛びのいた黒姫に向かって距離を詰めると、両手にもった凶器を押し込むように黒姫に向かって叩きつけたのだ。
がん、と硬い金属同士がぶつかりあう衝撃音が弾けた。
見たところそれは拳で握りこむようにして使う、懐剣のようだ。拳の形に沿って湾曲した刃は、近距離で押し込むように相手の肉に刃をめりこませることを目的としている。
黒姫自身も今の一瞬で、両手に凶器を携えている。彼女が両手に構えたのは、鋼鉄製の鉤棍(トンファーのこと)だ。はるか琉球を発祥とするこの武器は、身体に隠しこめる暗器であり研ぎ澄まされた刃をも容易く受け止めることが出来る。
その小さな影は、ちょうど遊行僧がまとうような、水干のような黒いぼろ切れをまとっているように思えた。年格好からすれば、僕たちとそれほど変わらない。長い髪を束ねてもいず、顔にかかるほどに振り乱していた。
「やはり邪宗徒の類ですかっ」
懐剣を受け止めざま、素早く反撃した黒姫はさすがだ。清楚な外見に似ず、頭突きで鼻頭を砕くべく、躊躇なく額をぶち当てた。
「くふふっ」
相手はそれと察してすぐに飛び下がり、黒姫と相対して態勢を整える。薄汚れてはいたがその風貌、声の調子からして明らかに女の子だった。視線は野生動物のように、深く澄んで目の前の黒姫を見据えている。
「ずっと追って来てたですか」
屈んだような姿勢のまま、少女は首を傾げた。まるで鳥類が小首を傾げるときのように、コマ送りに似たぎこちない仕草だった。
「どこへ行く。お前ら異教徒は根絶やし、逃しはせぬ。逃げるな。このいくさ場から逃がさない。みんな死ぬ。皆殺し」
「いくら邪宗の徒とは言え、名前くらい名乗ったらどうですか」
「鳶爪、お前ら誰も逃がさない」
少女は四つん這いのような姿勢になると、無言で飛びついて来た。二つの懐剣が弧を描いて黒姫の頭上を襲う。鉤棍を携えた黒姫はそれを辛うじてしのいだ。
「くうっ」
鳶爪の動きはめまぐるしく、息もつかせぬほどだ。黒姫の背後には僕はじめ、十人の軒猿衆や早崎衆が控えていたのだが、武器を構えた彼らの間を素早く走り去って、その何人かには手傷を負わせている。
松鴎丸が次弾を装填している。しかし恐ろしいほどの運動量で僕たちの間を飛び去るこの鳶爪の動きを捉えるのは、至難の業だ。銃を使おうとする松鴎丸を黒姫が鋭い声で、たしなめる。
「松鴎丸さんっ、銃は危ないです。誤射して、仲間に当たったらどうするですか」
鳶爪を挑発するように黒姫は一人、僕たちの中から突出した。
「真人さん、時間がないですよ」
鳶爪の攻撃をしのぎながら、黒姫は僕に叫びかける。
「こんなやつに構ってたら、弾正たちの本勢に見つかっちまいますですよ。ここはわたくしに任せて、早く松鴎丸さんと配置について下さい」
「黒姫…」
「うううっ、不安ですが、仕方ないです。こうなったら真人さんの案にかけるしかないですよ!いいですかっ、くれぐれも頼みましたですよ」
「分かった」
僕は頷いた。
「さて、わたくしは行きますですよ!真人さん、時間的に見てこの道を選ぶなら、そろそろ弾正たちが攻めてくるはずですよ」
軒猿衆と早崎衆にも僕の命令に従うように言うと、黒姫は鳶爪を挑発した。
「さあて、あんたの相手はわたくしですよ。遊んでやるからついてきやがれ、ですよ」
「黒姫!」
僕はその背に向かって叫んだ。
「黒姫の犠牲、むだにはしないよ」
「だっ、まだ死んでないですよっ、縁起悪いっ」
鉤棍を携えた両手をくるくると回しながら、黒姫は木の間を乱れ飛ぶ鳶爪を追うべく、自分からその森の中へ躍り込んでいく。
時間がない。それは分かっている。だが黒姫を欠いて、この先、僕だけで弾正たちをとめることが出来るだろうか。
「真人殿、黒姫様が言うとおり、後の頼りは貴殿しかおりませぬ」
考えに沈む僕に軒猿衆の一人が、進み出て諫めてくれる。そうなのだ。黒姫を含めてここにいるみんなは、僕に名案があると思えばこそ、身を挺してくれるのだ。その僕が弱気でどうするのだ。
僕は目を閉じると、大きく息を吐いた。
言うまでもなく僕は、何の変哲もない、ただの平凡な高校生だ。
虎千代みたいに、万を超える軍勢をも平然と率いれる器でもない。黒姫みたいに、手練の隠密たちを手足のようにつかいこなす器量もない。でも、今はやるしかない。頼れるのは僕しかない。そう言ってくれる人が、僕を支えてくれる限り。いざと言うとき虎千代を助けるのは、僕しかいない。そう思ったからこそ、僕はこのいくさに参加したんじゃないか。
「やろう」
僕は軒猿衆の一人に先方を探るよう命じると、残りの人員に罠を仕掛けるよう、手筈を整えさせた。そして松鴎丸とともに崖の上に再び這い上がると、遥か彼方からやってくるであろう大勢を臨む。
(来る)
見える。
砂煙をあげてこちらに来る黒い群れが。
黒姫の観測は当たっていた。
僕は胸に手を当てて、息をついた。息を吐いた喉が一気に焼けつくように疼く。
僕の命そのものが深いところでぶるっ、と震えるのが判った。
確かに怖い。だが、恐怖と言う言葉で全てが表現出来る感覚じゃない。何か熱い血のめぐりが渾然一体のものになって灼熱を発し、お腹の底にわだかまり身体中に漲るものを送り続けている。この居ても立ってもいられない感じは恐怖ではない。膝は笑い、身体は竦みかけていると言うのに。
僕は、気が狂ってしまったのだろうか。
山道を行く松永勢の足音が、続々と近づいてくる。軒猿衆は火薬の罠をしかけるべく配置につき、早崎衆は斬り込んで敵勢を混乱させるべく、森を迂回した藪の中に息を潜めた。戻ってきた軒猿衆の観測によると、弾正の兵は馬廻りだけでも一千はいると言う。
本当にそれだけの軍勢が、僕の手で止められるのだろうか。今僕は、崖の上からうなりを上げて転げ落ちてくる岩石を薄紙一枚で受け止めようとしているんじゃないか。
「真人殿、段取りを」
傍らの松鴎丸が僕に囁く。僕はそこで、弾正を狙撃してからの段取りを彼に明かした。少年はさすがに目を見張った。
「まさか、本気でござるか」
僕は頷いた。僕は武勇に優れているわけでも、天地を見通す才略があるわけでもない。ただ、ここで命を賭けるしかない。ほっとけばどうせ、虫のように殺されるだけだ。
やがて雲霞のような軍勢が、目の前に現れる。先頭の槍足軽を駆り、四、五騎の騎馬武者が目の前を通行していく。弾正たちの進軍スピードはどんなに急いでも、四、五キロと言ったところだろう。普通の人が少し早足で歩く程度だ。山間路は勾配があるため、速度はまた少し減じられる。狙撃するにも、足を止めさせるにも十分だ。眼前を突っ切っていく、特急列車を止めようと言うのではない。目の前のは、たかだか人間の群れだ。
やがてその中に、馬印の立っている辺りの群れを僕は探し当てた。弾正の馬廻りはいずれもが、紅糸縅、色々縅の色鮮やかな具足で武装している。弾正が以前つけていたと言うのは、確か縦に這う毒百足ついた前立だ。それは、すぐに見つけることが出来た。
弾正は四名ほどの屈強な馬廻りに守られている。その背後にちょうど、血震丸も付き従っていた。
僕は松鴎丸に向けて、合図を出した。
(今だ)
かちん、と火蓋を落とした松鴎丸の目当て(照準)が弾正を捉えた刹那。
ぱぱーん、と、木魂を孕んで銃声が山間に響き渡った。弾丸は真っ直ぐ、弾正に向かって飛び込んでいったはずだ。ほぼ同時に、かん、と言う金属音が僕の耳を突いた。入り乱れる群れの中を見ると、馬上、弾正の姿はない。やったのか。僕は目を剥いて、次の展開を見守った。
弾正はすぐに立ち上がった。確かに松鴎丸の弾丸は、弾正の兜の前立を吹き飛ばしたのだ。これ以上ない結果が出た。怒りに震える弾正の兜の毒百足は、真っ向から弾丸に叩き折られ、見る影もなかった。
総大将が突然、狙撃された。
この衝撃は大きかったはずだ。勢いを駆って進んでいた松永勢はぴたりと動きをとめ、軍勢の心臓部に突如起こったトラブルによって動揺はさらに全軍に拡がった。
「騒ぐなや、落ち着けえっ!わしは無事や」
弾正が金切り声を上げて、その混乱を鎮めようとしているのが聞こえる。
今だ。
僕は松鴎丸に後を託すと、崖を降りた。
銃撃による警告が上手くいったら身を挺して、僕が弾正を止める。
僕が決めたのは、このことだ。
もちろん僕の姿が発見され次第、射殺される可能性が高かった。
さっき初めてそれを話したら、松鴎丸にも止められた。
単身敵に身を晒して交渉するなんて、黒田官兵衛じゃあるまいし無謀にもほどがあった。本来、戦国時代人じゃない自分だったら何となく殺されないか。そんな甘い気持ちなど、通用しないのは、分かっていた。
「敵襲じゃっ、総勢武器を構えい」
弾正を守り、無数の騎馬武者が取り囲み、そこを歩兵の槍衾が敷き詰められた。それは鉄の軍勢でまもられた、ほとんど完全無欠な人の壁だった。気が遠くなるような恐怖と緊張に身を委ねながら僕はその眼前に意を決して立った。
「敵じゃあっ」
誰かが絶叫しかけたのが、僕の耳にも聞こえた。その声に全軍が反応していたなら、僕はその瞬間、羽虫のように踏み殺されていただろう。
「待てえいっ」
弾正の雷鳴のような絶叫が、反撃しようとする軍勢を一声で留めた。
「待たんか」
さすがに松永弾正だ。この言葉だけで、殺気に満ちてざわつく男たちは一瞬でその動きを停めた。
「なんでお前がここにおる」
弾正の目が、僕を直接捉えた。思えば、こうして相対するのも久しぶりだ。煉介さんに連れられて上京屋敷でこの戦国きっての謀臣と出遭ったのは、一体どれくらい前のことだっただろう。
見れば見るほどその風貌は、獰猛な猛禽類を思わせる。前立を撃ち飛ばされて死の恐怖を体験させられた弾正の顔色は紙のように真っ白だったが、切り立った鉤鼻の両端に切り裂かれたように見開かれた瞳は僕を、凍るような殺気で睨みつけていた。
「おのれか、撃ったのは」
折れた前立を抑え、弾正は僕に近づいてきた。底冷えする怒りに沈んだ声。まるで視線そのものが冷えきった刃のように、僕に突き刺さるようだ。僕は、無言で頷いて見せた。
「武器も持たんと」
なめくさりおって。弾正は吐き捨てた。手出しをしないよう背後に合図するとゆっくりと、こちらへ歩いてくる。腰に佩いた太刀の柄には、手が掛かったままだ。
「長尾虎千代のところのソラゴトビトやな。ここは、戦場や。それが分かってここにおるんやろうな」
当たり前だろう、そう言い返したかったが、正直、声が出なかった。でも、もう一度、相手に分かるように頷いた。その間、弾正から一度も目を離すまいとした。
この場で。僕の身を守ってくれるものは、もう何一つないのだ。
こんなところまで来て僕は初めて、身じろぎすら出来ない死への恐怖を目の当たりにした。身体の疼きは、腹の底がねじ曲がるような恐怖を全身へ伝えている。まるで僕が立つ足もとがいきなり空になり、無重力の中に放り出されたように、自分が今どこに立っているのかの感覚すら、麻痺してきている。
「弾正、あんたを止めに来た」
「あん?」
僕は、恐怖を必死で呑みこみながら、言った。
「これ以上の戦いは無駄だ。あなたにはここで、兵を退いてもらう」
「ふざけるのも、ええ加減にしとけや」
ちっ、と弾正が舌打ちした瞬間だ。声を上げる間もなく、抜き打った白刃が僕に襲いかかった。肩口に刃が吸い込まれたと自覚したとき、僕はそこで斬り殺されたと思った。
しかし、刃はすんでのところで止まっていた。冷たいはずの刀身が灼熱の感覚をもって僕の首筋でぴたりと止められている。首の皮が切れたのだ。鋭い痛みとともに、鎖骨辺りにかけて熱い血が垂れかかってきたのが分かった。
「この修羅場にのこのこ現れて、何をほざくのや」
刃を突きつけたまま、弾正は僕に訊いた。
「殺すぞ。半端もん、戦場ごっこも大概にしとけや」
僕は、さっ、と左手を上げた。その瞬間、さらにもう一発、銃声が鳴り響き、辺りにいる男たちを地に伏せさせた。弾正すらその例外ではい。剣を退き、思わず身体を伏せてから骨まで噛みつきそうな目で僕を睨み上げた。
この場に立っているのは僕だけだ。男たちの目がその僕に集まると、
「よく分かるだろう」
と言うように、僕は弾丸が命中した方向を指差してみせた。
弾正の兜の前立を撃ち落とし、次弾は馬印を確実に撃ち落とした。松鴎丸の腕の確かさだ。効いている。どんな軍勢を率いてこようと、この場で僕は弾正を射殺出来るのだ。恐ろしいことにこの二発の脅しだけが、今のところ僕のか細い生命線だ。
「ちゃんと僕の話を聞いた方がいい」
僕はなるべくゆっくりと、噛んで含めるようにして言った。虎千代どころか、さもなくば、こちらが総大将の松永弾正の命をもらいうけることになると。
「おっ、お前」
弾正はついに泣くような金切り声をあげた。
「なんなんや。こんな真似しくさって、どう言うつもりやっ!」
「僕の意志はさっきから、告げている」
と、僕は勇気を振り絞って言った。
「あんたはここから兵を戻すんだ」




