本陣突入!奇襲成功に湧く僕たちを待ち受ける血震丸率いる異形の部隊の影…?
深山の張りつめた寒気を引き裂いて、虎千代の突撃の下知が木霊する。その声を合図に沸き上がった轟音は男たちの武者押しの声と地響きがあいまって、大気を思うさま揺さぶった。真水で洗われているような気候がふいに途絶え、凍土からありもしなかった地熱が吹き上がったかのように、突如としていくさ場がそこに現れた。
虎千代が率いる騎馬の死兵たちは、遅めの朝餉をとる松永本営に間髪入れずに雪崩れこんだ。それは相手に状況を把握する間も与えない完全な電撃作戦だった。
虎千代が剣を抜いて馬上、炊ぎを行う足軽を斬り捨てるまでは松永兵たちは、何が起こったのかまったく理解できなかったに違いない。
悍馬が躍り込んだ野立ての厨では、兵士たちの煮炊きをする大釜が倒れ込み、あわてて逃げる男たちを大太刀や長巻を担いだ徒歩武者たちが容赦なく蹂躙し尽くした。炊事の火が幔幕に燃え移ると、たちまちその場は大混乱に陥った。
僕たちが襲ったのは炊事の支度最中の場所だったが同時に別の場所も襲われている。
四方に広がる悲鳴のような馬の猛る声と、断続的に響く爆薬の音は、黒姫たちの仕事だった。黒姫は軒猿衆を率いて敵の馬を繋いである場所を襲い、馬つなぎを軒並み切り離して火薬で脅したのだ。驚いた馬たちが雪崩れ込み、武器を取りかけた男たちを踏みつぶした。さらには武器庫には早崎衆が入り込み、戦闘準備に焦る男たちを襲って斬り散らしたので、陣中の混乱は加速するばかりだ。
「敵襲だあっ、逃げろおっ、みな殺されるぞっ」
かく乱のための流言の声も盛んにした。僕は混乱を煽るために、大声で叫び散らして回った。
「よいぞ真人っ、もっと叫べっ、声を張れっ」
虎千代は馬を駆り、剣を振るうと逃げ惑う人たちを追い散らした。手向かいをする武者やすでに武装した者を見逃さず、馬上、即座に斬って落とした。
「霜台」
と、虎千代は松永弾正の名前を呼ぶ。
「霜台、いずれにあらんや」
逃げ惑う人の流れから、まだ武装した兵力が守っている松永弾正の居所を見極めようとしているのだ。
「長尾平三景虎、推参仕った。おのれも音に聞こえし武人なれば、打ち物とって出会えよ。いざ尋常に太刀打ち致さんっ」
その声に、松永兵たちも色めきたつ。まさか敵方の総大将が陣中に乗り込んできたなどと言うことはまったくありえないことなのだ。虎千代の声に反応して飛び出してきた鎧武者たちも、自分でも訳が判らなかったに違いない。
「おっ、御大将、御首級頂戴っ」
「よう来た」
ぱっ、と虎千代の馬が駆けちがったとき、三人の男たちが瞬く間に頸筋を斬られ、声も立てずに絶命した。裸馬に乗ってどうにか出てきた槍武者も、一瞬で突出してきた虎千代に対応できず、防ごうとした槍の柄ごと斬りこまれて鮮血を噴き出す。馬上の虎千代の絶技は、人間わざと思えない。誰も捉えることは出来なかった。
「大和の兵は弱兵ぞな、口ほどにもなし」
虎千代は挑発を続け、群がる男たちを引いては寄せしては捌き切る。
「ここじゃ、大将首はここぞ」
虎千代はまるで枝から林檎をもぐようにさらに四人の騎馬武者を突き殺した。けたたましい金属音と血のしぶく音が、まだ薄く朝霧を張った梅林に凄惨に響いた。
「景虎はここぞ、霜台、臆したるかっ、疾く出でこい」
奇襲の前段は、大成功だ。
虎千代たちは見事に松永の本営を混乱の極に陥れた。武器すら満足に握れないまま、松永兵たちは次々と討たれ、雪混じりの山土の上にその残骸を晒した。右往左往する兵士たちは統率を失ったまま戦場をさまよい、挙げ句虎千代の率いる兵に命を奪われた。
もっとも混乱を煽り立てたのは、もちろん虎千代だ。虎千代は大将の名乗りを上げ挑発を繰り返しながらあらゆるところに現れた。流言が入り乱れる中で乱入した軍神の存在は、どうにか刀槍を手にして現場に駆けつけた敵勢を困惑させただろう。まさか敵陣に単騎乗り込んできたのが、鞍馬山に籠もる敵方の総大将とは夢にも思わないはずだ。
辺りは惨状だ。目も当てられない。武具の残骸とともに、朝露に濡れた山肌の上には、敵兵の死骸が散乱し、足の踏み場もない。死にきれず、主を失いさまよっている裸馬や足を追った馬が悲鳴を上げていたり、逃げることもかなわず、まだ呻いている人をあまた見たりするのは敵とは言え、さすがに僕も胸が締め付けられた。
「真人、無事か」
虎千代が黒姫と戻ってきた。馬を輪乗りしながら引き返してきたのだが、返り血を浴びている他は、目立った傷は見られない。
「どうやら上手くいきましたですね」
「とりあえずはな」
虎千代はまったく気を抜かない。かなり追い散らしたがまだ、本陣が潰走するまでには至らないからだ。
戦局は次の段階に入ろうとしていた。ぐちゃぐちゃにかき乱された野陣では、無惨な同士討ちが始まろうとしていた。決死隊が旗差物をせず、敵陣では目印となるものを踏み荒らして歩いたので、旗印のない状態での戦闘は困難を極めたのだ。合い言葉を打ち合わせている僕たちは出し抜けに味方に襲われることは、中々ないとは思うが、ふいに混乱したまま飛び出してきた誰かに襲われないとも限らない。
虎千代は黒姫に命じて、手廻りの兵を集結させた。そのまま、松永弾正のいる本陣を襲う考えだ。
「そろそろ、山上の前線に混乱が伝わった頃であろう」
虎千代は曇り空を見上げた。まだかなり視界は悪いが、山上では未明から柿崎景家と直江景綱が手勢を率いて、松永勢の前線と衝突を繰り返しているはずだ。
「派手にやりましたですからね。たぶん、泡を喰って駆け戻ってくるですよ」
そうか、と虎千代は頷いた。
「時間はあまりなさそうだな。その前に我ら引き上げねば、敵に呑みこまれよう」
ある程度の兵数が戻ってくると味方の損害を確認しつつ、虎千代は兵を進める。貴船口の構造上、野営は鞍馬山を取り囲んで南北に細長いのだ。僕たちは松永勢の中枢を突いたのだが、弾正の籠もる本陣はまだまだ奥まったところにありそうだ。
「虎さまっ、恐らくはあそこかと」
先導する黒姫が少し小高い丘の方で、弾む声を上げた。丘に上ると、蔦の紋のついた幔幕の張られた敷地には、本陣を示す金箔張りの扇が立っているのが見えた。黒姫の言うように、ここに弾正がいるに違いない。もはや足の踏み場もないと言うような周囲の状況に比して、そこだけはまるで何事もなかったかのように不気味に静まり返っている。
「もしやもう、逃げたのかな」
「それはなかろう」
本陣の馬印を打ち棄てて逃げることはまずありえない、と虎千代は言う。確かにそうだ。
「しかし、静か過ぎるな」
虎千代は馬上、腕を組むと不可解そうに眉をひそめた。
「やっぱり真人さんの言うとおり、泡喰って逃げたですかね」
僕たちがそんなことを話しながら、丘をおりかけたそのときだ。
急にそこにあった、馬印が畳まれた。中はやはりもぬけの殻ではなかったようだ。
「一気に押し寄せてくる肚やも知れぬ」
と、虎千代は警戒する。しかし、そんな心配をする間もなく、蔦の紋の旗指物はくるくると仕舞いこまれ、松永の野陣はみるみるうちに取り払われていく。
「あ、あれは」
と、黒姫が声を上げる。松永本営を示す馬印の代わりに今度は別の馬印が立ったのだ。
それはいかにも不気味な、動物の頭骨の馬印だ。金泥で塗り固められたそれは、見るも異様な本営の変貌ぶりを象徴しているように見えた。その異様な馬印に驚いていると、今度は白地に黒と言う蔦紋の旗指物が一斉に引っ込み、代わりにそこには見るだに毒々しい紅い旗指物が立ち並んだ。
黒姫に代わって今度こそ僕が、声を上げそうになった。あの、胸が悪くなるような旗指物に見覚えがあるのだ。
髪の生えかけた野辺の髑髏に、突き通された槍。
あれは。
「血震丸め」
隣で歯噛みするように、虎千代が言った。あんな気味の悪い旗印を悦んでつけるのは、殺戮と謀略を何より好むあの男以外にありえない。
松永弾正の籠もるはずの本営は一瞬で、血震丸の野営にその姿を変えた。
血みどろの悪意を象徴する紅い旗指物がひるがえると、そこに血震丸の手勢が地から染み出すように湧き出てきたのだ。
「なんだあれは…」
松永の幔幕を踏み荒らして現れた血震丸の軍勢の異様さに、僕は釘付けになった。
そこにいたのは馬に乗るのも困難な重装備の徒歩武者ばかりだった。その男たちは何しろ山形に尖った鉄棒のような重々しい武器を握りしめ、黒光りする強い毛に覆われた頑丈そうな鎧をまとっていた。黒漆で塗り固めた惣面は、長い鼻と強靭な犬歯を備え、まるで山狗のようだ。
現れただけで、すぐにぴんと来た。
あれこそ正しく、鬼小島が最前線で見た、異様な部隊だ。
しかし、みればみるほどその姿は人外の獣だ。
あれは人間じゃない。
そんな錯覚を覚えるほどに、一層禍々しい。
一体どんな連中が、血震丸に加担していると言うのだろう。
やがて男たちを掻き分けて、二騎の騎馬武者が飛び出してきた。
一人は血震丸だ。赤漆をかけた一枚胴具足に、黄金造りの太刀を佩いている。底の見えない鈍い光を放つ目が真っ直ぐ、軍勢の中で虎千代を見つめていた。
そしてもう一人はまた、異体の武者だ。
恐らくはあの男が、この獣じみた軍団の長と思われる。黒い狗の惣面でやはり年齢は不詳だが、筋骨たくましい巨体を黒毛を植えた大鎧で包んでいる。恐ろしいのは、獣の頭骨をつけた気味の悪い兜だ。本物の頭骨を加工したと思われるそれは金泥ではなく、もっとくすんだ生々しい色合いを帯びている。それはまるで地獄の猟犬を引き連れてきたような、この異形な軍団を率いるのには、もっとも相応しいと言えた。
男は馬を駆ると、拳を上げ全軍に合図をした。しばし手を出すなと言う牽制のためと思われる。同時に血震丸が進み出ると、
「長尾虎千代殿、出でませい」
と、声を張り上げた。なんと不敵にも虎千代に、自分の前に出てくるように要請しているのだ。
「臆するな。なあに、撃ちはせぬ。一別以来よ、物語せん。いきなり武者押しいくさも、無粋ではないか」
血震丸は自分が無防備であることを示すかのように、両手の平を胸の前で花開くように見せつけると、これみよがしに肩をすくめた。
「まったく相も変わらず、芸の多い男よ」
挑発に乗って熱くなることもなくため息をつく虎千代の横で、黒姫は怒りに震え、ぴくぴくと頬を引き攣らせている。
「あの男は、ふざけすぎてますですよ。ったく、なんたる物言いをしやがるですか。虎さまを呼びつけにするなど、どこまで無礼様なのでしょうねえっ」
「黒姫、そう熱くなるな。あやつはああ言う男なのよ」
虎千代は苦笑すると僕に、馬の口を曳くように命令した。
「虎千代、本当に大丈夫か?」
僕は何にも守られていないことをことさらにアピールする、二人の騎馬武者に目をやった。虎千代が言うとおり、血震丸は芸の多い男だし、贄姫のこともある。露骨に思わせぶりなあの態度に、どんな奥の手を隠しているとも限らない。
「さあな、だが行くしかあるまい。いざとなれば、あの男を一気に仕留めるまでよ」
「あっ、お二人ともお待ちくださいですよっ、わたくしも出ますですよっ」
虎千代はこう言うときに躊躇したりはしない。まったく放胆に出たので、黒姫があわててついて出た。
もしかしたら鉄砲が狙っているのかも知れない。
何か罠があったりしたら取り返しがつかない。
そんな危険の中、しかし虎千代はみるみる自軍を離れ、見晴らしのいい丘の麓に陣取る、血震丸たちのところへ近づいて行った。
「ほんに久しくある」
と、血震丸は目を細めて、声をかけた。
「おのれの顔など、見忘れたわ」
虎千代は醒めた顔で言うと、血震丸たちの様子を見回した。
「これは奇異な。おのれの身分でかような後方にいるとは、思いもよらなんだ」
と、虎千代は挑発するように、血震丸に放言した。馬上、二人ともお互い軍勢から完全に離れている。その距離は、ほとんど無防備に細かな表情を確認出来るほどに近づいていた。
「『孫子九変篇』にある。高稜ニ近ヅクコト忽レ。知らぬか」
傾斜地の上にいる敵をうかつに攻めれば、強烈な反撃に遭う。
兵書を引用する血震丸に虎千代は、ふん、と鼻を鳴らして返した。
「細川家から鞍替えした新参者の陣借りにしては、自由の利くものよな」
「陣借りにあらず、間違えるな」
と、血震丸は片頬を歪めると、虎千代との会話に応じた。
「我らはともに、不義と戦う同志ぞ。弾正殿はおれを全面的に信頼しておる。我が献策を容れたまでよ。長尾虎千代は必ず単身、本陣を突いてくる、と。やはり図に当たったな。おのれがあては外れたわけだ」
虎千代は面倒くさそうに息をつくと、首を傾けた。
「弾正殿はとっくに本営を引き払って、ここにはおらぬ。おのれらは大軍を山中の隘路に引き入れ、存分に振り回すつもりであったのだろう。だがこの血震丸には、姑息な姦計は通じぬ」
「さればこそ体よく殿を引き受けて、おのれが手勢で本営を装う計を弾正に進めたか。血震丸よ、今度は松永家を牛耳り、三好家を乗っ取ろうと言う肚か」
「相変わらずの鬼姫ぶりよな。物の言いざまにかわいげがないわ」
「心からの言葉のない者にかける情けはない」
ふん、と、虎千代は露骨に鼻を鳴らすと、刺すような視線で血震丸を射た。
「で、その狗どもはなんと言って飼い慣らした?」
「こやつらは飼い犬などと、生易しい連中ではないわ」
血震丸は傍らの、あの異形の侍大将に振り返った。
「こやつらは、奥飛騨に棲まうもっとも古き天狗の末裔どもよ」
「やはり邪宗徒か」
「狗肉宗と言うのだ、おのれも聞いたことがあるまい」
虎千代は傍らの黒姫を見た。黒姫はその名前に思い当たるふしがあるのか、息を呑んで頷いた。
「…噂話では訊いたことがありますですよ。他宗の修験者を山で捕えたり、里から足弱のものをさらってきたりして外法を行う鬼畜ども。まさか実際にいるとは」
「狗肉宗は、他宗を敵とし外法を旨とする。知っておるか。こやつらは他宗の者を犬と見立て、その肉を生きながら喰らう修法を行うのよ」
訊くだけでぞっとするような話をすると、血震丸はにたりと唇を綻ばせた。
「長尾虎千代、こやつらから見ればおのれは真言の法を誦す異教徒よ。おのれの生肉を喰らわしてやると言うたら、こやつらは一にも二もなく合力してくれたぞ。おのれの生き肝こそがこやつらの報酬よ。我もおのれの髑髏を肴に酒を飲むが愉しみゆえな、いわば我らもまた、同志と言わめ」
血震丸はなんて恐ろしい連中を連れてきたのだ。こいつらはいわゆる宗教原理を曲解して山中に潜む、もっとも危険で排他的なカルト教団じゃないか。
「甘言をもって、化け物を手づけたつもりか。芸は多いが、中身のない男よ。こけおどしはいい加減、訊き飽きたわ」
虎千代は腹立たしげに大きなため息をつくと、血震丸を睨みつけた。
「やるのであろう」
「ああ、おのれを逃がすおれと思うか」
血震丸もぎらりと殺気で濡れた視線を返した。
「ふん、意気だけは立派だが」
虎千代は僕に目配せを返した。恐らくはこれを機に開戦なので、兼ねて打ち合わせてあった突撃用の替え太刀の準備をよろしく頼む、と言うことだと僕は解釈した。
虎千代は腰に小豆長光を佩いているが、本陣突破に当たっては、特注の長巻きを誂えていた。斬りつけやすいように長い柄を蕨手と言う湾曲した形にしてある豪刀はほとんど槍とも言える長さのものだ。無銘だが長船に並ぶ備前鍛冶、福岡一文字の傑作で甲冑の上から叩きつけても折れることはない。僕は鞘を払ってそれを手渡す。虎千代は馬上それを、鋭い風切り音を立てて打ち払った。
間もなく虎千代が突撃の下知を出す。そう思われた瞬間だ。
ぱっ、と馬を駆って、虎千代が単騎飛び出した。
声を上げる間もない、刹那の呼吸だ。
言うまでもなく目指すは、悠々と帰陣しかけていた血震丸だ。
血震丸は後営で指揮を取るタイプの武将なのでもちろん、長物を駆って自ら突撃する準備はしていない。僕たちと同じく、長巻きを携えた虎千代がいきなりこちらへ突出してくるとは思いもよらなかっただろう。はっ、として腰の打刀を抜きかけたが、もう遅い。間もあったとしても血震丸の剣では、虎千代の長巻きは防げなかっただろう。虎千代の長巻きなら刀を叩き折って苦もなく、血震丸の胴体を両断しただろう。その致命の刃が、甲冑を斬り割って血震丸の肉に届くかと思われた、そのときだった。
血震丸とともに馬を並べていた狗肉宗の頭目が一瞬で、二人の間に割って入った。虎千代が放った一撃は、その男の持っていた長物の柄で受け止められた。
その武器は、槍とも薙刀とも言い難い不思議な武器だった。全長のほとんどは、硬い樫材の長柄で出来ている。しかしその先についているのは、槍の穂でも薙刀のような刀身でもない。まるで手斧のように分厚い短剣状の穂先だ。
「菊池槍の変種か」
虎千代が言ったのは、南北朝期に開発された槍のことだ。この槍は武器に窮した菊池武重と言う九州から参戦した南朝方の武士が臨時に竹竿の先に短刀を括りつけて使ったのが、発祥とされている。まるで銃剣のように穂先が着脱式になっているのが一般的だが、この男が穂先にしているのはまるで骨ごと断ちそうな鉈に似た、武骨な短刀なのだ。身幅は普通の刀の三倍はあり、生半可な鍛冶には打てそうもない。頑丈さだけを目的に造られたそれは、完全に実戦本位の代物だ。
その刃は無論、虎千代が装備した厚重ねの長巻きの一撃を受けても、びくともしなかった。二人の間には、がん、と頭蓋の奥まで響きそうな轟音が立ち、オレンジ色の火花がほとばしる。鉄骨をぶん殴ったような手応えに、馬上の虎千代も思わず顔をしかめた。
「おっ、おのれっ」
命拾いしたのは血震丸だ。この男がいなかったら虎千代の不意打ちに、血震丸は一撃で首を喪っていたはずだったのだから。
「知切よ、助かったわ」
「それがお前の名か」
虎千代はすでに血震丸よりも、この異体の男から視線を外さない。男は血で潤んだ目で虎千代を見返した。
「狗肉宗大行者、知切狠禎、邪宗徒長尾虎千代、お前を屠る者の名だ」
異名を持つその男は、これも規格外な刃を振り上げると、虎千代に反撃した。
「はっ、始まっちまったですよ!」
黒姫が手勢に合図して、すかさず駆け出す。
「虎さまっ、今黒姫が加勢に参りますですよっ!」
僕も虎千代が率いてきた力士衆に合図して、虎千代を守るべく、槍をとって突出した。
「虎千代が危ないっ、急いでっ!」
僕の見るところ、体格と膂力に任せて押し込んでくる知切の力技は馬上で虎千代がもっとも苦手とする類の型なのだ。
「邪宗、滅すべし」
咆哮とともに放った一撃が、防ぎきれなかった虎千代の肩当てをむしりとる。その咆哮に呼応し、背後の軍勢が獣じみたうなり声を立てながら、進撃してくる。
「長尾の鬼畜どもを殺せっ、血肉を啜れっ、仇敵、長尾虎千代、あの女の生首を上げたれば、恩賞は思いのままぞおっ!」
血震丸が金切り声をあげて、手勢を先導する。
こうして両軍が一気に衝突した。
刃を交え合う虎千代と狠禎はたちまち、殺気を帯びた軍勢禍の中へ呑み込まれていく。手あたり次第に槍を振り回しながら、僕は必死で虎千代の安否を確認しようと、戦場を駆けた。
狗肉宗徒たちの進撃は、驚くほど強烈だ。この獣じみた軍勢は、無秩序かと思いきや、数をまとめて狼のように群がってくるのだ。狂信者ゆえの結束は強かった。
「軍勢を離れるなっ、我らもまとめて押し返せっ」
武者押しのいくさではもちろん、長尾家最強の力士衆も負けてはいない。大太刀を振るって徒歩武者たちが身体ごとぶつかり合うと、まだ日の昇り切っていない戦場に、不気味な肉を打ち合う音が響き渡った。
攻防は一進一退だ。局地的には熾烈な部隊同士のぶつかりあいが続いているが、なにしろ指揮官同士が一騎打ちをしているのだ。両軍入り乱れての乱戦に移行しつつある。このまま血肉を削り合う総力戦が、後先を考えずに続いたら。考えるだけでもぞっとするような想いが、僕の胸をよぎる。
それにしても山上の戦闘は、どんな状況なのだろうか。東の空の彼方にある鞍馬山の戦闘状況を見極めようと僕は幾度か空を見上げたが、雲霞む山中の状況は、ここからではまったく判断できそうにない。
「真人さんっ、ここですよっ!来てくださいですよっ」
黒姫の叫び声が僕の耳を打つ。顔を上げると返り血を浴びた黒姫がすぐそこにいた。でもとりあえず、彼女にも目立った怪我はなさそうだ。
「新しいお怪我はなさそうですねえっ!ったく、あーたは鉄砲傷があるのですから、無茶はいけませんですよっ!」
「ごめん!」
両軍入り乱れての衝突の中、会話をするのにも声を張り上げるしかない。
そうだ。僕は銃弾で肉を削がれていたのだ。黒姫の治療を受けて血は止まったし、興奮していたのですっかり忘れていたが、戦っていたら傷が開いていたかも知れない。
「ちょっと相談がありますですよおっ!」
ちょいちょいと黒姫は僕を手招きする。
僕たちが降りてきた進入路の近く、黒姫率いる軒猿衆が集結している。黒姫も僕と同じ危惧を抱いたのだろう。とりあえずは乱戦の中、虎千代を探すことを諦め被害を受けた兵たちを回収し、いざと言うときの撤退に備えることに方針を転換したようだ。
「実は、時間がないですよ。山上に放った軒猿衆が戻ってきたですよ。どうやら本営の混乱を察して、前線から松永勢が引き上げつつあるとのこと」
やっぱりだ。このままだと、奇襲作戦をしたはずが、僕たちの方こそ両側から敵勢に挟みうちを喰らってしまう。
「あのでかぶつはともかく、景綱様たちなら何とかわたくしたちを回収しに出ては来れるかも知れませんが、期待は出来ませんですよ。我らが壊乱すればお味方は総崩れ、元も子もありませんです。これは早急に何とかしなくてはならないです」
「虎千代は?」
黒姫はさっと、顔色を曇らせた。
「それが、虎さまは動けないのですよ」
さすがは黒姫だ。あの乱戦でもちゃんと虎千代を見つけてはいたのだ。しかし黒姫の話では知切狠禎と虎千代の戦闘は、余人が手出しの出来ぬ局面に移行していたらしい。
知切の豪剣に馬上、虎千代は長巻きの刃をへし切られていたのだ。
甲冑をも断つ厚重ね福岡一文字の大刀を、知切の菊池槍は空中で斬り飛ばした。コーン、と言う大鐘の底を叩いたような衝撃音がその威力を物語っていた。
間一髪だった。恐らくはその攻撃を真っ向から受け止めていたのなら虎千代は長巻きごと、胴体を両断されていたはずだ。
「やりおる」
残った柄を虎千代は持ち替えると、利き手に残る痺れを払うべく鞍壺に打ちつけた。
「野焼きの粗い打ち物と侮ったわ」
「抜かせ」
知切は、これみよがしにその豪剣を引き上げて見せた。大鉈のついたその槍は、刃を交えてみると菊池槍と言うよりは、西洋の重騎士が得意としたポールアックスのように使われることが分かった。
「この大鉈、我が狗肉宗に伝わる御神体の古鉄を溶かし、打ち直した重代の逸品じゃ。里人のやわな刃では到底及ばぬわ」
「天狗は野鍛冶や山師の崇める神でもあったな」
物打ちから折れた長巻を虎千代はさらに取り直して構えた。
「話には聞いていたが無謀な小娘よ。折れた得物で打ち合えば、今度はおのれの肉を断つぞ」
「一たびいくさ場に出たれば、生死は関するところではない。また男女の別もな」
「これは活きよき山猫よ」
虎千代の物言いに不気味な惣面の瞳が歪んで笑った。
「来るがよい。その素っ首切り取って、我らが祭神に捧げてくれる」
虎千代は片手に折れた長巻きを駆り、飛び出した。馬を逸らせ、豪剣を構えた狠禎の肥馬に殺到する。どう見ても、自殺行為だ。そこにはなんの躊躇もなかった。
「散れっ」
狠禎がその大鉈を振りあげたそのときだ。
虎千代はぐっ、と腕を引き、十分な助走をつけて長巻を振り上げて。
真っ直ぐに投げつけた。
切っ先が折れているとは言え、強靱な刃は健在だ。鎌が薙ぐように放物線を描いて、長巻は狠禎の胸元を狙って飛来する。
「小癪っ」
しかし、剛腕を誇るこの獣じみた男には、全く通用しない。飛んでくる刃を知切は苦もなく柄で払いのけた。ぐんぐんと距離が縮まる馬上、虎千代は徒手空拳だ。あの大鉈を防ぐ術は、もうどこにも残されていない。頭上から降りてくる大鉈に真っ向から頭蓋を叩き割られるかと思われた。
大行者がいよいよ大鉈を振りおろそうとしたときだ。
虎千代はがら空きになった両手を広げるとそのまま鞍壷を蹴って、飛びついた。
何という無茶をするのだ。圧倒的な体格差も考慮せず、虎千代は馬上の狠禎を組み倒そうと言うのか。馬の力と走力を加えたとは言え、小柄で女性の虎千代には無理だ。宙を舞う蠅のように、この大行者にあえなく叩き落とされるか、無情に跳ね返されてしまうはずだった。
しかし驚くことに、虎千代は見事に知切狠禎の巨体を揺るがし、馬上でバランスを狂わせた。聞いたことがある。甲冑武者はひと際重たい兜に重心が偏るために、体幹を操れば、少ない力で比較的容易に押し倒すことが出来るのだと。いわゆる梃子の原理が働くと思われる。虎千代は狠禎の毛を植えた鎧をしっかりと掴み、さらには片足を抱え込むと軽々と狠禎を落馬させた。狠禎は動転しただろう。
「ぬうううっ、離れえいっ」
まさかあの小柄な女のからだに落馬させられるとは、夢にも思わなかったはずだ。大熊のようなその巨体を組みしいた虎千代はとっさに脇差を抜き、鎧の隙間から届くところに突き立てた。狠禎はバランスを崩しながらもそのまま虎千代を抱え込んで縊り殺す肚でいたのだが、小柄を肉に突き立てられ、そのタイミングが完全に狂った。
そのわずかな隙に、虎千代は立ち上がっている。一足早く間合いを取り、小豆長光を抜いている。
「小娘」
狠禎の脇腹には、脇差しが突き刺さったままである。怒りに目を潤ませた巨獣は、拳を固めると、鎧の隙間に刺さった刀を取り出し、踏み折った。
「待っておれ。生きながらにその腹を裂いて、臓腑を喰らってくれようぞ」
「さても、しぶとい奴よ」
間一髪の局面を何とか切り抜けた虎千代は、疲労の深い息をついた。
「黒姫、ここにお前の仕事はないぞ」
思わず駆け寄ろうとした黒姫に、厳しい声でこう言ったと言う。
「手出し無用よ。黒姫、我には今、おのれを気遣う余裕はない」
黒姫はそれで、一瞬で虎千代の判断を理解した。
「たぶん虎さまは、わたくしたちに託されたですよ。この部隊が生還出来るや否やの局面を」
黒姫は決意に引き締まった顔で、僕を見上げた。
「今はわたくしたちは、指揮を喪っている状態なのですよ。このままわたくしたちが戦局を打破する一手を打たねば、山上から撤退してきた松永勢と一時撤退した弾正の本勢に押しつぶされて全滅するですよ。それを防ぐのが虎さまが言う、わたくしたちの仕事なのですよ」
確かにそうだ。このままでは、遅かれ早かれ僕たちは全滅する。虎千代が狠禎を斬っても、敵はまだ雲霞のごとく戦場に滞留しているのだ。その危うい均衡はすぐに崩壊するだろう。考えなくちゃ。僕たちが戦況を打開し、どうにか無事に生き残れる活路を。
「真人さんはどうするですか?我らは人数が集まった段階で、虎さまをお救いに、あの場へ馳せ戻ります。わたくしたちが何人死のうと、虎さまだけは無事に落ちさせねばなりませんですから」
でも敵だらけの戦場で、山上まで逃げ戻れるものか。前後に敵が充満しているのだ。弾正だってただ逃げたわけではないだろう。血震丸が戦線を退いた弾正に僕たちが敵陣のただ中にいることを告げたら、危険を冒しても戻ってくるに違いない。何しろ、総大将の首級が獲れるかも知れないのだ。そこまで考えて僕は、はっと息を飲んだ。いや、待てよ。今、僕は何を思いついたのだ?
「血震丸だ」
そうだ。
僕の口を突いて出た言葉に、黒姫は、はっ、と目を見張った。
「あの男はどこにいる?」
黒姫はかぶりを振った。出会い頭に虎千代に斬られそうになってから、血震丸は戦場で姿を見かけないのだ。もしかしたら。
「血震丸は弾正の本営に駆けたのかも知れない。虎千代がここにいる、と。総大将の虎千代を確実に討ち取るため、血震丸は弾正に急を報せに行ったのかも」
「そ、そう言えばそうかも知れないですよ」
僕の閃きがただの思いつきではなかったのを裏付けるかのように、黒姫の顔から、みるみる血の気が引いた。
「なっ、何でそれを早く言ってくれないですか!山上の敵だけでも困っているのに、それって、でえれえやばいのではないですかっ」
「やばいよ。でも、黒姫これは」
やばくない。
いや、危険には違いないが、僕たちに活路があるとしたらそれしかない。
「黒姫、虎千代を救出に行く人数を割くとして、後どれくらい兵数を割ける?早崎衆の人たちでもいいんだ」
「え?それは…出来なくもないですけど」
興奮しかけている僕に不気味なものを感じたのか、黒姫はちょっと戸惑った。
「どうする気なのですかっ、真人さん」
「これしかないんだ。僕たちが生き残るには」
血震丸は知っているのだ。松永弾正が今、どこにいるのか。
もっとも危険な場所からさらに奥、決死の渦中に飛び込むのだ。虎千代の助けもない。それこそ今度こそ、死ぬかも知れない。
でもやるしかない。僕は生きなければならない。そして何よりだ。
僕は虎千代を救うためにこそ、戦場に出たのだ。
「やるよ、黒姫」
僕は覚悟を決めた。
「血震丸と弾正を暗殺する」




