今際の際で!凛、三島春水と、最初の接触は……?
(まだ、若かったねえ)
回想から醒めた凛はため息をつく。
プロの工作員になった今となっては、日本のやくざとたちの血みどろの潰しあいをしたのもまた、懐かしくもいい思い出の一つだ。
(それにしてもだ)
あのとき、春水と出逢ってなければ、自分はどうしただろう。あのまま、簀巻きにでもされて、暗い海の底にでも沈められていただろうか。
「ま、いーか」
(あんときはそうなったらそうなっただったしな)
その当時から、自分がいつかは誰かに殺されるかもしれないと言うことは、凛の覚悟の内にあった。
それくらいの覚悟がなければ、拳が鈍る。殺してしまうかも知れないと思っていたら、脳汁が出るほどの極限まで猛獣のように育った自らの奥底までを、全解放することなど、出来るはずがないと思っていた。
自分は暴れていなくては生きていられない。そのとき相手になった奴を傷つけるのはその結果に過ぎない。だから自分の最後はどんなむごい死に方であっても構わない。
それが江戸川凛が昔から一貫した、変わらぬ信条なのだ。
(この時ばかりじゃなく、もうだめかもなって時はあったからなあ)
いずれにしても凛は、この時、どうやって自分が生き残るかなどと、はなから考えてはいなかったのだ。
(アタシ、死ぬんだな)
その瞬間に、どんな光景に出会えるのか。そのときの凛も、漠然とそんなことを考えていたに過ぎない。
(だがあんなとんでもないものを、見せられるとはなあ)
ただ、目を奪われた。
生まれて初めてだ。
冷たく冴えきって澄み渡った、そんな暗殺者が存在することが、その時の凛にとっては空前絶後の感動だったのだ。
「おら小娘、お前の同級生だ」
血まみれの凛はそのまま、冷たいコンクリート敷きの部屋へぶちこまれた。
事務所の奥にあった倉庫に、理子は監禁されていた。士野原理子は、地元で江戸から続く博徒の組の末娘だ。
全国区の山菱の代紋を掲げた新興団体、明河組が地で長年安定した勢力を保つ士野原組を凌駕する。本来は金づくや人海戦術で縄張りを荒らしていく方法をとるのだが、士野原組の結束は予想以上に強かった。
痺れを切らした明河組は、士野原組の令嬢をさらって手っ取り早く、盃を交わす方向へ持っていこうと考えたようだ。
「凛ちゃんッ」
理子の引き裂くような泣き声が、血まみれの凛に降りかかる。
「この凛、一般人なんだってなあ。お前の親父はいまだに、組の人間一人、手打ちにも寄越さねえってのに、大した友情だよ」
嘲笑うと、貴志川は倒れ伏している凛に唾を吐いた。
「馬鹿だな。お前みたいなやつを犬死にって言うんだよ。おれらも渡世の人間以外にゃ滅多に手は出さねえが、ここまでやられたなら話は別だ。もう、家には帰れねえぜ」
「……へっ、負け犬がよく吠えやがる。鎖につながれてりゃあ、威勢のいい飼い犬だよなあ……」
反吐が出そうになかったが、凛は何とか声を張った。
「んだとコラッ!」
革靴の爪先で、あごを蹴りあげられたのは、そのときだった。
「いいか!てめえは、この小娘の前で見せしめに殺すからな!てめえの遺体は産廃へぶちこんで、小娘は沖縄の裏風俗にでも売捌してやんよ。二度とここへは戻ってこれねえんだ、身の程わきまえろや!」
さらに凛を蹴ろうとする貴志川を、猪原が羽交い締めにして取り押さえた。
「んだよ猪原離せこの野郎」
「落ち着け馬鹿」
その貴志川の足を隼瀬が思いっきり、蹴った。
「おい、貴志川ァ!てめえ、誰がそこまで話していいって言ったよ?」
本気で蹴られて貴志川は、ようやく我に返ったらしい。急に青くなって口ごもった。
「すんません、ちょっと調子こきました……」
「ちょっとじゃねえよ馬鹿!段取りは話したよなあ。下らねえこと口に出してると、てめえもあのガキと一緒に産廃埋めんぞコラ!」
隼瀬は容赦なく、貴志川を殴り付けた。そのまま鼻血でシャツが真っ赤になるまで殴られ、蹴られたが貴志川は、全く抵抗しなかった。
「すんませんす……」
と、言う貴志川の頭を平手で張り飛ばし、隼瀬は凛たちの方へしゃがみこむ。
「安心しろよ、あの馬鹿の話は最悪こうなるってだけのことだ。士野原のお嬢ちゃん、あんたの親父がここへ挨拶に来てよ、そうだな、手打ちの金、五千万も持ってくりゃ話はそこで終わりだ。親父の車ですぐに、うちに帰れるんだ」
そんなの嘘だとばかりに、理子はかぶりを振る。凛にも分かっていた。
小さな町ヤクザの理子の父親に五千万円、すぐに用意できる力はない。
そもそも、ここまでの修羅場を見せた以上、もはや穏便には片付かない。まず事態が動かなければ、貴志川が言ったように、理子の前で凛を殺し、死体をそのまま士野原組長への脅しに使いかねない。
話をぼやかしているが、この隼瀬はやるときには自らやる男だ。ただの上司だからでなく、貴志川も猪原も絶対服従でいる理由が凛にも分かる。
いざとなれば誰もが目を背けることを、容赦も躊躇いもなく、やってのけるだろう。
「ごめんね、凛ちゃん……」
蚊の啼くような声で、理子は言う。泣き腫らした目には、もう何も映そうとしていない。ここで殺される予定の凛よりも、理子の精神の方がもはや限界だ。
(だがこりゃ、どうにもならねえな……)
と、凛が思ったそのときだった。
「失礼いたします」
と、一人の女性が部屋へ入ってきた。銀縁眼鏡にスーツ姿の、凛からみればいかにも出来るビジネスウーマンと言う感じだった。もちろん、こんな修羅場には全く似つかわしくない。
「なんだてめえはコラ」
「勝手に入ってくんな。どっから入ってきた!?」
貴志川と猪原に立ちはだかられても、その女性は、気圧される様子もなかった。真水のように色のない視線で、真っ直ぐこちらをみてくる。
「あんた、士野原組の人間か?」
と、まさかの可能性を考えたのか隼瀬が尋ねると、
「いいえ」
明快に女性はそれを否定した。
「わたくし、三島春水と申します。士野原と言う組の人間ではありません」
「だったらなんだ」
「保険屋の姉ちゃんか」
からかうように、貴志川が囃した瞬間だった。
春水の前に立ちふさがった長身が、ぐらり、と崩れた。見る間に膝が砕け、うずくまるような姿勢で倒れたのだ。その間、なんの音もしなかった。
(なんだ……?)
と、凛も思わず息が停まりそうになった。
三島春水、と名乗ったスーツ姿の女性、その手には光るものが握られていたのだ。
それは医療用のメスのような限りなく鋭く薄い、一本の刃物だったのだ。どこをどうしたのか、『あれ』で今の一瞬、貴志川を刺した。
誰も気づかぬうちに貴志川は旅立っていた。貴志川自身も恐らく、自分が刺されて死んだと判らないうちに。
「てめえ何者だ!どこの組から来た!?」
「別に、どこの組からも来ていませんが」
猪原が怒鳴り付けたが、春水は涼しい顔だ。こう言えば分かるでしょう、と言うように、簡潔に自分のことを述べた。
「殺し屋です」




