五十人抜きの果て!江戸川凛の土壇場の目的とは……?
外階段を上りきると凛は、粗末なスチールドアを開けた。
右手に古いエレベーター、狭い廊下の突き当たり左のドアを押し入って入る。
パーティションで仕切られた粗末な事務所が、その晩の凛のゴールだ。そのはずだった。凛は終着点の証を探した。応接間の中央に掲げられた、大きな菱川の代紋。明河組の名は銀色で彫り込まれていた。
「おい、来たのはガキだぜ。どうなってんだようちの若い連中!」
「おれの勝ちだな。おら、一人一万な!バックれんなよ」
「くっそぉ、あいつら!後でしめてやる!」
そこには三人の男が、万札を叩きつけあって、博打に興じていた。凛のことなど、どうでもいいと言うように。
(こいつら……)
と、凛は抜け目なく、面子を見渡した。物腰もそうだが、あの五十人との乱闘の中、この事務所で悠々と賭けに興じているところからみても、ただ者ではない。
それがあと、三人。
(悪かねえ)
胃にもたれるデザートではあるが、歯ごたえと言う点では申し分ない。
「貴志川、なんだよてめえ先に出んのかよ」
最初に出た男は長身細身、立ち姿からしてボクシング系の格闘技をやっている風だ。ソファから立ったときに、その拳が膝に届くほどにリーチが長いのが分かった。
「猪原の兄弟、あんたが出たらこの事務所滅茶苦茶にしちまうでしょうが。……若いのがやられてんだ、後片付けするのは俺しかいねえじゃねえっすか」
ネクタイを緩めて相手は、アップライトに身構える。思った通り、ボクシング系だ。狭い室内でコンパクトに相手を仕留めるのには、効果的な技使いである。
「ちッ、あんた、一応言っとくが、見逃してもらおうって気はねえのかよ?」
と、凛が言うと貴志川は、背後の二人を振り返ってから大笑いした。
「ははははッ、今の面白えじゃねえか!見逃してやる、なんて口上はよ、初めて利かれたぜ」
と、言いつつ、貴志川はダッキングしながら、一気に詰めてきた。
ボクサータイプの相手の常道は、素人には見えないジャブで相手を翻弄してくる戦法を取ってくるものが多いが、この男はいきなり最接近距離からの撃ち合いがお望みらしい。
「くっ」
とっさに、凛は距離を取ろうとした。だが下がれるものではない。無呼吸の連発が、いきなり襲ってきた。
「痛ってえな」
腕を楯にしてしっかり守ったが、最後に入った肝臓打ちの威力だけは殺せなかった。これが、じわじわと来る。下っ腹に残る、熱く重たいしこり。まるで鉛のウエイトをつけられたかのように、凛の動きが微妙に鈍る。
「おらどうした!?もうへたってんのか?活きが悪いぜ!」
「るせぇこらァッ!」
連弾を見舞われるたびに、凛は反撃したが、貴志川は足を使って巧みに被弾を避ける。
(ちッ相性悪い)
ボクサータイプの戦い方は、消耗を強いてくる。狭い場所でも器用に動けるから、余計にたちが悪い。焦れば焦っただけ、翻弄されてしまう。
(でもなあ、今のアタシはちんたらやってられねえんだよ)
極道の事務所に乗り込んで、五十人の人数と喧嘩をまいたのは、ただの酔狂ではない。
(理子)
奪還しに来たのは、同級生。このまま連中の手に落ちたままにされては、どうなるか分からない。
「おら来いよッ今さら腰が抜けたかッ
!」
「ッざけんなッ!」
やや雑に放たれた一撃をかいくぐって、凛も前へ出る。
(こいつらの弱点は足だ)
フットワークさえ使えなくしてしまえば、敵ではない。だから攻撃と防御を兼ねる起点である足か、またはその足運びを操る、胴を潰す。これが常道だ。
「馬鹿がッ!」
しかし、向こうも素人ではない。雑に放った一撃が実は誘い込みであると言うことも少なくない。目的に駆られ、焦っている今の凛にはそれが見えにくい。
やはり罠だ。凛が間合いを潰した瞬間、狙いをすました打ち下ろしの右が、凛の顔面を襲ってきたのだった。
「死ねやクソガキッ!」
そのまま貴志川は、凛のあごをぶち抜いてとどめをさしたと確信したろう。
しかしそれが甘かった。
「ぐあああっ!?」
次の瞬間。
めしっ、と嫌な音ともに壊れたのは、貴志川の拳の方だった。顔を殴られたのに、凛は無事だ。出際のカウンターをもらう一瞬の判断で、凛はその一撃を自ら顔面に受けることを覚悟したのだった。
しかし、受けたのは額だ。
人体で最も硬いとされる前額部の頭蓋骨は、そのまま凶器としても使える頑丈さを誇る。
喧嘩慣れしているとは言え、バンデージもせずに素拳でボクシングを使った貴志川の完全な仇になった。本来ボクサーは素手で殴れない。自分のパンチが強烈すぎて拳が保たないからだ。
ちなみにボクサーに最も多い怪我は、拳の骨折である。それらは大抵は接近戦での頭突きによって起こるものである。
「おいこらっ、どっちが腰抜けだァッ!?」
飛び上がって相手に組み付いた凛は、必殺の一撃を貴志川に叩き込む。思いっきり首でひねりを利かせてのヘッドバッドだ。
「ぐおああっ!?」
自分の拳を叩き壊した凛の頭蓋骨を喰らった貴志川は、白目を剥いて倒れた。脳震盪を起こした貴志川はもう二度と立ち上がってこないだろう。
(勝ったッ)
そう思った瞬間だ。
バツン!
鼓膜が破れそうなほどの衝撃音と共に、頭が思いきり反対方向へ振られ、意識が遠のいた。
まるでトラックにはねられたような衝撃だったが、ダメージで揺れているのは脳だけで、足腰はふらつきながらもまだ、そこにある。
岩のような分厚い張り手で、頭をぶっとばされたと気づくのにはかなりの時間が掛かった。
「てんめえッ……!」
やったのは猪原と言う体格のいい極道だ。こっちは身長は二メートル近くあるだろう。絵に描いたような相撲取りくずれのあんこ型の巨漢だ。
「好き放題しやがってメスガキがッ!ぶっ殺してやるッ!」
(やべえ)
一気に凛は瀕死のところまで追い詰められる。迫り来る圧力に抗う術は、そのときの凛には、いくら考えても思い付きそうになかった。




