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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.8 ~決死の迂回作戦、確かめ合った気持ち、車懸りの正体
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迫る松永勢に鬼の影?!決戦を前に伝えあった本当の気持ち、虎千代と真人は…?

突如として鞍馬山に満ちた長尾勢は、迅速に行動を開始した。

それはまだ、天候が回復しない辺りからだ。

突きつけられた松永弾正からの宣戦布告文に先ず真っ向から挑戦する返書をしたためたのは、直江景綱だった。文武両道でなる名将が書いたのは、明快な論旨で描かれた痛快とも言える挑戦状だった。

弾正が京都で悪逆を重ね将軍家を脅やかすのみならず、それがひいては自らの主君、三好長慶を裏切る義に悖る行為であると糾弾し、

「この上、是非を明らかにすることを望むなら、弓矢の沙汰にて」

黒白(こくびゃく)を決めようと言う躊躇のない宣戦布告だ。この辺り、僕はやはり直江状を彷彿とさせてしまう。直江状は景綱がのちに嫡子として迎えた山城守兼続やましろのかみかねつぐが、関ヶ原の合戦の折りに徳川家康に向けて書いたとされる宣戦布告状だ。後世に作られた贋物だと言う説もあるが、謀反の罪を糾弾してきた徳川家康に対し、堂々たる断罪状で応戦した見事さは、謙信以来の名家の面目を躍如するものだった。

景綱のそれも名将の名に恥じない、流麗な手並みと文章で描かれ、見事に松永勢を挑発することに成功した。

そしてそれに間髪を入れず、次の手を繰り出したのが柿崎景家だ。景家は鬼小島たち越後の精兵百名を率いると、景綱の手紙が届けられると同時に進撃し、鞍馬山付近を固める松永勢の関所や要害を焼き払った。その手際にこそ、まさに目を瞠る。

柿崎勢は早朝まだ日の昇らないうちや夜が更けてから出立し、急襲作戦で各所を大混乱に陥れると煙のように消え去ると言う神業のような作戦を連日繰り返した。それは急報を得た松永兵の援軍が現場に駆けつけたときには、すでに景家率いる陽動部隊は引き上げ、すでに次の陣所に襲いかかっていると言う手際の良さで、松永勢をさんざんに悩ませた。神出鬼没な作戦行動は、まるで熟練した夜盗を思わせた。

「畿内の兵は弱兵とは聞いたが、これほど生ぬるい連中とは思わんかったのう」

景家は戦場で捕えた捕虜をたっぷり脅した後に解放し、松永勢の動揺を深めることも、忘れていなかった。

「この首、しっかと憶えておけえい!柿崎景家じゃ。おいこらあっ、もっと、骨のある奴連れて来んかあいっ!」

鬼の化身のような景家と怪物級の迫力の鬼小島たちに凄まれれば、効果は抜群だ。

直江景綱も柿崎景家も、虎千代の亡父為景に薫陶を得たいわばベテランのいくさ人だ。虎千代の戦略構想を苦もなく実現に持っていく手並みは、やはり他の追随を許さない。

虎千代が想定していた陽動作戦は、二人の名将の参戦で目覚ましく進展しつつある。後は、本気になった松永勢が動き出すのを待つだけだ。決死隊をおさえつつ、虎千代は、じっと時を待っていた。


僕はその間、みづち屋を守るための工事を手伝っていた。

みづち屋は長尾勢の本営になるために連日、急ピッチで防護柵や塹壕などの要塞化が進められているのだ。もちろんこの状態では営業は出来ないので(もともと、この不穏な情勢下でお客さんが来るはずはないのだが)真菜瀬さんには無尽講社にも許可を取ってもらい、以前から了解を得ている。実際、それ以前にも新兵衛さんとこのえで、山あいの旅館を要塞にする準備はしっかりと進められてはいた。しかしそれを急速に、籠城向きの要塞に改造したのは、やはり直江景綱だった。

深い濠をうがった上に古壺を埋め泥水を流し込み、足止めの罠を築き、塀際には騎兵避けに丸太で組んだ逆茂木を設ける。山岳戦闘について越後勢が熟練したノウハウを持っているのは、上杉謙信が春日山の山頂に本拠地を設けたことからも想像がつく。景綱の指示でみづち屋は、軍兵を寄せ付けない山中の要塞と化していた。

「真人殿、精が出るな」

景綱は度々現われて、僕に話しかけてくれる。気安げな雰囲気の新兵衛さんと違って、景綱は、完全にえらい人の雰囲気を持つどちらかと言うと近寄りがたい風貌の人なのだが、これが意外と気さくなのだ。

「何とか真菜瀬さんには、迷惑をかけないようにしなきゃですね」

と、僕が言うと、

「然様。何より、姫さまが世話になった方々に迷惑をかけるわけにはいきませぬからな」

景綱は鷹揚に頷いていた。

作業を展開する庭では、柿崎景家率いる鬼小島をはじめとした陽動隊が出撃に備えている。大太刀を装備した力士衆は携帯した砥石で超重武器の手入れをし、鎧武者たちは小札を紐で結わえ、行軍の際の音が出ないよう隠密行動に気を使う。長尾家を代表する二将が参戦したここ数日で、戦況はめざましく動いている。

「いずれ、松永本隊が動くでしょう。それまでに我ら要害を設えねば」

景綱は追いすがってきた人足頭へ的確な指示を出しながら、僕に話しかけてくる。

「姫様は短兵急にことを進めるのが好きゆえ、九郎判官の話を持ち出されたが、史上、多勢に無勢を克服した名将がもう一人いた。今はその将のやるようにことを進めたいものです。かの将と言えば名は、ご存知かな」

やや意味ありげな視線で、景綱は僕を見る。僕を試したのだろう。想像のまま、僕は、答えを口にした。

楠正成(くすのきまさしげ)…のこと、でしょうか」

恐る恐る僕が答えると、景綱は切れ長の瞳を細め、目だけで笑った。

「ご明答。かの楠公(なんこう)をこそ手本と思わめ」

楠正成は南北朝時代の英雄だ。この人も鎌倉幕府の軍勢を(太平記の敵方三十万人は誇張だが万を超える軍勢はいたはずだ)それよりも遥かに少ない僅か五百人程度の軍兵で赤坂城に釘付けにした神業とも言える籠城戦術を駆使した伝説の名将だった。正成が駆使した籠城戦術は当時、奇想天外な策と言われたが、後世籠城兵が用いる攻撃戦術の骨格となった部分もあったりする。

「山野にはいかなる場所も連絡を密にし、ひとたび外敵あらばこれを分断し、襲撃しえる手はずを鞍馬山中にいくつも設けてありまする」

つまりは鞍馬山の中は、すでに景綱の張った罠だらけだと言うことだ。

「この山に籠もる我らこそ、作戦の要にござる。あたうる限りの敵を足留め、悩ませた後に講和へと道を開くことこそ、勝利の糸口でござろう」

知勇の名将と言われただけに、景綱の口調は昂ぶらず常に恬淡(てんたん)としたものだったが、自信に満ちていた。

「何度も申し上げるが、松永勢が本格的に動き出したときこそ、本格的な作戦の始動にござる。我ら全力を尽くして、姫さまが乾坤一擲の一撃をお待ち申し上げる所存にはござるのだが」

と、景綱はそこで言葉を切ると、意味ありげに僕を見た。

「勝機もさることながら、姫さまが心映えにいくさの帰趨がかかってござる。真人殿にはその辺、ご理解頂けるかな」

「は、はあ」

「くれぐれもそこは、頼みましたぞ」

景綱は仄めかすように言うと、後は黙って微笑を含んでいる。


景綱が言いたいことは分かる。虎千代と僕のことだ。

続々と思わぬ援軍があって、有耶無耶になりかけたが、虎千代は僕を留守居隊の方に加えると言ってきかないのだ。その辺りでは、このまま、ちょっと冷戦状態になりかけている。景綱が僕に念を押すように言ったのは、たぶん、僕たちの言い争いを一度、目の当たりにしてしまったせいだろう。

「じゃから、危険と言うておろうが」

と言う虎千代に、僕は何度も食い下がったのだ。

「何度も言ってるじゃないか。危険なのはどこにいても同じだし、僕だって虎千代の力になりたいんだ」

「駄目じゃと言うたら駄目じゃ」

虎千代は強情なことに、何度も首を振った。

「力になると言うのなれば、この景綱の部署で力を尽くせばよいではないか。さればこそ、我らも案ずることなく決死で動くことが出来るわ」

虎千代の言い分ももちろん分からなくもない。軍勢は膨らんだが、本隊を突く決死隊は少数精鋭であり、虎千代も含めて彼らは命を賭ける。もちろん、僕は武術では役には立たない。でもそれでも、今までのように何かの形で虎千代の力になりたかったし、もしものことがあれば虎千代の傍にいたかったのだ。

「虎千代は死ぬかも知れないと思って行くんだろ。そしたら、もしかしたらこれで最期になっちゃうかも知れないじゃないか。虎千代はもう僕に会えなくなってもいいの?」

「いや、その…それは…」

虎千代は目を泳がせて口籠った。

「い、いやっ、だから…ううううっ、だめだっ」

しかし次の瞬間にはまた、ぶんぶんと首を振って、

「まっ、真人、わたしの立場も理解してくれ。将たるものがそうそう、軍令をころころ変えるわけにはいかんのだ。ましてや、わっ、わたしの都合でそんな軍制を変更するなどと言うことがあっては皆にしめしと言うものがだな…」

と、虎千代は僕を上目遣いにみると、今度は景綱の方に視線を移した。

「かっ、景綱も黙っておらぬで何とか言わぬか。お前のところも真人がいなくなれば困るであろう」

景綱はその様子を腕を組んだまま、口元に微笑を含んで見ていたが、

「姫さま、御言葉にはござりまするが当方は真人殿ひとりがおらぬでも、それほど困りはしませぬが」

「うっ、裏切ったな景綱…」

思わぬ反撃を喰らい、虎千代は顔が真っ赤になったまま黙ってしまった。

「ほら、景綱さんもいいって言ってるじゃないか。どうしてもだめなの?」

「むっ、むう…」

と、ここまで追い詰めたのだが、ついに虎千代は、うん、と言わなかったのだ。


今までも何度か強情なやつだとは思ってたけど、今回はなんでそこまで意地を張ろうとするのか、さすがに理解できなかった。確かに決死隊と言う意味は分かるし、いざと言うときに僕と絢奈を安全なところへ逃がしてやりたいと言う気持ちは分かる。でもそれで、虎千代と二度と会えなくなるかも知れないと思うなんて、それこそやりきれなかった。

決死隊の中にはそもそも、黒姫も入っているのだ。僕だってこの京都で虎千代とともに戦ったと言う自覚があるし、それを最後まで遂げたい、ただそう思ってるだけなのに。

虎千代を説得しきれずに帰ったりしてみると、廊下では黒姫があらぬ妄想に耽っている。

「むっふふう、虎さま。決死の突撃、わたくしも腕が鳴りますですよお。そしてああああっ、今宵こそはわたくし、ついに虎さまからお情けを頂けるのではありませんか?ふっ、ふふう。この純潔を十七年間守り立ててきた甲斐がありましたですよお。お肌も髪もつやっつやに手入れしておきませぬとねえ。いやーここが、温泉宿でよかったですう。そうだ、今のうちにもうひとっ風呂」

「…よくそんなに一気にしゃべれるね」

「おっほう、真人さんではないですか。大和守様のところは首尾はいかがですか?真人さんには、しっかりとこのお宿を守って頂きませぬと!」

黒姫も、僕が虎千代をたびたび説得しようとしている姿を見ているのだ。僕が黒姫の垂れ流す妄想に突っ込みもせず押し黙っていると、

「きっ、気持ちは分かりますですよ。わたくしだって、真人さんには何度もお世話になりましたし、わたくし自身命だって助けてもらいましたですしねえ。得難い戦友と思ってますですよ」

「黒姫…」

「虎さまも強情なところがおありですから。ただ、今回の突撃は危険です。虎さまも十に一つの血路を開くお気持ちでおりますでしょう。さすがにその危険な役目を真人さんには負わせたくないのですよ」

さすがにちょっとこの黒姫の言葉にはじんときた。

「でもでも、何よりやっぱり虎さまのお情けを頂くのはわたくし、黒姫の役目だったと言うことですよ!ここはわたくしにつつがなく、初夜を遂げさせて下さいですよ。初めてだから優しく、いや、激しくもしてもらいたいわけですよ。それでまさか、開戦前夜に授かりものが出来てしまったら」

いや、ちょっと待て黒姫落ち着け。

「・・・まさか、赤ちゃんってどうやって作るか知ってるよね」

もしかして女性同士で子どもが出来ると思ってないだろうか。僕がその言葉を口にすると、疑問符どころか、黒姫は顔を真っ赤にして、

「あっ、赤ちゃ・・・って、まっ、真人さんそれを、わたくしの口から言わせるおつもりですかっ」

もうっ、と黒姫に肘で突かれた。色んな意味で痛い。ああもう、戻ってこれないようだ。

「そうですよっ、いくさの前に授かり物を頂けるなんてわたくしったらなんて幸せな軒猿衆なのでしょう。あああっ、お慕い申しあげております、虎さまっ、黒姫、また身体を清めに参りますう♪」

とりあえず、いつも通り妄想全開な黒姫なのだった。


松永弾正が動くのは、一体いつのことになるのだろう。

こうなったら一刻も早く、虎千代と話を決めなくちゃ置いてけぼりにされる。

虎千代たちもそのつもりで、息せき切って準備を進めていた。

しかし予想に反して、松永勢は容易に動かなかったのだ。

面妖(みょう)だぜ」

柿崎景家率いる力士衆たちも、一様に首を傾げていたが、僕には敵が陽動作戦に乗ってこない理由がすぐにぴんと来た。

血震丸だ。

あの策謀の鬼が弾正に与しているせいだ。権謀術数に長けたあの男は、天王山で菊童丸を奪還しようと、虎千代が迂回作戦をとったときも、その進路を確実に読み切って待ち伏せしていたではないか。

「やはり、あの男が。おのれ、我を焦らして待ち受ける肚か」

虎千代もすぐに気づいたのか、悔しそうに歯噛みをしていたが、と言ってうかつに作戦を変えるわけにもいかない。虎千代は更なる挑発を景家に命じたが、松永勢は不気味に静まり返って追撃の兵も実にやる気がなくなってきた。

「こころなしか敵の様子、にわかに変じたと見えますな」

虎千代に進言したのは山の防衛に携わる直江景綱だった。

「地図をご覧下され」

と、景綱は虎千代の前に鞍馬山付近の地図を広げると、そこに点々と朱筆を入れていった。どうやらそれは、景家たちが挑発行動のために襲った砦や関所の分布を表しているようだ。景綱はさらにその点を結び、地図上に歪んだ多角形の不可思議な図形を出現させた。それは複雑に広がる蜘蛛の巣のように見えた。

「これは…」

「兵站線が伸びております。恐らくはそれとは気づかぬように、焼き働きをなさるたびに景家殿は外へ外へ誘い出されているのではありますまいか」

直江景綱の言葉に、柿崎景家は尖った髭を震わせて、いきり立った。

「景綱っ、ぬしゃわしらを侮るか」

「大和守様、言いがかりですぜ。景家の旦那に限って、そんなへまするはずがねえでしょう」

鬼小島も化け物のような巨体を揺すぶって、景綱に食ってかかる。

「泉州殿に確かに、落ち度はありませぬ。問題は敵が自らの落ち度を、利に引き換えようとしていること。これこそ、恐ろしきと思わめ」

なるほど、と、端で聞いていて僕は思った。これと似たような言葉を、ちょうど新兵衛さんが言っていたのだ。策略の上手い者ほど、悪手を良手に変える、すなわち、ピンチと見せてそれを反撃のチャンスへと繋げることが上手いと言うことだ。確かにそれこそまさに、血震丸の策略の本領だった。

「真人」

と、虎千代がふいに僕の名前を呼んだ。

「どう思う。この上、景家に周囲で挑発を続けさせるか。それとも一気に、松永本隊を叩くか、いずれが上策か」

僕は、はたと黙り込んだ。血震丸がいて、僕たちの出方を把握している以上、どちらも良策とは言えない。

虎千代も即座に、僕と同じことを考えただろう。自分でも愚問を口にしたとでも言うように、小さくかぶりを振ると、

「景家、無理をして出過ぎぬよう、注意を払え。機を見てすぐに本隊を叩く手筈を整えるゆえ。特に黒姫と連携を密にすべし」

「しょうがねえ」

怒りで目を剥いていた景家だったが、虎千代の一言でようやく冷静になったようだ。

「他ならねえお嬢のためだ。弥太郎、自重するぞ。だがよ、いくさは生き物だ。油のひと差しで一気に燃え上がることもあるぜ。そこは覚悟してもらわねえとな」

景綱は、景家に向かって小さく頷いた。

「この景綱、泉州殿と謀って早々に次なる策を整えますゆえ、姫さまもくれぐれも逸られることなきよう」

「分かっておる」

虎千代は大きく息を吐いたが、彼女自身もかなり焦ってはいたのだ。

それは、僕自身にも痛いほど分かった。


血震丸が再び、どんな罠を用意してくるか。

材料が少ないだけに、想像がつかない。想像は、待ちうける相手の姿をもっと大きく、不気味に変貌させてしまう。それこそが、血震丸の術中なのかも知れない。そう思ってもだ。あの男のやり方を、長尾家と虎千代への執念を、すでに実際に目にしているだけ、恐怖は大きく育ってしまう。部屋へ戻ったはいいものの、僕はしばし悶々として眠れなかった。

それにしても、寒い晩だ。布団の裾から、身体の芯にびん、と響く冷気が這い上ってくるのがはっきりと分かる。

格子窓の向こうに、かすかな粉雪がちらつき始めている。心なしか外が明るかった。だがまだ、降り積もる雪のせいなどではないだろう。柿崎景家は野陣を敷き、この夜も出撃を予定していたし、みづち屋には直江景綱が昼夜を問わずに厳戒態勢を整えている。目を閉じると、どこかで松明の熾る気配がしていた。

目を閉じても、眠りは降りては来ない。外の気配を感じながら薄いまどろみにたゆたい、気の休まらない時間を過ごしていた。

異変が起きたのは、それからかなり経ってからのことだ。たぶん真夜中になっていたに違いない。足元の襖が音もなく開き、足音を殺して何者かが這入ってきたのだ。

まるで日向を翳が隠すようにその気配は、いつの間にか僕の足もとに忍び寄ってきた。僕がそれに気づいたときには布団の裾がかすかに上げられ、横たわる僕の身体にほとんどぴたりと何かが寄り添ってきた後だった。僕の肩辺りまでのそれは、外の夜気で冷えたひんやりとした感触と、うっすらと甘い桃の葉の匂いをまとっているのが分かった。寒いのか、それがもっと身体を擦り寄せてくる。すると僕の左手にさらりと房のようなものが垂れかかった。これは、たぶん髪の毛だ。

うう、まさかとは思うけどこれは。

「真人」

わっ、と、僕は薄闇の中で大きな声を上げそうになった。夢じゃない。やっぱり、虎千代だ。びっくりした。

「な、何やってるんだよ」

「う…その、寝床が寂しいゆえ」

自分でやっておいて虎千代は、目を白黒させている。

「だめだったか?」

「い、いやあのその…あのね?」

だめじゃ決してない、いやいや、だけど、これはさすがにまずいって。

「突然、布団の中に入って来られても困るよ。その、今さらだけど僕たち、未婚だし、十八禁だし、何より同じ年の男女なわけで」

って、僕は何を言ってるんだ。

まさか寝てるところに、入ってくるなんて。最近また、スキンシップを求めてくるとは思ったけど。女の子の方から。それって大胆過ぎないか。

「とっ、とりあえず話があるなら訊くよ」

と、僕が起き上がろうとすると、

「まっ、待て起き上がるな。寒いではないか」

布団の端を掴んで虎千代が抵抗してくる。いや確かに今、布団から出たら寒いけど。でもぐいぐい、身体を押しつけてこられると余計困る。正直、僕も冷静でいられなかった。

「眠れないの?」

動揺を隠しながら僕が訊くと、うんうん、と、虎千代は一生懸命頷く。彼女にしても、いっぱいいっぱいのようだ。

「まさか、いくさのことで」

「い、いやそれは違う」

虎千代は僕の肩辺りでほどけた長い髪を揺らして、言った。

「しっ、新兵衛がな、わたしに話してくれてな。その、おのこの気性と言うものを。いくさの前は気が高ぶるゆえ、おのこは特に女子を求めるものと。それでその、突如、寝所に這うことがあるそうな」

うん、それはいわゆる夜這いと言うものだが。

「ここ何日か、待っていたのだぞ。お前がその、よ、夜這うてくるかと」

うう、黒姫だけじゃない、ここにも妄想が暴走しているやつがいた。

「虎千代の寝所に入れるわけないだろ」

もちろんそれは色んな意味でだ。

「う、うむ。よう、考えてみれば、我が寝所には常に宿直(とのい)の兵が詰めているしな。あやつらの目に触れず、中へ入るのは難しかろう。それゆえ今宵は意を決して、女子のわたしの方から」

ここでも奇襲作戦を計画していたらしい。これは本当に、不意討ちだった。

「…虎千代、どうでもいいけど、寝床から急にいなくなったら大騒ぎになるんじゃ」

「ばれてはいないはずだ。幼き時より、こ、こう言うのは得意ゆえ」

お付きの人たちの苦労が偲ばれる。

しかしこれは、困ると言うか、今までで一番どきどきした。僕は仰向けで眠っていたのだが、ちょうど布団の左側に虎千代の小さな身体が入ってきたのだ。しかも一人用の布団に二人入っているために布団の端から空気が入ってくる。虎千代が寒くないようにと会話の都合上、僕は少し身体をずらして向き合う姿勢になるわけで。うう、女の子ってなんでこんなにいい匂いがするんだろ。

寝る時はやっぱり髪の毛をほどくらしく、虎千代はいつものポニーテールじゃない。白い寝間着でまた、別の印象だ。さっきは外気で身体が冷えていたのがだんだん温まってきて、すり寄ってくる柔らかい身体の気配がより強く感じられる。

「一度、こうしてみたかったのだ。一人で寝ていると、色々と考えてしまう。このまま、宵の闇に溶けて、お前に会えなくなってしまうのではないか、とかな」

「まさか」

と、僕が微笑んだのを虎千代は、切なそうな顔で見上げた。

「何度も言うたであろう。朝、目覚めるのが物憂いのだ。こうして時を過ぐれば、いつか我が死ぬか、お前が未来に帰ってしまうかして、このまま会えなくなってしまうかも知れぬと思う。怖くてたまらないのだ」

そんな心配しなくても、などとは決して言えなかった。確かに虎千代は毎日、修羅場をくぐっている。いつ死ぬか分からない局面に僕も何度も立ち合ってきた。虎千代はこれからも何度も、白刃の下をくぐるのだ。

「そう言えば、言っていなかったな。お前たちの世界では、その、はっきりと言うのであろう」

なにを、と問い返す前に、虎千代は言った。

「わたしは、真人が好き」

本当にどきっとしてしまう。いくさ場では数千の軍兵を従え、自身も達人級の剣腕を発揮する普段の姿とは物凄いギャップがあるのだが、それが僕にしか見せない顔なのかな、と思うと息が詰まりそうになる。好き。その一言で薄い紙にじんわりと焼け焦げが広がるように、僕の胸の中にじりじりと疼く鼓動が広がっていく。虎千代に思われて、僕はこんなに幸せな、温かい気持ちにさせられるのに。

「お前は今、どう思っているのだ?」

何気なくつい、訊いてしまってから虎千代は切なげな顔に戻った。僕が言葉に詰まるのを、何度も見ていてそれをまた見たくなかったからだろう。

「僕は」

「待て。やっぱり、言わなくていい。これ以上何も言うな。ただ」

頼む、と虎千代は言った。

「今晩はこのままでいいか」

僕が頷くと、虎千代は薄闇の中で暖かな息をつき、小さな頭を寄せてきた。

こんなに素直に気持ちをぶつけてきてくれるのに僕はまだ、虎千代の気持ちにきちんと応えられてはいない。まだ本当の気持ちを話せていないのだ。そしてそれが彼女を、毎日不安にさせるのだ。

そのかすかな寝息を聞きながら、僕の考えは堂々巡りした。

そうして結局、僕は寝ないで悶々として朝まで過ごすことになった。


次の日から、少し空が晴れた。

するとそれを待っていたように、松永勢が本格的な攻勢を始めた。鞍馬山の取り囲む陣所には再び兵が配置され、山頂の僕たちを追い詰めるべくじわじわと、包囲網を狭めてくるようになった。そんな中、ついに、松永勢の本隊が動き出したとの報が僕たちの元に入った。

本隊の軍勢は、三好家の三千人と言う。

蔦の定紋を入れた揃いの具足に、番槍(ばんそう)(支給品の槍)を装備した槍隊を抱え、鉄砲を備えている隊もあるそうだ。この軍勢が一気に動き、山上の僕たちを取り囲むべく京都から動き出したと言う情報を黒姫が掴んだのは、久し振りの冬晴れが見えたその朝だったのだ。

「ようやく痺れを切らしおったか」

景家たち力士衆は勇み返り、一気に色めきたった。

「我らも出ねばなるまい」

虎千代も出撃の準備を整えた。

決死隊は、大きく山路を迂回する必要がある。松永勢に見つからずに、山頂を抜け出すことが何より第一の関門だ。移動は真夜中、柿崎景家率いる陽動部隊が前線を掻き乱し、囮になっている最中に行うことになっている。虎千代たちは昼間十分睡眠を取り、夜に備えていた。起床は夕暮れだった。

僕は装備を整えると虎千代の馬を曳き、彼女が支度を整えて出てくるのを待った。そうこうしているうちに紫色の糸で威した黒い胴丸に外套を羽織り、太刀を佩いた虎千代の姿を見つけると、僕は大きな声を出した。

「虎千代」

「おっ、お前、連れて行かぬと言うたではないか」

虎千代はあの晩から、僕に会わないようにしていたため、あたふたしている。実はあの朝も、うんと言いそうになったのだ。運がいいことに、そこには僕たちだけしかいなかった。最後のチャンスだ。僕は、意を決して考えたことを話しだした。

「僕も、行くよ」

「だめだ、危険すぎる」

「何度も話しただろ。そのことは十分、分かってて、でも行くんだ」

もう、細かな理由をつける必要はなかった。ただ素直に、虎千代に気持ちを伝えることにした。

「虎千代の傍にいたい。ちゃんと近くで、虎千代の力になりたい。だって」

と、僕はあの夜に、僕の答えを聞けずに言い淀んだときと同じ、表情の虎千代に向かって言った。

「僕も、虎千代のことが好きだから」

「まっ…真人っ」

言ってしまった。ついにだ。

僕は初めて見たときのように、彼女の姿を見た。僕の目の前にいる、小さな女の子。

意地っ張りで我がままで、でも真っ直ぐでいじましい。石清水が落ちる滝に濡れて煙るように、澄んだ色の黒い髪に、切れ長で鋭いけど温かい光を宿した瞳、小さなあごに一つまみしてつけられたような壊れ物のように淡い形と色をした唇。重い具足に包まれた小さな身体が伝えてきた、体温や鼓動。たぶんそのすべてが、僕のもう、譲りがたい場所の中に占められてしまっていた。だからこそ、僕は虎千代の力になりにその傍へ行くのだ。それが今、一番僕の中で素直で強い、唯一の気持ちだ。

「虎千代、行こう」

と、僕が小豆長光を差し出すと、何も言わずに虎千代はそれを腰に挿し、替え太刀として今佩いていた太刀を僕に預けた。そうして僕が曳いてきた馬に乗り、集合地点へ向かう。僕も虎千代に続いて、自分の馬に乗った。

こうして僕は虎千代の決死隊に何とか土壇場で加わることが出来たのだ。

「ずっ、ずるいではないか。こんな時に言うなぞ、ふっ、ふふふ不意打ちぞ」

これ以上ないほど顔を真っ赤にした虎千代は声を上擦らせて、僕に抗議した。

「この前、虎千代だって、いきなり僕の寝てるところに入ってきて言ったじゃないか。あれだってびっくりしたんだからな」

僕は悪戯っぽく言い返しておいた。

好きと言う言葉は不思議だ。

想っていても口にしないと、その本当の意味は分からない。そこには存在しないはずの言葉が、口にした途端、まるではっきりとそこに見えるもののように存在を主張してくる。雲のように危うげでいるのが気持ちなのに、それが心強い何かのように胸の底に根を張る。色々あったけど、そう言えばあの晩が初めてだ。虎千代に好きだ、と言われた言葉が、僕の中の何かを確実に変えたのだ。もともとあったけど、形として存在しなかった気持ち。それは自分自身にしか、確認出来ない本当の気持ちだ。

虎千代の気持ちに応えたことに、僕はまったく後悔はなかった。

そしてまた一緒に、運命を共に出来ることも。

それが恐ろしく危険な、もっとも生還しがたい死への道だと知らずに、このときの僕は心なしか浮かれていた。虎千代もそわそわしていたせいか、暗雲が立ち籠めていたことに気づいてはいない様子だった。

山の端に陽が落ちて再び、夜の帳が落ちる。

惨憺たる、本隊襲撃作戦がその幕を開けた。


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