無謀ないくさ!10倍の大軍を前に虎千代と真人は…?
虎千代の元に、松永弾正から弾劾状が届いたのはそれからほどなくしてのことだった。書状の内容は畿内の政情に無遠慮に介入を行った虎千代の行動を詰るもので、
「恥じ知らず、数数慮外の沙汰限りなし」
と、一方的に虎千代を非難し、その上で、
一、御曹司菊童丸の身柄
一、悪逆の大罪人、童子切煉介の首
以上を速やかに引き渡すべし、と言う無法極まりないものだった。
「い、言うに事欠いてこれはなっ、なんつうお手紙ですかっ!弾正の野郎、わたくしの虎さまにこのような無礼な書状を送りつけやがるとは許せませんですよおっ」
憤慨の余り、書状を受け取った黒姫も、建前の敬語と本音の喋り方がばらばらだ。
「お嬢、こいつはいよいよ、弾正とやるしかねえですよ」
「ぜひぜひ一戦やりますですよっ」
「うむ、この上は是非もあるまい」
とは言いつつも虎千代は書状に目を通しつつ、激情を容易には見せない。
僕には虎千代が抱える苦痛も、うすうす察してはいた。格好良く宣戦布告を受けるのはいいのだが、問題は、この鞍馬山に籠もる長尾勢と、京都に充満する松永勢の彼我の差だ。天王山の戦闘において、すでに松永勢は虎千代の三倍近い兵力を、自前で揃えていた。それから武力を以て京を席捲すると、それに便乗しようとする者が従軍し兵力はさらに膨れ上がり、現在では動員兵力は一万人以上の大軍になりつつある。
対する虎千代の兵は、どう掻き集めてもこの十分の一に満たないだろう。問題はこの千人ほどの兵数が減りこそすれ、決して増えることはないと言うことだ。
確かに以前から京都で募兵活動を行うべきだと言う案も出ていた。しかし、練度の低い足軽たちを募集していたずらに兵力を膨らませることは、維持する資金が大変な割に無駄が多いため積極的に行うことはなかったのだ。そもそもこの京都に在住する長尾家の勢力それ自体が暫定的なものであり、軍隊として長期の駐在が難しいことからも、京都で兵力を膨らませることは現実的とは言えなかった。
言うまでもなく松永勢が武力の恐怖をもって京洛を支配下に治めている今さら募兵活動を行ったとしても、兵は容易に集まらないだろう。どころかそんな兵を集めたところで、土壇場で逃散されれば、それこそなんの意味もなさない。
だがいくらいくさの神様と言われるようになる虎千代と、戦国最強の長尾勢でも、十倍の兵力を相手に戦って、勝てる方法があるとは思えない。
決死のいくさに逸り立つ鬼小島や黒姫の士気を鼓舞しながらも、大将の虎千代はずっとそれを危惧して、人知れず深い悩みの中に入っているように、僕には見えたのだ。
このところ連日、降りしきる霙に梢が騒いでいる。不幸中の幸いと言うべきか、煉介さんが亡くなった日から、にわかに空が暗くなり打って変わって天候が思わしくないのだ。
気象学の研究によると、戦国時代の気温と言うものは、全体的に低い上にひどく気まぐれなのだと言う。この天候ではさすがに王都の松永勢も出陣はおぼつかないようだ。食糧の確保と体力温存が生命線になる冬は、よほどのことがない限りいくさはしないのが当時の原則なのだ。
戦端を開くに、与えられた時間は僅かながらも、その点ではまだ、虎千代は天運に恵まれていると言えた。
それにしても、この鞍馬山は静かだ。
深山に包まれて暮らしていると、僕もふと、極限状態だった下界の空気から寸断されたように感じてしまう。あの張りつめた空気がまるで十年も昔のことのように、ここは悠久の深い静寂が靄のようにわだかまる秘境だ。
今度のいくさを危惧する虎千代の物思いが判る気がするのも、この一人考えに耽るしかやる方ないような、自然環境のせいとも言えなくもない。
それにしてもみづち屋の野趣溢れる大露天風呂には困った。この前と違いしばらく逗留する機会があるので、僕は暇さえあれば温泉に浸かるようになってしまったのだ。虎千代も煉介さんの戦いの傷が癒えきらないらしく、湯治に足しげく通っていると言うのだが、寒い日は温かいお湯が尚更恋しくなる。
その日、僕がまだ夕方早いうちに風呂を使おうとすると、脱衣所の入り口でなんと虎千代と出喰わしてしまった。当時の湯には男女の区別がないため、脱衣所も一緒くただ。比率多い女性陣に配慮して僕は女性の入りそうな時間帯からずらして入っていたのだが、夕食前のこの時間はまさか、人が入ってくるとは思っていなかったのだ。
「ごめん。先入って。僕、後にするから」
「まっ、待て」
あわてて虎千代は、脱衣籠を持った僕の手を掴んだ。
「よいではないかっ。わっ、わたしは構わぬ」
「僕が構うんだってば。言っただろ、混浴はだめだって」
「以前にも一緒に入ったのにか」
「あ、あれは不可抗力と言うか、偶然」
て、言うかお前が勝手に入ってきたんだろ。
「どうしても、わたしとは嫌なのか?」
「うっ」
そう言う上目遣いは反則だ。前回まで、すっごい殺気を放って軍兵をたじろがせた人間と同じとは思えない。
「最近、会話が減ったではないか。一日、目を合わせる回数も少なくなったし」
「そ、そうかな」
やっぱり女の子って、そう言うところを気にするものなのか。
「かと言ってその、一緒にお風呂はまずいと思うんだけど」
言いかけて虎千代が本当に泣きそうな顔になったので、僕はつい言葉に詰まった。そんな顔されたら、さすがに無下に断れない。でも積極的に一緒に入ろう、とは言えないだろ。
「じゃあ、先に入ってるから。後ろから見えないように入ってくれば」
「う、うむ」
と、虎千代は頷いた。
「では先に脱いで待っていてくれ。わたしは後で行く」
うん、と言いつつ、服を脱ぎかけて僕は、はっと気がついた。
「ここで一緒に着替える気?」
「うん?ああ、とりあえずわたしも服だけは脱いでおこうかと思うたのだが」
そしたら何の意味もないじゃないか。
「…どっか別の場所で着替えてくるね」
結局僕は虎千代の目を避け、物影の藪で服を脱ぐことにした。
幸いなのは寒いせいか、湯船からひっきりなしに湯気が立っていて、視界が悪いことだ。これなら虎千代が着物を脱いで入ってきたとしても、問題はないだろう。
しかしどこもかしこも真っ白だ。地上は湯気に覆われているし、空は薄いシーツを張ったような曇天。かすかに霙がちらついている。お湯は身体の芯に沁みいるほど温かいので、裸でも平気なのだが、洗い場の辺りはかなり寒いはずだ。
「よ、よいか」
と、虎千代の声がした。僕が返事すると乳白色の靄の向こうに血色のいい肌色の気配が漂った。うう、当たり前だけど本当に裸になって入ってきた。
「もう怪我はいいの?」
ふんわりとした女の子の柔らかい身体の気配がする。
落ち着かない気分をどうにかしようと、僕は聞いてみた。
「ああ、さし当たっては問題ないだろう。この鞍馬の湯が大分よくしてくれるゆえ」
ちゃぷ、と言う湯音をさせて虎千代が答えた。
「わたしのことより、心配なのはお前の方だ」
「え?」
「大分、むごいことをさせてしまったのでな」
沈んだ声で虎千代が言うのは、あの晩の煉介さんのことだろう。
「ううん、気にしてないよ。あの場には虎千代と僕しかいなかったし、何しろ無我夢中だったしさ。それに、煉介さんのことだろ。…そこは、しっかりやらなきゃさ」
「そうか」
と、つぶやいたきり、虎千代はしばらく無言になった。確かにあの晩、客観的に見れば、僕は現代に生きていればほぼ体験し得ないものすごいことをしたのかも知れない。たぶんあのとき少しでも躊躇していたのなら、僕はあれを成し遂げられなかったと思う。
「正直言って、やっと実感が出たところなんだ。煉介さんがいなくなったこと」
僕たちが煉介さんの首を持ち帰ってほどなく、黒姫率いる軒猿衆が僕が埋めた胴体の回収に何とか成功した。そうして繋ぎ合わされた遺体が荼毘に付されたのは、つい最近のことだった。煉介さんの身体が跡形もなく灰になってしまったのを見てようやく、僕にも、あのときにやはり、煉介さんは亡くなったのだと言う本当の実感が湧いてきたのだ。目の前でその死を目撃したと言うのに、まったく不思議なものだ。
遺灰は骨壺に入れ、真菜瀬さんが京都へ帰るときに正式に埋葬するようだ。真菜瀬さんはあれから、煉介さんの遺体が戻った時も、火葬の最中も涙を見せることがなかった。煉介さんの死を初めて知り、ショックを受けていた絢奈に寄り添ってずっと慰めてくれていたくらいだ。
「あいつはもう、死ぬかも、って前からずっと思ってたからさ」
と、真菜瀬さんは虎千代にも言っていた。
何より問題は、凛丸たちのことだ。事情はどうあれ、結果的に虎千代は、煉介さんを斬る形になった。遺体が届いた時から、凛丸とは一言も、言葉を交わしてはいない。ことの顛末は真菜瀬さんが話してくれてはいるようだが、僕からもどんな言葉をかければいいのか、未だに分からない。それは虎千代にとっては、僕と同じか、いやそれ以上に、難しいことだったに違いない。
「いくさ場の死は、一定(必然的なもの)なれど、こればかりは遣り切れぬな」
湯気の向こうで虎千代は、切なげに顔をしかめていると思う。
「なんて言うかさ、虎千代は間違ったことはしてないと僕は思うよ」
「そうか。そう、思わねばならんな」
「思わなくちゃ、じゃなくて実際そうなんだって」
ざぶっ、と湯音がしたが、もしかしたら湯で顔を拭ったりしたのかも知れない。この気候で外に出ている顔だけが、冷えて強張ってくるのだ。僕はゆらゆらと揺れる乳白色の湯船を眺めながら、それからの虎千代の言葉を待った。
「そしてまだ、やらなくてはならないこともある」
そうだ。僕たちにはまだ、やらなくてはならないことが沢山あるのだ。
「まず、何より大事なのは菊童丸のことだね」
そうだな、と虎千代も頷いた。
菊童丸を将軍即位のため、朽木谷に送り届けることは急務なのだが、それにはやはり松永勢が厳戒態勢を引く京都を通らねばならない。少人数での極秘行も考えるには考えたのだが、やはり危険が大きすぎる。黒姫たちの偵察によれば、弾正は京都市内のみならず、郊外の要所にも抜かりなく関所を設け、菊童丸が鞍馬山を出ることを警戒していた。現状では僕たちは菊童丸を擁したまま、鞍馬山に閉じ込められる形になっており、このまま手を打たなければ、間もなく弾正の大軍に揉み潰されるのを待つだけ、と言う窮状に追い詰められつつあった。
「黒姫の観測では、この天候が回復し次第、弾正が開戦を命じるやも知れぬと」
と、虎千代は幔幕に覆われたような曇天の空を眺めたのだろう、沈鬱な響きがそれには籠もっていた。
「敵勢はおびただしく、我らは数では勝ち目がない。色々思案してはいるのだが」
虎千代の言葉が重々しいのは、その思案がつきかねているせいだろう。敵に倍する人数を集めた方が勝負を制すると言うのは、兵法の初歩的な常識だ。その原則をおして多勢に無勢の勝負を仕掛けるのは、ほとんど命がけの大博打だ。
「そう言えば、ここ鞍馬は、判官九郎が隠れていたところであったな」
「判官九郎?」
「源義経のことよ」
虎千代が言い直したので、それでようやくぴんと来た。確かにこの鞍馬山は源義経が少年時代を過ごした潜伏の地だった。平清盛に敗れた父、源義朝の敵討ちと源氏の再興を願った伝説の名将は、この鞍馬山で天狗から兵法を学んだとされる。
「政の上手では決してなかったが、義経とその郎党どものいくさぶりは出色であっただろう。我も幼年の砌は、その武功譚に胸熱くしたものよ」
虎千代はやや熱っぽい口調で言った。
義経は、反っ歯で色白の小男だったと言われている。しかし、そのひ弱な外見に似ず、電撃的な作戦を決行し、大勢の平氏に対して記録的な勝利を重ね、ついには壇ノ浦でとどめを刺した。義経の勝因は、独自の騎馬軍団を形成し、常に機動力で平氏を圧倒したところにあったと思われる。その代表的な例がやはり、一ノ谷合戦だろう。
義経は七十騎余りの小勢で、もっとも意外な場所から奇襲作戦を敢行し、平氏を一気に敗走させたのだ。義経が選んだのは、平家の軍勢の背後の断崖絶壁であり、この奇襲作戦は、世に『鵯越えの逆落とし』と呼ばれるようになった。このとき敗走した平氏は、なんと義経の軍勢の数十倍の大軍だったとされる。
上杉謙信が、義経を私淑した、と言う話はよく伝わっている。その人間的な性質はともかく、電撃的な機動力で一気に敵の急所を突く、と言うやり方には、確かに類似する部分が多いかも知れない。
「奇襲作戦を考えてるの?」
僕はずばり聞いた。
「ああ、それしかやりようはない、とは思うのだが」
しかしまだ、虎千代の言葉は重く、
「黒姫は軒猿衆を率いて京へたびたび出ているが弾正の警戒も厳しく、この鞍馬山から軍勢を脱すること自体にも、かなりの難があるだろうと言う見方だ」
確かに奇襲作戦を行うのはかなり難しい、と僕も思う。さっき一ノ谷合戦の話が出たが義経のときとは状況が違う。弾正は虎千代が鞍馬山にいると言うことを知り、ほぼ完全な厳戒態勢を引いてしまっている。虎千代のどのような動きも、弾正は見逃さないだろう。うかつに行動できる局面ではないのだ。
「かの義経が一ノ谷で合戦を行った折も、陽動作戦を行った。平家の目を前面の軍勢に惹きつけておいて、義経は七十騎の決死隊を割いたのだ。弾正の目を他に移すことが出来れば、確かにやってやれぬこともないのだが」
ちなみに義経がやったのは、中入りと言われる作戦なのだが、陽動を行った部隊もかなりの人数を必要としていた。そもそもが敵兵の十分の一程度の小勢でさらに隊を割って、囮となるはずの部隊が、まともに戦えるのか。少ない兵をさらに分断すると言うのは、元来、兵法の常識上、ほとんど自殺行為なのだ。敵に少数部隊を各個撃破する機会を与えるようなものだ。まるで生卵を岩盤に投げつけるような無謀な作戦になりうる。
何にしても今の兵数では、何をやっても無謀でしかない。
その危険性を虎千代は十分理解できているからこそ、奇襲を考えつつも、いまいち言葉が重いのだろう。
何か僕に、出来ることはないのだろうか。血震丸のときのように、何かいい、考え方が浮かべば。格子戸を開け夜風を浴びながら、しばらく僕はひとり考えていた。
無謀とは言ったが、もっとも、虎千代の言う奇襲作戦はあながち間違ってはいないと思う。多勢に無勢のこの状況下で唯一取れる打開策がそれだろう。この作戦に一つの希望的観測があるとするならば、人数の膨れ上がった弾正の軍勢のほとんどは、戦果に便乗した雇いの足軽兵であると言うことだ。極論を言えば一万人の兵力は見せかけの人数で、全軍が弾正の意のままに動くと言うものではない。戦況によってはいくらでも変わり得るところに弱みがあるはずだ。
「いくさは本気で戦える人数が、何人いるかだ」
それがいくさは人数と言うことなのだ、と言っていたのは、煉介さんだった。問題は数を恃んだ兵を、どれだけ混乱させ、戦意を喪失させるか。これから採るべき作戦の要諦は何よりそこにあるのだ。
僕は寝転がって自分のメモ帳を広げながら、自分の知りうる限りの戦史の知識を思い返そうとした。
現場指揮官の面がある虎千代はあまり言わなかったが、奇襲作戦の成否を左右するのは、事前の調略や事後の外交なのだ。そこを上手く考える必要がある。
源義経のように虎千代は敵勢に攻め込む方を考えたが、僕が思い当たったのは、ある意味では守り勝つ策略である。大勢の侵攻に少数部隊で一撃を与えておいて、緒戦の勝利を維持したまま、戦線を収拾する。これが上手かったのは、同時代の戦国大名を見渡してみれば、やはり甲斐の武田信玄に尽きる。
山間の甲斐は、伝統的に他国の侵略を阻む戦略を育んできた。信玄は信濃に侵攻するようになって謙信と敵対したが、本来の敵は駿河の今川氏と相模の北条氏だった。この二国は父、信虎の代から、拮抗する力関係の間柄だった。
侵入してくる大軍に対して、信玄がとったのはいわゆるゲリラ戦術だ。狭い山間で敵の兵力を分断させ、百足組と言われる特殊部隊を駆使しつつ、朝に夕に、奇策を用いて混乱を誘う。捕虜を晒し首にしたりするなど、戦意を喪わせる作戦も頻繁に行われた。しかし何より信玄の優れていたのは、事後の外交である。
大軍を一旦押し返した信玄は今度は大国同士の力関係を利用し、戦線の収拾を図るのだ。北条勢が攻めてきたのなら今川氏に働きかけ、二度目の侵攻を食い止める。今川勢が動き出したのなら北条氏を使って牽制し、その動きを封じ込める。それでこそ国力で言えば信玄の国は、この二国には劣っていたにも関わらず、互していくことが出来たのだ。
信玄の強さの秘密は、戦術と外交を駆使したその独特の政治感覚にあったと言える。
京都で荒れ狂う弾正も、その実、微妙な力関係の中にいる。彼の主君、三好長慶が将軍家との無用の争いを好んでいないのは、すでに判っていることだ。弾正としても一度諌止された将軍家の争いに加担していることが、あまり公になってはまずいに違いない。虎千代が一万の弾正の軍勢に対して一度でも、守り勝てば、その隙に長慶を周旋し一気に弾正の動きを封じ込めることが出来るはずなのだ。
長慶は弾正に京を任せ、各地に転戦している状態だ。どうにか渡りがつけば、守り勝つ作戦は一応のめどがつくことになる。
でも問題はそれまでにどうやって、僕たちが弾正の猛攻に持ち堪えるかだ。どう考えてもこの小勢で勝つのはかなりの無理がある。それは虎千代たちのような実戦のプロが考えていて、思案が浮かばないのだ。僕みたいな素人考えは実際の戦闘では、さすがに通用はしないのかも知れない。
でも、ここで諦めたら死ぬしかないのだ。僕だって死力を振り絞って考えなきゃ。
ああでもないこうでもないと迷いながら廊下を歩いていると、角で真菜瀬さんとぶつかりそうになってしまった。危なかった。いつも忙しく立ち働いている真菜瀬さんは珍しく手ぶらだったから良かったものを、御膳でも抱えてたら大惨事になるところだ。
「ご、ごめんなさい」
「あっ、待って真人くん」
僕が手短に謝って去ろうとすると、真菜瀬さんは急に僕を呼びとめた。
「大丈夫?考えながら歩いてると、柱にぶつかっちゃうよ」
「は、はい」
それはそうなんだけど。考えに迷っていると歩きだす困った癖が、僕にはあるのだ。
「今度のいくさのことで悩んでるんでしょ。何とか、わたしたちも力になれないかな」
「いえ、あの気持ちだけで十分なんですけど」
いくら兵力が足りないとは言え、さすがに真菜瀬さんに戦闘に参加してもらうわけにはいかない。
「無尽講社の相談役にも話したんだ。そしたら砧さん、昔のつてを頼って足軽仲間を募ってくれるって」
「はい、それは本当にありがたかったんですけど」
砧さんが三百人ほどの兵数を率いて、みづち屋に来てくれたのは知っていた。この鞍馬山で鬼小島率いる長尾勢と、作戦をともにしてくれるのは正直、本当に得難い味方を得た思いだった。
「で、凛丸たちには会ったかな」
「いえ」
僕は首を振った。凛丸たちとは、煉介さんの遺体を火葬したときに会ったきりだ。
「わたし、あいつに話したんだけどなー。今度こそ、虎ちゃんたちの力になってあげなよ、って。煉介のことであれだけ世話になったし、自分たちだって命を救ってもらったんだから、少しでも兵力になってあげてって、念押しといたんだけど、そうか…あれから、音沙汰なしかー」
真菜瀬さんは腕組みをすると、難しそうに眉をひそめる。
僕はあの日、まったく無言だった凛丸の様子を思い出していた。あれだけ虎千代とぶつかった凛丸だ。中々素直に話をする気になれないと言うのも、分かる。煉介さんの死は、虎千代の責任ではないとは言え、直接手を下した事実は否定できない。しかしそれにしても、ここしばらく姿も見せないのは確かに奇妙だ。
「真人くん、他に出来そうなことがあったら、何でも言ってね。どんなことでも力になるから」
「え、ええ」
僕はつい、要領を得ない返事をしてしまう。
真菜瀬さんの言葉はありがたかったが、本当にここは、気持ちだけで十分だった。だってことは血みどろの大いくさなのだ。出来れば絢奈やこの人を巻き込みたくないのが正直なところなのだ。
「軍師殿、名案は浮かんだか」
部屋に戻ってうなっていると、今度は虎千代と絢奈がやってきた。
「お兄いだったら大丈夫だって、虎っちに言っといたから。信じてるよ。絢奈に恥をかかせないように頑張りましょう!」
ここへ来て実の妹に無用のプレッシャーをかけられるとは思わなかった。虎千代が言う。
「冗談はさておき、話がある。ちょっと顔を出してくれぬか」
僕は二人に連れられて、広間に行った。鞍馬山と京都付近の鳥瞰図を囲み、そこには長尾家の顔ぶれが集まっている。新兵衛さんにこのえ、鬼小島、黒姫たち。恐らくはさっきまで戦略を練っていたのだろう。しかしいつもと違うのは二人、この席には見慣れない顔があった。菊童丸とかささぎだ。彼らは戦闘に参加するのは不可能なので軍議には参加しない。
「おお、成瀬、日々の骨折り大儀。世話をかけておる」
たぶんすごいことなのだろう、菊童丸は気楽に僕に声をかけてくれるようになった。
「かささぎさん、起き上がって大丈夫なんですか」
「ああ、今日は少し加減がいい。ちょうど朽木谷から早崎の衆を呼び寄せる算段を、長尾殿としていたところなのだ」
かささぎによると、朽木谷に伏せている早崎衆で動員出来る兵力が百五十はあると言う。かささぎのような女性剣士を中心とした隊だがいずれも剣の手練であり、山間の戦闘にも慣れきっていると言う。
「奇襲を行うには、うってつけの者たちもいる。ぜひとも、長尾殿の力になりたいと今、こちらへ続々と到着しているところだ」
「付近の山間路に馴れた軍勢が加わってくれるのは、ことにありがたいことでござる。越後路はともかく、我ら、まだこの山に不案内にて」
虎千代と軍勢不足に頭を悩ませていた新兵衛さんも、少しほっとした様子だ。
「このこのえも引き続き、黒姫殿と募兵活動を行っておりましゅるが、これで総勢はほぼ倍の二千には至りましょう。今少し兵が集まれば、何とか奇襲は能うかと」
と、このえも言う。
「黒姫、京都の松永勢は動きそうか」
虎千代が黒姫に視線を走らせる。
「市内の武器兵糧の買占め、関所の警戒などが強まってますですよ。恐らくはこの悪天候のうちに軍勢をまとめ、日を見てこなたに進撃してくるかと」
「相手は素早くこの鞍馬山の要所に兵を配置し、完全包囲する戦術をとってくるであろう。まずはこの悪天候のうち、兵をまとめ一撃当てるのが理想的だが」
と、虎千代は今度は鬼小島に目を移した。
「力士衆ならいつでも出れますぜ」
「しかし姫さま、下手に戦端に火をつけてもこの鞍馬山の防備が定まらなければ、元も子もありませぬ」
「陽動を行っても、持ち堪える体力がなくば立ち行かぬか。新兵衛、このえ、ここを守るのにあと、必要となる兵力は」
「せめてあと、五百は。しかしそれでもこの数ではそれほどは保ちませぬ」
「やはり泣き所は兵力不足か」
虎千代はやり切れなそうに眉をひそめると、大きく息をついた。
「かささぎ、早崎衆が集まったら、このみづち屋の防護に力を尽くしてくれ。そしていざと言うときには、御曹司を連れて朽木谷に逃れるべし」
「長尾殿」
はっ、と息を飲んだかささぎは、虎千代の身を案じたのだろう。
「お前を含めて、戦闘が出来ぬものがここには多い。いざと言うときは、早崎衆に真菜瀬たちを頼みたい。真人も絢奈もそう、覚悟を決めておいてくれ」
「虎千代、それはないだろ」
僕は、思わず言った。留守居隊に僕が含められていることにそのとき気づいたからだ。敵に討って出る虎千代たちは確かに決死隊だ。加わっても、僕は戦闘の役になど立たないかも知れない。でも、こう言うときに虎千代をおいて自分だけ逃げたくはなかった。だってこうなったらどこへいても同じことだと思うから。
「なんで今回はそうなんだよ。血震丸のときだって、煉介さんが死んだときだって、一緒だったじゃないか」
「真人、こたびの突撃は、それまでの戦闘の比ではない。十に一つの生を拾ういくさぞ。ゆく者は元より死する気でゆく。死ぬと思わば生き、生きんと思わば死ぬ、その覚悟なきものをあたら犬死させる気はない」
虎千代は僕の目を見据えて、静かな口調で言った。
「お前には生きねばならぬ理由があろう。それは、十に一つも死ぬ気があってはならぬ。絢奈のため…それに、わたしのためにだ」
僕の手を握ると、虎千代は懇々と説くように告げた。
「お前は必ず生きて未来に帰れ」
「嫌だ」
「真人っ」
このとき。
虎千代の気持ちは痛いほど分かったし、ありがたかった。でもだ。自分だけのうのうと安全な場所に逃れていきたくなかったし、何より一番言いたくなかっただろう、未来に帰れなんて言葉を、虎千代に言わせた自分が許せなかった。
「わたしのためにも頼むと言うのだぞ」
「僕だけじゃ絶対に行かない」
無我夢中で僕は言い返した。
「あたら死ぬ気か」
僕はついに声を荒げた。
「死んでたまるか。僕だって、虎千代と生きるために一緒に行くんだ。死ぬ気で行くなら、僕も連れてけ。じゃなかったら虎千代を死にになんて、僕が行かせないからなっ」
「これは軍令ぞ。軍令に従えぬと言うかっ」
虎千代は柄に手をかけた。ひと息で、僕を斬る構えだ。
「軍令違反は斬り捨てる。真人、たとえお前だろうと我は容赦せぬぞ」
「斬ればいいだろ」
「言うたなっ」
殺気を発した虎千代に、僕は決死の覚悟をして頷いて見せた。ここで斬られても、それはそれで構わない。そう言う気だった。
「虎千代」
今後は僕が、虎千代の目を見据えて言った。
「万一のことから考えなければいけないほど、兵力が足りないんだろ。だったらもっと、きちんと時機を待って考えないと駄目じゃないか。このままだと、それこそ虎千代が犬死する羽目になるぞ」
みんな、誰もが薄々もっともだと思っていたと思う。僕の言葉に続く者がなく、しばし重たい沈黙が座を支配した。
「だがよ小僧、今危なくっても出鼻を挫かねえことには、二度と出ていかれねえかも知れねえんだ。そうなりゃ一方的な嬲り殺しよ」
やがて鬼小島と黒姫が悲痛そうに顔を歪めて言った。
「真人さん、ただの籠城は自殺行為ですよ。だからこそ、わたくしたちが命を棄ててでも、菊童丸様と真人さんたちは生かす戦略をとらなきゃなのです。虎さまの心も汲んで下さいですよ」
「色々と方途を考えてきたが、この兵力差は埋まらぬ。されば最悪の事態は避けねば」
虎千代も力が抜けたようだった。
どうにもならない。どう考えても彼我の兵力差を補う何かを、僕たちは見つけることが出来なかったのだ。せめてだ。敵の半分でも、戦力に長けた軍勢が集まってくれれば。それにしても虎千代に今のまま見切り発車をさせるわけにはいかない。そう思い、もう一度何とか説得する言葉を探したときだった。
「虎ちゃん、真人くんっ、大変っ大変だよっ」
真菜瀬さんが駆けこんできたのだ。あまりの慌てように、虎千代たちは色めきたった。
「どうしたっ、敵襲かっ」
「違う違うって!」
真菜瀬さんはせわしなくかぶりを振ると、僕たちに言った。
「いいから、外に出てみてよ」
みづち屋の中庭に出て、僕たちは驚いた。そこに見慣れない軍勢が集まっていたからだ。
「これは…足軽どもか」
虎千代の言葉を待つまでもなく、確かにこれは市中の足軽兵だ。
馬に乗るもの、徒歩のもの、槍に薙刀、棍棒と装備はばらばらながら、いずれも戦意に満ちた剽悍な男たちだ。
「こんなにどこから…」
その中から進み出てきた二人の顔を見て、僕たちは二度驚いた。
なんと凛丸たちなのだ。
「足軽二百名、長尾殿に助勢致す」
虎千代の前に進み出て、凛丸は言った。背後の七蔵さんも言う。
「伝手を頼りまくって、京で何とかこれだけは募兵出来たんだ。みんな、いくさ慣れした連中ばかりよ。ぜひ働かせてくれ」
「長尾殿、彼らへの報償はすべて我らが持つ」
と、凛丸は虎千代を見据えて言った。
「お頭の最期、看取ってくれた礼だ。私たちは決死の覚悟で働く。何でも命じてくれ」
「すまぬ」
と言う、虎千代の目にも僕の目にも思わず涙が滲んだ。
とっくに凛丸は虎千代にわだかまりなどを持ってはいなかったのだ。
凛丸は煉介さんが死んでからずっと、京都で募兵活動をしていたようだ。市中の松永勢の警戒をかいくぐって、これだけの兵を集めるのはまさに決死の覚悟が要ったに違いない。
こうしているうちにさらに兵が集まり、鞍馬山の長尾勢は何と二千五百を超えた。
しかし奇蹟は、まだそこで終わらなかったのだ。
霙が強風に乗って飛沫を叩きつけるように降りしきる、その晩だった。
「夜襲っ」
悲鳴に似た物見の声に飛び起きた僕たちは、山麓の色濃い闇におぼめく無数の松明を見た。山を埋め尽くすその炎の列が、まっすぐこちらへ向かってくる。
「おのれっ、敵に先んじられたか」
具足をつけたまま寝ていた虎千代はすぐに、迎撃の準備を整えた。僕も急いで起き、絢奈と真菜瀬さんたちを避難させるべく、かささぎたちの寝所に赴いた。
「まさかこんなひどい天気の晩に来るとはな」
かささぎもさすがに驚いていた。
夜間照明の充実していない当時の軍勢の常識として、夜間の行軍、特に山野を行くのはともすれば大きな事故を招く、自殺行為であった。それをおして松永勢が決死の夜間襲撃部隊を編成したとすれば、これは完全に裏を掻かれたことになる。
虎千代の観測では、現実に山野に灯った軍勢は三千はいるかと思われた。これだけの人数にまだ軍備の整っていない鞍馬山を攻められれば、いかに虎千代と言っても防御のしようがない。
「虎千代っ」
僕たちがあわてて門を出て虎千代の様子をうかがうと、すでに軍勢は目の前だった。燃え盛る松明の気配とかちゃかちゃと鎧の小札の擦れる金属音が、門外に不穏な圧力を発して響いてきている。
「おお、真人か」
息せき切って出た僕の姿を見つけた虎千代と新兵衛さんだったが、なぜか緊張した顔をしていなかった。
「案ずることはない。味方よ」
「味方っ?」
なんと。虎千代の言葉を聞いても、現実感が湧かず僕はしばし茫然としてしまった。ここへ来てさらに援兵とは。すぐには信じられなかった。でも確かに、松明に照らされた黒光りする鎧武者たちが掲げている旗は、純白に黒字で染め抜かれた、毘沙門天の『毘』の一字である。新兵衛さんが僕の前でその種を明かした。
「以前より、本国に救援を頼んでおいたのでござる。ようやくのこと間に合い申した」
「景虎様っ」
部隊を率いる二人の武将が、具足姿のまま虎千代の前に進み出た。
二人ともがっしりとした古風な大鎧を身にまとっていたが、印象は大分違う。
一人は四十歳前後と見える薄い口髭を生やした、どちらかと言えば色白の長身の男であり、大鍬形の兜を小姓に預け、烏帽子を被っている。その人は初対面なのになぜか僕を見ると、どこか懐かしそうな笑みを浮かべた。
「おお、貴殿がかの有名な成瀬真人殿か。身は、直江大和守景綱と申す。以後、お見知り置きを」
わっ。僕は悲鳴を上げそうになった。なんとこの人が。股肱の家臣にして、謙信政権の中枢を担ったと言う名将、直江景綱じゃないか。
「姫が惚れるゆえいかな豪傑かと思いきや、見れば中々に聡明そうな若子でござるな。新兵衛殿、どうも儂は得難き嫡男を喪うたやも知れませぬぞ」
新兵衛さんをからかいながら含み笑いをする景綱に見つめられて、僕は恐縮するしかなかった。あろうことか、新兵衛さんは歴史に残るこの名将の養子に、僕を迎えようとしたのだ。しかも本人を呼んでくるなんて、余計居たたまれないじゃないか。
「おいっ小僧、うちのお嬢を寝取るとはいい度胸だ。後でわしの杯を受けろい」
もう一人は燃え上がるような口髭に、太く黒々とした髪を振り乱したまるで鬼瓦のような怖い人だった。この人は戦場嗄れした大声で笑うと、僕に言った。
「はははっ、お前、うちにくれば良かったのになあ。我が先方衆にくれば、一ヶ月でくたばるか一人前にしてやるぞ。柿崎和泉守景家じゃ。この面、よう覚えておけい」
こっちは柿崎景家だ。上杉謙信の切り込み隊長と言われた、生粋の戦闘司令官だ。謙信のいくさでは常に先鋒を任され、決死隊と言われた越後先方衆を率いた。武田信玄と一騎打ちした川中島合戦においても、敵陣にいち早く突入したのがこの景家だ。
「おおい、弥太郎っ、てめえ、わしを差し置いて京都でこんな面白いいくさしてんじゃねえぞっ」
「いやあ、ははっ、すんません。オヤジ、まさか来るとは思いませんでしたよ」
ちなみに力士衆は鬼小島はじめ、この柿崎家の男たちだ。地獄から来たようなこの怖ろしい大将に再会できて、さすがの鬼小島も嬉しそうに相好を崩している。
「両名とも、遠路より大儀」
さすがに虎千代も胸を熱くしたのか、声が震えている。
ただの援兵ではない。
なんとここで上杉謙信の主力を成す二人の名将が揃ったのだ。
「直江景綱千百、柿崎景家二千、景虎様の手足となって働きまする」
二人は膝をつき、虎千代に向かって平伏した。
これで兵数は五千余り、弾正の大軍にも十分対応できる。しかも最後に現れたのは、虎千代の右腕と左腕とも言うべき、名将と戦歴豊かな越後衆だ。戦国最強の彼らの相手になる兵は畿内にいないだろう。
「お嬢、わしら、どいつを斃したらええ。はようお命じ下されえい。越後衆の実力、天下に知らしめてやりましょうぜ。いくぞっ、野郎どもっ」
「はははっ、まさかオヤジの采配で京でも働けるとはよっ」
景家の声に、鬼小島以下力士衆たちが呼応する。どよめきは熱狂となって響き、静寂に沈んでいた鞍馬山の山野を震撼させた。
「時は今ぞ」
虎千代は同じように胸が熱くなって言葉に詰まっている僕と新兵衛さんを振り返ると、熱狂の渦にどよめく越後勢と二人の名将たちに明言した。
「我らこれより、義によって天下の御曹司に存分に馳走致さん」




