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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.7 ~国盗り始末、まさかのすれちがい、いくさ姫の涙
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国盗りの夢、散る。煉介さんの遺志、虎千代と僕が届けたものは…?

煉介さんには、現代にいたときの記憶がある。

以前、僕は確かに聞いた。あれは。

そうだ。虎千代が琵琶を弾いた晩、鼓花の前で僕たちはしばらく、僕たちがいた時代のことを話した。煉介さんのその話は、何かの弾みにその折、出たのだ。

「たぶん、生まれたばっかりの最初の記憶だと思う。真人に初めて会ったとき、それを思い出したんだ」

幼い煉介さんはベビーベッドに仰向けに寝ていて、おぼろげながらそこにあったものの気配を感じたことを覚えていたのだと言う。

煉介さんにもまた、現代にいたときの記憶と感覚があったのだ。

それは道路を走る車のエンジン音や救急車のサイレンだったりとか、母親がつけていた化粧品の匂いや居間のテレビの音、明かりや気配と言ったものだ。僕たちからすれば確かにそれはごく何気ない僕たちの棲む世界の感覚に過ぎない。でも、煉介さんにとってそれは、タイムスリップしてきた現代人と言う自分の存在を確認するための唯一貴重な記憶だ。

「俺には三、四歳くらいまでは、はっきりとしたそう言う記憶があって、この時代に来てからも何度も親に話していたらしいんだ。今では跡形もないけどね。真人が鼓花に話しているのを聞いてたら、なんだかそいつを思い出したよ」

煉介さんは生まれたばかりの頃、僕たちと同じ時代から戦国時代にやってきた。煉介さんの中から一旦、喪われてしまったはずの記憶はどこかで、僕たちを結びつけてくれたのだろうか。学校を辞めたあの日、僕は戦国時代で、煉介さんに出会った。それは虎千代と出会ったこととと同じくらい、奇蹟的な出来事でいて、しかもそれは決して偶然の産物なんかじゃなかったのかも知れない。

「…真人、なんて顔してるんだ」

熱っぽいため息をついていた煉介さんが、僕に言った。夢想を破られて、再びこの寒い夜に蘇った感覚に僕は、はっとした。

「今、違うこと考えてたろ。ひどいな。俺が腹を切るってときに」

「ご、ごめん…」

とつい、僕は謝ってしまった。

「真人らしいな。て言うかいつも、そんな感じだったよな」

はは、と、煉介さんは明るく笑った。煉介さんこそ、いつもそうだ。どんな深刻な運命が自分の身に降りかかろうとも、ずっと同じテンションでいて、僕の前で平然とふるまうのだ。今ですら乾きかけた血に濡れて身体は、どんどん冷たくなっていくのに。

「そんなに怖がらなくていいさ。腹を切るのは俺だ」

「煉介さん…」

いつもそうだ。こう言うとき、僕は言い淀んでしまう。煉介さんはいなくなってしまう。肝腎なときに限って言葉が出ず、甲斐のない後悔をする。煉介さんは僕の言葉を待っていた。でも、僕は言葉が見つからなかった。煉介さんは仕方なく、苦笑して、

「真人にも、色々悪いことをしたな。絢奈ちゃんにも、よろしく言っておいてくれ。無尽講社のこと、上手くいくことを祈ってるよ。ちゃんと現代に帰れるといいな」

煉介さんの言葉に、僕は何も返すことが出来なかった。僕は。自分の死に際ですら、僕たちを気遣うこの人に、ことここに至る瞬間までに何か、一つでも報いることが出来たのだろうか。そう思うとどうしても、煉介さんが自ら死を選択したことに、忸怩たる想いを拭い去ることが出来なかった。

「煉介、支度が良ければ声をかけよ」

ふいに虎千代が声をかけた。血で固まりかけた具足の紐を僕がどうにか解いて胴丸を外すことに成功したとき、彼女はしばしどこかに行っていたようだ。

「ああ、悪いな。何から何まで面倒みてもらって」

これから死ぬとは思えない。それこそ、ちょっと髪を切ってもらうような感じで、煉介さんは言う。しかしそんな調子の煉介さんに、虎千代は一切何も応えなかった。

腹を切る。

その言葉は、武士の世界の中ではやはり、もっとも重い言葉の一つなのだろう。

僕と煉介さんのやり取りのうちにも、虎千代はどこからか手桶に水を汲んでやってきて、携行した砥石でひとり黙々と小豆長光を研ぎ始めている。

煉介さんが切腹する、と言ったとき、虎千代はすでに否やは言わなかった。それまではあれほど、ここから生きて連れ出すと言っていたのに。虎千代は今や淡々と、煉介さんの最期を介添えするべく支度を調えている。たぶん一度武士が腹を切ると口に出したのなら、その言は降りることは許されないほどの決意をもってなされるべきものなのだ。

「真人、煉介の袂を割って腹までくつろげてくれ。片手では何かと難儀するであろう」

と、虎千代が言った。

「なあ、虎千代。こんなときにこんなこと言うのもなんなんだけどさ」

ちょっと言いにくそうにする煉介さんに、虎千代はすぐにそれと察したのか、

「作法なぞ、気にすることはない。おのれの命だ。気の済むように、締め括るべし」

「それもそうだな」

と、煉介さんは口元に微笑を湛え、小さく息をついた。その間、僕がくつろげた袂を持った手を握りしっかりと布をはだけ、凛冽の冬の夜気に素肌をさらす。拳にこめられた煉介さんの命はまだ強靭な力を秘めている。

「脇差を抜いてくれるか」

請われるままに僕は煉介さんの腰に手挟んだ脇差を外すとかちりと鯉口を切り、中身を抜き放ってしまって、それから、はっとした。そうだ。この刀を、渡したら、それで煉介さんは自ら命を絶ってしまうのだ。

「どうした」

と、言われて僕は、思わずその抜き身を自分の胸に引き寄せた。それをどうしても煉介さんの手に渡したくない、そう強く感じているもう一人に気づいたのだった。だってこれを渡したら。自分が今持っている、その刀を使って煉介さんは死ぬのだ。

「真人、大丈夫だ。それを、渡してくれるか」

煉介さんはそれに気づいたのか、柔らかく微笑んで、

「君が責任を感じることじゃない。その剣を渡したからと言って、君が手を下して俺が死ぬわけじゃないんだ。大丈夫だ。すぐに終わるさ。俺の最後の我がままだ。それを、渡してくれるか」

ぶるぶると、僕は無言でかぶりを振った。抗えない何かが、僕を最後の一線で踏み止まらせている。その生理的な衝動が、僕に煉介さんから死をもたらす道具を手渡すことを、どうしても拒否させる。自分でもどうしようもなかった。身体が、まるで自分の生死がそれにかかっていると思い込んでいるように目の前の死を忌避し、それに抗っているのだ。

僕が拒否したことで、煉介さんは戸惑った。すると、

「真人、それを渡せ。今、すぐにだ」

ぞくっとするほど冷然とした声で、言ったのは虎千代だった。

「煉介めはどの道、放っておいても助からぬ。どの道、我はこやつの首を打つ。躊躇わせるな。早くしろ」

「虎千代…なんてことを言うんだよ」

僕はそこで、思わず彼女を怒鳴りつけてしまった。

「僕たちは、煉介さんを助けに来たんだろ。虎千代だって言ってたじゃないか。煉介さんを、このままここで、見捨てるのか」

なんて冷酷な声だと思った。さっきの冷たい態度といい、もう虎千代に、煉介さんをどうにか助ける気持など、微塵もなくなってしまったのか。そう思うと、こみあげる激情が抑えきれなかった。

「聞こえなかったのか。煉介はここで、死ぬのだ。あやつが腹を切らずとも、わたしが奴を斬る」

「そんなことはさせない」

僕は虎千代に詰め寄ってしまった。

「何度も言わせるな。お前がそれを渡すのを拒否したとて、こやつは死ぬのだぞ」

しかし僕は、薄闇の中で虎千代の頬に光るものの気配に、思わず追及の言葉を止めた。

「よいか。落ち着いて、よく聞け」

と、目に大粒の涙を浮かべ、虎千代は言った。

「あやつの最期の望みは自ら決すること。死の間際に本意を遂げること、武士としてこれに勝る本望はなし。煉介にその望みを、一片の悔いなく全うさせて送ってやりたいと、お前は思わぬか。ただの我がままで煉介に、みすみす犬死の汚名を着させるかっ」

虎千代の語尾は、あふれた涙としゃくりあげた呼吸で掠れた。

どうしても、煉介さんを救おう。

僕たちはここへ来るまでに再度、決意を新たにした。そこで何より強く、それを思って行動していたのは虎千代なのだ。口惜しくないはずがない。僕は、煉介さんの姉の暮葉さんをみすみす死なせてしまったときに虎千代が僕だけに見せた涙を思い出した。

虎千代だって、臓腑を絞り上げられるような決意をして、煉介さんの死を迎えるのだ。それでも志半ばで死を決意した煉介さんに少しでも思い残すことなく振舞わせてやりたいがゆえに、虎千代は必死で平常心を保とうとしていたのだ。

「二人とも、本当にありがとう」

そのとき、煉介さんの声が感情を剥き出しにした僕たちを目覚めさせた。

「なんだろう。信じられないほど晴れやかな気分だ。まさか自分が最期を、こうやって迎えられるとは思ってもみなかったよ。俺はどこか騒がしい戦場で、俺を憎む誰か、俺の首が欲しい誰かの手に群がられて、泥を噛みながら首を掻き獲られる姿をいつも想像してたからさ。でも見ろよ、今はこんなに静かだ」

と、煉介さんは虚空を見上げた。雲はすっかり晴れている。かすかなうろこ雲が薄い形を浮かべる空は晴れ渡り、月光が柔らかく降り注いできていた。

「俺を迎えに来てくれた二人に送られて俺は逝く。二人とも、最期まで俺を案じてくれてありがとう。それだけでも、なんだか生きた甲斐があった気がする」

いつしか僕も、泣いていた。唇を噛み、いくら押し殺しても嗚咽が止まらなかった。自分の声ではないような甲高い声が咽喉を震わせて漏れた。

「真人、そろそろいいか。実は、ちょっと目が霞んできてたんだ」

自分の早過ぎる死を自身でさえ、必死に納得しなければならない中で煉介さんはどこまでも、僕たちを気遣ってくれた。その穏やかな声で僕は暗闇の中で、まるで自分の足もとがすとんと抜けたような気持ちがしてしまった。

「真人。煉介に、刀を渡せ」

虎千代が言ったのだと思う。それで僕の身体から最後の抵抗が消えて失せた。

僕は煉介さんのところへ戻ると、脇差を手渡した。まるで、自分が操り人形になってしまって、大地を踏みしめていると言うよりは上から足を糸で吊られて、ふらふらと歩くふりをさせられているようだった。なんて心もとない足取りなのだと思った。

煉介さんは片手で抜き身を受け取った。この間に体力を消耗したのか、その手は受け取るときに抜き身の切っ先を上下にふらつかせ、煉介さんは危うくそれを取り落としそうになった。

「虎千代、十字に切る。俺が斬ったら首を落としてくれ」

「分かった」

と、虎千代は言った。

「元気でな、真人、虎千代」

ふらりと頭を垂れた煉介さんの後ろで、虎千代は剣を上段に構えた。

「ご存分に本意、遂げられませ」

煉介さんが選んだのは、腹膜に横に刃を引いて斬った後、鳩尾から切り下げる作法だ。それは遂行がもっとも困難で、見事な切腹のやり方だった。このやり方だと、一度腹に入れた刃を傷口から自力で引き抜いてもう一度突きこむので、取り乱してやり損ねる恐れがあった。

煉介さんは軽く息をつくと、両手で刃を逆さに構え、まるで抱きかかえるように腹に入れた。腸は弾力がある臓器なので、最初は横に腹膜を切る程度にしておくのだと言う。

人によっては座が血で汚れ過ぎるのを忌み、皮を少しだけ切るに留める。深く刃を入れ臓器を掴みだすのは戦国時代、胆力のある英傑の死に方とされたが、江戸期は恨みがましいとして、見苦しい仕草とされたようだ。

煉介さんは体重を掛けると、存分に鍔元近くまで突きこみ、柄を動かしてぎりぎりと皮と肉を裂き、ねじりこむように真一文字に刃を進めると、今度はうめき声を堪えつつ傷から剣を引き抜いた。見事と言う他ない、真一文字だ。

通常、十字腹で切ると言っても、ここから鳩尾に刃が入った時点で介添え役は介錯の刃を振り下ろす。傷を受けた痛みと出血で大抵のものはショック状態に陥り、気絶したり、がくがくと上体に自分では制御できない痙攣が走ることがあるそうなのだ。しかし煉介さんの肉体は、その点、まったく動じることはなかった。

血と脂で曇った刃を抜くと煉介さんは、今度は鳩尾に刃を突き入れると、そのまま真下まで斬り下げた。これもまた、最後まで作法をやり遂げた。

苦痛で掠れた煉介さんの声がしたのはそのときだ。

「たのむ」

虎千代はそれを確認すると、一気に刃を振り下ろした。

首は驚くほどあっけなく落ちた。虎千代の腕の凄まじさだ。さっきの混乱から、あの一瞬で彼女は堪えがたい激情を立て直したに違いない。煉介さんに苦痛を長引かせない唯一の方法を、虎千代は見事に遂行したのだ。

首はまるで煉介さん自身の身体がそれを守り抱きかかえるように、そこへ落ちた。

「首を」

虎千代が言った。目の前に空になった手桶が突きだされる。ひと呼吸置いてやっと僕はそれを察した。首をそれに入れろ、と虎千代は言っているのだ。

僕は、手渡された手桶に粛々と煉介さんの頭を入れた。その間もひどく心もとなく、夢を見ているみたいな不可思議な気分が続いていた。僕は今、煉介さんの頭を持っているのだ。しかし、そんな実感はまったくなく、今まで生きて話していた煉介さんがもう、ここにいないのだと言う事実をも、身体の芯で理解していない、何かが決定的に麻痺し続けていた。その無感覚の靄に、僕は救われていた。お陰できちんと、作業を全うすることが出来たのだ。

作業。

そうだ、僕は作業をしていたのだ。虎千代の命じるまま、淡々と煉介さんの首を両手で抱え上げ、指に絡みつく湿った髪の毛を整える。まだ体温の残る頬についた血糊の跡を袖で拭き取ると薄く開いた瞼を閉じてやった。そうして首を空になった水桶に安置した。

その上から藍染の袱紗をかけ、煉介さんが見えなくなってしまうと僕は彼が最期、どんな表情をしていたのか、それすら忘れてしまった。もし自分の気持ちや感覚を確かめることをしたら、僕はさっきのように身体が硬直して思うことが出来なかっただろう。僕が今、していることは煉介さんが最期に望んだことなのだ。僕たちはそれを、何を犠牲としても絶対にやり遂げなければならなかった。

「煉介が首は包めたか」

頃合いを見て、虎千代は言った。僕は桶を胸に抱えると、無言で頷いた。

「煉介よ」

虎千代は刀を収めると、顔を近づけその桶に向かってそっ、と語りかけた。

「狭いが、しばし我慢してくれ。必ず、お前を送り届けるゆえ」


こうして、煉介さんが死んだ。僕たちはその最期を看取った。後から考えれば考えるほどに、走馬灯のように煉介さんと過ごした時間が無秩序に頭の中をめぐってくる。でもこのとき僕は、今でこそそんなことを言うが、よくよく思い返してみれば実際は、何も考えることが出来なくなっていたのかも知れなかった。ただぼんやりと虎千代に随って歩き、雲がなくなり澄み切った真夜中の空を眺めていた。

僕はあれから、煉介さんの胴体を埋めたのだ。後で掘り出すことを考え、裏にあった落ち葉溜まりにその身体を隠したのだが、どうあっても敵兵に見つからないようにしなくてはならなかった。まずは目印となる具足をすべて剥ぎ取り、目立たぬよう奥深く埋め、首のない身体はその上にした。これもなるべく早く、取りに戻らなければならない。

この世界に飛ばされてきたとき、僕たちはこの肉体に命を救われたのだ。

僕たちを守ってくれた強靭な肉体はいぜん変わらずそこにあった。でもそれを操っていた煉介さんはもう、いなくなってしまった。首のない身体を見ると、それがよりはっきりと印象付けられた気がした。信じられなくて何度でも確かめたくなる。もう、煉介さんはいないのだ。絢奈はどう、思うだろう。真菜瀬さんは、凛丸は。煉介さんを案じる誰かの顔と顔が、次々と浮かんでは消えた。思考はぼんやりとして、ただ、とめどなかった。

虎千代は、僕に何も言わなかった。僕も何も虎千代に問わなかったせいかも知れない。僕たちの間には煉介さんについてもう、ここでかわすべき言葉はなかったのだろう。お互い気持ちを吐き出しあい、煉介さんを見送った。ならば一刻も早く、煉介さんを真菜瀬さんの元へ。僕たちはそれしか考えていなかったし、先のことがあるとすれば、今はそれだけで十分だった。

ちょうどそんなときだ。坂の中腹に掛かったとき、僕たちは人の気配を感じた。人の眼鼻立ちも判らないような木闇(こやみ)の中にぽつりぽつりと松明の、危うげな明かりが灯っているのが見えた。

そこにいたのは、暮坪道按だった。煉介さんに肩を刺された悪党放免は弾正の命を受け、京都での煉介さん捜索に従事していたに違いない。なんて卑劣な男だ。煉介さんが追われるようになったのも、くちなは屋が焼かれたのも、すべてはそもそもがこの男のせいなのだ。野洲細川家に、弾正に、煉介さんを罪人として売り渡し、この男は畿内を席巻する諸権力にそのときどきで擦り寄ろうとした。

道按は手勢を連れていた。見れば背後に槍を構えた足軽たちが十人近く、道を塞いでいる。僕は、はっと息を呑んで足を止めかけた。しかし虎千代は、

「かまうな」

と、短く言った。ただそれだけだった。だから、僕も構わず歩いた。やがて、道按は僕たちの姿を発見した。虎千代は道按と目も合わせなかった。まるで道端の石地蔵のように、その存在を無視しようとしたのだ。すると、

「待てえっ」

道按が殺気だった甲高い絶叫を浴びせかけてきたのは、そのときだ。

「止まれと言うておるのや。何を無視しておる。おのれ、ここを無事で通れると思うておるのか」

ぎらりと殺気だった視線を、虎千代はのそりとした表情で受け止めた。

「童子切煉介の行方はどこや。知らんとは言わせんぞ。この社の中か。それとも、あそこから別の場所へ逃がしたか」

僕たちが何も応えずにいると、道按は僕の抱えていた首桶に目を留めた。

「おうい、その包み、中を開けてもらおうか。あそこで何をしておった。おのれらも御曹司を狙うて童子切煉介を追っていたことは、知っておるのやぞ。何やらあやつと取引でもしたではあるまいなあ」

僕に顔を近づけ、ひくひくと、道按は鼻を動かした。

「血の匂いがするなあ。もしやそれは首か。童子切煉介めの首か」

「だとしたら、どうする」

と、虎千代が初めて口を開いた。

「何を寝ぼけたことを言うておるのや。朽木谷で将軍の命を狙い、あまつさえ此度は御曹司の身柄を掠めた。天下にその大罪を暴かれるべき極悪人、童子切煉介が首やぞ。その値千金の首、それははなから俺のものや。そいつはどうあってもここで、渡してもらうぞ。おのれらの命と引き換えになあ」

ふーっ、と、虎千代が大きく息をついたのは、そのときだった。どこかぼんやりとした無表情とは一転、暗雲が垂れこめるように気配だけで一気に急所を刺し止められそうな致命の殺気が、切れ長の瞳に籠もったのを、僕は確かに見た。

「道按」

と、虎千代はその目のまま言った。

「おのれはつくづく救えぬ男よ」

「うっ」

その語勢と殺気は凄まじいものだった。ゆっくりとした口調だったが、それだけにはっきりと相手に伝わったのだろう。しかし道按は一瞬でも気圧されたことを隠すためか、引き攣った化粧面を歪めて、

「なっ、何を言うか。おのれらこそ、野ネズミのごと、こそこそよう立ち回るわ。ええか、お前らここを生きて帰さんからなあ。なんならその細首ごと、弾正様に献上して」

道按が言い終わらないうちだった。何も言わずに虎千代が抜き打った一撃が、道按の肩口に吸い込まれた。一瞬だ。その剣が甲冑を喰い破り肉を裂き、さらには骨をぶち割って腰まで斬り下げたのだ。誰もが思わずぎょっとするような骨を断つ不気味な音が、山野に木魂した。虎千代が問答無用で放ったのは、抑えていた激情が一撃にこめられた凄まじすぎる斬撃だった。

それを喰らう羽目になった道按と言う男は、本当に間の悪い男だった。余りに鋭い一撃に道按は自分が真っ二つになったことを理解できずに死んだに違いない。まるで相手の言葉の意味を問うように、ちぎれて吹っ飛んだ上半身についた顔には、戸惑いの表情がそのまま残っていた。

臓腑を撒き散らした道按は、悲鳴を発する間もなく命を失った。

「ひっひい」

道按の悲惨なその死にざまに、残った男たちは一斉に浮足立つ気配を見せた。虎千代が見せた殺気の迫力と剣の凄まじさは、百名近い彼らを蹂躙した煉介さんのそれをすでに超えていたからだ。

身体を震わせて、虎千代は肩を上下させていた。あの虎千代がこれほど怒りに任せて人を斬ったのを、僕は初めて目の当たりにした。

小豆長光を虎千代は振った。道按の血と肉が、びしゃっと音を立てて凄まじく黒いはねを飛沫(しぶ)かせた。その様子は、僕たちを取り囲もうとする者たちをさらにたじろがせた。

「煉介は、誰にも渡さぬ」

虎千代は激情に堪えつつ言った。

「我が行く手、阻む者はかくのごとし。犬死したくば来るがよい」

のけ、と虎千代は言った。押し殺されて沈んだ、底冷えするような恐ろしい怒声だ。虎千代の声で、槍足軽たちは一斉に無惨に斬り殺された道按の遺骸を連想したに違いない。凄まじい手で真っ二つにされた遺骸は血と泥に汚れてへしゃげ、もはや人の原型を留めてはいなかった。

肉片滴る血だまりを踏みしめて虎千代が男たちの前に立ちはだかる。男たちはじりじりと足ずりしながら槍を構え、悪鬼のような虎千代が道按の血と肉を踏みしめ、こちらへやってくるのを見守った。

虎千代はその剣幕に動揺する男たちの前に来ると今度は、雷鳴のような怒声を浴びせた。

「のけえいっ」

その一声で、槍足軽たちは潮が引くように、行く手を譲った。刃を下げた虎千代の前に立つことの愚を、そこにいる男たちはその肌で悟ったのだろう。今の虎千代を止めるには、およそ何十人と言う人間が死を覚悟しなくてはならない。

あらかじめ決められた地点まで行くとそこに、黒姫が人数分の馬を用意して待っていた。彼女は煉介さんが戻ってくることを想定していたのか、その馬は一頭多かった。しかし僕が抱えている首桶を見るとすべての事情を察したのか、後は何も言わなかった。

「虎さま、真人さん、ご無事で何よりですよ」

黒姫はすぐに、それとなく話題を変えた。

「一刻も早く上京を抜けましょうです。鞍馬山から金津様が、迎えの人数を出すと申しておりましたですよ」

それと、と、黒姫は言った。

「菊童丸様とお連れの方が、虎さまをお待ちですよ」


黒姫と軒猿衆によって菊童丸も無事、保護されていた。引き上げてきた僕たちは、鞍馬山で救出された菊童丸と再会することになったのだが、それにしても菊童丸を保護していたのは、実に意外な人物だった。

暮葉さんだ。

煉介さんから、お姉さんの暮葉さんは死んだ、と聞かされていただけに、これには驚いた。菊童丸を拉致したときに幾度か、煉介さんはその身柄を信頼できる人間に預けてある、と言っていたのだが、それってまさか暮葉さんのことだったのか。

「煉介に言われて、わたしは死んだことにしてもらったの。虎千代さん、真人くん、だましていて、ごめんなさい」

と、暮葉さんは僕たちの前で頭を下げた。虎千代もさすがにこれには、戸惑っていた。

「気にすることはない。確かに驚きはしたが、あの場では仕方なきこと」

実際、みさご屋の事件以来、暮坪道按や火車槍首の狐刀次などの追及は凄まじいものだったようだ。煉介さんは自ら手を尽くし、暮葉さんを完全に死亡したと信じ込ませることに成功した。このことは弾正はおろか、無尽講社まで知らない情報だった。菊童丸の身柄を隠すのにもそこは、絶好の盲点となったわけだ。

「長尾殿、この暮葉をどうか許してくりゃれ」

菊童丸も、とりなすように言った。

「市井に身をやつす生活、慣れておるつもりではあったが、中々新鮮な毎日ではあったぞ。この暮葉にもようしてもらったのだ」

菊童丸は屈託なく、暮葉さんたちを許していた。あれほどの人質生活を送って少年には、怯えや疲れの影もなく、僕たちをまず安心させた。

「さて、こたびのこと両名とも、大儀である。かほどの大恩、余が公方の位を受けた暁には、何をおいても返してゆくゆえ、覚悟いたせ」

とっても偉そうな態度も、前に会ったままだった。本当に豪儀な男の子だ。

「仰々しい礼はここまでじゃ。余もまだ将軍でなし、無位無官の徒よ。感謝の気持ち表すに、礼も非もあるまい。数々のご助勢、誠にかたじけない」

と言うと、菊童丸は上座から降りて来て、僕と虎千代の手を握った。

「礼には及びませぬ。御曹司、そもそも、我らは天下の大儀に感じて働いたわけでもなく。菊童丸様が身を案じ、己が骨身を削った者がおりましょう。ひとえに、その者のためにござりまする」

「御曹司」

虎千代がそこまで話したとき、戸障子が開き、そこから黒姫に伴われてかささぎが現れた。この温泉地に運び込まれたときには衰弱していたが、幸い傷の経過も良く、ここ数日は介添えがあれば立って歩けるほどに恢復していたのだ。

「かささぎっ、かささぎではないか」

「御曹司。よくぞ…よくぞ、ご無事でっ」

そのかささぎが、再び生きて菊童丸と再会した時に見せた喜びの表情は、僕も忘れようがなかった。僕たちはついに、戻るべき人の場所に菊童丸を連れてくることが出来たのだ。大粒の涙をこぼしてかささぎに抱きついた菊童丸を見て、僕も目の奥にじんわりと熱いものが湧き出てくるのを抑えきれなかった。

嗚咽を堪える声がするので振り返ると、虎千代の横で、暮葉さんも大粒の涙で顔を濡らして、泣き崩れていた。

「ごめんなさい」

と、暮葉さんは言った。

「これで…許してもらえるとは思ってはいません。けど…」

よかった、と暮葉さんは言った。その通りだ。これで良かったのだ。暮葉さんにだって喜ぶ権利はある。このことで、煉介さんの死が、一つでも意味のあるものとなるなら。僕は寒空の彼方、咲き乱れる椿森の闇に溶けるように果てた、煉介さんの最期を思い返していた。

「暮葉殿、この件では今ひとつたっての頼みがある」

と、泣き腫らした顔を上げた暮葉に、虎千代は言う。

「これまで通り、これからもあの二人の介添えを務めてほしい。あのかささぎの命は、明日をも知らぬ。もはや御曹司の身辺の用を務める者はおらぬのだ。御曹司もそれを望んでおろう。残りの人生、危うきあの二人に捧げて頂けるか」

「はい…お引き受けしました」

暮葉さんは、それ以上、言葉にならずも、何度も何度も頷いていた。

この暮葉さんも、菊童丸も、かささぎも。

再び皆、生きて会えることが出来たのだ。煉介さんがその手に、奪ったものではなく、遺したものの、確かな手応えを僕は感じていた。


虎千代は菊童丸との会見が終わると、僕と奥へ向かった。目指したのは山家の庭園を望む、みづち屋の別棟だ。ここはかつて僕たちが煉介さんを探す、と真菜瀬さんに約束した場所だった。

書院造の奥の間には、高く上った昼の気配が漂っている。真菜瀬さんはそこで、虎千代を待っていた。いつものふんわりとした白装束をまとった真菜瀬さんが床の間に向かうような形で正座していた。

「すまぬ、待たせた」

と言うと、虎千代は次の間の黒姫に、合図した。黒姫は襖を開け、平伏すると二人の間に清げにしつらえられた漆塗りの桶を置いた。

恐らくはこれが、本当の首桶と言うのだろう。その場しのぎで仕方なかったこともあるが僕が煉介さんを連れて来た時、無惨にもそれは普通の水を入れる柄杓桶だった。

「時間をとらせた。冬場とは言え、時間が経ったゆえ、多少化粧(けわい)を施してある」

と、虎千代は言った。持ちかえった晩のうちに黒姫は煉介さんの首を見苦しくないよう、白粉で顔色を調え、髪を梳き、綺麗な状態にしておいたのだ。黒姫が桶から中身を取り出すと、そこにまるでまだ生きているような煉介さんが現れた。

「お前にだけは約定、果たせなんだ。あやつを生きて連れ帰ることなく、このように首だけになってしまったが」

虎千代は切なげに顔を歪めると、手をついて頭を下げた。

「誠に不甲斐ないと言う他なし」

真菜瀬さんは微笑すると、軽くかぶりを振った。

「ううん、ありがとう、虎ちゃん。これで全然十分だよ」

真菜瀬さんは両手で白粉の乗った煉介さんの頬を、愛おしそうに撫でていた。

「おかえり、煉介」

と、真菜瀬さんは煉介さんに話しかけていた。

「馬鹿だなあ。くちなは屋もまだ、元に戻ってないって言うのに死んじゃって。こいつ、まだまだわたしにツケがあるのに。どうするつもりだったのかな」

と、人差し指で頬を突く仕草をすると、

「こいつが間違ったことしてたら、思いっきりやってって言ったでしょ。あれは、嘘じゃないよ」

「真菜瀬…」

虎千代は切なげに唇を噛んだ。

「ほら、こいつもさ、戦場で死んじゃったら、大名じゃないから、首も死体も紛れて、どっかへ行っちゃってたかも知れなかったでしょ。だからこんな形でもまた会えたのは、虎ちゃんのお蔭なんだよ。本当に感謝してる。全部、虎ちゃんのお陰だよ」

虎千代はまるで屈託ない真菜瀬さんの感謝に返す言葉もなかった。

だって、ごくなんでもないように、真菜瀬さんは言うが。僕たちを気遣って努めて平静を装っているのは、僕にも分かった。でもそれを貫き通している真菜瀬さんに僕も虎千代も頭が上がらない思いだった。

「こやつのお陰で、御曹司は救われた。将軍即位の特赦で、罪一等は減じられるよう、はからってくれるとの仰せだ。ゆえに、遺骸はすべて当方で引き取る。童子切煉介に罪科なし。この首も、懇ろに葬ってやってくれ」

「分かった」

と、真菜瀬さんは頷いた。僕はそこで首以外の遺体の場所を説明した。

「身体の方は、運べないから隠してきたんだ。ほとぼりが冷めたら必ず引き取りに行くから、それまで辛抱しててくれるかな」

「うん。真人くんも、大変だったね。本当、ありがとう」

ありがとう、と言う、その言葉を。

僕はこの時代に来て、何度か聞いた。それは命の瀬戸際であったり、運命の別れ際であったり。この言葉を聞くたびに僕は、胸が締めつけられる想いがした。ちょうど今、このときもそうだった。恐らくは強がっているはずなのに、でも晴れやかな真菜瀬さんの笑顔を。その表情を、僕はまともに見ることさえしばらく出来なかった。ありがとうと言うその言葉にこめられた気持ちの心強さと温かさに、いつも僕たちはただただ、頭を垂れるばかりだ。

「さてお墓はどこがいいかなあ」

真菜瀬さんは晴れ渡った空を見て、誰にともなくつぶやいていた。あの夜から続く、雲ひとつない晴天は、この日も続いていた。空の高い、どこまでも澄み切った穏やかな冬晴れだった。

やがて僕たちは座を立った。しかし真菜瀬さんはしばらくここを去ることが出来ずにいたのだ。僕が後で様子を見に行くと、煉介さんの入った首桶を抱えたまま、真菜瀬さんはずっと声を殺して泣いていた。

「…れんすけっ…」

僕は、僕たちをずっと見守ってくれていたいつも明るく優しい真菜瀬さんが、荒れ狂う気持ちの奔流をどれだけ懸命に押し隠していたのかを、ひそかに知った。

絞り上げるような嗚咽はかすかに、しかしとめどなく続いた。僕はよほど真菜瀬さんに声をかけようかと思ったが、虎千代に引き留められた。僕たちが気遣えばそれ以上に、大きな気遣いで優しく包んでくれる。真菜瀬さんはそう言う人だった。

その真菜瀬さんにだって、誰のことも考えず、ただ本当の気持ちをそこに、すべて絞り出したいときがあるのだ。そのことで、なすすべも無い僕たちはそれを見守ることしか出来はしない。煉介さんの死はただ、時間が解決してくれることを祈るしかなかったのだ。

そして僕たちにはまだ、他にやるべきことがあった。


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