椿森の死闘!ついに剣を交える虎千代と煉介、極限の先に勝敗は…?
たった一人だった。
色濃い桃色がほのかに芳香を放つ椿の森に、闇に溶けるような漆黒の胴具足に身を包んで煉介さんは、ぽつんと立っていた。
「真人も来てくれたか」
少し明るくなり、煉介さんの顔つきが見分けられるようになった。月が晴れたのだ。
水彩絵の具を溶かしたように雲が流れ、漆黒の空はすっきりと晴れ渡っていた。足下から強い風が立って、僕たちの髪先をなぶる。兜を脱いで休んでいたのか煉介さんは髪を結いもせず、伸ばし放題のざんばら髪だった。再び目元が、それで見えにくくなった。
「煉介、お前の方は一人か」
「一人さ」
虎千代の問いに肩をすくめると、煉介さんは簡潔に答えた。
「見ての通り、俺は囮だよ。御曹司はちゃんと信用できる人間の手に預けておいた。いずれ生きて必ず、姿を現すはずだ」
「やはりか」
囮だって?その言葉に、僕は目を丸くしたが、虎千代は途中で気づいていたようだった。
「菊童丸を擁しては、たとえ殿戦と言えどもあれほど思い切りは戦えまい。しかし大将自らが囮とはな。利に聡い松永勢には想像もつかなんだであろう。よく、踏みきったな」
惜しみない虎千代の賛辞に、煉介さんは苦笑気味のほのかな笑みをのぼらせた。菊童丸を逃がすための極限の作戦だ。あの場は、あれしかなかったのだと、言いたげだった。
「奪って、また戻すか。お前も埒もなきことをしたな」
虎千代の言葉に、煉介さんは自嘲するでもなく、そうだな、と答え、くすくす笑った。
「だがでかした」
「ありがとう」
と言うと、煉介さんは紐に吊した酒瓶を突き出した。口からかすかに白い湯気が立っている。
「ずっとこいつを温めてたんだ。一杯付き合わないか。まだ時間はある。少し話し足りないんだ」
虎千代は杯を受け取ると、僕にもそれを回した。
月下、椿森の酒宴が始まった。無尽講社のあの夜と同じように、煉介さんと虎千代はしばし無言で杯を重ねていた。お酒は飲めなかったが、僕も口をつけるだけは付き合った。かなり寒かったが、確かに、悪い気分ではなかった。緊張と不安の前兆に満ちたあの夜とは違い、まるで夢の中を遊んでいるような、どこか温かくもゆったりとした雰囲気だった。
鎧を損ない、傷つきながら煉介さんは信じられないほど、穏やかな顔つきをしていた。
「俺は、戦国大名にはなれなかったな」
ぽつん、と、煉介さんは言った。暗くはなかったが、自嘲をこめた口調でもあった。
「気にすることはない。世に志を立てる方途も時間もまだ十分にある」
「もしここを生きて抜けられたら考えるさ」
と、虎千代のとりなしに煉介さんは乾いた笑いを漏らした。
「今度のことでは首が要る。それがけじめと言う奴だ。弾正様も、もともとそれを見越して俺を選んだんだろう。さすがに、容易に逃れられるとは思っていないさ」
「それを判って乗っていたのか」
「そうでもしなくば、俺たちに国など持てないだろ」
虎千代の言葉に強がるでもなく、煉介さんは微笑して頷いた。
「下手をすると泥だけ被る羽目になることは初めから、考えてはいたさ。でも俺は、万が一にでも利得を得る方を選んだんだ。それが賭けと言うもんじゃないか」
「そこまで言うからには、勝算はあったのだろう」
「ああ、だがそれは今話すことでもない」
煉介さんは杯を嘗め、しばし物思うように冷たい月夜を見上げた。地上の騒ぎが嘘のようだ。ここからは時折、ごうごうとうなる冬の風の気配しかしなかった。黙々とぬるい酒を含みながら、煉介さんは何を考えていたのだろう。その瞳には切れ長の凍った月が、夜空に澄んで映り込んでいるだけだった。
「さて」
何かを振り切るように、煉介さんは言った。
「そろそろいいか。身体も、温まってきたし」
煉介さんは立ち上がると、白い息を吐きながら身体を動かし出した。
「何をする気だ」
「俺の首が必要だろう」
煉介さんの言葉に、虎千代はかすかに目を見開いた。
「死ぬ気か」
煉介さんは目を閉じると、小さくかぶりを振った。
「その気はないけど、判らないな。だから、どちらか、賭けてみたいんだ。虎千代、俺と立ち合ってくれないか」
ついにだ。
煉介さんが虎千代に斬り合いを申し込んだ。しかしその言葉が煉介さんの口から飛び出したとき、僕は煉介さんの意図がどうしても判らず困惑した。だってだ。かささぎと戦うとき、煉介さんは自分は武芸者ではない、と言ったはずなのに。それからなぜ、今度は虎千代と斬り合おうと言うのか。
「酔狂な」
と、虎千代も同じ思いがしたか、眉をひそめて強く嘆いた。
「この期に及んで、おのれの命を賭け道具にするか」
「違う」
煉介さんは遮るように言った。
「これは、今回のことについての俺なりのけじめなんだ。どうか、俺と斬り合ってくれ。頼むよ」
煉介さんの口調には、軽々しいものは感じられなかった。虎千代はしばらく腕を組んで考えていたが、
「それはかささぎのことでか」
「それだけじゃない。俺が犠牲にしたすべての人間たちへの俺なりのけじめだ」
と、煉介さんは言う。
「けじめだって」
思わず憤りを口にしたのは僕だ。
そんなの勝手すぎはしまいか。
煉介さんの言うことはますます理解できなかった。煉介さんは弾正が画策した絵図に乗って将軍暗殺に派兵し、さらには菊童丸を奪い去り、果てはかささぎを傷つけた。その無数の人へのけじめのために自らの命を晒そうと言う考え方は、判らなくもない。でもだ。
それがそのまま、虎千代が煉介さんと立ち合わなくてはならない理由と、つながるはずはない。虎千代が煉介さんの命を賭けたけじめに付き合うことに、つながるはずがないのだ。
「虎千代を巻き込むなよ。今回のことであんたが命を賭けるのは、勝手だ。でも、元々虎千代にはそのことで、命を賭ける必要なんかなかったんだ。虎千代はただ、真菜瀬さんに頼まれて、煉介さんを救いに来ただけなんだ。それがどうして今、あんたと斬り合わなければならないんだよ」
僕が怒りの言葉を口にしても、煉介さんは、一言も反論することはなかった。ただ、黙って虎千代の前に頭を下げた。
「頼む」
「付き合う必要はないよ。だって、煉介さんは最初から何から何まで勝手に、自分で起こしたことなんだ。分かるだろ。虎千代はただ、煉介さんのことを心配して」
「真人、もうよい」
虎千代が口を開いたのはそのときだ。決然としたものを感じさせるその響きに、僕は、はたと昂りかけた感情を思わず抑えた。
「煉介、お前を止めると決めた時点で我はお前を斬る覚悟でいた。もし、お前がそのつもりでいると言うのであれば、そもそも我には拒む理由はない。それにだ。今は我にもお前を斬る理由がある。言うまでもなく、かささぎのことだ」
虎千代は鋭い視線を持って、煉介さんに射かけた。
「お前は自分が武芸者ではないと言うたはず。つまりそもそもお前が朽木谷へ出兵しなければ、一鵡斎が斬られることもなく、あの女も死を決意せずに済んだのだ。両者はすでに納得ずくのことだとしても、このことで我はお前を許すことは出来ぬ」
「虎千代…」
「真人、お前の気持ちは分かった。我を気遣ってくれる気持ち、胸に届いた。されどここで、退くわけにはいかぬ。お前には、つらい目を見せるが立ち合うてくれ。我はあやつめを斬らねばならぬ」
その言い様は虎千代自身、自らを奮い立たせるために言っている。まだそんな感じがした。でも、僕にはこれ以上、虎千代を止めることは出来なさそうだった。なぜなら、僕自身もかささぎのことでは、煉介さんを許せる自信がなかったからだ。このまま、看過することなど出来はしない。煉介さんの言うとおり、そこには何か、償いが必要なはずだ。でもそれが果たして、虎千代が煉介さんと殺しあう。そんなことの理由になり得るのだろうか。
「案ずるな。我は勝つ」
尚も逡巡しかける僕の手を、虎千代はそっと取ると音もなく立ち上がった。
「立ち合おう。真人に、検分してもらう。よいな」
この上は仕方ないのかも知れなかった。まだ、不承不承ながらも僕は頷いた。
「ありがとう」
煉介さんは僕たちに、軽く頭を下げた。思えばなんて、奇妙な関係なんだろう。裂帛の殺気を見せる虎千代にこそ、嘘偽りのない気持ちを感じ、煉介さんは頭を下げたのだ。
こうして椿の森で、二人はお互いの血肉を殺ぎ合うべく対峙した。
艶やかに光を帯びた葉に群れる熟れた花々の放つ芳香の中で、二人は剣を抜いた。
煉介さんは例の大太刀だ。
この激戦ですっかり刃を傷めているかと思われたが、ここにいる間にしっかり手入れし直したのか、脂の曇りも見られない刃の強靭さにまったく陰りは見られない。煉介さんが構えをとれば、刃渡り二メートル近いその間合いは空間そのものを切り取る絶対的な剣の結界だ。
その大剣に、小兵の虎千代が挑む。
「虎千代、ここは、これを使ってくれないか」
と、そこで僕は言った。僕は虎千代の替え太刀を預かっていた。その中に自分で携帯した一刀を虎千代に預けたのだ。
「これは、小豆長光ではないか」
虎千代は目を丸くして、その刀を受け取りかねた。
「今は、僕の剣なんだろ。だったら、僕の気持ちもそれに託すよ」
「真人…」
これ以上、言える言葉はただ一つしかなかった。
「虎千代、死ぬなよ。生きてちゃんと帰って来なきゃだめだからな」
気持ちの丈を吐き出すと、僕は虎千代にそれを握らせた。僕だってまさか、こんなことになるとは思わなかった。本当は、出来れば二人とも死んで欲しくない気持ちは今も変わりはない。しかしだ。これから命を賭けると言う虎千代に不要な気おくれを感じさせたくない。だから小豆長光を託すことで、僕の気持ちをそれに込めようとしたのだ。
虎千代もそれと察してくれただろうと思う。
「すまぬ」
と、言うと虎千代は押し戴いた剣を、黙って佩いた。
こうして戦国最強の軍神に、伝説の利刃がその手に渡った。
虎千代はすらりと小豆長光を抜くと、ゆっくりと左半身に開き、右片手に持った剣をその小さな身体で押し隠す無形の位に構えた。かすかに深く腰を落としているのは、もしかしたら一足飛びに彼我の間合いを制するためかも知れない。
二人の間は、わずか五メートルほどだったと思う。
その間を、触れれば斬れるような緊迫した空気がしばし流れた。冷たい月明かりが、二人を照らし出している。二本の刀身は妖しく冴え、椿の森に不気味な威圧感でその切っ先を垂れていた。
「さて、準備はいいかな」
「いつでもよい」
虎千代が応えたそのときだ。
「よし」
と、はじめに仕掛けたのは、なんと煉介さんだった。
僕には大太刀が、椿の木立が群れるこの場所では絶対的な不利になると思っていた。そこで虎千代が仕掛けてくるのを待ち、ごく最小限の動きで迎撃する、そんな戦い方をするものだと思っていた。切所に不利な大太刀と言う不文律は、いきなり、苦もなく破られたのだ。
煉介さんが繰り出したのは大股に踏み込んでの、右、肩掛けの一撃だ。
見ているこっちも一瞬で、身体が恐怖に強張るほどの強烈な太刀音が、緊迫した静寂の威圧感を一気にぶち破った。
虎千代は寸前で間合いを外し、やや後方に回避する。
虎千代のいたはずの地面に、驚くほど大きな鋭い太刀傷が奔った。
剣の風圧と衝撃で椿の葉が、かしゃかしゃと、ざわめきを立てた。シャッターか建材の鉄板が落下事故を起こしたような物凄い刃風が傍観する僕の肌にまで如実に伝わってくる。
あれだけ大振りの一撃を繰り出しておきながら首の落ちた花の無数の屍を踏みしめて、煉介さんはさらに前に出た。左足、大きく踏み込んでの逆の切り上げだ。
虎千代はそれも危なげなくかわす。続く、唐竹割りも外し、さらに真っ向からの突きも外した。序盤から圧倒的な煉介さんの攻撃だ。虎千代は難なくその凄まじい一撃を外すも、一歩もそこから攻撃する間合いにまでは近づけない。
埒が明かないと悟ったか、虎千代は、とっさに木立の中に隠れた。木立が密になる場所では、それほど大胆に攻撃は続かないと踏んだのだろう。地の利を活かし、まずはその絶対的な間合いを潰す戦い方に出た。
さすがにここでは煉介さんも大太刀を野放図に振り回すわけにはいかない。椿の森に絡めとられ、太刀の動きを停めた時点で虎千代に大きな反撃の隙を許すことになるのだ。
しかしその虎千代の見通しも、次の攻撃でもろくも崩された。
遮蔽物に構わず煉介さんは虎千代を追い、横薙ぎの一撃を喰らわしたのだ。
それはちょうど、虎千代が隠れた背の低い椿の木立にまともに入り込んだ。
硬い葉と花と、無数の枝に包まれたその木立は、大人の手でひと握りほどの太さだったはずだ。
煉介さんの刃はそれを、一気に両断した。
椿の断末魔が、夜のしじまに鎮まった森を騒がし、無数の色濃い花弁が葉鳴りのどよめきの中に無惨に散った。思わず、油断した。切っ先は危うく逃げた虎千代の肩を傷つけたらしい。驚くことにあの丈夫な鎧の小鰭がむしりとられたように無惨に千切れ、ほつれた帷子から血が滲んできていた。
これは確実に、以前見たとき以上だ。
威力もさることながら、煉介さんの攻撃は信じられないほど速かった。かささぎの時とは違い、煉介さんも具足をまとっているのだ。どう少なく見積もっても十五キロ近くの重量を身につけているのに、あのときよりさらに速く感じる。その動きには一糸の乱れも遅れもない。
「虎千代、こっちが頼んだことだが」
と、煉介さんは、大きく息を吸い込んで再び左肩に剣を担いだ。
「俺は死ぬ気はない。殺す気で来ないと、無惨な結果になるぞ」
「遠慮するつもりは最初からない」
「だったら攻撃したらどうだ」
「急かさずとも、今、ゆくさ」
虎千代は言うと、かかとを地から離し、フットワークを踏むように足を使った。夜露に濡れた花弁を踏みならし、聞いたことのある、独特のリズムが響く。もしかしてこれは。
と、思う間もなく、虎千代の身体がふわりと浮いた。
突然飛来した虎千代の刃に、煉介さんの反応は確実にひと呼吸遅れた。
飛び違う様に、太刀筋は二筋。
一撃は煉介さんの頬を浅く傷つけ、もう一撃は二の腕の肉を削いだ。傷を確認したときには虎千代の身体は煉介さんの背後、はるか後方にいる。
これはかささぎの山犬だたらだ。
愕いたことに。虎千代もまた、かささぎの技をあのときに一度見ただけで、自分のものにしていたのだ。それはちょうど煉介さんが何度も攻撃を喰らってそこから、かささぎの剣のリズムを身体に刻みこんだように。虎千代も見取り稽古することで山犬だたらを身体で憶えこんだのだ。
「危なかった。まさか、君もそいつを使うとはな」
斬りつけられた身体を検め、煉介さんはかすかに息をついた。鎧を裂いて肉に届いた今の虎千代の一撃も、決して軽くはない。
「見様見真似よ。この太刀筋を一つはお前につけてやりたかった。あくまで、我がお前と立ち合う由縁はかささぎにあるのでな」
見事な切り返しに、煉介さんも苦笑したが、
「違いない。だが、その剣じゃ俺は斃せないぞ」
椿の花を踏み散らし、それからは息を呑むような攻防が始まった。煉介さんの大太刀が空間を分断して切り取るたびに、椿の枝葉が飛び、遅れた虎千代の髪先が散り、裂けた具足の破片が舞った。
虎千代も負けていない。あの恐ろしい大太刀をかわしながら、一瞬の隙をついて煉介さんの身体を切り刻んでいく。かささぎがあの剣を精度よりスピードを重視して相手を翻弄することに重点を置いたのとは裏腹に、虎千代は言うなれば、その一撃一撃に命を刻む威力を込めたのだ。それは煉介さんの命ばかりではない。虎千代自身も紙一重で命を晒すことになる、極限の戦法だ。
端から見ている僕にも、二人の命がみるみるうちに削り取られていくのが手に取るように分かった。これは紛れもなく、お互いの血肉を減らしあう本当の殺し合いだった。不可思議なのは虎千代にも煉介さんにも、闘う理由はあれど、お互いを骨まで断ちたいと思うような遺恨を持っているわけではないと言うことだが、それでも二人は確実に持てる力のすべてをつぎこんで刃を振るっていた。
技量はともに完全に、甲乙つけ難い。
しかし、単純な殺し合いともなれば、僕は虎千代の方に絶対的な不利を危惧せざるを得なかった。それは言うまでもなく、体力の総量だ。虎千代と煉介さんでは、性別も違えば、体格差も耐久力もかなり開きがある。総力戦ともなれば女性で体格も小さい虎千代に、真っ先に体力切れがやってくることは自明の理だった。
虎千代もそれを自覚してはいるはずだが、大太刀の一撃は常に見逃し不能の攻撃なのだ。虎千代はその都度、確実に回避行動を取らなければならず、必然的に体力は消耗せざるを得ない。いつその集中力の糸が切れ、取り返しのつかない致命傷を負うとも限らなかった。
唯一の希望は、あの大きな太刀をふるい続ける煉介さんの方が、一度に消費する体力がはるかに大きいことだ。空振りは特に、体力の消耗が激しい。げんにさすがの煉介さんも、肩で息をする場面が目立つようになってきてはいる。
煉介さんの剣で無数の椿が両断された。生々しい花と木の香が立ち上る中、確実な足場のある場所を探して二人は斬り合いを続けていた。
信じられないことには、今まで二人の間には互いの剣をぶつける、鍔競りの瞬間がほとんど見られなかったのだ。木刀や竹刀での撃ち合いと異なり、真剣を使っての斬り合いでは刃を損なうために鍔競りはほとんど行われないのが定説だ。しかしながら、なりふりの構わない戦場では例外であり、それは命を賭けた果しあいにおいても同じことと言えた。それでも、この二人の達人はお互いの刃を損ねるようなことはしなかった。不思議とその太刀は衝突せず、火花を散らすことはなかった。二人が二人ともまったく呆れるほどの技と勘の冴えだ。
いつしか二人がいるのは、廃神社の社殿の前になっていた。石畳を雑草が押し上げ、荒れ放題とは言え、草木の散乱する森の中よりは、まだましだ。
「やるな」
荒い息の下で、ついに煉介さんが言った。お互い、あれからまったく口を利かなくなったのは、体力の消耗を相手に悟らせないためだったはずなのだが、考え方を変えたらしい。その頃には二人ともどうあっても、疲労を隠せなくなっていたからだ。
「この手数で殺せないのは、初めてだ。さすがに疲れたよ」
「我もよ」
と、虎千代は応えると、呼吸を整えるべく、構えを解いた。
「真剣勝負はそう、長くやるものじゃないな」
と、煉介さんが言うと、虎千代はかすかに頷いた。
「ああ、同感だ」
虎千代の方が確実に体力を消耗しているのか、口数が少ない。寒さのせいもあってか、その声音も心なしか震えてかすれ気味だった。
ある意味ではこれは、膠着状態とも言えた。ここで二人がこのまま衰弱してどちらかが決定的なミスを犯すのを、待つとは思えなかった。
「そろそろ、終わりにするか」
意を決したように虎千代は言うと、柄を拳で叩いて軽く血ぶるいをして剣を鞘に納めた。そのまま腰を深く落とし、前傾するような姿勢で再び煉介さんと対峙した。
言うまでもなく、これは居合の構えだ。
「ゆくぞ」
大きく息をついて、虎千代は言った。
「おっ、賭けだな」
煉介さんは片頬を綻ばせて微笑すると、大きく剣を振り上げた。
これはかささぎを仕留めた、引の構えだ。
僕は思わず、息を飲んだ。
ついにこの一撃で、雌雄が決すると見えた。
息が詰まるような緊張感はずっと続いていたが、この瞬間は時間の流れすら遅く感じた。
二人の間は最初に対峙した時と同じ、五メートルほどだ。そこに今度こそ、厳然とした生死のラインが引かれた。
虎千代は、一気に間合いを潰して斬り抜ける構えだ。煉介さんの大太刀をかわして致命傷を与えるのは至難の業だが、体力の消耗で自滅を迎えることを考えれば、残された打開策は、もはやこれ以外にない。狙いは具足に守られていない首か、それとも死角となる腿の動脈を切断するかだが、残りの体力を勘案しても仕留め損なえばそこで勝負は終わりだ。
対する煉介さんは、一撃必殺を狙うであろう虎千代を斬り伏せるごくわずかな一瞬に賭ける。体格差で優勢の煉介さんとは言え、大振りの空振りを続けてきたために、確かにその体力は限界に近づきつつあるはずだ。そのためかさっきまでは、つけいられる隙の大きい振り下ろしの攻撃を避け、突きを中心に相手の動きや力を利用して体力の消費を避ける戦い方をしていた。
死力を尽くした二人ともが一転、一気に勝敗を決するため最後の賭けに出た。
虎千代の瞬速の居合いが、煉介さんの命の脈を絶つか。
それとも煉介さんの自重の乗り切った一撃が虎千代の命を身体ごと吹き飛ばすか。
いずれにしても決着は一瞬に違いない。
まず、じりじりと間合いを詰めるのは、煉介さんだ。
対する虎千代は前傾姿勢のまま、かすかに前後左右に動き、円を描くように前方の獲物を狙っている。やや、有利に見えるのは、やはり煉介さんか。体力の面でもまだ、より余裕があるように思える。
二人の命がまるで熱を放っているかのように、かすかにその身体からは白い湯気が立ち上っている。獣が獲物を狙うときはむしろ穏やかな風貌になると言うが、煉介さんも虎千代も半眼で薄く目を開け、どこか眠たげな表情になっている。
虎千代が柄に手をかけたまま間合いを潰し、今度は煉介さんが半歩引いた。
どちらにも最適な攻撃の間合いと時機がある。危うく張り詰めた神経の細い糸を渡り歩くように、二人は今、それを夢中で模索しているに違いない。
かたかたと、椿の葉が寒風になぶられて音を立て、突風が二人の髪を揺らした。
そのとき、傍観者の僕の胸に去来したのはある大きな危惧だった。
虎千代は果たして、あの大太刀の下を掻い潜れるものなのだろうか。もちろん達人でない僕には、そのことは判らない。思わないようにしてもどうしても、考えてしまう。かささぎが敗退してあの後、虎千代は何か発見があったのか、煉介さんと相対したときに備えて、工夫を重ねていた。まだそれを、僕は目の当たりにしていないように思える。その点では確かに、光明はある。
しかしだ。煉介さんは幾度も、大太刀を使う剣術者の常識を覆す動きをしてきた。その技の多彩さと強靭さにかささぎは次々とおのれの目論見を裏切られ、無惨にもあの大太刀に斬り伏せられたのだ。まるで化け物のような日本刀を、煉介さんは自分の腕のように、自由自在に操る。考えたくはないが、こうしているうちにも、僕には最悪の結果がはっきりとしたイメージとして、振り払おうとしてもたびたび脳裏にちらつくのだ。
技の形は違えど、虎千代はかささぎと同じ、居合い術に一命を賭けた。不吉な予感がするのは、ただそれだけのことなのか。
それにしても二人は、これまでまったく互角の戦いを繰り広げてきた。さすが、これだけの間合いと体格の差を覆して虎千代は煉介さんに太刀を浴びせたし、煉介さんもあのめまぐるしい攻撃を防ぎ、虎千代を追い詰めた。
際どい攻防がずっと続いた。まるで二人はほとんど、ぴたりと呼吸が合っているかのように思えるほど、見事な太刀打ちだった。
(待てよ)
呼吸。
その言葉が頭の中に浮かんだとき、僕は、はっと息を呑んだ。つまり今、虎千代と煉介さんはほとんど呼吸が合っている状態なのだ。
煉介さんが間合いを詰め、虎千代もその刃圏に入り込んだとき、僕は、あっ、と声を上げそうになった。今はだめだ。真剣勝負の空気を壊してまでも、僕がそう虎千代に言ってしまいそうになるその瞬間だった。
さらに踏み込み二人は、攻撃に入った。
言葉にならないうめき声が思わず、僕の咽喉から漏れいでそうになる。
虎千代は斬られる。
恐らくは抜くことも出来ず、あの大太刀の犠牲になるだろう。
なぜなら煉介さんには、心の一方があるのだ。
かささぎの剣を止めたあの奥儀だ。煉介さんはあの戦いで、かささぎの山犬だたらからかささぎの太刀技の呼吸を覚え、果てはその動きを自在に操って見せた。虎千代はもちろん、その太刀筋を何度も煉介さんの前に晒している。煉介さんも身体でその呼吸を覚えたはずなのだ。
僕はかささぎが、煉介さんに居合いを浴びせようとして抜刀できなかった、あの光景を思い出した。
この局面で、虎千代がたとえ一瞬でも剣が抜けなくなればそれだけで、万事休すだ。
(だめだ)
声なき叫びが、僕の胸をしめつけた。
しかし僕はそれを、言葉にする暇すらなかった。
生死を分ける一瞬はまさに、寸毫だ。
そのときには、もう遅い。
引の構えで踏み込んだ煉介さんは、虎千代に向かって大太刀を浴びせかけている。
自分の間合いに入り込んだ虎千代の肩口を狙って、容赦のない打ち下ろしの一撃だ。
その剣は一瞬で虎千代の胴丸を断ち、肉と骨に届き、致命傷を与えるに違いなかった。限界深く入り込んだ虎千代に向かって太刀が振り下ろされるのを、僕は見ていられなかった。まだまだ虎千代の剣が届く間合いではない。攻撃に絶好のタイミングと間合いを得たのは煉介さんだったのだ。
しかし僕の考えが間違っていたのを次の瞬間、思い知らされることになる。
虎千代はなんと、そこで抜刀したのだ。
煉介さんの身体にまるで太刀が届かないその場所へ踏み込んで。そのまま刃を大きく左下から斬り上げた。
そのときようやく僕は、虎千代の真の狙いを理解した。
虎千代が狙ったのは、振り下ろした煉介さんの大太刀なのだ。それにしても際どすぎる局面だった。なぜなら虎千代が煉介さんの剣を真っ向から受け止めることなど不可能なのだ。それこそ武器ごと、踏み潰されてしまう。
虎千代はきちんとそれを理解していた。そこで狙ったのは、煉介さんの大太刀の側面。つまり剣の横腹だ。
日本刀の性質上、刃と峰はもっとも丈夫に作られている。上下から加えられる力に対して最大の耐久力を発揮する仕組みになっているのだ。しかしだ。逆を言うと側面からの力に対して日本刀は、愕くほどもろい構造になっている。斬り合いで日本刀に鍔競りをさせないという心得があるのは、そのためだ。思わず横から受け、剣が折れたと言う事例があたまあるのだ。
虎千代はその弱点に、渾身の一撃を叩きこんだのだ。
日本刀の泣き所は、果たして煉介さんの大太刀にも例外ではなかった。もちろん、煉介さんの剣は刃の幅も、通常の日本刀より広く、太い鉄で鍛えてある。虎千代の剣で折れはしなかったが、剣は衝撃で真横に大きくぶれた。
奇しくもここへ来て、初めて二人の剣が激しく衝突した。
闇夜に、けたたましい音ともにオレンジ色の火花が散った。
振り下ろした太刀を横っぱらから斬られるのはさすがに、煉介さんも初めての経験だっただろう。
まさかの武器攻撃に剣閃をぶらされて、煉介さんの剣はその活動を停止した。先端部からの衝撃は手元まで強烈に走ったはずだ。そのために間合いに入ってきた虎千代を迎撃するタイミングがまさに一呼吸、ずれこんだ。
その間に虎千代は剣を構え、鋭く間合いを詰めている。
それは本当に、刹那の一瞬だった。
虎千代は素早く助走をつけ、そこから大きく、跳んだ。
僕は虎千代の身体が空中で錐を揉むように、横回転したのを見た。
身体のばねと遠心力を利用した強烈な斬撃だ。狙いは具足から露出した煉介さんの首辺り。渾身の一撃と言ってもいい。虎千代が今、消耗しつつある体力で繰り出せる、最後の斬撃だろう。
しかし煉介さんもさすがだ。ほぼ一瞬で態勢を立て直した。
痺れる手で剣を振り上げ、左からぐるりと刃を回すようにして再び振り下ろした。
宙から迫る虎千代と、煉介さんの振り下ろした剣が再び交錯する。二人の攻撃はほぼ同時に見えた。その剣はどちらも振りきられ、互いの肉を切り裂いたように見えた。
大きな金属音と、鈍くこもった打突音が重なり響いたのはそのときだった。
気がつくと、飛び違った虎千代は煉介さんのはるか後方にいる。着地に失敗したのか、そのまま前のめりに倒れた。
もしかしたらあの一瞬で、煉介さんに致命傷を与えられたのかも知れない。
あの不吉な打突音は虎千代が骨か内臓を傷つけられた音だったのかも知れない。
僕は虎千代の様子を見守った。
すると。
やがて、ゆっくりと虎千代が立ち上がるのが見えた。
「虎千代・・・」
煉介さんの声がしたのはそのときだ。ついでがらん、と重たい金属音がした。僕は、それで煉介さんが大太刀を取り落としたのだとようやく気がついた。
「完敗だ」
煉介さんが言った。虎千代は膝を払って立ち上がると、再びこちらを振り向いた。
愕くことにその身体には傷一つ、つけられていない。
かわりに煉介さんの肩口には鋭い太刀傷が血を滲ませていた。
「煉介さん…」
虎千代の剣が、ついに届いたのだ。虎千代の腕もさることながら、小豆長光の威力も凄まじかった。剣は煉介さんの鎧を割り、完全に肉まで届いていた。刃は右の鎖骨を割り、ほぼ鳩尾まで斜めに斬り裂いたらしい。ここを傷つけられては、剣は持てない。すでに煉介さんは完全に戦闘能力を喪っていた。
虎千代が勝った。
その事実に、いまだに現実感がなく、まるで僕は夢を見ているような気分だった。膝が笑って今でも自分が宙に浮いているような感じだった。一気に緊張の糸が切れた。
虎千代は白い息をつくと、ゆっくりと残心をとった。その吐息も緊張がまだ切れていないのか、かすかに震えている。懐から懐紙を取り出すと、煉介さんの血と脂を拭い、虎千代は鞘に収めた。
「これで満足したか」
虎千代は、負傷に堪え切れず膝を突いた煉介さんの方を見て言った。
「ああ」
と、煉介さんは頷いた。傷口からは血液とともに体温が流出し、虎千代よりも声の震えはひどくなってきている。煉介さんは震える手でその傷口を押さえた。
「際どかった。我もいつ死ぬかと、何度も覚悟を決めた。お前ほどの技量を持つ相手と立ち合えたは、武門の誉れぞ。感謝する」
「感謝するのは俺の方さ。楽しかったよ。まさかこれほど、死力を尽くして戦えるとは思わなかった。不思議だ。今、もう何も思い残すことはない気分だよ」
くっ、くっ、と乾いた音を立て、煉介さんは笑った。
もはや勝負は着いた。
こうなればもう、敵も味方もなかった。
「まずは煉介に血留めを」
手当をしようと僕が駆け寄ると虎千代は真っ先に、煉介さんの方を案じた。
「いいさ」
「つまらぬ強がりを言うな。もしかしたらその命、拾うかも知れぬ。次はそれに賭けよ。今度はお前を、我らが生きたままここを落ちさせてやる」
「無茶言うなよ。俺はもう駄目さ」
みるみる赤黒く濡れていく自分の掌を眺め、煉介さんは言った。その声もさっきとは見る影もなく弱々しくなっている。煉介さんの傷は紛れもない致命傷だ。端から見ても僕には、それが手に取るように感じられた。
「さっきも言ったろ。今が最高の気分なんだ。俺は戦国の世を生き切った。吹っ切れたよ。虎千代、君のお陰だ。今だったらもう、俺は死んだって構わない」
「馬鹿を言うな」
切なげに表情を歪めて、虎千代は言ったが、その傷の深さは斬りつけた自分がよく判っていただろう。血が器官に入ったか煉介さんの呼吸は、か細くも苦しげだった。目を閉じ、傷に堪えている表情は、うつろになりかけていた。
その瞬間だ。仰向けに煉介さんがぐらりと倒れかけた。
僕は思わず、煉介さんに駆け寄っていた。虎千代とともに血にまみれた身体を抱き起こした。僕の服や手はみるみる煉介さんの血で染まった。しかし、不思議なのだ。今、身体から流れたはずの血はもう、冷たかった。
「真人、頼む。胴丸を脱がせてくれないか」
それはひどくゆっくりとした、穏やかな口調だった。震えすら弱まったその唇から漏れいでた声を僕は、一生忘れることが出来そうになかった。
煉介さんはその僕に向かって、静かに言った。
「俺は、腹を切る」
今年も応援ありがとうございました。次回は新年です☆来年も引き続きよろしくお願いいたします。それでは皆様、よいお年を。




