満州に去る劔、再び開く戦端…!
「どうだ、久遠。…貴様も来んか」
広野の乾いた夜風が、容赦なく吹き込んでくる。
劔は、かつての余裕を取り戻していた。人為では抗うことのかなわぬ運命が三度、この男を救おうとしている。
一体どんな偶然の歯車が噛み合って、こんなことが起こってしまったのか、それとも劔の言う通り、この『奇跡』が起きるのは予め定められた道筋の果てにある『必然』だったのか。
僕には分からない。分かったところで、無駄だ。すでに事態はそこで新天地を切り開いてしまっているからだ。
「えっと、うちも、もちろん着いていってええんですよね劔閣下」
いそいそと、道満が僕の脇を通り抜けようとする。劔と違って、この女だけは撃ち殺せる。だが、今さらそんなことをするのも、無意味な気がした。
「またなあ、弟弟子クン」
挑発するように、道満は言った。
「あの高慢なお師匠の鼻っ柱を折るのは、また今度にしとくわ。次はあんたたちに負けへん仕掛けを用意しておく。よう覚えといてや」
僕は薄ら笑いを浮かべながら、劔についていく道満を見た。だが、その場の負け惜しみを口にする気にはなれなかった。
「別して、私の勝利だと誇る気はないよ真人くん。…ここで今さら言うのもなんだとは思うがね」
代わりに僕の心意を読み解いたのは、劔だった。
「禍福はあざなえる縄のごとし、と言うだろう。ここで私が十界奈落城へ戻ることが、後々どんな運命を私に引き寄せるかは分からない。すべては私と言う『駒』を、盤上に配する誰かの『意図』によるものだからね」
「まるで自分がすることには、責任がない、と言う言い方だな」
僕はやっと、それだけを言った。
劔は、声を枯らして苦笑した。
「それは違う。真人くん、私も人間だ。人間の意思で為したことについての責任は負う。私がこれから君たちを、攻め滅ぼしたとしよう。歴史上からいなくなる武田信玄と上杉謙信と言う人物がもたらす運命について、私は出来うる限りの責任を果たすつもりではいるよ」
「傲慢さが戻ったな」
「囚人から、指導者に戻るのだ。…君にはその苦労は分かるまいよ」
「あんたが目指す運命には従わない」
「それでいいのだよ」
劔は、僕を真っ向からみて言った。
「長尾虎千代たちとまた、命懸けで抗うがいい。…それでこそ、我が運命に意味が生まれてくる」
それから劔は、久遠の方をちらりと見た。去り際、久遠からの何らかの答えを待っているとでも言うように。
「閣下、おれは行きませんよ」
と、久遠は言った。
「憶えていますか。あなたは以前、おれがまだ『奇跡』を待ち望んでいると言うような話をした。かつて確かにおれはあなたに『奇跡』を見た。今もあなたは、それを見せてくれているのだろう」
久遠は言葉を切ると、僕の手から銃を奪い取った。
「おれはあなたの運命の末路を見届けたい。だから、ここへ残ることにした。それに過去のについての清算はもう、ついている。今さら何かをやり直す気はない」
「…なるほど、よく分かった。それがお前が選んだ『運命』の選択だと言うことだな久遠」
久遠は返事をしなかった。しかし黙って銃口を劔たちに向けた。それが答えのようなものだ。
「過去を振り返らずか。悪いことではない。私も君が望む場所へたどり着くことを、陰ながら祈っているよ」
銃口を向ける久遠の肩に手を置くと、劔は通りすぎて行った。久遠は銃をテーブルに置き、あとは久遠たちが去っていくであろう、満州の広野から流れてくる風に、なぶられるままにしていた。
「ドアは開けておく。かつての喪われた満州を好きなだけ、味わうといい…一度閉めたら、元の世界へ戻れるようになっている。また会おう、二人とも」
悠々とした足取りで、劔は小屋を出て行った。外には、がらんどうと言うに相応しい形容の開けっ広げ過ぎる月明かりが冷たく降っている。少し駆け足の道満の後ろ姿がそれに加わった。二つの人影は、少しずつ輪郭を失くして遠ざかっていく。
こうして劔は、再び自由の世界へ出て行ったのだった。
「少し待ってくれ」
ドアを閉めようとした僕を、久遠は止めた。二人を追う気ではないようだった。ただ、この満州の風が懐かしくて、離れがたかったのかも知れない。
「逃げられた?…それは本当かい、真人くん…?」
さすがに信玄は、何回か説明をしないと、劔に脱出されたことを理解できないようであった。僕たちにも、まだ事態が理解できていない。説明しながらも、納得しようとしているような段階だ。
「油断していました。これで道満を追い詰めたつもりでいたので」
「いや、それは違うだろう」
反射的に言ってから信玄は、己の中で思案を深めた。
「私は君たちの術のことはよく分からないが、それ以上のことが起きたに違いない。そして恐らくそれは、劔自身も予想の範疇を超えたものだったのだろう。…私は運命は信じないたちだが、事実は否定しない。密閉された小屋から、劔たちがいなくなった以上、それが真実だ。私たちはそこから考え始めるしかない」
「劔は行ったのか…あの満州とやらの広野に」
虎千代は、なんの説明も僕に聞き返さなかった。
ただ、あの満州の広野が展開された小屋に、僕と来たがっただけだった。今、当然ながらドアを開け閉めしても、そこには劔が去っていった光景はない。
しかし、芦屋道満を追って僕と夜の満州の街をさまよった記憶が蘇るのだろう。
「思えば長い夢だった。…夢だとて、よもやあんなこところまで、お前と行けるとは思わなかったぞ」
虎千代の言う通り、ただ他人の追憶の中に入っただけと言う気がしない。夜の満州の空っ風も、人気のない広さも、僕たちが肌で感じたことだ。歴史に刻まれた運命は、僕たち日本人をどうしてあんなところまで連れて行ったのか。思えば思うほど、気が遠くなっていく。
「目覚めればまた、いくさだな」
虎千代の目はしかし、すでに僕たちの未来へと矛先を向けている。
「この時代の果てがどうあれ、今、わたしたちが道を切り開かねばな」
運命は、切り開くものなのか、否応なく従わざるを得ないものなのか。人の世を操る存在なのか、それとも試練を与えるものなのか。つい、考えてしまうときがある。
僕はでも、虎千代の意志を信じたい。諦めて、従うことを納得しなくてはならない、そんな未来よりも強く。
劔が十界奈落城へ戻り、再び戦端は開く。
この戦いが抗いがたい運命との闘争なら、僕たちは精一杯、切り開くのみだ。
今年もお読みくださりありがとうございます。本年最後の更新、遅れて申し訳ありませんでした。そして来年の更新は2日、また日曜を過ぎてしまいます(-_-;)それでも来年も、十分な態勢をとって連載は守っていきますので、23年もどうぞよろしくお願いいたします。




