天王山会談衝撃の事実!煉介さんの行方を追う僕たちが見たものは!?
黒姫の下知で、軒猿衆の少年はその小さな体格を活かして社殿の中に潜んでいた。目的は輿に隠れた菊童丸を確認することだった。いざと言うときは、混乱に乗じて菊童丸の身を確保する。そのときは、黒姫自らは煉介さんの刃の下を、掻い潜ることも覚悟していたようだ。
御簾のかけられた輿が、煉介さんの率いる足軽たちに担がれて弾正の陣に入ったのは、間もなくのことだ。
床几に腰掛けた弾正は自ら出ていき、次期将軍の少年を迎えた。三好家に菊童丸の身柄が渡る。ついにそのときが来たのだ。さすがの弾正も興奮の色が隠せない面持ちだった。
「ようやってくれた」
煉介さんは甲冑姿でひざまずいたまま、目礼した。
「一時は肝を冷やしたが、これで三好家は安泰や。お前のお陰やぞ、ご当主にもそのことはよく言うておく」
弾正は破顔すると、菊童丸に向かって膝を屈した。
「御曹司、三好長慶が家人、松永弾正久秀にござりまする。こたびは、お初にお目にかかりまする。遠路の道のり御苦労をおかけいたしました」
すると御簾が音もなく開き、菊童丸が姿を現した。
少年が見た菊童丸は藍色の素襖に烏帽子を被り、脇差のみ腰にしていたと言う。長い転変の生活にもやつれた様子もなく、顔つきにも力が宿っていた。
「おのれが京で評判の霜台(弾正台の別名)であるか。ここまでの足労、実に大儀」
人質ながら菊童丸が威厳に満ちた口調で言うと、弾正もさすがに恐縮の体を見せなくてはならなかった。
「霜台の名、ご記憶頂け恐縮でござる。されど、汗顔の至りでござりまする。我が名と申せば、京では悪評ばかり聞こえてきましょうゆえ」
刺すように瞳の切れ上がった弾正を一瞥して菊童丸は、胸を張って笑った。
「いや、思うたよりは悪くはなさそうだ。書簡では何度かやりとりはしておるが、筆よりは武張っておるわ。悪評に似ず、よき武者ぶりよ。こたびは、よしなに取り計らってくれ。重ねて疎漏なきよう頼むぞ」
「その点は、重々承知にござりまする」
菊童丸と弾正は引き渡しの以前に、何度か手紙での行き来があったようだ。そのためか初対面とは思えないほど、やりとりはスムーズだった。
「童子切よ。色々と世話になった」
菊童丸は、弾正と同じように輿の傍らに膝を屈している煉介さんに声を掛けた。
「この上は是非もあるまい。長尾殿にはお前から、よろしく言うておいてくれ。そもそもが複雑怪奇な畿内の政治に巻きこんで、心苦しく思うと」
少年とは思えない温情に満ちた菊童丸の言葉に煉介さんは思わず礼を忘れて顔を上げ、年若い足利将軍の御曹司の顔を見直した。菊童丸は別にそれも咎めず微笑し、
「長尾殿の家には、未来から来たと言う者がおったな。その者にも大分世話になったのだ。言葉をかわす機会があったら、よしなに伝えてくれ。馳走になったあいすくりむ、とやらの礼、果たせぬじまいゆえ」
「その者はよく存じています。確かにお引受け致しました」
煉介さんは、平伏した。菊童丸はその様子をしばし眺めていたが、
「さて弾正、支度は調いたるか」
「万事、抜かりなく調えてはござりまするが、まだここで、粗餐を差し上げるくらいの間はありまする」
「食事は不要じゃ。時を移せば、こちらも気持ちが濁る。すぐに行こう」
この菊童丸のきっぱりとした物言いに、なぜか弾正は気圧されたようだった。
「これは・・・さすがは、偉丈夫の器でござりまする。なんとも晴れがましきお言葉か。承知致しました。では、すぐにでも参りましょう」
ここで煉介さんは、今までのやり取りに違和感があったのを少し感じたかも知れない。弾正はすぐに行こうと言う菊童丸の言葉に、なぜそれほど狼狽したのか。移送はそれだけ手早く行われる必要があるのか。
菊童丸が案内されて奥に引っ込むその姿を、煉介さんはやや訝しげに眺めていたのだが、引き渡しまでが自分の領分だった。余計な詮索はやめにし、こちらも手際よく下がるべきだと思い直したようだ。
「では、弾正様、我らが話は、菊童丸様が行かれた後でござりまするな?」
「ああ、そうなるな。だがな煉介、お前まだ帰ってもらったら困るで」
菊童丸を見送った弾正は白く潤んだ眼裂に、再び野蛮な本性を取り戻して言った。
「ぜひにお前も手伝ってくれんとな」
「手伝う?」
煉介さんは思わず問い返した。
「そうや。なにしろ御曹司は、遠くへ行かねばならんのやからのう」
眉をひそめいぶかしむ煉介さんの表情を、弾正は刺すような目つきでしばし見上げていたが、
「こっちや。お前に見せたいものがある」
と、あごをしゃくった。
そのとき少年は気づいたのだが、弾正が案内した陣の奥に、さらに一間設けられていたのだ。菱型に広がりを見せる松永氏の蔦の家紋の幕の向こう、その場所は厳重に封鎖され、見張りが立てられている。
弾正は煉介さんを案内していったのだが、そこに用意されたものを覗き見て、忍び入った少年も思わず表情を強張らせた。
葉をすっかり散らせた年経た大銀杏の根元、畳敷きの板が一枚、ぽつんと置かれている。金欄の絵屏風が立てられている他、三方に捧げられているのはむき出しの茎を懐紙で包んだままの短刀が一差し。
「これは・・・」
煉介さんは、一気に顔から血の気を引かせた。言うまでもなく、切腹の席だ。
背後の弾正が唇を引き攣らせて、囁くようにつぶやいた。
「言うたやろ。遠くへ、行くんや、と」
貴人の死を、『死亡した』と書くことを忌み、当時の武士の間では『御遠行』とすることがある。弾正の物言いはまさに、それを暗喩したと言える。
「先の御曹司とおれのやり取りを見て、気づかんかったか。朽木谷と堺、二つの幕府の争いに終止符を打つために菊童丸様は、腹を切ることとなった。この天王社は、御曹司御遠行のために不備なきよう、おれが選んだのや。おのれが引き受けたのは、その死出の見送りまで。それがおれとの引渡しの条件やぞ」
「約束が違いまする」
突き返すように詰め寄った煉介さんが、さらに何か言いかけたその口を封じるように弾正は言葉を被せると、
「おっと、その言葉は言いっこなしやぞ、煉介。将軍家に害なす行動に手を染めた時点でお前はとっくに共犯、天下の大罪人や。このくらいのことで今さらなんや」
「御曹司は生かす、その約定のはずです」
煉介さんはさすがに顔を引き攣らせ、目を剥いた。
「これは、菊童丸様も納得の上のことや。そもそもが義晴公の要らん横車のせいで、適齢の義維様はいつまで経っても、将軍になれん。代わりに年端もいかぬ童が将軍になると。これは必ずや畿内騒乱の火種になる。収拾をつけるには、早々に手を打つべし。でなくば強情な義晴公は容易に得心せんわ」
この弾正の理屈は、無茶苦茶なように僕にも思えた。だって親の都合で望んでもいない地位につけられた年端も行かない菊童丸を追い詰めたばかりか、代わりに今度は弾正たちが自分の望む人間を将軍職につけたいばかりに、菊童丸自ら望んでもいない死を選ばせるよう仕向けたのだ。どんな理由があったって、むごいとしか言いようがない。
「血を分けた息子を殺されて、納得する親がいると思いますか」
押し殺したような煉介さんの声を、弾正は無慈悲な声音で押し返した。
「それが乱世の政治や。無理にでも義晴公が意地を通せば、畿内は治まらん。ここは一つ、決定打が必要な時期なんや。禍根の種は今、絶たねばさらに多くの犠牲が出るのや」
しばらく二人は無言で睨みあっていたが、弾正は煉介さんを冷たく澄んだ目で睨みつけ、言い放った。
「そもそも殺すなどと、人聞きの悪いことを言うてもらっては困る。御曹司は、応仁以来の無益の大乱を封じ、我ら下々を安らかならしめんがため、大義を以て自ら死を選ばれたのや。けだし大勇と言わめ。その介錯を勤めることは、御曹司の死出を安息のうちに見送る、名誉の役と心得えなければならんのや」
弾正は言うと、あごをしゃくった。人を呼ばわったのだ。やがて二人の前に、古風に拵えられた備前鍛冶と思われる一刀が引き出されてきた。朝露に濡れそぼったように瑞々しく光る刃を弾正は煉介さんの前に差し出して、
「菊一文字則宗や。古備前でも天下の名刀、本来なら門外不出で値のつかんほどの名刀や。御曹司の首を打つに、これほど相応しい名刀はないやろう。見事、介錯を遂げた暁には、おのれにこれを呉れてやる。お前の野望への手付け代わりや」
押しつけるように渡された名刀を、煉介さんは手に取った。冴え渡った刃は自然と、煉介さんの手に馴染むようにしっくりとはまった。
煉介さんは鍔元から太刀先を見透かし、それから手首を動かして小さく剣で空を切った。あまりの名刀に魅入られ、煉介さんは集中しているのか、さっきと打って変わって表情の読めない顔になっていた。その様子を見ていると、弾正にとってはさっきまでのやり取りが杞憂のように思えたのだろう。
弾正はたちまち鼻の頭に、笑い皺を浮かべた。
「やる気になったか。さすがは天下の名品や。いずれ、お前もこれを腰にして、似合うほどの武将になるやろう。気をしっかり持って天下一等の介錯役、立派に励んでくれや」
死出の越後帷子をまとった菊童丸が、介添え役に付き添われて姿を現したのはそれから、十五分ほど後のことだった。
介錯役が煉介さんであることに気づき、菊童丸は微笑した。
「見送り大儀。介錯が、凄腕のお前で良かった」
菊童丸の顔色はやや蒼褪めていたが、その話しぶりはほとんど変わっていなかった。
「お前には何も話していなかったな。だが、こう言うことなのだ。余を将軍にしようとて無理な横車をすすめる父のやり方にも、そもそも余は賛同できぬし、これ以上、将軍職をめぐって無為な騒乱が続くにも堪えがたし。この童子首一つでことが収まるなれば安いものではないか」
「菊童丸様・・・」
自分を殺す剣を携えた男を、菊童丸は澄んだ目で眺める。煉介さんはその様子をどんな思いで眺めていただろうか。僕ならたぶん、その場にいることが堪えがたかったはずだ。まだ、中学校も卒業していないような男の子がここまで悲壮な覚悟を決めているのだ。あまりにむご過ぎる。そんな運命を甘受して、その上、自分を攫った煉介さんにまで、礼を尽くした気遣いを見せる。そのことだけでも、この少年はここであたら犬死するような器量の持ち主ではなかった。
「言うたはずよ。この上は理非に及ばず」
愕然とした表情のまま煉介さんは口を開こうとしたが、菊童丸はそれ以上、意見することを止めた。
「一鵡斎を斬った腕一等と、かささぎが誉めていた。おのれの腕なれば楽に死ねるであろう。この期に及んで、運を拾ったわ。僥倖よ」
菊童丸はこの後、弾正の席に至り、後事を託すために二言、三言の話をした。
そうして検分役が合図をし、ついに切腹の運びとなった。
帷子の袂をくつろげ、菊童丸は冬の寒気に素肌を晒すと、三方の上から刃を押っ取り、しばしその研ぎ澄まされた刃におのれの最期の表情を映した。それはそこに怯えや躊躇の色が少しでも浮かんでいないか、自ら確かめるような表情だった。
その間に刀身に柄杓から汲んだ清水を打った煉介さんは、朝陽を受けてきらめく露を見ている。水のような表情には、もはや何ものも浮かんでいないように見える。
菊童丸は大きく息をついた。尾を引くような長い吐息はさすがに震えて、それは切腹刀を持つ右手にまで伝わった。菊童丸は唇を噛むと、ぶるぶると震える手を反対側の手で押し留めた。そして小さな声で、
「やはり、怖いな。中々心が定まらぬか」
それは気丈な菊童丸が、精一杯の強がりからふと垣間見せた一生に一度の本音かも知れなかった。
「すぐに介錯を致します」
「いや、それは無用」
懸命に呼吸を整えながら、菊童丸は言った。
「武門に生まれ、最初で最期の晴れの舞台よ。本意、遂げさせてくれ」
その言葉に打たれたように煉介さんは本当に悲痛そうに、顔を歪めた。
「さて、これで永の暇乞いじゃ。さらば」
菊童丸が切腹刀を逆手に持ち、へその下に切っ先を押し当てる。そこから両手を固定して体重を預け、切っ先を差し込み、さらに引き抜いて鳩尾から真下へ十文字に切るのだが介錯はその堪えがたい苦痛の後だ。型どおりに行われることは少ないながらそれが作法であり、信じられないことに少年の菊童丸はそこまで遂げようとしていた。
水揚げされた鮮魚のように銀色に輝く刃が、菊童丸のまだ幼さを残した肉体の中に吸い込まれる。腹の皮を裂き、肉を分けてその臓腑に必死の刃が突き込まれる。そうなればもはや手遅れだった。しかし、まさにその直前だった。
「とまれ」
煉介さんの大音声が響き渡り、死を覚悟した菊童丸が、はっと動きを止めたのはそのときだった。
「切腹は中止だ。俺は、あなたを殺す気でここまで連れてきたわけじゃない。あなたはここで死ぬべき人間じゃない」
「煉介、おのれ正気か」
悪罵の声を浴びせたのは、もちろん弾正だ。しかし煉介さんは意に介さない風で菊一文字の刃を下げ、菊童丸に切腹刀を置かせると、断固とした口調で言った。
「あんたにまったく同じ言葉を返す。俺は御曹司を殺さない。今、分かった。一番、いかれてるのは、やっぱりあんただ」
「煉介えいっ、くそぼけがっ、こっ、このっ血迷いよって」
猿に似た金切り声の絶叫を上げて、弾正が立ち上がったのはそのときだった。
「よう考えいっ、おのれもう止まれへんのやぞっ!今さら、どっちへ転ぼうと天下の大罪人やっ!何も得ることなく、素寒貧の大悪人として首を打たれたいかっ」
「御曹司を斬ったら、俺は必ず後悔する。何を喪っても、俺は後悔してまで生きたくない。ただ、それだけだ」
煉介さんの言葉は、確信に満ちていた。捨て身で死に臨んだ菊童丸の居様が、煉介さんに目覚めさせ、本来の煉介さんに戻させたのだ。
「そうか煉介、お前の心胆、よう分かったわ」
どす黒い殺気に満ちた目で弾正は煉介さんを見返すと、後ろの幕に合図をした。
「道按っ!出て来いっ、おのれの出番や」
暮坪道按。意外な人間の名を弾正が口にし、煉介さんは、はっと目を見張った。
「童子切、久しいのう」
かささぎに手首を斬られた道按は、しぶとくまだ生き延びていたのだ。戦場で傷ついた身体を隠し、この悪党放免は反撃の機会を狙っていた。しかし元より、傷ついた道按の腕で煉介さんに太刀打ち出来るとは思えない。道按が邪悪な笑みに顔を歪めて出てきたのは、その左腕に人質を抱え込んでいるからだった。
「おのれ、この小娘の面、よう覚えておるやろ」
そこにいるのは、鼓花だったのだ。無尽講社によって助けられたが、声を喪い、楽器を奏することで戦国の世を渡るしかなかった不遇の女の子だ。まだ自分の境遇と事態を理解し切れていないのだろう。鼓花は苦しそうに息をつき、震えていた。暮坪道按がその首に刃を突きつけている。弾正は煉介さんの動揺を十分愉しむように言った。
「侘阿弥の親方に会うたとき、ぴんと来てな。駿河の豪商から買い取らせてもろうたわ。安うはない値段やで。まあ、鯛を釣る海老にしては高うはないかも知れんが」
人質によって完全に煉介さんは動きを止めた。弾正は菊童丸に切腹の席に戻るように言うと、改めて煉介さんにその言葉を継げた。
「お前が悪いんや。お前が詰まらんこと言い出さねば、おれは、こんなことせんでも済んだのや。この道按が密告してきたのやが、お前が長尾の姫様に引き渡し交渉の日時をこっそり漏らしたことも不問にするつもりやった。ここでお前がすっぱり、御曹司が首を打ってくれれば水に流す気やった。それをお前が裏切りおったんや」
煉介さんは菊童丸の方を見た。菊童丸は心を決めているのか、もういいのだ、と言うように首を振っただけだった。
「ともかく切腹は絶対や。おのれのこれからの身の振り方はどうあれ、ここでどうあっても、お前に斬ってもらうぞ。さもなくばこの、小娘を刺し殺す。二つに一つや。はよう決め」
「分かった」
ふーっ、と大きく、煉介さんが息をついたのはそのときだった。菊一文字を片手に提げたまま、煉介さんは肩を落として全身から一旦力を抜いた。決心したと、弾正は踏んだのだろう。
「そうや、とっととやらんかい。やれえっ」
と、弾正が金切り声を上げた瞬間だった。
菊童丸の三方から切腹刀を取り上げた煉介さんが、大きく振りかぶってそれを投げた。縦回転しながら短剣は凄まじい勢いでほとばしり、人質を抱いた暮坪道按のちょうど右の鎖骨下の辺りを刺し貫いた。
「ぎゃっ」
深々と肉を差し止められ、道按の絶叫がこだました。その息を吐くまもなく。
一瞬で距離を詰めた煉介さんが、一撃、道按のあごを殴りつけ押し倒した。そしてまるでそこから鼓花を引き剥がすように奪い去る。口の利けない少女を左手で掴み上げた煉介さんは、菊童丸に向かって走るように促した。
煉介さんはそのまま、顔に憎悪の血の色を漲らせた弾正と対峙する。
「ふっ、ふざけおって」
腰の太刀を抜いた弾正は、口角泡を飛ばすような勢いで絶叫した。
「おのれえいっ、お前どう言うつもりなんや」
「どうもこうもないさ。先輩、忘れたか」
俺たちは悪党足軽だ。
と、煉介さんは言った。
欲しいものを買ったりしない。
僕は煉介さんがそう言っていたと聞き、思わずはっとした。それはちょうど僕たちが戦国時代に流されてきたばかりのある日、人市で絢奈を助けてくれたときに、言っていた言葉と同じだったのだ。
「欲しいものは自分で手に入れる。あんたの助けを借りたのが、そもそもの間違いだ」
「抜かせっ、この阿呆」
弾正が振り切った太刀の峰を狙い、叩きつけるように煉介さんの剣が走った。きいん、と言うけたたましい衝撃音とともに弾正の剣が、あっけなく腹から折れて吹っ飛んで行った。
強烈な一撃だ。同じ日本刀を切ったのに、菊一文字の方にはむろん、刃こぼれ一つ残らない。
「なるほど、名刀だ。とりあえずこれは頂いておきますよ、先輩」
苦笑に似た笑顔を浮かべ、煉介さんが言った。すでにこの場、立場は明白だった。弾正が人を呼べば煉介さんは絶体絶命だが、どの道それよりずっと早く、弾正は煉介さんに確実に殺されるだろう。
「煉介」
苦々しく顔を歪めた弾正は、すでに激情が言葉にならず絞り上げるような声を上げた。しかし次に苦痛を得るのはどちらの方か、この男にも判っていただろう。
「あんたの遊びに付き合ったんだ。今度は俺に付き合ってもらいますよ。先輩、悪いが縄目の恥辱を受けてもらう。俺らの水先案内をしてもらいましょう」
「煉介め、弾正を人質にとったか」
そこで初めて、気鬱だった虎千代の表情に晴れ間が見えた。
「それでどうなった」
「異変が起きてから駆けつけたわたくしは、あわてて追跡を放ちましたです。その頃には煉介さんは弾正を人質に輿を担がせ、危うく山を落ちるところで。鼓花さんを背に、菊童丸様が落ち延びられるのも確認してますです。あの年齢でさすがは豪胆な方です」
菊童丸は馬上で言葉にならず、ただ大笑していたと言う。
よっぽど煉介さんの選んだ決断と行動の次第が可笑しかったのだろう。
「で、大山崎の街で弾正を解放してから煉介は、御曹司を連れて京の街へ潜り込んだのだな。それから松永勢が入り込んできて半日、か。あやつらは無事、街を抜け出せていると思うか」
「分かりませんです。童子切煉介は菊童丸様を連れておりますし、鼓花と言う女の子も一緒のはずです。京から早めに伏見口を脱して伊勢から海路、東海へ落ちると言う遁走路もありますが、足弱を連れての移動ではそこまでは厳しいと思われますです。弾正は、一緒に逃げた者の顔ぶれを知っておりますからねえ。下手にその辺りで解放するわけにもいかないと思いますですよ」
「御曹司を匿いながら、煉介は京都に潜伏している。今の状態ではろくに身動きもかなうまい。探すなら、今だな」
今しかない。そう思って僕は、勢いこんで虎千代に言った。
「煉介さんを助けよう。作戦の続きだ。僕も一緒に行っていいだろ?」
「ああ、頼むぞ。今度こそ、やろう」
僕に向かって力強く頷くと、虎千代は黒姫を見た。
「童子切に追いついている軒猿衆どもも、今頃、潜伏場所を突き止めているかも知れませんですよ。案内はお任せ下さいです」
北東の空が、赤々と燃えている。松永勢の乱妨狼藉が極に達しているのだろう。民家への略奪や暴力も行われているかも知れない。
タイムリミットは、夜明けまでの数時間と虎千代は捜索時間を区切った。
「我らも顔を憶えられている。それ以上は難しいだろう。これは時間との勝負ぞ」
捜索は、最悪の戦場で行われる。しかし不思議と、恐怖感はなかった。僕はずっと、煉介さんのことを考えていた。かささぎを斬り捨てたときに見せた、あの表情の下。そこにまだ、僕たちが出会ったばかりの頃の煉介さんがいた。僕を、絢奈を、そして虎千代をこの京都で見つけ、居場所を与え、救ってくれた煉介さんだ。今まで僕たちの間にどんなことがあったって、僕はあの人を助けなくちゃならない。ずっとそう思っていた。
時を分け、長尾勢は伏見から鞍馬山へ目立たぬように撤退し、別路、僕たちは京都に入り込んだ。月明かりだけが頼りの夜半だ。厳戒態勢が敷かれた街中では、あらゆる町木戸が閉められていて、薄暗い街路には、野良犬一匹うろついてはいなかった。
どこかで火事の気配がする。破壊音と叫喚、男たちの怒号と悲鳴を遠巻きに、僕たちは暗闇の京都を進んでいた。かすかな月明かりが青白く僕たちの行く手を照らしていた。
伏見口から市街へ入ると、鴨川べりを河畔から北上し、上京の街区まで向かう。最初に会った軒猿衆の話では、煉介さんは桂川方面から京へ入ると、下京の街区を横切って北西方面へ向かったようだという。跡を追ううちに続々と目撃情報が集まってくる。
「あやつめ、危うい真似を」
虎千代は歯がゆげに顔をしかめた。もともと煉介さんは百近い兵たちを連れていた。追いすがった松永勢と引き返しては衝突し、辺りを省みない市街戦が幾度も繰り返されていたようだ。
煉介さんの進路は朽木谷方面だ。察するに、菊童丸を逃がすために自ら殿戦を行い、追っ手を食い止めていたと思われる。ただでさえ寡兵が勢いに乗った大軍に追いすがられてはひとたまりもないものだ。虎千代が一言、危ういと評したのも無理もなかった。
煉介さんの手勢は道々でその数を減らし、市内を抜ける前に散り散りになり、もはや軍勢の状態ではなくなったと言う。煉介さんは菊童丸を擁して北へ向かっているのだろうが、松永勢が先手を打って封鎖作戦を徹底しているため、市内を脱出出来る公算は極めて薄い。
非戦闘員を連れて逃げていることが煉介さんにとって、かなり不利に働いていることは言うまでもない。弾正も煉介さんが、無茶な逃げ方は出来ないだろうと見て、夜半からはその潜伏場所の捜索に手間をかけだしたようだ。
辻に立つとどこかで聞こえる断続的な悲鳴と衝撃音は、戦闘と言うよりは、やはり簒奪と拷問の気配だった。弾正は煉介さんが立ち寄りそうな場所を徹底的に駆り出しては、潜伏先を虱潰しに捜している。残虐な拷問が許可され、街には凄惨な遺体が放置されていた。煉介さんに少しでも関わった者や関係あるとみなされた者は問答無用だ。
僕たちはしばしば道端に放置された惨殺体を見た。殺されているのは、逃げ遅れた辻君(街頭娼婦)であったり、荷を奪われた旅途中の商家風の男であったりしたが、民家から引き出されたと思われる民間人もいた。恐らく足軽残党狩りの犠牲になったと思われる。
軒猿衆の続報をたどり、賀茂神社の近くまで僕たちが来た時だった。
しゅうしゅうと何かが焼け焦げるような音が近づいてくる異様な気配がし、僕たちは思わず身構えた。
「あれは…」
僕は緊張のあまり、不可解な幻を見ているのだろうか。
人工の明かりの見えない大路の向こう、ぽつりぽつりとあるはずのない焔明かりが見えるのだ。螢のようにそれは上下に奇妙な揺らぎを繰り返し、一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。しゅうしゅうと立ち上る音にやがてパチパチと何かが爆ぜる音が加わり、それに、ぐうう…と言う断末魔の獣が呻くような低い、底冷えするような響きが混じっているのに気づいたとき、僕たちはその不可解な現象の正体を理解した。
向こうから歩いてくるのは、やはり人だ。
足取り危うく、よろめくように身体が上下しているのは、松明の明かりを持っているからではない。背中に火をかけられたからだ。
漆黒の闇を嘗める舌に見えた禍々しい火炎が、じりじりと人脂を焼く異様な風味を立ち上らせながら、辺りを照らしていた。この低いうめき声の正体は生きながら焼かれる男たちの苦悶の断末魔であり、甲斐のない抵抗なのだった。
拘束された足軽たちの身体は蓑でぐるぐる巻きに縛られ、たっぷりと油をかけられた上で放火され、再び街へ離されたのだ。
これは、悪名高い蓑踊りだ。
残虐さで鳴る松永弾正がもっとも得意とした拷問の一つだった。弾正は年貢を納めない大和領内の農民たちを集めると、しばしばこの拷問を実施したと言う。尋常な神経の持ち主が思いつくことではない。
まるでこの世の地獄そのものとしか言いようがない光景を目の当たりにして、僕は喉までこみ上げてきた苦い嗚咽を噛み殺しながら、戦慄を禁じ得なかった。
「外道め」
男たちは舌を噛んで自殺することを封じるためか、布を噛まされていた。異様な低いうめき声はそのためだ。これには、虎千代もさすがに眉をひそめた。
虎千代は倒れこんだ男たちの火を叩き消し、苦しむ者には止めを刺すよう命じた。もはやこうなると手遅れだった。苦悶を長引かせぬためには、今はそれしか、とってやれる措置はない。
瀕死の男たちの中になんと見慣れた男の顔があった。無骨の若軒だった。弾正が煉介さんと関わった人間はすべて目の敵にしているのは事実のようだ。本来は敵対していたこの足軽の棟梁ですら、関係者として無差別に襲われているのだ。
「おっ…お前らっ、煉介の…」
と、言うなり、若軒は脂汗の浮いた顔を上げた。焼かれる前に拷問を受けたらしく、もはや衰弱は限界に近づいていた。
「せめてもの情けだ。今、楽にしてやる」
虎千代は脇差に手を当てると、苦悶に顔を歪める若軒のもとに屈みこんだ。
「すまん。わしはもう駄目や、そうしてくれると助かる」
弱々しい声で若軒は懇願した。何と言うことだ。苦痛に気力を喪い尽くし、老人のような顔になった若軒を虎千代はいたたまれない表情で見つめて、つぶやいた。
「まさか、お前らまで犠牲になるとはな」
止めを刺そうとした虎千代に向かい、若軒は最期の力を振り絞ってあごをしゃくった。それは僕たちが行こうとする賀茂神社の方向だった。
「糾の森…糺の森へ行ってくれえ」
「そこに、煉介めがおるか」
ああ、と荒い息の下で若軒は頷くと、
「椿森の社…松永に殺されたくなかったら、お前らに伝えろと言われた。それが、途中で捕まってこのざまや。もう、いかん」
「少し、辛抱しろ」
虎千代は素早く脇差を突き入れ、苦悶する若軒の息の根を止めてやった。
「椿森の社と。黒姫、場所は知れるか」
虎千代は若軒の死を見届けると、黒姫に向かって尋ねた。
「はい、もちろんですよ!」
そこは煉介さんのお姉さん、暮葉さんが営んでいた道中茶屋『みさご屋』にほど近い場所にある廃神社の通称であると言う。
そのとき、近くを軍兵の気配が流れた。鎧の小札のかちゃかちゃとすれ合う音が、若軒の示した方向に向かって動きつつある。
「これはいよいよ、急がねばならんな」
僕たちは先を急いだ。
そこから、椿森の社まではまさに悲惨な戦場の光景の連続だった。
辺りにはばらばらに解けて破壊された甲冑や、折れた槍の穂、へしゃげた旗指物や兜の切れはしが散乱し、足の踏み場もない有様だった。戸板ごと吹き飛ばされていたり、鉄製の鎧や武器の亀裂が、身体にめりこんだまま死んでいると言う信じられないような犠牲者たちを目の当たりにしながら、ただただ、僕たちは奔った。
「面妖な」
と、辺りを見回しながら、虎千代がつぶやいた。
「煉介めの軍兵が見当たらぬようになった」
その言葉に、僕は、はっとして周囲の光景を見直す。なんと、そこで死んでいる者たちはみな、松永勢のようなのだ。へし折られた旗指物も、犠牲者たちが身につけている胴丸にある家紋もすべて、松永家の蔦の紋なのだ。雑多な格好をした煉介さんの軍勢の中から、犠牲者は一人も見当たらない。
椿森の社に向かったはずの方向に、煉介さんの兵が一人もいない。
これはもう、もしかしてすでに手遅れなんじゃないのか。
そう虎千代に尋ねると、
「いや、それは違う。もしかしたら」
と、虎千代は別の意味で愕然とした表情をして言った。
「これらはすべて煉介め一人で斃した者らやも知れぬ」
道々に散乱した松永勢は少なく見積もっても、百名以上はいた。
完全武装した正規兵だ。
それらを煉介さんは、一人で蹴散らしたと言うのか。
鬼気迫る煉介さんの戦いぶりに、僕は言葉もなかった。
椿森の社は、みさご屋からさらに上流の川を上り、山肌に沿った小高い森の中にあった。もう長い間、人の手は入っていない場所らしく手入れはされていないまでも、昇るものを押し返そうとするような急な石段が続いており、その狭い場所は、二人の人間の往来さえ窮屈そうだった。
「見ろ」
と、虎千代が言った。闇をすかしてみると、その石段に点々と黒い血の痕が続いている。
「我と真人で行く。黒姫、松永勢が迫っているゆえ、脱出の手筈を頼む」
黒姫は小さく頷くと、軒猿衆を集め、社の入口に陣取った。
この上に、煉介さんたちがいるのだ。
僕は闇の中に溶け込んでいくような石段を見上げた。
「準備はよいか」
と、虎千代は僕に訊く。僕は息詰まるような緊張を飲み下し、かすかに頷いた。
苔むした山肌に覆われた石段に、僕たちは登り切る。山頂に近付くと、闇の中に意外に大きく張り出した社殿の屋根が迫ってきた。
境内は石畳だったが、ところどころが雑草で持ち上がっている。白い息を吐きながら、僕は辺りを見回した。
触れれば切れるほど張りつめた夜気に、ひめやかな花の匂いが立ちこめていた。
その名の通りここは社殿の奥まで、一面椿の森だ。光沢を帯びた堅い葉に鎧われて、はっきりとした桃色の可憐な花弁が、凛とした寒気に馴染んで居住まいを正すように、そこかしこに群れていた。
「煉介よ、どこにいる」
虎千代は言った。辺りを響きわたる大音声ではなかったが、引き締まった静寂にその声は手斧で木を打つ音のように、高く澄んで響いた。
「煉介」
虎千代は何度か呼ばわった。
「おらぬか」
かたり、と椿の堅い葉がかすかに動いた気がしたのはそのときだった。
「真人と虎千代、二人きりか」
闇の中から煉介さんの声が響いた。少し眠たげだったが、大きな傷を負い、衰えている様子は感じられない。だとしたら相変わらず、この人は化け物だ。百人近い軍勢を一人で相手にして、ついには潰走せしめたのだから。
「ああ」
と、虎千代は言い返した。
「話があってお前を追ってきた」
くすり、と微笑する気配があった。
「ちょうど俺も二人に話があった。今、出ていく。少し休んだところだ」
しばし沈黙があった。
やがて椿の林を分けて黒い塊がゆっくりと現れたのを、僕は見た。
それは紛れもなく返り血にまみれ、ところどころ綻びた大鎧を着た煉介さんの姿だった。
「待ってたよ」
と、煉介さんは言った。その表情は暗がりで見にくかったが、なぜだかいつもの何気ない声に僕には聞こえた。こんなことになってまでも、煉介さんは煉介さんなのだ。虎千代と僕の顔を確認すると、煉介さんの影はかすかに微笑した気配を出した。
「間に合ってよかった。二人とも、よく来てくれたな」




