天王山急襲作戦!立ち塞がる不吉な影、煉介さんの行方は…?
目指すは一路、天王山だ。脇目も振らず、軍勢が動く。朝日が明ける山の端に、押し寄せるように突き進んでいく。
しんと凍えて密度を増した気を切り裂いて、虎千代は月毛の白い馬を駆った。熊毛を植えた兜を携えた力士衆の獰猛な威圧感の中に白い一点は目に立つ。明星の煌めく空を切る白雲のように闇を裂く一点は僕たちを導く目印になっているようだ。そのためか誰もが、行く先に戸惑ったり、足踏みをすることはまったくない。
行軍中の虎千代は寡黙だ。長尾家の軍法それ自体も、軍勢の私語を固く戒めている。緊急事態に大将の下知が一度で伝わらなくては、致命的だからだ。
「隊は二手に分ける」
天王山の鳥瞰図を前に虎千代が昨夜のうちに下知した内容を、僕は反芻していた。
「天王山に集結しつつある松永の陣には、あらかじめ黒姫たち軒猿衆を潜ませてある。頃を見て黒姫が各所に火を放つ。煙を合図に、一手が正面から敵陣に突入して揺さぶりをかける。その隙に黒姫の案内で我が手勢を駆って本陣へ斬り込む手はずだ。よいか、弥太」
「へい、万事任せて下せえ」
鬼小島が岩のような拳を突き出して、名乗り出た。
「お嬢が斬り込む前に、俺ら力士衆でしっかりあっためときます」
小さく頷くと、虎千代は僕を見た。
「真人、明日はお前がわたしの背の目だ。いくさ場で御曹司を視認出来るのは、直接御曹司と会って言葉を交わしたわたしと、お前だけゆえな。頼りにしているぞ」
虎千代の手が、僕の手に置かれ固く結ばれた。
「明日はわたしの傍を離れるな」
黒姫の放った軒猿衆の報告によると、すでに京都市中には緊張が広がりきっていると言う。大都市の小路から湧くように現れた煉介さんの動員兵力が、街を騒がしつつあるのだ。悪党足軽の出入りは数あれど、軍勢となった足軽たちの威圧感に京都は、敏感に反応している。そのため虎千代は暮夜、ひそかに集結し行軍する段取りを組んだのだ。
「真人さんもくれぐれも気をつけて来て下さいですよ。そもそも物騒な客は、足軽どもばかりではありませんですからねえ」
天王山を占める弾正を含め、諸勢力が蠢き、畿内の緊張は、最高潮だ。僕たちは、そのまっただ中に切り込む。さすがの虎千代も、死を覚悟していた。
まだ朝霧で霞む京都の真南を横切り、桂川を渡河する以前に虎千代は鬼小島と軍勢を二手に分けた。
目指す、弾正はすでに山上だ。煉介さんとの会談は、そもそもがこの山の名の由来となった牛頭天王を祀る、山頂の山崎天王社で行われるようだ。
そもそも天王山は、それほど高い山ではない。籠もる方としては防御が薄い代わりに、見晴らしの良さが最大の利点となる。かの天王社からは前面の桂川が一望でき、京都付近から進出してくる軍勢は手にとるように見えるようになっている。麓に油座で有名な大山崎の街があることも、敵勢の動きを制限することに役立っていた。はるか後年の山崎合戦で明智光秀が泣かされたのも、京都からの軍勢が展開しにくいこうした地理事情によることのようだ。
鬼小島と別れると、虎千代は軍勢を大きく迂回させて大坂側から天王山を回りこんだ。日暮れ前の薄闇に紛れて、奇襲部隊を早めに現地に潜伏させる予定だ。虎千代が率いるこの本隊が、先に述べたように菊童丸の奪還を担う。馬には布を噛ませ、甲冑も金属製の小札板が音を立てて揺れないようにしっかりと結び合わせるなど、部隊は用心を重ねている。陽動作戦の要となる鬼小島の正面突破隊に兵力が要るためにそちらへ人数を割き、虎千代はぎりぎりに手勢の数を絞り込んでいる。
天王山を回りこんだ場所で、虎千代は一旦、軍勢を休ませた。しばらくしてそこに黒姫から山頂付近の近況報告が届けられた。
「どうも童子切めの軍勢が、天王山に現れたようぞ」
と、虎千代は僕に告げた。黒姫の目測では、その人数は百人前後と言う。朽木谷戦線の残党を語らったのだろう。いずれも足軽くずれのようだが、装備も整っていて意気も盛んなようだ。とは言え、天王山の松永勢はその十倍ではきかない。そんな中に、小勢を率いて正面から入っていくなど卵で岩を割ろうとするような無謀さだ。
「いや、あやつなりにも考えてはいるであろう」
虎千代が考えるには、煉介さんが人質受け渡しの日時をあえて僕たちに教えたのはそのせいだと言う。
「煉介めが、あの弾正を完全に信用しきっていないよい証左よ。弾正にしてみれば、御曹司さえ手に入ればあやつは用済み、人質事件の大逆人としてこれを誅殺することすら出来るのだからな」
虎千代は読み終えた黒姫からの文をかがり火にくべると、いまだ朝もやに静まり返っている天王山を見上げた。
「話がまとまらずば、我らが乱入するを見越して、混乱に乗じて離脱する腹積もりとみえる。よくよく豪胆と言うか、際どい算段をする男よ」
虎千代の戦術眼に狂いはないとは思うが、煉介さんがあの席にわざわざ虎千代を招いてまで今日のことを話したのは、僕にはまた別の理由があるように思えてならなかった。
僕だけだ。
かささぎを斬ったばかりの、煉介さんとあのとき、目が合ったのは。
虎千代が琵琶を弾いたあの夜、僕は少し煉介さんと話をする機会が持てた。龍笛を吹いてくれた鼓花と言う女の子が、現代の話を僕に聞きたがっていたからだ。
鼓花は口が利けない。かな文字が書けるので、半分筆談のようになった。聞かれたのは電車や車や電気の明かりのこと、学校のこととか、友達のこと、そんなごくごく他愛のないことだった。僕は訊かれたことについて話したが、細かいニュアンスが伝わらないところを、煉介さんが上手く補ってくれたのだ。
「鼓花とは、小さい頃よく遊んであげてたんだよ」
煉介さんが言うと、鼓花は目を細めて頷いた。そう言えばこんなに穏やかな顔をしている煉介さんを見るのは、これが初めてな気がした。
「鼓花は生まれてすぐ、ここへ連れて来られた。そのお陰で、親から君たちの時代の話を聞いて育ったんだ」
俺と同じようにね、と言うと、煉介さんは僕の表情を覗き見るように、うかがった。
「蜜火姐さんから、話は聞いてるんだろ。俺もそうだったんだ。だから真人に逢ったとき何だか無性に嬉しくてね。俺たちは、一緒にいた時代が近かったみたいだ」
僕は、煉介さんに初めて出会ったときのことを思い出していた。虎千代のとばっちりで無骨の若軒に殺されそうになって、最初から結構ひどい目に遭っている。それでよく、助かったものだ。
「鼓花は口が利けないのは、生まれつきじゃないんだ。彼女は両親と早くから、離れ離れになって生きてきた。ここであえて話さないけどやっぱり、色々なことがあってね」
と、煉介さんは鼓花がいなくなってから僕に言った。
「緘黙って言う言葉を聞いたことあるかな。心理的な問題によって起こる失語症で、チック(緊張等で目元が引き攣ったり、表情が勝手に動いたりする症状)って言う心理症状の一種なんだ。本人次第では回復の見込みがあるんだって。小さい頃、俺の母親が鼓花の治療にあたってたんだ。短い間しか京都にいれなかったから、結局症状は、改善しなかったんだけど」
煉介さんの両親は、医療の心得がある人たちだったようだ。おぼろげながら訊いた話だと蜜火さんの前に無尽講社を取り仕切っていたようなのだが、煉介さんの口ぶりでは早くから離れ離れになったのか。
「俺の親父も母親も、俺が生まれたときにはあちこちを飛び回ってあんまり、帰ってこなかったんだ。お陰でまあ、俺の方は医者にもならずにこう言う風になっちゃったわけだけどな」
煉介さんは、小さな笑みを口元に浮かべて言う。そのかすかな笑みには一片寂しそうな色が浮かんだが、それは絵の具の固まりを薄く水に落としたときのように一瞬で跡形もなくなってしまった。
「俺たちは時代の孤児なんだ。この時代、孤児はざらだが、彼らには地縁がある。地をたどっていけばどこかに、血がつながっていたり、身分がつながっていたりしてそこに居場所がある。でも、俺たちにはない。だからこそ、必要なんだと思う。俺たちには、俺たちの、自分たちで切り取った国が」
結局、そこは虎千代には分かってはもらえない。煉介さんがいつもそう言ってきたのは、このことなのだろう。そう言うときの煉介さんは理想を語りながらも、どこかこの時代のひとたちに理解してもらうことを諦めた色をも宿していた。
だからこそ、未来から来た僕には話しておきたかったのだろう。その澄んだ目を見たときに最初に感じたものの正体が僕にも今、何となく分かった気がした。煉介さんは煉介さんなりに誰かの意志を継いでいるのだと。例えばそれは、医療を通じて無尽講社で活動し続けた煉介さんのお父さんやお母さんへと。
虎千代が言うように確かにそれは、人から奪うと言う点では、間違ったやり方だとは思う。でもだ。かささぎや菊童丸のことを思えば、堂々と言うことは出来ないが僕はどこかでずっと煉介さんを憎みきれずにいた。ふいの運命で時代に流された僕たちは、もしここで自分の居場所を見つけることが出来なければ、歴史の陰にひっそりと隠れて災難をやり過ごすしか生き方がないかも知れないのだ。
「相談役から聞いたよ。なんか、未来に戻れるかも知れないんだって?」
煉介さんが聞いてきた。それがその夜、最後の会話になった。
「ええ、とりあえず何とか手がかりが見つかったって感じで…まだまだ、どうなるって言う感じじゃないですけど」
「いいなあ。俺もあのままの足軽大将だったら、遊びに行けたんだろうけどな。さすがに今の状況じゃそれどころじゃないし」
今でもだ。虎千代だったら言ったかも知れない。煉介さんには無理に大名にならずとも別の場所で生きる道があるはずだと。しかし煉介さんの思いも分かる僕には安易に、そうしろなどと言い切ることは出来なかった。それでもだ。考えてしまう。もし煉介さんが普通に、現代で育っていたのなら僕はいつか、どこかでこの人に出会ったかもしれないのかな、と。
僕の表情に色々な思いがよぎったのが分かったのか、煉介さんは機先を制するようにあの諦めたような笑みを浮かべた。
「頑張らないとな。絢奈ちゃんのためにも」
煉介さんは僕を励ますように、現代に行けることを羨むことで気持ちをすり替えたのだ。
「でも、興味はあるんだ。真人の住んでいた時代」
煉介さんは遠い目をした。
「もし上手く行ったらいきたい奴は、なるべく沢山、連れて行ってやってくれよ。相談役にも、それは話しておくからさ」
僕は無言で頷いた。煉介さんには、考えてみれば一番助けてもらっていたのに、いつも気遣われっぱなしだ。この期に及んでも、僕にはこの人にしてあげられることはもう、全くないのだろうか。
「童子切煉介が現れましたですよ」
黒姫の報告が、虎千代に届いたのは辺りが明るくなってきた頃だった。僕は夢想を断ち切られて思わず顔を上げた。虎千代は打って出る準備をするべく、今、火を使わずに腰兵糧で朝食を済ませるよう、全軍に伝達しているところだった。
「全軍早々に朝食を済ませ、突撃の支度じゃ。寒さ避けの酒は、一杯までにしておけ。傷を負えば、血が止まりにくくなるゆえな」
ぼうっとしている僕に、虎千代は叱りつけるように言った。
「真人っ、大丈夫か。気をしかと持ってくれねば困るぞ」
「う、うん」
黒姫の伝令によると、天王社に現れた煉介さんのいでたちは古式床しい武者装束だったと言う。具足は黒漆本小札の二枚胴具足だ。細かな刺子縫いの黒い胴におどされた萌黄の房紐が遠目にも鮮やかなようだ。兜は大きな鍬形を打った、これも黒漆塗りの四十間筋兜。中古品の寄せ集めではなく、ひと揃いの大具足だ。大名道具と言ってもいい。
対する弾正は、縦に這う毒百足の前立てのついた南蛮鎖兜に紅糸でおどした、明るい色の胴具足だ。太刀拵えも同色の絢爛としたデザインのもので、三好家の財力を家政に握っている弾正にはまた相応しい。
松永弾正とは社殿の入口で出会い、そのまま交渉に入ったようだ。そして肝腎の菊童丸の姿だが、輿に乗せて御簾を下げてあるために、様子はうかがいにくいと言う。その周囲は常に煉介さんが配置した五人の槍武者が、油断なく守っている。
「煉介、弾正めのいでたちと、輿まわりの様子を全軍に告げよ。言うまでもなく、首は打ち棄じゃ。目指すは、その一点のみと伝えおけ。力士衆どもは真っ先に我と真人に続くのだ」
馬を曳けえいっ、と虎千代が怒号し、決死の長尾勢が色めきたった。
ついに電撃作戦の開始だ。
僕たちは今度こそ、菊童丸を奪還できるだろうか。色々な想いが、奔っても奔っても振りきれない。寒気で張りつめた耳朶に馬蹄の泥土を蹴散らす音だけが、どこか関係のないもののように、僕の頭の後ろでずっと響いてくる。
虎千代はすぐ前方で馬を駆り、全軍を導いている。馬足は速く、みるみるうちに足場の重い森林の獣道を駆けた。白煙のような霧が流れきり、辺りが澄み渡ったように風景の輪郭がはっきりするまでに、進入路を案内する天王山の軒猿衆と合流しなくてはならない。時は一刻を争う。そんなときだ。
ふいに放たれた一矢が、虎千代の頬を掠めた。
遠矢は、ひょう、と思いのほか間の抜けた甲高い風切り音を立てて、虎千代の馬の足もとに突き刺さった。
「敵襲じゃあっ!」
悲鳴に似た男の怒声が上がる。続いて無数の弦がしなる音とともに、風を巻いて矢が吹き飛んできた。
「どこぞにおるぞっ、埋伏兵が攻め立ててくるぞ」
「流言に乗るなっ、どこぞでおらび立てておる敵がおるぞ」
情報を混乱させようと無意味な叫び声を上げる敵勢を見極め、虎千代は的確に敵の位置を図ろうと目を凝らす。
攻撃は薮内からだ。飛んできた矢の数は、かなりの数だった。遮蔽物のない一本道で射すくめられて、僕たちはたちまち立ち往生してしまった。なんとか手持ちの弓を持って味方からも応戦したが、斬り込み隊の僕たちは、飛び道具の装備はほとんどないのだ。
「滋藤弓を」
輪乗りして引き返した虎千代が、自前の弓で応戦しようとしたそのときだ。
茂みから軍勢を駆って、ぱっ、と乗り出した白馬の騎馬武者が虎千代に向かって弓を構えながら駆け違おうとしてくる。
虎千代もとっさに弓を構え直し、それに応じようとしたがその反応はやや遅かった。虎千代の一矢は空を切ったが、相手は虎千代の具足の肩に弓を刺し止めることが出来た。矢は肩あての小鰭で浅く止まったものの、鏃の先が肌を傷つけたらしい。顔をしかめ虎千代は、その弓を抜き棄てた。
騎馬武者は、華麗な流鏑馬を見せた。具足は朱漆塗りの目にも鮮やかないでたちのものだ。その細身の立ち姿に、僕は見覚えがあった。長い黒髪を後ろで結わえ、顔は鬼の惣面だ。それをとるとそこにまた、禍々しい鬼女の形相が現れた。
「お久しく、長尾の姫さま」
「贄姫」
虎千代の顔に強く血が上ったのが分かった。
「兄上の読み通りでした。また戦場であいまみえることが出来ましたわね」
贄姫は薄く頬に笑みを浮かべると、矢をつがえた。その口元は綻んでいるが、切れ長の目はつり上がり額には癇性を表す太い血管が表れている。これほど顔かたちが整っていながら相変わらず、なんて、ぞっ、とするような表情なのだろう。
虎千代も矢をつがえ、馬を走らせる。互いの汗馬が白い息を吐きながら接近するとき、二人は再び同時に矢を放ちあった。
二の矢は虎千代の頬を傷つけた。赤い筋がほとばしったが狙いは外れている。さっきとは異なり一足早く虎千代の矢が贄姫の肩当ての小鰭を貫き、肉を抉っていたからだ。見事な仕返しだ。贄姫は凶暴に顔を歪めると、矢を抜き去ると忌々しげにへし折り、足下に叩きつけた。
「血震丸めはどこだ」
鼻を鳴らし、贄姫はこれみよがしに肩をそびやかした。言うまでもないと言うことだろう。やがて後方から大声を上げて、徒歩立ちの斬り込み隊が大鎧の男に率いられて群がり出てきた。旗印はもちろん、血震丸のものだ。
「弾正殿も、菊童丸の代わりによき土産をくれたものよ」
血震丸の金切り声が響いた。
「はははっ、長尾の鬼姫よっ、伏見での馳走の返礼をば、今いたそうかあ」
黒漆に血のような朱色の糸でおどした凶々しい血震丸の甲冑の前立ては、金色の髑髏だ。
完全に裏をかかれた。思わぬところにすでに伏兵がいたのだ。
こればかりはさすがの虎千代も油断していたと言わざるを得ない。弾正に気を取られていて忘れていたが、血震丸もまた、菊童丸と虎千代を狙っていたのだ。
どうする。すでに天王山では黒姫が合図し、鬼小島が斬り込んでいるかも知れない。こんなところで、血震丸たちに構っている暇などないのに。
弓をかなぐりすて、抜刀すると贄姫はさらに馬を駆って迫ってくる。応戦せざるを得ず、剣を抜くと、虎千代は僕に向かって下知した。
「頃を見て軍勢を突破する。真人、おのれは力士衆とともに行動せよ。総員、隊伍を散らさぬよう用心せよ」
虎千代の命令も空しく、血震丸の横槍で僕たちは大きく揺さぶりをかけられていた。
埋伏の兵が地の利を心得ているのは当然のことだ。今や前後左右に敵がいて、僕たちにはどこにも逃れる口がない。退くか進むか、決断に困る状況でどんどん追い詰められていく。どこに潜んでいるのか、弓兵の狙いも正確だった。血震丸は用兵の巧みさで敵勢は僕たちの突破口を抜かりなく阻んでくる。
さすがの越後兵も手傷を負った同輩をかばい、応戦するので精一杯だ。
それにしても最大の弱みは、贄姫によって虎千代が足止めをされていることだった。さすがの越後の精兵も虎千代の正確な下知がなければ、本来の威力を発揮しようがない。血震丸の猛攻に追い立てられ、虎千代のいる本隊までたちまち、足並みが乱れる。
「逃げ散った兵を集めるんだ」
僕は力士衆と声を限りに、散り散りになった味方に合図するが、混戦の中でいずれが味方かも判別がつきにくくなっている。何か方法がないものか。ふと、僕は思い出した。
「あっ、合い言葉はないの」
僕は叫んだ。
奇襲部隊は敵陣の真っただ中に躍り込んで働く。同士討ちの混乱を避けるため、そうした場合に備えて事前に合い言葉を決めておくものと、何かで読んだことがある。力士衆は僕の言葉にぴんと来たのか、いつしか口ぐちに掛声のようなものを叫びあうようになった。
それはオウ、に対して、エイ、などと言うごく単純なものだ。しかしとっさの場合、反応できるのは事前の打ち合わせが身体に沁み込んでいるものだけだ。声を合わせていくうちに、三方から逃げ散った味方が集って来た。大太刀を武器にする力士衆を中核に、長柄を持った足軽たちだ。彼らの合い言葉はやがて強固なリズムになっていき、越後の精兵たちは熟練の呼吸を合わせて突撃のタイミングを合わせていく。
これで反撃の態勢が整った。
僕は渡された押し太鼓を、必死の思いで叩いた。
狙いは、あの髑髏の前立だ。矢の雨が降る中、越後兵は決死の突撃を敢行する。
「押し返せえいっ、越後兵の心意気、ここで見せたれえいっ」
ついに男たちの怒号が揃った。
力押しに叩き伏せた長柄と弓が、相手を怯ませる。その隙に大太刀を背負った力士衆が躍り込み、無茶苦茶に斬り回った。越後兵たちは見事に相手を押し返した。力士衆一人一人が、まるで重戦車のように歩兵をなぎ倒していく。たちまち辺りには重たいものがぶつかり合う湿って籠った衝撃音と悲鳴、そしてけたたましい金属音が響き渡った。
奇襲に成功したかに見えた血震丸の兵は追い散らされ、再び薮内に後退し始める。
「おのれえいっ、こちらが優勢ぞっ、退くなっ、押し返せっ」
地の利に安心しきっていた兵だけに、思わぬ反撃への動揺は大きかった。それでも、なんとか流れを揺り戻した。しかし血震丸はすぐに態勢を整えてくるだろう。こうなれば、人数の迫力と押しあいの勝負になる。
「虎千代、頼むっ」
虎千代と贄姫の周りも、驚くほど急に人の流れが変わった。僕は合図し、何とか虎千代に指揮権を戻そうとした。ちょうど、血震丸が後退したお陰で自分の周りにも極端に味方が少なくなり、さすがに贄姫も馬を退きかけたときだ。
「すまぬっ、助かったっ!よう立て直してくれた」
虎千代が戻るとやはり、男たちのテンションが一気に上がる。
「我に続けっ、血震丸が首、いっそここで獲り挙げんっ」
贄姫との撃ち合いでささらのようになった日本刀を振り上げ、虎千代の怒号が降った。すかさず替え太刀の備前兼光二尺八寸に持ち替え、白馬を駆った虎千代は、そのまま血震丸が取って返した最前線に身を投じた。
「あっ」
その姿を敵の総大将のそれと認識しかけた長柄の兵は、反応する間もなく虎千代の剣に真っ向から斬り下げられた。片手殴りとは言え馬上剣の威力は、スピードに馬の脚力も加わり、威力が倍加する。骨まで断った剣から黒い血しぶきが飛び散り、白馬の毛を濡らした。虎千代の頬にも凄まじい返り血がついている。
思わず怖気づく男たちを、続いた力士衆が再び叩き潰した。
虎千代が加わり、越後の死兵は、完全に本領を取り戻した。戦場では腹の底まで響くような虎千代の声に、武者押しのどよめきが和す。敵兵であればその声は生涯忘れ得ないだろう。それは生存本能に直接訴えかける、巨大な捕食獣の咆哮だ。
形勢は見る間に逆転した。
贄姫が加わり、血震丸も太刀を抜いて斬り回ったが、怯えきった敗兵をまとめきれない。
「兄上もうひとあて致しませぬのかっ」
「まあ、よい。ここで、これ以上は望めぬようだわ」
どす黒い殺気をふりまく妹を、血震丸は宥めると、
「退けえいっ、退けっ、仕切り直しじゃ、長尾の姫よ、機会があれば三度まみえようぞ」
「追うな」
追撃の禁止を、虎千代は厳命すると思わず指を噛み、
「しくった」
と、短く叫んだ。
「まんまと、あやつめと弾正が描いた絵図に載せられたわ」
恐らくは松永弾正は、虎千代の奇襲を予測していたに違いない。血震丸の目的は最初から、ただの足留めに過ぎなかったのだ。
思わぬ伏兵で、完全に虎千代の本隊は突撃の機会を逸した。
僕は天王山の方角を見た。すでに時刻は、昼になりつつあった。
「急ぐぞっ」
虎千代は白馬に鞭打って、全軍を急行させた。僕は激しく揺れる馬上から、虎千代の背の向こう、視界いっぱいにそびえ立つ天王山を見ていた。すでに作戦が展開しているのか、最悪の事態ばかりが頭をよぎるが、今は駆けるしかない。全力で天王山へ続く道を駆けた。
目の前の天王山には、弾正が敷いた陣の旗印がそのまま、普段の山容の光景を威圧感のあるものに一変させている。
(妙だな)
と、僕がふとそのとき訝ったのは、その弾正の野陣にあまり動きが見られないことだ。不可解なのは、黒姫が火を放ったのであれば東の彼方の山は黒煙を上げて燃え上がっているはずなのに、そこに立つはずの爆煙は影も形も見えないのだ。
平地の森がそのまま、山道に続く一本道へ繋がる辺り、そこが本来、軒猿衆との合流地点だった。僕たちはそこで軒猿衆の先導を受け、後は一気に弾正の陣に斬り込む手はずだったのだ。
前方にぽつん、と人影が見え始めたのは、そのときだ。桜色の小袖に長い黒髪を結わえたその姿に、僕たちは見覚えがあった。そこにいたのは、黒姫だ。
なぜか黒姫がひとり、そこに立ちはだかって待ち受けているのだ。僕たちの姿を発見すると、黒姫は緊張した面持ちのまま、両手を広げて行く手を阻んだ。
「黒姫、なにをしておるかっ」
虎千代は黒姫を通り過ぎようとした馬を、すんでで止めた。棹立ちして猛る白馬を鎮めながら、そこにいるはずのない黒姫の様子を眉をひそめてうかがう。黒姫はいつになく、差し迫った顔つきをしていた。思わず怒鳴りつけてから虎千代は、いつもと違う黒姫の様子に違和感を覚えたのだろう。
「なぜ、おのれがここに居るか。黒姫、お前の手筈で弥太めは斬り込んだのであろう。よもや、それを見捨ててここまで駆けたではあるまいな」
「正面突破隊は、すでに戦線を離脱しておりますです。本隊の急を察して、連中はすぐに虎さまと合流する予定かと」
「おのれら、天王山を攻めなんだのか」
虎千代は不快げに顔をしかめた。軍令違反だ。しかし、黒姫の強張った面持ちにやはり緊急事態のあった感を察知したのか、
「委細話せ」
押し殺した声で問うた。黒姫は平伏し、声を張り上げた。
「結果より申し上げますです。童子切の煉介、松永弾正の陣を破り、逐電致しました。菊童丸様が行方はいまだその手元かと。目下、軒猿衆が全力を挙げて捜索に努めておりますです」
「なんと」
虎千代は驚愕に目を見張った。僕も、言葉がなかった。
煉介さんが消えた。交渉は早々に破談になったのだ。
「わたくしも一部始終を見ておりました。待ち受けた松永弾正めが、菊童丸様が乗っておられると思われる輿を迎え入れ、煉介さんとともに社殿に消えたかと思う際、足軽勢、乱暴をもって松永の陣を斬り立てて回り、天王山は一気に大騒乱の坩堝に」
「煉介めと菊童丸の姿を見しか」
こくり、と、黒姫は頷くと、
「弾正本人を人質に取り、天王山敵陣を突破致しました。以降の行方は京都街区方面へ落ちたか、としか」
「あやつめ」
呻くように虎千代は言ったが、次の言葉が続かず、気まずい沈黙が流れた。
「弾正めと煉介の交渉のあらましは、判らぬのか」
「社殿に忍び入った軒猿衆より報告を受け、確かめておりますです。されど、まずはここを早々に抜けるが得策かと。かの松永めは虎さまの奇襲のあらましを存じております」
「血震丸より、横槍受けた。我としたことが、ぬかったわ」
虎千代は拳を固め、腹立たしげに鞍壺を叩いた。
「こなたは危険です。鬼小島が手勢にはすでに、退き口の手筈は打ち合わせてあります。わたくしがご案内します。お急ぎ下さいですよ」
虎千代は即座に替え馬の一頭を、黒姫に与えた。黒鹿毛の馬を責め、黒姫は逸らせた。
「話せることは道中、すべてお話いたします」
虎千代が山崎を発って間もなく、鬼小島たちが無事、戦線を離脱し伏見に集結しつつあると言う報がもたらされた。真っ先に敵陣に正面衝突するはずだった鬼小島勢だ。眼前で敵が騒ぎ出して、もっとも混乱しただろうと、虎千代は言う。鬼小島はじめ、それでも混乱に巻き込まれなかったのはさすがに歴戦の越後勢だ。
ちなみに煉介さんに人質にとられたと思われる松永弾正は麓の大山崎の街の入り口で、無傷で救出されたと言う。煮えたぎる怒りに裂け上がった眼裂を血走らせた弾正は全軍を京都に上らせ、煉介さんの捜索を開始した。今、市中では足軽の姿をしているだけで、殺気だった松永勢の餌食にされる危険性が高い。
一足早く戦線を離脱した僕たちは、巨椋池端の中州に再集結を開始した。血震丸の横槍で被害を受けたとは言え、今のところ奇蹟的に死人が出ていないのが今回の作戦の救いだった。
虎千代は離散した兵の捜索を命じ、傷ついた兵の回収に努める。早朝の出動で身体の冷えた兵士たちのために大釜に飯を炊き、急いで酒を温めさせた。
「お嬢、面目ねえ」
「死人がないだけ上首尾よ、お前はよい采配をしたわ」
作戦の不首尾を嘆く鬼小島の分厚い胸板を、虎千代は、どん、と拳で突いただけだった。戦場に長けた鬼小島のとっさの判断がなければ、怒りに駆られた松永勢に呑みこまれ、取り返しのつかない損害を被っていたかも知れないのだ。
被害を把握したところで虎千代は、鬼小島と黒姫を招集した。それぞれの持ち場であのとき、一体何が起こったと判断したのか。まだ、事態の全容が掴めていなかった。
「俺らは最初、指示通り桂川付近の中州に潜伏してたんですよ。そしたらこの腹黒がいつまで経っても、行動を開始しやがらねえから」
煉介さんの軍勢が入ってそれ以降天王山に動きがないまま、朝靄が晴れつつあった。そこで鬼小島は、視界が良くなると天王山の軍勢に察知されずに接近することが難しくなると判断したのだ。そこで音を立てぬよう軍勢の支度をすると、天王山へ最接近するべく兵を進めた。
ちょうどそのときだ。天王山で騒ぎが持ち上がり、山が動くように軍勢が駆けおりてきたと言う。松永弾正を人質に取った煉介さんとその手勢だ。鬼小島の眼前を掠めるようにして、馬に乗った十数騎が駆け抜けた。矢傷を受け、身をこごめ、脇目も振らずに通り過ぎて行った。
その後、しばらくして山から転げ落ちるようにしてもう一騎、天王山から落ち延びてくる怪我人を目撃した。
「どうもあれは暮坪道按のようですぜ」
「なんと」
それは僕たちが天王山の西の入り口で血震丸の横槍を受けて立ち往生している頃だ。道按があの場にいたことを知り、虎千代は顔をしかめた。
「これで読めたわ。野洲細川家に随身する血震丸と、敵方の弾正を結びつけたはあの悪党放免か。さても節操なき連中よ。お陰で煮え湯を飲まされたわ」
裏で糸を引いていたのは、道按だったのだ。
「にしてもあやつめ、まだ生きておったか」
虎千代が言うと、黒姫は眉をひそめてかぶりを振った。
「しかしあの場に道按がいたことを考えると、松永は煉介さんを道按に始末させようとした、と言うことですかねえ」
「そう、考えるべきであろうな」
虎千代は腕を組むと、大きく息を吐いた。
「煉介一人を、大罪人として断じてことを治めるには、そもそもその方法しかあるまい」
ずっと想定していたことだと、虎千代は言った。いくら弾正が無道であろうと、非合法の手段で掠め取った人質を、買い取れるような無法は許されない。菊童丸を手に入れるのに煉介さん一人に罪をなすりつける運びになるのは分かりきったことなのだ。
その煉介さんの消息だが、京都市街に入ったところでぷっつりと途切れている。菊童丸を連れているだろうことは、松永勢の必死の捜索からも分かる通りだ。虎千代は市中に放った軒猿衆の報告を待ったが、松永勢が充満する市中の警戒の厳しさもあり、中々情報が届いてこなかった。
弾正は市中を蹂躙している。話によると辻に大釜を何台も据えると油を煮えたぎらせ、家捜しをして捕らえた足軽を煮込んで拷問し始めているらしいのだ。
街区は悲鳴と死臭に満ち、一般人が出歩けるような状況ではないと言う。
こうなると不幸中の幸いは、虎千代が新兵衛さんに命じて、根城に残ったかささぎたちを一足早く鞍馬山のみづち屋に避難させたことだ。それにしてもまさか、ここまで悲惨な事態になるとは、虎千代も思ってはいなかっただろう。
こうして詳報を待ちながら手持ち無沙汰のまま、日が暮れようとしていた。野陣を張った僕たちはうかつに火も焚けず、少しずつ温めた粥や酒で体温を保っていた。すっかり闇になった木の間から雲が晴れ、かすかに白んだ月がのぞく。それは見るだけで凍りつきそうに切れ味の鋭い形の、下弦の月だった。
虎千代はしばらく一言も発せず、しばらく月を見て考えていたが、やがて決心したように言った。
「弥太郎、兵どもは鞍馬へ落とせ。軍勢をまとめる手筈をしろ。そちらは任せたぞ」
「えっ、お嬢はどうするので」
「宵に紛れて市中に入り、煉介めを探す。黒姫、すでに潜伏している軒猿衆と合流する手筈はつけられるな」
「はっ、はい。虎さま。でも、今なにも判らない状況で闇雲に動くのは危ないですよお」
さすがの黒姫も虎千代の無謀さを咎める。手がかりのないまま単身、京都に入ったところで命を縮めるだけだ。
「しかし他に方法はあるまい。黒姫、ゆくぞ」
「えっ、ええっ?…ああああっ無茶ですよおっ、虎さまあっ」
そのときだ。まごつく黒姫の元に、軒猿衆と思われる小さな少年が着到した。黒姫はしばらくその少年の話を聞いていたが、逸る虎千代を制するように言った。
「虎さま、お待ち下さい。ついに詳報を得ましてございますです。この者の話を聞いてからでも遅くはありませんです」
虎千代は冷静になったようだ。差しかけた太刀を置き、座り直す。
「手短に話せ」
「はっ、はは!」
そうして口べたそうな少年が、平伏して話し出したのはあのとき、その場で起こったことのすべてだった。




