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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.7 ~国盗り始末、まさかのすれちがい、いくさ姫の涙
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百万石の音が取り持つ訣別の邂逅!決着はついに天王山へ!?

かささぎを黒姫に任せると、虎千代は自ら軒猿衆を率いて行動を開始した。

狙いは野に潜伏した煉介さんより、松永弾正側のようだ。畿内各地を転戦する三好家は軍勢をまた京都に集めつつある。長年、京都を担当していた弾正はその現地責任者と言える。所在が掴みやすいと考えた虎千代は、監視の目をこちらへ向けている。

三好家が京都に勢力を集めつつある第一の理由は言うまでもなく、将軍譲位のことだ。菊童丸の父である十二代義晴は朽木谷に籠もったままだが、自分の政権を盤石ならしめるために着々と譲位の準備を進めている。三好家が軍勢を京都に居座らせるのはこれに圧力をかけるためのみだけではなく、元の将軍家を朽木谷に押し込め、堺に幕府を開いていた義維こそ、正当な将軍家であると言うことを公式にアピールするためと見て間違いない。

義晴が譲位を考えている菊童丸を人質にとることは、三好家の幕府を合法化するための布石としては非常に強力な切り札になるのだ。

かささぎの手配があったのか虎千代の下には、連日、早崎の衆らしき少女たちがやってきて口々に朽木谷の情勢を告げていくようになった。

長年の流浪生活と将軍職として内外の敵対勢力から狙われ続けてきた疲労で、将軍義晴も健康状態が思わしくないと言う。このためこの十二月に行われるはずの菊童丸への将軍職譲位は、義晴が自分の政治生命を賭してまで実現したい悲願のようだ。

ただいくらしっかりしているとは言え、菊童丸は本当にまだ、中学生になるかならないかくらいの男の子だ。その菊童丸に大人でも堪えかねる将軍職を譲り渡し、厳しさを増す足利政権の矢表に立たせるのはどうかとは思う。もちろん譲位そのものは相続したと言う形をとって朽木谷の幕府を盤石ならしめるためのいわば政治的なパフォーマンスであり、また後見役として義晴が菊童丸を見守ると言う形をとるとしても、あまりにも厳しすぎる運命と言わざるを得ない。

それでもともかく幸いなことはかささぎがまだ、命を保っていることだった。

虎千代にとっては、将軍家のことはあってもまずは、生きているかささぎのもとに菊童丸を連れ帰ることが一番の願いだったのだから。かささぎが再び、目を覚ますことを祈って、このところの虎千代は、寝る間も惜しんで動いていた。


長尾家に面々にとっても厳しい日々が続いた。そのせいか、空は晴れ渡っていても根城の中は重苦しい空気が立ちこめている。

夜、眠りが浅いせいか、眠れない僕は日の出前には薄く目が覚め、明るくなるまでは暗い天井を眺めて、ぼーっとしていることが多くなった。

その間、何を考えているわけでもないのだが、木戸の間から外光が射し込んで風景が一変するまでの間、寝がえりを打ちながらだんだん輪郭のはっきりしていく暗い天井を眺めているのだ。一日が始まる前のまったくの空白の時間で思えば贅沢な時間なのだが、頭がはっきりとしていないので何だかもったいない気がする。

その朝、僕は思い切って床を抜け出してみた。しばれる空気が布団の裾から忍び寄ってくるほど冷え込んでいるのに、それを億劫と感じなかったのは、よっぽど退屈していたからだろう。普段はトイレに行くのも意を決していくのに、今日はさほどでもなく布団から出られたのはすっかり目が冴えてしまっていたせいだ。

中庭の見える縁側へ出ると、もちろんさらに寒い。でも雲間から朝日が射しつつあり乳白色にわだかまる霧に光が沁みるように色を変えて、それは幻想的な風景だった。

上着を着込むと、僕はしばらくその風景を眺めていた。するとふいに気のせいか、どこか遠くで弦楽器の音が聞こえてくることに気がついた。さすがに最初は弦楽器のものとも判らなかったが、耳を澄ますと、本当にかすかだがどこからか弦楽器の旋律が漏れい出てきている。

京都と言う土地柄、お寺が近いせいか、時報の鐘や読経の声などが聞こえることはなくもないが、まさか楽器は珍しい。それにしてもこんな朝早くにだ。考えようによっては、ちょっと薄気味悪いと思えなくもないのだが、さやかに湿った朝の空気に溶け込んでいくような滑らかなメロディーは、よく聞いていると心が落ち着くものだ。

この時代、弦楽器と言えば琴とか、三味線とかだろうか。いや、でも三味線は蛇皮線と言ってもっと後に琉球から渡ってきたようだから、まだこの辺りでは頻繁に見られるものではないはずだ。でも高音に張りのある押し出しの強い三味線の音色と違い、朝靄の中から流れてくる音は、もの侘びた複雑な中低音に、何とも言えない味がある。弾いている誰かがよっぽど上手いのか、弱々しく思えるタッチでも音が芯まで響くのだ。

(じょう)、と音の流れを表現することがあるが、まさにそれだ。

僕は覚悟を決めて、霧の中へ踏み出していった。

中庭の向こうの鍛錬場を過ぎると、その奥に古井戸がある。その井戸の端には銀杏の古木が太い根を張りだしているのだが、楽器を弾く影はそこに腰かけて、かすかに身体を上下させていた。

その姿はあまり大きくない。まさか子供か。直感的にそう思ってから僕はぞっとした。

都には昔から非常識な時間に鬼が楽器を演奏すると言う怪談話が結構多いのだ。鬼は大抵童子の姿をしていて、大門や鐘楼の上で演奏し、目撃したものに災いをもたらす。思わずその類だと思った。

しかしだ。その正体は鬼ではなかった。近づいてみるとそこに、見慣れた形のポニーテールがぽよぽよと踊っている。なんだ、虎千代だ。楽器を弾いているのは、虎千代だったのだ。それにしても、なんでこんな早朝に。

かなり没頭しているのか、虎千代はまったく僕に気づかない。運指を確かめているのか、時々ちらちらと手元を見るだけだ。

メロディーは淀みなく乳白色の朝靄の中に吸い込まれていく。

どんな曲かは知らないが、谷間からこんこんと清水が湧くように音が展開していく。自由自在だ。ゆったりとメロディーを押さえ、繊細な指遣いを見せたかと思えば、複雑な音階の山を軽く飛び越える。このままこの音の流れに身を委ねてどこまでも果てしなく、たゆたってみたくなる誘惑を抑えかねるほどだった。

楽器のボディはまた物わびた色の木製だった。飴色に輝くそれを見て、僕はすぐに何の楽器か思い当たった。あれは、琵琶じゃないか。

そう言えば、上杉謙信は琵琶の名手としても有名だった。今まで虎千代が楽器を弾くのを見る機会はなかったけど、やっぱり実際、この頃から相当な腕のようだ。

「すごいじゃん、虎千代」

思わず僕が声を出すと、ぶつん、とメロディーが途切れた。邪魔しちゃって悪かったかな。はっ、と顔を上げた虎千代を見るとなぜかすでに涙目になっていて、顔色も真っ赤になっている。

「なっ、真人…お前っ、みっ、見ていたならなぜ声をかけぬかっ!」

別に、そんなにむきにならなくてもいいのに。

「あ、ごめん。あんまりいい音だったからぼうっとしちゃって。それ、琵琶だよね」

「あっ、ああ、そうだが」

音の余韻を殺すためか、虎千代は手慣れた仕草で弦を押さえ込み木肌を揺する。一見して、かなり使い込まれたもののようだ。

「やっぱり上手なんだな。いくつくらいの時からやってたの?」

と言うと、虎千代はせわしなく視線を上下させてたどたどしい答えを返した。

「これはその…仏門にいたとき、お世話になった方に手ほどきを受けてな。それからは我流ゆえ、人目を憚って練習をしていたのだが。…あっ、いや、待て。真人、今やっぱりと言うたな。なぜわたしが琵琶を奏ずることを知っている?」

「いや、だって有名だから」

虎千代は目を丸くした。

「ゆっ、有名?誰がそんなことを言うたかっ」

誰が、と言われても、つとに知られていることだ。上杉謙信は陣中に琵琶を持参し、小姓に鼓を打たせると、よく演奏に興じたと。戦争中、敵勢を前だ。川中島合戦のときも、妻女山に布陣したときも、目と鼻の先に対陣する武田勢の前で悠々と琵琶を演奏したらしい。天才肌の謙信らしいエピソードと言っていい。

「わっ、わたしは陣中で琵琶を弾いたりしたことはないぞ。うううっ、ずっと秘密にしてきたのに」

とは言え、楽器を弾けるのを知られたことがなぜかとても悔しかったのか、当の虎千代は半泣きだ。

「今はそうだろうけど、後々は判らないだろ。って言うか虎千代、どうして秘密にしてるの?こんなに上手いのに」

「見られていると思うと、集中して弾けぬのだ。だって、はっ、恥ずかしいではないか」

と、真っ赤な顔で口を尖らせる虎千代。理解できない。弾けなかったら恥ずかしいけど、あんなに上手く弾けるんだから別にいいじゃないか。

「誰かの前で演奏せねばと思うだけで気が遠くなる。とっ、とにかく、このことは絶対秘密にしておいてくれぬと困るっ。真人っ、頼むっ!後生だっ」

そんなに必死に拝まなくても。

「うん、僕が話さないのは別にいいけど・・・」

正直言って、気づいていないのは本人だけで、長尾家の人もとっくにみんな知ってるんじゃないかと思うんだけど。


「ああ、はいっ、今朝も聴こえてきましたですね。わたくし、朝餉の準備をしていたのですが、厨でひとり身悶えしておりましたですよ☆ああっ、わたくしもいつか虎さまの繊細なお指で、夜毎に火照る身体の琴線を弾いて頂きたいですよお」

さすが、黒姫は気づいていたようだ。

「ほら」

だって無理もない。現代と違って雑音の少ないこの時代だ。僕が縁側に立っただけで、音が聞こえたのだから。

「ずっと、誰にも話さずにいたのに・・・」

自分ではこっそりやっているつもりだったらしい。そもそも、記録や講談に伝わっているのだから、下手すると当時の越後の人はほとんど知っているのではないだろうか。

「然様ですなあ。姫さまの弦楽は、春日山近辺に在住するものなればつれづれの楽しみでござってな。朝な夕な、どこからか姫さまが奏ずる琵琶の音に、ふと仕事の手をとめ聴きいるものも多うござる。都から来られたご客人の口ぐちにも評判になるほどで」

「ううっ、うるさい新兵衛っ、そ、そう言うことを我が耳に入れるな。今度から春日山で琵琶が弾けなくなるではないかっ」

「すっごいねえ、虎っち。絢奈もピアノくらいは出来るよ。今度、一緒に演奏しよ!」

絢奈の提案にぶるぶると首を振る虎千代。一緒に演奏なんて、とんでもないと言うことだろう。恥ずかしくて人前で演奏できないなんて、いつも堂々とした虎千代らしくもない。

琵琶を演奏していることをみんなに知られて嫌がる虎千代を後目に、なぜか真菜瀬さんはふんふん、と頷いている。

「虎ちゃん、琵琶が弾けるんだね。ああ、そう言うことだったのか」

「そ、そう言うこととは、どういう意味だ?」

「いやさ、この前、果たし合いを無尽講社で取り持ったでしょ。そしたら相談役が、今度来たときには虎ちゃんに、アサカゼをひいてもらえって」

「アサカゼ?」

絢奈が不審そうに眉をひそめる。

「琵琶の名前だよ」

僕は事情を知らない絢奈と真菜瀬さんの二人に説明した。

銘を朝嵐(あさかぜ)と言う。上杉謙信が遺した琵琶の名器だ。妻女山布陣の折りに謙信が携えていたのもその琵琶と言われている。

「確かにそう言う琵琶は持ってはいるが、まさかそれをわたしに、皆の前で弾けと言うのか?」

虎千代は不審そうに眉をひそめる。その様子をみて真菜瀬さんはあわてて、

「いや、話の弾みって言うか、本気だとしても機会があったらってことだと思うよ。…今、だって、それどころじゃないでしょ」

それは、確かにそうだ。


それにしても相談役も相談役だ。

この危急な折りに一体、どんな考えがあって虎千代に琵琶を弾くように頼めと言ったのだろうか。真菜瀬さんは話の弾みだと言うが、いくらなんでも煉介さんを追う虎千代の現状を知っていて、軽々しくでもそんなことは口にしたりはしないはずだ。

ただタイムマシンの一件と言い、相談役の考えていることはどこか巨視的で僕たちには一見してその絵図が見えにくかったりすることがあったりするから見過ごしには出来ないのだが。

そんなことを考えているとその昼下がりに、砧さんが相談役の提案を実際に持ってやってきた。ある夕の一席に虎千代に一曲、弾いて欲しいのだと言う。

「本気ですか?」

僕は思わず聞き返してしまった。その日だって、虎千代は軒猿衆を率いて京中を駆け回っていたのだ。

「うん、無尽講社に龍笛(りゅうてき)の名手がいてね。ぜひとも共演して欲しいんだよ」

あまりに急な物言いに、僕も困惑した。

「あの、砧さん、相談役も今の僕たちの状況、分かっているとは思うんですけど」

虎千代はそれどころじゃないのだ。そんな場合じゃないのは、分かっているはずなのに。言下に断ろうと思ったとき、僕はふと、引っかかっていたことを口にした。

「それは何か考えがあってのことですか」

「うん」

砧さんはそれとは答えなかったのだが、何か含みがあるようだ。

「少し急ぐんだ。三日後、相談役のいるあの山庵に席を設けることになっていてね。出来れば、どうにかして虎千代さんを呼んでくれると嬉しいんだけどなあ」


「あの御老が必ず来い、と言うたのか」

虎千代はそれを聞くと、まったく不可解だと言うように難しい顔で腕組みして、ため息をついた。

「我らが窮状を分かっていて、なお、来いと言うか。三日後と言うたな」

「うん、どうする?」

「顔は出さねばなるまい。しかし、琵琶はな…」

と、虎千代は複雑そうな表情をした。どうしても躊躇があるらしい。

だが砧さんの話しぶりだと、やはり虎千代の琵琶は不可欠のようだ。僕は何とか説きつけて、朝嵐を持って出かけるところまではこぎつけた。


その日、無尽講社では小さいながら舞台が用意されていた。どうやら遠来の客があったらしい。つい二日ほど前にそこで役者を呼んで能狂言を催したのだそうだ。僕たちが約束したのは陽が落ちかける頃のことで、舞台は大きな篝火に照らされていた。

「忙しい中、よう、いらしてくれましたなあ」

蜜火さんに案内を受けて、観覧席に入ると相談役はいつもの調子で僕たちを迎えた。

「今宵は他に客を呼んであるのか」

虎千代は不審そうに訊いた。

「いえ、この席は我らだけです。砧くんは、舞台の方へ行って今、出演者の方々と打ち合わせをしとるところでしてな。虎千代さん、朝嵐は持参頂けましたか」

「ええ、どうにか」

表情を曇らせる虎千代に代わって、僕は答えた。

「はは、謙信公の琵琶音は、川中島合戦の名場面の一つですからな。さしずめ越後百二十万石の音色と申しますか」

「いや…あの、かような期待をされても困る」

期待に満ちた相談役の言葉に虎千代はみるみる表情を強張らせた。あまりそう言うプレッシャーをかけないで欲しい。ただでさえ、ここへ琵琶を持参させるのも苦労したのだ。

やがて、砧さんと蜜火さんがやってくる。

「準備は万端ですか」

相談役が二人に段取りを聞く。どうやら最初は、別の催し物があるようだ。

「遠来よりの妙手ゆえ、まずはその龍笛でひと差し、舞を見て頂きます。虎千代さんとはその後でと言うことで」

蜜火さんと砧さんは、見慣れない女の子を一人連れていた。十五、六歳くらいだと思う。恐らくこの子が出演者の一人なのだろう。烏帽子に椿を染め抜いた華やかな狩衣姿で、平安時代頃の武士のような格好をしている。

敦盛(あつもり)か」

その扮装を見て虎千代は、興味深そうに目を見開いた。平家物語に登場する笛の名手だ。女の子は無言で、頷いた。舞台慣れしているのか虎千代とは対照的に、まったく緊張のない澄んだ笑顔だ。

鼓花(こはな)と言います。笛ばかりではなく、鼓や篳篥(ひちりき)も上手なのですよ」

蜜火さんによると、鼓花は口が利けないのだと言う。少女は再び、虎千代の前で軽く目礼すると、足早に舞台裏の方へ去って行った。

「あの娘も、煉介くんや真菜瀬ちゃんと同じ、戦国時代で生まれた二世なんです」

と、蜜火さんが言った。

「虎千代さんもそうですけど、今日は真人くんに会えるのをとても楽しみにしていたみたいですよ」

現代に憧れがある。それは、自分の両親がここからではまったく手の届くはずもない異世界からやってきたことを感じながら、育ったが故なのだろう。それはそのまま、煉介さんや真菜瀬さんの生い立ちやものの考え方に当てはまる。そう言うのって、どう言う気分がすることなのだろう。この乱世にあって数奇な生い立ちを経験してあそこにいるのだろう鼓花を見て少し、考えてしまった。

それから蜜火さんが酒肴と、軽い夕餉を出してくれた。相談役たちと色々と話しながら食事を楽しむうち、舞台が整ったらしく、龍笛による独奏と舞が披露された。

龍笛は、竹製の横笛だ。琵琶と同じように、その姿は落ち着いた飴色にくすんでいる。和楽器の中ではもっとも音階が広いもののようで、龍笛の名前は天地を翔ける龍のように高音から低音まで自由自在に吹き鳴らせることから来ているようだ。

音は甲高くても、どこか芒とした靄状の空気感を帯びている。この竹笛がシルクロードを渡って金管楽器のフルートになったと言う説があるようだが、音はずっと柔らかく包み込むようだ。

しばらく序奏があった後、拍子が変わり、踊り子が入ってくる。巫女姿は、女性にしてはかなりの長身だ。黒髪を艶やかに振り乱し、能では若い娘を表す小面を被っているのだが、若い男性だろう。これはいわゆる女踊りと言うものかも知れない。

女装をした若衆が踊りを捧げる興は、当時珍しいものではなかった。例えば、織田信長は若い頃、この女踊りの妙手だったらしく、尾張の津島で現在も催される舟祭りで二十歳の信長がこれを披露したと言う話が残っている。

今夜の踊り子も長身ながら、かなりの名手だ。くるくると変拍子する龍笛に合わせ、淀みのない所作で舞い踊る。裾や首の動きだけで微妙なしなを表現するのだが、不安定なかがり火の照明効果がまた情感たっぷりで、ふと舞手が男性であることを忘れてしまう美しさだ。

いつしか僕は、虎千代がその女踊りを、夢中になって眺めていることに気がついた。

夢のような時間だった。

やがて龍笛の音が闇に溶けるように消え去り、鼓花は頬にやわらかな微笑みをたたえてこちらを眺めてくる。

「虎千代さん、次はお願いできますか」

踊り子がさがり、辺りが静寂に鎮まるのを見計らって、相談役は言った。そのときには虎千代は、黒姫に琵琶を用意させて舞台へ上がろうとしていた。良かった。やっとその気になってくれたのだ。


それからすぐに虎千代が朝嵐を携え、鼓花と演奏が始まったのだが、それは息を呑むほど素晴らしかった。霞み渡るような龍笛の音がふわりと舞う中、大きな撥を握った虎千代が五弦に張られた絹糸を爪引く。

琵琶には沖縄音楽のようにどこか、浜と海の風景を感じさせるところがある。ゆったりとした音の流れが凪ぎの海に似ているせいかも知れない。虎千代が単音で掻き鳴らす音の一つ一つの間に走る静寂のしじまは、まるでそこだけ空間が切り取られたかのようだ。

音と拍子が合ったのを確認したのか、演奏を一旦中断すると、虎千代は目で鼓花に合図した。袖で打ち合わせてあるのか、鼓花はこくりと頷くと、やがて一つのメロディーを吹き始めた。

それはどこか大地の雄大さを思わせる、大陸風の旋律だった。何とも言えない味があるのはゆったりとした中にもどこか物悲しい響きが混じっていて、長い追憶を夢に見たときの目覚めの感覚に似た感傷を思い起こさせる。

隣にいた相談役が僕に囁く。これは、『(おう)じょうの急』と言い、唐代に中国で書かれた曲のようだ。古典的な雅楽の名曲らしい。

「これを選ぶとは」

と、相談役はつぶやくように言った。

「いかにも、虎千代さんらしいですな」

女踊りの舞い手は、しばらく息を潜めていたが、この『皇じょうの急』では、ふわりと浮くように舞った。即興のようだったが、実に見事な足運びと言う他ない。

虎千代は情感を込めてそれを弾き切った。余韻を残して主旋律が消え去り、まるで時間の旅から戻ったかのようにそこに熾る木炭の弾ける音だけが残っている。

まばらな拍手が起こった。今夜の客は招かれた僕たちを含め、五、六人なのだ。もしかするとこれって、すっごく贅沢な演奏なんじゃないかと思う。

琵琶を黒姫に手渡し、虎千代が舞台を降りてきた。鼓花ばかりでなく、あの女踊りの舞い手も一緒だった。

「堪能しました。いや、素晴らしい」

と、相談役が握手を求めるが、虎千代は再び顔を硬くしている。

「すごいな、虎千代」

「ううっ…褒めるな。せっかく夢中になっていたのに。恥ずかしいではないかっ」

僕も感動のあまり褒めてしまってから後悔したのだが、虎千代は褒められるのが一番恥ずかしいらしい。僕の隣に走り寄ると、みるみる俯いて小さくなる。

「龍笛はいかがでしたか」

鼓花の代わりに、相談役が訊く。虎千代は僕の蔭から出てきて、

「うむ、我こそ堪能させてもらった。この鼓花、世にも稀な妙手よ」

まるでさっきの龍笛の音のようにふんわりと、鼓花は微笑んだ。演奏のときに蜜火さんから聞いたのだが、鼓花は九州から来たのだと言う。芸者として博多の豪商に買われていたのだが、また転売されて、堺から駿河へ行くのだそうだ。柔らかな笑みからは、その苦労は想像もつかない。

「で、舞い手のほどはいかがでしたかな」

重ねて、相談役が尋ねる。小面の踊り手は、顔を隠したままだ。虎千代はその男の前まで行くと、

「望みは果たしたぞ。これで満足したか」

と、言った。男が小面をとって頷いたのはそのときだった。


女踊りの舞い手は、煉介さんだ。

いつから気づいていたのか、虎千代はすでに知っていたようだ。

「この急な折に日にちまで指定されて来いと言われれば、なんとなく察しはつく」

虎千代が突然、琵琶を弾く決心をしたのも、演奏をするのにあの『皇じょうの急』と言う楽曲を選曲をしたのも、煉介さんが何らかの形でここに来ると察していたからなのだろうか。僕は正直言って驚かされただけだったが、

「俺も、虎千代と真人には話しておきたいことがあってね」

煉介さんは衣装を取り換えると、大小を腰に差し、武士の姿に戻ってきた。

「これより一献くらい、付き合うのであろうな。この数日、お前と話がしとうてこちらは探していたのだからな」

ああ、と煉介さんは頷くと、虎千代の隣に座った。蜜火さんが酒を入れた瓶子と朱杯を運んでくる。煉介さんは手酌で酒を注ぐと、かすかにそれを口に含んだ。

「なるほど、確かに百万石の音色と言うだけはあったかもな」

「なんだと?」

「相談役が言ってたんだよ。…君はいずれ、越後百二十万石の太守になるかも知れない女だ。そんな君の演奏に俺が身を委ねられる機会も、もうしばらくないかも知れないだろ」

「それが相談役の誘い文句か」

虎千代は皮肉げな笑みを唇に含んで小さく息をつき、

「他人行儀になったものよ。国持ち大名になれるかも知れぬと思うと、この小娘も、百万石の太守に見えてくるものか?」

対する煉介さんは苦笑した。

「相変わらず謙遜するよな。そこが君らしい、とも言えるんだけど」

「謙遜ではない、皮肉だ。それにあれは、百万石の音色などと景気のいいものではないぞ。お前への餞に選んだまでよ」

相談役は虎千代らしい、とその選曲を評して言った。そう言えば誰も、その曲の絵解きをしてくれなかったが、あの曲は一体虎千代が何を思って煉介さんに選んだんだろう。

舞台上には蜜火さんが手配したものか、再び鼓花が和楽器を手にした男たちと現れた。踊り手は今度は、本当の女性だ。鼓花より少し幼い女の子に見える。顔立ちが似ているところをみると、血のつながりのある娘なのかも知れない。

「明後日だ。弾正様に、菊童丸様を引き渡すことになっている」

意を決したように、煉介さんは言った。

「そんなことを話していいのか」

「もう話は密談と言う段階じゃない。受け渡しも、隠れては行うこともないからな。君にはそれくらい、伝えておいても差支えないだろう」

「止められるものなら、止めてみろと言うところか」

「どうかな」

虎千代は煉介さんの表情をじろりとうかがう。僕の目から見てだが、その煉介さんの表情には挑戦的な色は浮かんでいるようには見えなかった。

「場所は天王山だ。弾正様は、そこに野陣を張る。どこからでも一目瞭然になるが、そうなれば割って入れるものなどいないだろう」

「それはお前の見解か?それとも、弾正がそう言ったか」

「どちらでもいいだろう。とにかくそれで、すべては終わりだ。俺は一国を手にし、三好家は王城を手中にする」

「そう上手くいくとは、思えぬな」

「三好家のことか、それとも俺のことか?」

「いずれもよ」

虎千代の物言いを予想していたとでも言うように、煉介さんは失笑めいた苦笑を含んだ。

「恐らく弾正は切り取った分国をお前に任せると約したであろうが、具体的な封地はもう上がっているのか?それはさしずめ、この山城の一国か、現将軍を守る朽木谷を含む若狭か、野洲細川家を盛り立てる遊佐氏の能登か。いずれ、今の持ち主がいる限りは空論に過ぎぬと言わめ。あやつの言うこと、よもや鵜呑みにするわけではあるまい」

「俺と弾正様との約束まで、君に話す気はない。だが、心配は無用だと言っておこう。俺たちの国を手に入れる、その道筋はすでについている。弾正様に協力するのは、そのために過ぎない。最終的には自力で国を切り取るのが、俺の目標だ」

「奪ったもので作った国が、それで成ると思うか」

煉介さんの言葉を刺し止めるように、虎千代は言った。

「悪党足軽ながら、お前も人の大将であろう。よく、思い返してみるといい。お前を守り立て、気遣うてくれるものは、お前が奪ったものか。お前に奪われて従ったものが、お前の夢に賛同したものの中にいたか」

「じゃあ、逆に訊こう」

と、煉介さんは言い返した。この二人のこんなやりとりを聞いているのは、僕にとってもひどく辛かった。

「君は生まれながらの大名だ。でも、何も奪わずに君の家がなったと思うか。誰も犠牲にせず、誰の思いも挫かず、君の地位がそこにただみんなに尊敬されてあるものだと思っているのか。そうだとしたら、思いあがりも甚だしいな。そもそも君の家など」

「煉介さん」

堪え切れずに、僕は遮った。虎千代がそんな人間に見えるのか。あえて、虎千代が煉介さんの琴線に触れてまで腹を割っている意味を察してほしかった。

「よい、真人」

と、虎千代はやんわりと僕を制した。

「言うまでもなく我が長尾の家は、関東管領上杉氏より越後一国を簒奪した家柄よ。国人を踏みつけ、抑えつけ、今も煮上がった地獄の釜の蓋に居座っているようなものだ。それが人からむしり取ってまで得るべきものとは到底思えぬが、わたしの心底よ」

虎千代のその言葉に、煉介さんは抗弁したりはしなかった。虎千代が本心をぶつけてきたことを自分の本心で否定しようと、いずれにしても理解し合えない部分の話になると、悟ったのだろう。

「…結局は、生まれ育って感じてきたものの違いになってしまうな」

「かも知れぬ」

虎千代は、言った。それ以上は話すべくもないと、彼女も悟ったのだろう。そこから二人、静かに杯を重ねた。

舞台の上では管弦の舞が続いている。まるであの、乳白色の霧に包まれた夢のような、淡く儚い、時間だった。虎千代と煉介さん、この日、二人の運命がまた歩み寄ろうと交わったことがまったくの幻であったかのように。

そして僕はここ数日、予感として持っていた危惧が具体的な形になることを実感した。ついに本物の大いくさが始まるのだ。煉介さんと虎千代、菊童丸を巡っての最後の争い。


もう、二日後だ。

煉介さんが菊童丸を引き渡す。場所は天王山、ここははるかな後年、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀が山崎合戦で豊臣秀吉と陣地を取り合った山だ。松永弾正はここに陣を構え、煉介さんたちが連れてくる菊童丸を受け取る手はずになっていると言う。

虎千代はありったけの兵を集め、これを阻止する行動に出る。無尽講社から戻るとその日のうちからすでに戦備を整えていたこのえと新兵衛さんを通じ、伏見に集結させた軍勢に命令を下す。鬼小島も黒姫もいつもの軽口はなりをひそめ、覚悟を決めた様子だった。下手をすると、畿内最大の軍勢と正面衝突、と言うことになり兼ねないからだ。

かささぎが意識を取り戻したことを、虎千代が訊いたのは決戦の夜だった。痩せ細って眼窩の落ち窪んだかささぎに、僕は傷ましい気持ちを堪えきれなかったが、ついに菊童丸を奪還できると言う虎千代の見通しを聞いて、生きる気力を取り戻したようだった。

「…まだしばらくは、生きていねばな」

朝嵐の話を聞き、かささぎは虎千代に琵琶を弾いてほしいと頼んできた。ちょっとぎょっとしてはいたが、さすがにそこは虎千代も断れなかった。

弾いたのはあの、『皇じょうの急』だった。物悲しい夢のような響きに、かささぎは涙の乾いた跡の著しい瞳を閉じてたゆたっていたが、

「これを、煉介にか」

と、やがてひび割れた声で言った。

「また、長尾殿らしいな」

虎千代がいなくなった後、僕はかささぎから、虎千代がどうして煉介さんにこの曲を選んだのかを聞いた。

この歌は、遠い戦地で亡くなった将軍を慰める歌だと言う。唐の第四代中宗が作らせた、戦場で死するものへの、鎮魂の歌なのだ。

それほど景気のいい曲ではない、と言うのはそう言うことだったのかも知れない。

大名と言う、無数の屍の上に築かれた塚のような場所にいる虎千代から、屍と犠牲を積み重ね、自らそこに上がっていこうとする煉介さんに向けて送った、いわば戦国大名のための一曲。

虎千代が餞だと言ったのは、そのことだったのだ。

虎千代がこの歌に込めた思いを、煉介さんはそれと察しただろうか。

判らなかった僕には、何も言う資格はないのかも知れない。虎千代の見てきた風景にも、煉介さんがこれから見ようとしている風景にも、そこにこめられた無数の思いにも触れ得る力を持たない僕には。

次の朝、暗いうちに虎千代は身を鎧で固め根城を発った。集結は伏見だ。かささぎの住居のある湿地帯にほど近い、葦の原だ。朝靄流れる中に、無数の長尾家の旗がひるがえっている。

虎千代の合図に、千を超える近い軍勢がゆっくりと動き出す。大地が動いているようだ。突撃の合図を意味する『乱れ懸り龍』の旗を持った力士衆の軍勢が、虎千代の馬を取り囲む。僕も虎千代の替え馬を引き連れ、その中にいた。

「駆けよ、天王山ぞ」

地響きのような大勢に、雷のような虎千代の下知の声が降った。


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