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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.2 ~携帯電話、人市、本当のいくさ
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戦国の京都 人市で出会ったのは?!

 明け方のまどろみの中で、僕はいくつかの短い夢を見た。やっぱり身体は疲れていたので、ずっと深い眠気の(もや)の中に包まれていた気がしたけど、どこか頭の芯は醒めたままだった。なにしろ昼間の体験が強烈過ぎたのだ。

 五百年も前に在った、小さな部屋の―――僕はもう、この部屋の匂いを覚えてしまった―――そのどこか真新しい木の香と、同時に湿っぽい温かさを感じさせる香りの中で、何度も違う匂いを嗅ぎながら、僕は、自分で置き去りにした記憶の中を通っていた。

 最初に繰り返し、現れたのは、やっぱり鵺噛童子―――彼女の姿だった。

 眠る直前まで、あの凛丸と話をしながら似顔を眺めていたせいだ。河原で出会ったときの、いくつかの断片的な記憶が何度も蘇った。澄みきった岩清水で濡れたように黒くしなやかな髪、刺すように鋭いのに、強い引力を持った眼差し、その強烈さにまるで不似合いなくらい、どこかかよわげなこぶりな唇―――

 ほんのすれ違うほどのほんの一瞬の邂逅に過ぎなかった。それでも―――

 夢の中で思い出したのは、彼女がまとっていた甘い匂い。花の匂いがした真菜瀬さんとはまた、違う、白檀のような、かすかでも強い香りだ。たぶん彼女はその身体に、お香を焚きしめていたのかも知れない。それはひどく人を落ち着かせる物静かな匂いだった。

 僕は何度もその匂いを嗅いだ記憶がある。それはまだ幼い頃―――父親に連れ回されて行った古いお寺や神社で嗅いだ匂いだった。

 そこで、時を過ごしている、お坊さんや、神主さんたち―――そんな人が、袈裟や着物に焚きしめている匂い。それが、あの子からした。

 僕の父親は大学の講師でも教授でもなかったけど、在野の―――つまり、アマチュアの研究者だった。仕事のない日のほとんどは、歴史のある古いお寺や神社を巡っては、非公開の古文書や秘仏、秘宝を拝ませてもらっていたのだ。

 そうだった。

 あの朝、学校を飛び出した僕がその足で向かったのは―――


「ぶっ」

 その朝の目覚めは、平穏と言うわけにはいかなかった。

 目が覚めたのは強烈な鼻の痛みからだった―――なんの予兆もなく、鼻っ柱がへし折れるかと思うほどの勢いで何か固いものが、いきなり顔にぶつかってきた。そいつは僕の顔の上でバウンドすると、板張りの床を滑り落ちて、ボダボダボダ・・・・と、地面に落ちたクマゼミのような物騒な羽音を立てた。

「うっ」

 声も出ないくらい。本当に涙が出るほど痛かった。なんなんだ、一体―――わけもわからないまま、目を開けると、そこに僕の胸をまたいで立ちはだかっている真菜瀬さんの、なぜか真剣な顔が。

「えっ」

 僕たちは一瞬無言で見つめあってしまったが―――さらに視線を上げると、真菜瀬さんは大きく何かを振りかぶっているのが分かった。

 竹箒だ―――真菜瀬さんはそれを、僕の顔に振り下ろすつもりでいる寸前に、目覚めた僕と、視線があったのだ。助かった。このまま目が覚めなかったら―――その大きな竹箒で顔面を思いっきり叩かれていただろうから。

「あの―――これっていったい―――?」

 どう言うつもり? なのだろう。ようやく声を出せたが、僕は後に次ぐ言葉を見失ってしまった。すると真菜瀬さんの視線は、そのまま、床の上で鳴っている携帯電話に移る。そして真菜瀬さんはもう一度僕を見ると、不審そうな表情でこう訊ねた。

「その生き物―――マコトくんの? 生きてる? それって―――虫?」

 携帯電話だ。

 でもいったい、どこから、どうやって説明したらいいんだろうか。僕は大きくため息をついた。


「へーえ、こいつ、そうやって動くものなのか。初めて見た」

 煉介さんも目を丸くして僕の電話をつまみ上げてみていた。

「それって―――生きてるわけじゃないよね? 噛んだりしないよね?」

 真菜瀬さんなんかは、少し涙目になって騒いでいる。

 どうやら僕を起こそうと思って部屋に入ったら、途端にアラームが作動したらしい。別に早起きする必要もないのに習慣で、枕もとに置いておいたのもよくなかったのだ。暗闇の中で緑色に光って震える携帯電話を初めて見て、真菜瀬さんがパニックを起こしたのも肯ける。もう、ふと忘れそうになっているが―――この人、室町時代の人なのだ。

「あーっ、びっくりした! びっくりし過ぎて死ぬかと思ったよ、もー」

 いや、死ぬかと思ったのはこっちだ。

「闇に光るとは狐狸変幻(こりへんげん)―――管狐(くだきつね)です。こやつ式神を使うに違いありません」

 凛丸もその場にいたらしく、刀まで持ち出して来ていた。危なかった。駆け付けたのが真菜瀬さんじゃなくて、こいつが先だったら、僕は―――電話ごと斬られていただろう。

「このような妖しい物の怪を懐に飼うとは―――やはり、ソラゴトビトは不浄です。お頭、よくお考え下さい。これは凶兆です。まったく―――」

 と、煉介さんの手の中で携帯電話が―――今度は着メロつきで鳴りだすと、凛丸は刀の柄に手をかけたまま、すごい勢いで後ずさりした。

「ははっ、面白いな、これ。借りていいか?―――みんなに、見せびらかしてやろう」

 煉介さんだけは目を輝かせていた。

 この朝の一件だけじゃなかった。

 なんて言うか―――煉介さんはこだわらない人だ。拍子ぬけがするくらい。

 あのとき僕を拾ったのも、なんか普通に納得できるくらい。

「よし、飯を食ったら、街に出よう。京の街を案内してやるよ」


 朝ごはんを済ませた僕は煉介さんたちに連れられて、街に出ることになった。

『くちなは屋』のある通りには、意外にももう、人があふれている。明かりが貴重なせいで早く寝るからか、中世の人の朝は早いのだ。全国から到着した商人たちが荷降ろしを済ませて、道端で、朝から市が立ったりしていたらしい。活気のある売り声が、道のあちこちから飛び交っている。

 僕たちは四人で、『くちなは屋』を出た。煉介さんは、凛丸に馬を曳かせていたが、歩きだ。鎧は着けてなくて、黒い小袖を着て背中に例の大太刀を一本だけ、差している。

「一応、注意はしててくれ。物騒なことがあると困るから」

 そう言うけど、本人は意外と無防備だ。

「危険です。供も連れずに出るなんて。それに―――」

 僕は学校の制服のまま。そのことについても、凛丸が危険だと声を荒げたけど、煉介さんは、その辺は別に、無頓着だった。

「まったく、何があっても責任は持ちませんよ」

 凛丸は兜こそ着けてはいなかったが、しっかりと鎧を着こんで、弓矢の入った箱を左後ろ脇に背負って、小さな槍まで持っていた。

 気になるのは真菜瀬さんだ。この人は昨夜見た巫女さんのような木綿地の真っ白な装束に、桜色の打ち掛けを羽織っていたが、裾が短いせいで足は腿までほとんど出ているし、下着なんてつけてないから、はだけた胸もとは気になるしで、まるで無防備だ。

「目立つカッコしてると、死ぬこともあるから気をつけようね!」

 自分のことを棚に上げて真菜瀬さんが、さらっと恐ろしいことを言った。

「人さらいとかも普通にいるから、危ないと思ったら、とにかく大声出すこと」

 大声って―――痴漢に遭った女子高生じゃないんだから。

 出る前に、聞いた凛丸の話からすると、ここは京都の下京と言われる場所だと言う。

 この当時の京都は―――

 おおまかに分けると北と南に二つの地区に分かれていたそうだ。北の方を、上京、南の方を下京。このことは現代にもちゃんと残っていて、京都の住所では、上ル、と言えば北、下ル、と言えば南側で、変わっていないのだそう。

 長引く戦乱のせいで、この二つの地区は要塞化されて、大きな堀で囲まれていた。そのため、ところどころに物見のための櫓みたいな高台が設置してあるし、町中にも釘貫(くぎぬき)と言われる門が設けられていて、二重、三重に外敵に備える仕組みが巡らされていた。

 それでも、人が集まる場所では活気があって―――

 露店風に並べられた、小さなテントくらいの、規模の小屋には―――見世棚(みせだな)と呼ばれる、小規模の貸店舗だと言う、本当に色々なものを売っていた。干した貝や魚などの乾物、野菜、刀や鎧などの武具、細かい模様の入った綺麗な布や櫛にお香。

 頭の上に乗るくらいの盥を地面に置いて、青笹を添えた生の川魚を並べて売っているのは、桂女(かつらめ)と言われる女の人の魚屋さんだ。僕たちより少し年上くらいに見えたその女の人は、煉介さんを見かけると、白いあごを持ち上げて、小さく会釈した。

 どことなくひなびていながらも、間違いなく活気がある。

 なんて言うか、テレビとかで見るタイやベトナムの市場を思わせる賑わいだ。

 僕のイメージでは戦国時代の京都と言うのは、一面、焼け野原なのかと思っていた。確か、応仁の乱と言う大きな戦争があって、街はぼろぼろになって誰も人が棲めなくなった。そして、そのことが原因で、全国でも戦争が始まって、戦国時代になったと習ったような気がしたけど―――

「ああ、確かにいくさ続きだから、この街には住みにくいだろうけど。―――どうかな、どっちかって言うと、人は増えてきてるんじゃないか?」

 授業サボり魔の僕にしては感心なことに、バッグの中に日本史の教科書が入っていた。それで調べたことによると―――

 天文十五年は、西暦にすると一五四六年。応仁の乱が一四六七年だから、それから百年近く経っているのだ。だったら、もう、街が復興していても不思議はないか。

「人が集まりし出したのは一部の地域だけですよ」

 そう、物憂げに言ったのは、凛丸だった。

「応仁の大いくさ以降も、争いは絶えず、街はいくさに怯えています。諸国の商人(あきうど)が集まるのもいくさに物が要る故ですよ。この下京の街も、応仁のいくさの害を免れたとは言え、先年の天文法華(てんぶんほっけ)の乱で焼かれましたしね」

「天文法華の乱?」

 僕が訊くと、凛丸は不機嫌そうに顔を反らしてしまったので、真菜瀬さんが言いにくそうに、

「あー、なんて言えばいいかなー・・・・・この街では、お坊さんたちも仲悪くて、十年ぐらい前のことなんだけど―――」

「比叡山の僧兵十二万と、法華の町衆三万五千が衝突したんだ。戦闘は五日くらいで終わったんだが―――ひどいいくさだった」

「あっ、そうそう。確かわたしが聞いた話だと、比叡山の華王坊(かおうぼう)って言うお坊さんが、道で日蓮宗をぼろくそにけなしていて、それを聞いていた日蓮宗の松本新左衛門って言う侍と喧嘩したせいでいくさが起きって言うんだけど―――」

「日蓮宗総本山二十一の寺が丸焼けになった。この辺も焼け崩れた家が多くてね。つてを頼っておれたちも逃げ回ったよ」

 煉介さんは子供の頃から京都にいた人らしい。遠い目をした。

「叡山も法華も腐敗の極みです。宗論に負けた腹いせに聖都を火の海にするようないくさを起こすとは僭上(せんじょう)の沙汰」

 凛丸は、憤慨するように吐き捨てた。

「そんなにいくさが起きて、誰も止める人はいないんですか。幕府とか、将軍は?」

「誰もとめる人がいないから収拾がつかないんだよね―――そもそも、幕府じたいが二つに分かれて、京都中で争いをしてるわけだし」

「まあ、だからこそ、おれたちみたいな生業の人間が、食っていけるわけだけど―――おれたちみたいなのは無足者(むそくもの)って言う、氏素性も守るべき門地もない人間なんだ。いくさで稼げれば、おれたち足軽は、雇い主が誰であろうが推参する。相手が法華でも、一向衆でもね。今の京じゃ、いくさが一番の生業なのさ」

 と、言うことはつまり、煉介さんたち足軽と言うのは―――

 いわゆる、傭兵団みたいなものか。京都中のいくさが起こるたびに雇われて、戦闘に参加する。戦乱が絶えない京都では、いくさがそのまま商売になる。僕が知っている足軽、と言う言葉が連想する人たち―――黒い編み傘に、簡単な鎧を着て槍を持って、馬に乗った武士たちの下っ端として戦場へ行くような―――そんな人たちとは大分違う。

 いつどんな状況で誰が起こすか分からないような―――この京都で頻発する戦闘に出没する傭兵部隊か。戦争に必要なのは、武器や弾薬、食糧だけじゃないのだ。

「煉介たちって、結構強いんだよー。色んなところからお呼びが掛かるの。普段はこうやってふらふら遊んでるごろつきだけどね」

「人聞きの悪いこと言うなよ。店の警備とかお前たちの護衛もちゃんとしてるだろ」

「それより、いいんですか、真菜瀬さんこそ―――店を放りだしたりして」

「わたしのこと? あー、大丈夫大丈夫。どうせお昼は暇だし」

「ったく、お前だってふらふら遊んでるじゃないか」


 下京をめぐった僕たちは室町通りを抜けて、上京に至る道を進む。

 この室町通りは、二つの城塞地区を結ぶ、唯一の道なのだそうだ。もちろんそこはただの殺風景な間道などではなくて、屋根板に置き石を配して留めただけの杮葺(こけらぶ)きの屋根の人家が立ち並ぶ通りだったのだが、商家がある町中に比べると様子は格段に寂しく、かなりうらぶれていた。そこから一歩出ると、続くのはただの荒れ野で、戦乱で修復されないままの廃墟が散在していると言う。

「ところで―――この鵺噛童子の似顔のことだけど」

 煉介さんは、思い出したように言った。どうやらついでで僕を案内してくれたんだけど、煉介さんはこの件で上京のどこかに用事があったらしかった。

「君が見たのは確かに、女の子だったんだな。君と同じ年くらいの」

 僕は肯いた―――凛丸が描いてくれた似顔は、ほとんど僕のイメージ通り。何度も言うけど、とてもあんなむごいことをするような化け物には見えなかった。

「この辺ではすでに七人殺されてる。おれたちの仲間以外にも、土地の馬借や関の元締めなんかがな。奴は外からやってきたんだ。化け物なんかじゃないさ」

 鵺噛童子はただの流れ者だ―――そう、煉介さんは言いたいのだろう。

 そして狙われているのは、運送業者―――他国との商いに従事しているもののようだ。僕たちは、それで、そうした輸入や行商を商う仕事―――特にそれは、外国との貿易を生業にしている商人たちを巡ったが、やっぱり、はかばかしい成果は得られなかった。

「奴は化け物ですよ、お頭。風貌なぞ、変幻自在に決まってます。なぜ、わざわざこのような真似をして捜し回ったりするのですか」

 鵺噛童子―――彼女が遺した衣類を持って数軒の店を回った後、凛丸はうんざりしたように尋ねた。

「―――凛丸、お前はこの似顔の女が、人を喰う姿をじかに見たわけじゃないだろ。なんでも会ってみなきゃ、分からないじゃないか」

 そう、煉介さんは言ったが―――

 煉介さんは、鵺噛童子を探して―――本当は、どうするつもりなんだろう。ふと思ったのは、煉介さんが例の澄んだ眼をしていたからだ。この人は本当に不思議な人だった。そのことを僕は、すぐに実感することになる。

 それは室町通りも半ばに差し掛かったときだ――――

「た、助けてくれっ!」

 路地から急に人が這い出して来て、僕たちの前にひざまずいた。中年ぐらいの、青黒く痩せた男の人だった。薄汚れた雰囲気から、たぶん、武士ではなくて、農夫風だ―――裸足で、ところどころ擦り切れたネズミ色のぼろだけをまとって荒縄で縛っていた。

「お願いだ。助けてくれっ、頼む、逃がしてくれ頼む―――」

 何から逃げているのか、その人はひどいパニック状態で、言葉も次げなかった。

 事態を把握できないでいるとやがて続いて、三人の男たちが姿を現した。一人は刀を差して馬に乗り、もう二人は、槍を抱えて武装した男たちだ。

「そやつは奴婢(ぬひ)(奴隷のこと)ぞ。身曳き(みび)証文もある。もはや逃げられはせぬ」

 その言葉で、凛丸は動いた。農夫風のその男を抱き上げ、無理やりに引き立てると、追ってきた二人の男たちに渡したのだ。

「よう、捕まえてくれた。礼を言うぞ」

 馬上の男が言い、煉介さんに会釈をした。その男は僕を一瞥すると、

「ほうソラゴトビトやな。珍しい奴婢を飼うておられる。いかがかな? その裏の川辻で、人市を立てておるのだが」

 凛丸が答えた。

「我々は急ぐ故、またの機会にする。せいぜい、逃げられぬよう気をつけるんだな」

「それは残念。そこな、ソラゴトと同じ年頃の足弱(あしよわ)が出るのだが―――」

 言い棄てると、男たちは立ち去って行った。

「人買い商人め。胸糞の悪い―――」

 凛丸が吐き捨てる。人買い―――今のは、つまり、奴隷商人だったのだ。

「いくさの後は必ず出るもんだ。人取りは金になる。今の男も、身代の金が払えなければどこへ逃げても、ああして連れ戻されるのがおちだ」

「本当、でもやなやつらだよね。まったく―――マコトくんのこと、奴隷と間違えるなんてさー」

「人市か―――そこの鴨川の辻だってな。ちょっとのぞいてみるか」

「えっ」

 硬直する僕たちを尻目に煉介さんは、笑みを貼りつけたまま先に歩いて行った。


 そこは、鴨川の辻だった。土手を下りて川辺に人が集まっていて、たかりが出来ている。あれが―――人市か。それは驚くほどの賑わいだった。真菜瀬さんによると、人市には見物も含めて、大勢が集まるのだと言う。

 上から見ると、河原に一段高い舞台のような場所が設けられていて、そこに奴隷たちが引き出されているようだ。縄で数珠つなぎにされた人たちが、順番に連れられていった。性別も年齢もまちまちな人たち―――でも、みんな、焼け出されてきたかのように煤汚れた格好をしている。

「遠く越後くんだりから、人売りだそうな」

 誰かが言う。越後って言うのは―――確か、新潟県のことだったような。

「いくさがあるとどこでも人市が必ず立つ。売り渡されて、行き着くのは、京や堺。またそこから船に乗せられて南方へ転売されていく。人によってはこの国を放り出されて、呂宋(るそん)(フィリピン)や安南(あんなん)(ベトナム)の方まで売り払われることもあるそうだ」

 と、煉介さんは言った。

「一度、人に売られる身になるとそこから逃れるのは、難しいんだ。身曳き証文があるからね。どこへ逃げても捕まれば、証文の主に返さなきゃならない仕組みなんだ」

 確かに長旅を引きずり回されてきたのか、売り買いされる人たちの表情はうつろで、暗い、と言うより消耗しきった感じだった。

 それにしても人が人を売買する姿を見るのは、本当に、見るに堪えないものだ。どうして煉介さんはこんなものを見たいと言うんだろう? 僕はいつしか、顔を背けていた。

「よう、来たな」

 僕たちが行くと、さっきの男たちがいた。僕らの姿を見ると、やっぱり来たんじゃないか、と言うように、口元に歪んだ笑みを浮かべる。

「間に合うたな。ソラゴトの足弱が出るんは、この後ぞ」

「足弱?」

「―――女子供のことさ。足弱は値が五割増しで売れるんだ」

 おおよその値がついたのか舞台の上は人が去り、誰もいなくなる。

「まだ若い女子でな。実は昨日、この京で生け捕ったばかりだで、威勢もええ」

 昨日? 昨日だって?―――その言葉を聞いた時、僕は胸に嫌な予感が兆した。

 やがて、悪い予感は現実のものになった。引き立てられてきた僕と同じ制服を着た女の子を見て、僕は、言葉を失った。

 そこにいたのは、やっぱり絢奈だったのだから―――

「絢奈っ!」

 僕の声は、人いきれに掻き消されて、そこには届かなかった。

 絢奈がいる。手首に縄をされて、表情を失ってうつむいて―――

 駆けだそうとして僕は、その男たちに停められた。二人の男に両側から腕を掴まれ、羽交い締めになったが、それでももがいた。うつむいたままの絢奈はまだ僕に気づいていなかった。

「おいっ、おのれっ何をするっ!」

「放せっ―――放せよっ、こいつらっ」

 暴れるまま僕は、その二人に前に放り出された。凛丸がそれを抱き止め、真菜瀬さんと二人になって引き留める。

「だめっ、マコトくん―――危ないっ」

「―――くそっ」

「待て、落ち着けっ――――どうにもならない」

「妹なんだよ。こいつらに捕まって―――」

 なんて、ひどいことをするんだ。ふざけやがって―――でも、その場で、僕に何も出来ないことは分かっていた。この人数の中では、煉介さんたちにもどうにも出来ないだろう。それでも―――僕は叫ばずにはいられなかった。凛丸と真菜瀬さんに留められながら、必死にもがく。

「馬鹿者、落ち着くんだ。話を訊けっ」

 凛丸が後ろに回って、渾身の力で僕を抑えつけた。

「残念だが、この場ではどうにもならない。身曳き証文を持たれていては、ここではこちらは手の出しようがない」

「そんなの納得いくか。僕の―――妹なんだ」

「諦めろと言ってるわけじゃない。この場は抑えろ。死にたいのかっ」

「まあ、待てよ」

 そのとき―――

 暴れる僕を押しとどめて、前に出たのは煉介さんだった。煉介さんは軽く首を傾けてふーっと息をついた。そして、男たちの顔を見渡して僕を一瞥すると―――

「こいつは、あの子の兄だ。あの子が欲しい。すぐに引き渡してもらおう」

 と、静かな口調で言った。

「血縁か。高いで。そう聞いたら、ますます売れぬでなあ」

 男たちの顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。

「こっちは、身曳き証文を持ってるんや。あの娘の身ぐるみ、わしらのものや。そう生半可な値じゃ、得心せんで。それに―――その足弱かてどこの拾いものか分からんのやろう。どうや、お前こそわしらにそのガキ売らぬか。ええ値で買うぞ」

「人買い、おれの話が聞こえなかったみたいだが」

 と、煉介さんは答えた。その口調はいつもと打って変わって冷たく―――冴えていた。

「―――売れとは言ってない。寄越せって言ったんだ」

「は?」

「聞こえないか?」

 そのとき、煉介さんが口元に浮かべた笑みが凄絶に歪んだのを、僕は忘れることが出来なかった。

 ―――おれたちは悪党足軽だ。

 そう、煉介さんが言ってから、軽く彼はその身を沈めたように僕からは見えた。

「欲しいものを買うと思うか?」

 と―――煉介さんの動きは、誰にも予測がつかなかった。

 次の一瞬だ。

 僕には煉介さんの右手が、目の前の男の顔に吸い込まれる姿しか見えなかった。

 男の左の眼の下に拳が叩きこまれるのとほぼ同時に―――

 煉介さんの左手は相手の腰にあった脇差を抜いていた。鋭く砥がれたその刃が、解き放たれる。

 左の男の腿に、煉介さんはその脇差を突き立てた。恐ろしいほどの絶叫が立ったとき、辺りの人のどよめきは一転して、水を打ったように静まり返り、血に濡れた刃を返した煉介さんは右の男の顔面を、その脇差の柄で殴りつけた。

 見る間に三人の男が、戦闘不能になった。

 滑らか過ぎる一連の動きはすごく速いのに、はっきりとした流れがあるせいか、それはどこかゆったりとしていて美しくさえあった。最初に殴られた男は煉介さんに顔を蹴りあげられ、羽交い締めにされて首筋に自分の脇差を突きつけられる。

「どうだ? 逆に身柄を握られた気分は? お前の命いくらで売る? 値を言いな」

 男は震え上がった。煉介さんの口調はまったく激しくなく、凍りつくように静かで、眠たげですらあった。血なまぐさい刃を突きつけられた男は腰が抜けて眼を剥き、無様に膝が笑っている。煉介さんは、噛んで含めるようにゆっくりと語りかけた。

「いいか、あの娘を、放すんだ。悪い取引じゃないだろ? それで―――お前の命を、売ってやる」

「わ、分かった―――分かった」

「証文も忘れるな。そいつは今出せ。持ってるんだろ? いいか―――早くしろ」

 絶句した男はわななく手で懐から身曳き証文―――絢奈の身柄の受け渡し証を取り出した。煉介さんはそれを引っ手繰ると、自分の懐に入れ、僕に向かって、

「マコト、行け。妹御の身柄はおれらのものだ」

 弾かれたように立ち上がった僕は、ふらつく足を抑え、二つに割れかけた人波をわけて絢奈のところへ向かった。僕の顔を見ても絢奈は、一瞬、誰だか分からないようだった。

「絢奈っ、しっかりしろよ。―――大丈夫だ」

「―――お兄い?」

 はっ、と、回路がつながったかのように絢奈は顔を上げ、僕を見た。その目は、赤く腫れ、うっすらと涙が滲んでいた。

「もう大丈夫だ。助かった。早く、行こう」

 僕は必死で絢奈の手首に巻かれた荒縄をほどく。絢奈はまだ事態を把握できてないようだ。その身体を抱え、僕は煉介さんたちの元へ戻った。

 そのまま場を去ろうとした僕たちに、人買い商人の怒声が追いすがる。

「ふざけおってっ、逃すか!」

 すると合図で一斉に―――人買い商人たちの手勢がいろめきたった。

 殺気を帯びた怒声が上がって、僕は、背中が総毛立つのを感じたが―――

 煉介さんは僕を連れて、平然とそこを立ち去ろうとする。そこに血が出るように憎々しげな叫び声を投げかけたのは、煉介さんに刃を突きつけられた人買い商人だ。

「殺せえいっ! ぶっ殺せっ! 一人も残すな」

 その数は十人近くはいただろうか。それが口々に、叫び声を上げて―――槍や刀を振りかざして僕たちに追いすがった。馬に乗った男たちも中にはいて、暴れ馬が人波を蹴散らすたびに別の悲鳴が方々でどよめいた。

 辺り一帯は、静まり返った雰囲気が嘘のように、一瞬で大混乱に陥った。

「行くぞ。凛丸、馬を曳け。とっととここから出るぞ」

 煉介さんたちは、こんなときも全然、あわてていなかった。凛丸に馬を曳かせると僕と絢奈にそれを渡して、自分は、足元に落ちている槍を拾う。

 そのとき馬で走りぬけて来た人買いの手勢が物凄いスピードですれ違おうとした。その男を煉介さんはすれ違ったほんの一瞬で殴り倒し、引きずり落として馬を奪った。

 そしてそれに凛丸と真菜瀬さんを乗せると、自分は混乱の真っただ中に歩きだした。

「下京に落ちろ。凛丸、あとは頼むぞー」


 そこから先はどこをどう、逃げたか分からない―――

 僕は馬に初めて乗ったし、凛丸のリードでどうにかその場を駆け抜けただけだ。

 やがて―――

 適当なところで、凛丸は馬をとどめ、僕たちを下ろした。

「真菜瀬さん、二人を頼みます。私は―――」

「煉介の無茶に付き合ってくるんでしょ。大丈夫だよ。『くちなは屋』に戻ってすぐに助勢を頼んでくる」

 小さく肯くと凛丸は、元来た道を駆けだした。

「ふーっ、危なかったね。びっくりした?」

 びっくりしたも何も。まさか煉介さんがあそこで、あんなことをするとは思わなかった。

「気にすることないよ。いつものことで、全然大したことじゃないから」

 真菜瀬さんは、相変わらず軽かった。まったく心配もしていない。全然大したことはない。そう言っていたけど―――あの後、あの人数を相手に煉介さんは、ひとりで大立ち回りをしていたのだ。いくさに出たことなどない僕たちからは、到底、煉介さんのことは想像できないんだろうけど―――例えばあの満座の中で、脇差一本で三人の男と渡り合うことなど、どう考えても出来そうにない。

「いつものことって―――すごいことになってましたよ。僕たちのせいでこのままじゃ」

 いくさになるんじゃ。そう言うと、真菜瀬さんは笑っていた。

「あんなのいくさのうちに入らないって。本当のいくさはこんなもんじゃないよー」

 と、言うと、含み笑いした真菜瀬さんはけだるそうに伸びをした。

「絢奈、大丈夫だったか? 怪我とかしてないよな―――」

 と、言いかけた僕の頬が軽く鳴った。絢奈の目にみるみる涙が浮かんでくる。

「お兄いこそ―――ばかぁっ、心配したじゃんか」

 でかい声。よかった。どうやら、怪我はないみたいだ。

「もう、本っ当、絢奈に黙ってすぐ消えるんだから! 死んだかと思ったでしょ!」

「ごめん、迷惑掛けたよ」

 泣きながら僕を殴り続ける絢奈に僕はそれしか、答える言葉がなかった。

「って言うか何してたのー、お兄い! あんなところで」

「絢奈、お前こそ―――」

 まさか、売り飛ばされそうになってるとは思わなかった。

「馬鹿お兄い! わたしのことなんてどうでもいいでしょ!」

「いや、よくないだろ」

 それにしても痛い。まず、とりあえず、グーで殴るのはやめてくれないかな。

「それよりさ、いったい、何が起こったんだ? 今、どうしてここにいるんだ? おれ、あのときの記憶が曖昧なんだけど―――」

「―――そう言われても、絢奈にもよくわかんないよ。絢奈だって本当に、ちょっと前だよ。自分がすっごく昔にいる、ってことが分かったの。今って天文――十五年? つまり、何百年も昔にいるってことでしょ?」

 と、絢奈は怪訝そうに、真菜瀬さんの方を見る。真菜瀬さんはピアスに入れ墨、それに露出度の高い格好なので―――あまり説得力がないかも知れない。

「あの人は?」

 僕はあわてて絢奈に、説明をした。僕が彼らに拾われて、どうやってここまで来かと言うことと、これまで判ったことの全てだ。真菜瀬さんに補足をしてもらいながら、僕はこの時代のことと、僕たちのことを、絢奈に話した。さすがに絢奈は大分ショックを受けたみたいだった。

「信じられないよ。五百年も前の京都にいるなんて―――だって絢奈たち・・・・」

(おどろ)くのも無理はないよ。でもさ―――」

「どうやったら信長に会えるかなっ? 上杉謙信とか、伊達政宗とかは?」

 いや、そう言う問題じゃないだろ。戦国時代なんだぞ? 死ぬかも知れないんだぞ?

「あのな・・・・・一応、言っとくけど、ちゃんと戻れなかったら、死ぬかも知れないんだぞ。今は運良くどうにかなってるけど―――」

 運良く、本当に運良く―――だ。絢奈の場合なんか、本格的に危なかったのだ。まさか売られそうになるなんて、恐ろしすぎる。

「そんなに心配しないでよ。ちゃんと無事だったんだから。これからも何とかなるよ!」

 そう言う問題じゃない。

「絢奈、気楽に考えてないで、お前も思い出せよ。なにか憶えてないか?」

「ん――でも、お兄い、絢奈も憶えてること少ないんだ、本当の話。あのとき、絢奈がお兄いをみっけてから、お兄い、もう一回、あそこへ、戻ったと思うよ。あの神社―――」

「親父がいなくなる前に調査してた、あの神社?」

「うん。たぶん、そうだと思う。で、何か、忘れものしたとかって言ってたような気が」

 忘れもの? 忘れものってなんだろう?―――今は、思い当たるものがなかった。

「本当に心配したんだぞ。これ―――お前の携帯電話。ぼろぼろだったから」

 と、僕は、絢奈の壊れた携帯電話を手渡した。絢奈がそれを見てさっと顔色を変えた。

「え――お兄い、これ、どこで拾ったの?」

 僕は、絢奈の携帯電話を手に入れた経緯を話した。すると―――

「そっか―――本当に見つけてくれたんだ。実は絢奈もね、ちゃんと助けてもらってたんだよ。話すとちょっと、長いんだけど―――」

 と、さっきから轟いている地響きとざわめきが少し、強くなった気がした。火の手が上がったのか、僕たちが来た方向の空が明るくなり、焦げくさい匂いと一緒に黒煙が上がる。

「いいかな、二人とも。そろそろ、戻らなきゃなんだけどー」

 その空を見上げながら、真菜瀬さんが言った。戦火は思ったより、拡大している。この時代のいくさは火を使うのが一番手近で効果的な武器らしく―――火の手がすぐに上がるのだ。


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