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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.7 ~国盗り始末、まさかのすれちがい、いくさ姫の涙
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秘剣敗る!非情の煉介の剣に心を決めた虎千代は…?

煉介さんには、まだ何かがある。

そう感じたのは、僕たちだけではなかった。

思うように攻撃を繰り返しているように見える、かささぎもそうだった。

(おかしい)

ここまで無抵抗の煉介さんの様子に、一番先に違和感を覚えたのはむしろ、当のかささぎだろう。普通、自分がどうあがいても反応できない速度で切り刻まれれば、無駄でも人はがむしゃらに反撃にでる。場合によっては錯乱し、防御も構わずに撃って出るところだ。かささぎはそこを狙って、今度こそ致命の一撃を煉介さんに与えるはずだった。

しかしかささぎが思うほどに、煉介さんは焦っているようにも見えないのだ。

煉介さんは、獲物の群れをうかがう肉食動物のようにただじっと、何かを待っているように思える。その気配は強大な体格と腕力を持つ、巨大な獣のそれだった。彼らは自分より小さい動物が狩りをするのとは異なり、自分より体力のない動物の疲れを待って最小限の労力で獲物の命を奪う。じっくりそれを待つことが出来ると言う体力が物を言う戦法は、まさに一撃必殺の威力を誇るからこそ出来るものなのだ。

(だが)

と、かささぎには逆の気持ちもある。

かささぎの見るところ、煉介さんは山犬だたらに、今の時点でまったく対応が出来ていない。

そもそも大剣を扱う煉介さんの攻撃パターンでは、かささぎの動きを捉えることは、極めて難しい。かささぎ自身もそれを見極めて技を磨いてきたし、今のところ煉介さんの太刀筋が自分の動きを捉えると言うことはあり得ないように思える。

今の煉介さんにただ出来ることと言えば、体力の消耗や油断によって万が一、かささぎに隙が出来ると言う一縷の望みをじっと待つほかないのだ。しかしかささぎの鍛練は、一時の勝利の可能性で揺らぐほど、やわなものではない。

だからもちろん煉介さんにまだ余裕があると言うのは、五分より低い可能性に賭けるため、と言えなくもなかった。決定打はないにしろ、かささぎが煉介さんの身体を刻み続け、煉介さんがその攻撃に対する打開策を見いだせない現状ならば自ずと、勝敗は決してしまうことになる。煉介さんの気持ちが折れるか、体力が尽きるか、二つに一つの問題だ。

となればそうなるようにかささぎは、今の戦局を維持すればそれでいいだけで、まだ何か隠し球があるように見せかけている煉介さんの術中にはまって、余計な警戒心を持つことは、煉介さんが万が一に抱いているかも知れない、山犬だたらを使うかささぎに隙が生まれると言うことを、自ら誘発することにもなりかねない。

(いっそ、次の一合で一気に頸を狙うか)

ひそかに決意したかささぎは、山犬だたらの拍子をそれとなく変えたようだ。

虎千代が言う。

この、山犬だたらの剣の極意は、スピード本意の軽い剣撃に、それとは判らぬように、必殺の一撃を滑り込ませることにあるのだと言う。

「かささぎのあの剣の軽ろやかさは、見せかけの動きに致死の一撃を織り交ぜるためにあるのよ」

と、このときの決断を瞬時に見抜いていた虎千代は僕に話してくれた。

「腰を据えて斬らぬ一撃は確かに、恐れるには足りぬ。されどそれに惑わされて、かささぎの攻撃を軽んじていれば瞬時に、急所を裂かれて果てることになる。その境界線を惑わすのがせわしなく動く、かささぎの足運びよ。あれはいかにつぶさに見たとて、はっきりそれと見極めることなど出来はしない」

そのときのかささぎも、虎千代が言うように思ったはずだ。

まして満身創痍の煉介さんだ。

かささぎも心を決めたに違いない。

かささぎは一気に、山犬だたらで煉介さんの急所を狙った。


対する煉介さんだ。

頸を掻こうと迫ってくるかささぎを前に、さっきまでとは打って変わってまったく異なる反応を見せた。

煉介さんは左手に持った長剣をゆるく肩にかけると、ゆったりと腰を落としかささぎを待ったのだ。もちろん、刃を持っていない利き腕はまったく無防備な素手だ。煉介さんは右肩を前に半身に身体を開くことでその右腕を露出させ、しかもそれを自ら前に突き出して見せた。

言うまでもなくこのとき、攻撃するかささぎからは、煉介さんの頸から腕にかけての急所が無造作に晒されることになる。

それは誘いなのか、それともただのはったりなのか。どちらにしても、放胆すぎる。

普通に相対していて追いつかない、かささぎの攻撃を敢えて無防備な状態で迎えようと言うのだから。どう考えても自殺行為だ。

でもこのとき僕は、僕たちが予想もつかない何かが起こるのでは、と言う予感を捨てきれていなかった。なぜなら煉介さんの目が死んではいなかったからだ。あれだけなすすべもなく攻撃を喰らい、足元に血を滴らせている人間がここまで堂々とした表情で、さらに自ら急所を晒してみせるはずはない。

しかしそれにしても、この態勢から煉介さんは何をする気なのか。ただただ、どこか不気味な感覚だけが、僕の胸のうちにはわだかまっていた。

二人は一瞬で交錯する。順当に考えてみれば、その瞬間、かささぎが一撃で煉介さんの右の頸動脈か手首の動脈を斬り飛ばすことになっていたはずだ。

煉介さんは何をしたのか。

いや、何もしなかった。

ただずっとその態勢で立っていただけだ。

音もなくかささぎが忍び寄り、煉介さんの脇を飛びすがる。

しかしだ。

かささぎは剣を抜いたが、煉介さんを斬らなかったのだ。

見たままを言うなら。

かささぎは剣を提げたまま、煉介さんの真横を通り過ぎたと言うのに過ぎなかった。煉介さんは反撃をする素振りを見せたわけでもない、最初の姿勢から一歩も変わりはしないのにかささぎは、なぜか絶好だったはずの機会を逃したのだ。

それはやはり、煉介さんが何かしたからなのか。

だとしたなら、まるで魔術だ。

「・・・どう言うことだ」

と、虎千代もつぶやいたが、誰も答えを返すものはいなかった。

煉介さんはそのスピードに反応出来ているのかいないのか、かささぎの方を振り向きもしない。

「どうかしたのか?」

やがて煉介さんの暢気そうな声が降った。

「斬るなら、斬れよ」

「ふざけるな」

と、かささぎが突き返すように言い返したのは、そのときだった。

「勝負を投げたのか、それとも詰まらぬはったりか。答えろ。どう言うつもりだ」

煉介さんは首を振って応えない。

果たして本当に、はったりだったのか。

虎千代が指摘したとおり、さっきかささぎは煉介さんの剥き出しの急所を狙い、一気に勝敗を決することを選択したはずだ。しかし煉介さんの無防備に愕き、逆に裏を読んだつもりで攻撃を止めてしまったのものか。だとしたら、二度同じ手は通用しないだろう。それなのに煉介さんがまだ余裕でいるのはなぜなのだろう。

「張子の虎を装うような、見え透いた小細工を」

かささぎは吐き捨てたが、

「いや」

と、虎千代は眉をひそめ慎重な様子で、そっ、とつぶやいた。

「果たして、本当にそうなのか?」

虎千代の言葉は、勝負を傍観するものたちが薄々感じつつある不気味な実感を代弁するものだった。かささぎが煉介さんのはったりに引っ掛かって剣を退いた。それが、果たして今の局面を正確に言い当てたものだったのか。

「答えを求めるまでもないだろう。これは真剣勝負なんだ。俺がどう考えているのか、それは君が判断することじゃないかな」

煉介さんは相変わらずな口調で言うと、大儀そうに肩をすくめた。

「でも敢えて答えよう。俺は勝ちを諦めたわけでも、虚勢を張っているわけでもない。それは次に君が攻撃したときに分かるはずだ」

「わたしはさっき、お前が斬れた」

かささぎは切っ先をつきつけると、言い切ったが、煉介さんは平然として、

「だろうな。だがたぶん、次も似たようなことが起きるよ。どころか、もっとはっきりと判らせてやろう。それでもいいなら、やってみればいい」

「まだ、わたしを嬲るか」

これ以上は、煉介さんは何も応えない。ひっそりと再び右手を前の構えに戻るだけだ。かささぎは激昂しかけたが、その気配にただならぬものを感じたのか、急に口をつぐんで表情を引き締め直す。

すべては次にやってくる結果が語ることだと悟ったのだろう。

虚心でゆくつもりだ。

今度は万に一つも、刃を止めることはない。

かささぎの山犬だたらが、かすかな音を立てて不思議な拍子を作り出す。

それは注意深くしていないと耳に留まらないかすかな音なのだが、一度聞くとどうしてだか身体に染み着いてくるような不思議なリズムなのだ。

考えてみればかささぎは現代に僕たちのような硬い靴を履いているわけではなく、足下も水分を含んだ黒い山土で重く湿った音しかしないはずなのだが、その音は浅瀬を渡る水鳥のように軽やかで、静かな音だ。

一瞬で飛び違い、獲物を喰いちぎる様を、かささぎの技は野犬の群に表現したが、目の当たりにするとその剣は鋭い嘴を構えて水面下の獲物を狙う水鳥のそれを思わせる。

鋭角に翼を広げて滑空し、一直線に獲物を狙うかのように、かささぎは袖を後ろに流すような姿勢で跳び、煉介さんに斬りかかる。

先が細って反りきった腰高の三条宗近が滑らかな線な線を描くと、銀色にほとばしった。

今度は確実に、斬った。

煉介さんの言うようとは違う。

やはりただ、かささぎがはったりに惑わされたに過ぎなかったのか。

「いや」

と、虎千代が言った。愕然とした声だった。

「あやつの剣は、煉介の身体には触れておらぬ」

ただの一太刀も。まさかと思って、僕は煉介さんを見直した。

「え…」

僕も言葉を喪った。

なんと。

驚くことにかささぎが飛び違った後の煉介さんの身体には傷一つつけられていなかったのだ。そこには右腕を無防備に伸ばした奇妙な構えの煉介さんがさっきと同じ姿で立っているだけだった。あれがまったくの空振りだったのか。そんな。手応えのなさに、かささぎ自身、自分で自分が信じられなかったに違いない。

「くっ」

唇を噛んだかささぎが、攻撃を再開する。今度はさらにスピード任せの乱撃だ。

しかしその攻撃はすべて銀の放物線を描いて煉介さんの身体を素通りする。かささぎがいくら手数を増やしても、煉介さんの身体にはもはや傷を刻むことは出来なかった。すべてがまるで取り違えられた悪夢のように、空を切った。

さっきまでとは、全く違う。

煉介さんはかささぎの最速の斬撃を、最小限度の動きでかわしているのだ。

「こんなことが…」

虎千代さえも、呆然としてつぶやいていた。

かささぎの剣は、最速で三太刀の傷を相手に刻みつける。無数の乱撃ともなれば、威力は当然落ちるが、切り傷一つなく潜り抜けることは、ほとんど不可能なはずだ。

しかし目の前の煉介さんはそれを難なくこなしている。さっきまではなす術なく、縮こまっているしか手がなかったはずなのに。

「…いくら速太刀にしても、何度も見れば、目が慣れるものなのか」

やがて虎千代は半信半疑ながらも、どうにか自分を納得させようとしたか推測めいたものを口にした。しかし、

「いや」

と、虎千代の言葉を言下に否定したのは、隣でずっと静観していた砧さんだ。

「そんな生易しいもんじゃないでしょう。よく見てみなさい」

砧さんが暗示するその何物かが、僕たちにはすぐには判らなかった。

傍目にも、煉介さんの何かがこの短期間に鋭く変化したとしか、考えられないのだ。だがそれが何かまったく判らない。何度も魔術的、と僕は表現するが、かささぎの攻撃が急にまったく当たらなくなったこの事実は、動かし難いながらも、非常識なくらいに不可解すぎる出来事だった。なにしろ僕はともかく、現況は達人の虎千代すら首を捻る展開なのだ。

「どうですか?虎千代さん、あなたからみて煉介くんの動きは、かささぎさんより速くなりましたか」

見かねた砧さんが助け舟を出す。そう言われて、判らないながらも僕も見直したが。

確かにかささぎから見て、煉介さんの動きはそれほど劇的に速くなったようには見えない。どことなくぎりぎり、ついていっているようにも見える。だが、かささぎが動いて、太刀筋が煉介さんを刻むべくほとばしる時には、すでに煉介さんはその軌道上にはいないのだ。それでも、それほど大袈裟なかわし方はしていない。

「そうか」

はっ、と息を呑んで虎千代が声を出したのは、そのときだった。

「仕掛けは、心の一方か」

「ご明答」

と、砧さんは言った。心の一方と言えば、虎千代が初めて砧さんと立ち合ったとき、虎千代に先に太刀を抜かれないために、砧さんが使った技のことだ。

しかし、どう言うことだろう。確かにさっき、かささぎは煉介さんに斬りつけなかったがそれは煉介さんのはったりに惑わされてのはずだし、今だって攻撃は当たらないもののかささぎは自由に煉介さんに斬りつけている。

「真人くん、心の一方と言う、もっともらしい技の名前に惑わされて誤解しているようだね。以前もちらっと言ったと思うが、あれは決して、相手に刀を抜かせない技じゃないんだよ。極意は空間支配術。要は相手の太刀筋を見極め、操るための術なんだ」

と、言われてもさすがに剣術をやらない僕にはまだ、ぴんとこない。

「つ、つまりは、かささぎが、煉介さんに操られていると言うことですか」

僕は恐る恐る訊いた。

「それとは少し違うな。見切りの延長とも言うか」

虎千代は理解したらしく、僕にこう言った。

「かささぎは、煉介に操られておるわけではないのだ。しかし何となく、煉介が太刀をかわせる方向に攻撃を持って行かざるを得ないように仕向けられている」

「その通り。それが出来るのは何より、煉介くんがかささぎさんの太刀のあらゆる癖を短時間のうちに、身体に叩きこんだからだ。間合い、刃筋の通し方、攻撃の組み合わせ、すべては煉介くんが自分の命を的に晒して身体に叩きこんだ情報だ。それに基づき、煉介くんはかささぎさんを結果的に『操って』いることになる。状況を完全にコントロールしているんだ。目が慣れたから、などと生易しいものじゃないと言ったのは、これで理由が判るでしょう」

砧さんの言葉通りだとするならば、考えただけで恐ろしいことだ。鎧もつけない、素肌を刃の下に堂々と晒す。煉介さんは平然とやってのけたが、一つ間違えば取り返しのつかない傷を負う大博打だ。相手が真剣に自分の命を狙いに来ている中で、よく堂々とそんなことが行えるものだ。

「煉介くんの技は、戦場で培われたものなんだよ。かささぎさんの太刀を浅手を負った程度でぎりぎりに外すことが出来たのも、何より彼が四方八方から攻撃される戦場で身体に刻みこまれた経験が可能にするもの。虎千代さん、あなたもまだ煉介くんほどじゃないが、戦場経験がある。この辺りは何となく、飲みこめるんじゃないかな」

虎千代は無言で頷いた。そして砧さんの話に頷きながらも、目は煉介さんの動きを夢中で追っている。敵ながら、目の当たりにしているのは、自分と同じ戦場の剣の極意だと言うことが理解できた今、その動きの一つ一つが虎千代には、意味のあるものに映ってきたのだろう。

「おい。酒が不味うなるやないか。端でごちゃごちゃ詰まらん話しせんといてくれるか」

折悪しくそこに完全に酔いが回った、松永弾正の不粋な野次が降った。

「煉介ぇっ、何をちんたらやっとるんや。斬れるんやったらとっとと、斬って捨てんかい。見とる方はお前、ずうっと同じ展開や、いい加減、飽き飽きしてんねやぞ」

さすがにこのあまりにも無神経な物言いに、僕たちも鼻白んだ。

仕方ない、と煉介さんも思ったようだ。かささぎの太刀をかわしながら、ぐっ、と右肩を進めるように入れ込んだ。近距離の間合いでのタックルだ。

煉介さんの長身に衝突して、かささぎは後方に吹き飛ばされる。それでも辛うじて態勢を整え、煉介さんの間合いのぎりぎりのところへ着地した。

するとそのすぐ脇に、煉介さんの渾身の一撃が降った。当然のこと、かささぎにこれ以上、回避行動をとる余裕はない。煉介さんの剣に右肩から真っ二つに両断される局面だった。

しかし、剣はかささぎを外れ、すぐ真横の地面に斬り込んでいる。今のは完全にわざと外したのだ。顔面から血の気が引いたまま、かささぎは強張った声で問い返した。

「どう言うことだ」

「君が今、感じた通りのことだよ」

と、煉介さんは言った。空間を丸ごと切り取った大太刀の恐ろしい気配を、かささぎは、如実に感じたはずだ。煉介さんが与えたかったのはその恐怖のイメージだったに違いない。

「もう判るはずだ。このまま続けたら、君は俺に斬られて死ぬ。悪いが、君の剣はもはや俺には通用しない。命を無駄に棄ててまで、これ以上、確かめるようなことじゃないとは思わないか?」

「女は、殺したくないとでも言うつもりかっ」

煉介さんの言葉に、かささぎは息が詰まるような怒りを、表情に上らせた。

「わっ、わたしを…早崎一刀流を馬鹿にするのか」

煉介さんはかすかに首を振った。

「俺は、物心ついたときから戦場で暮らしてきた。君も分かるはずだ。戦場では老若男女、一切の区別はない。女性だから助かったなんてことはなかっただろう。だが、ここは戦場じゃない。棄てる必要のない命は、棄てなくていいはずだ」

「ふざけるなっ」

と、かささぎは叫ぶと立ち上がり、剣を構えなおした。

「ここはわたしにとっては戦場と同じ…いや、戦場よりも重い切所だ。亡師をお前に殺され、お前を殺すためにわたしはここまで技を磨き、永らえていた。ここで死ぬこと以外に、わたしの生きる理由などあるものかっ」

咽喉を嗄らすように絞り出す、かささぎの声は悲痛だった。

「ましてやお前は、我が菊童丸様の身柄を攫い、将軍家に仇名す逆賊だ。ここで骨身を刻まれても、お前を斬ることを諦めてたまるものか」

かささぎは地を蹴って発った。

怒りに任せているとは言え、奇襲としては申し分ない速さの攻撃だった。

煉介さん自身も完全に虚をつかれたかに見えた。

しかし、だ。

かささぎの剣は、そこに太刀風を起こす前にぴたりと息の根を止められた。

今度の煉介さんは放胆にも素手の右腕を伸ばすと、かささぎの襟元をぐっ、と掴んだのだ。まさかここまでとは。愕然とする。かささぎの剣が、煉介さんの前では完全に無力なのだ。

まるで大きな岩肌に遮られて行き場を失った小鳥のように、かささぎの身体は空を求めて左右にもがく。襟を掴んだまま、その瞬間、煉介さんは拳を押し込んで強烈な当て身を喰わした。襟を掴んだまま、顎先に拳を打ちつけるのは、密着した態勢からでも十分威力を発揮する柔術の当て身技の一つだ。

かささぎは今度は、受け身を取り損ねるほどに、吹き飛ばされた。かささぎはどうにか踏みとどまろうとしたが、足がもつれて上手くいかない。あご先のダメージは脳を揺らすために、平衡感覚を奪うのだ。僕たちの目にはそれが、地に叩き伏せられ、空を飛ぶ羽根を失われた燕のように見えた。

もう完全に勝負は着いていた。

「かささぎよ」

と、そこで立ち上がったのは、虎千代だった。

「刀を退け。すでにここで勝負は着いている。やめろ。これ以上は、無駄だ」

「まだ、まだっ終わってはいない」

突き返すようなかささぎの声。虎千代はその痛みが分かると言うように、眉を歪めた。思わず駆け寄って、足元がふらつくかささぎに手を貸そうとする。しかし、かささぎは虎千代がその手を振り払った。

「まだと言っただろう。長尾殿、一度決めたことは守ってもらわねば困る」

と言うと、かささぎは口に含んだなにものかを地面に吐き出した。赤黒くねばついた粘液の塊は、奥歯のようだった。さっきの煉介さんの一撃で噛みしめたあごから一番硬いはずの奥歯が抜けたのだ。

「かささぎ…」

虎千代はなすすべを失って、かささぎの前に立ち尽くす。かささぎは虎千代を心配させまいと、力なく微笑んでみせた。

「長尾殿、やはりわたしは武芸者のようだ」

荒い息の中で、かささぎは言った。

「あなたや煉介殿のようないくさ人とは違う。貴殿らはここで犬死は出来まいが、わたしはここで死んでもいいと思っているのだ。それは亡師に代わって、ここに立つと決めたときからすでに決めていたことだ」

「だが、しかしお前にだって守るべき人はおろう。お前はその人のためにこの場にいるのではないのか」

「違う」

突き刺すように、かささぎが言ったのはそのときだった。

「そのことは別儀と言ったはずだ。わたしは、一己の武芸者としてここにいる」

虎千代は何か言いかけ、突然口ごもった。

菊童丸のことを話しかけたのだろう。しかしやめたのは、もしかして話しても無駄かも知れないと言うことに、気づいたからだ。

かささぎはそれと察して、

「菊童丸様のことは、長尾殿に頼んだ。菊童丸は立派なお方だ。よしなにお引き立てあると、傅役のわたしも本望だ」

「まだ、やるのか」

と、聞いたのは煉介さんだ。かささぎは頷いて見せた。煉介さんの顔はまっさらに無表情になっていたが、そのときの声音は虎千代と同じ、どこか苦痛の色が滲んでいるように思えた。

「阿呆か、おのれ煉介、とっとと斬らんかい」

と、酒精で残虐さをどす黒くぎらつかせた弾正の声が、無遠慮に降ったのはそのときだった。

「真剣勝負なんやろうが。長尾のお姫さま、あんたもあんたや。けった糞悪い横槍入れて、あんたらしゅうもないな。そもそも、こいつはお姫さま、あんたらが決めたことやろがい。どうなろうと、どっちかくたばるまでやらんかい」

「長尾殿」

虎千代は無言で弾正を斬ろうと、柄に手を掛け進みかけたが、かささぎが止めた。

「今しばらく、辛抱してくれ」

かささぎの言葉に虎千代も冷静さを取り戻す。僕は検分席から立ち上がると、虎千代を迎えに行った。鋭い表情を消さず、それまで弾正を睨んでいた虎千代だったが、僕が傍に来るとかささぎの方を見てから、僕の方へ向き直ったとき少しだけ気弱そうな表情をした。

「虎千代」

行こう、と、僕は努めてなんでもない風を装って彼女の手を引いた。

「成瀬殿、苦労をかける」

僕たちの背に、かささぎの声が降った。僕はこれが最期になってしまうような気が兆して、思わずかささぎを振り返った。かささぎは傷ついていながらも、どこか澄んだ表情をしていた。

「ありがとう」

その言葉に、僕はなんと答えていいか分からなかった。

だってだ。

どんなにこうして想っていても、僕たちはかささぎの気持ちを損なってまで止めることは出来ないのだ。そのことで胸が一杯になると息苦しさすら感じる。かささぎにだって生きて帰って会わなくてはいけない人がいるのだ。だったらもういいじゃないか。

でも、虎千代が僕にだけその表情を見せてかささぎには気弱な目を見せなかったのも、同じ命を扱う武士と言う生業について、その立場でかささぎのことを大切に思っているからなのだと、僕は悟った。

剣を扱うのはともすれば命を奪い、無為に人を害する残酷な仕事でしかないのに。なぜこれほど、彼らは自分の命すら頑固な意志の中に閉じ込め、強く戒めて生きるのだろう。

「お待たせした」

かささぎは煉介に声をかけ、呼気を整えると納刀し、鞘ぐるみその身に抱え込んだ。その構えは早崎一刀流の真髄とも言える、天を掃く抜刀術の構えだった。

煉介さんはそれを見届けると、こちらもゆっくりと構えを変えた。柄を両手で握り直し右手を顔の前に添え、左拳を心もち倒し、切っ先をかささぎの方へ向ける。

あれは、いつか鬼小島が虎千代と組み稽古したときに使っていた引の構えだ。

垂直に空を分割する、燕の滑空を阻むように、煉介さんの大太刀がそびえ立つ。

二人は数メートルの距離を置いて、再び相対した。

こんなときでも秋の野に降る陽射しは、柔らかだ。どこかでカラスが鳴く声が聞こえ、色づいた梢を渡る微風が、汗で貼りつきかけた煉介さんやかささぎの前髪をなぶる。

そのときかささぎが奔ったのを僕は、まるで夢を見ているようなうつろな気分でぼんやりと認識していた。今にして思うとそう言う光景が、後で記憶の中にはもっとも鮮明に焼きつくものだ。

勝負は一瞬で着いた。

煉介さんの渾身の力を込めた右の打ち下ろしが、かささぎの身体を真っ向から捉えた。

ドン、と交通事故の瞬間のような、心臓に直接杭を打ち込まれるような決定的な衝撃音が引き起こされた結果のすべてを表していた。

刃はかささぎの左肩口から入って、なんの抵抗もなく右下へ抜けたようだった。その瞬間に、きんっ、と耳に突き刺さる強烈な金属音が響いたのが、同時だった。

風切り音を上げて、何かが僕たちの前を猛烈な勢いで掠める。ぬかるんだ地面に深く突き立ったのは、腹から無惨に叩き折られた三条宗近の刀身だった。

水平に滑空する燕の小さな身体に舞いあげ、突然の爆風が吹きつけた。小鳥(さざき)は無情の突風に岸壁に叩きつけられ、飛ぶ意志を奪われ、谷ぞこへ落ちた。

気づくとそこにあるのは、墜落した残骸のように、吹き飛ばされたかささぎだった。

僕は頭の中が真っ白になった。無我夢中のまま、そこに駆け寄ろうとした。虎千代がまっさきにかささぎに駆けつけるのが見えた。ついで医務班を連れた黒姫たちが群がった。何もかも気の遠くなるほど、受け入れがたい光景だった。

かささぎは目を閉じたままぴくりとも動かず、海に落ちた鳥の死骸のように人波に揉まれ、どす黒く血を浴びた身体をもてあそばれている。

なすすべもない僕はかささぎに駆け寄れず、それから駆けつけても何も出来ない自分に今さら気づき、いつの間にか人の輪の外にいた。同じように、すでになすすべもないと思っている人間が、そこにたたずんでいた。煉介さんだった。

色のない瞳で煉介さんは、かささぎの血を浴びた刀身から汚れを落としていた。血でぬめる柄を拳で叩いて刃から血を振り落とす。黒い雨が無情に地を濡らしていく。煉介さんの目は、じっとそれを見入っていた。

まるで単純作業の後始末のような風景に、僕もやがて惹きつけられるように視線を留めてしまっていた。かささぎは死ぬかも知れない。恐ろしい騒ぎがどこか他人事のように、ぼんやりと遠くに聞こえる。いつの間にか煉介さんがこっちを見ていた。今の僕はそこから、もはやなんの感情の色も読み取ることは出来なかった。


かささぎの身体は応急処置を施され、戸板に乗せられると夕刻、僕たちの根城に運び込まれた。用意された治療場に傷ついた身体を下ろすと、身体が乗っていた戸板が真っ黒に血で汚れるほどだった。出血の具合はこれでも、何とかましになった。

煉介さんの剣は恐ろしいほどの冴えで、かささぎの身体を斬り裂いていた。その身体が二つに分かれて即死に至らしめなかったのは、幸か不幸か、かささぎがとった抜刀術の構えにあったようだった。大太刀の刃は、かささぎが胸に抱え込むように抜き去った三条宗近の刃に当たり、その威力を減じた。少しでもタイミングがずれれば成立しなかった、まったくの偶然としか言いようがない。とは言え、傷口は肋骨を折り砕き、臓器をめちゃめちゃに傷つけていた。こうして生き残ったことをごく単純に幸運などと言い切れない。

傷口の縫合を含む処置は、夜を徹して行われた。

当時の医療技術は、焼酎や卵の黄身で傷口を消毒して感染症を防ぐ程度の心もとないものだ。砧さんたちが尽力してくれて、無尽講社にいる医療関係者に協力してもらえたのは幸いだったが、それでも気休め程度にしかなりそうにない。

僕と虎千代は寝ずに、処置が終わるのを待った。何度も血にまみれた人たちが通りすがり、大声で何事か情報が飛び交うのをなすすべもなく眺めているしかなかった。

「無力よ」

と、虎千代は何度か言った。僕よりも強く、彼女はそれを感じているのだろう。小さく震える手を時々僕は、握ってあげた。

「虎さま、とりあえず尽くせる手だては尽くしました」

疲弊した黒姫が、僕たちの前に現れたのは次の日の昼過ぎだった。

「助かる道は、極めて薄く思われます。されど息がある限り、わたくしたちで出来ることをしていきますです」

「そうしてくれ。苦労をかけるな」

大きく苦しい息をつくと、虎千代はやっと言った。

内心の危惧を隠してか黒姫は、無表情で頷いていた。


昨日と同じ、秋の午後の陽射しが竹林に溜まっている。

この穏やかさは、ちょうどあの日、かささぎの寓居を訪れた日とも変わらない。さっきまで過ごした何もかもが、嘘のような秋晴れの日だ。

僕と虎千代は、かささぎの伏見の寓居に向かった。手回りの品を運び込むためだ。かささぎはまだ意識が戻っていない。これからどうなるにせよ、ここには戻ることが出来ないのだ。しかし僕たちの気遣いを見越してのことか、そこに残されているものは驚くほどなかった。書物や手紙の類も、片づけた形跡がある。恐らく不要なものはすべて焼き捨てたのだろう。

こうなると言うことをかささぎは、すでに予想していたのか。

「いや、かささぎはこう言う女だ。生死を決する運命を前に身を潔くしたまでよ」

虎千代の言ったことが何となく正しい気がした。

確かにかささぎはいつもそういう覚悟をひとり粛々と用意しておいて、僕たちの前に現れていた。

主のいなくなった部屋の押し入れに片付けられた布団の上に、白い布巾がふわりと乗っかっていた。あの日、かささぎが髪を包んでいたものだ。虎千代はそれを握りしめ、しばらく苦しそうに息をついていた。


あれから、煉介さんとは一言も言葉を交わすことなく、その場で別れた。

刃についた血をひとり丹念に落とす、煉介さんの姿が僕の記憶からずっと焼きついて離れなかった。

それにしても煉介さんの実力は、やはり予想を超えたものだった。かささぎの剣はある意味では最大限、煉介さんの大太刀の弱点をついたもののはずだった。しかしそれがまるで岸壁に生卵を投げつけるかのように、あっけなく粉砕されてしまったのだ。短い期間ながらもともに鍛錬をした虎千代は、やはりやりきれなかったと思う。もはや、煉介さんの剣には死角と言うものは、見当たりはしないのだろうか。


竹林を渡る葉鳴りの音を、虎千代はしばらく聞いている。やがて静かに腰の刀を抜き去り、しずしずと舞うように剣を振った。かささぎの超速の剣とは異なり、ゆっくりだが確実に腰を沈め、刃を空に撃ち込んでいく。使い慣れた道具を入念に手入れするように、一つ一つの型を身体にじっくりと慣らしていく。

あの立ち合いが何かを虎千代にももたらしていたのだろう。

あれから何度か、虎千代はその型を確かめる所作を繰り返していた。

「かささぎは」

と、虎千代は突然、言った。僕は考えを読まれ、いきなり間合いを詰められた気がしてはっと息を飲んだ。

「煉介になすすべなく敗れたのではない」

でもあれは、煉介さんの圧勝だった。かささぎは攻撃のすべてを読まれ、最後は避ける術もなく真っ向から大太刀の一撃を喰らったではないか。

「案ずるな。我にも、見えてきたものがあるでな」

それに、と虎千代は言った。所作を止めてかささぎが眺めたはずの天を眺めた。

「これで心置きなく、煉介とも渡り合える」


虎千代にもやはり、迷いがあったのだろう。言うまでもなく、心情の面では煉介さんを買っている面もあったし、何より真菜瀬さんのことがあった。しかし皮肉にも、かささぎのことがあってから、虎千代は進む足に絡む思いを振り切ることが出来たのだ。

それは、良かったことなのか、それともまったくそうではないことなのか。

僕にとってそれは、確実に望むべからざることだ。

虎千代と煉介さんが、本当に斬り合う日がやがてやってくるのだ。

それも近く、確実に。

僕にとっても、平穏に眠ることの出来ない日々がやってきた。


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