帰ってきた二人だけの時間!信玄、新たな謀略は…
極限の間合いから、まさに骨まで断つ一撃。命と命が対峙する局面に放たれる、致命の一刀。
「真中」
この一言には虎千代の、万感の想いが込められているはずだ。くしくも三島春水の『音無』と対照的に、虎千代の剣はそこに踏みとどまる剣だった。あえて相手の刃圏のうちに身を晒すことによって、確実に急所を狙う。
真に中てる。
とは、よく表したものだ。一見、なんの技巧も工夫もない。度胸一発の無謀な剣にも見える。だがその一刀には、極限の極限に発揮する最後の技量が込められている。
火事場のバカ力、と言ってしまうと、軽くなるが、死を間近に感じて放つ一刀はまさに、岩をも断つ凄まじい威力を発する。理屈で言うのは簡単だが、為すのは至難の業だ。特に虎千代ほどの達人になってしまうと、生半可なことでは死を覚悟するほどの局面まで追い込まれることはない。
江戸川凛は短剣にたとえたが、間合いよりも死の瀬戸際に留まる覚悟こそが、『真中』の真骨頂だろう。しかし。
「そんなことはどおおおおでもいいいいのだあああっ!」
「ええっ!?」
「生きていて良かった。あのときはそれだけだ。他に考える余裕などない!」
虎千代は言うと、ほかほかの身体で抱きついてきた。またさっさとお風呂から上がってきたな。
「風邪ひくよ虎千代」
「真人に暖めてもらう!」
いや、湯上がりの身体で抱きついたら、すぐ寒くなるから。寝冷えするぞ。
「あのとき、心にまとわりついた、余計なものがすべて取り除かれた。…『真中』の心を言えば、なるほどそれだろうな」
「僕も、納得がいったよ。でも意外だった。虎千代はいつも、死を覚悟して戦場に立っているんだと思っていたから」
「そのつもりだった」
と、虎千代は、強がることなく言った。
「だがそうやって、恐怖を押し殺していたのだ。自分でも、本当に死を恐れる気持ちなどないと思うほどにな」
だがそう思っているうちは、死と本当に向き合う姿勢になっていないのだと、虎千代は言う。
「だが死ぬのは『怖い』。…本当に喪うときになってみなければ、手離せないと思うものもある。それを譲らぬために、振るう剣だ」
虎千代は、虚空の一点を見つめると、何も握っていない手を振った。恐らくその視線の先に、あの『真中』の剣がある。
「少し前にわたしは武は『矛を止める』術だと言ったな。命のやり取りをする前に、武器を収めさせるのは確かに一つの極意だ」
だが、いざ命のやり取りとなれば、その考えは逆に命取りとなる。
「命に触れる剣だ。相手の命に触れるには、自分の命を持ってしか本来は出来ないはずなのだ」
命懸けで、剣の生きざまを問う。
なるほどその一刀は、語れば語るほどに虎千代の生き方に相応しい。
「だからもう、生き残ったら我慢はしないことにした!『真中』の『真』は、『真人』の『真』だっ!わたしはこの剣を振るう度に、真人に中るからなっ!覚悟するがいいっ!」
と言いながら、虎千代はなりふり構わず、僕にのしかかってきた。へっ、『真中』って、本当にそう言う意味!?
「事態は見事、長尾どの一人で収拾したよ。…改めて、百震の亡骸お目にかけようか?」
皮肉混じりに言ったのは、信玄である。話し相手は、劔劉志朗だ。隠し持った絶息丸を使って、僕たちを脅かそうと言う企みは、辛くも潰えたのである。
「まったく、蓋を開けてみれば襲われたのは長尾どの一人だけ。その長尾どのは、長刀を奪われながらも、小太刀一本で怪物を両断したそうな」
劔は当然、この件については沈黙を守るのみだ。しかしその強ばった表情には、大惨事の企みが、小火程度で済んでしまったことへの忸怩たる想いが隠しようもなくにじんでいた。
「で?…これからどうするのかね?私を罰するか。懲罰房にでも入れるのかね、断食でも強いるのか?それとも改めて身体検査でもするか?」
劔は、思い付く限りの自分への虐待をあげつらった。しかし、信玄は冷たい反応をするだけだった。
「して欲しければ検討する。断食でも暗くて狭い穴蔵でもご自由に。…だが、私たちからは別に何もする気はない」
「甘いことだな」
と、劔は、せせら笑った。
信玄はこの上、安い挑発に乗るつもりはない。だがほんの些細なものでも、この人質の変化を見逃すまいと、静かに観察を続けていくつもりのようだ。
「ああどうも、私のやり方は手ぬるかったようだ。…劔どの、貴方を行方不明として、久世兆聖軍と争わせようとしたが、それもどうもはかばかしくないようだしね」
「当然なことだ。…私がいちいち指揮せずとも、十界奈落城の軍隊は機能し続ける」
「そうなのだろう。だから、そろそろ一石投じようと思った」
と、信玄は言った。ついに信玄が、棋譜戦を仕掛けてきた。自分の卑劣な企みが、この謀鬼を本気にさせたと、劔はようやく気づいたのだった。
「今さら何をしようと言うのかね?」
沈黙にたえかねて、劔が尋ねた。信玄は小さく首をすくめてみせた。
「そう難しい話じゃないさ。劔どの、貴方をいっそ我々から解放しようと思ってね」
「馬鹿な…」
あまりに意外な答えに、劔は思わず、驚きの声を漏らした。
「つまらん茶番はよせ」
「いや、私は本気だ。そろそろ、貴方を連れているのも重荷になってきた」
劔が目を剥き始めた。この策士の真意が分からない。相手が戦国随一の策士だけに、腹のうちが読みきれないことには、それだけで大きな脅威となるのだ。
「私をどうする気だ?」
「売り飛ばす」
と、簡潔に信玄は答えた。
「貴方の身柄を、久世兆聖に引き取ってもらうことにする」




