謎の決着、放たれぬ秘剣!武の真髄は…?
巨星終に墜つ。
その一言に尽きる最期であった。
海童の狙撃は、百震の人間としての急所を的確に撃ち抜いた。こめかみに穿ち込まれた弾丸は、怪物の前頭葉を横断する形でその組織の奥深くへ潜っていったに違いない。
熟練の海童が行ったのは、即死の狙撃であった。例えばまさに、爆弾のスイッチに手をかけている相手が、指一本動かすことなく、死に至る。それほどの精度で、人を殺すことの出来る一弾だ。
五百メートルとは言わないまでも、この距離でスコープ付きの狙撃ならば、たとえ銃が昭和の旧式でも、海童はそれくらいの命中はものにする。
実際、遠距離狙撃に手応えはないはずだが、百震のこめかみに弾丸を撃ち込んだとき、海童は確かな手応えを感じた。下手をすれば撃たれたことすら感じずに、目標は死亡している。それだけの一弾を放った実感があった。
しかるに三島百震はまず、そのまま倒れることはなかったのだ。意識は、ないはずなのだ。しかし闘争する肉体が、全細胞が、地に臥せるのを拒否していたのか。
次弾を撃つべきか、海童はしばしためらった。
頭部的中を成し遂げれば、次は心臓的中を狙うのが、常道である。位置的には難しいがそれでも、次の弾は、人体の急所へ突き抜けるように撃つことは、難しいことではない。
引き金に指をかけたまま、海童は息を潜めていた。呼吸が乱れれば、照準が揺れる。しかし、そのとき最も気にかけていたのは、そのことではなかった。
(春水…?)
春水は、斬撃を放たない。まったく無防備な頭上をさらしている。あとほんの少しでも、この怪物に余裕があったのなら、返り討ちに遭うところだ。
なぜ、終の秘剣を撃つのを止めたのか。真意は、春水自身にしか分からない。それともあの体勢から百震の反撃を迎え撃つ術でもあったと言うのか。
そして肝心の怪物は不倒を守っている。しかし、反撃する様子ではなかった。もはや、振り絞る死力がなかったと言うわけではない。
諸手を上げて待っていた。まるで磔刑に処せられた罪人のごとく。まったき無防備である。
見ようによってはこの怪物も、待っているかのようだった。
春水の終の秘剣を。
限り無き試行と斬人の果て、地上に顕れた完全無欠の秘剣『音無』の太刀筋をこの身に受けようとして。
だがそのときは、到頭やってこなかった。
怪物は射殺された。
次弾は必要なかった。完成したはずの春水の秘剣を待たずして、その意思は立ち尽くしたままについえたのだった。
三島百震はもう、亡い。
春水はその脱け殻の眼前に立ち尽くしていたと言っていい。だがよく見ると、視線は、百震を見ていなかった。どこか、遼かな虚空をさまよっているだけであった。
(あのおとは)
音。
シン、と、頭の中を埋め尽くしたのは、息子の玲とあのとき、感じた静寂の『音』であった。
北海道の豪雪。くしくも車内に閉じ込められたときに聴いた音だ。
降りつづける雪の音。
(違う)
そんなものは存在しない。聴こえたとして、雪が地上に落ちる音はあんなものではないのだ。
人は、完全な無音の中でそんな音を聴くことがある。
感覚器が機能の安定を図るためとも言われるが、それにしても、あの音は大きすぎた。思わずふと、心奪われてしまうほどに。
本来、自律できるはずの意識も注意力もつい、その音に塗りつぶされた。春水は何かに心を奪われると言うことは、ほぼない。職業柄、油断と言うものをしたことがないのだ。
しかし、その、シン、と言う音がしたときだけは、何もかもを忘れた。
それほどまでに、響く音だった。
春水の、最も深い場所に沁みいるように。
今、その音が終の秘剣を放とうと言う最中に聴こえたのだった。
下手をしたらそのまま、剣を取り落としたかも知れない。春水にとって、勝負はすでに、想念の外にあったからだ。
「…春水!」
海童の緊張した声で、その名を呼ばれ、春水はやっと、我に返った。
ふと、顔を上げると、目の前に怪物が死んでいる。海童は、狙撃した相手が倒れないので、危険を冒してその死亡を確認しに来たのだ。
「三島百震は死んだ。…こいつはもう、ただの亡骸だ」
怪物は、両手を拡げたままである。両眼は大きく見開かれていたが、焦点はこの世の何者にも合っていない。海童の言うように、亡骸になっている。
「何故、撃たなかった?」
海童は、当然の疑問を尋ねた。自分が撃たずとも春水は斬れた。秘剣『音無』を放っていれば、勝負はそのまま着いていたはずなのだ。
「あなたが、撃ったのでしょう?」
春水はやや、外れた答えを返した。それも海童を瞠目させた。
今のはまるで、止めを刺すのは自分ではない、と思い込んでいるような言い方だった。
「君がとどめを刺せた」
と、海童は、声を上擦らせて言った。本来、狙撃の必要はない。だが、あえて撃たせたのか。海童は、あの瞬間の春水の真意を問いたかったのだ。
「わたしが?」
と、しかし海童の意に反して、春水は要領を得ぬ反応をした。さすがに、海童は、呆れた。
(あの死闘のさなか、一体、何を考えていたと言うんだ…?)
春水は上の空である。
まさかあの、極限の死闘の真っ最中に他に考えるようなことがあったと言うのか。
「まさか、わざと、とどめを刺さなかったんじゃないよな?」
海童が、驚愕しながら尋ねると、春水はすげなく首を振った。
「そんなことはありません」
「だったらどうして…?」
当然の疑問である。
春水は秘剣『音無』を完成させつつあったのだから。
「限界だったのですよ。…すでに」
しかし、にべもない答えを春水は返した。
「だから、撃ってくれて助かりました」
海童は、なにも答えない。仮にも妻だ。目の前にいる彼女が、心から命を救われた礼を述べているか否かくらいは分かる。だが、それ以上に春水のことは、彼なりに理解している。話すべきことでなければ、この女は決して真意を口にしないと言うことを。
どこかで、山鳥が発ったような音がした。枝が揺らいで、雪が落ちたのだ。
虎千代が、息を呑んだのが僕には分かった。それほど近くにふれ合っていたのだ。温かく柔らかだったその身体が強張り、ひんやりと張り詰めた空気すら、感じさせた。
それは虎千代が剣を持つとき放つ殺気に似ていた。僕と眠っていて彼女は一体、何を感じたのか。虎千代の感性の鋭さには、いまだに想像や理屈を超えたものを感じさせることが多い。
「何かあったの…?」
僕が声をひそめて尋ねると、虎千代はそこで我に返ったようだった。薄闇の中で僕の顔を見返して、それから小さく、かぶりを振った。
「何でもない。…だが、何かあったのであろうな」
要領を得ない答えだ。しかし、極めた剣客には、こうした感覚は共通してあるらしい。
実はちょうどそのとき、春水と百震の対決が幕を下ろしていたのだ。虎千代の感性は無自覚にそれを捉えたのだろう。いわゆる虫の知らせと言えば、分かりやすいのかも知れないが、こうなるとさすがに人智を超えている。
「大丈夫?」
僕は心配になって尋ねた。
下ろした髪が打ちかかった肩がかすかに、震えて見えたからだ。虎千代は、無言でうなずいた。見ると、何か衝撃を受けたような顔だった。
「落ち着かないの?」
「いや、そう言うわけではないが」
と言うと、虎千代は身体を起こした。
そしてゆっくりと座禅を組み、深く、浅く一定の律で呼気を整える。清められた所作で行われるその一部始終を僕はなにも口を挟まずに、眺めていた。
「すまない。…やはり、気が騒いでいるようだ」
呼気を整え終わると虎千代は、僕に言った。
「すぐに寝床に戻る」
「いいよ。それより少し、部屋の中を暖かくしようか」
僕は、火鉢を持ってきて炭を熾した。
その間、虎千代は座禅を組んだまま、瞑目している。見たところ何を考えているのか分からない。が、感じたことを整理しているのだろう。恐らくは、剣のことだ。それを言うと図星だったか、虎千代は薄く苦笑した。
「ミケルのことは言えぬな。結局わたしの頭からも武のことは離れぬ」
「虎千代は、武士だもんな」
何気なく、僕は言うと、虎千代はちょっと感心したようだった。
「そうだな。…武を知り、武を究め、武に生きる。それこそ武士だからな。真人、たまにはいいことを言うではないか」
「僕は、いつもいいことしか言わないでしょ」
まぜっかえしてから僕は、ふとした疑問に気づいた。
「武士の武は、誰よりも強くなることだよね?その果てにあるものって一体なんなんだろう?」
そう言うと、虎千代の答えはすげなかった。
「違うな、真人。それは武の分からぬ者の考えよ」
「でも、みんな最強を目指して腕を磨いているんだろ?」
ミケルだって、誰にも負けたくないから、あれだけ飽くなき鍛練をし、技の工夫を繰り返しているはずだ。
「最強か。…万一、他の者はそうかも知れない。だが、わたしの考える武士の武はそれとは違うな」
虎千代はしばし考えると、自ら想うところを語り始めた。
「武とは『律』。万物を『律』で整えることだ」




