長尾家大混乱!虎千代と真人、仲直りは…?
とは言えこの件で、僕は中々、虎千代には謝ることは出来なかった。それに素直に、悪かった、そう言えば済むような問題じゃない。僕だって不用意に虎千代を傷つけるようなことを言って悪かったが、その原因を作ったのはそもそも虎千代の方にあるのだから。
しかし、ごく普遍的なルールとして、世界に厳然と存在する不文律を、僕は次の日から思い知ることになる。
それは同じ年頃の男女が一つ屋根の下でケンカをした場合、理屈とかはまったく関係なく、必然的に、男の方が悪者になると言う問答無用のルールだ。
その日の朝、廊下を歩いていると、いきなり僕の身体は腰から吹っ飛ばされた。
「ぐうっ」
朝らしからぬ、うめき声が漏れた。
もちろん絢奈の低空ドロップキックが、背後からまともに僕の腰にぶち当たったせいだ。久々のドロップキックと言うか、ううっ、まがりなりにも実の兄を二回もドロップキックで急襲する妹ってどんなんだ。
「お兄いっ、なんで虎っちにひどいことするかな!」
早朝からきんきん響く罵声だ。本っ当にかんべんしてほしい。
「昨夜のうちに謝りに行くのかと思ったら、ほっといてるし!虎っちがあれからどれだけ辛そうな顔してたか、お兄い、分かってる?絢奈だってなんて言ってあげたらいいか分かんなくて、辛かったんだから!もうっ、どうして分かってあげないの!?」
「あのなあ」
新兵衛さんが進めている話が無茶だってことは、虎千代にも十分、分かっているはずなのだ。それを分かっている癖に、あいつだって強情すぎるのだ。新兵衛さんを庇うためとは言え、さすがに僕だって素直にはいそうですかとは呑みこめない。
「難しい歴史の話はいいってば。絢奈にだって分からないし、そのことは虎っちの気持ちとはなんの関係もないはずでしょ。虎っちだって言ってたじゃんか。虎っちはちゃんと、女の子としてお兄いのこと好きだし、もっと仲良くなりたいだけなんだから!」
「う、それは・・・」
分かってる。僕だってあれが、売り言葉に買い言葉で出た言葉で、虎千代の本心とは違うことだって言うことぐらいは分かる。で、でも、それを差し引いたって、素直に間違いを認めればいいものを開き直って自分の気持ちだけが大切だなんて、言いたいことさんざぶつけてくるなんて、ちょっと勝手すぎないか。
「お兄いがはっきりしないのが悪いと思うな!虎っちだって言いたいこと確かめたいこと、ずっと我慢してたから、ああやって本当の気持ちを言うしかなかったんじゃないかな。お兄いはせっかくこの戦国時代に来て初めてモテたんだからもっと、女の子を大切にしなきゃだめじゃんか」
図星ながら、我が妹の容赦ない意見は鋭い。
「そ、そうかな」
それにしても、あいつ、僕に会ったときから自分の気持ちを率直にぶつけてきすぎのように思えるが。
「絢奈だって、ちょっとは悪いと思ってるんだから。現代に帰れるかもって、いざなったとき、お兄いがいなくなって一番悲しむのは、絶対虎っちじゃないかなあ、って思ってるしさ」
「あっ、そうだよ。もともとは絢奈、お前たちがタイムマシーンがあるだとか、現代に戻れるかな、とかって言って騒ぐからこんなことになったんじゃないか」
「いや、それは違うな!」
しおらしくしたかと思ったら、絢奈は断固とした口調でそれは否定しやがった。
「それは、気持ちの問題とは違うんじゃないかな。もしかしたら現代に帰れるかもなーって言うことは、虎っちとお兄いのこととは別!そのことで絢奈たちに責任はないです!」
「おい・・・」
掛けた梯子を下からばったり引き倒すのは、やめてほしい。
「とにかく、お兄いが何としても今やるべきことは二つだよ。ちゃんと虎っちの気持ちを大切に付き合ってあげることと、絢奈と一緒に現代に帰る方法を探すこと!」
びしっと、僕に人差し指を突きつけて、絢奈は言い放つ。
「絢奈、何か矛盾して、ないかな。・・・この二つってどっちかを果たせば、どっちかが成り立たないような気がしないか」
「そんなことないです!虎っちの気持ちも大事にして、でも絢奈たちも現代に帰れる。みんながハッピーになれる方法が必ずあるよ!血震丸の死手詰みを打ち破ったお兄いなら、絶対出来る!」
出来るかっての。みんながハッピーになれるとか、うさんくさい宗教家みたいなこと言いやがって。大体こいつ、血震丸の話はいつどこで関わってたって言うんだ。
「でも絢奈、突破口はなくないと思うよ。だってさ、虎っちはお兄いといたい、絢奈たちは現代に帰りたい、要はこう言うことでしょ。じゃあ、簡単じゃないかな」
「・・・あまり期待は出来ないけど、一応案を聞いてやるよ」
嫌な予感がしながら、僕は聞いてやった。
「虎っちを連れて現代に帰っちゃう!」
「いい加減にしろ!」
そんなことしたら上杉謙信が、日本史からそっくり消えてしまう。迷わず最悪のケースを選択しやがった。
やっと絢奈が行ったと思ったら、僕の女難の卦はこれで終わりではなかった。
僕がどうにか気持ちを立て直して朝ごはんを食べようとしたら、
「まっ、真人しゃま、朝ご飯どころではありましぇぬぞ。このえから、お話がありまする!」
「こ、このえちゃんまで?!」
このえはちこちこ僕の足元まで歩いてくると、ばたばた小さな腕を振り回して猛然と抗議し出した。
「姫しゃまの気持ちをもっと、考えてくだしゃりませ!姫しゃまは今朝からずっと落ち込み気味で、このえがお伝えしなきゃいけない大切なお話があって話しかけても、一言も口をきいてくだしゃりませぬ!こんなことは前代見聞なのですぞ!このままではこの長尾家の経済は一向に立ち行きましぇぬ!」
ええええっ。そこまで深刻な問題になってるのか。
「は、話は分かったからとりあえず、落ち着いてくれないかな。僕だってまだ起きて、ご飯も食べてないし」
って言っただけなのに、このえは僕に掴みかかったまま、ぷりぷり怒る。
「ごっ、ご飯などとっ!姫しゃまは真人しゃまのことで、朝ご飯などお口もつけないのですぞ!血震丸の一件あって以来、姫しゃまのみならず、我らは姫しゃまを想う真人しゃまの才智を頼りにしておりましたのに!少しは、自覚してくだしゃりませ!」
「勘弁してよっ、くっ、黒姫っ」
と、僕は思わず厨房にいるはずの黒姫を呼ばわった。黒姫はそもそも、僕と虎千代の仲をそうそう快く思っていないので、この騒動でも、僕の敵に回ることはないかに見えた。
しかし、だ。
ひゅんひゅん、と、不吉な風切り音が連続で頬を掠めたかと思うと、背後の柱に、どどん、と重たい衝撃音を立てて何かが突き立ったのを見て僕はさすがに血の気が引いた。
これって紛れもなく、忍者が使う必殺兵器、八方手裏剣だ。このえを庇って身を伏せたからいいものを、手裏剣は確実に僕の急所を狙って飛んできた。一つでも当たっていたら僕はたぶん、死んでいた。全部喰らったらぼろぼろの蜂の巣になっていただろう。
「ふっ、ふふふふふうっ、真人さん、やらかしてくれましたですねえ。わたくしが精魂込めて作った朝の膳を一箸もつけて頂けないほどに虎さまを傷つけた、その罪、万死を以て購い難いですよお。まあでも、結果良しとはするです。これでわたくしと虎さまの恋路に立ち塞がる、お邪魔なものを排除するに、なんのお咎めもないわけですからねえ」
全身凶器を仕込んでいる黒姫の殺気は、邪悪そのものだ。
「なあに、証拠は遺しません。虎さまには真人さんは一足先に未来へ帰ったと言えばいいわけですよお。真人さんには幾度かわたくしたちを救って頂いて心が通ったと思ったのに、こうなっては仕方がありませんですねえ。せめて楽にあの世へ送ってあげるですよお」
「わっ、わああっ」
黒姫が凶器を仕込んだ両袖を広げたそのときだ。
どこからか飛んできた銀の光が、一瞬で黒姫の袖を壁に縫い止めた。
「黒姫」
そこに虎千代の長い髪と、紫色の小袖が見えた。
「朝から騒ぐな」
「ひいっ…は、はいっ、朝はもっと静かにしますですっ、ごめんなさい虎さまっ」
何を見たのか、小袖を脇差で縫い留められた黒姫は怯えきった顔で硬直している。やがて虎千代がいなくなったのを見計らったか、黒姫はぶるぶる震える手で脇差を壁から抜く。
「はーっ、はーっ、しっ、死ぬかと思ったですよ」
死ぬかと思ったのは僕の方だ。
「じょ、冗談はさておきですよ」
「冗談には見えなかったけどな」
「真人さん、現代に帰ってしまうですか?いつ?たいむましん、とやらが見つかった時点でもう、わたくしたちとはお別れなのですか?」
「そ、そう言うわけじゃないけどさ」
言い淀む僕を、じろり、と黒姫は睨みつけた。
「虎さまが気になさっているのは、そこですよ。元の時代に帰れるかも、って言うことになって、真人さんが急によそよそしくなるのが気になるですよ。真人さんが帰る帰らないよりかは、気持ちの問題なのです。虎さまだって女の子ですから、そう言うところは敏感なのですよ。分かって下さいですよ」
黒姫は袖に刺さった脇差を床に置くと今度は、自分が壁に投げた八方手裏剣を回収し出した。
「それに同じ理屈で言えば、わたくしだって突然、真人さんにいなくなられたら、余りいい気持はしませんですよお。真人さんには何度も助けられたし、血震丸の件では本当に一緒に命を賭けて戦った戦友と思ってますですよ。何も言わずにいきなりいなくなるなんて、そんなことしてもらいたくないのですよ」
「黒姫…」
「最終的には真人さんは長尾家の跡継ぎを作った時点で行方不明になって頂いて、わたくしが虎さまの正室に納まる予定ではありますからねえ。とりあえずそれまでは、種馬的な感じで、長尾家にはいてもらいたいわけですよ」
感動して損した。
このえがちこちこ歩いてきて、僕たちの間に入る。
「とりあえず前半は、黒姫殿の言う通りですよ、真人しゃま。姫しゃまのお気持ちを|おろそかにされては困りまする」
「お、おろそかになんてしたつもりは無いんけど」
「でも、それでなくてもあれから、ちょっと冷たいですよ。とにかく、我々は一刻も早く、虎さまには元気になってもらいたいですよ。だから真人さん、ぐだぐだ言ってないでとっととなんとかしやがれ、ですよ」
そんな無茶な。
気持ち。
絢奈も黒姫も、このえまで、気持ち、気持ちだ。
こんなことを言うと、また女性陣から一斉砲火を喰らいそうだが、女の子が使う中でもっとも面倒くさい言葉がこの気持ち、と言う言葉な気がする。これがあるから女の人の話はときどき、理屈を越えた無茶な話を引き起こすのではないかと思う。(我が妹の無茶振りがいい例だ)
でも、と僕だって反省することはある。
確かに。元の時代に戻れかもしれないから、と言って僕は浮かれていたわけじゃないが、相談役が残した気になる言葉が僕の態度を虎千代から見れば、よそよそしい態度に感じさせてしまった事実は否めない。
「なんと、直江景綱から養子縁組の話が来ましたか」
と、当の老人などは気楽に笑っているばかりだ。
笑い事じゃない。景綱の養子になんかなったら、西軍の敗戦から上杉家を救った直江兼続など、誕生しないことになるかも知れない。これをきっちりと長尾家の誰かにいちから説明出来たらいいのだが、とてもいい方法が浮かばない。僕だけのジレンマだ。
あれから実はまだ、根城に居づらかった。
朝の騒動があった後、さらに追い討ちがあったのだ。
朝ごはんにありつけなかった僕が、すごすご引き上げ、とりあえず一人になれる場所を探していると、新兵衛さんと鬼小島に座敷に連れ込まれた。これがとどめだった。
「真人殿っ、金津新兵衛、心底よりお詫び致し申す。出すぎた真似を致して申し訳ありませぬっ」
すごい勢いで、新兵衛さんはその場に土下座した。も、もう勘弁して欲しい。
「い、いや、それはもういいですからっ」
あの後、実は大変だったのだ。虎千代は泣き顔を真っ赤にして走り去ってしまうし、新兵衛さんはそれを見て動転し、切腹してお詫びするとその場でもろ肌脱ぎになった。それを僕と鬼小島が力づくで止めたのだ。
「かくなる上は、この新兵衛が首、弥太郎めに打ち落とさせ、越後の直江家には詫びに持たせまするゆえ、真人殿に心にもないことで、片意地を張った姫さまがことだけは、平にお許しありたく」
わっ、事態がとんでもない方向にいってる。
「そっ、そんなことしないで下さいっ」
土下座したまま顔を上げない新兵衛さんになすすべを失っていると、
「おい小僧、ちょっと面貸せ」
鬼小島が、
「金津の旦那ぁ、とりあえず介錯の件は後で話しやしょう。その前に、俺から小僧にも話がありますから」
と言って、僕の襟首を掴んでずんずん裏へ連れて行く。助かった、のか?
「す、すみません、弥太郎さん」
「ったく、朝からあのざまよ。昨夜から俺が説得してんだ。いっくら言っても聞かねえんだぞ。金津の旦那は本気だぜ。小僧、なんでお前お嬢とさっさと仲直りしねえんだ」
「いえ、それは違うんです」
「何が違うってんだよ」
「仲直りをしない、と言うのとは、ちょっと違って」
虎千代となんて話したらいいか分からない。それが、正直な自分の気持ちなのかも知れない。そもそも僕は、未来に帰りたくなったから虎千代と距離を置こうなどと、考えたわけじゃないし。
「だったら何なんだっつうんだよ。はっきり言いやがれ」
「は、話せることじゃないです」
「…つまり、俺にゃ分かんねえことか」
僕は小さく、頷いた。
「お嬢にも分かんねえことか?」
いいえ、と、僕はかぶりを振った。
「虎千代には話したらたぶん、それは分かる、とは思いますよ。でもそれをしたら元も子もなくなると言うか、虎千代の後の人生にも影響するんじゃないかと思うと、うかつには、話せなくて」
「そう来たか」
と、言うと、鬼小島は鉄骨のような腕を組んで唸り声を洩らした。
「ったくなんて様だよ。この屋敷でまともにお前の話を聞けそうなのが、まさか俺だけとはよ。お嬢や金津の旦那はああだし、腹黒やうちの娘まで、お前のことになるとこうも冷静じゃいられねえとはな」
「しばらくどこかに隠れて、ほとぼりを冷ましますよ。このままだと、黒姫に暗殺されそうだし」
「それがいいだろ。午後には、お嬢もそっち行くしな」
「えっ」
「知ってんだろう?砧って剣術使いが、お嬢とかささぎを鍛えてるんだ。そこならさしでお嬢と話が出来んだろうがよ」
「いや、でもなんて話したらいいか分からないですよ」
と、言ったら鬼小島の電柱のような足で尻を蹴られた。
「いたっ」
「馬鹿かお前は。いいから、お嬢と話してみろよ。お嬢はな、そんなやわじゃねえんだ」
「やわじゃないって」
女の子だぞ。
「お前、お嬢をなめるなよ。一緒にいくさ場にまで出ててそれがわかんねえか。俺ら力士衆みたいな暴れ者どもが、どうしてお嬢の馬を守っていくさ場に出るか」
「分かりません」
「だったらとっととお嬢に会って来いっつの。ぐじぐじ悩んでんじゃねえよ」
いくさ場が関係あるのか、そう突っ込みたかったけど、やめた。この上、鬼小島に怒鳴られた挙げ句、根城に味方が一人もいなくなったらさすがに立ち直れないからだ。
そうだった、虎千代も無尽講社には出入りする用事があったのだ。ああ、気まずい。あれから虎千代とは言葉はおろか、顔だってろくに合わせてもいないと言うのに。
「まあ、仲直りはしなくてはなりませんな」
経緯を話すと、相談役もさすがに苦笑いしていた。
「私が言うたこと、薬が効きすぎたようで。責任は感じています。後で虎千代さんを連れてきなさい。蜜火さんが、あなたたちに見せたい場所がまだあるようですよ」
「は、はあ…」
と、僕はもじもじ頷くしかなかった。
午後になって僕は相談役の庵を辞し、砧さんの待つ庭園に向かった。夜半に降った雨が上がり、よく晴れた秋の日の午後だ。露に濡れて落ちた色とりどりの葉が、やわいぬかるみに散っている。それを眺めているのは、なぜか砧さんただ一人だった。
「あれ、来ましたか」
「あの・・・虎千代とかささぎは?」
「ああ、先に行ってます。鬼小島さんが何だか、君のこと待っていてくれと言うのでね」
稽古は確か、ここでやっていたはずだ。一体、二人は先に、どこへ行ったと言うのだろうか。
「小僧、てめえ遅いんだよ」
やがて、鬼小島の声が降ってくる。胴巻きだけで武装した鬼小島は蜜火さんと二人、背に何かをどっさりと背負ってこっちにずんずんやってくる。
「どっ、どこかへ行くんですか?」
「説明してる時間がねえ。いいから、さっさと荷を預かれ」
何の支度だろう。僕は訝ったが怒鳴られるままに、蜜火さんから荷を受け取った。
僕たちは最初に入った六条河原とは別の出入り口から、無尽講社の外に出た。
出たところは市街地ではなく、山際の沼地だった。大きく山が迫る辺りはところどころに葦の群生する湿地帯らしく、昨日降った雨で足元がぬかるんでいた。
「少し歩きますよ」
砧さんは大太刀を担いで悠々と歩いていく。ここまで何の説明もないのだが、
「まあ今日はね、さしずめ本免の路上試験と言ったところかなあ。これが済めば、私の教習はほとんど終わりだよ」
と、砧さんは急に警察官らしいことを言う。まだよく意味が分からない。だが、稽古の場所と内容を変えることは確かなようだ。首を傾げているうちに沼地が絶えると、そこにやや風景が開け、低い樹木に覆われた小高い丘が見えた。
「さて、あそこです」
砧さんが指し示す丘の向こうにかすかに、炊煙らしきものが見える。
「この谷の向こうに、ここ数ヶ月、人盗りどもが住み着くようになりましてね。いわゆる盗人宿が出来ているんです。どうも北関東から北陸にかけて人家を襲って人をさらった連中がここに、人質を軟禁しておくそうなんです。中にはタイムスリプに巻き込まれて被害に遭った人たちも多くいるようなので、無尽講社としてはこれを棄ててはおけんわけです」
いいかな、といつもの温和な笑顔を崩さずに、砧さんは続けた。
「私たちはまずあの小屋へ行って火をかける。私が斬り込むのを合図に、真人くんたちは人質を解放してもらいます。火が上がったのを合図に虎千代さんたちには正面から突入するように言ってありますので、よろしく」
「責任重大だぜ、小僧」
すかさず、鬼小島がプレッシャーを入れてくる。
「で、武装した野郎どもはどれくらいいるんだよ」
「一味の規模は百人前後と見たが、二人なら斬り散らせるでしょう」
「ひゃ、百人ですかっ?」
僕は思わず、上ずった声を上げてしまった。だって、百人だ。かささぎと二人で、単純に見積もって一人五十人は相手にしなきゃいけない。そんなの無茶だ。いくら二人が達人だって、無事でいられるはずがない。
「無茶ではないでしょう。あの宮本武蔵だって、一条下がり松で吉岡一門五十人を相手にしているわけですから」
それはあくまで伝説だ。それに、一条下がり松の宮本武蔵だって、真正面から斬り込むなどという無謀な真似はしていないはずだ。
「つべこべ言ってねえで、まず俺らが行くんだよ。いいから火付けの準備をしろ」
鬼小島が用意させたのは、丈夫で使いやすそうな火打石、それにたっぷり油を滲みこませた松葉の束だ。
僕たちは湿地の丘から、土手の麓へ降りると小屋の裏手へ回った。建物はそれほど大きくはないが、他にも数軒あるようだ。元々は山間の小さな集落だったらしい。見ると、防寒に獣の皮をまとった髭面の男たちが数人うろついている。そのいでたちはどう考えても普通の村人には見えない。砧さんは僕たちに合図をすると、小屋の後ろで小さく火を焚かせ、炎がだんだん大きくなるのを見計らった。
その間に、滑り止めの晒しを巻いた大きな野太刀を背にした男が通りかかると、音もなく背後から忍び寄り手にした布で口を塞ぎながら、
「んっ」
と、当身を喰らわしたらしい。気絶させた後はひと気のないところに連れ込んで、肩を外した上で縛り上げる。元は警察官とは思えない手際の良さだ。
「こっちもです」
言われるままに、僕も鬼小島について作戦を手伝った。驚いたのは、鬼小島もこうした作業に手馴れていることだ。普通こう言うのって、どっちかと言うと忍者の仕事のように思えるが。
「馬鹿言え、為景公が生きてた頃はこうやって毎夜、火付けに夜討ちよ。俺ら力士衆は野伏せりの合い言葉から、火付けのやり方まで仕込まれたもんだ」
夜中のうちに敵陣に忍び込み、合図とともに放火して斬りまくる。それが為景公の必勝法だったらしい。でも考えてみればそんな危険な任務、鬼小島たちみたいな命知らずの力士衆どもにしか出来ない。
三、四軒の火が点けられたところで、背後の火の手が一気に激しくなった。
「そろそろ、騒ぎをでかくしましょうか」
と、砧さんが言うと、今度は鬼小島がまるで雷が落ちたような割れ声で突然、怒鳴り声を上げた。
「火事だあっ、敵襲ッ、敵襲だあッ!さっさと逃げねえと、みんなっ、くたばっちまうぞおおっ!」
すでに完全に事態は砧さんにコントロールされていた。鬼小島がそれを何度か繰り返しただけで、一気に混乱は加速したのだ。その頃には火の手も強く上がり、辺り一面に煙がたちこめ、布で顔を抑えて逃げ惑う人たちの影があふれると、すっかり誰が敵で味方だか判らなくなっている。その中を砧さんは、僕と鬼小島の巨体を連れて自由に歩いた。
虎千代たちはどこだろう。この大混乱のさなかではそんなのまったく分かりそうにない。僕たちの前に一人、野太刀を持った男が横切った。その男は太刀を振りかざしては混乱を立て直そうと叫び声を挙げていたが、砧さんの姿を見かけると、あわてて駆け戻ってきた。
「おいっ、お前ら何を悠長にしとる、人盗りやっ!足弱を守らんと、みんなかっさわれちまうぞ」
「人質はどこにいる?」
「なんやと」
砧さんの質問にさすがに違和感がしたのか、男は答えなかった。しかしどこに何があるかは雄弁に、目線の方向が語っている。
「あっ」
何か言いかけた瞬間、厚い布で拳を巻いた鬼小島が放った打ち下ろしぎみのショートフックが一撃で、男のあごの骨を打ち砕いた。
「人質は裏手に避難させて下さい。蜜火たちに迎えを用意させてあります」
砧さんの手立ては、どこにも緩みがなかった。三十分ほどすると、逃げ惑う人質たちのほとんどは蜜火さんたちの世話を受け、無尽講社に戻る支度を始めた。
「さて、ここからが見物ですな」
丘の上から、僕たちは混沌の坩堝になった人盗りたちの根城を眺めていた。湿地にはすでに虎千代かかささぎに斬られたと思しき遺体が散乱し、足の踏み場もないほどだ。ここからだ、と言った砧さんによると、煙に乗じて襲い掛かったここまではこちらの有利だと言うことだ。
盗賊たちも場数は踏んでいる。やがて、混乱の中でまとまった数の男たちが態勢を立て直し、反撃に回る。二対多数の斬りあいならば要はこれからが本番なのだ。
「相手は二人や」
逃すな、と、円を囲むように、凶器を持った男たちが群がりだしている。めいめいに武器を構えた男たちは何かを遠巻きに、しかし確実にその数を増やし始めていた。
やがて、煙が晴れた。
雨上がりのぬかるんだ湿地帯に、二つの影。そこにはすでに何の遮蔽物もなかった。
虎千代もかささぎも衣装は、胴具足で兜はつけていない。
武器は腰に挿した、二刀だけだ。通常、戦闘では複数本の刀を持っていくのが常識と言われるはずだった。硬い人体にぶつかり、刀は曲がる。腰が反って斬れなくなる。さらなる大敵は脂だ。人の身体に含まれる脂肪分は意外と強く、刀身をみるみるうちに腐食させる。だから一回の戦闘につき、そのまま連続して斬れるのは四人がいいところのはずだ。そのため戦場には数本の刀をあらかじめ携帯するのが常識なのだ。
それなのに。
虎千代もかささぎも、手持ちは太刀と脇差しか装備していない。
かささぎが手に持つ剣、あれは三条宗近だろう。かささぎの亡師の愛刀だ。
虎千代が構える剣も、備前兼光、愛用の二尺八寸の業物のようだ。
ここに至るまでに恐らく二十人以上は斬ったはずなのに、どちらの剣にもまったく刃こぼれしている様子もなく、血の曇りすら薄い。今まさに水をかけて清めたように、潤いを帯びていた。
「見ていなさい」
砧さんの声が降ると同時に、包囲を狭めた男たちが一気に襲い掛かる。
まずふらり、と、動きを変えたのはかささぎだ。
背後を虎千代に恃むと、変則の下段に剣を構える。左手で剣を支え、右手は緩く持ったままだ。かすかに足を開き、敵を誘い込む。
「長尾殿、先にゆくぞ」
そうかささぎが言うか言わないかのうちだ。かささぎの身体がまるで微風にさらされる洗濯物のようにふわふわと、男たちの間をすり抜けた。刃をふるう四人の男が目の前にいたのだ。かささぎの身のこなしはそれをするり、と通り抜けてしまう。その刹那だ。
「わっ」
小さな悲鳴が上がったかと思うと、男たちはめいめいに倒れこんだ。何か、呆気ないくらいだ。何が起こったのか。ここからでは、ほとんど傷口すら見えない。あの通り過ぎた一瞬でどこをどう、かささぎが斬ったのか。
砧さんは何も説明しない。見ていれば分かると、言わんばかりの表情だ。
次に、虎千代が動く。
こちらは、五人だ。刃が入り乱れる中に入った虎千代は。
大股に踏み込んで振り上げてくる男の手首を、すれ違いざま斬り飛ばした。さらにはそのまま停まらず、駆け違って飛び込んでくる男の大股を転びながら斬り、血をしぶかせると、その脇差を抜き放ち、背後から狙ってくる男の顔に投げつける。そのまま付け入ってあっという間に残りの二人を斬った。
それを見て、僕は、はっと気づいた。
虎千代の剣の狙いは大よそ、手や足の腱であり、動脈だ。
つまりこれは攻撃手段を封じ、出血によって最小限度の手間で無力化してしまう剣術。一対多数の斬りあいにはもっとも合理的な攻撃方法。
あまりよく見えなかったがあの、かささぎの方もそうなのだろうか。
「二人の剣術の型は違うが、速さは互角だよ。どちらかと言えば虎千代さんが相手の動きを利用し、封じながら勝つ殺人剣であるのに対して、かささぎさんが完全に相手の動きに溶け込んで相手をいつの間にか無力化する活人剣だから分かりにくいだけだ」
確かに、これまでの虎千代の動き方とは違う。無駄がなくなった、と言うと偉そうだけど、流れるような動きがさらに滞らなくなった。
「無外流、と言う剣術の流派を、真人くんは知ってるかな」
砧さんに不意に、僕に兆した違和感の正体を言い当てられた気がしてはっとした。
「江戸期に辻月丹と言う剣術使いが興した剣術だ。でも、時代小説好きならたぶん、別の達人が得意とした流儀って言うイメージが強いかな」
砧さんの言葉で僕もぴんと来た。無外流は時代小説の大家、池波正太郎さんが『鬼平犯科帳』と並んで人気を博した連載、『剣客商売』に登場する主人公の秋山小兵衛が、修めていた流儀だ。
無外流では、頸や内臓、頭と言った明確な急所を狙わない。
狙うのは、手の腱や足の筋だ。相手を無力化するにはそれで十分と言う。
と言うと、いかにも平和な時代の剣法に聞こえるかもしれないが、戦国の時代にも十分通用する合理的な技術だ。刃物を使った戦闘では人間が本能的に庇う、狙いにくい急所を狙わずとも、出血を強いるだけで決着がつくからだ。
この考え方は、現代のナイフ格闘のタクティクスにも通じる。出血を強いることで戦闘能力を徐々に奪うばかりか、体力を喪わせる。決定的な一撃を狙って仕留めるのはそれが十分に上手く機能したときでいいのだ。
「しかし、現実の斬り合いでは中々、そうは上手くはいきません。斬撃が中途半端だと、相手は血を見て逆上するからね。必死になって反撃されると、こっちが一気に殺される危険性がある。それを見極めるのはやっぱり命がけなんだ」
と言う砧さんの言葉を聞いて、僕は二人がこの状況で何を学ぼうとしているのかにようやく気づいた。
一対多数の斬り合いではそのぎりぎりの局面が、何度も続く。次の相手を意識しながら今の相手を無力化する最小限度の斬撃を放つと言う作業を繰り返すことで、自然と身体にその感覚を覚えこませようと言うのだろう。
命がけにもほどがある。刀は一本、脂が巻くほど深く肉に斬りつけるか、骨に当たるか、ともかく下手な斬撃をすれば、即座に武器は使えなくなる。多数の敵とすれ違いざまの一瞬一瞬が、命がけの局面だと言っても大袈裟ではない。
それにしてもだ。煉介さんと斬り結ぶのは、あくまでかささぎだ。虎千代までが、こんな危険な鍛錬をなぜしなくちゃならないんだ。
「馬鹿か小僧。お前、お嬢といくさ場についていってて、今さらそんなことも気づかねえのかよ」
と、鬼小島の声が降って、僕は我に返る。
「いつもお嬢は俺らの前を歩くだろ。一手の大将ってのは、討たれたらそれで終わりだ。だからみんなずっと後ろの本陣に控えて、馬廻り衆に守られてるもんだ。ああやって最前線に出て俺らと一緒に戦ってくれる大将は、俺の経験から言っても、親父さんの為景公とお嬢くらいのもんなんだよ。この意味、分かるかよ」
僕は、かすかに首を振った。
「お前、お嬢に未来は決まってるから変えちゃいけねえって言ったらしいな。言っとくけどな、お嬢はな、そんなこと全然気にしちゃいねえぞ。じゃなかったら、こうやって毎日命張って、俺らの前に立てちゃいねえんだよ」
言ったろ、やわじゃねえんだよ、と言うと、鬼小島は僕の背中をばしっと叩いた。
「いたっ」
「終わったみたいですよ」
砧さんの声に僕は、はっとする。鬼小島が、とっとと行け、とあごをしゃくっていた。
湿地帯にはすでに二人の他は動く者はない。かささぎと虎千代で、ひとり三十人以上は斬ったのではないか。
「まっ、真人っ」
虎千代は、僕の姿を見ると、途端にうろたえた。ううっ、気まずい。向こうもそう思ってるのだろう。血まみれの刀を棄てると、こそこそと背の高いかささぎの後ろに隠れようとする。事情を知ってか知らずか、かささぎはそれを見て苦笑していた。
「どっ、どうしてここにおる。相談役のところで、たいむましん、とやらを動かしていたのではないのかっ」
「あれはさ、すぐに動くようなものじゃないんだよ。…それに言っただろ、僕だって別に未来に帰りたいわけじゃないって」
「…でも、少しは戻りたいのであろう?」
かささぎの蔭から、虎千代は心配そうに僕を見る。僕は小さくかぶりを振った。
「それは、絢奈の話。まあ一応、それはそれで、真剣に考えなくちゃいけないとは思ってるけど」
と言うと、ほっとしたように一気に身体から力が抜け、虎千代の顔に明るさが戻った。ほっぺに返り血がついてたけど。
「ほっ、本当か」
「あの、僕が悪かったからさ。きちんと、話しておかないといけなかったこともあるし」
何か言いかけた虎千代に、見かねたかささぎが声をかける。
「長尾殿…そろそろ、普通に話されたらどうかな」
「す、すまぬ」
おずおずと、虎千代が出てきた。その小さな手を、僕は取った。
「なっ、なにをするかっ」
血がつくとあわてる虎千代に、僕は言った。出がけに相談役が話していたことを、僕はようやく思い出したのだ。
「ちょっと連れていきたい場所があるんだけど」
無尽講社の庵についた頃には、日が暮れていた。西の空のすそが紫色に渡るくらいで、辺りは仄暗くなってきていたので、時間帯としてはちょうどよかった。
虎千代は後始末をした後、着替えて戻ってきた。今日は秋らしく秋草色の小袖を着ていた。きちんと結い直した髪にもアキアカネの簪が留められていて、不覚にも僕は一瞬、みとれてしまった。
「でいとなのであろう?どこへ連れて行くか」
「う、うん」
反射的に頷いてから、もっとどきっとした。虎千代が小さな手のひらを差し出して、僕の方にすっと身体を寄せてきたからだ。
僕たちは無尽講社の庭に出ると、池の端に沿って歩きだした。相談役のいる庵から、さらに下に降りていく道があるのだ。
「何やら明るいな」
虎千代はすぐに何かに気づいたようだ。
日が落ちて、本来なら足下もおぼつかないほどの山道が、ほのかな明かりに照らされて、歩くのにそれほどの苦労も要らなくなっている。その正体を知っている僕に、さほどの違和感はなかったのだが、虎千代にしてみれば驚きだったと思う。
明かりのみえる東の空の辺りを暗い竹林の陰からのぞこうとする虎千代の目は輝いて、僕に説明を求めるようだったが、僕はあえて黙っていた。この先のことはやっぱり見てのお楽しみだからだ。
柔土の道に川砂利が混じる頃、曲がり道の果てから沢の音がしだした。それに混じってするかすかなモーター音が、一際虎千代の注意を引き始めていた。
山の中の河原に出ると、虎千代が声なき歓声を上げるのが分かった。
そこにライトアップされて輝いているのは、沢の霧に濡れた朱がまぶしい、紅葉の古木だ。冷えて張り切った夜風に散りしく葉をそよがせて、秋の色彩を漂わせている。
下からの光源が、驚くほどはっきりとした陰影を与えて昼間見るよりも鮮やかさを感じさせる。ライトアップされた風景なんて、現代では見慣れて何も感じなかったはずなのに、こんなに素晴らしいことだったのかと、思ってしまう。
紅葉の根元に席が設けられていた。二人掛けのベンチに緋毛氈が掛けられている。虎千代は僕の手を引きいそいそと、古木の下まで行くとそこに腰掛けて、興味深そうに頭の上を何度も仰ぎみた。
「真人、これは・・・?」
「ライト。僕たちの世界では、夜でもこうやって明かりが灯っているんだ。ほら、下、ああやって光ってるだろ」
「なんと」
と、虎千代は辺りを見回した。
「よく原理は分からぬが、妖術ではないのだな。何度か、このように光っておるのをみたが、この明かりは日の光のように澄んで明るいぞ。これまでで、一番驚いた。すごいものだな」
僕たちの世界では、いつ、どの時間帯に町へ出ても明かりが灯っている。コンビニの明かり、建物の明かり、道の明かり、公園の街灯。これは実は、すごいことなのだ。
「これがお前たちが、いつも見ていた風景なのだな」
沢をわたる清々しい風が、虎千代の前髪をなぶる。その艶めいた線の一つ一つも白く滑らかな額の皮膚の細やかさも、くっきりと見えた。
「弥太郎さんに言われたよ。虎千代はいつも最前線に立って戦ってるのは、なんでかってこと」
「うん?」
「ごめん」
僕がその言葉を口にすると、虎千代は邪気のない瞳でこちらを見返してきた。
「僕は虎千代のこと、きちんと見ていなかったのかも知れない。記録に残る上杉謙信のことと虎千代のことは今は関係ないんだ。僕は僕で、この世界に来て、自分で虎千代のことを知り始めている。僕たちの間では、それがすべてのはずだったし、虎千代もそのつもりでいたのに…なんて言うか、悪かったよ。長尾家にも大変な迷惑かけちゃったし」
「なんの。あれは完全に我が落ち度じゃ。長尾のことは案ずる必要はない。直江の家には、新兵衛でのうて我自ら、謝りの言葉を書いておいた。恥ずべきは、ひとえに我が強情じゃ」
虎千代は照れ臭そうに唇を尖らせた。
「お前にもう、完全に嫌われたかと思った。ずっと話したかったのだが」
「そんなことないよ」
と、言うと、虎千代は身体を寄せてきた。少し寒いのだろう。僕はそっと、その肩を抱いた。
「歴史は人力で変えられるほど、懐浅いものでもない。いつも、それを認識していれば悲劇は起こりえない」
「虎千代…?」
「相談役殿に言われた言葉よ。不思議な御仁じゃ、我らのことを、見透かしているようでその上で、温かく見守ってくれている」
ふんわりと、虎千代は微笑んだ。
「上杉家に謙信の記録が薄いのは、我らのせいかも知れんな。もはやそれは起こったことで、でも、それはそれで一つの歴史じゃ。今を生きている我らが、関知するところではあるまい」
「うん」
と、僕は頷いた。確かに、そうなのかも知れない。心配せずとも、後世の人が描きたいように描くのだ。それが虎千代がどう生きるかと言うことと関わるかと言えば、そんなことはない。
「景綱めは落胆するであろうな。大力の剛士は得易くも、知略の才士は求め難い。だが誰の家にもやらぬ。お前は、成瀬真人でそのまま、わたしのものじゃ」
虎千代の小さな頭が、僕の首に添うようにもたせかけられる。
「名や家など、世を渡る仮の住処のごときもの。わたしには不要だ。一番、欲しかったのは、形あるものになく、何よりこうしてお前と時を過ごした思い出よ。記憶だけはわたしのものだ。誰にも侵せぬ、何にも替えられぬ。さすればこそ明日、死んでも悔いなく、いくさ場に立てよう」
虎千代の肩を寄せると、ぐっと、その体温が近くに感じられる気がした。
小さなあごを上げて、虎千代はこちらを見ている。ライトアップの中で雲のように柔らかな唇のあわいが何かを求めるように、かすかに開いている。その濃密な気配に匂いたつ甘く爽やかな香りを感じて、僕の胸に呼吸がつかえるほどの甘酸っぱい疼きがせり上がってきた。あ、あのっ、これってつまりは。
「しばらくこのままでよいか」
「う、うん」
虎千代が言うので、僕はどぎまぎして一瞬答えに詰まった。勘違いしてたのは僕だけか。今ちょっと邪な妄想を抱いた自分が恥ずかしい。
「いいよ」
と、言うと、虎千代は大きく息をついた。完全に力を抜いているようだ。
「今夜のことは生涯忘れぬ」
と、虎千代は言った。
「こうしてお前と過ごした思い出が、わたしの生きる糧だ」
僕も。
虎千代のその言葉が、こうしている記憶が、僕の胸にもずっと刻まれそうだ。
忘れることは出来ないだろう。
現代の明かりで見た、五百年前の風景。そして僕に体重を預けている、小さな身体の女の子が今見せた表情。瞳の色。確かな熱を伝える体温。この後、何度も思い返すに違いない。
一時はどうなることかと思ったけど、こうして、僕たちはどうにか仲直り出来た。
「さっ、さて次はどうする?」
と、虎千代が勢い込んでこちらに向き直ったのはそろそろ帰ろうとしたときのことだ。
「次?」
僕は思わず、上擦った声を出してしまった。次ってなに?
「当然、次は閨ではないか」
どこか落ち着かない様子で、虎千代は辺りを見回す。
「どこかにもう床がのべてあるのだろう?それとも、外でか。どちらでも悪くはないが、わたしは初めてゆえ…あの、優しゅうしてくれるとありがたいのだが」
「待ったっ」
虎千代がいそいそと帯を解こうとしたので、僕はあわててそれを抑えた。せっかく綺麗に着付けたのに。いや、そうじゃなくて何だか、前にもこんなパターンがあったような。
「さっき言ってたじゃないか。一番欲しいのは思い出じゃなかったの?」
「うむ。だから、そのことはそのことでいいわたしの思い出にする。次はその、そっちを体験したいと言うか」
僕たち十七歳だぞ。掲載出来ないって何度言ったら分かるんだ。
「体験って。あ、あれはお試しですることじゃないだろ。も、もしそれで出来るものが出来ちゃったら」
「子が出来たとしても、それはそれで上々。いや、むしろわたしとしても長尾家としても子は望むところと言うか」
それが本音かっ。
「ここでは少し寒いが、肌を合わせればさほどでもあるまい。とりあえず服を脱がねば出来ぬとは訊いた。後はお前がよしなにしてくれれば」
「だから服を脱ぐなっての!」
やっぱり女子って恐ろしい。




