和やかな集い、驚きの告白、虎千代から…?
その日は山容も穏やかに晴れ渡り、のどかとすら言える日和だった。今、僕は金色の薄日が降り注ぐ稜線を虎千代と歩いている。腰を屈めて敵情をうかがうことなく、頭を庇って砲弾の爆撃に備えることもなく。
(もうこんな日が来ることは永遠にないだろうな…)
心のどこかでそう思い始めていた。まさにそのときに。目に触れぬ何かが運命を左右すると言うなら、与えてくれた幸運に感謝したくなるような、そんな麗らかな日だった。
僕たちは戦いに疲れていた。それも自分でも気づかないほどに。
とにかく諦めずに突き進んできたら、暗雲が晴れ始めた。まだ戦いは終わっていない。だから確かに、ほんの一時的ではあるかもしれない。それでも激戦をくぐり抜けたその果てに、僕たちは束の間の日常を手に入れたのだ。
(生きているんだ)
と、この時代に来て僕は何度、そう思ったことか。しかしこの言葉は、空々しい喩えなどではない。切れば血が出るほど生々しい実感だ。
今、傍らに虎千代がいる。体温の気配を感じる。立ち上る白い呼気の息づかいが分かる。甘酸っぱく、髪や肌が香る。ただそれだけのことが。僕にとってはうすら寒い空白を埋められたように、温かく満たされていく。なぜならそれを感じられることそのものが、僕たちが生きているからこそ、感じることの出来るものだからだ。
「こうしていると今もいくさが続いているなどとは、到底思えぬな…」
虎千代も同じ想いなのか、澄んだ目を輝かせる。
「この森は静かだ。…ずっと逃げ回っていたから知らぬ間に、日の光りも避けていたのかも知れぬな」
と、虎千代の横顔は戦火と吹雪に閉ざされていた越後の空を降りあおぐ。林檎酒の淡い黄金色と言った柔らかな光は、厳寒の奥只見としては、平地よりもまだ遠い春の訪れを思わせる。
久世兆聖との苦闘が、いつしか虎千代に、生まれ故郷の空を見上げることさえ、忘れさせてしまっていたのだ。
僕たちはしばし、現状を忘れて黙々と山を歩いた。取り組むべきことや先行きの不安はあるが、僕も虎千代もそれを口にしない。ただ二人、たまに手を取り合って険しい山道を歩くことにだけ集中する。そんな一日もあっていい。このときだけは、誰にも邪魔はされたくなかった。
「少し険しいが、かなり広いのだな」
谷あいの沢へ降りてくると、ようやく虎千代が口を開いた。
そこは薄い湯気が立ちこめている。小川が凍っていないのは、温泉が湧いているためだ。より深い湯脈を求めて、ミケルたちが今、地形を探査しているはずだ。谷間に大きな洞窟があるのだ。
「ここがたぶん、風呂場とかお台所とかになるよ」
僕は答えた。黒姫の要求は、これで大方満たされるはずだ。
「うむ、申し分ない。場所が確保できれば、あとは人を呼んでくれば竈を作ったりする作業はそれほど手間もかかるまい」
僕たちが話していると、信長とミケルが洞窟から出てきた。
「おっ、虎姫もう来たのか」
「ミケル、真人から聞いているぞ。また腕を上げたそうだな」
虎千代とミケルは、お互いの技量の進歩を図るように、歩み寄った。
「虎姫よ!此度はこの信長にいくら感謝しても足りにゃあであろうがや!貸しはいつでも良いから必ず返すがええでや!」
「小僧、確かに此度はお前に救われた。いつか、必ず借りは返してやる。そうだ、黒姫とラウラがお前の好きな、かれえ、とか何とか言う料理を振る舞うと言っていたぞ」
「むむっ!!よもやそれはカレー飯か!おおっ、上出来だでや!」
そもそも旧日本陸軍がカレーを軍隊食にしているので、この奥只見はちょくちょくカレー粉が手に入るのだ。上手く忘れさせよう、と思っていたのに信長はすっかり、カレーの味を覚えてしまった。
「久々に熱々の飯が食えるな」
ミケルもほくほく顔である。
「僕たち、ぶっちゃけ炊事上手くないもんね…」
曲がりなりにも主婦であった三島春水がいなくなってからこの方、食事は当番制になり、果ては押し付けあいになっていた。
まず人の主君である信玄は作ってもらうのが当たり前で、炊事には全く手をつけないし(実際、他のことで忙しいのでそもそも頼めない)、真紗さんの料理はアバウトで出来不出来が激しい。
残るは僕とミケル、久遠、信長に霞麒麟であり、そうなると誰に当たってもそれなり、嫌々やっただけのものしか出来ない、と言う体たらくであったのだ。
「もしかしたら、虎姫たちと合流できなかったら、全滅してたのはおれたちだったんじゃないのか…?」
「あながち否定できないね」
後方支援と言う点では、人選は間違っていた。だがまさか、こんな長期的な展開になるとは思っても見なかったので、仕方ないことかも知れないが。
「ところで妹はもう、来ているのか?」
「ああ、もう黒姫と炊事にかかっていると思う。わたしとは遅れて到着の予定だ」
ラウラは傷ついた玲に寄り添ってやってくるのである。
「玲のやつは、無事なのか?」
ミケルが心配そうに聞いた。
「大丈夫。自分で動けないほどではもう、ない」
僕たちは、ほっとした。白豹との死闘で傷ついた玲は、一時期は生存まで危ぶまれていたのだから。
「あやつはもう、一人前の勇士だ。ラウラの手をとって助けたのも、玲だ」
「そうなのか」
ミケルは驚いて目を剥く。
「ミケル、もう二人の仲を認めてやってもいいんじゃないか?玲は命がけで、ラウラを救いに行ったんだ」
「おいおい大将!バカなこと言わないでくれよな!?」
僕が後押ししたのが気に入らないのか、こいつは偏屈者だ。途端にへそを曲げてしまう。
「確かに玲のやつは、おれは認めてる。だが、妹とのことは別問題だぜ。妹は、おれと同じ、神に仕える身なんだ。その教えにもとる道を妹が行くのをだなあ、おれは兄としておいそれと認めるわけにはいかない!同じ妹がいるんだ、分かるだろ大将!?」
「はいはい、分かった分かった。その辺でお腹いっぱいだわ」
頑固一徹の兄を持つラウラに、同情する。僕も兄貴だが、京都にいる妹が誰と付き合おうが、それに横槍を入れる気持ちなど一切ないし。
「おれは、真剣な話をしてるんだぞ!分かってるか大将」
「そろそろカレー出来たんじゃないか?」
僕はとっさに話題を変えた。
ほんの僅かだが、かすかに炊ぎの薪が焦げる匂いがして、静かな森にも穏やかな昼がやってくる。
「おっ、これは間違いなくカレーだわ!」
鼻のいい信長が、いち早く嗅ぎ付けて飛び出す。何の変事もない、昼食が始まろうとしている。
「僕たちも行こうか」
虎千代も、楽しそうに頷いた。
これ以上ない、和やかな昼ごはんだった。黒姫の手伝いとしてラウラが到着しており、僕たちは久々に全員で顔を合わせて食事を終えた。
それから晴明と結界拡張計画の打ち合わせを経ると、夕方まではゆっくり休む時間だ。
「真人、最近は昼寝をするのだと聞いた」
寝袋を持ってうろうろしていると、虎千代が顔を出す。
「わたしも一緒に寝ていいか?二人で身を寄せた方が温かくなる」
「えっ!う、うん確かにそうだけど…」
僕は思わず言葉に詰まった。虎千代は首をかしげた。
「どうかしたのか?」
「実はあの…虎千代に他意はないと思うんだけど…ちょっと今の時期一緒に寝るとさ…僕も男だから」
溜まっているのである。その如何ともし難いものが。男と言うものは、正直すぎる身体の構造をしているので、たとえ本当にその気がなくても、そのように見えてしまうことがあると言うかなんて言うか。
「ああ、なんだそう言うことか」
怒るかと思いきや、虎千代は、柔らかく微笑んだ。そしてなんと、たおやかな仕草で僕の腕に指を絡めてきたのだ。
「男子も溜まるものがあるのかも知れないが、女子にもあるのだぞ?」
「えっ…?」
思わず耳を疑った。い、いや。虎千代ともすでにそう言う仲だけど、えっ、そんなに大胆?
「わたしもずっと、我慢していた」
えええっ!?虎千代…?




