衝撃の正体!上杉謙信の謎、タイムスリップの記憶への手掛かりとは?
「くちなは屋の…元締め?って、つまりは真菜瀬さんの…」
「うん、うちの社長」
やけにあっさりと頷く真菜瀬さん。僕たちは呆然とするほかない。
「くっ、くちなは屋って会社組織だったんだ」
「うん、なんかそれ」
言う割に、真菜瀬さんは会社と言う概念がいまいち理解できていないようだ。
にしてもなぜ戦国時代に、が、またあった。確か日本初の会社組織は、幕末に坂本竜馬が作った亀山社中だと思っていたけど、真菜瀬さんの組織は会社経営がなされていたのだ。鞍馬山に温泉宿を作ったり、くちなは屋の他にもお店がある雰囲気だったりと、戦国時代にはありえない規模と感覚で経営を繰り広げている感じの真菜瀬さんの勤め先だったが、グループ企業で経営者がいるとは思わなかった。
「わたしたちの元締めがやってるのが、無尽講社って言う組織なんだけど。社長って呼びにくいから、わたしたちは、元締め。わたしたちはそっちのが呼びやすいから変えたら、って言ってるんだけどね。まあ、正式には社長?」
本当に呼びなれないのか、真菜瀬さんは奥歯にものが挟まったような顔をして言う。
「しゃ、社長とはなんだ。店の主のことか」
と、虎千代が僕の袖を突っつく。確かに生粋の武士には、会社組織の概念を理解してもらうのは難しいかも知れない。
「う、うん。要は、色んなお店のえらい人を束ねて管理する代表のことなんだけど」
「ほう、つまりは商人の大名か」
構造上は似ている。確かにそう考えると、虎千代たちには分かり易いかも知れない。
「それにしてもかなり大きい会社なんですね」
「みたいだね。前にも話したかな、元締めが差配するお店は京都にあってわたしたちはそれぞれお店を預けられて、やりくりをしてる、って言う感じなんだ。お店もいっぱいあるからよく分からなくて。くちなは屋みたいなお湯屋さんもあれば、みづち屋みたいな温泉宿や修行者向けの宿坊、旅人向けの安い木賃宿みたいなのもあるみたいなんだけど。あ、あと最近は明料理の屋台と中古服の卸売りのお店を出したかな」
スパ、宿泊業(と、風俗業)に飲食業にアパレルまで、ともかく手広い。
しかし、くちなは屋がそうやって、管理されていたことを考えると真菜瀬さんは、店舗マネージャーみたいなものだったってことか。真菜瀬さん自身は正真正銘、五百年前の人なんだろうけど、どこかこの時代にそぐわないセンスを持っていたのがこれで頷ける。
「何だか会うのすっごく楽しみ!ねーねー、真菜瀬さん、社長って絢奈たちと同じ時代から来た人なんでしょ。どんな人なの?」
絢奈がずばり聞く。本当に失礼なのだがちょっと、火車槍首の狐刀次みたいな怖い人を想像してしまった。
「んー、なんて言ったらいいかな。普通の人だよ。綺麗な女の人だし、見た目はちょっとわたしたちみたいな」
会えば分かるよ、と言う身も蓋もない結論で真菜瀬さんはドアを開いた。カードキーと鉄扉で厳重にロックされたその奥は、どこかのビルの地下室のようになっている。足元にはぼんやりと電気の照明が点き、空調が作動しているような音もしていた。
その入り口で僕たちはしばらく待たされる。どうやらここで待ち合わせのようだ。
「あ、やっと来た」
突然、真菜瀬さんが言った。うす暗闇の向こうから、ほっそりと背の高い影がしずしずと歩いてくるのがうっすら見える。
「遅れてごめんなさい」
闇の中にしっとりとした、どこか眠気を帯びた声が響いた。
真菜瀬さんの会社の社長は、真菜瀬さんよりひと回りほど上の年齢だそうだから、三十代の半ばから後半と言ったところだ。でも商売柄なのか、一般常識的な三十代後半の雰囲気からはかなりかけ離れている。
確かに雰囲気は真菜瀬さんにもうひと回り年上の色気をまとわせた感じ、と言うとざっとしたところだけど、ちょっとそれだけでは説明できない。
ゆるくウェーブを波打たせて柔らかなヴォリュームを持たせた黒髪を肩まで伸ばし、剥き身のゆで卵みたいに形のいいおでこを半分ほど出したその下には、伏し目がちの眉毛の長い瞳が輝き、受け口気味にすぼめられた唇の端には、芥子粒ほどの黒子がある。
なまめかしい丸みとすらりとした曲線を持った長身は、紫色の着流しに着くずし気味に包まれていて、真菜瀬さんに比べるとさほどの露出はしていないのになぜか目のやり場に困る。まるでたたずまいの一つ一つから、妖しく息が詰まるような色気を無差別に放射しているようだ。
魔性、と言う言葉がもっとも当てはまるかもしれない。
目の当たりにするだけで、軽く間違いを起こしそうなこの色気は、僕からみて十分大人の真菜瀬さんにすら、まだまだ出せていないように思える。って僕は何を書いているんだろう。
「代表の大物主の蜜火です。白蛇の真菜瀬とくちなは屋が、お世話になっております」
と、しっとりとした声つきで蜜火さんは言う。
「あの、僕たちは…」
「大丈夫、お話は真菜瀬ちゃんから聞いてます。あなたが真人くん…思ったより、素敵な殿方ですね」
と、癖なのか、含みを持った上目遣いでこちらをみてくるのでこの場で唯一の男子の僕は、意味もなくどきどきさせられる。心なしか横にいる虎千代の視線が痛い。ここに来てこのタイミングで、手に負えないというか、厄介な人が出てきたような感じがする。
「て言うか、遅いですよ。ここ、わたしじゃ迷ったら一生出てこれなくなっちゃうところなんですから」
げっ、そうだったのか。相変わらず真菜瀬さん、深刻なことをさらっ、と言う。
「かように奥は複雑なのか」
「ええ・・・なにしろここは、入り口をみてもらっても分る通りの造りですから。ようは外の目から容易に触れず、大事なところまでは誰も入り込めない」
「何か、見せたくないものでもあるのか?」
「さあ」
深い意味を含んだような蜜火さんの微笑みに、虎千代は眉をひそめる。
「安心してくださって大丈夫ですよ。もちろん、危険なことは起こりません。あなたたちにはぜひ、ここを見てもらいたかったし。会わせたかった人もいるので」
と、蜜火さんは言うと、僕たちを招き入れるように、促した。
「どうぞ。ようこそわたしたち、無尽講社の本社へ」
かすかなフットライトの明かりが心もとなかったが、洞窟の中へ入っていくよりはましだった。それにしても昼間なのに暗いのは、ここが地下なせいだろう。窓ひとつない、真っ白な空間がかなり長く続いたので息苦しさを感じた。
蜜火さんのお話だとやはり、この上は下京の町屋のようだ。
それにしてもまるで夜の病院を歩いているようなのだが、廊下の向こうに重たい鉄扉のようなものがいくつも並んでいるのを見つけると、異様な気配がさらに増した気がした。
「これは座敷牢ではあるまいな」
虎千代などはこわごわ、分厚い扉を叩いている。
「似たようなものです。今は隔離しなければいけないほど、危険な方はいませんが、かつてはかなり多くいたので」
「隔離?」
と、僕は思わず訊ねる。
「ええ、タイムスリップ直後の錯乱から立ち直れずにこの世界に迷いだしてしまった人たち。あなたたちも経験があると思う。突然、棲んでいた時代からここへ飛ばされたとして、その現実はなかなか受け止めきれないものなのでしょう?」
僕と絢奈は、目を合わせ頷いた。
確かに、そうだ。僕だって絢奈だってあのときは気がついたらいきなり、戦国時代に来ていたのだ。足軽たちに人を殺した刃を突きつけられても、どこかまだ上の空だった。それからくちなは屋に来ても現実感と言うものを把握することにすごく時間が掛かったのだ。
「タイムスリップをしてきたほとんどの人は、もともと棲んでいた時代とはまったく違う感覚に対応できない。だから最悪の場合、精神に異常を来たしたままさ迷って、この時代の犯罪に巻き込まれたり戦争に巻き込まれたりしてしまうんです。わたしたちが発見したときには手遅れの状態と言うのは、かなりあって」
「そうなんだ…」
実際、人さらいにあった経験のある絢奈も表情を硬くしている。蜜火さんの話はそう言えば、と頷けることばかりだ。考えてみると僕たちは、かなり運が良かった部類なのだ。
「無尽講社はもともと、タイムスリップで飛ばされてきた人たちが寄り集まって助け合うために組織された機関なのです。ここはわたしが代表を務めるはるか以前から、存在していた地下壕を改築したもので、今でも無尽講社の人間が緊急避難の際に集まれるよう、その存在はこの時代の人たちにはなるべく知らせないように努めているんです」
無尽、と言うのはそもそも、相互金融を意味する古語なのだ。無尽講社は、もともとこの時代に生き残ることの出来た人たちが少しずつ積み立てた財が元で運営されているそうだ。蜜火さんによると今でもそうしたお金を使い、この時代で生活をしていくことを決めた人たちに援助や融資を行っているようだ。
「わたしたちが出会った範囲でも、様々な時代から様々な経験を持った方たちが飛ばされてきます。そう言う方たちが被害に遭わず、この時代に適応出来るように準備期間を設けてあげる。それが無尽講社の役割なんです」
営利企業と言うよりは、NPO団体みたいな感じで考えると捉えやすいのかも知れない。
「でもさ、真菜瀬さんとかはこの時代の人なんでしょ?どうしてここで働いてるの?」
「ああ、真菜瀬ちゃんたちは第二世代、タイムスリップしてきた人たちがこの時代で産んだ子供ですから」
えっ?
「あれ。言ってなかったっけ?わたしのお母さんが一応、絢奈ちゃんたちと同じような世界から来たみたいだよ」
そんな重要な設定を真菜瀬さんは、相変わらず軽く言う。
「じゃ、じゃあ煉介さんも?」
「ええ、煉介くんの家は一家全員そうね。煉介くんは、本当に生まれたばかりの頃に家族ぐるみでタイムスリップして来たの。煉介くんのお父さんは、わたしが代表を務める前にここの管理をしていた人」
煉介さんって現代人だったのか。そう言えば松永弾正が、煉介さんの両親は現代人だと言うようなことは言ってたけど、まさか本人もタイムスリップしてきたとは。これは衝撃だった。
「煉介くんは今、大きな事件を起こして逃げているのでしょう?」
「む…」
唐突な蜜火さんの言葉に、虎千代は片眉をかすかに逆立てた。
「彼がやってしまったこととは、わたしたちにも責任の一端はあります。そのことで虎千代さんのお力になりたく、今日はお呼びだてしたのです」
僕もそれを聞いてはっとした。蜜火さんがすでに知っていたと言うことは、真菜瀬さんもすでに知っていると言うことだと気づいたからだ。
「すまぬな。真菜瀬、お前には我から詳しい事情を話そうと思っていたのだが」
「ううん、虎ちゃんが謝ることじゃないよ。変な気遣わせちゃって逆にごめんね。わたしはもう、聞いたんだ。蜜火さんから、あいつがとんでもないことしたって」
「そうだったか」
と、虎千代もそれと察したらしく、目を伏せた。
「いざって言うときは、虎ちゃんは、わたしのことは気にしなくていいよ。煉介は、覚悟の上で自分のやりたいことをしてると思うし、その意志はわたしにはどうにも出来ない。あいつが間違ってるのだとしたら、それを止められるのは虎ちゃんだけだと思うんだ。だから、思いっきりやって」
「分かった。お前に、遠慮はせぬ。我があやつを全力で止めよう」
「ありがとう、虎ちゃん。きっとそれが一番、今いいことだと思う。わたしや、煉介にとっても、虎ちゃんたちにとっても」
虎千代は真菜瀬さんの気持ちを自分の中に刻みこむように小さく、何度も頷いていた。
「無尽講社としても、煉介くんの行動や考え方は、非常に危険だと考えています。わたしたちは言うなれば時代の流民です。出来ることなら時代の大きな流れに干渉せず、生きていくことがこの世界にも本人たちにも幸せなことだと思います。まずは詳しいお話は上で致しましょう。会わせたい人と言うのは、地上にいます」
長い廊下は、あるところでぷっつりと途切れていた。やがて駅の地下道の出入り口のように外の明かりがこぼれ落ちている階段がいくつもあるスペースに出ると、蜜火さんは、その一つから外へ出た。
そこはとても広い日本庭園のような場所だった。この時代にすでに年代を感じさせる大きな古池には落ち葉を縫って緋鯉が泳ぎ、色づいた楓やくぬぎの雑木林が風にそよいでいる。庭を囲うはずの築地塀がほとんど見えないほど土地は起伏に富んでいて、果てがなかった。空の向こうに東寺の塔頭らしきものが見えるので、京都の街中にいるのは判るのだが、一体どこにこんな広大な場所があるのだろう。
僕たちが出て来た地下道への階段は、林の中の小さな庵に装われていた。辺りを見渡すと茅葺の古びた小屋がそこにはぽつん、ぽつんと点在しているのが見えるのだが、あれはすべてあの地下道への出入り口なのだろうか。
僕たちを待ち受ける人は、池の端にある庵の近くにいた。袖なし羽織に伊賀袴、総髪を結った、堂々とした侍だ。
「侘阿弥さん」
と、蜜火さんが男の名前を呼ぶと、男はゆっくりと歩み寄ってきた。近くでみると、初老の穏やかな風貌をした人だった。しかし異様なのは杖替わりについていた大太刀だ。刀身の幅も長さも、煉介さんのものに勝るとも劣らない。
「あなたがあの三太刀七太刀の上杉謙信」
虎千代を見てそんな感想を漏らすところを見ると、この人もやっぱり現代人なのか。
「この方は、侘阿弥の鬼十郎。煉介くんに大太刀を教えたのは、この方です」
「はは、侘阿弥の鬼十郎は、傭兵足軽時代の名前だよ。もうそんな大仰な名前で呼ばれることもないから本名で呼んでくれないかな」
と言うと、その人は、僕たちに右手を差し出す。
「砧と言います。今日はこんなところまでわざわざ、ありがとう」
砧さんはもちろん現代人だった。この時代へ飛ばされてきたのは、もう大分前だと言う。煉介さんの家族が飛ばされるよりさらに以前から、この無尽講社を守ってきたらしい。
「もともとは、警察官だったんだけどさ」
現代に居た頃は、剣道はかなりの腕で、居合も段を持っていたそうだ。この過酷な時代に生き残れるはずだ。大分以前は、武者修行と称して諸国を渡り歩くという危険な冒険もしていたらしい。
「北条早雲とか、毛利元就に会ったからね」
どうも、有名な戦国大名に会うのが趣味のようだ。それを自慢にされてもちょっと困るが。でも現代人がこの時代に剣一本で諸国を巡っていたと言うのだから腕は確かなはずで、さすがはあの煉介さんの師匠と言われるだけはありそうだ。
「煉介のことは聞いてるよ。まさか、足利将軍の息子さんをさらうとは思わなかった。私たちも全力で協力しなきゃな」
砧さんは大きく息を吐いて、嘆くように言ってから突然気づいたように、
「蜜火さん。このこと、相談役には?」
「すでに話してあります。後で会いたいと。真人くんと、虎千代さんに」
「相談役?」
「うん。日本史にすごく詳しい人がいるんだ。その人が長年、ここを見てくれているんだけど」
砧さんは池の奥にある小路の彼方を見た。その中は深い竹林になっていて、よく見渡せなかったのだが、相談役と言う人はその辺りで待っているのかも知れない。
「さて謙信さん、本題に入りたいんだが。しかし、こんな可愛らしいお嬢さんだと調子が狂っていかんな」
僕は気づいたのだが、と言いつつ砧さんの虎千代を見る目は笑ってはいない。
「私から煉介を呼び出します。まさかあいつも、私の誘いは断らんだろう。ただ、人質を返せと言ったら、来ないかも知れないが」
「あやつには別に、果たしていない約定もある。武士なれば、よもやそれは違えまい」
「それは後で聞きましょう。で、もう一つの用件だが」
と言うと、砧さんは鞘に納められたままの剣を持ち上げ、それを左手に持ち替えた。
「一応、あいつの師は私と言うことになっている。実際は基礎を教えていくさ場に放り出しただけなんだが、あいつは私の剣を見て武器に大太刀を選んだのでしょうな」
話しながら砧さんは、さっきよりかすかに後退りしながら間合いを取っている。虎千代はそれと知って、僕たちを遠ざからせた。二人は徐々に対峙する呼吸を取り始めている。
「この大太刀と言うのはもともと、南北朝動乱の折に流行った武器です。『太平記』なんかにはこいつの撃ち合いがさんざん出てくるし、歴史の教科書には足利尊氏の絵なんかがこいつを担いで馬に乗ってる」
砧さんが言っているのは、現在は高師直のものとされている馬上太刀の肖像画だろう。
「でも戦国期には廃れていった。確かに稲生原の戦いでも織田信長が五尺七寸(約一七一センチ)の太刀を振り回したと『信長公記』にはあるし、姉川の戦いで戦死した朝倉方の名士、真柄十郎左衛門直隆のものとされる太郎太刀など戦場での使用記録はあります。しかしそれは物珍しいからであって歩兵の携行する一般的な武器ではなくなりました。それはなぜか分かりますか」
「槍の方が扱いやすいからであろう。長さによらず、剣は取扱いに熟練がいるゆえ」
砧さんの問いに、虎千代は即答した。
「さすがは謙信さんだ。まさしく、剣は手入れも扱いも手間が掛かるからです。経験も要ります。槍だったらど素人の百姓の兵を集めても、振りおろして、叩く練習だけさせれば十分戦闘になります。持って歩くのも楽です。と、なると大太刀は無用の長物になる、と言うことだが」
砧さんが腰を落として足を開いたので、虎千代も反応した。即座に柄に手をかけて応じられるように、身体もかすかに半身になっている。
「どうぞ」
と、砧さんが緊張した声で言ったのはそのときだった。瞬時に放射された殺気が僕たちにまで伝わったほど、それは完全な戦闘開始の合図だったように思える。
ずらっ、と大太刀が鞘から抜かれ、虎千代の鼻先に突きつけられるのに大した時間は掛からなかった。対してなんと虎千代は、まだ抜いていない。
一体、今何が起こったのか。僕はまったく理解できなかった。
だっていつもの虎千代らしくない。
砧さんが大太刀を抜く間に、虎千代なら数瞬で二太刀三太刀は斬りつけているほどの余裕があったはずだ。それが最初の姿勢から、まったく動いていない。わざと抜かなかったのかと思ったのだが、虎千代の顔を見ると血の気が引いて緊張に目が見開かれている。
「もう大丈夫です」
と、言うとその瞬間、がくっ、と虎千代の身体から力が抜けた。
「な、なんだ今のは」
虎千代は強張った声で、砧さんに問いただす。それでなんと、さっきの虎千代は抜刀しなかったのではなく、出来なかったのだと僕たちは初めて気づいた。一体、何が起こったのだろうか。
「剣は抜かねば、使えません。この間合いでは当然、謙信さん、あなたの剣の方が速い。同じ長さの剣でも抜く手は若いあなたの方が速いでしょう。しかし今、私を斬ることは出来なかった。つまりは、こう言うやり方もあると言うことですよ」
虎千代はまだ、自分の身に起こったことが信じられないようだった。何かの作用で今のように真剣勝負で動けなくなったとすれば、即死につながるのだ。
「柄を持っても鞘から剣が抜けそうな感じがせなんだ。あれはよもや、妖術か」
「伝承にある剣技です。見つめの法と言います。封印された奥儀らしいのですが」
「心の一方だ」
と、僕は叫ぶように言っていた。
「ま、真人知っているのか」
うん、と僕は頷いた。確かこの技は、熊本細川藩で剣術を指南していた松山主水と言う武士が奥義としていた二階堂兵法の秘伝とされ、主水の死とともに滅んでしまった幻の剣技なのだ。
まさか本当に出来る人がいるとは。
「お、君は時代小説を読むんだな。確か海音寺潮五郎さんなどが書かれていたようだが」
「いえ、僕は…マンガで」
世代の差が出た。僕が初めてそれを知ったのは実写映画にもなった、某有名誌の少年漫画だ。幕末の人斬りを主人公にした作品で、宿敵の剣客の使う奥儀がこの心の一方だった。確かあれは、瞬間催眠術のようなものだと解説されていたと思うが。
「要は呼吸と拍子です。経験と勘で相手のリズムとタイミングを読んで、動作をけん制する、と言うと分かりやすいかな」
他の格闘技にも通じるよ、と、砧さんに言われたのだが、僕はそれはさすがにすぐにはぴんとは来なかった。
「例えば、ボクシングでもフェイントって言うのがあるだろ。パンチを打たなくても、目線や身体の動きでこっちにパンチを撃つぞ、と警戒を与え相手の動きを封じることが出来る。空間や間合いを制するスポーツではこれがかなり重要な鍵になるんだ。剣もそうだけど、自分が攻撃するときには、必ず相手に攻撃される位置まで入って来なくてはならないでしょ。もちろん達人ほど、相手にそれをさせないよう呼吸を読ませないんだけど」
と、言うと、砧さんは大太刀を鞘に納めた。
「あなたはさすが、歴史に残るほどの達人だが、呼吸を読まれるようではまだまだだね。もしかするといつも、呼吸の合う相手とばかり組み手をしているんじゃないかな」
図星を突かれたと思ったのか、虎千代は、はっと息を飲んだ。
「確かに。我が未熟さを恥じいるばかりよ」
「恥じることはない。若いんだから、私と違って経験でもっと伸びる。ましてや軍神と言われた、あなたの腕ならなおさらだ」
と、砧さんは、笑って言った。
「見ての通り大太刀は懐が深いし、初動も遅い。だから戦場では鞘を捨てて、最初から抜き身を担いで出ていくんだけど、そんな場面ばかりじゃない。『甲陽軍鑑』などでも武田信玄の口を借りて長い太刀の不便を説いているけど、まあ、使いようってことさ。言いたかったのは煉介もこれくらいはやるだろうって言うことなんだが、いいかな。斬り合う気なら、覚悟してほしい」
砧さんの言葉は、虎千代に衝撃を与えたようだ。
煉介さんほどの達人なら、武器の弱点を克服するために予想外の動きをしてくることは間違いなく、たとえ虎千代でもとっさにそれを防ぎきることは難しいだろう。大太刀を不便な武器と見ていると、取り返しのつかない痛い目に遭うと言うことだ。
「砧殿。出来ればもう一手、ご教授願いたいが」
自分を驚かせてくれる達人に会って嬉しかったのか虎千代はすかさず、もう一番乞うた。
「うん。それもいいが…蜜火さん、そろそろ相談役が手が空く時間じゃないか」
「ええ、もう連れていこうと思っているのですが」
と、蜜火さんは時間が気になる様子で、竹藪の向こうを見た。
「相談役と少し話して来て下さい。それから、もう一手指南しましょう。それと、成瀬くん」
砧さんは僕を見ると、不可思議なことを言った。
「君は相談役と話すべきだ。お父さんの長年の疑問が氷解するよ」
竹藪の中にはやはり、小さな日本家屋があった。そこは茶室と言うよりは鄙びた田舎家の雰囲気で、縁側には穏やかな秋の陽が降っている。鶏が数羽、放し飼いされていた。無尽講社の相談役、と言う人は、ここで日がな一日過ごしていると言う。どんな人なんだろう。
相談役と言う人は、長年、無尽講社の御意見番のような役割を果たしてきた人らしい。五十歳前後に見える砧さんよりも御年配のようだから、かなりの年齢の人のようだ。
とても日本史に詳しい人だと、砧さんは言った。そして僕のお父さんの長年の疑問を解消してくれるかも知れない人だと。
蜜火さんに案内を受けたのは、僕と虎千代だけだった。正確には絢奈や黒姫もしぶったのだが、真菜瀬さんと昼餉の用意を手伝うと言うことで一旦別れた。そう言えばもう正午でとっくにお昼ご飯の時間だ。
「あまり、時間を気にしない人ですから」
と、蜜火さんは言うが、この中で日がな一日何をしているのだろう。
入口の土間に入ってまず僕たちを驚かせたのは、ところせましと積まれた本の山だ。どうやらすべて歴史関係の資料らしい。現代の出版物もあれば、江戸時代辺りの草紙や手書きの日記の写しや古地図、講談本の類など色々な時代を余すところなく網羅している。歴史資料を扱う神田の古書店だって、これほど雑多に集めたりはしない。
「なんじゃあれは」
突然、虎千代が声を上げたのだが、見ると奥の間の戸が開いてそこから靴下を履いたままのズボンの両足が投げだされていた。思わず駆け寄ろうとしたが、その足がゆっくり上がると組み直されたので、僕たちはびっくりして足を止めた。
「相談役」
蜜火さんの声が降る。すると足はのそのそと引っ込められ、戸の隙間から誰かが出てきた。どうやらこの人が相談役のようだ。
「どうも、すまんなあ。頃合いで迎えに行こうと思って準備はしてたんだが」
と、関西訛りの柔らかな声でその人は、蜜火さんに謝った。声には張りがあって、見た目の風貌よりも若々しい。それにしても年齢不詳の雰囲気がする人だ。
相談役と言う人は、チェック柄のシャツに黒いスラックスのようなものを着た、小柄な老人だった。度の強い黒縁眼鏡と、黒い部分が一本もない見事な白髪が印象的だ。
年齢不詳と言うのは声のこともあるが、何より、潤いを帯びて輝く大きな黒眼がちの瞳だ。年配の方にこんなことを言うのも失礼なのだが、それがまるで少年のようなのだ。その瞳の輝きは、僕と虎千代が名乗るとさらに鮮やかさを増した。
「ほう、君が上杉謙信か」
やはり歴史好きのようで相談役は虎千代をじろじろ見た後、僕に向かって握手の手を差し出してきた。
「そして君が真人くん。あの成瀬明和くんの御子息ですか」
「ちっ、父を御存じなんですか」
成瀬明和と言うのは、父の筆名だ。本名は同じ漢字で、あきかず、と言うのだが、当時尊敬していた作家にあやかってつけたのだ。その作家さんは本名を音読みにしてそのままペンネームにして大成功された方なので父は験を担いだのだろうが、恐らくはほとんど人に知られていない。
「成瀬くんは著書も拝見しているし、古書店の店先なんかでもよう情報交換したなあ。好事家仲間と言うやつですな。お互い、興味の範囲が似通ってたからね」
と言うと、老人は棚から一冊の本を取り出してみせた。僕はそれを見て驚いた。『小豆長光の行方と消えた謙信記録』。失踪前、父が自費出版した最後の本なのだ。
「江戸期には、ほとんど喪われたと思われる謙信の全体像をよう調べてあります。お父上は、タイムスリップせずとも、きちんとたどり着かれていたのではないかな。君が連れてきたお嬢さんと、幻の小豆長光に」
初対面で不躾だとは思いつつ、気がつくと僕はその思いを口に出していた。
「あ、あの…父の話をしてくれませんか」
「もちろん」
屈託のない笑みでにこりと口元を綻ばせると、相談役は僕たちを陽のあたる縁側へ案内してくれた。その際、中の間を通ったのだが、そこは書斎になっているようだった。ちらりと見たのだが机の上には、朱筆や付箋で分厚くなった草稿が投げだしてあるのが分かった。たたずまいからも薄々察していたがどうやら相談役は、もともと文筆業の人のようだ。ここでいったいどんな物を書いているのだろうか。
「成瀬くんとは、研究家仲間のようなものでなあ。私もある記録を追っていて、ここまでやってきてしまったんだが成瀬くんも、きっとこの世界のどこかにいると思うよ。時々思い出してなあ。なにしろ、私たちは証明不可能なことを追いかけていたのだから。目先の目的は違うが、その点では紛れもなく同志だ」
「証明不可能なこと、ですか…?」
「うん、それを話す前に、この世界で私なりに得た解釈で成瀬くんの疑問に答えよう。江戸期の上杉家になぜ、藩祖である上杉謙信の記録がほとんど残っていなかったのか。そのことについてね」
間違いなくこの世界で出会った人の中で、相談役と言う人は僕の中に鮮やかな印象を残した人だった。ゆったりとした何とも言えない語り口や飄々とした佇まい、どこか僕たちとは違う巨大な時間の感覚が身体の中で働いているような、それは父にもない、でもとても心地のいい雰囲気だった。
「まずは上杉家の正史と言われているのが、『上杉家御年譜』だ。これは大正八年までの上杉家十三代の歴史を同家に伝わる確かな文書から編纂されたと言われているが、詳細な記録に渡るのは二代景勝からだと言われている。
特に川中島合戦の記述は、江戸時代の流布した軍談を参考にしたと思われ、独自の史料性は薄いとされる。また正史と言っても武士の時代を過ぎてからの編集だ。やはり謙信が生きた時代からそう遠くないものの方が、謙信の風貌を知る意味でも、信憑性が高いでしょう。そこで出てくるのが、『上杉家御年譜』が参考にしたと思われる、江戸期の報告書だ。これが何かはお判りかな」
「『川中島五度合戦次第』ですね」
僕は即答した。
「その通り。これは寛文九年(一六六九年)のものとされるから、江戸もそれほど進んでいないと思われる時期のものだ。当時幕府は、『日本通鑑』と言われる歴史書を編纂中だった。時の老中酒井忠清が米沢上杉藩藩主、上杉綱憲に命じて提出させた報告書がこれだ、と言われている」
しかしこれも、上杉家側の川中島合戦の記録としては信憑性が薄い、と、相談役は言う。なぜならこれは、越後に流れてきた武田の旧臣たちや川中島をめぐって生涯、信玄と敵対した北信濃の豪族、村上義清の覚書を集めて編纂されたものだからだ。
「ただ、この成り立ちについても信憑性が高く見えるように体裁を整えたに過ぎず、実態はさらに胡散臭いものだよ。しかしこれが謙信時代の記録として藩の公式見解として幕府に提出されている事実から推しても、当時から上杉家には謙信の確たる記録はまったく残っていなかった、と考えるべきではないかな。
例えば『甲陽軍鑑』がその真偽はともかく、信玄の腹心だった高坂弾正の覚書をもとに描かれたもの、と謳っているように、柿崎景家だの、直江景綱だの、股肱の臣が語ったとされる記録が謙信にはない。これは非常に不可思議と言う他ないと思いませんかな」
「むむ…何だかよう判らぬが、我が家中の落ち度か。不徳の致すところだ」
と、虎千代は眉根をひそめてうなっていた。自分の代よりはるか後世のことだ。虎千代に責任はないだろ。
「でも、上杉謙信の業績が曖昧なものだとは僕には思えません」
僕も緊張しながら自説を述べた。
「時は他国との往来盛んな戦国時代です、上杉家に当時の記録は乏しくても、謙信の戦歴や事績自体は色々な形で知ることが出来はするとは思います。しかしいぜん、疑問は残ります。江戸期の上杉家が、なぜ全国的に知名度の高い謙信の事跡を曖昧なままにしていたのか、父はずっと考えていました。謙信の正体が幕府に知れたらまずいものだった…つまりは、江戸期には正当な相続権を持っていない女の人だったから、と言うのが、どうやら一つの解釈として父が信じていたものだったみたいなんですが」
と、僕は実際隣にいる虎千代を横目で見ながら、話を続けた。
「家康はその死に際して、大名家は理由を見つけては廃絶してしまえ、と言うことを命じていました。少しでも相続に不備がある大名家は取りつぶすと言う方針は、江戸期を通じて幕府運営者の一つの暗黙の了解だったようです。巷の謙信の人気に乗じるのはいいが、上杉家としてはそれで女性の当主がいたことを廃絶の理由として取りざたされることを恐れたんじゃないでしょうか」
「うん、君のお父さんの説は、半分賛同で半分は納得できないものやな。まずは大名廃絶策だが、家康はそれとは別に名家保全策を一つの方針として残している。
例えば典礼で有名な小笠原家や、赤穂浪士事件で有名な吉良家などは家康がわざわざ末裔を引っ張り出してきて再興された家ですな。謙信の上杉家においても、室町以来の関東管領の名家で、徳川家でも名家の格式を与えています。御家騒動や謀反など現在進行形の事件が取りざたされることはあっても、過去の相続問題にまでことが及ぶとは考えられませんな。でなければ関ヶ原で敵対した家をああして残すはずはないと思います。上杉謙信がこんなにかわいいお嬢さんでも、ちっとも構わない気がしますな」
と、老人も虎千代を見る。僕としては楽しいのだが自分のはるか未来の話をよく判らないまま鼻先でされて、ちょっと虎千代に悪い気がした。
「それよりも問題は、上杉家がすすんで自ら謙信の記録を残さなかったと思われるのは、なぜか、と言うことです。私はあえて、書かなかった、のではなく、つまり書けなかったのではないか、と思うのですがな」
「書けなかった?」
「これには多少、実地で説明が要りますな」
と言うと、相談役は立ち上がり、蜜火さんに聞いた。
「昼餉までまだ時間がありそうですか」
「まだ問題ないと思いますが。…どちらに」
不思議そうにする僕たちに、相談役は柔らかな笑みを浮かべて言った。
「それでは少し、歩きましょう。道々、話したいのです」
それから三人、小屋の裏手の道をさらに歩いた。
先頭に相談役、後ろに虎千代と、僕だ。十分ほど歩いただろうか。竹藪は腐葉土が積もって柔らかく、歩きにくいので虎千代の手をとった。
それにしても相談役は年齢の割に健脚だ。どんどん歩いていく。歩きながら、道々話の続きが始まった。その口調はまるで淀みなく、息も切らせていなかった。
「もともとの私は新聞記者でして、野史の研究家でした。余暇に史料を集め、それをもとに古跡を歩く。それが楽しみでした」
と、相談役は言う。話では僕の父と同じ、アマチュアの研究者だったようだ。
「野史とは?」
と、虎千代が訊く。
「巷間俗説の類、いわゆる玉石混合のよもやま話ですな。日本史に限らず、歴史話には異説珍説、まことしやかにあまた転がっています。家康は本当は願人坊主の成り変わった影武者だった、石田三成や明智光秀は生き残って天寿を全うした、源義経や西郷隆盛はモンゴルに渡って再び英雄になった、そんな途方もないお話です。もちろんほとんどは眉つば話です。だがそこには歴史に関わる人たちの人情や機微が垣間見られる。その当時の流行りや好き嫌いから、案外歴史の移り変わり方と言うものを感じることが出来るんです。はじめはそんな感じでした。
しかし歴史の合間にうごめくそんな史談を追ううち、いつしか私はあることに気づきました。どうにも、奇妙なことが多すぎるんですな。こうした話のうちにはまるで、時間の流れをさかのぼって現れた人間の干渉があったとしか思えない逸話がある。
それを追い続けるうち、私自身もこうして時の狭間に落ち込んでしまったわけです。まあ、私としては今でも後悔はしていないし、不都合もないが、途方に暮れる人は途方に暮れる。こうやって時間を超えてくるのは歴史好きばかりとも限りませんからな。それが私が無尽講社の運営を支える一つの理由と言えばそうなるのかな」
話しながら行くうちに、やがて竹藪を抜けた。そこは小高い丘になっていて、空が開けていた。坂の上に至る前に、相談役が僕にこう話し掛けてきた。
「ところで真人くんは、タイムマシーンが現れた、と思われる史記録を御存じかな」
「『兎園小説(一八二五年刊行)』にある『虚舟の蛮女』ですね」
僕は少し考えた後、それと思うことを答えた。
「その通り。これは当時、江戸の文化人の間で流行っていた珍談、奇談の会での逸話録をまとめたものです。現在の茨城県大洗町に円盤のような小舟に乗った現代人のような衣装の異様な女性が漂着した、と言う故事があるのがそれです」
僕もそれは知っていた。現在で言う、都市伝説の類だ。江戸時代の人たちは食事会をしながらそうした奇妙な話を語り合う会を持っていたのだが、この話は『兎園小説』ばかりでなく、同時代の他の逸話録にも登場する。これがタイムマシーンで江戸時代にやってきた未来人のことなのかは別として、当時かなり流布した事件なのだ。
「残念ながら真人くんと違って、私たちに時間を超えた、と言う記憶はほとんどありません。いわゆる自然現象的な事故に巻き込まれたせいと考えると、納得がいきます」
「申し訳ないですけど、それだったらたぶん僕も同じだと思います。突然、目の前で風景が変わったわけですから」
「でも、その直前に何をしていたか、それが非常に重要な鍵を握っている。恐らくはそれは真人くんがある種、機能的な力でここへ運ばれたことを示しているのではないですかな。ある種の事故にしても落雷に打たれたりしたようなものではなく、なんらかのシステムの誤作動に巻き込まれたとすると」
「僕が、知らない間にタイムマシーンに乗った、と言うことですか」
そんなこと言われても、まったくそんな記憶がない。
「これは一つの仮説です。だが一つの根拠らしきものがあって言っている。だから君はこの世界で出来るだけきっかけを見つけるべきです。ヒントやきっかけは、探せばいくらでもこの時代に転がっている。それが他の時間に流されてきた人たちの一つの希望にもなりえるのですから」
でも焦ることはない、と言うと、相談役は微笑んだ。
「まずはこれを見て頂けますかな」
僕たちは坂の上に至った。そしてその小高い丘のところにあったものを見て絶句した。
そこは一面、焼け野原になっていた。本来は広がっていただろう、栗の林が焼き払われ、炭化した植物が散乱していた。
もっとも驚いたのはその火事の中心地と思われるその建造物がまったく焼けていないことだった。
それは、なんの変哲もない六角堂だった。いつ建造されたのかも判らない。恐らく、人が四人も入れるかほどのスペースしかない、青く苔むした杉材で組まれた年代物のお堂だ。
「なぜここにこんなものが…」
はっと、僕は息を飲んだ。自分の声が上擦っているのが分かった。身体の奥が、あの小豆長光を見たときのように、大きく震えた。
僕が驚いたのは、その古いお堂に僕が見覚えがあったからだ。入口にふされた額。ほとんど墨が落ちたそこにかすかに確認できる、『春日山分社』の大書。
「どうかな。見覚えがあるだろう」
今度こそ驚愕で硬直した僕に、相談役の声が降ってくる。
僕は渇いた咽喉で唾を呑みながら、頷いた。
そうだ、紛れもなく。
「君は、ここから天文十五年にやってきたんだ」
本稿を書くにあたって三池純正さん著『真説・川中島合戦 封印された戦国最大の白兵戦』(2003年、洋泉社)を参考に致しました。




