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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.17 ~新たなる鬼才、頂上血戦、生き残るのは…?
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在りし日の手がかり、秘剣『音無』次の境地へ…?

「居合い…ですか」

 目線を少し下げて、檀須恵は、言った。

「分かっているかと思いますが、あなたが直面している問題は速さでは解決しませんよ」

「もちろん、分かっていますよ」

 春水は構えを崩すことなく、平然と答えた。

「…わたしは大事なのは『拍子』と言いました。すべての物事にそれに適した時機があるように、斬撃にもそれに適した機会がいる。わたしの知らぬ、全盛期のあなたを見ていてそれを思い出しました」


 檀須恵は、斬られない。

 いつ、いかなるときも。あの人を人とも思わぬ百震が刃を奮っているときすらも。この女は平然と現れた。三島春水にとっては正しくその記憶こそが、『無拍子』の境地に至る原点。檀須恵がいなければまた、秘剣『音無』もこの世に生を享けることはなかっただろう。


 居合いの構えをとった三島春水は、そのまま不動の姿勢を取る。そこに身切れるような緊張感は、一見して存在しない。しかし、誰でもすぐに気づくはずだ。一歩でもこの刃圏に入ればそこには侵すべからざる気配があると。水を打ったような、と言う表現があるが、三島春水の刃圏のうちは、とても静かなのだ。まるで、凪ぎの湖面が澄むごとく。だがそれは波風が立つ前の、刹那の静止に過ぎない。


「なるほど」

 その空気を感じ取って、さしもの檀須恵も足を停める。この達人でも春水の刃圏を侵すには、やはり、それなりの覚悟がいるのだ。


 行きます、と言わず、檀須恵は、ふらりとその間合いに踏み込んだ。薄紙がそよ風に舞うような、あの足取りである。絶妙な緩急があり、上下左右に視線を惹く不可思議な動きだ。舞いにも似たその動きの要点は、動きを見せることにあり、一切の淀みがないのに、全く速さは感じさせない。


 刃を矯めたまま、春水は動かない。慎重に間合いを取っているのか、檀須恵の誘うような動きに辛抱強く反応を抑えている。居合いはまず、抜かせることである。抜き打ちの一撃は、必殺であるが故にそれさえ外してしまえば、そこで勝負はほとんどついたようなものなのだ。だが無論、『音無』の居合いをそう簡単に外せるはずはない。故に檀須恵は、様々に誘いをかけて、『音無』の剣勢を鈍らせようと図っているのだ。


 と、檀須恵が、漂うのを止めた。今度は積極的に攻勢に出るようだ。居合いの姿勢をとったことで無防備になる首を狙って、左から薙ぐ。


 ロシアンフックのような、ロングレンジの斬撃だ。春水は半歩間合いを退いてかわす。まだ、反撃はしない。この攻撃の意図を読み取ろうとしているかのようだ。


 左の斬撃は、見せの動きなことはすぐに分かった。懐を深くして、間合いの踏み込みが甘いのである。そのまま身体を回転させた檀須恵は、空中で二撃目を放つ。ほぼ縦回転の右の打ち下ろしだ。春水が居合いを打とうと入ってきたら、袈裟斬りに襲っていただろう。


 その二撃目も、さらに間合いを空けることでかわす。大振りの一撃を外した檀須恵は地に伏せ、頭ががら空きになった。さっきと同じ展開である。春水の反撃を待っているのか。しかし、今度は違った。檀須恵はさらにそこから自ら動き、大胆にも春水を追撃したのだ。


 猫の爪が、二の腕の肉をえぐる。だが今度は春水は反撃しない。抜刀せず、身体を閉じて、首を狙ったはずの一撃を肩で受けただけだ。


「勿体ぶられますね」

 頬にはねた返り血を、檀須恵は神経質そうに手の甲で拭う。

「このままだとあえなく立ち往生になるのではありませんか?…急がないと、お連れの方も心配でしょう?」


 三島春水に、雑音は聞こえていない。確かに真紗さんと霞麒麟は苦戦苦闘しているが、それは檀須恵を斬ろうとしている春水には関係のないことだ。


(…あのとき)

 春水がそれを想うとき、それは遠い北海道の原野のことである。夜が白み始め、闇が薄らぎ始めていた。重くなった樹の枝からツワブキの葉に落ちる夜露の、ボタボタと言う音すら、はっきりと聞こえる。


 あの音に比べると、今そこにいる自分の存在の方がよほど希薄だ。唇が冷たく張り、体温のない呼気が浅く、意識が薄れかけているのが辛うじて分かる。手足のような末端どころではなく、全身の感覚がなく、意識だけが魂となって、このまま、口から飛び出してどこかへ消えていってしまいそうだ。


 果たして檀須恵は気づいていただろうか。


 もう、そこには十二歳の三島春水にいる。さっきまでの春水は魂が抜け出てしまったかのようだ。無心に柄に手をかけているのは、まだ何者でもない三島春水だ。


(覚えている…ふりをしていました)


 今の今まで、春水本人も失念していた。体験しただけでも、記憶しただけでも、駄目なのだ。もう一度、起こしたいなら、理解しなくてはならない。奇跡と言う偶然は、そこに至るまでの無数の必然が積み重なって、起こる、と言うことを。


 少女だった春水は、「あのとき」斬れるはずのない怪物を斬った。しかしそれは、無作為な変事ではなく、一見、無関係とも思える膨大な可能性を積み重ねた挙げ句に、もたらされた結果なのだ。


「今なら…それが分かります」


「次で終わりに致しましょう」

 檀須恵は再び、斬撃を再開する。駆け引きの綾糸を張り巡らせた応酬が、また延々と始まるかに見えた。


 しかし結果は誰にも予想できないものだった。


 そこで、春水は抜いた。

 もはやためらいもない。彼女は振り下ろしただけだ。そのただ一点。なんの工夫もてらいもなく、素朴とも言える一撃だった。


 (きれ)を裂くような音ともに、檀須恵の身体は後方へ吹き飛んだ。真っ向袈裟で打ち返された形だ。悲鳴すら上げることなく、斬撃の音以外は、水鳥が発ったほどの音もしない。


 秘剣『音無』。


 三島春水の斬心は、未だ何事も起きなかったかのように静かである。




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