さらされる切り札!底知れぬ兆聖の力…
それはラウラがいまだかつて、感じたことのない類の衝撃だった。
どう思い直しても、不可解としか言いようがない。いったい今ここで、何が起こったと言うのか。
高精度のラウラの目は、その衝撃の瞬間を見ていない。恐るべき衝撃を目の当たりにしたのが余りにも凄まじい一瞬で、まったく視認ていなかったのだ。
しかし、耳だけは記憶していた。鋭利な鑿でするように、刻みつけられたのだ。衝撃の際の、凄まじい打突音を。それは他のどの音に似ているとも、形容しがたいものだった。
何しろ、樫の木刀で、鍛え上げられた鉄を折ったのだ。常識でありうべからざることが起こった。それにただ、斬ったのか、へし折ったのか。それもまず、定かではないのだ。
「…あっけなかったがこれで、勝負はあったかな」
兆聖の声が、折れた剣の柄を握ったラウラに降る。そのときなんと、樫の木刀は折れていないことに、ラウラは初めて気づいた。
「察しているだろうが、教えてあげるよ。…今のが嵐神脚と並ぶ、僕のもう一つの切り札と言うところだ」
ラウラは息を呑んで兆聖を見返した。まさか、久世兆聖はまだ、手の内をさらしきってはいなかったのだ。一つではなかった。虎千代を追い詰めた嵐神脚の他にも、人間技を超えた奥義を隠し持っていたのだ。
「『蛮神雷』」
それが、切り札の名のようだ。
「…今日は、得難い学びをさせてもらったからね。僕からも君に返礼だ」
兆聖は不敵に顔を歪めた。
「ま、『宿題』だとでも思ってくれ。君にはまだまだ学ばせてもらおうと思っている。君も、君自身と長尾虎千代のためだと思ってせいぜい学びたまえ。君の剣は修復しておく。…それまでの代わりなら、用意させるから心配するな」
それだけを言うと兆聖は、さっさと自分だけ引き上げていく。ふと気づくと、その傍らで立ち合いを見守っていた覆面の娘の姿はなかった。
「戻るぞ、もたもたするな」
と、口早に吐き捨てながら、近寄ってくるのは真冴姫である。
「戻る前にそいつを寄越せ。…こちらで直しておく」
ラウラは折れた切っ先と柄を、言われるまま、真冴姫の手に預けた。
ラウラはそのとき初めて、まともにあらためたのだが折られた剣の切り口は、柄の方に残った刃も、折れて飛んだ方も、平たく、真っ直ぐになっていた。つまりこのレイピアは、強大な圧力をかけられて、無理矢理へし折られたと言うものではないと言うことだ。
(蛮神雷…)
ラウラは密かに唇を噛んだ。
久世兆聖は、『宿題』だと言った。この奥義の秘密を解き明かさなくては、虎千代の勝ちにない。
その虎千代は今、常闇のただ中にいる。洞窟の中をさまよっての江戸川凛との立ち合いは、いぜん続いていた。
ここまでで延べ二日に渡る過酷な闇闘である。荒行とも言える、この仕合を無造作に仕掛けてきた江戸川凛の底知れぬ実力に、虎千代は密かに感動を覚え始めていた。
(…なるほど)
疲労と緊張のある時点を越えると、尋常でなく感覚が澄み渡ってくる。
この境地まで至れる人間は、ごく限られたものだ。普通の人間なら、このままならぬ暗闇で、一昼夜も過ごせばあらゆる感覚が狂ってくる。
時間の概念のないこの場所ではまず、生理感覚が失調を来たし、そのずれが幻覚や幻聴などの錯覚にも及ぶ。
相手の様子もさだかに分からないまま、手合わせは夜通し行われているはずで、いつ襲われるか分からない緊張感はまず眠気を奪い、その疲労が、精神の屋台骨を揺るがしてくるのだ。
(だがそこを乗り越えると、変わる)
心身共に、不定形の闇に自分が溶け出していくように感じられるのだ。そもそも夜陰を味方にする真味はそこちある。
虎千代は戦国時代人だ。そのためもちろん、現代人より元々、闇には慣れているが、これほどまでに闇に馴染んだことはなかった。
それだけに、この手合わせを望んだ江戸川凛の発想には、感嘆の一言しかない。天然の洞窟を利用して、ここでしか鍛えられないものを鍛えようなどと、真人と同じ現代人である、江戸川凛がまさか、思いつくとは。
「…さすが、早いねえ。もう、『越えた』ってか」
江戸川凛の声が、反響を伴って届く。疲労しきった心身なら、音量も方向も定かではなく、いたずらに動揺しか出来ないはずだが。
続く垂直蹴りを、虎千代はかわした。足元から鼻先を、江戸川凛の爪先が掠めていく。
(これくらいなら、目を閉じていてもかわせる)
虎千代は、ほくそ笑んだ。
実際は明るい場所で放たれても、必死に間合いを取るしか回避する手段はないタイミングだが、今の虎千代なら皮一枚、切らせるか切らせぬかのうちに外せる。
今や、そこかしこに凝っている闇が、自分そのものであるかのような感覚である。
かわしながら虎千代は、右の打ち下ろしを放った。真っ直ぐ踏み込んで、肩口を切り下げる一撃である。
放った斬撃は空を切ったが、手応えがないわけではない。証拠に、影のように飛びすさったはずの凛が、苦痛のうめき声を漏らした。
「木刀で良かったな」
「ちっ」
虎千代が口に挟んだほのかな皮肉を、凛は耳ざとく聞きつけていたようだ。
「…いくらあんたでも、これには参ると思ったんだがな」
「いや、脱帽している。…それにしても、よく思い付いたものだ。…それにこれほどの鍛練、思いついても付き合えるものは長尾の家中にも、そうはおるまい」
「今ほめられても嬉しかねーよッ!」
洞窟じゅうに響き渡る声で江戸川凛は叫んだが、虎千代はすでにその距離も方向も読んでいる。
(…真人が使う止観に近いな)
まったくその通りである。感覚を円のように広げていくこの術は、元々は忍術でもなく、禅道に通じるものだ。禅寺にいた虎千代にとっては、むしろ懐かしい概念であるかも知れない。
(今だ)
殺到してきた江戸川凛の連撃を、虎千代は後退することなく、かわした。こうなれば目をつぶっていても、同じことだ。闇の中にすでに虎千代自身が溶け込んでおり、それがいち早く、実際の肉体を動かしてくれる。
かわしざま虎千代は、退くどころか、どんどん前へ出てくる。
正眼から放たれた小回りのいい刺突が、五月雨が降りかかるように、凛のリズムを乱していく。凛も同じように『乗り越えて』いるはずなのだが、次第に虎千代の剣線を読みきれなくなってくる。どころか気づけば斬り立てられて、後手に回っているのだから、不可解だ。
「おいおいッ!いつの間にか攻守が入れ替わっちまってるじゃアねーかよオッ」
凛もさすがに歯噛みをした。
「何のためにやってるか分からなくなっちまってるじゃーねえかッ!」
虎千代にとってはいい鍛練だが、江戸川凛にとっては、勝負なのである。
「クラアッッ!!」
どうにか態勢を立て直した凛が、渾身の正拳を放ったとき、虎千代はすでに間合いの内で斬撃を放っている。
「ぐっ!」
降り下ろしの斬撃は真っ向、その拳の勢いを殺して止められた。真剣ならば、斬り落とされていただろう。
「引き分けか?」
虎千代が尋ねると、凛は鼻を鳴らした。
「引き分けじゃねーよッ!あンたの勝ちだよ!チックショウ!頭来たッ!」
このとき二日徹夜のテンションが切れたらしい。凛はやけくそになってわめき散らした。
「ああもうッ!やあってらんねえッ!やってらんねええええぜッ」
「そろそろ手仕舞にするか?」
「んなわけねーだろ!休息して再開だよッ!」
凛はうるさそうに手を振った。
「くっそおお!次はもうちょい引き延ばすか!」
「良い修行だな。これならあと三日くらい行けそうだな」
ところ構わずキレまくる凛を、虎千代がからかっていると、油皿に火を灯して黒姫がやってきた。
「そろそろ、休憩で宜しいですか?」
「ああ、そろそろ一度座りたい」
「あと飯だ飯ッ!」
黒姫はてきぱきと、用意してきた食事をそこに広げた。
「食ったらすぐに再開するぜ!」
「ああ、いいだろう」
二人は車座になって、めいめい好きなおにぎりを取り上げる。
「あ、そう言えば連絡事項がありましたですよ」
黒姫がふいに言う。虎千代は、食べかけたおにぎりを置いた。
「もしや真人か!?」
「はい。銅鏡の晴明さまが通信を」
「くらあ!再開するんじゃねーよかよ!?」
「しばし待て!」
虎千代は言うと、黒姫が持ってきた銅鏡に話しかけた。
「晴明どの!早く!」
「そう急かすな。それに良い知らせではなさそうだまず覚悟をしろ」
たちまち銅鏡から闇の中に、人形が立ち上がった。
『…虎千代』
僕にとって、しばらくぶりの再会である。それは無論、三島百震によってすべての計画を狂わされた後だった。




