危険な離脱行!麟美の秘めた望みは…?
玲がこのとき起こした大爆発は、攻勢に乗じていた狐狩たちを沈黙せしめ、いわば反撃の狼煙を上げるのに十分だった。建屋ひとつを改造した爆弾は、想像を絶する衝撃波で辺りのものをなぎ倒し、物量で迫る狐狩たちに大ダメージを与えた。
しかし、である。
ただ、それだけだっただろうか。山容を揺るがすほどの爆発は、辺り一帯に影響を及ぼしていた。それは思わぬ距離の思わぬ場所にも、である。爆風や爆炎のほかに、音響の衝撃波と言うものの影響は意外に強いのだ。
ついせんだっての作戦で僕は、ガソリン満載のトラックを爆弾にしてみせたが。
これとて奥只見の山系に、大きなダメージを与えているはずだった。今、僕たちは、死に物狂いで戦闘を続けている。だから、思案のうちになどあるはずがなかったが。
この深山は元来、人界の存在を峻拒する秘境なのだ。荒ぶる神たちの怒りを畏れる山人が、息を潜めてその機嫌を案ずる聖域なのである。ここでこんな騒ぎを起こして、神々の怒りに触れぬはずがない。山歩きに敏いものなら、とっくにそれに気づいているはずなのだ。
「そちらへは行くな」
既定の脱出路に至ろうとするとき、麟美が二人を止めた。すでに再び、吹雪が始まりかけたさなかである。
「ここは危ないぞ」
言われて虎千代は、目を細めてゆく手を見上げた。
大きく開けた雪原の斜面は、風が吹き荒れている。ここもかなり厳しい登攀ルートだ。雪肌から露出した岩肌や丘を伝って、三人は、先に逃げた廣杉たちと合流するつもりだった。
「でもこの道は、虎千代さんが…」
と玲が抗弁するように言うと、麟美は、その口を塞ぐように返した。
「雪崩に巻き込まれたいか。この斜面を見ろ。灌木一本生えていない」
雪崩が洗い流したあとかも知れない、と麟美は言う。
どの山でも毎年崩落が起こりやすいところには決まっていて、そこには植物が育ちにくくなる。ある程度樹齢を経た林を見付けて通り過ぎた方が、安全性は高まるのだ。
「なるほど。確かに麟美殿の言う通りだ」
と、越後の山を知る虎千代も麟美の言うことを否定しない。
「実はずっと気に懸けてはいたのだ。このところまた、吹雪の日が増えたゆえ。何がきっかけで崩落が起こるや知れぬぞ」
虎千代も麟美も、同意見である。玲が起こした爆発には直接触れないが、雪山での大音響のあとは、雪崩の心配をした方がいいと経験で知っている。
「鳥のはばたきや、木々のざわめきでも雪崩は起きるのだ。…なのにわたしたちはここへ来てからずっと、派手に騒ぎすぎていよう」
雪庇と言われる根雪の固まった斜面に、新雪が積もりに積もって何かのきっかけで崩落するのが、雪崩の正体である。一般的に寒い日より、少しでも気温が上がった日の方が起きやすいなどの予見はあるが、本質的には雪庇しだいなので雪崩はいつ起きるかなどの予想はほとんどつかない。
「一旦始まれば、雪崩から逃れる術はない。ひとたび生き埋めになれば、自力で這い出ることは不可能だ」
雪国生まれの虎千代は、さすがに憂い顔である。
何しろ、いったん雪崩に呑まれてしまえば、雪の下で意識を喪う。このまま春に雪が溶けるまで、見つけてもらえないと言うことなど、雪の多い国では普通のことである。
救援をほとんど期待できないこの状況下で、自力で挽回が不能になる災害に足をすくわれることは、そのまま命取りになりうる。
「安心しろ、満州では、こう言う雪山は何度も渡ってきた。すぐに安全な道を探す」
麟美は言うと、装備を背負い直して歩き出した。
虎千代は追わず、その後姿をなぜか見ていたが、ふいに玲に目を移した。
「大丈夫か?」
「うん、動いていた方が気が紛れるし」
ここまでは無我夢中だった玲だが、疲れと共に、ラウラを喪った重圧が実感を伴って身体に圧し掛かってくるだろう。虎千代はそれを案じていたのだ。
「恐らくは、予定よりも歩く。…このまま上手く、敵と遭遇せずに逃げたとしても、黒姫たちと合流できるのは、日暮れになるかも知れぬ」
「大丈夫だよ、虎千代さん」
玲は気丈に笑って応えた。
「ラウラとも話してたんだ。僕たちはたぶん、夜通し逃げながら戦うことになるって。だから最初から覚悟は出来てる。…それにさっき倉庫でこんなものも見つけたし」
と、玲が虎千代に差し出したのは、雪山では行動食になるチョコレートバーである。
「む…これは、このようなもの、食べられるのか?」
「甘いし、栄養があるから山歩きには一番いいんだよ」
玲は虎千代と麟美の分を手渡すと、自分の分の包みを解いてかじって見せた。
「急ごう。真人くんたちが帰ってくるまでに、ラウラを取り返さないと」
「ここがいい。この崖を伝って歩いて行けば、目的の場所へ行けるだろう」
小銃を担いだ麟美が、そこを見上げた。ここは針葉樹がうっそうと暗い色の葉陰を立ちはだからせる原生林の斜面であった。
「ここなら、隠れる場所が沢山あってむしろいいかも知れないね」
行動食のチョコレートバーの残りをかじりながら、玲が言う。
確かに狙撃手からは身を庇える場所が多いかも知れないが、斜面の足場は濡れた熊笹や篠林が茂っているし、雪まじりの山土はぬめって滑りやすく、いざと言うときに身動きを取れない危険性がありそうだ。
「ここを登りきるにはかなり、体力が要りそうだが、何とかなるだろう。さっき、思わぬ馳走を頂いたしな」
麟美と虎千代は、顔を見合わせて苦笑する。二人は見慣れないと言っていたチョコレートバーをさっき丸一本、あっという間に食べてしまったのだ。
「わたしが、先に入る。何か不審な動きがあれば、合図をするから常に注意をしていてくれ」
麟美は登りやすい箇所を見つけると、木を伝ってどんどん中へ分け入っていく。足場は滑りやすいが、何しろ藪が深く、移動する姿は目立たずにはすみそうだ。虎千代は脇差を抜き、邪魔な篠や青木をさりげなく伐って、玲が続きやすいよう心を配る。
五メートルも斜面を登れば、全員が無言だ。
なんの遮蔽物もない斜面をずっと歩くのも、かなりの忍耐力がいるが、うっそうとしている場所はより神経を使う。次の一歩、次の一歩に障害物があるか否か、足場が無事かなど、目での確認がいちいち必要だからだ。
植物の生えている斜面の土は、栄養状態がよく、肥沃な分、濡れると粘りけのある柔らさを帯び、滑りやすくなる。
また熊笹の根や篠竹は、根が強い。思わぬところに瘤のように、鉄筋ボルトのようなごつごつの節目がついた根が飛び出していることがあるのだ。
玲はたちまち疲労困憊してきたが、先頭にいる麟美もそれほどの速さでは登っていない。未整地の道筋に、何者かが通った痕跡を探しているからである。
「とりあえず今は大丈夫そうだ」
「それは良かった。しかし麟美、よくこのまま方角を喪わずに歩けるものだな」
虎千代は何げなさそうに感心したが、麟美の方はなぜか表情を硬くしていた。
「慣れているからな」
「どうやらそのようだ。で、あるならそろそろ、話してはもらえぬか。わざわざ、この道を択んだ理由を」
「何が言いたい?」
剣呑な気配を察して麟美が、眉をひそめた。
「越後の山なら、わたしが精しい。この方角では、反対方向になりつつある。巧みに方角を変えていたのには、何か理由があるのか?」
と、虎千代は、背後を振り返った。後続する玲が遅れ始めている。
「玲が来る前に、話をしておきたい。…雪崩の話は間違いではないが、ここはなぜ択んだ?」
「…お前たちを裏切る気はなかった。許してくれ。少し付き合ってもらう」
と、追及を受けた麟美が観念の言葉を口にした時だった。
山間に木霊する、狙撃銃の銃声が虎千代たちの耳を突き刺した。
虎千代は反射的に身を伏せたが、麟美は回避動作もせずに立っている。さらなる銃声がして弾丸が、今度はすぐ間近くの枝を落とす音がした。
「どう言うことだ!?」
虎千代の声に、麟美は苦笑して応えた。
「最初に言ったはずだ。わたしが欲するもの。…白豹としての決着だ」




