神出鬼没、黒田兄妹!菊童丸誘拐、その狂った要求とは…
黒田秀忠は病んでいる。
火車槍首の狐刀次がもたらした情報を用いて黒姫は、再び探索を始めたようだ。医家、と虎千代は言っていたが、黒姫はそれとは違った意見を持っていた。
「医家を当たってもそれほど効果的ではないかもですよ。普通の病ならいざ知らず、飛騨の秘伝の霊薬の害は医家には手に負えませんです。恐らくは地の修験者、山人たちに匿われているのではないでしょうか」
これには虎千代も肯いていた。かささぎの話を聞くにつけ、その飛騨の霊薬と言うのは、人の姿形はおろか声や性別まで変えてしまう、人智を超えた恐ろしい薬だ。もしその副作用があるとするなら、普通の医学では手に負えないはずだ。もしかしたら現代医学でも理解不能かも知れない。
「当然のことながら山で開発されたすべての薬は、製作者の秘伝で解毒の方法は配合のあらましを知る者以外は困難なはずです。彼らは諸国の山岳に潜んでいますが、その世界は思ったよりそれほどは広くないのですよ。飛騨から伝手を頼れば容易に線はつながるかもですよ」
黒姫が目をつけたのは、密教の秘術が伝わる比叡山系だ。この辺りは聖域で部外者の立ち入りに厳しく、情報が外に漏れにくい分、潜伏の余地があるのでは、と言うのが黒姫の見解だった。
「黒田の容体が重篤ならば、どこぞの宿坊を借り切って静養している可能性は高いです。血震丸も贄姫もそこからそう遠くない場所に隠れているはずです。それさえ突き止めれば、菊童丸様の行方も掴めるですよ」
そんなとき、比叡山系の四明岳の山麓に怪しい宿坊があると情報をもたらしてくれたのは、かささぎだった。
「恐らくは、盗人宿かとは思うのだが」
修験者には流れ者や犯罪者崩れが多い。
山伏に身をやつした人々は示し合わせてはそうした盗人宿で計画を練り、結託して里に被害を及ぼしたりしたようだ。かささぎが情報をもたらしたのはそうした宿坊の一つのようで、諸国から悪名の高い犯罪者たちが流れ着くはきだめのような場所だと言うことだった。
黒姫の裏付け調査によると、そこに集まる者たちの中に、飛騨山系である有名な薬師の名を見たのだと言う。もし血震丸たちがそれを知るなら、そこで黒田秀忠は死に瀕した身体を養っている可能性は高いと言える。話ではその山寺では、金額次第では長逗留のものも匿うという恐ろしい場所だった。血震丸たちが密かに身を隠すのにも、かなり都合がよさそうだ。
空が荒れ、気候が変わりつつある不穏な日だった。虎千代は僕と黒姫を連れ、その山寺へ乗り込むことにした。僕たちは黒姫が用意した修験者の格好に身をやつしている。
「山岳のものは総じて小利に聡く、抜け目ないです。とりあえずは虎さまはご身分を明かさない方がよろしいかと」
はっきり言って変装に難がある現代人の僕とは違って、虎千代は大名とは言え、子供の頃は仏門にいたせいか、修験者の装束を着ていても、特に違和感はなさそうだ。自然木を模した道中杖の中には言うまでもなく、備前鍛冶無銘の業物を隠している。
「そうだな。黒姫、交渉はお前に任すぞ」
「はいはい、その辺りは万事お任せ下さいですよ。・・・・あ、あのところでものは相談なのですが、虎さまのご身分を隠すためここはわたくしたちは禁断の駆け落ち恋仲、真人さんはその従者を装うと言うのはどうでしょう?」
さすがに突っ込む気もないか、いらっとして虎千代は眉をしかめる。
「黒姫、それかなり無理あるよね・・・・?」
珍しく真面目に話をしてると思ったら持っていきたかったのはその妄想設定か。
「真人の申す通りじゃ。まったく珍しく真面目にやっておるかと思えばかような」
虎千代も黒姫の話を真に受けたのが馬鹿馬鹿しくなったのか、すっかり呆れ顔だ。
「考えてもみよ、女子同士で恋仲などと、もっとも好奇の目を惹くではないか」
「そうだよ」
「そ、そうじゃ。だから・・・・こっ、ここは我と真人が若夫婦の駆け落ち、黒姫、おのれがその従者と言うのが一番よいと思うのだが、どうであろう?」
どうだろうかって。そう、上目遣いでこっちを見られても僕だって困る。
「だからその駆け落ちの恋仲って、一番人目につく設定だよね?・・・・とりあえずさ、人にいちいち聞かれる訳じゃないんだから普通でいいんじゃないかな、普通で」
と至極真っ当な意見を言うと、虎千代はみるみるしゅんとした。
「そ、そうか、つまらんな・・・・・」
「真人さん、ノリが悪いですよお」
「ノリは必要ない」
ったくこの二人は。真剣に段取りを組んでいると思えば、まったく油断がならない。黒姫は前からだけど、虎千代も最近、妄想が暴走するようになってきている。
四明岳山麓と言ったが、かなり広いようだ。深い森を越え、山へ上がる細い道の途中で馬を降りると、早速崖沿いの切所を僕たちは通る羽目になった。道幅が極端に狭くなり、ところによっては人一人通れるか否かと言う危険な場所も少なくなかった。それにしても虎千代と黒姫はそんな場所を苦もなく、越えていく。いつもながらこの辺り、現代人の体力と適応力のつたなさが恨めしくなる。
「あ、あそこですよ」
先導する黒姫が指し示すのは、まるで岩肌にへばりつくようにして設計されている、細長い建物だ。雑草に浸食しつくされて崩れかけた甍に申し訳程度の山門が設けられているが、寺名を示す額にはなにも描かれていない。いや、正確には描かれていたのだろうが、古びて黒ずんだ板は苔蒸してしまっていてそこにあったはずの文字を一文字も読みとることが出来ないのだ。
「土地の噂では、ここはとっくに廃寺であったようなのですよ。そもそも建立は知る限りでは、空海禅師が生きていた折であるとも言われていたそうですが」
創られたのが平安時代となると、この時点でも軽く五百年は経過しているということか。戦火にさらされず今まで残ってきたと言うだけでかなりありがたいお寺のはずだが、立地条件に目をつけられたのか、建立からの意志を継ぐ人たちはすでに闇に葬られてしまっているようだ。色々な意味で危険な場所だ。
傾きかけた山門をくぐると、そこは申し訳程度の小さな境内だ。曲松と梅の木が植えられていたようで、それだけがふてぶてしくまだ、生き残っているようだった。寺自体はとっくに廃寺と言うのは間違いないようだ。人の手が入らなくなって久しいのかどこもかしこも雑草に覆われ、どうにか残った敷き石の跡が本堂へ至る順路の名残りを残しているに過ぎなかった。
それでも虎千代と黒姫は物影に油断なく気を配り先に進む。僕も緊張しながら、その後に続いた。
心なしか傾斜があり、身体が崖の方へ傾いている気がする。まるで寺自体が崖に滑り落ちることを辛うじて免れているようなそんな印象を与える。当然のことながら、僕たちが中へ入ってきても、気配を感じて出て来るような者は誰もいなかった。
「どうも人の気自体がありませんですねえ」
と、さすがこう言うことに聡い黒姫がすぐに見抜く。
「恐らく、盗賊どもがこの立地に目をつけたは本堂の場所ばかりではあるまい」
みよ、と、虎千代があごをしゃくる。
本堂の背後は峻厳にそびえる切り立った岩肌なのだが、大きな自然洞が口を開けていて、本堂の廊下から奥へ続く構造になっているのだ。
「あの奥はいくつもの洞に分かれているに違いない。そこをかつては宿坊となしたのであろう。盗賊どもにとっては自然の要害、盗んだものを仕舞っておく隠れ家には格好の場所よ」
黒姫は欄干を登り、本堂に至る観音扉をこじ開けた。たてつけの悪さはかなりのものだが、幸い鍵などは掛けられていなかったらしい。開けた途端、かび臭い匂いが外気に溶け込んでくる。
「見てください」
僕たちは、黒姫に本堂の様子を確認させる。ひと目みてそこが長い間、本来の目的で使われていなかったことは明らかだ。堂内の床板はほとんど引き剥がされ、給食室の寸胴鍋くらいのサイズの大きな土甕が何個も据えつけられている。深い色の水を口いっぱいまでたたえているその甕の口からはひからびた草やどす黒い汁などが垂れこぼれ、一見して異様だった。黒姫によればここで、煮炊きした薬草を処理していたのではないか、とのことだ。確かに腐敗臭に伴ってかすかに漢方のような匂いがした。
「どうやら普通の盗人宿とも違うようですねえ。奥の洞穴もそうした目的で使われた可能性も高そうです」
「これが、姿を変える薬・・・・・?」
「さあて、秘伝の霊薬と言うものはそれこそ無数にありますからね」
口を突いて出た僕の質問に黒姫は軽くかぶりを振った。
「ただ、ここに長らく潜んでいた人間なら、黒田秀忠や血震丸たちの何らかの援けになったことは、間違いないです。下手をするとここへ人をさらいこんできて、色々と実験などに使った可能性も高いのではないでしょうか」
その話を聞いて、僕はぞっとした。こうまでする血震丸たちの執念の深さがうかがいしれたのもあったが、何より菊童丸のことだ。彼らが菊童丸をさらってどのようにする気なのかはまだ明らかになっていない。意志表示すらも未だないのだ。
ただ一点だけ確かなことは血震丸たちが、血震丸たちはただの身代金目当てに菊童丸を拉致したのではない、と言うことだ。ここが根城だとしたら、相手は危険な薬学実験を躊躇なくするような見境ない連中なのだ。菊童丸が今、どのような目に遭っているか想像しただけで背筋に寒いものが走る。
「そう、悪い方向ばかりに物事を考えるな」
僕の意図を察したか、虎千代がふいに言った。
「奴らとて、そこまで見境なく気が狂っているわけではない」
黒姫も同感なのか、辺りを見回して肩をそばめた。
「まあ、どうしようもない、いかれ野郎どもではありますがねえ。でも奴らなりの筋書きはあるですよ。一見したところですが例の人外蠱毒の行といい、ここで誂えたのは間違いないでしょう。・・・・・・となるとそろそろ、誰かをふん縛ってでも話は聞きたいところですが」
話を突然打ち切った黒姫と虎千代が視線を変えたので、僕はあわてて振り向いた。ちょうど洞窟に続く廊下の下から、誰かが飛び出してくるのが見えたのだ。
さっ、と黒姫が袖を振ると、そこから五寸釘のような手裏剣が迸り出て、地面に深々と突き刺さった。
「ひっ、ひっ!」
ちょうど足の指の先に凶器を投げつけられて、腰が抜けたのかその影は背後にへたりこんだ。それが見たところ、中学生くらいの女の子なのだ。藍色の麻服の合わせを羽織って草鞋ばきなのだが、稚児髪に切り揃えた髪がなぜか紅い。ブリーチしたみたいな鮮やかな色だった。
「お身体が大事でない方がお望みなら、走ればいいですよ。少しでも怪しいそぶりをしたら、足を撃ち抜きます。一人で里へ降りられない身体になりたくなかったら大人しくするですよ」
て言うか少し動いてみろとばかりに黒姫が、悪役風の脅しを入れる。
「我ら、人を探しておる。正直に話せば害は加えぬゆえ、大人しく聞いてもらえるか」
虎千代がとりなすように言うと、女の子はこくこくと肯き返した。
「名は?」
「のっ・・・・・ノアザミ」
「ここに住まうものか?」
大きく、ノアザミという少女は頷き返した。
「おのれ独りか?」
ぶんぶん、とノアザミは紅い頭を揺らしてかぶりを振った。
「老師、おった。の、ノアザミの他にはひとり」
例の黒姫が言っていた奥飛騨の薬師だろう。
「じゃあここはその先生の診療所か何かなの?」
僕の質問に、ノアザミはおびえた目つきで頷いた。
「こ、ここ・・・・・温泉ある。来る人、みな身体悪い。老師、治す。ノアザミ、寧波から買われてきた。老師の代わり、みなの世話する」
どうやらノアザミは日本人ではないようだ。堺で倭寇たちが売り買いする、明人の奴隷だったと思われる。例の奥飛騨の薬師のアシスタント、と言ったところか。
「老師殿は御在宅か?」
「は、はい、ご在宅、だーよ。でも用事、ずっと房に入って出てこない。もうこれで三日が二回」
「ううん?どうも言うておることが判らぬ・・・・・」
「ちょっと任せて」
僕は日本語の不自由なノアザミから、なんとかことの経緯を聞きだした。それによると、どうやらこう言った事情らしい。
ここは秘湯の診療所で、怪しくはあるが里の傷病者を受け入れてきた。飛騨の薬師はものに凝る男ではあったが腕も悪くなかったらしい。知る人ぞ知る評判をとっていた。その薬師はお得意に呼ばれ、しばらくここを留守にした。ノアザミの話では堺に向かったと言う。仕事を終え薬師は堺で薬の材料を仕入れるとここへ戻ってくる予定だった。しかしそれが十日も予定遅れだった。この薬師は怪しげな割にきちんとした男で、滞在の予定を変えることはまずなかったそうだ。
着到した薬師は里から手伝いの者たちに、一人の患者を運ばせていたと言う。ノアザミは帰りがそれで遅れたのかと、一旦は納得した。戸板に乗せられたその男は今にも死にそうな老いた男で、顔を惣面で隠していた。ノアザミから見てもまず助かる見込みはなさそうだったが急病人には違いなかった。
「その男、武家か?」
虎千代の質問に、ノアザミはこくこくと頷いた。病人のため、髪はしばし整えた形跡はなかったが、それは確かに月代を剃り上げた武家の髷であったと言う。しかも額に激しい兜ずれがあったため、ノアザミは何となくその男が戦場渡りの傷病兵だと見たようだ。
「黒田秀忠に間違いありませんね」
虎千代は黒姫と目で頷き合った。薬師はその患者を治すと、お洞に籠もったまま、もう一週間近く姿を見せていないのだと言う。
「今までにもそのようなことあったか」
「はい、老師、とっても辛いだーよ、そのお客さま、ずっと穴の中で治療する。でも夜、必ず出てきてノアザミの作ったご飯、とっても美味しい、いっしょに、食べる。でも三日が二回、全然出てこない。ご飯置いておく、勝手に食べる」
と、ノアザミは手真似で椀から箸で中身を掻きこむ仕草をした。
「分かった。真人、この娘に中を案内させてくれ。黒姫、お前はここにいて誰かが来たらすぐに急を知らせろ。手はず、分かったな」
「承知ですよ」
行くぞ、と仕込み杖を携えた虎千代は僕にあごをしゃくった。言うまでもなく洞穴に入ってみる気らしい。僕はそれを少し時間をかけてノアザミに事情を説明した。
洞穴には御簾が掛けられているが、別段戸じまりをしてあるような場所ではないようだ。本堂の廊下を覗き込むと、どこまでも深そうな傾斜がゆるやかに続いていた。一歩そこに足を踏み入れると、蒸し暑い外界とは打って変わってひんやりと湿った空気に包まれる。いわゆる天然のエアコンが効いているみたいだ。
ノアザミがいそいそと灯明皿を用意してくる。懐中電灯もないこの時代ではこの頼りない火が、ここへ入る唯一の明かりなのだ。
「その男、入ってからは誰も来ぬのか」
「はい。誰も見舞来ない、手紙もない」
だとしたら、病に瀕している黒田秀忠は、この暗い穴に独りきりか。まだ死に方を考える年齢じゃないけど、そんな場所であてのない報せに望みをかけながら、死を待つような孤独な死に方はまずしたくない。
吹けば飛ぶほどの危うい明かりが、僕たち三人を照らしている。ノアザミは危なくないように、各所に用意してあった火のついていない蝋燭に明かりを移すのだが、このぼんやりとした薄闇の中にいると、お互いの距離感が分からなくなってきてひどく不安だ。ぽたん、ぽたん、とどこかで水滴の垂れる音や、ごうごうと何かが蠢く音がして余計に怖い。
「入って右、老師、薬棚、書棚しまってある。この先左に病房、その向こう、降りる道、その先に温泉ある」
この上、沢山の分かれ道があったら引き返したくなったのだが、意外にも洞窟は一本道で、それに付随して個室のような行き止まりの洞穴がいくつもある、と言う構造だった。ノアザミの話では薬剤の保管庫、図書室、診察室に病棟を過ぎると、降りていく道は外の温泉へ続いているらしい。場所はともかく、診療施設としてはそれなりにきちんとはしているようだ。
ノアザミの案内で僕たちは病室の穴に入った。そこは一面に荒むしろが敷かれ、蚊帳やボロ布で仕切りがしてある。病床は三つ、すべて入り口から右側に位置し、中につづらや布団など一通りの生活用具は用意されているのが分かった。
病床、とは言ったが、湯治場の休憩スペースにも見えなくもない。奥の陰になった場所に小さな広場溜まりがあるのだが、そこに藤で編んだ衣装籠が三つ積み重ねてあったのだ。それらがしばらく使われた形跡がないところを見るとノアザミの言うとおり客はいないようだ。一週間ほど前に現れたと言う、その不審な武家の傷病者以外は。
「一番向こう」
と、ノアザミが暗い病床の果てをさす。そう言えば確かにそこだけ、小さく明かりが灯っていた。
虎千代は杖の先で入り口のむしろを払った。僕は入り口に立って虎千代の後ろからのぞきこんだが意外と広い。金の塗りの剥げた破れ屏風が立ち、三畳分の古畳の上が病床だ。その隣、燭台に置かれた皿の火が妖しくおぼめいていた。
「老師殿の姿は見えぬようだな」
灯明皿を持ったノアザミに、虎千代は話しかけた。畳の上に敷かれた布団の中の物体は、こんもりと盛り上がっているが、身じろぎもしない。明かりを近づけさせ、虎千代はそっと布を持ち上げた。
「手遅れだな」
やはり布団の中の者はすでに息絶えていたらしい。虎千代は小さく息をつくと、手元に仕込みを引き寄せてノアザミに話しかけた。
「説明してもらおう。そもそもこれが黒田秀忠であるはずなし」
ばさり、と布を剥ぐとそこから真っ黒に干からびた遺体が全貌を現わした。
「これ・・・・」
すでにミイラ化している。それは死んでかなり経っている遺体だ。だがそれ以上に驚いたのは、
「・・・・女?」
黒髪を振り乱した、遺体は体つきから推しても明らかに若い女性のものだ。これが黒田秀忠ではないのはすぐに分かる。ノアザミが話した、武家の病人とは似ても似つかない。
「お前の話は、どうも辻褄が合わぬことが多すぎる。ここへ連れてきたは何か別の目的があってのことか?」
虎千代の殺気を帯びた視線を浴びて、明人の少女は当惑したように首を振った。かたかたと明かりをもった皿を持った手を震わせ、心なしか足は後ずさりしかけている。不自由な言葉で何か弁解を探そうとするのだが、それが上手く形にならない。彼女が本当に狼狽している様が僕にも伝わってきた。
「と、虎千代、この子は嘘をついてるわけじゃないと思うんだけど」
「黙っておれ」
逃げようとしたりそれ以外にも少しでも、怪しいそぶりをしたなら、虎千代は躊躇なく少女の細い足を斬っただろう。言葉で脅さずとも、その気配は十分にノアザミに伝わってくる。
コクン、と何かが鳴った音を僕が聞いたのはそのときだった。
「伏せろっ」
虎千代の声が降り、僕はノアザミと一緒に遺体の陰に身を伏せた。
次の刹那で虎千代も身を伏せ、その場で抜刀している。
間取りも天井も低い洞窟の中だ。虎千代の剣は馬上で使うためか常寸より長いものが多い。そのため今、逆手で彼女は仕込杖を抜いた。その瞬時の判断が初動の遅れを防いだ。
僕たちがいた病床の隣は、屏風一枚で仕切られている。その奥から二人、小柄な男が瞬く間に飛び出してきたのだ。
一人は短刀、もう一人は鎌のような武器を持っていた。しかし伏せると同時に仕込杖の鞘を払った虎千代は、屏風を押し倒した男たちが殺到する前に攻撃動作に入っている。
ほんの、ひと呼吸、ただ一瞬の差だ。
流れるような、虎千代の攻撃は二回。
横殴りに斬りつけた虎千代の最初の一撃は、短刀を持った男の首筋を割り、二撃目の片手切り上げが鎌を持った男の手首を凶器ごと切り飛ばした。それが、驚くほど速い動作だった。
「ああああっ」
頸動脈を断たれた男が血しぶきをあげて前のめりに倒れると、手首を飛ばされた男の絶叫が洞窟内に響きわたった。
「なっ、なぜ知れたっ」
「膝の関節が鳴ったわ。じっとなりを潜めているものが動き出す、あれはそう言う音だ」
なんと、あの、コクン、という音は膝関節が鳴る音だったのか。それにしても、虎千代に死角はない。刀の持ち手のことといい、それがほんの刹那の判断なのだ。
「名乗る必要はない。血留めが欲しければ話してもらおう。我らをここにおびき出したる者どもの居所をな」
「うおおう・・・・おれの手が・・・・」
泣くような声で痛みを堪え、男はひざまずいたまま虎千代を見上げている。出血を止めなければ物の数分で意識を喪くして死んでしまうだろう。
「そちらも逃すなよ」
腰が抜けているノアザミを振り返って虎千代は言った。そうだ、ここに敵がいたと言うことは、この娘も無関係なはずはないのだ。
「ゆっくりもしていられまい。お前が話さねば、ゆっくりこの娘に訊く。血留めかなわぬお前を助ける義理も意味もない。早く決めろ」
虎千代は有無を言わせない冷徹な口調だ。少女は首を振るとうわ言のように、自分は知らないと言うことを訴えている。ただでさえ片言の日本語が支離滅裂だ。僕から見てもその様子は、もうこれ以上、どんなことを話したらいいか判らず、途方に暮れているように見えた。そんなノアザミに、
「医者はどこへ行ったか。真人、どうにかそやつから聞き出せ」
と、言うと虎千代は男の尋問に戻った。やると言ったらすでに行動は終わってしまっている、そんな虎千代たちとは違う。僕に拷問は無理だ。こんな小動物のように怯えている外国人の女の子から、無理して話を聞き出すことなど出来そうにない。せめて、状況を整理しないと。
どうやらここには黒田秀忠も、血震丸たちもいないようだ。そしてこの少女、どこまで知っているかは知らないが、自分が助手をしていた先生もいなくなり、遺体もすり変わっていてで、本当に動揺している。黒姫みたいに演技の可能性も頭に浮かんだが、こんなに混乱している子をさらに問いただすのは難しい。
僕が近づいただけでノアザミはさらにうろたえ、泣きだしそうな顔で抵抗してきた。
「ちょっ、ちょっと落ち着けって・・・・・と、虎千代、やっぱりこの子何も知らないって」
「いいから逃げぬよう抑えつけておけ。おい、死ぬぞ、これが最期だ。正直に知っていることを話せ」
「・・・・・知らねえ。知らねえんだ」
「話す気はないと言うことか」
「ち、違う・・・・・だから、言ってるだろ」
うつろになった意識の中で男は呻くように言った。だがそれは別に、強情を張ったわけではなかった。震える左手首を持ち上げ、まだ残った手の指で男は虎千代の背後を指したのだ。そこにはノアザミと揉み合っている僕がいる。男の最期の声が僕たちを驚愕させた。
「そんな女は知らねえ」
「真人、そこを離れろっ!」
剣を引き上げ、虎千代は怒鳴った。
ぐいっ、と強い力で抑えつけられたのはそのときだった。ノアザミの手を握ったはずの僕の手首はぎりぎりと押し回されて天井を向いて開き、力を喪った。女性とは思えない、まるで化け物じみた怪力だった。そのまま首を絞めつけられ、僕はうめき声も上げられず激痛に喘いだ。
そうだ、と、僕は今さら気がついた。
飛騨の霊薬。
血震丸も贄姫も、自在にその姿を変えられるのだ。
と、言うことは初めから、探していた奴らの行方は・・・・・?
ふふ、と言う含み笑いを、僕は聞いた。同時に梅の香を感じ、後ろから女にしっかりと抱きすくめられているのを認識した。
「まさか・・・・・・?」
目の前に、ノアザミがへたりこんでいるのが見える。やはり彼女は嘘をついてなどいなかったのだ。
贄姫が化けていたのは、病床の遺体だ。
そこに不可解な女のミイラ化した遺骸があったときに不審さに気付くべきだったのだ。
だが、この異常な変化を目の当たりにしなかったら誰がそれを予期出来るだろう?
そこにかさかさとした皮膚の、獣の口臭のような汚臭を放つ遺骸はもうない。一瞬で遺体から、贄姫は潤いのある若い肉体に戻ったのだ。ひどくしなやかで強靭な肉体に僕は抱きしめられていた。
「お久しく長尾のお姫さま」
女は鉄製の管楽器を思わせる涼やかな声で虎千代に言葉を投げた。
「お美しくなられましたのね。いくさ場で血を浴びて一層、女ぶりをあげられた。あああっ、また一段と殺したくなりました」
ふうっ、と虎千代は大きく息をついた。この因縁がある卑劣ないくさ姫と再び対峙して、感情が抑えきれないとでも言うようだった。
「下賤な犬め。その血でけがれた臭き腸、嗅ぎつけぬことが出来なかったは・・・・・・我が不徳の致すところよ」
虎千代は言った。言葉だけで刺し殺しそうな声だ。
「大人しく降れ。今なら武士らしく果てさせてやる」
それを聞くといかにも愉しそうに、贄姫は口角を持ち上げた。
「お戯れを、姫君。おのれのお立場、まだお分かりになられておらぬようですわね。姫さまの欲しいものがまた一つ、わらわの手の中ですわよ。偉そうに命令できる立場とお思いでして?」
「真人を離せ。傷一つつければお前に、死ぬがましなほどの地獄を見せてやる」
そのときの、凄壮な殺気を帯びた虎千代の目を、僕は生涯忘れることが出来なくなりそうだった。
「つくづく甘いお方。我らとっくに地獄の住人でしょう」
ひゅん、と軽い風鳴りが顔の横を掠めたのはそのときだった。贄姫が持った刀の切っ先が僕の首に突きつけられたのだ。熱い何かが迸る感じがして、首から胸に血が糸を引いて垂れたのが分かった。
「ならばこれはどうでしょう?ここでこのお方の首と引き換えに、菊童丸様をお返し申し上げると、言ったら。天下の御曹司と引き換え、悪くない取引でしょう」
「ふざけるな」
激昂する虎千代の表情と殺気を心から愉しむように、贄姫はころころと笑い声を立てた。それはひどく無邪気でいて限りなく邪悪な、狂気を帯びた笑いだった。
「冗談ですわよ。しかし姫さまこそ、こんな山の奥まで追いかけてくるとは無粋なお方。黒田の父さまの身柄を人質に我らを脅迫するおつもりであったのでしょう。ですが、早めに手を打って正解でした。もう、黒田を追っても無駄ですよ。先ほど兄が連れていきましたから」
「外には黒姫がいるんだ。逃げ場などないはずが・・・・・・」
と言いかけてから僕は、はっとした。洞窟の果ては外の温泉場に通じているのだ。
「さてと、わらわも去なして頂きましょうか。それまでこの子、預からせて頂きますよ。姫さまさえ大人しくされていれば、命まではとりません。場合にはよりまするが」
贄姫は僕に刃を突きつけながら、走るように促す。その後ろを追うように、贄姫は外へ飛び出していこうと身を乗り出した。
「贄姫」
その背中に虎千代は投げつけた。
「必ず殺してやる」
贄姫は肩をそばめて、応えた。
「佳き殺し合いを致しましょう。愉しみにしております」
それから僕は温泉場に出るまで暗い洞窟の道を走らされたが、刀を持った贄姫の監視が厳しくさすがに逃げ出すことは出来なかった。
「まだ殺しはいたしませぬわえ。兄上にも逢うて頂こう。その上で、あのお姫さまに伝言を頼みたいゆえ」
ふふふ、といかにも愉しそうな含み笑いを抑えて、鬼姫は言う。それから僕は、贄姫の不可解な要求に首を傾げることになった。つくづく腹の読めない女だった。
走ったのは五分ほどだ。
道の果てが小さな坂になっていて、そこに温泉が湧いている。その果てに髪の長い若い男がうずくまっているのが見える。
「来たか」
不気味に軋る声を男は上げた。こいつが恐らくは血震丸だ。
「兄上。なかなか面白き土産を召し取って参りましたよ」
「はは、ソラゴトビトか。長尾の姫に取り入って、家でも乗っ取る算段か」
ぎょろり、と切れ上がった眼で血震丸は僕を見る。目が慣れてきた薄闇の中で見ても、二人は鬼そのものの風貌の持ち主だった。血震丸は布で短刀を拭っている。べっとりとそれにぬかるんだ血がついているのが分かった。
「そこに薬師の遺骸がある。後で景虎と確認するがいい。さて一つ伝言は、菊童丸のことよ」
「ぼ、僕に・・・・・?」
ああ、と血震丸は頷いた。
「長尾の連中は、我らが恨みで凝り固まっている。端からまともに話を聞く姿勢はないのだ。まあよそ者のお前なれば、景虎も少しは冷静に訊くであろうからな」
「ど、どう言うことだ」
「率直に言おう。おのれら、菊童丸が欲しかろう。いくらで買うか?」
「なっ」
なんだって?まるで話が見えなかった。菊童丸を売る、だって?僕は違和感を禁じえなかった。だってさっき、恐ろしいほどに怒りの表情を見せた虎千代の気持ちも分かるのだ。金ずくでもなく、こんな非道な行いをなんの躊躇いもなく出来る人間がなぜそんな口調で話をするのだ。
「聞いての通り、年内には現今の義晴公が退位し、将軍の地位は十二歳の菊童丸に譲られるともっぱらの噂じゃ。この幼少の将軍を手中にすれば今度こそ天下は自在に動こうな。洛中、力あるものはこの幼子の取り合いよ。売るならば今であろう」
「・・・・・か、金が目当てじゃなかったんだろ?」
腹が読めない二人を交互に眺めながら、僕は恐る恐る訊いた。
「時と場合によるわ。あの景虎もそうであろう?機を見て敏なるが武家大名よ」
血震丸は鼻を鳴らし、
「まずは今なら三好家の松永と言う男が、この餓鬼を高う買うであろう。貫高はいくらだと言うておったかな」
「確かに、六百貫は出しましょうな」
ふむ、と血震丸は尖ったあごをひねった。
「安過ぎるな。まず倍額はもらわねば」
六百貫と言えば、現代では三千万円ほどだ。さらにその倍とは。僕は息を呑んだ。将軍の息子とは言え破格すぎる。
「千二百貫よ。その値で、菊童丸を長尾家に売ろう。今の将軍家は貧しいが、長尾の本家にその程度の金はあろう。菊童丸を五体満足で返してほしければ、満額でその銭を用意することだと、長尾の鬼姫に伝えるがいい」
「長尾は累代、足利将軍家とも縁が深いですしね。千二百貫、値が決まらねば松永に売りまする。それがならなければ」
「小間切れにして京中にばらまく。公方の御曹司の肉じゃ、野良犬の餌にしては上等じゃろう」
破れるような声で恐ろしい要求を告げると、人外の兄妹は笑う。人の不幸が、流血沙汰が、おかしくて堪らないと言うように。そんな恐ろしいことを新しい遊びでも考えるように言うこの二人はもはやとっくに人間であることそのものを捨て去ってしまった、怪物にしか見えなかった。
「さて、段取りは追って知らせる。話がまとまったら今一度、おのれが景虎の意思を伝えよ。そうじゃな・・・・・・まず三日、そこで返事を聞こう。そちらから連絡は無用ぞ。使いはこの贄姫にやらせるゆえな」
「いつなりとあなたの元へ現れましょう。今度は驚かぬようにな」
兄の言葉を受け、贄姫は僕に笑いかけた。まるで毒蛇に身体を這われたような、不気味で強烈な悪寒がした。




