七九尾屋(しちくびや)政談!火車槍首の意外な正体に愕いたのは、僕!?
下京町にある湯屋『七九尾屋』にて、ある男が会談の一座を設けたい、と言う。
その報を持ってきたのは、やはり黒姫だった。
「この男が我に会いたい、と」
黒姫が差し出した狐刀次からの文を見て、虎千代は眉をひそめた。
「貴殿に得のあるお話、とここには書いてあるがな」
虎千代は僕にも文を見せてくれたが、この時代の楷書は崩し字な上にかなと漢字混じりで余り読みやすいとは言えない。しかし差出人の名前には見覚えがあった。
「火車槍首の狐刀次って・・・・・・」
僕も、はっ、と息を呑んだ。
「かささぎが上げた朽木谷を狙う足軽頭の一人に名前が挙がっていた男よ。話に聞くと、なかなか利に聡い男のようだが」
小さく鼻を鳴らすと虎千代は、一緒にいたかささぎにも文を回した。かささぎはそれを一瞥すると、
「誘いに乗るのはいいが、油断は禁物だぞ。この火車槍首の足軽大将は、日和を見て裏で誰とでも通じる表裏のある男だ」
「どう思う、黒姫」
「そう言えば、そもそも暮坪道按に通じて童子切煉介を野洲細川家に売ったのもこの狐刀次でしたしねえ。かなりきな臭い上に、胡散臭いとは言えます。ただ危急の折、顔を出してみるのも得策かと。特にわたくしたちが困っていることを知っていて、機会を見計らった上で話を持ちかけてきているような気もしますし」
黒姫も同意見のようだ。ちょうど菊童丸捜索は袋小路に至っていた。軒猿衆もかささぎたちも打つ手は打ちつくしている。突破口を見失いかけているところに、機会を捉えたようにと言えば、あまりに出来すぎているのだ。
「ゆくしかあるまい。この文には用件が書かれておらぬゆえな、かささぎ、お前も顔を出せるな?」
「ああ、どこへでも連れて行ってくれ」
さすがに迷いがない。決断は早かった。すぐに虎千代は支度を命じた。
「真人、お前もこれを持って行ったらどうだ」
出がけ、ぽん、と虎千代は手入れの終わった小豆長光を僕に手渡してくる。
「いいよ、これ。僕が持ってたところで何も出来そうにないから。それに何度も言ってるけどこれ、虎千代のものだしさ」
「話が見えぬな」
虎千代は不思議そうに首を傾げた。
「なんて言うかさ、それは僕の父親が探してたものなんだ。上杉謙信の刀として」
「うん、んん?」
うう、説明が難しい。今の虎千代に、川中島合戦や武田信玄の話をしてもぴんと来ないだろうし。
「だからさ、僕がこの刀を欲しがったのは自分が使うためじゃなくて」
と、僕はなんとか言葉を選びながら、言った。
「もともと僕はその刀に興味があるのは・・・・・・・それが、もしかしたら僕たちがいた時代のことと、関係があるのかも知れないからなんだ。前にも言っただろ、時間を超えてきたときの記憶がないって。その刀はそれを思い出す手がかりになるかもなんだよ。だから出来れば虎千代に持っててもらいたいんだ。たぶん、虎千代がこの刀を使えばもっと、記憶を思い出す手がかりが出来るかも知れなくて」
「そうか」
虎千代は形のいい唇をすぼめると、少しうつむいた。
「・・・・・つまり、お前はそれほど現代に帰りたいのだな」
「・・・・・・あ・・・・・・」
さすがに鈍感な僕でも気づいた。今口に出してしまった言葉が、婉曲に何をほのめかしてしまうことになるかを。僕は虎千代が怒ると思った。しかし、彼女の反応はそんな一様のものではなかった。ほんの一瞬、とても切なそうに顔を歪めると、
「だったらその刀、なおさら我が佩くわけにはいかぬ。・・・・・・お前が要らぬと言うなら、売り払うなり、死蔵するなりすればいい。いっそ二度と我が目に触れぬよう毀ってしまえばよい」
「そんな・・・・」
僕は何か、言おうとしたが、虎千代に視線で留められた。
「とにかく佩かぬならそれはどこかへ仕舞ってくれ。今日はもう、そやつの顔は見たくない。だがお前を無腰で出すわけにはいかぬ。今、別の太刀を選んでやる」
七九尾屋へ向かう刻限は、夕刻だ。虎千代は武装を整えたが、軍勢は率いず、徒歩で向かう。供はかささぎに黒姫、そして僕と鬼小島の五人だけだ。
「むっふふう♪」
僕と虎千代の異変に気づいたのは、やっぱり黒姫だ。出掛けのやり取りを見ていたのか、いつもと違って互いに視線を合わせないようにしている虎千代と僕の間に立ってふらふらとした足取りで舞いながら不気味なくらい上機嫌だ。
「おっふた方っ☆どうかされたのですかっ、今日はなんだか相性が悪そうですねえ。真人さん、虎さまに何か無礼をしたですか」
黒姫は自分が地雷原を歩いていることに、まだ気づいていないらしい。僕は何も言わなかった。極力その件については答えたくない。今なんて言っていいのかも、分らなかったし、これ以上不用意に、虎千代を傷つけてしまうことも避けたかった。
「ああああっ、もしかしてこれはっ、ついに来るときが来たのではないですか?虎さま、真実の愛の在り処に気づかれたのなら、何も躊躇することはないのですよお。黒姫、そちらも頑張りますですよ。ぜひぜひ、今宵こそ、わたくしと、募る想いを遂げませんかっ」
「黒姫」
と、虎千代は黒姫が真っ青になるほど怖い声を出した。
「少し黙れ」
「ひいいいっ」
ついに地雷を踏んだらしい。みるみる黒姫は涙目になった。
「ううううっ、こんなにお慕い申しあげておりますのにい、どうしてわたくしの愛はいつも通じないのでしょう。愛することが罪だと言うですか・・・・・」
虎千代は、やっぱりまだ機嫌が悪いようだ。今は言葉が見つからなくても、後でどんな形でも、ちゃんと謝っておかなくちゃ。ますます僕もうつむきそうになった。
「黒姫の調べでは七九尾屋が根城と見えるが」
と、虎千代は不機嫌そうに話を変えた。
「・・・・かささぎ、肝腎の火車槍首の狐刀次だが、直接の面識はあるのか?」
ああ、と、かささぎは短く頷いた。
「朽木谷にいるとき、顔は見た覚えがある。向こうがわたしを知っているかは別としてもな。そもそもはわたしが斃した九重傷の久慈右衛門や童子切煉介などとは、とても比較にならぬ大きな足軽集団の元締めと訊いている」
つまりはこの業界では大物、と言うことだ。
そんな男の根城に相応しく七九尾屋も、東洞院七条下ル、京都を代表する歓楽街の中心に居を構えている。
この辺りはもともと室町時代に足利義満が公認した歴史ある色町だったそうで、江戸期に場所を移して、『嶋原』を称した。嶋原と言えば現在の八坂神社門前に広がる花街、祇園とともに古今、王城を代表する遊興スポットだ。
現在では花魁や茶屋の文化が残る祇園の方が有名だが、嶋原は格式の高さで名高い。幕末の倒幕派維新志士のほとんどはこの嶋原の馴染み客であり、新撰組なども出入りにしていたそうだ。二つの赤い輪をかけあわせた特徴的な屋号の輪違屋は現在も茶屋として営業を続けているが、幕末小説の舞台としてもたびたび登場したりしている。
七九尾屋は、この辺りでは新しい店のようだ。
かなり大きい居館のような平べったい木造の二階建ての建物が、通りの一角を無遠慮に占拠している。表の灯篭には、店の定紋が入っているがこれも異様なものだ。狐が座り込んでいる形を象った影絵のようなものに、右に七つ、左に九つの尻尾が飛び出している。火車槍首の狐刀次はそこの居候なのかと、僕は煉介さんとくちなは屋の関係から勝手に想像していたのだが、黒姫によるとどうやら狐刀次の持ち物だと言うから驚かされる。
京都はすでに室町時代辺りから、富豪の町衆の力が大きかった。例えばのちの嶋原になるこの遊興街も組合のような組織があるので新規参入は中々難しいのだが、戦国の世とは言え、見たことのない屋号の湯屋を由緒ある色町のただ中に経営して問題にならないあたり、火車槍首の狐刀次と言う男の権力は、足軽大将風情にしてはかなり巨大なものなのかも知れない。
「入るぞ」
しかし、虎千代、女の子の癖に堂々とその手の店に入っていく。僕たち一行は女性比率が高いため、暖簾をくぐった瞬間、案の定他のお客のびっくりした顔に囲まれた。
「約束をしている。火車槍首の狐刀次に会いたい」
取次ぎの人は事情を知らなかったようだ。怪訝そうな顔をしたが、客として来るはずのない女の子が大挙して湯屋に顔を出したことに常ならぬ感覚を抱いたようだ。急いで奥へ引っ込んだがあわてて戻ったときには、不自然な笑顔が顔にへばりついていた。
狐刀次は離れの広間で酒を飲んでいるらしい。取り巻きらしき男たちが車座になって騒いでいるのですぐに分かった。彼らは一様に、歌舞伎役者のように顔に化粧を施し、赤や黄色、目に痛い原色の狐の尾を模した衣装に身を固めていたのだ。紅いその集団は確かに目立った。
「おうおうこれはいかい佳き雌どもよ、かような場所になんの用じゃ。抱かれに参ったか」
「こなたに座って酌をせい、後で摩羅の相手もしてもらおうかのう。おう、ほれここじゃここじゃ」
男たちは立てひざの下に置いたかわらけの酒を煽っては、めいめいに通りすがる虎千代を好奇な視線で眺める。中にはあからさまに露骨な野次を投げかけるものもいた。
虎千代が男たちの中心、上座の席に人がいることを知って、そこへ向かって歩きかけたその時だ。
「おい。薄汚ねえ口利くのはやめねえか」
どすの利いた、押し殺した声にぴたり、と野蛮な男たちの席が野次を鎮める。
それは思わずどきっとするほど迫力のある声だ。
やはり上座に一人の男が、立て膝をついて酒を飲んでいる。
「あんたがそうか」
と、平然とした口調で虎千代は語りかける。見下ろされた男は片頬に嘲るような笑みを浮かべた。
「よく来てくれたな」
尊大な調子で話しかけると、男は反対に虎千代を睨み上げた。
上座の狐刀次は三十代前半、意外な細面の人だった。色白で切れ上がった、油断なく動く狐目がその通り名の由来らしい。一見痩せてはいるが鍛え上げられて硬く締まった肉体と言い、どこか現代的な風貌が感じられる人だった。今は紅い着流しに、ひっつめた髪を束ねて後ろに垂らしているが、スーツを着て銀縁の眼鏡でも掛ければ、切れ者の、若手経営者に見えなくもない。
「貴殿が、火車槍首の狐刀次か」
眼だけで肯き、狐刀次は手元の杯を干した。
「こんな場所しか用意できなくて、悪かったな。おれの手下は昔っから何しろ下品な連中ばかりなんだよ。それなりの教育はしてあるつもりなんだが」
狐刀次は肩をすくめるような仕草をすると立ち上がり、虎千代に向かって右手を差し出してきた。ごくその自然な仕草を目の当たりにしたとき、僕はその違和感からある種の予感がして思わず息を呑んだ。
「やっぱり、通じやしねえか。俺からしてもあんた、有名人なんだけどな。まさか上杉謙信がこんなかわいらしいお嬢さんだとは、考えもしなかったけどよ」
ぴくり、と、虎千代は柳眉を立てた。
「なぜ、その名を知っている」
はは、とはぐらかすように、狐刀次は鼻の頭を歪めて笑った。
「まあ、あんたに言っても分からねえさ。でも、あんたの隣にいる小僧なら、ぴんと来るんじゃねえのか」
狐刀次が、意味ありげに見たのは僕だ。次の言葉をつぐ間もなく、腕を組んだまま狐刀次はあごをしゃくった。
「さて、こんなとこだが静かに話す場所は準備が出来てる。来いよ」
さっさと狐刀次は廊下を歩き出している。それに数名の配下が付き従った。
「真人・・・・?」
虎千代は僕を見て首を傾げる。
「不思議な、奴ですねえ・・・・・真人さんに何か関係あるですか?」
黒姫たちも不思議そうに首を傾げているが、僕にはそれで判った。狐刀次の声が降る。
「さあ、遠慮は無用だ。おれの本当の城へ案内するぜ」
「本当の城・・・・・?」
まさかと思った危惧が、的中しようとしていた。
「さあ、どうぞ」
と、狐刀次は部下に引き戸を開けさせた。中をみて僕たちは思わず言葉を喪った。
そこはもちろん、戦国時代の板の間などではなかったからだ。
虎千代はびっくりしたのか、思わず僕の裾を掴んだ。
「なっ、なんじゃここは・・・・・」
それはビル街にある、普通のオフィスだ。フロアは十畳程度と言ったところ。薄い灰色のカーペットが敷かれ、真新しいニスを上掛けした木製のクローゼットや天井に、革張りの黒いソファとテーブルの応接セット、そしてモバイルが置かれた事務机が数台にパーテーションで仕切られたロッカールーム。社員十名前後の会社事務所と言ったところだ。しかしそこが普通の会社事務所ではなかったはずだと言うことは、奥のひと際立派なデスクテーブルの後ろにこれみよがしに置かれたもので分かった。
そこにあるのは大きな神棚と、黒漆地に金の象嵌で染め抜かれた、十六尾の狐の代紋だった。これは普通の会社には置いてはいない。これはいわゆる、その手の人たちの事務所にあるものだ。
「一応念のために言っておくが、会社は堅気だった。あの看板はこっちに来てから造らせたんだ。代紋だの、刺青だの、それっぽいことしない方が、得なんだよ。だから、そう構えんでもらえるかい」
狐刀次は油断のない目のまま、口元だけ笑うと試すように虎千代と僕を見た。僕はまだ信じられないと言う風にこの男の顔を見つめていた。
つまりなんとこの火車槍首の狐刀次は、現代人なのだ。
「この世界に来て、三年てところか。えらい目にあったぜ。おれもここで仕事をしてたときにこの部屋ごと、こっちへ飛ばされたんだが、まあ何も憶えちゃいねえ。よく、生き残ったもんだ」
と、狐刀次は述懐するように言う。僕と同じだ。この人もある日突然、なんの前触れもなしにこの時代に放り出されたのだ。やっぱり、僕だけじゃない。この世界に来たばかりのとき、煉介さんも真菜瀬さんもタイムスリップしてきたという人間を見てもあまり驚かなかった事実も実感できる。初めて会って、思わず面食らってしまったが、そう言う人はかなりの数いるのだとも聞いてはいた。
「こんな妙な場所にまで我を連れ込んだは、何が目的か。まさかこの、真人に用があると言うのなら、話の次第ではただでは済まさぬぞ」
ぐっ、と柄に手を当て、虎千代は言った。
「おい、待てよ。そんな話で呼んだんじゃねえ。純粋に取引の話だ。ここにあんたらを連れてきたのは、ただ驚かしてやろうと思っただけさ。どうも、上杉謙信がおれらと同じ時代の人間を舎弟にしてるらしいって言うからよ」
「こやつは舎弟ではない。言葉に気をつけよ」
「気の強え女だ」
背中を屈めて虎千代を覗き込むと、狐刀次は言った。
「信長をびびらせた、って言うのは伊達じゃねえってことか」
声だけで狐刀次は笑うと、革張りのソファに背中を預けた。虎千代たちにも座を勧め、自分は袂から何かを取り出して卓上ライターで火を点ける。見たところ手巻きの煙草だ。
「わけがわからねえまま五百年も昔に飛ばされてきたが、見ての通り、別に不自由はしてねえ。テレビはみねえ仕事以外じゃパソコンは使わねえし、つまらねえ用事で上から電話をかけられることもなくなった。色々自由でいいんだよ。逆に戻りたくもねえくらいだ。ここじゃ、堅気のふりしなくたっていいし、何よりどんなことしたって後ろに手が回る心配もねえしな」
ふーっ、と煙を吐きながら、狐刀次はにやつく。ちらちらと、狐刀次が裏社会をちらつかせるのは、もともとの商売柄の癖が抜けていないせいだろう。自分の脅しがどれほど影響を与えているか推し測ろうとするように、自分の目の前に座った虎千代たちの様子を見澄ましてくる。しかし当人たちはちょっと当惑した面持ちだ。
考えてみればこの時代、堅気もやくざもない。女性とは言え虎千代とかささぎは武士で、黒姫に至っては忍者だ。いかにも現代風の法に触れないようにする癖のついた、狐刀次の微妙な脅しもほのめかしもあまり効果を挙げなかったように見える。
「小細工の多い男だな」
拍子抜けしたように鼻を鳴らすと虎千代は、ため息をついた。
「得があると言うから来た。見知らぬ顔と、落ち着かぬ場所で雑談する義理も理由もない。用件があるなら手短に話してもらおうか」
「分かったよ。単刀直入に言おうじゃねえか。そもそも手間のかかる話でも、まどろっこしいことでもねえ。ただ、買ってほしいものがあるんだよ。それだけだ」
怪訝そうな顔をした虎千代に、押し被せるように狐刀次は言った。
「あんだろうが。失くしもんが。喪ったら二度と、取り戻せない」
「やはり何か知っているのか」
かささぎが色めき立ったのを、虎千代は腕を伸ばして制した。
「直截に、と言うたな。お前が菊童丸の身柄を握っているのか」
「だとしたら、どうする?」
ふっ、と虎千代は片頬に皮肉げな笑みを覗かせた。
「かどわかしで身代を寄越せと言うか。足軽大将風情にしてもこれだけの財と権力を持つ、お前の生業にしては話が小さくないか」
「おいおい、将軍の息子だろうがよ。無事じゃなきゃまずいんだろ」
狐刀次は殺気を放ちだしたかささぎを横目で見ると、火のついた煙草をテーブルの端にあったクリスタルの灰皿に押しつけた。
「単刀直入に、とは言ったが、内情はそれほど単純じゃねえんだ。ことと次第によっちゃあ、おれらで将軍の息子の身柄押さえられる。そん時、あんたらはガキをいくらで買うのか、その値を聞いてるんだよ」
少し、虎千代は考えた。
「一応聞くが、かどわかしたものに憶えがあるんだろうな」
「うちの身内だ。今は行方を晦ましちまってるがな。これでも責任は感じてるんだ。奴らが持ち掛けてきた話とは言え、菊童丸を拉致するように命じたのはおれだからな。こっちだって、せっかく描いた絵図も台無しだしよ」
「お前はお前で、何かよからぬことを企んでいたようだな」
「まあ、そんなところだ」
「長尾殿、わたしはこやつを斬る」
堪え切れなくなったように柄に手をかけると、かささぎは立ち上がりかけた。
「落ち着け。そんなことをしてなんの意味がある」
刀を抜きかけたかささぎを、物憂そうな目で狐刀次はねめ上げた。
「まったくだ。こっちのお嬢さんはさすがに話の分かる方だよ。・・・・そんだけ心と頭が冷えてなきゃ、戦国大名は務まらねえわな」
どこか揶揄するように言うと、狐刀次は自分の胸を指差した。
「おれは確かに後ろ暗いところを歩いちゃいるが、とりあえず本職は実業家だったんだ。ビジネスの世界は小回りの利きが生き死にを左右する。どこでどう、小道を曲がっといたかで十年に一度来る、大きな転換点を迂廻路から、立ち止まらずに進めるようになってるんだ。この世界もおんなじだな。おれはたまたまこんな暮らしを出来ちゃいるが、一歩間違えれば十年したら一文無しになってるかも知れねえ。これまでだって一歩間違えりゃそうだったんだ。あらゆる手を打つのは当然だろ」
「なるほど。利に聡いと言う評判は嘘ではなさそうだな」
「あんたもな。そこまで醒めた女だとは思いもしなかったが、いい根性してるってとこだけは史実通りだ」
「肝腎なのは血震丸と贄姫だ。この二人の足取りは掴めているんだろうな」
「ああ、いくつか立ち回り先は抑えてるよ。あいつらは二人組だが背中にゃ、爆弾抱えてるんだ。身内に病人がいてよ。だからそう足回りは軽くねえ。そいつの身柄さえ抑えりゃ、すぐに奴らから顔を出すだろうよ」
「病人がいるとな」
狐刀次は次の煙草をくわえて火をつけると、煙を吐いてにやついた。
「あいつらの親父だって話だ。国元じゃかなりえらい武家さんだったんだろうが、足腰立たなくなっちゃおしまいだな。一度見たことがあるが、顔もぐずぐずに爛れちまって陽の高いうちは表を歩けたもんじゃねえ。今そっちの足取りを追ってるところさ」
その情報に何か糸口を見つけたのか、虎千代の顔に初めてそれらしい笑みが浮かんだ。
「そうか、それは好いことを聞いた」
「将軍家にとっちゃ、菊童丸は命綱だ。身内の義維に将軍職を掠め取られちゃ堪らねえから、義晴はこの冬には朽木谷に関係者を呼びよせて、菊童丸をさっさと次代の将軍にしちまうらしいぜ。だからあれだけ必死こいて守って、今になってこっそり京都から連れ戻そうとしたんだろ。違うか?」
「今の話は本当か、かささぎ」
虎千代はふとかささぎの顔を見た。毛の一本まで逆立ちそうだったさっきのかささぎの様子はなりを潜め、石のような無表情になっていた。
「しかし解せぬな。その流れではお前、菊童丸をさらってその両陣営へ高く売る気であったのだろう。直接、朽木谷の将軍家か、堺に義維を擁する三好家か、いずれか高い値でな。今でも菊童丸の身柄が手に入れば、同じことができるはずだ。それがなぜ、わざわざ我に話を持ちかける?」
少し、狐刀次の応えに間があった。
「説明は難しいがしてやるよ。大事な話だからな」
ふーっと煙を吐くと、狐刀次は虎千代の目を見据えて言った。
「まずさっきも言ったが、おれは現代人なんだ。雑誌だとかマンガでやってる歴史物もたまーに見れば、戦国時代のことだって多少は知ってる。そこの小僧があんたになにを話してるかは知らねえが、あんたらよりずっと先のことは分かってる。だからよ、きちんとこれからもここでシノいでいきてえんだよ」
狐刀次は自慢げに言うと、背後のソファに腕をもたれた。
「この将軍の跡目争いだって、京都はごたごた狭いところでやってるが、あと十五年もすりゃ大きく替わる。織田信長ってやつが上洛するんだよ。今のあんたらに言ってもよく判らねえだろうがな。ともかくそいつが今の京都を何から何まで、滅茶苦茶にしちまうんだ。そんときまでにこっちも力が要る。恩を売れるところには目一杯売っとくに越したことはないだろうが。ああ?」
「どう言うことだ」
そうか。虎千代は首を傾げたがその狐刀次の言葉を聞いて、僕はすぐにぴんときた。織田信長と上杉謙信、この男は天秤にかけようと言っているのだ。
「織田信長ってのは理屈の通じない男だ。あいつの下目へ入ったら、身ぐるみ引っぺがされて最期は消されちまう。そんな上はおれらの時代にも何人もいたよ。その点、あんたは違う。義理は立てるし、弱り目の人間だって見殺しにしたりはしねえ。恩は売り得だ。だから、あんたには越後の軍勢を率いてとっとと上洛して欲しいんだよ。で、信長を一番にぶっ殺しちまってくれりゃおれは安泰だ」
「その信長と言う男のことはよう知らぬが、闘う名分がなくば無駄ないくさをする義理はない。なぜ我に頼むか」
ふふん、と鼻の頭にあざけるような皺を浮かべると、狐刀次は独特の史観を語り出した。
「信長って男は上杉謙信に一番にびびってたのさ。もう一人甲斐に武田信玄と言う男がいたが、信長は信玄が死んだらさっさとその国を滅ぼしちまってる。でも、あんたのいた越後は出来なかった。なんでだか分かるか?あんたが率いた越後の野郎どもが恐ろしいからよ。織田の兵隊は、あんたらだけには完全敗北を喫してるんだ。小僧、お前も知ってるだろ」
話を急に振られて面食らったが、僕はこくり、と頷いた。
手取川の戦いだ。信長は戦闘に直接参加しなかったとはいえ、名将柴田勝家をもって上杉謙信にあたったこのいくさで織田勢は完膚なきまでに追い落とされ、信長は様々な懐柔策をもって謙信を宥めたのだ。
もし謙信が、だ。上洛の意思をもっと早くから改め、信長を阻んでいたなら、どうなったか。歴史にもしもはない。だが、確実に歴史は変わっただろう。しかし、恐ろしいことを考えるものだ。この男は自分で都合のいいように歴史を変えるために、虎千代を利用しようと言うのだ。
「くだらん」
ふん、と、虎千代が鼻を鳴らしたのはそのときだった。
「我は我。長尾景虎と呼ばれようが、上杉謙信などと呼ばれようが、おのれの信における者を信じ、おのれの分を知り道を選ぶまでよ。おのれごときの指図は受けぬわ」
「なんだと?」
「同じ、ソラゴトビトでも肝が違うな」
と、虎千代は僕の腕をとって言った。
「この真人は一度とて、我にお前のような下卑た話はせなんだ。先のことはどうあれ、おのれの道はおのれで選ぶべし、そう勇気づけてくれたものよ。この大名の道、天道必定の歩みかも知れねど、おのれで選ぶ一心あらば、何を惑うことやはある。先の見通しがどうの、未来はこうなるなどと、片腹痛いわ」
「なんだと・・・・・・?」
「腐れた謀略は、腸の饐えたもの同士でするがいい。これ以上は付き合いきれぬ。話は終わりなら、往なしてもらうぞ」
きっぱりと言い放つと、虎千代は敢然と立ち上がった。
「待て」
刺すような狐刀次の短い威しの声が飛んだのは、そのときだ。その声とともに狐刀次が虎千代に向けたものを見て、僕は思わず息を呑んだ。
それは、拳銃だ。
九ミリ口径のオートマティック。メタルフレームの銀色の銃身がぎらついて、事情のわからないものにも一瞬でそれと分かる、不気味な威圧感を放っていた。
「弾丸は入ってる。いくら腕が立とうと、こいつで弾かれりゃいちころだ」
確かに虎千代とは言え、この至近距離で、弾丸を防ぐ術はない。
「こいつは火縄銃とわけが違うぜ。連射が利くからな。穴だらけにしてやろうか」
狐刀次の合図で戸口にいた屈強な男たちがわらわらと集まってくる。ソファの後ろに立っていた鬼小島の動きを封じようと、男たちは不穏な気配を漂わせていた。
「座れ。まだ話は終わってねえ」
たっぷり間をとって拳銃を誇示すると、狐刀次は言った。
「いいか、おれがいいって言うまでこの部屋は出られねえぞ。なんなら、もてなし方を変えたっていいんだ。あんたに敬意を表して穏便なやり方をとってきたが、小娘の分際でふざけた口利くんなら話は別だ」
「小娘だあ?」
色めきたったのは今度は鬼小島だったが、自分の背後に立った男をみて動きを停める。それは一九〇センチある鬼小島よりもさらに背の高い、屈強な大男だった。
「極道なめんなよ。武士だからって調子くれてると痛い目に合うぜ」
勝ち誇った笑みで片頬を歪めて、狐刀次は虎千代に銃口を突き付ける。完全な膠着状態だ。虎千代を標的にされながら鬼小島は牽制されているし、黒姫もうかつな動きは取れない。どうする。こう言うときは。いや、現代人として僕にだって出来ることはあるはずだ。
(なんとかしなくちゃ)
僕は背筋に寒いものを感じながら必死に勇気と知恵を振り絞った。
「小僧、こう言うときはどうするもんだか、戦国のお嬢さんがたに教えてやれ。両手を頭の後ろに、その場にひざまずくんだってよ」
(あっ)
その言葉に僕は、はっと息を呑んだ。そうだ。一か八かの賭けだが、やってみる価値はある。僕は勇気を振り絞っていってみた。
「その必要はない。だって、撃てやしないだろ。あんただって分かってるはずだ」
「あん?」
その銃、と僕は指を差していった。幸い狐刀次から、あまり見えない位置に僕は立っていたのだ。
「安全装置が掛かったままになってる」
見え透いたはったりだ。映画の台詞をパクって言ってみたのだが理由はあった。なぜなら銃を取り出すとき、狐刀次はロックを外す仕草をしなかったと僕は記憶していた。どんな銃に扱い慣れていないものでも、安全装置をかけないで懐にしまう人間はいない。だから狐刀次にも思い当たるふしがあるはずなのだ。
案の定。
次の瞬間、思わず狐刀次は視線と銃口を虎千代から反らしてしまった。
その一瞬を見逃す虎千代たちじゃない。すかさずかささぎの突き出した鞘が、狐刀次の拳を叩き、拳銃を吹き飛ばした。
「げっ」
ターン、と甲高い炸裂音がして銃口から拳銃が飛び出した。暴発したのだ。弾丸は天井に突き刺さり、下からでもよくみえる真っ黒で深い穴を開けた。それを見たらこっちもいい加減、肝が冷えた。
その間に黒姫は武器を構え、鬼小島の背後の死角に寄り添っている。
「何へまってるですかっ、お陰で真人さんに、いいとこ取られてしまったではないですかっ。こっちもとっととやるですよ、でかぶつ」
「るせえなあ」
鬼小島は首を傾けて骨を鳴らすと、拳を固めた。
「ったく、こんな壁みてえなの連れてきやがって。俺様より頭が高えじゃねえか」
素手だ。刀を使う必要はない。そう判断したらしい。なんとそのまま、自分より頭一つ背の高いその男と対峙した。
「野郎っ、ぶっ殺してやるっ!」
「はあっ?」
勝負はぶっ殺す、と言うほどの死闘にはならなかった。拳を突き出してきたその大男の頭を鬼小島は片手で抑えつけると沈みこめるようにして顔面から、地面に垂直に投げおろしたのだ。重たいダンベルを二階から落としたような音がして一瞬でカタがついた。
「おらあっ」
まったく尋常じゃない怪力だ。
真っ向から地面に墜落させられた男は折れた歯を吐き出して、苦痛にうめく。すかさずその肝臓を狙って鬼小島の体重の乗った爪先が踏み込みざま突き刺さった。
それでもう男はぴくりとも動かなくなった。
「なんだ、でけえだけか」
「やっ、やめろっ」
形勢は一気に逆転した。唯一の武器を喪い、屈強な部下をこともなく倒された狐刀次は恐怖に目を剥いて、ばたばたと後ずさりを始めた。黒姫と鬼小島に阻まれて、部下たちも狐刀次を助ける間もなく、逃げ散りだしている。誰も救いはしない。
「さて」
虎千代は息をつくと、僕に銃を拾ってくるように言った。僕がその重たい拳銃を虎千代の小さな手のひらに渡すと、彼女は不思議そうにその拳銃を試すすがめつしながら、狐刀次の前に歩み寄った。
「まっ、待てっ!悪かったっ、頼むっ殺さないでくれっ」
「小娘に命乞いか」
足腰が立たなくなってしまったのか、後ろに両手をついて狐刀次は完全なパニック状態になっている。拳銃を手にした虎千代は氷のような冷たい目でそれを見下ろした。
「ふむ。これはなかなか面白き玩具よ」
引き金を見つけた虎千代は、銃の仕組みを十分に理解したようだ。たぶん戦場に詳しい彼女なら、火縄銃より易しい拳銃の扱い方などすぐに分かったに違いない。
しかしそれで、狐刀次を撃つような真似はしなかった。銃口を反対側に向けると、グリップを狐刀次の前に突き出した。
「しっかり持ってろ」
おずおずと狐刀次が両手で自分の銃を握り締めた、そのときだった。
はっ、と息を吸った虎千代が一撃で剣を振り下ろした。拳銃はニッケル加工の重たい金属性だ。虎千代は無謀にもそれに向かって剣を振り下ろしたのだ。
信じられないことに、銃身はスライド部分から真っ二つになった。
しかし、と言うか、さすが、と言うか。
フィクションの世界でも何でもなく日本刀は達人なら、鉄兜も斬れるし、飛んでくる弾丸を真っ二つにも出来ると言う。
虎千代は後に火縄銃の銃身ごと、足軽を斬り殺したほどの腕だ。
きいん、と空気をつんざく耳障りな音を立てて銃身の片割れは、床の隅に吹っ飛んでいった。
グリップだけになってしまった銃身を持って、唖然として狐刀次は虎千代を見上げる。その手は今になってぶるぶる震えて強張ってきた。すっかり毒気を抜かれて半分呆けた顔だ。今のだめ押しで尻の穴から魂が抜けてしまったに違いない。じっとりと、尻の下に濡れたシミが広がりつつあった。
小さくため息をつくと、虎千代は言った。
「武士をなめるな」
「はったりが堂に入ってきたではないか」
あれから、面白そうに虎千代は言う。
「やっぱりお前はこの世界に合っているのだな♪」
なんだか異常に嬉しそうだな。でも、あああ、さっきのと言い、確かにこの場にいると実戦経験と言うか、修羅場の感性がどんどん身についていく気がする。このままだと逆に現代に適応できなくなりそう。
七九尾屋からは誰も追っては来なかった。拳銃を真っ二つに両断した虎千代の技の冴えに狐刀次は茫然としてしまっているし、鬼小島と黒姫の異様な殺気を目の当たりにして、後ずさらないものはいなかった。行った時とまったく打って変わって悠々と僕たちは引き上げて来たのだ。
「しかし意外な手がかりが出ましたですね。その病身こそ、黒田和泉守秀忠に相違ありませんよ」
うむ、と虎千代は頷いた。
「恐らくは化身の妙薬が仇となって、半身不随になってしまったのであろう。惨めなものよ。しかしあの二人は黒田を見殺しにはすまい。あやつが死ねば、黒田の名跡も野洲細川家への渡りも消えて失せるでな。急ぎ、医家をあたれ」
「はいはいっ」
黒姫はさっそく、準備に取り掛かるため去った。
「長尾殿、さすが豪胆にして沈着。わたし一人ではどうにもなりませんでした」
「なんの、お前の腕も頼りじゃ。それより、先ほどの狐刀次の話だが」
と、虎千代が言うと、かささぎは申し訳なさそうにうつむいた。
「隠すつもりはなかった。されどうかつに口にしては、菊童丸様の身がますます危うくなるので」
「気持は分かる。だが我には話して欲しかった。となると、大きな絵図も見えてくるでな。黒姫の情報が集まり次第、今後のことを話そう」
こくり、とかささぎは頷いた。彼女もすぐにいなくなった。早崎の衆に突破口の見つかった現況を話すのだ。
珍しく、広間には完全に二人きりになった。
「さ、さてと。我も武器の手入れをせねば」
と、虎千代は不自然な咳ばらいをすると、立ち上がっていなくなろうとする。そうだ、ごまかさずにちゃんと自分の気持ちを話して謝らなきゃ。僕は決心すると、その背に思い切って声をかけた。
「あ、あのさ虎千代?」
「うっ、うんっ?」
びくん、と虎千代は肩を震わせた。
「ちょっと聞いてほしいんだ。さっき、出がけこと。あの小豆長光なんだけど」
「ああ」
と、虎千代はこともなさそうに言った。
「ここで訊く」
虎千代は振り向かず、まだこちらを見なかった。
「なんて言うか、さっきは悪かったよ。虎千代の気持ち、考えないで無神経に、未来に戻りたいからだなんて言って。虎千代がびっくりするのも当然だと思う」
虎千代の答えは少し間が開いた。僕は、その背で虎千代が何を感じているのか知ろうとした。
「なんの・・・・我も自儘を言うた。お前にも家族がいる。絢奈だって、今はああしてはいるがやがては元にいた時代に戻りたいと思うだろう。お前がそのために必死になって記憶を取り戻そうと言う気持ちも分かる。だから」
「違うんだ」
僕は、虎千代の言葉を遮るように言った。
「それは違う」
「違うとは」
「言っただろ。あの刀、いなくなった父親が探してたものだって。上杉謙信が生涯、戦歴の思い出にしたかも知れないとても大切なものなんだ。でも・・・・・それだけじゃなくって僕にとっても、あれは色んな大切にしたい思い出を引き出してくれる」
「父御のか」
こくり、と、虎千代の背に向かって僕は頷いた。
「絢奈もそうだと思う。変な親父だったけど、僕たちは目いっぱい遊んでもらった。この刀を追いかけてどこかへ消えてしまったときも、何だかそのまま本当に戦国時代の人になっちゃったんじゃないかな、って本気で考えてしまうくらい。親父は逢いたがってたし、聞きたがってた。上杉謙信のこと、刀のこと、虎千代に」
「すまぬが、今の我にはどうとも答えようがないぞ」
「分かってる。僕は、虎千代よりすごい我がままを言ってる。この時代に来て、虎千代やみんなに出会って、僕は大事なものを取り戻したんだ。それまでは毎日、どうやって生きていたのか、本当は死んでたみたいな毎日だったのに。全部この刀と、虎千代のお陰だ」
黙ったまま、虎千代は何も答えない。
「だから本当は僕も、未来に戻りたくなんかないんだ。絢奈には申し訳ないけどさ。まだまだ、知ってみたいんだよ。親父が追いかけてきたもの、この時代のこと、そして虎千代のこと。まだもっと、僕には思い出すべきこと、知らなくちゃいけないことがある気がするから」
「・・・・・それがなくなったら、お前は行ってしまうのか?」
相変わらず人をはっ、とさせることを虎千代は言う。僕は静かに首を振った。
「それだけじゃない。それ以外にも理由はある。でもそれはまだ、君に、ちゃんと伝えられないと思う」
その言葉を噛みしめるように、僕は言った。同じように虎千代も言葉を探していたのか、答えはしばらく返ってこなかった。
「その答えで十分だ。まだ」
と、やがて虎千代は小さな声で言った。
「やっぱりわたしも、思いきり我がままを言っていいか?」
「うん、いいよ」
そう言った瞬間、突然虎千代は振り向き、力いっっぱい僕に抱きついてきた。
「虎千代・・・・?」
あまりに強い感触に、僕はよろけながらもそれを受け止める。
そこにあるのは実体がありながらほんわりと柔らかな、女の子の身体だ。
この頃、武家の軍神を彷彿とさせる堂々とした姿ばかりみてきたから、見過ごしがちになるけど、やっぱり、改めて思う。甘く澄んだ香りに包まれた黒く濡れた髪に覆われた小さなその頭も、何より驚くほど強く感じられる息づかいも胸の奥の鼓動も、僕の前にいるのは背たけの小さな一人の女の子なのだ。
「出来ればずっと、こうしていたいのだ」
気持ちの奥を絞り出して、吐き尽くすように虎千代は言った。
「このところずっとだ。いつかお前がいなくなることを思うと、一日一日の終わりが物憂い。毎朝、目が覚め、時が移っていくことが哀しい。こういう時間も他の時間も、ただただ、目に映る今がたまらなく惜しい。お前といると、わたしはどこまでも心強くなれるのに、離れることを思うと見る影もなく心細くなる。わたしはこれほど弱くなってしまったかと嘆くほどにな。わたしはただ、強くあらねばならぬと思うていた。でも、今はその強さが判らぬ。・・・・これはお前のせいだ。この答えを得ぬうちは、わたしはお前を許すわけにはいかぬ。ここからお前を、帰したくない。それが、わたしの我がままだ」
僕は応える術なく、ただ黙っていた。虎千代は顔を上げる。涙の跡はあったが、今度はすっきりと晴れがましい顔をしていた。
「でも、今日はこれで許してやる。お前の気持ちも聞けて、今日はなんと佳き日か。この気持ち、生涯忘れぬ」
僕もだ。
びっくりする。
人と人はなんの予告も分岐点もなしに、お互い入り組んだ中へ入っていけることがある。目の前にいる、この小さな女の子はもう、かなり前からとても大きな居場所を僕の身体の中に造ってしまったように僕には感じられる。
身体が離れると、その居場所が初めて巨大な空白になり鳩尾の辺りにぽっかりと神経の通った傷穴が出来た気がする。その空白が強く疼く軋るような音が、いつしか僕には、はっきり聞こえるような気すらしてしまっている。
まったく同じことを、虎千代も感じていたのだろう。離れる一瞬、その疼き強い痛みに虎千代は顔をしかめたが、小さく息を吸いこんで僕を突き離した。
「さあ、ゆこう。菊童丸の命を救わねばならぬ」
「うん」
さすが、彼女は武士だ。
それも、万の武士の手本となるほどの軍神。切ない未練や愛着を知りながら、きちんとそれを切り離すことだって出来る。生と死を、その手に取り扱う生業が与えた性だ。
それだけに見ているとどうにもこっちが切なくなってくるけど、その潔い力強さや清々しさをにこそ、僕や親父だけじゃない、世のあらゆる武士を惹きつけた魅力があるのだろう。そんな立派すぎる武士を、ひとりの女の子として僕は強く、好きになってしまいそうになっている。気持を理屈で抑えても、時が追うごとに強く。でも、だ。
いつかこの気持ちにちゃんと向き合える、そんな答えは出るんだろうか。
「はっ、しくったっ!」
急に虎千代が悲鳴のような声を上げたので、僕は、妄想を断ち切られた。
「なっ、なに?」
うう、とこっちを見る虎千代は涙目になっている。ぱっ、と潔く去ろうとしたのに、忘れものでもしたのか。
「今の場面で、きすではないかっ!絶好の機会であったのに。・・・・・・・うううううっ、武人たる我が攻め時を逸するとは、これこそ一生の不覚っ!ま、真人。やり直そう。今の、もう一度抱いてくりゃれ」
「いや・・・・・」
そ、それはどうだろう。雰囲気的にはあそこでキスしても間違いのない場面だったんだけど、あんまりに虎千代の立ち居振る舞いが清々しいのですっかり忘れていた。
「そうじゃ、とっ、とりあえず床を敷こう。あっあの、そろそろ陽が落ちるゆえ。この流れに乗じて子をなせば、お前もそうそう、未来に帰ろうなどとは思うまい。善は急げじゃ。よしっ」
「虎千代、落ち着く!」
「うっ」
帯を解こうとする虎千代を、僕は取り押さえた。
「さっきの話と、それは別」
「そ、そうか・・・・・」
ぴしゃりと言うと、虎千代も冷静になったのかようやく鎮火した。こうやって時々、突っ走るから危険だ。
「どうでもいいけど虎千代、だんだん黒姫化してきたよね・・・・・」
「うう・・・・お前は、最近、小意地が悪いぞ」
キスからとんでもない飛躍だ。それにしても、虎千代、潔く去るんじゃなかったのか。さっきの僕の感動を返してほしい。




