悪才、不気味に嗤う!寒山に響く、その第一声は…?
そぼ降る雨がやがて、時間が停まったような静寂の中に僕たちを閉じ込めた。
真冬の深山にそそぐ雨である。雪解けにはまだ早いが、気温が少し上がっているのかも知れない。度重なる雪を被って凍りついていた冬枯れの木立は黒く濡れそぼり、闇の中で生々しく光っていた。どこかで雪を溶かした水が、盛大な音を立ててしたたっている。凍りつき、死に絶えたはずの山が、生き生きと呼吸を復しているようだ。
信玄の言った通り、今晩は敵方の動きはない。僕たちが引き起こした混乱を収拾するので精いっぱいだ。クーデターを行った久世兆聖に、追っ手を出すほどの余裕はないのだろう。
(それでもどうにか、生きては帰ってきたけどな)
新たな敵を迎え、ことはふりだしに戻ったのか、それとも状況は悪化しているのか。
「まさか、久世兆聖が生きていたとは」
うめくような声を漏らしたのは、久遠である。最も疲労と負傷のひどいこの男は、後衛に匿われていたのだが、戦況を聞いて僕たちのところへやってきた。玲とラウラに伴われてきたが、いまだその足取りは覚束ない。
「どうやら魔境と言われた華北(中国大陸北東部のこと)のあらゆるものが、ここへ寄せ集まってきているようだ」
軍服を脱がぬ信玄は、接収したストーブと火桶の手あぶりで冷える夜をしのいでいる。夜通し態勢を整える信玄は、僕たちに休養を与えておきながらも自身は片時もその頭脳を休めることはない。
「君にもその一人として意見を聞きたかったのだが、果たしてこれからどうなると思う?」
「おれに聞くな、あんたは、戦国一の策士だろう。…おれの口から聞かずとも、どうせあの男のことは、把握しているんじゃないのか?」
腫れあがった目蓋のうちを光らせて久遠は、皮肉そうに笑みを浮かべる。
「どうせ魂胆は、分かっている。あんたが知りたいのは、劔閣下の動向だ。もはやおれには、伝える術もないが、久世が奪った部隊は閣下のものだ。遅かれ早かれ、間違いなく取り返しにはくる。ここは上手く三つ巴になって、死中に活を求めよう、と言うのがあんたの奥の手だ。違うか?」
「なるほど。後衛にいても、戦況は見えているようだね。まあ、概ねその通りだ」
信玄は言うと、小さなフラスコを投げよこした。中身は逃げ散った関東軍たちの本営から奪い取った蒸留酒であろうか。
「妙な期待はしない方がいいんじゃないのか。…閣下は、こう考えるかも知れない。久世兆聖を潰すのは、あんたたちが一人残らずこの山からいなくなってからでいい。いざ三つ巴になれば、恐らく最も被害が大きいのは、閣下だろうからな」
久遠はフラスコを思い切り傾けると、むせそうに眉をひそめた。中に入っていたのは、満州馬賊が愛飲した、引火するほどに強い白酒である。
「それも想定のうちだよ。私が策士として君に教えられることがあるとすれば、想定は想定に過ぎない、と言うことだよ。どれほどあらゆる可能性を検討しても棋譜は棋譜、自分が望む局面を作るのには、そこへ向かって駒を進めるしか手はない」
「なるほど」
久遠は、アルコール臭い息を吐いた。
「そのためには、どこへでも一手は指しておこう、と言うわけだ。もちろん分かっていると思うが、指し手は閣下だけじゃない。あの男もあんたと同じ、大局と言う譜面上を視ることの出来る能力の持ち主だと言うことを、せいぜい忘れんことだ」
久遠と僕は、そのあとで話した。話さなくていけないことがあったからである。久世兆聖のことでも、麟美のことでもない。僕たちが危険を冒して、敵のただなかへ入ったもうひとつの理由である。
「つまり月島京子は、発見できなかった。…話は、それだけか?」
久遠は、こちらが切り出す前にずばりと本題を言う。
「白豹が処刑する、と宣言していた。でも、最終的な居所は掴めなかったんだ。…たぶん、予定が変更になったか、延期されたのかも知れない」
「馬鹿者、はっきりと言え。…この期に及んでは、月島京子は用済みだ。おれたちに見せしめする間もなく、裏で処刑された可能性が高いとな」
久遠はあっさりと、言いにくそうにしていた僕の図星を突いた。
「さっき武田信玄と話したが、あの男がそれを口にしなかったのは、おれが協力する気を殺がぬようにだろう。小生意気な気遣いをするな。あの女もおれも、すでに死人だ。いつ闇から闇へ葬られようが、誰にも文句は言えない。それが間諜と言うものだ」
久遠のまなざしも、声もただ、乾いている。月島京子の安否いかんに関わらず、自分の中でその問題はもう、解決していると言うことだ。
闇から闇へ消えていく。当時、満州の裏世界を生きた誰もが、そうであったと言うだけだ。
覚悟の生きざま、と言われればそれまでだし、僕もこれ以上、何も言うことはないが、このままではあまりにも無残すぎる。
「貴様、まさかそんなことを話に来たのか。それより今、そんなことが重要か。久世兆聖は狂った男だが、実力は名ばかりの関東軍参謀とはわけが違うぞ」
「それは、よく分かってるさ」
と言ったが、内心の僕は先の見えぬ懸念におびえかけていた。確かに、図らずも最も厄介な相手に出くわしてしまった。辛くも生き残れたのが不思議なくらいだが、次はどうやって切り抜けたらいいんだろう。
案の定、眠れなくなった。目下の僕たちの仕事は休むことなのに、これでは朝まで目が冴えてしまいそうだ。隣からは、ミケルと信長の盛大な寝息が聞こえてくる。本来ならこれほどの疲労なのだ。だが一度、胸がざわついてしまえば、目を閉じても気が休まらない。決心して寝床を出た。
雨が上がり雲が晴れて一転、夜空には凍った月が浮かんでいる。
不寝番をしている焚火の方へ行くと、白い息が余計にたなびいている。虎千代と麟美だ。二人は夜通しまだ、語り合っていたのか。朗々と語り合っている風には見えなかったが、やはりもともと、気性が合うのを感じているのだろう。
「眠ったのではなかったのか」
二人は湯気が立つ、熱い飲み物を持っている。話を聞くと、黒姫が貴重な鶏卵を使って、鍋に玉子酒を仕立ててくれたのだと言う。
「ちょっと、眠るのは無理かもしれない」
ためらったが僕は、久遠と話した内容を伝えた。もちろん、二人は驚かない。月島京子の生存が絶望的だと言うことは、そもそも戦場経験の深いものたちの一致した見解だったからだ。
「久世兆聖でなくても、人質は殺しただろう。無残だが、否定する材料はない。特に、久世はおのれの関心以外には、一片の情も払わない男」
と、麟美は無情な声で言った。僕たちは生き残ったが、結果として人質奪還作戦は、失敗に終わったのだ。やりきれない想いは拭えない。
「それよりあの男の今の関心は、虎姫、あなただ。そうなれば久世は、地の果てまであなたを探し出して、その手で斬ることしか考えまい。その呪縛から逃れるには、自ら久世を斬る以外に道はないだろう」
虎千代は表情を引き締めてうなずいた。
「もとより、そのつもりだ。あの男は、わたしが斬らねばならぬ。わたしの死後、上杉謙信の名が、満州に産み落とした悪才があの久世と言う男だ。わたしの目の前で葬られたものたちのためにも、わたしがここで奴に引導を渡さねばなるまい」
しかし事態が急転直下したのは、次の朝のことだった。
日が昇り切る前、廃墟と化したはずの基地内の屋外スピーカーが復活し、割れんばかりの音量で久世兆聖の声を吐き出したのだ。
『おはよう、武田・上杉両軍の諸君!どこかで、僕の声が聞こえているのなら、いいんだけど!』
最大音量のせいでひび割れたその声は、森閑とした山々の隅々にまで響き渡った。バックにオーケストラのレコードまで流している。(たぶんヴァーグナーの『ヴァルキューレの騎行』だ)基地内の回線を復活させたのみならず、どうやら、新設のスピーカーをいくつも新設して大音量で声を届けているらしい。耳に痛いほどのハウリングとこだまがうっとうしいが、山奥のどこに潜んでいても、嫌でも話が聞こえる仕組みだ。
『君たちに贈り物がある』
と、スピーカーの向こうの久世兆聖は言った。
『直接届けに行きたいところだが、そこまでの親切はするつもりはない。今、手が離せないものでねえ!受け渡し場所と時間だけを指定するッ!僕を信用できるなら、さッさと取りにきたまえッ!』
お陰で信玄たちは朝から大忙しだ。もしかしたら罠かも知れない『贈り物』の受け渡しに応じるか応じないか、議論は紛糾したが、結局、虎千代が自ら出向く、と言い張り、信玄がこれに同行することで押し切った。
「もしかしたら、不要になった人質かも知れない」
信玄はそう言ったが、死体かも知れない、と言う憶測は口に上らせることを控えた。月島京子の死は、それだけ公然の暗黙の了解になっている。虎千代も触れぬようにしていたし、運転手として同行した久遠も何も言わなかった。
受け渡しは正午、場所は奥只見シルバーラインのT字路の辺りである。久世兆聖は手際よく現場を片付けると、いっさいの軍勢を引き上げ、地面には戦車のわだちの跡すら残っていない。
両軍首脳は、軍用車で乗りつけた。信玄を虎千代が守り、久遠と僕は車内で待った。相手方も、久世兆聖と瓜生真冴姫の二人である。
「やあ、よく来てくれたね」
と久世兆聖は言うと、あごをしゃくった。すると後部座席から、両手を拘束された月島京子が下ろされてきた。生きている。まさか、であった。僕たちは思わず、息を呑んだ。
「さあ、さっさと歩いて行け」
久世兆聖は一人で月島京子を、こちらへ歩かせる。
長い監禁生活でかなりの消耗を強いられたようだが、月島京子の足取りは意外に確かで、転んだりすることはなかった。
「ご無事でよかった」
虎千代が息が詰まるような声でいい、拘束を解いた。月島京子は深く、頭を下げた。どうやらそれが限界らしく、動作をしたあと、足元がふらついた。それをあわてて駆け寄ったものが支えた。僕より早く、運転席を飛び出していた久遠である。
「そんなに意外そうな顔をするなよ。こっちの都合だよ。…殺したら、運ぶのが面倒になる。ただ、それだけのことだ」
信玄と虎千代、二人ながら意外な表情をしたのが嬉しかったのか、久世兆聖は、弾むような声で言った。
「僕は、主題を重んじる男だ。あくまで大事なのは、上杉謙信と武田信玄を、この久世兆聖が完膚なきまでに葬り去ることであって、人質の取った取られたの争いじゃない。そんな話は邪魔だ。主題は一つでいい。…じゃないと、美しくない」
久世兆聖は言うと、信玄には恭しく軍帽を脱いだ。
「あなたとは、戦略で決着をつける。ぜひ最後の一兵になるまで力を尽くして戦い抜いてもらいたい。そして虎千代姫、あなたにはぜひ、僕の手にかかって死んで頂く」
「受けて立とう。知っていると思うが、私も目的のためには手段を択ばない男だ」
信玄が差し出した手を、久世兆聖は力強く握った。
「わたしもだ。前夜の斬り合いの続きならば、いつでも喜んではせ参じる」
「あなたにはちゃんと、舞台を用意しておく。心置きなく、散るといい」
不敵に宣言すると久世兆聖は、きびすをかえした。虎千代とは握手はしなかった。
「真人くん!」
と去り際、久世兆聖は僕に向かって呼びかけた。
「前夜の話は憶えているだろうね!?」
「久世兆聖」
僕も、同じくらいの声で呼び返した。
「あんたの想う通りには決して、させない。前夜のことで僕が、黙ってないのは分かっているはずだ」
「そうか!…はははッ、まあ、好きにしたまえ」
大戦が生んだゆがんだ天才は、相好を崩して笑った。これは、僕と虎千代の未来を守る戦いでもある。僕たちが歩んできた道を、こんなところで止めるわけにはいかない。




