黒田の眷属、血震丸と贄姫!暗躍する人外の兄妹に虎千代たちは…!?
菊童丸が何者かに、さらわれた。
かささぎがもたらした思いがけない報せに、さすがに虎千代も表情を硬くして言葉を失った。だって、朽木谷撤兵会談は完全に成功したはずなのだ。将軍を狙う不穏な足軽たちは弾正自らが収拾したはずだし、そのお陰で将軍の嫡男、菊童丸もようやく父のいる朽木谷に帰れるはずだった。
「しかし、面妖なお話ですねえ。弾正は三好のご当主にくぎを刺され、完全にこの件からは手を退いたはずですが」
冷えた麦茶をかささぎに供しながら、黒姫も不審げだ。
「現状では奴はどうしている?」
虎千代の下問に黒姫は要領を得ないという面持ちで、首を傾げた。
「以前も申しましたが、弾正はもはや京にはおりませんよ。追跡して調査を続けてますが、今は三好の御大の命が危ういですからねえ。囮作戦どころではないはずです」
「その件は大分以前より聞いておる。三好公は阿波本家の軍勢上陸を聞きつけた細川、遊佐の両勢に攻め立てられ、堺で武装解除を考えるまでの事態になっておるでな。将軍に害なすことを考えたところで、焼け石に水、いやともすれば自殺行為であろう」
「そのことは長尾殿からうかがっていた。確かにそのはず、だったのだが」
と、かささぎは沈痛な色を面に上らせた。
「しかし実際に、身柄を奪われたことは事実なのだろう。実行した者どもの、手がかりはあるのか?」
かささぎは不安の色を漂わせながら、小さく肯いた。
「ああ、護衛につかせた早崎の衆の話では、たったの二人のようなのだが」
「たった二人だと?」
虎千代は怪訝そうに眉をひそめた。
「ああ、極秘のお帰りゆえ、物々しい武装は避けたのだがそれでも菊童丸様には、十数名の武士が付き従っていた。それが皆殺しだ。辛うじて生き残った早崎の衆から、話を聞けたのだが、やはり尋常の腕のものではなかったのだと」
「その早崎の衆の方から、お話は聞けますか?」
黒姫の質問に、かささぎは小さくかぶりを振った。
「いや、無理だ。つい先刻、息を引き取った。幸いわたしが、最期を看取ったのだが」
「そうか」
虎千代は腕を組むと、重いため息をついた。
「わたしも報を聞き、どうにか昼過ぎ、瀕死の同僚と会うことが出来たものでな。情報も少なく、話すにありのままを伝えるしか術がない」
「仕方があるまい。だがそれほどの手練れなれば逆に、目鼻はつきやすいともいえなくもないしな」
虎千代と黒姫は目線をかわし、頷きあった。
「ともかく話を聞こう。まず起こったことをありのまま、話してもらおうか」
「ああ」
と、かささぎが話し出したのが、あの異形の兄妹による血みどろの襲撃だった。
「さあて」
鬼女は唇をすぼめると、柄を握る指についた返り血を吸った。足元に胸を突かれた千早の死骸が転がっている。少女を惨殺した鬼女はもはやそれには何の興味も持っていないらしく、自分の指についた血を吸い終えると、胸元から懐紙を取り出して刃を拭った。
「贄姫よ」
と、背後の男鬼が女の名前らしきものを呼んだ。
「これでざっと済んだか」
「ええ、兄上。あらかたは」
女はやはり贄姫、と言うらしい。
贄姫は丹念に刃を拭うと、はらはらと足元に人の血で黒く汚れた懐紙を取り捨てる。拭った後の刀身は、人の脂でさばきたての鮮魚の腹のように鈍く光っていた。
瞬く間に贄姫が斬ったのは七人はいただろうか。誰もこの魔物じみた女の身体に傷一つつけることはできなかった。それにしても恐ろしいのは贄姫の腕だ。普通、日本刀は三、四人斬れば人の脂が回って切れ味が鈍るため、手入れが必要になるのだが不思議なことに贄姫が使った刀はまだなお、血を吸い足りないと言うように、禍々しい殺気を放っている。
「では遠慮のう、さらわせて頂くか」
男鬼は槍を担いだままその横を通り過ぎると、横倒しになりかけた牛車の前に膝をつき、丁寧な口調で名乗りをあげた。
「長らくお待ち致したな、御曹司。これで邪魔者はおりませぬ。逃げも隠れもせず、かくも穏やかにお待ちいただけること、恐悦至極にござりまするぞ。さてさてこの血震丸が、鄭重にお迎え申し上げなん」
男鬼の方は、血震丸、と言うようだ。
「なに恐れることはありませぬ。我も人の子ゆえ、大人しゅうしてさえ頂ければ、かほどの狼藉は致しませぬ。さあ」
「兄上」
と、御簾に手をかけた血震丸を贄姫が止めた。
「なんじゃ」
「・・・・・すでにお察しのことと存知まするが」
かっ、と血震丸は見開いた目尻に皺を寄せた。
「詰まらん。贄よ、おのれで愉しむのもよいが、兄が愉しみも察せぬか」
血震丸は鼻を鳴らして吐き捨てると、今度は無遠慮な口調で御簾内に話しかけた。
「中に別の誰かがおるは、分かっておる。菊童丸が声も漏らさず、牛車を一歩も出ずにここで我らを待ち受けたるは、同じく息を潜めているものの意趣にほかならぬわえ」
不気味な沈黙を保つと、血震丸は突然言った。
「出て来い、まあ、大人しく菊童丸を渡せば楽には殺してやる」
ばっ、と御簾を突き破って、刀が血震丸の顔面に飛び出して来たのは次の瞬間だ。
絶妙のタイミングで繰り出された突きは、一撃で血震丸の顔を刺し貫いたかに見えた。
「ふん」
しかし血震丸は平然としている。
顔めがけて突かれた切っ先を首をひねってかわした血震丸は大きな犬歯を剥き出して、その刀身を横ぐわえに受け止めていたからだ。がっちりと歯で噛まれた鋼鉄の刃は、ぴたりとも動かない。
愕くことに血震丸は歯で刀を受け止めたばかりでなく、ぐりっと頭をひねり首の筋肉の力だけでそれをねじりとったのだ。見る間に刀は持ち主の手を離れ、あっさりと血震丸のものになった。そうしておいて鬼は片手の槍を取り出すと、今度は突きを放った相手めがけてそれを投げつけた。
「ううっ」
肉に刃が刺さる、濡れて重い音と短い悲鳴とともに、女が一人、御簾の向こうから倒れこんで来た。言うまでもなく、早崎の衆だ。かささぎより少し年下に見える少女は、黒い垂髪を凛丸のように短めに切り上げ、紅い着物の上に胴丸で武装していた。
「その様ではもはや腕は上がるまい。潮時を知ることもまた武士の器量ぞ」
血震丸が投げた槍は、その鎧を避けて右肩の鎖骨から背中側まで突き通っており、血で濡れた切っ先も露わになっている。肩で息をしながらひざまずいた女は、辛うじて立ちはだかる血震丸を、殺気で強張った視線で睨み上げた。
「御所にはろくに銭もなかろうに、公方め、よい得物を使わせおるわ。これは、水も溜まらず斬れるであろうな」
血震丸は女の刀を取り上げると、その頸を狙ってゆっくりと構えた。
「誰ぞに言い残すことあれば、訊こう。ことによっては、わしの口からそやつに伝わるやも知れぬぞ」
荒い息を整えながら、女は血震丸を見上げた。
「心残りに思うことなぞない。出来れば御曹司を狙うおのれらの素性をこそ、知りたきものだが」
「素性だと?何を言うか。悪党足軽にさんざ狙われた身であろう。まさかに、知れたことではないか」
肩をすくめると、血震丸は贄姫と顔を見合わせ、おかしそうに嘲笑った。
「・・・・・その物腰、立ち居振る舞い、悪党足軽ではあるまい。腕は立ちすぎるほどにしてもな。戦い方をみるにしても恐らく、名のある戦場渡りの武家とみた」
ぴくり、と、血震丸は、薄い眉を吊り上げた。
「図星であろう」
「よう見た。だが答えるわけにはいかぬ。代わりに、名を聞こうか」
「かけす。・・・・・名以外には名乗るべき氏もない」
「心に刻んでおこう。その首、ともに、貰い受けるぞ」
血震丸は刀を振り上げ、末期を悟ったかけすはいよいよ目を閉じる。
「待ちや」
鋭い声を放ったのは、贄姫だった。さすがに血震丸は鼻の頭に皺を寄せた。
「無粋な妹よ。一度ならず、二度もか」
「何か妙じゃ」
はっと気づいたかのように、血震丸が剣を退く。
「なぜ諦めるか。おのれ、御曹司の従者にして命を預けし付け人であろう」
「さもあろう。御曹司はもはや無事に、お逃げ遊ばされたわ」
ばっ、と血震丸が乱暴に、御簾を切り払う。するとそこには誰の姿もなかった。なんと、そこにすでに菊童丸は乗っていなかったのだ。鬼どもは思わず自分の目を疑った。
「兄上、見逃したか」
「阿呆を言え。この牛車から逃ぐるは野鼠の一匹も見逃さぬわ」
どんな仕掛けがあったのか、確かに菊童丸は中にいたのだ。それは先ほどまで、行列に潜伏していた贄姫自身が確かめたはずだった。しかし、菊童丸は消えた。贄姫は御簾のうちを改めたが、他に出口はなかった。誰かがさっきのどさくさに菊童丸を連れ出して、すでに落ち延びた可能性も考えられたが、贄姫とて注意深く一行を観察して一人も逃さぬよう、皆殺しにしたのだ。それに端から牛車の動きを眺めていた血震丸の目を、誤魔化せるとは到底思えなかった。
「逃げたとしてもそう遠くまでは逃げてはおるまい。すぐにでも追わねば、兄上」
「はははっ、追うても無駄よ。もはや遅いわ」
「くっ」
駆けだそうとする贄姫だったが、血震丸はなぜか瞳を凝らすようにかけすの様子を静かにうかがっているだけだった。
「どうした、兄上、すぐに行かねば」
「待て。そう焦ることもあるまい。こやつの始末もしておらぬことだしな」
「何を悠長な。兄上」
なぜか血震丸は悠々と、かけすから奪った剣を眺めるだけだ。
「早く殺せ。御曹司はとっくに逃げた。追わねば間に合わぬぞ」
確かにその通りだ。いつ、菊童丸が逃げたのか、それは判らないが、この二人にしてみればもはやこの場にいる意味はない。菊童丸は逃げてしまったのだ。だが次の血震丸の一言が状況を一変させた。
「お前、我らになぜこの場を去らせようとする?」
さっ、とかけすが顔色を変えたのを、血震丸は見逃さなかった。それを見て、血震丸は可笑しくて溜まらないと言うように、押し殺した笑いを漏らした。
「くくく、そうかそうか。お主の腹積もり、これで読めたわ」
と、血震丸は負傷しているかけすの腕を容赦なく握りしめると、片手で掴み上げ、逃れようとする咽喉に刀を突きつけた。
「御曹司」
血震丸が突然、腹の底に響くような怒声を上げたのはそのときだ。
「大人しく出てくることだ。人の上に立つ身分なれば、この女の死に様、見過ごしには出来まい。わしはこの女を殺すが、ただでは殺さぬぞ。手足を落とし、顔の皮を剥ぎ、じりじりと斬り刻んで嬲り殺しにしてやる。だがもしお前が我らと来ると言うならば、この女の命くらいは助けてやろう。今から三つ数える。その間によう考えろ」
ひとつ、と、血震丸は、高らかに数える。
「ふたつ」
ぐっ、と、血震丸はかけすの傷ついた腕に指を喰い込ませながら、嬲るようにかけすのはかない抵抗を楽しんだ。
「みっつ」
血震丸が刃を、かけすの腕にかけたときだ。
がたん、と牛車の床が開いて、そこから菊童丸が飛び出してきた。
やはり、菊童丸は牛車を出ずに中に隠れていたのだ。
それを見ると血震丸は喜悦の表情を浮かべ、ゆっくりと刀を退いた。
「さすがは御曹司。行く末頼もしき御大将かな」
「なりませぬっ、御曹司っ」
声をあげようとするかけすを蹴り倒して、血震丸は菊童丸を迎える。
「約は違えぬな」
と、菊童丸は掠れた声で言う。さすがに緊張で声は強張っているが、これだけの非道な殺戮をみて顔色も変えずに血震丸に対峙できるところは、十二歳の少年とは思えない。
「同じ武門の出、約したことは違えませぬ。それに、そもそもそのお命頂くために参上つかまつったわけではありませぬからな」
「これだけ無為に殺しておいてか」
血震丸はそれには応えず、あごをしゃくると、贄姫に菊童丸を捕えるよう命じた。なんの抵抗もなく、菊童丸は贄姫のもとに投降した。
「ゆくぞ」
「菊童丸様っ、おやめください」
「厚かましいわ。おのれっ、身の程を弁えぬか」
「のけっ」
なおもとりすがろうとするかけすを、顔つきを歪めた贄姫が斬って捨てようとする。
「約を違えるか、鬼の姫君」
強く言い放った菊童丸の声に、贄姫はぴたりと、その剣を停めた。
刃はかけすの首をかすめそうな位置にある。危うく、首の皮を斬ったか、つつ、と、かけすの首から血の玉が溢れた。
「大丈夫じゃ」
と、菊童丸は精一杯の勇気を奮ってかけすに言った。
「おのれは生き残れ。生きて急を伝えよ。かささぎが良きものを知っておる。越後守護代家の長尾虎千代、かのものこそ出色の武人じゃ。かささぎが仔細、心得ておる。この上は、恥ずかしながらその者を頼れ」
「ははっ、これは面白や。まさか越後の龍、長尾景虎を御存じか、御曹司」
「ああ、長尾殿は姫君なれど、心得たるお方じゃ」
からかうように言った贄姫を菊童丸は真っ向から見据えて言い放った。
「天下を蔑ろにする外道非道、この者が赦すはずなし。その名を知るなら、肝に銘じよ。これ以上の横道、天が赦してもかの者が赦すまいぞ」
「菊童丸様・・・・・・」
「長尾殿は何より義を重んじ、仁を知る御仁よ。必ず我が、助けとなってくれようぞ」
「ははははっ、気丈に見えてもやはり、いわけなき童よな。この忍人非道の乱世に義だの仁だのとは笑わせてくれる」
おかしくてたまらないと言うように、血震丸は菊童丸の顔をのぞきみた。その形相に、おびえまいと将軍の名を背負った少年は、ぶるぶると小さな拳を握った。
「まあ、誰なりと呼ぶがよい。乱世を愉しむは、道連れが多い方がよいわ」
ぐいっと乱暴に、菊童丸の身体を掴みあげると、血震丸は言った。
「御曹司の身柄、確かに貰い受けた。小金小利が目的と思うな。我が望みはそれほど安きにあらず」
張り裂けるような高笑いを弾けさせると、血震丸は菊童丸を抱えて消えていった。
「命拾いしたのう」
贄姫はいかにも口惜しそうに、かけすに言いおいて、その場を去った。
かけすが負傷した身体を引きずって、かささぎに急を報せたのはそれから、十時間近く経ってのちだ。最期の力を振り絞って、ありのままを伝えきると、御曹司の警護に命を賭けた、早崎の少女はひっそりとその命を終えたのだ。
「どう思う」
と、かささぎは虎千代を見た。言うまでもなく血震丸、と言う男の話しぶりから、明らかに虎千代との関連あることを問いただす物言いだった。
「血震丸に贄姫と言ったか。・・・・その者ら、確かに心当たりがある」
「なんと」
やはり、と思いながら、なおも信じられない様子でかささぎは苦い顔の虎千代を見た。それでもどこか、尋常でない気配の虎千代の雰囲気を察して思わず、続く言葉を見失う。
「このことは我にも責があることだ。見過ごしには出来ぬ」
重々しい声で、虎千代が次の言葉を発した。
「そやつらの目的は判らぬが、やはり我に害なすが目的であろう。かささぎ殿にも迷惑をかけた。この件、我に任せてもらいたい」
すがるような目をしていた、かささぎの表情が明るくなった。
「一度ならず、望外のおはからい、かささぎ公方様と御曹司になりかわって心底より、御礼申し上げる。このかささぎも身命賭として菊童丸様の行方を追う所存、思うことあらばどのようなことでも、わたしに言いつけて下され」
「さしあたって今は恃むことはない。我らで確かめることは確かめられる。黒姫、まずは足軽どもの足取りから探らねばならぬな。心当たりはあるな?」
「はいっ、いつでも準備は出来ておりますですよ」
「すぐに頼むぞ」
と、虎千代は言うと、かささぎに、こう応えた。
「かささぎ殿、情報は間もなく集まる。とりあえず浮足立った動きは避けて、これ以上ことが荒立たぬよう、朽木谷の方にも出来うる限り働きかけてもらいたい。それがなったら後は、我らと行動を共にしてもらう。それでよろしいか」
「心得た」
心強い虎千代の答えをもらったのがよほど嬉しかったのか、かささぎは力強く肯いた。
「こちらのことは全て任せてくれ。即刻、手筈を整えよう。この上菊童丸様の身柄さえ無事ならば、わたしは何も望まぬ。長尾殿、くれぐれも頼む」
かささぎはすぐに、僕たちのもとを去った。
「虎千代、やっぱり、その菊童丸を狙ったのって黒田の一族の・・・・・?」
「ああ、そうだ」
と、僕の質問に虎千代は言葉すくなに肯定の意思を表し、
「黒姫、童子切に逢えるよう、はからえるな。出来るだけ早急にわたりをつけてくれ」
「はい。何よりも早く手配いたします」
黒姫は肯くと、驚くほどの手早さで去っていた。なんとその顔に緊張の色が走っているのが見えた。
「真人、お前にもくれぐれも言っておく。十分気をつけてほしい」
「え・・・・?」
その剣幕に思わずあっけにとられる僕に、虎千代は言い募った。
「お前にはこんなことは言いたくなかったのだが血震丸と贄姫、あやつら、生きておるだけでおぞましい連中よ。出来れば関わらないでほしかった。お前があやつらの手にかかったときのことを考えると・・・・・・我はどうしてよいか分からぬ。ゆえにくれぐれも、危うき時は誰よりも、おのれの身を案じてほしい。せつに頼む」
虎千代は僕の手をとると、自分の身が千切れそうな顔で訴えた。その何とも言えない表情をみた瞬間、その二人の鬼の兄妹の恐ろしさが肌で感じられるように、思えた。あの虎千代が僕の身にすら、最悪の事態が起こりうることを、畏れているのだ。僕も強張った背筋に冷たいものが奔るのを感じた。やはり虎千代はよく知っているのだ。その、血震丸と贄姫と世にも恐ろしい名前を名乗った、二人の兄妹のことを。
「あやつらめ、異名を本名としたか」
虎千代はぽつりとつぶやくと、後は考え込むように黙りこんだ。
越後を脱出した黒田秀忠の一族は、悪党足軽に身をやつしている可能性が高い。
黒姫の観測を、虎千代も採ったのだろう。かささぎが帰るのを待ってすぐに煉介さんに会うことを考えたのは、そのためだ。たぶん煉介さんなら、その姿も実力も異常に特徴的な兄妹の消息を知っている、そんな気が僕にもした。
しかし予想に反して虎千代の打った手は、はかばかしく成果を上げなかった。肝腎の煉介さんが消息を絶っていたからだ。さすがの黒姫もこれにはてこずっていた。
「もしかしたら弾正に付き添って、三好の当主の警護に当たっているのかも知れませんですよ。と、なると厄介ですねえ」
野洲細川家に武装解除を迫られた三好長慶は、また慎重に所在を隠している。煉介さんがそれに随行しているとなると、居所を掴むのは至難の業だ。
こうしてじりじりして掴みどころのないまま、無駄に二日が過ぎた。
軒猿衆は菊童丸の行方を独自に追いかけていたが、これも成果が上がらない。
かささぎが虎千代に頼まれたことを片づけ、屋敷に姿を現したのはその日の昼下がりだった。その頃、僕たちの前には菊童丸をさらった鬼の兄妹の似顔絵が出来ていた。かささぎの証言を基に、軒猿衆の上手が書いたのだが、やはり見るからに恐ろしい顔つきをした二人組だ。
それを見た虎千代は改めて、黒田一族の暗躍を確信した。
「この者ら、血震丸、贄姫と名乗ったそうだがいずれも本名はそれと異なる。この金津新兵衛の手を介し、父、為景の命令で黒田の家に縁づいた、いわば他国よりの流れ者よ」
確認のためか、新兵衛さんも急ぎ呼び戻されている。似顔絵を見てやはり、と、虎千代と同じように、その二人の正体をすぐに確信したらしい。顔を確認した瞬間、はっ、と息を呑んだ。
「この二人、すでに滅びた飛騨の名家古折の血脈を受け継いでおります。源平以来の貴種の血脈が絶えることを憚った為景公がこの二人を引き取り、重臣黒田の家に預け、とりあえず、養子養女としたのです。そもそもの名を千九郎丸、女子の方は、百舌姫と申したかと」
新兵衛さんの独白を聞いてうなったのは飛騨山系の事情にも詳しい黒姫だった。
「飛騨でも噂に名高いですよ。なかなか業の深いお生まれのようですねえ。飛騨のような山国は小国分立、裏切りと謀略、親子兄弟親族の争いが絶えぬ土地柄なのですが、千九郎丸の実家、古折家はもっとも苛烈な下剋上の末、滅んだ名家だったのですよ。腹の黒さでは右に出るものはおりませんです」
「ああ、真っ黒のおめえが断言するんだから、筋金入りの極悪なんだろうな」
鬼小島が冗談で黒姫を茶化したのに気付かなかったのか、虎千代は肯いた。
「うむ。悪謀と殺りくにかけては、右に出るものはおらぬ。これは黒姫が言うのだから間違いない」
ひそかにショックを受けたのか黒姫は涙目になっている。
「うう、虎さままで。なっ、なんという愛のない御言葉・・・・・」
「父は黒田にこの二人を預けた後、滅びた奴らの旧領を復興させ、いずれは傘下に置く予定であったのだ。国元飛騨での、あやつらの評判を知ってか知らずか。あやつらは飛騨にいるときすでに、今、おぬしたちが知るような忌み名で呼ばれておったのよ」
血震丸と贄姫。
このうす気味の悪い名前は、二人が越後にいたときよりはるか前から、つけられていたものらしい。千九郎丸は僕たちより八つ年上の二十五歳、贄姫は僕らと十七歳なのだが、二人とも十四歳の元服以前から、その異様な振る舞いで周囲を戦慄させてきた。いずれも物心がついたときから、人の血肉や傷痕、刃物に執着し出したと言う。
「そもそも飛騨の古折の殿はいかにも古格な名家らしき人格者でござったが、その温順なお人柄のせいか、戦国の家を保つに苦心惨憺。それもあって我が殿と百舌姫の縁談をとりまとめておりましたのですが、重臣の反乱に遭い、あえなく滅亡の憂き目に」
長尾為景は越後に脱出してきた二人を哀れに思い、本来なら反古になるはずの縁をつないだのだと言う。兄妹ともども黒滝城に迎えられ、屋敷も与えられた。このかなりの厚遇は名家ゆえのことだけではないように思える。為景は純粋に武勇に優れた千九郎丸を信頼し、無二の腹心だった黒田秀忠にその身を預からせたのだ。
「しかし千九郎丸殿の腹積もりは違っていたようでござりました。どうも初めから為景公の腹中に入るべく、手はずを整えてのことのようで」
「と、言うと?」
新兵衛さんの遠慮がちの物言いでは、僕には理解できなかった。かささぎもそうだったらしく、怪訝そうな顔をしている。
「あやつめ、黒田の養子になるために自ら、城を滅ぼさせたのよ。因果を含めて重臣をそそのかし、反乱を起こさせ実の父母を闇に葬ってまでもな」
虎千代は、苦い物を飲み下したかのように押し殺した声で言った。
「自分の父親が住んでいる城を・・・・?」
まさか信じられない。いくら下克上の世とは言え、理解不能だ。自ら反乱を起こさせて国を滅ぼしたばかりか自分の血のつながった肉親を見殺しにするなんてどう見ても尋常じゃない。
「あつらめにあるは、おのれらだけが血統を利用してどこまでもはい上ろうとする血みどろの野心のみよ。そのためには同じ血を持つ同族たちは、邪魔でしかなかったわけだ」
「城が攻められたときいち早く城に火を放っては、城内の者を皆殺しにしたはあの贄姫であったそうですねえ。自分の血につながりのある一族から重臣の人質の子女まで次々引き出しては刺し殺したそうですから、普通ではないです。黒田のいくさ姫と呼ばれた意味も分かりますですよ。虎さまのそれとはまったく正反対の意味で、ですが」
もう一人のいくさ姫。
そんな言葉が思い浮かんだが、やはり虎千代のそれとはまるで違う。自分の欲望のためなら、他人の肉を糧にしてなんの苦痛も感じないと言う残虐にして苛烈な野心。虎千代どころか僕たちとはまるで違うものが体中を流れている人外の生き物ではないのか。そんな想像すらしてしまうほどに過酷な兄妹の正体だった。
「父に重用されていた黒田に二心が起きたは、この二人に原因があるように我には思えてならぬ。父の死からすぐさま、黒田が行動を起こしたのも、あの血震丸と贄姫あってのことではないかと勘ぐりたくなってしまうほどに、あやつらは周到でいて無法であった」
「黒田秀忠がそもそも何を考えていたかは、判りませぬ。されど、古折の鬼兄妹がなんらかの暗躍をしていたことは事実でありましょう。こたびの黒滝の二度の反乱と越後を脱出した見事な手際を見ると、そうとしか考えられませぬ」
と、言うともっとも事情を知る虎千代と新兵衛さんは重い表情で黙り込んだ。
「しかし、あの鬼ども、何を企んでいるのですかねえ。恐れながら今更菊童丸様をさらったところで、三好家も弾正も迷惑するだけでどこにも矛先を持っていきようがないと思うのですがねえ」
「理屈の道行きだけをみては、あやつらの動きは掴めても、その心底まで見通すことは出来ぬ。抵抗せねば殺さぬ、と言ったこと、我との因縁をほのめかしたこと、一挙手一投足に意味はある。何にもまして優先することは、まずはあやつらの狙いを掴むことよ」
虎千代は黒姫たち軒猿衆を、かささぎは早崎の衆を動かし、調査を続行した。しかし菊童丸は煙のように消え失せたまま、なんの音沙汰もなくなった。
打つ手を失いかけたある夕暮れのことだ。ある一つの申し出が僕たちを驚かせた。




