血沐浴(あ)びる鬼!菊童丸を狙う魔の使いとは…?!
それはここ数日の猛暑とは打って変わった冷たい夜の気が、重たい霧になって立ち込めた不思議な晩だった。
もったりとした靄が大気を覆い、冷えた気配が沼地のように、そこかしこにわだかまっている。
連日の暑さに茹るように萌えていた草木も今は冷たい霧に、ひっそりと息を潜めていた。日中熱気にのたうつように、さんざめいていた蝉の声も絶えて木の間を渡る虫たちの声も、ほとんど聞こえては来ない。
こんな風にその夜は、月影も霞んでまるで夏には似つかわしくない、ひそやかなひと時だったという。
碁盤目に巡らされた京洛の狭い街路を、小さな牛車が夜陰に紛れてひっそりと進んでいた。供周りはわずかである。足下を照らす松明の光も危うげに、長柄と弓で武装した数人の他は軽装した侍女が二、三付き従うだけ。人目を忍んでの極秘行だった。
平安の昔から、夜間の妻問いが当然の風習であった京都では夜陰に紛れて、こそこそとあだし女のもとへ通う怪しげな牛車の群れがなくもなかったが、わずかな供回り衆の緊張した面持ちからも、車を曳かせる牛に、布を噛ませ鳴き声を抑える慎重さからも浮かれた色事の気配は一切漂ってはこなかったのは、確かに異様だった。
真新しい丹塗りの牛車には、御簾が下ろされている。貴人を運ぶとき、それはごく当たり前のことなのだが、奇妙なことに牛車の主は声も立てず、ひっそりと気配を殺している。そのため無人の車を曳いているかにも思えるほどだが、御簾のうちにはちらちらと小さな影が映っていてやはりそれは空の車ではないことが分かる。それにしても身を低くして声を抑え、どこか不自由そうにも見えるその姿は、まるで極秘護送中の罪人だった。
牛車は大通りを避け、小路を選びつつ、幾度も道を変え戻りつつ進むと、慎重に京洛の中心街を離れてここまで来たのだ。
向かうは北東の方角である。
「まだ、街を出られないのかな・・・・・」
牛車の端にぴたりと沿いながら、小侍従は薄暗い辻々を恐ろしげにうかがっていた。牛車のお付は千早と言う、まだ十二歳になったばかりの不慣れな侍女だ。少女はこの日のために、夜に眠らない準備をしてきたのだが、もはや草木も眠る時間に差し掛かろうとする見慣れた街の、がらりと趣の違う風景が恐ろしげにみえて堪らなかった。
そこは絵草紙や物語集に言う、百鬼夜行の世界だ。普段、日の暮れる頃には眠る千早にとっては京洛が文字通り化け物の巣窟と化す、魔に見入られるこの世ならぬ時間帯だった。本来ならば連日の酷暑に珍しく涼しい晩を千早も喜ぶべきだったのだが、こうも薄気味悪い裏道ばかりを選びながら通るともなると、不気味な想像ばかりが先に立ってしまう。
「千早、そう怖がるな。大丈夫だ。恐ろしいことなど起きはせぬ」
そう、声をかけてくれるのは、馴染みの宿直の青年だ。千早より五つ年上の十七歳の武士は沙汰矢と言う同朋衆の子で、毎日なにくれとなく、彼女の世話を焼いてくれる。千早にとっては年の離れたお兄さんと言った存在だった。
「早く、このような不気味な街は去って、千早は姉さまたちのいる花折の峠に参りたいです。それにしても、なぜかような夜中に御曹司をお連れせねばなりませぬのやら」
「事情があるのだ。そう、甲斐のないことを申すな」
幼い千早の我がままに、さすがの沙汰矢も持て余し気味に言った。
「しかしお前も、つくづく妙な奴だな。鄙より街中が怖いとは」
「沙汰矢様、千早はかように夜遅う街を出歩いたことなぞ、ついぞないのです。古今著聞集にても伊勢物語にても、鬼も邪も、夜はびこると言うではありまぬか。それを思うと千早は・・・・・恐ろしゅうてかないませぬ」
「はははっ、伊勢の鬼は暗闇に潜む人喰いであったな。そう怖気づいておると、千早の知らぬ間に襟首を掴み上げられて、頭からひしひしと取り喰らわれてしまうぞ」
「ひいいいっ」
心底怯えた顔で千早は牛車の御簾に取りすがろうとする。『伊勢物語』の駆け落ちした良家の娘を一呑みにしてしまう鬼の話は、沙汰矢がいつも怖いもの見たさの千早に語ってあげていた得意の怪談の一つだった。千早は怖がりながらも沙汰矢が話す古今の怪奇譚を聞くのが夏の夜の楽しみになっていたが、今宵は冗談では済まなかったようだ。
「沙汰矢、冗談はよせ。千早が怯えておる」
くっ、くっ、といかにもおかしげな笑いが御簾の内から上がったのはそのときだった。声はかなり若い。千早と同じ年頃の少年のものだ。
「御曹司、お声は辛抱なさりませ。しわぶき一つ立てるなとの、かささぎ様とのお約束でありましょう」
「かような夜更けじゃ。誰ぞ聞くものか。それよりも何か物語せい。沙汰矢の怪異話がわしは聞きたい」
悪びれる様子もなく、御曹司と言われた中の声は言った。
「きっ、菊童丸様。勘弁してくださりませ。かようなときに、怪異話など」
つい、千早が御簾内の同い年の少年の名前を口にしてそれを諌める。
「どうせ命狙われる身よ。化け物の話など怖くないわ。千早も安心せい。鬼の一匹や二匹ならこのわしが守ってやるわ」
と、菊童丸は得意げに言った。
言うまでもなく、この夜中に牛車を繰り出していたのは、菊童丸だ。かささぎから朽木谷に平和が戻ったことを告げられたこの将軍の嫡子は、夜陰、ひそかにながらもようやく、実父の待つ朽木谷へ帰ることになったのだ。かささぎは虎千代から撤兵の話をうかがってすぐにその手配をしたのだが、あれこれと日を選んでいるうちに殊の外涼しい、この晩になったと言う。
「つくづく、性、剛腹なお方にあらせられる。行く末、楽しみになります」
まったく世辞とは言えない口調で、沙汰矢は言った。御簾の内の菊童丸の影は満足げに頷くと、興を得たように訊ねた。
「鬼に逢うは真夜中と、今、千早は言うたな。草木も眠る丑三つ時は魑魅魍魎の世界と。しかし、沙汰矢、お前の以前の話では魔に逢うは黄昏時ではなかったか」
「確かに日暮れ時、景色の変わり初の夕間暮れ、鬼が歩き出し人の性が悩乱しやすき刻限にござりまするな。見慣れた人の顔が薄闇によどみ、見たことのなき景色や思いの裏に気を悩ます。魔が差して人が狂うときこそ、逢魔ケ刻かと」
「魔に出逢う刻とは、また、よう申したわ。見知ったる人の顔が鬼に変わるとはさも恐ろしげじゃな」
「もとより、人の性はうつろいやすきものにござりまするが、魔が心を狂わすときがござりまする。魔は恐ろしく、よく知るものの姿形すらも変えてしまいまする。かような刻限には、注意なさいませ。見知った顔ですらよく見れば別人のようになりまする」
ほれこのように、と、沙汰矢は面白がって千早を脅しつける。悲鳴を上げて少女は牛車に取りすがろうとした。
「これ、無礼だぞ、千早」
「よいわ。だが、どうも千早には薬が効きすぎたようぞ」
青い顔でかぶりをふる千早を叱りつけようとする沙汰矢を、菊童丸はやんわりたしなめた。
「沙汰矢の物語は面白いな。まるで作り事と思えぬ」
「お喜び頂き、恐縮です。沙汰矢も、たんと本を読んだ甲斐がありまする」
ふーっ、と息をつくと、沙汰矢は霧でかすんだ空を見上げた。御簾内から菊童丸の、ため息をつく気配が漏れ出る。
「しかし、涼しい晩よな」
「然様に。時ならぬ陽気の晩は、魔が差すと申します。狂い咲きの花や、時ならぬ果実のように本来、あってはならぬものゆえ」
「はは、その話はもうよいわ。ついついお前の顔まで、見直してしまうではないか」
そうこうして街を抜け出した牛車はやがて、分かれ道に差し掛かった。やや傾斜した道に設けられた山道へと続くY字路である。下は沢なのか、鬱蒼と茂る山桃の葉の奥でかすかに水音だけが闇に響いているだけだ。
「む、誰かおるな」
道がちょうど分岐する辺りに一本、年経た百日紅の木が生えていた。一行が近づくにつれてその大木に抱かれるようにして黒い影がひとつ、うずくまっているのがじわじわと松明の炎に照らされてきた。
「なんじゃ、物乞いではないか」
先導の松明を持った武士が顔をしかめる。そこにいるのは確かに、みすぼらしい格好をした男だった。見たところ痩せさばらえた老人のようだ。麻の合わせは皮脂汚れで固まり、草臥れた頭巾は白髪頭にへばりつくように乗っけられている。
明かりの気配に人と気づいたか、老人は眠たげな顔を持ち上げてだらしのない笑みを浮かべ、もぐもぐと訳の分からないことを言いながら松明の男にしがみついてきた。言動挙動が怪しく、話をしている内容もあいまいで精神に異常を来たしているものと思われた。
「捨て置け。こちらも急ぐ身じゃ。何をかまうことやある」
引き剥がそうとすると、老人は足をもつれさせ、胸を抑えて嗚咽を放った。身体が悪いことをアピールしているのか哀れを誘おうと何かつぶやいているのだ。そうしてまた顔を上げ男にしなだれかかってくると再びぶつぶつ何事か要求を始めた。
「この爺めが、どかぬか。恥知らずにも御曹司の車を停めて物を乞うとは無礼な。のかねば叩き斬るぞ」
「お待ちを」
柄に手をかけて抜こうとした男を、沙汰矢がすんでで取り成した。菊童丸の計らいだ。
「御老、夜陰、かように寂しき場所に独り、さぞや心細かろう。我らでよければ助けになるぞ」
賢い沙汰矢は、すぐにそれと察して惚けた老人から根気良く話を聞きだした。
「あの者、もしよろしければ、酒を所望したいと申しております」
「くれてやれ。無闇な殺生はならぬ」
御簾の中の菊童丸は即答した。沙汰矢は瓢箪に漏斗で酒を注ぐと、介抱をするように老人の口に酒を含ませてやった。
「時ならぬ陽気の晩よ。無用の血をみて、恨みを買うも馬鹿馬鹿しかろう」
沙汰矢が酒を、世迷言をつぶやく老人の口に含ませたそのときだ。
「ぐううううっ」
突然、牛蛙のようなくぐもった絶叫を上げると、老人が激しく咽喉を掻き毟り、のたうちだした。
「なっ、なんだ。どうかしたのか」
「ううあああああっ・・・・・ううっ、げええええっ」
「おっ、おいっ」
恐ろしい急変に当の沙汰矢も我を失ったのか、七転八倒する老人をなすすべもなく眺めるだけだ。その間にも縊死寸前の強さで、両手で自分の首を締め上げるようにしていた老人は、ばっ、と仰向けになると、
「ぶえええっ・・・・げえっ・・・・・うえええええっ」
と、さらに凄まじい勢いで何かを吐き出した。老人が吐き出した黒い塊は砂地に不可思議なたまりをみるみる作り出し、どんよりと異様な臭いがそこから立ち上った。
「なっ、なにをしたのだっ、お前っ」
「い、いや、私はただ酒を飲ませただけだっ」
沙汰矢の言うとおり、それはただの酒だった。しかしそれを口に含んだ老人は顔色を変えてのたうちだし、やがてびくん、と背筋を震わせると、
「うっ・・・・・」
吐いたものの中に無惨に倒れこんだ。顔から吐瀉物に落ちた老人は糸が切れた操り人形のようになって、もはやぴくりとも動かなかった。
「死んだ、のか?」
事態を把握できないまでも、恐る恐る、沙汰矢が老人の身体にとりついて脈を調べる。老人の息はすでに絶えていた。訳が分からぬまま、あっという間の出来事だ。不吉にもほどがある、その異様な出来事の見えない恐怖に耐えきれないように男たちは、背筋を震わせた。
「もはや定命であったのだろう。ねんごろに葬ってやれ」
やがてその気苦しい沈黙を破るように、菊童丸が声を上げた。
「気に病むな、沙汰矢、お前は最期の功徳をしたのだ」
御簾の中から菊童丸が、急死したその哀れな老人を引き上げるように言う。男たちはまたそこでどよめいたが、沙汰矢が躊躇なく老人の身体を起こすべく駆け寄ったので、しぶしぶそれに従った。
「しかし、気味の悪い死に方であったな」
「まったく、験の悪い爺よ。これは寝ざめが悪うなりそうだ」
不気味に黒く淀んだ泥と嘔吐物の中から老人を引き上げた男たちは死人に向かって、くちぐちに雑言を吐く。その中、沙汰矢だけはそっと老人の目を閉じてやりながら、持参した数珠を取り出し、おごそかに念仏を唱えている。
「沙汰矢、そこの藪にくぼみがあるであろう。そこに穴を掘って埋めればよいだろう。早くせよ」
沙汰矢は肯くと、遺体から離れた。そのとき老人の身体は両側から男二人に抱え上げられ、つま先が地面に擦れるような姿勢でだらりと力を抜いていた。
その不可思議な異変に気づいたのは千早だった。不吉な怪談を聞かされるばかりでなく、異様な死人に出会ってしまった今夜、千早は必死に口の中で念仏を唱えながら、早くこの場を去りたい気持ちで一杯だったのだが、ついつい老人の死に顔を眺めてしまったのだ。
松明の明りに照らされて、皺の刻まれた老人の顔は古寺で苔と黴にまみれた、古い木彫を思わせた。蒼褪めて老人は脱力しきったかのように目を閉じ、うなだれていたのだがその口元が、こちらへ近寄ってくる瞬間、ぐにゃりと歪んだのだ。まるでこんな夜中に不吉な老人の死に付き合わされた男たちの不遇を嘲笑うかのように。
千早は最初、光の加減か気のせいだと思った。しかしその陰気な嘲笑はきちんとした意味と意思のもとでなされたものだったのだ。千早はさらに老人を凝視した。死の緊張で強張っていた五本の指がみるみるうちに動きを取り戻し、蛇のように蠕動した。紐の切れた操り人形を思わせる四肢が緩やかに力を得てやがてそしらぬ間に足がついた。
次の一瞬で起こった恐ろしく、異常な事態を誰が予想できただろうか。老人を抱え上げた大人たちはふて腐れ、油断し切っていた。その刹那、今度は自分たちが死人になるとは思っていなかったのだろう。いや、たぶんその死も認識できずに遺体になったのかも知れない。
するりと、右の男に腕を回した老人は、まるで男を抱え込むようにしてなんと、立ち上がった。同時にその腰に挿した脇差を抜くと、片手殴りに左手の男の頸に斬りつけた。ぶつり、と音を立てて切断された頸動脈から鮮血が闇を溶かして噴き上がった。血にまみれた柄を引き抜いた老人はそのまま、右腕と胴でしっかりと固定したもう一人の男の咽喉を狙ってねじり上げるようして脇差を突き刺し、あっ、と言う間に。
殺した。
見る間に、すんなりと二人の命が奪われた。殺したのは、死に瀕していた老人だ。誰もが信じられなかった。
「ぐふふふ」
くぐもった笑いを洩らした老人は顔一面に血を浴びた。最初にその老人の異常さに気づいてた千早はすぐにさらなる老人の変化に気づいた。へしゃげた紙粘土のように、痩せさばられていた肉体が今はそこにないのだ。
一見細いが、しなやかな筋肉に覆われた肉体が麻服からはちきれそうに盛り上がっている。背筋を伸ばすと、老人は六尺近い大きな男であることも分かった。
そして、さらに恐ろしいのは。
どす黒く返り血に濡れた顔が、ほの明かりの中で驚くほど滑らかに若返ったのだ。まるで人の血と脂を吸い尽くして、若さを取り戻したかのように。今や老人はまったく老人ではなくなっていた。その顔はなんと二十歳前後の顔だ。薄い眉に斜めに切り削いだかのような尖った眼、鋭い鉤鼻は能狂言でみる般若の面を思わせた。そうしているうちにみるみる、男は本来の姿を取り戻した。口元に嘲るような歪みを貼りつかせながら、血に濡れた脇差をふるい、あっけにとられているもう一人を斬った。いとも簡単に槍を奪った。
松明がその足もとに落ちて、焔を夜風に揺らめかせている。その危うい炎に身を照らされながら、男は今度はおかしくて溜まらないと言うように、くっ、くっ、と笑った。まるで血と臓物にまみれた戦場さながらの風景に、言葉で尽くし難い愛着を覚えているのだとでも言いたげに身悶えしながら。
「曲者っ」
そこまで起こってからようやく男たちは色めき立ち、口ぐちに叫び声を上げた。
「なっ、なんじゃっ・・・・・あ、あっ、あやつはっ」
「おっ、鬼かっ、このけがらわしい鬼がっ地獄から迷い出たか」
「鬼ぃ・・・・・?」
男たちの罵声に訝るように首を傾げると、初めてその声を漏らした。きしるような、甲高い、金属音のような声だ。
「その物言いは無礼ではないか。見ての通りうぬらと同じ、我も儚き人間よ。斬れば叫び、突けば血も出る。首が落ちれば等しゅう去ぬわ。ほれかように、の」
足元で呻く男の咽喉に止めの槍を突き立てると、鬼面の男はべろりと舌を出した。
「人間なれば名もあろう。曲者、名乗るがよい」
御簾内から菊童丸が誰何した。気丈な少年だ。こころなしか声が震えているだけですんでいる。
「ああっ、御曹司。口上が遅れ申したな。じかに御言葉頂き、恐悦至極でござりまする。今宵はぜひとも、そのご尊顔を拝見しとう存じました」
ぶん、と鬼は槍を振った。びしゃり、と血の飛沫が撥ねた。鬼の腕は凄まじいのか、長槍を振り回してその切っ先が見えないほど速かった。
「さて、下郎は下がらぬか。これでも、源平以来の貴種の血ぞ。ゆえあってここで名は名乗れぬがな」
「松永弾正久秀が手の者か?」
「弾正。ああ、まさかかような下賤者と同列にされるとは思いもせなんだ」
「おのれえい、狂言をっ」
横合いから斬りかかろうとした足軽に、ずん、と、鬼は槍を突き立てた。まったく隙がない。鬼は無表情で死体の顔に足をかけ、まるでし慣れた作業のように血槍を引き抜いた。
「身は、お迎えに上がったまでのこと。御曹司はまだ、京には必要なのでな。なあに、殺しはしませぬ。時と次第によりまするが」
四人殺された。恐怖に固まって誰もが動けない中、悠々と鬼は遺体から武器を物色する。
「ははは、やはり腰に両刀ないと落ち着きませぬな。どうする?まだやるなら、付き合わぬでもないが」
そのとき、草むらから足音を潜めて、沙汰矢が姿を現した。鬼の背後である。
ひそかに沙汰矢が迫っていた。必死に気配を殺し、間合いを詰めながらそろりと柄に手をあてた。遺体から武器をはぎ取り、次々と身体に身につける鬼の背中にぴたりとつき、強ばりかけた手を振りあげ、刀を抜きかけた。気づいていないのかふりをしているのか、鬼の男は振り向きもしない。
沙汰矢は若く、腕も実戦経験もそれほどではない。今みた鬼の腕なら、軽々あしらえるだろう。間近の千早の目にも、沙汰矢が次の一瞬、鬼に喉を突かれて果てる絵が目に浮かんだ。菊童丸の声が緊張を破る。
「やめよ、沙汰矢っ」
鬼は、沙汰矢を殺さなかった。今度こそ、目を疑うような光景がその場にいる誰もを驚愕させた。
鬼は。
がらり、と背後を振り向くと、沙汰矢を右手で掻き抱くようにして捕まえると。
下になった沙汰矢の顔に重なってその唇を。
吸った。
じるじると、粘液を吸い出すような音が立ちこめ、それがとめどなく続いた。
沙汰矢の口の端からやがて血筋がたらたらとこぼれる。ようやく唇を離したとき鬼は、べっ、と何かを吐き棄てた。それは先ほど鬼自身が吐き出した、あのどす黒い得体の知れない塊に見えた。唇を吸われた沙汰矢は鬼に抱かれて死人のように、青白い顔になっている。
「なっ、なにをするか」
「身内を紹介いたしまする。しばし、お宅にお世話になった御礼を申し上げたい」
鬼はまた、不可解なことを言った。沙汰矢の身体を離し、うやうやしく頭を下げると、ひざまずいた沙汰矢に手を差し伸べた。
これ以上、どんなことが起こるというのだろう。目を見張るしかない人々の前でそれはなすすべもなく起こり続けた。
今度は。
鬼に何かを吸い出された沙汰矢が、鬼の手をとると、しゃなり、と立ち上がったのだ。
そしてそれはやはり、沙汰矢ではなかった。
そこにいるのはまったき別人だ。
沙汰矢は、鬼の顔をしていたのだ。
細面を青白くひきつらせ、薄い瞼の上のこめかみにほの紅い血管をほとばしらせて。瞳と同様切れあがった、色の薄い唇が歪み、なんとも言えない残虐そうな微笑が漏れた。
鬼は二人になった。沙汰矢の姿をしていた鬼は心なしか顔も小さく、体つきもふくよかにほぐれていて、胴丸を羽織った上からでも、たたずまいから匂い立つような色香がこぼれていた。千早の知る話し好きの大人しい青年の面影はまるでない。まったく違う体型の人物に変化してしまっている。
いや、変化したのではない。本来の姿に戻ったのだ。あのみすぼらしい老人がそうであったように、異形の自分を封じ込め、素知らぬ顔で時を待っていたのだ。何らかの、想像もつかないような人知を超えた手段をとって。
「せんに申しましたでしょう。今こそ魔が逢うとき。見違えましたでしょう、御曹司」
今や沙汰矢は声すらも女だ。鬼に似ているとは言え、その容姿や所作は艶然として、男なら思わず目を奪われる美しさだ。
匂うような仕草で女は首を振ると、畏れおののきながらも何とか牛車を守る数人の武者と、恐怖に凍り付いてへたりこむ千早を眺め渡し、恨みをこめた目で隣の鬼を見た。
「兄上、殺しすぎです。わらわの浴びる血が、もうさほど残ってはいないではありませぬか」
「小娘がおるであろうがよ。お前が殺したがっていた」
「ははあ、これは確かに」
鬼女は幼い千早をみると、殺したくて溜まらないように身を震わせ悦んだ。
「千早ぁ、わらわは毎日お前を見ていて我慢がならなんだところじゃ。お前のか弱い肉に刃を突き立てるこの晩のことを思うと、かわゆうてかわゆう、たまらなんだ・・・」
と、不気味な独白をする鬼女を、千早は信じられないと言うように凝視して、目が離れずにいた。夢ではない。でもこんなの、現実のはずがない。さっきまで一緒に笑い合っていた年上の青年がみるみる恐ろしげな鬼女に変貌するなんて。そんなの嘘だ。わななく唇が否定の言葉を口にするが、絶望的な光景はいくら見直しても、醒めてはいかなかった。鬼女は絶望に硬直する千早の表情を切り削いだような鋭い瞳を細めて十分に楽しむと、
「さて兄上、遠慮のう頂きますよ。残りは好きにさせてもらいますえ」
「好きにしろ」
と鬼が頷いた。確かによく似ているこの二人はやはり兄妹なのだ。
ふわりと、鬼女は剣を片手で構えた。
「さあ、御曹司そろそろ参りましょうか。この兄が案内仕ります。なに、痛くはしませぬ。まずはこのわらわがここを片づけまするゆえ」
「おっ、おのれ。化け物っ」
数分し、すべては終わった。
月が再び靄の中から現れたとき、そこには言葉を発する何者も残っていなかった。
投げ出された松明だけがちらちらとまだ炎を閃かせている。危ういながらも闇を溶かす光が泥と血にまみれて人形のように放り出された、哀れな犠牲者たちを照らし出した。
横転した牛車の御簾がめくれてはためいていた。真っ暗闇の沢へ落ちかけた牛車にもはや人は乗っていない。その脇で幼い千早が、虫のように胸を刺し貫かれて殺されている。
最期の瞬間まで無慈悲な現実が信じられなかったに違いない。見開いたその目は自分を刺し殺した鬼女の顔を見つめたときのまま、硬く、凍り付いていた。
二匹の鬼は姿形もなく消えて失せていた。魔が通った跡だけが、おぼめく炎に照らされてゆっくりと静かに漆黒の闇に溶けていった。
気になる。
「ううむ」
と、僕の後ろでさっきから虎千代が大きくため息をつき続けているのだ。
なんだか虎千代は落ち着かなさそうに両手を組み合わせると、今度はそれを組んだり離したりしながら、やけにそわそわと揃えた膝を動かしている。まるで禁煙三ヶ月のおじさんだ。一応書見をするために源氏物語の草紙を広げたところだったらしいが、さっきからまるでページが進んでいないのが端から見てもよく分かった。
虎千代にしては珍しい。何かを言いだそうとして言えない、そんな雰囲気だった。奥歯にものが挟まったよう、って言う表現があるけど、今の虎千代は顔つきまでそんな感じだ。
仕方ない。僕は恐る恐る話しかけることにした。
「な、なあ、虎千代」
「なっ、なあっ!」
びくん、と虎千代は肩を震わせた。
「なっ、なんじゃ何かどうかしたか」
どうかしたのはお前だ。居眠り中に教師に指された生徒みたいに目が泳いでいる。
「なんか最近そわそわして落ち着かないよね。気になることでもあるの?」
「うっ、ううむ。な、なんでもない。・・・・なんでも」
ったく。しかしまた、キスの誘いとかだったらどうしよう。昨日までの僕はそんなとんちんかんな想像を巡らしては、はっきり問い質すことを恐れて言い出しかねていたんだけど、今日なら何となくその理由が分かる気がする。
たぶん、煉介さんが持ってきたあの、小豆長光のせいだ。
虎千代はあれからあの刀に惚れこんでしまったらしく、何かにつけて触りたがるのだ。昨日から三度、手入れをすると言っては抜き身を取り出して、ぼーっと眺めてはため息をついている。のちの軍神だから仕方のないのかも知れないけど、日本刀にこれだけ惚れこむ女の子って、さすがにちょっとひく。マニアってこれだから厄介だ。
上杉謙信の日本刀好きは、歴史研究家の間でもしばしば取り沙汰されるほどだったようだけど、好き過ぎるにもほどがある。刀のことを考えているのか、虎千代は何だか最近ぼけっとしているのだ。気合いが入ってないとしか言いようがない。
ちなみに史料で確認できる範囲内で、千五百本と言う。
上杉家に謙信が愛用した、として伝わる日本刀の数だ。
日本刀はほっておくとすぐに錆びるので、手入れする人だけで何十人も必要としたわけでコレクションの維持だけでも大変な手間が掛かっただろう。虎千代の様子をみると恐らくは必要以上に集めていたに違いない。お付きの人たちも苦労したものだ。
僕も実際、虎千代が姿見の前で、日本刀のコーディネイトに迷っている姿を見たことがある。冗談みたいだけど、結構本人は真剣なのだ。
「ううむ、今日はやはり備前鍛冶に・・・・・いや、たまには京鍛冶にするか。この粟田口派の脇差とも合わぬでな。いやいやこの前、購めた手掻包永の方がよいか・・・・・・」
支度に手間どるのはやっぱり女の子の宿命、なんだろうけど武器選びに迷ってる女の子はいまだかつて見たことも聞いたこともない。やっぱり軍神は違うようだ。
「そんなに欲しいならあげるって。僕には使えないし、もともと虎千代のものだし」
「なっ、何を言うか。刀はただ、おのれで身を守るためのものではないぞ。神意がお前を助けるのだ。煉介がお前にやった以上、剣の守り神はお前に憑いておる。それを曲げて我が佩くわけにはいかぬ」
「欲しくないの?」
ぷくっと頬を膨らませて虎千代はそっぽ向く。
「ほしっ・・・・・いやっ欲しゅうないっ」
どう見ても咽喉から手が出るほど欲しそうなのに、依怙地な奴。
でも満更、虎千代の言うこともただの強がりではないみたいだ。実は古来から日本人は鉄器を身につけて、自分の守り神にしたらしい。刀狩り以前は普段刀を差さない武士以外の人たちも、守り刀を懐に入れていたそうだし、刀がなくても鍬や鋤など鉄の農具を神様として大切にしたのだと言う。この鉄器信仰は東アジア一帯に広がるもので、もともと鉄器が貴重品だったことに由来するようだ。
「とにかく、それはお前が持てばよい。満足な手入れが出来ぬなら、我がするので案ずるな。どれ。では早速、今日は油をひくか♪」
うきうきしながら虎千代は、僕の部屋の隅にかけてある小豆長光を取り上げる。
「一応、聞くんだけどやっぱりそれってすごくいい刀なの?」
「ああ、万金もって購い難いとはまさにこの一品ぞ」
白布を手に、長光の刀身を鞘から取り出した虎千代は本当に嬉しそうだ。
「しかし小豆長光とは、よう言い表したものよ。深く澄んだ地肌にたおやげな小丁子、匂にぽつりぽつりと滲んだ葉の並んだ様は、まさに小豆粒ではないか。あああ、何度眺めても見飽きぬ」
刀剣用語で表現するのはやめてほしい。なんだかよく判らないから。でもとにかく、刃の白く曇っている部分を見ると、小豆大の小さな刃紋が白雪に雨粒が滲んだようにぽつぽつと並んでいるのが僕にも分かる。虎千代はそれを小豆に見立てたと思ったようだ。
名刀ほど、ふたつ名がある。この小豆長光もそうだ。作者の長光は長船派の刀工で、大般若長光と言う通り名を持った名刀が今も東京国立博物館に所蔵されているほどの名工。当時にしてもその取引値は最高級で一振り三千万円以上の価値があったと言う。
ちなみに小豆長光の通り名は、あまりの切れ味で刃の上から小豆をこぼすとそれが真っ二つになってしまうほどだった、と言う逸話に由来しているそうで、上杉謙信は家臣からの献上品としてこれを手に入れたらしい。
「長光は確かに数本、持ってはいるがこれは出色の出来ぞ。この手応え、重み。さぞや斬れるであろうなあ」
まるで宝石を見ているみたいにうっとりしているが、持っているのは迫力満点の武器だ。やっぱり理解できない。
謙信所用、と言う刀は特にふたつ名が多いが、コレクションする本人が凄まじい腕だったお陰か、本当に実戦的な逸話に基づいているものが多い。例えば、
「一両筒斬り」
と言う刀があるのだがこれは川中島合戦で謙信が火縄銃の鉄の銃身ごと、馬上から足軽を斬り殺したと言う逸話から名付けられたものだそう。
小豆長光も歴史に登場するのはやはり、実戦のさなかだ。それは四度目の川中島合戦、最大の激戦と言われた八幡原の戦いでのこと。上杉謙信と武田信玄、両雄が直接、命を賭けたやり取りをしたと言う「三太刀七太刀」の逸話に登場するものだ。
妻女山に布陣した謙信を狙って、信玄の軍師、山本勘助晴幸が別動隊による奇襲を提案する。いわゆる啄木鳥の戦法である。これは奇襲に驚いて妻女山を降りた上杉勢を麓に布陣した信玄の本軍が迎え撃つと言う、挟み撃ち作戦だったのだが、謙信はそれをいち早く見破って下山、濃霧に乗じて信玄のいる麓の本軍を逆に奇襲する作戦をとる。
この謙信の奇襲作戦は大成功し、信玄は見る間に弟を討ち取られ、山本勘助まで戦死させてしまう。さらには、謙信に襲われ、自身も重傷を負うのだ。
このとき放生月毛と名づけた白馬にまたがった上杉謙信本人が、信玄の本陣を奇襲し、馬上から直接斬りつけた、その刀が小豆長光だ。信玄はこれを鉄製の軍配で受けたが防ぎきれず、全身に数か所の傷を負った。
謙信がついにとどめをさそうと言うところで、信玄の腹心、原大隅守が謙信の馬を槍で突き、間一髪、撃退した。
この合戦でのエピソードは講談や謡曲などの中で江戸期を通じて親しまれ、今でも川中島合戦と言えばこの八幡原での名勝負をさすほど。中でも直接対決は、その最大の山場だ。
しかし、この名勝負、早くから疑問を持たれていた。なぜならこの合戦の経緯はすべて武田側の記録とされる『甲陽軍鑑』の記述がもとになっているのだが、それを裏付ける史料がほとんどないのだ。
普通なら上杉家側にも記録があって当然のはずなのに、江戸時代の上杉米沢藩にはほとんど謙信時代の記録は残っていなく、川中島合戦の経緯も曖昧だ。かすかに『川中島合戦五度之次第』があるがこれも『甲陽軍鑑』の記述をただなぞっただけのもので、まるであてにならないのだと言うから、びっくりする。
謙信と信玄が斬り合ったとされる場所ですらも未だにはっきりしない。今ではその内容のほとんどが幕末の歴史家、頼山陽の創作とされ、ほとんどフィクション扱いだ。まさに幻の名勝負で、その実体は本能寺の変につぐ戦国史最大のミステリーと言っていい。
上杉謙信が武田信玄に斬りつけたとされる小豆長光の所在だが、これもよく判っていない。通常、実物が残っていなくとも、押し型と言って紙に実物の特徴を書き写すのだが、小豆長光の場合はそれも存在しなかったのだ。これも一騎打ちの信憑性を疑われる一つの根拠になってしまっている。
「裏付け史料が少ないと言うだけで、まったくありえなかった、と言うのはあまりに融通がきかないし、何よりロマンがないと思わないか?」
と僕の父親は、子供っぽく目を輝かせた。
「問題は、上杉家側に謙信時代の史料がほとんどない、と言うことに尽きるように思えるんだ。恐らくは破棄されたか、隠蔽されたんだと思うんだけど。本当の上杉謙信の実態とともにね。江戸期を通じて上杉米沢藩の存続に関わる何かがそこにはあった、と、俺は考えてるんだけどさ」
当たり前だけど素人の父親のそんな意見は、もちろんまったく日の目を見なかった。それでも馴染みの古美術商の手伝いや業界紙などに小文を寄稿しながら研究を続けたんだけど、業界に顔は広がっても成果があったどうかはやっぱり疑わしかった。
「一番いいのは、五百年前にでも戻って直接、上杉謙信に聞いてみることなんだろうけどなあ」
最後は半ば冗談とも諦めともつかないことをぼやいていたのを、僕も憶えている。
まさか息子の僕がタイムスリップして、上杉謙信本人(しかも同い年の女の子だ)に出会うなんて思ってもみなかっただろう。
そんな感じで夢とも妄想ともつかないことを追いかけていた父親だから、手に職のある母親はやがて僕と絢奈の親権を引き取り、離婚に踏み切った。僕が十二歳のときだ。
父は生活力はなかったかも知れなかったけど、夏には必ず僕たちを連れ歩き、山の中の名刹古刹や旧史跡を巡った。今でも悪い思い出じゃない。僕たちの目当ては川遊びや虫捕り、キャンプ場のご飯だったりしたけど、父が言ったことはなんとなく僕の頭の中に染み着いていた。
離婚ほどなく父親が失踪した。家族が離れ離れになってからも定期的に父親に会う機会があった僕は跡形もなく消えてしまった父親が残した史料や自著に、自然と目を通すようになった。日本史では決してメインとは言い難い、謙信と信玄、両雄の事情に僕が多少なりと詳しくなったのは、少なからず父親からの影響があることは否めない。
「しかし、五百年も後にまで聞こえておるとはまさに名刀だな。この剣、それほどに生き残るか」
「う、うん。本当は存在しないはずの刀なんだけど、さ」
真贋はともかく、父はいなくなってしまう前に、何らかの手段でそれを見つけた。僕はそれを父が遺した記録をもとに再び見つけ出したのだ。
父親が人生を賭けて探しだした、伝説の名刀。
隠し場所は僕といなくなった父親だけの秘密の場所だった。
学校を辞めたあの日、僕は何となくその場所へ向かった。これからどうやって生きていくかの見通しもなく、いきなり学校を辞めて。本当は自分でも自分にわけが判らなくて、自分だけの場所で安心したくて。僕の足は、自然とそこへ向いたのだろう。
たぶんこの、小豆長光と父の記録をぼんやりと眺めながら、僕はとりとめのない時間を過ごしていたように思う。絢奈には話していなかったけど、ちゃんと追いかけて来たところをみると何となくは知っていたはずだ。
今になると少し、記憶がつながってきている。
僕はこの小豆長光を抱いて、五百年前の京都に来たのだ。それは今、隣にいる、のちの上杉謙信本人になる虎千代に出会うためだったのか、それとも別の意味があっての偶然なのか、それは分からない。でもだ。
この時代にあって宝剣は再び、僕のもとに戻ってきた。それが、タイムスリップの記憶を呼び覚ますよすがとしてなら、また何かの巡り合わせのように思える。もしかしたら、現代に戻れるかも知れないのだ。僕は少しずつ、父が話してくれたことを細部にわたって思い出そうとしていた。
かささぎが僕たちの前に現れたのはそんな、どこか時間が止まりかけたような夕暮れだった。庭の生垣に咲いた青い朝顔を夕涼みをしながら僕が眺めていると、その細長い影が音もなく、背後に立った。
「成瀬殿か。長尾殿は御在宅か」
かささぎはあの三条宗近を携え、真剣な表情だ。僕は最初、彼女が煉介さんとの果しあいの件で現れたのだと思った。
「虎千代なら黒姫と裏庭にいるみたいですけど、あの煉介さんとの果しあいの件なら、まだ返事が」
「火急の用なのだ」
遮るように言うと、かささぎは強引に中へ押し入ろうとする。
「え、ちょっと待って下さい・・・・・」
いつにない剣幕のかささぎの気配に気づいたのか、急いで虎千代が現れた。庭の糸瓜で化粧水を作ると言うので黒姫と糸瓜の棚を物色していたのだ。白い布巾を被った黒姫も糸瓜を入れたざるを抱えていそいそと現れる。
「かささぎではないか。この日暮れにどうかしたのか」
「頼む、この通りだ」
かささぎはそう言うと、地面に直接膝を屈し、頭を下げたので虎千代もはっ、と顔色を変えた。
「どうか、御曹司を助けてほしい」




