弾正屋敷の会談!撤兵に応じない弾正に虎千代が持ち出した切り札とは…?
「明日、弾正に会う。撤兵の相談だ。会談は昼でよいのか」
虎千代の下問に、黒姫は頷いた。
「はいっ、虎さま。手はずはかねての通り」
「者どもよいか。明日は正念場ぞ」
「へい。お嬢、おれら力士衆、総員気合入れます」
屈強な男たちの鼻息は荒い。それに対抗してか、黒姫も殺気立っていた。
「なに言ってんですか。軒猿衆もですよっ」
以前より、手広になったアジトには、予想以上の人数が集まっていた。虎千代とともに弾正屋敷の鳥瞰図(見取り図)を広げて話し合う男たちの熱気で締め切った室内は、みるみる不快度指数を高めている。黒姫の説明で弾正屋敷の警護の現況と出入り口の確認が再度行われ、当日の段取りが決められる。僕は知らなかったのだが、この辺りは何度も確認してきた事項のようだ。
それが終わると今度は各組ごとの最終的な打ち合わせだ。
力士衆も軒猿衆も、真剣だ。
その様子からも、明日の会談がどれほど重要なことなのかが分かる。
そしてその主役を演じるのが、何より虎千代なのだ。
「黒姫、樽を開けろ。景気づけじゃ」
頃を見て虎千代の合図で何個もの酒樽が打ち開けられる。枡酒が回され、乾杯の音頭がとられる。
見計らったように黒姫たちが男たちのために、山のようなご馳走を運びだしてくる。
さまざまな口伝で語られる、上杉謙信のお発ち飯だ。
城下で陣触れ(いくさの召集)があるとき、上杉謙信は山のようなご馳走と酒を兵たちに振舞い、出陣の景気づけをしたそうだ。そのため、城内に大釜が据え付けられるのをみると、謙信の将士たちは自然と出陣を予感したそう。ちなみに謙信のお発ち飯は、今は駅弁になって売られているみたいだけど、それは謙信の次の代になっても上杉家の家士たちがまるで語り草のように諸国に喧伝したお陰なのだ。よっぽど、謙信の大盤振る舞いが印象に残ったらしい。
それがまさか間近で見られるとは思わなかった。
「酒はほどほどにしておけ。だが飯は腹いっぱい食え。明日はいくさと思え」
杯を持ったまま、虎千代は部下たちを激励して回る。その立ち居振る舞いは完全に板についていて、本当に十七歳の女の子とは思えなかった。
「はっふうう・・・・・さすがは虎さまですう・・・・・ああ、今夜こそ抱かれたい」
一人身もだえしている黒姫の横で、僕もお相伴に預かっていた。さすがにお酒は未成年なので遠慮させてもらったけど、同じ場所にいると虎千代に意気を上げられた男たちの気迫はびりびり伝わってくる。
「あああっ、これですよお。明日はとことんやってやるですよ」
黒姫、飲んでないだろうな。以前のことがあるので、あんまり本気になられると正直、怖い。
「やっぱりいつもこんな感じなんだね」
「むむう、真人さんは知ってるですか。未来から来られたからですか」
「うん、上杉謙信のお発ち飯って言い伝えが残っててさ」
僕はそのことを少し話した。黒姫はふんふんと、楽しそうに聞いている。
「真人さんも、虎さまと同い年ですものね。わたくしもそうなのですよ。初陣が、虎さまと同じ十四歳、栃尾城の救援でしたのです」
黒姫は誇らしげに語った。
「へえ、それが虎千代の初陣なんだ」
それにしても十四歳って。中学生だ。江戸期を通じて武士は十四歳で元服をして成人と言うことになるみたいだけどさすが戦国時代は、武士は初陣とともにいくさをしたのだ。
「ええ、為景様亡き後の、長尾領を狙って続々国人たちが叛いたのですよ。四面を敵に囲まれ、絶体絶命の栃尾の城に籠もる城兵に兵糧を届け、反撃に出る。手勢をまとめた虎さまの手下はたったの四百でした。ところが城を囲む敵勢を相手に、虎さまは縦横無尽の活躍。変幻自在の用兵で群がる敵をちぎっては投げ、存分に追い散らし」
黒姫は身ぶり手ぶりで、虎千代の活躍を説明する。彼女自身も従軍したらしく、その話は具体的で、しかもびっくりするようなことばかりだった。
「普通、初陣ともなると大事をとって、無難にことを治めることが多いのですけど、虎さまの場合は本当に危険ないくさだったのですよ。四面楚歌の自城に兵を運びいれ、あまつさえ寄せてくる敵を撃退するなどと歴戦の将も、尻ごみするような難戦です。まさに虎さまに相応しい初陣でしたのですっ」
何度も言うが、僕らで言う中学生くらいの年齢なのだ。
その年齢にして敵だらけの城に入り込んで、疲弊した籠城兵とともに取り囲む敵兵を追い払うなんて凄過ぎる。これに匹敵すると言うと、父親が落とせなかった海ノ口城を策略を用いていとも簡単に攻略してしまった、武田信玄の初陣くらいだろうか。
「あー、真人さんが言う甲斐の大膳太夫晴信も確かに軍略の上手ですが、いくさが強いだけでは人はついてきませんのです。虎さまにはあれほどにお強いのに、敵味方隔てなく、人に感じさせる仁があるのですよ。忍人、外道、悪名を尊んで憚らぬ輩がはびこる乱世には信じがたいほどに」
義の武将。
上杉謙信を形容するとき、必ず言われるのがそう言うイメージだ。謀略やだましうちを好まず、領土欲もなく、ただ秩序と大義のために生涯戦った義の武人。ある意味では、実に戦国大名らしくない、戦国大名とも言える。人によってはそうした潔癖さを、戦国人には不自然だと言って毛嫌いしたり、後世誇張されたイメージに過ぎないと否定する人もいるけど、虎千代といると素直にそれが、虎千代らしい生き方を選んだ結果なんだろうと言うことが分かる。
人の善き面を信じて疑わない心の強さ。でも、その裏腹にある心の弱さ。それは、人の心を信じ切ってしまうどうしようもない情のもろさだ。
戦国人としてときに、それは致命的かも知れない。
「分かってますよ。真人さんが言いたいこと。確かに、虎さまは大名識としては、甘すぎるかもです。降った将を無条件で助け、自分の益にならないいくさでも、頼ってきたものの為とあれば容易に兵を出す。普通、こんなことをしていればいずれは誰かに利用され、挙句は滅ぼされてしまうかも知れません。でも、信じたいのですよ。人を思いやる気持ちが、きちんと報われる、そんな世界を。虎さまを見ていると、それが素直に出来る気がしてならないのです」
と、黒姫は、僕の目を見て言う。
そうだ。いつか、虎千代は言っていた。
いくさのない世界があるなら、それはどのようにやってきて誰が築いたのかと。
ただの無謀ないくさ好きの大名なら、そんなことは言わない。
天性のいくさの才に恵まれながら、これだけ乱世を生きる才を持ちながら。一方でどうして、人を救うことにそれだけ気持ちを傾けられるんだろう。
いつか僕のことを不思議だと言ったけど、虎千代の方がよっぽど不思議だ。
「あれ、虎千代は・・・・?」
そう言えばふとみると、座の中に虎千代がいなかった。おかしいな、あいつさっきまで鬼小島たちと馬鹿騒ぎしていたはずなのに。
「な、なあ黒姫」
僕は辺りを見回した。するといつの間にか黒姫もいない。
「さあっ、明日は一番に虎さまに馳走いたしますですよおっ」
「馬鹿がっ、お嬢に褒めて頂くのはおれら力士衆だ。ぶちかますぜ、クソ野郎どもっ」
気がつくと黒姫も僕の側を離れ、配下の軒猿衆たちや鬼小島たちとけたたましい声で騒いでいる。でもその中心に肝心の虎千代がいないのだ。
どこへ行ったのかな。
僕は階段を上がり、寝室へ行った。しかしあんなに馬鹿騒ぎしているのに、どこもかしこもすっかり開けっ放しだ。お陰で通り雨がやんだ後の月明かりが煌々と辺りを照らしている。これなら灯明皿の火も必要ないくらいだ。
虎千代は誰もいない奥の間の窓辺にもたれかかって、刀を抱いたまま外を見ていた。僕はそれでさっきの虎千代の涙を思い出した。気丈に振る舞ってはいるものの彼女は、暮葉さんを救えなかった悲しみをひとりで抱えていたのだ。
「虎千代」
僕のかすかな声に初めて気づいたのか、珍しく虎千代はびくっ、と肩を震わせた。
「なんだ、お前か」
「大丈夫?」
「ああ」
と、虎千代はこちらを向いた。
「さすが酔うたわ」
「そんなに飲んだの?」
僕は虎千代の隣に座った。
「正直言うと、酒は弱い。不得手じゃ」
「・・・・上杉謙信って大酒豪だって伝わってるけどな」
「悪い噂じゃな、あいにくだがそれは嘘じゃ」
ふふ、と声を漏らして、虎千代は笑った。その息は確かに少し甘ったるく、お酒の匂いがする。
「あやつらとの付き合いもあるゆえ。まあ、強くならねば、とは思ってはいるのだがな」
ふーっ、と重たそうな息をつくと、虎千代はぐにゃりと突っ伏した。どうも本当に酔っぱらっちゃってるみたいだ。危ない。体が崩れて刀が落ちそうになる。
「わっ」
僕はとっさに刀と虎千代を支えた。
「飲み過ぎだよ。本当に大丈夫?布団用意しようか。すぐ寝た方がいいよ」
「ううう・・・・急に立つな。身体がふわふわするではないか」
と、立ち上がりかける僕に虎千代が絡みついてくる。座らせようとしても骨格がないみたいに崩れてしまってまるで蛸みたいだ。
「だいたい、どこへ行くのだ」
「いや、だから布団敷こうと思って。虎千代、酔っぱらってそのまま寝たら風邪ひいちゃうだろ」
「床なら不要じゃ。もう待てぬゆえ」
はっ、と身の危険を感じた僕の首にぐっ、と虎千代の腕が回される。こいつ、べろべろかと思ったら、まだ全然そんな力が残っていたのだ。
「だっ、なにするんだよ」
「かかったな」
ふふふ、と邪悪な笑いを浮かべる虎千代。あれ?気がつくと、虎千代が上で僕が下になっている。起きあがろうとしたその肩に容赦なく虎千代の力が掛かる。押さえつけられている。
「忘れてはいまいな。我ら、きすの途中であったではないか」
「ええっ?」
そ、それまだ憶えてたのか。て、言うか酔っ払って思い出したのか。どっちにしても、何だかたちが悪いぞ。
「黒姫も鬼小島も今はここへは上がってはこまい。さあ存分に楽しもうではないか」
と、上気した虎千代が顔を近づけてくる。思わず僕は顔を背けた。
「ううううっ、なぜ避けるかっ」
「なぜって、酒臭いし。て言うか普通女の子から押し倒したりしないだろ。虎千代、酔っ払いすぎだよ」
「よっ、酔った勢いでやっておるわけではないぞ」
「実際酔ってるだろっ」
すると虎千代は切なそうに眉をひそめた。う、そんな表情をするなんて。反則だ。
「酔うても、気持ちは変わらぬ」
みるみるうちにその瞳に涙があふれる。酔っ払ってるせいか、またころころと感情が変わって手に負えない。
「この前は、じゃあ、と言うてくれたではないか。・・・・・・お前から、してくれたではないか」
「だああっ?それはその、つい勢いで」
「じゃあ勢いで今しても悪くないだろう」
目を閉じると、虎千代は形のいい唇を突き出した。
「い、いやだからこの前は魔が差したって言うか、よく考えたら本当にまずいことだって気づいたからって、結局しなかっただろ」
て、言うか落ちつけよ。
「あれは邪魔が入ってからであろう。今なれば、誰も邪魔はせぬ。その気になれば一晩でやや子も作れるではないか」
ぎゅうっと、虎千代は僕の首に回した手を引き寄せて抱きついてくる。
「わ、わたしは、お前の子なら産むからなっ」
「だ・か・らっ、それが一番まずいんだってっ!」
あっ、こう言うところでそろそろ邪魔が入るはずだぞ。でも一階からは誰も上がってくる気配はない。自分でなんとかしろってことか?いや、この態勢とこの状況、なんとも出来ないぞ。
「と、虎千代。まず落ちつこう、あのさとにかく暑いから・・・・・」
「ううう、だから揺らすなと言うに」
虎千代は僕の肩に顔を埋めたままてこでも動かない姿勢だ。未成年の癖に、この酔っ払いめ。全身の力を使って起き上がろうとすると、
「あれ?」
ふわっ、と首に回った虎千代の腕が力を失ったのは、そのときだった。
「虎千代・・・・・・?」
すうう、と、虎千代の深い息が首にかかる。安らかなそのリズム。危なかった。虎千代はもう眠っていたのだ。酔ってたのは、やっぱり本当のようだった。
またしても、どうにか助かった。
僕は虎千代の肩を抱き、そのまま自分の身体を起こそうとした。すると、
「ううん・・・・・・」
と虎千代がしがみついてくる。行くなってことか。眠ってもなお。でも、さすがにこのまま無下に引きはがして目を醒まさせるのもやっぱりかわいそうだ。
(しょうがないな)
僕は、そのまま座った。虎千代が寝苦しくないように、そっ、と、姿勢を変えてやる。
階下のざわめきは収まる気配がない。
黒姫たちもまだまだ虎千代と僕がいないことに気づかないだろう。
すうすうと、虎千代は寝入っている。
こいつ、寝てればこんなに無邪気な顔してるのだ。
真っ白に輝く大輪の月に照らされた、京都の町屋の風景とまるで無防備な虎千代の安らかな寝顔だけが、まだしばらくは眠れない僕の慰めになりそうだった。
次の日は蒸し暑く、うす曇りのじめじめした夏日になりそうな予感がした。
虎千代は早朝のうちから桃の葉の薬湯(鎧を着るので、あせも避けになるらしい)に浸かり、ゆっくりと会談の準備を整えていた。弾正と会うのは、ちょうど正午だがそれまでにやっておくことがかなりあるらしい。
黒姫や鬼小島も昨日とは打って変わって緊張した面持ちだ。
「話すのは我だ、そう緊張するな」
と、虎千代は僕には苦笑しながら言う。虎千代自身はまったく小憎らしいほどの落ち着きようだ。虎千代がこういうとき、まったく緊張も気負いもしないのはやっぱりさすがだと思う。
「さて、ゆくか」
と、頃合いをみて虎千代は言った。冑こそ使わないが今日は完全な武装だ。紫の糸でおどした馬鎧に、実戦仕様の分厚い角鍔の打刀に長脇差。赤地に金刺繍で蝶をあしらった外套は、僕と出逢ったばかりの時に着ていた舶来物の品だ。
黒鹿毛の馬を操る虎千代に、長巻と大太刀で武装した鬼小島と、大きな日傘(たぶん何か仕掛けがあるのだろう)をさした黒姫が続き、その後ろをびっしりと百名あまりの力士衆たちが固めた。かなり物々しい雰囲気だ。
「真人さんは大げさですねえ。これでも最低限の支度ですよ」
と、日傘をさした黒姫が僕に言った。
「まあ、今の弾正屋敷にゆけば分かりますですがね」
黒姫の言うことはぴんと来なかったが、さすがに上京屋敷に近づくにつれてそれが一目で理解できた。
まず目立ったのは、門外の兵士たちだ。土塁に弓矢避けの身体ごと隠れるような木楯、物見やぐらの上で男たちは胴巻だけの雑兵にいたるまで面頬や猿頬で顔を隠し、弓や槍、やがらもがらと言われる金棒や薙刀などで武装を固めている。
彼らの脇にずらりと並べられている背の低い柵は、逆茂木、もしくは鹿砦というやつだ。粗く削って尖らせた杭を互い違いに組み合わせ、しっかりと縄で結わえてある。騎馬で突破しようとする敵を防ぐためのものだ。
また以前は綺麗に保たれていた塀だが至るところ、なぜか泥で汚されていた。
「ああ、あれは火矢避けよ。水で冷やした泥を塗れば、うかつなことでは出火しない。いくさ支度は万全と言ったところだな」
何日か前に来たときの閑散とした雰囲気からは、昼と夜のようにまるで別のイメージだ。
殺気だった男たちは、虎千代の軍勢をみて色めきたったが、黒姫が長尾家の家紋である九曜巴を染め抜いた白布を見せると、ざらついた視線をどよめかせながらおずおずと道を譲った。戻ってきた黒姫が楽しそうに言った。
「ほーら一目で分かるでしょう。弾正がここへ帰ってきたことが」
しかし、それにしても物騒にも程がある。前に煉介さんと来たときは門番がいる程度だったのに今では完全な厳戒態勢だ。また早いうちに、いくさでもあるんだろうかと、勘ぐりたくもなる。
「あやつもこの京では垂涎の賞金首の一人よ。あやつさえ暗殺すれば、三好は京に地歩を喪い、長慶めの近畿政策はまた、振り出しに戻ることになる。今の情勢で公方の命を狙いつつ、この上京に居座るとは弾正めもなかなか腹太き毒蝮よ」
「怖いのは刺客ばかりではありませんからねえ。そもそも暗殺ばかりでなく大勢で取り囲んで詰め腹を切らせると言うやり方も多いのですよ。この京都で貴人が兵備を離れるのは、なかなかの自殺行為なのですよ」
京都政界に詳しい黒姫はよく知っている。平安貴族が、祟りを畏れて死罪を忌み嫌うので、そのせいか在京の武士たちは昔から、政敵を抹殺するのに自ら手を汚すことを好まず、大勢の兵で取り囲んで切腹させると言う手段を使ったのだ。自殺を強要するなんて、ちょっと陰険なやり方ではある。
ちなみに処刑をすすんで執り行うようになったのは戦国大名が台頭してからであり、極論から言えば織田信長が上洛してから一般化した、とも言えなくもない。
「さてさて、こんなところで油を売ってないで行くですよ。弾正さんがお待ちかねのようですし」
正門からの流れは以前に訪れたときと、ほとんど一緒だった。近習の力士衆たちを残し、虎千代、僕、黒姫、鬼小島と続く。やはりお約束、と言うか鬼小島は鴨居がつかえて窮屈そうだ。
「ったく、銭があるんだからもっと考えて作れっつの」
いや、あんたが馬鹿でかすぎるのが悪いんだろ。
今度は前回のように裏に回れとは言われなかった。黒姫が正式に長尾家の人間が訪れるとして計らったのだろう。
僕たちが座についてほどなく、弾正はひとりで現れた。
素襖に烏帽子と言う、室町風の装束である。きちんとした格好をするととても折り目正しく見えるところは、煉介さんを思わせるが、切り立った線で形作られた風貌は、人に無言の緊張感を与える。
「おう、君らか。またこんな非常時のさなか、よう来たなあ」
気さくに弾正は僕たちを迎える。以前にもこんなことがあったが、油断は出来ない。
「大分立て込んでいるらしいな」
虎千代は辺りを見回す仕草をして言った。
「立てこんでおると言えば、まあ、いつもそうやが」
弾正は座を下ろすと、大儀そうに肩をそばめた。
「しかし、それにしても鍛え込んだ兵どもやな。虎千代、君があの越後の龍、長尾景虎殿であったとはおれも態度を改めないかんなあ。まさかこんなごっつい兵隊率いてくるとは思わなんだゆえのう」
たぶん、かなり前から気づいていたのだろうが、弾正は白々しく言う。
「この屋敷の物々しきをみれば、当然の備えよ」
「物々しいのはお互い様やないか。各地でいくさの火消しに忙しい中、京都では足軽どもが暴れてこのざまや。野洲細川家がぎすぎすしとるお陰で、どこへ行くにも兵を構えておらねばならん。窮屈でならんわ」
「窮屈なのはいささか、尻の座りの悪いせいではないのか」
「まあな。ここは、三好の家じゃ京での最前線の橋頭保みたいなもんやさけ、肝は冷えるわ」
揶揄するように虎千代が水を向けたが、弾正は意に介さない。
「童子切煉介と話したぞ。朽木谷の陰謀、厄介事になりつつあるようではないか」
弾正の顔の表に浮かぶ色を探るように、虎千代は切り出した。
「藪から棒に、妙な話を持ち出しおる。かまをかけるようなら無駄やぞ」
「かまをかける気はない。腹の探り合いは苦手でな。だから直截に物事を言おう。おのが身と、三好家が大事なれば朽木谷からは早々に手を退くがいい。ことが露見しかけた以上、おのれの策謀はおのれ自身を傷つける逆手の刃に過ぎず、関わった人間をも不幸にしかせぬ。そうそうに足軽衆と撤兵の相談をすべし」
落とした言葉の効果を確かめ、虎千代は少し目を伏せ、無言のままの弾正の様子をしばらくうかがった。やがて、
「そう出たか。これはまた、上からの強引な物の言い方やが」
弾正は鷹のような鉤鼻をならすと、唇の端を歪めた。
「で、なんだ。煉介と話をしたというが納得したんかい」
「童子切めには、話はした。お前次第だと思ってはいる」
「あやつは承知せんかったやろ。そういう奴や。だからこそおれはあいつを選んだんやからな。あやつと同じ理由でおれだってお前の言葉には耳は貸さんかもしれん」
「いや、お前はそうは思わない。煉介めよりもより多くのものをすでにしょいこんでおるゆえな」
「ふん、いきなり来て突っ込んだこと言うてくれるわ。確かな証拠もなしに」
弾正は大きく息をついた。
「だがまあ、頓狂な物言いではない。ええやろ、公方様を生害(殺害)し奉ろうと、確かに今、朽木谷に兵を差し向けておるのはおれの差し金じゃ、それは事実や。されど長尾家に口を出される筋合いの話ではない。そもそも野洲細川家と関わりの深いあんたが、おれを調略しようとは筋違いではないか」
じろり、と弾正は白眼の多い瞳を細めると、虎千代を睨んだ。
「確かに我は長尾家の人間だが、長尾景虎として話をしているつもりはない。この会談の申し入れを調略と考えるなら、それこそ要らざる勘ぐり。そも、我は長尾家に益あることとして話をしに来たわけではない。お前とお前の主家に不利益があると、申しに来たまでのことよ」
「それが高慢な物の言い方やと言うのや。大体、朽木谷に刺客を送るは、おれの秘めた陰謀でもなく、まして三好家を傷つける醜聞にもあらず、天下黙認の事実に過ぎぬ。今さら誰にばれたところで構わんことや。それがなぜか、お前に分かるか?」
虎千代は応えなかった。弾正は息をつぐと、おのれの首を親指でさし、
「何よりもこの首、ご当主に代わって我らが敵どもに狙わせることや。公方をつけ狙うおれがこの京洛に居座ることで、遊佐長教も細川晴元もうかつに京を離れることが出来んようになる。将軍義晴を狙うほんまの理由はそれや」
まさか。僕はひそかにちょっと驚いていた。弾正は間違いなく天下の悪謀家には違いないが、その陰謀も自分が囮になって主君の三好長慶を守るためだと言うのだ。言ってみれば裏で糸を引くような陰謀に似つかわしくない、捨て身の策だと。信じがたい。しかし。殺気だった弾正の目は嘘やごまかしを言っている様子もなく、刺すように虎千代を見つめていた。僕の意外な顔色を読んだのか、弾正はふと視線を外し、
「ご当主は千熊丸と申しておった頃から、おれがつき従ってきた大切な方や。父、元長公が顕本寺で非業のうちに果てしとき、おれが堺より阿波へ逃れる手はずを整え、おい育つごとにともに、捲土重来を期して力を合わせてきた仲。決してご当主の不利益に働くことなどしたりはせん」
「その言に二心はないか?」
となぜか念を押すように、虎千代が聞くと弾正はいきりたち、
「ふざけるな。当たり前や」
と、叫ぶように言った。
「どこの馬の骨とも知らんおれや、道の糞や外道やと言われても一向に構わん。されど、ご当主にかけたこの心だけは欲得ではかれるもんではないわ」
「では訊くが、朽木谷のこと、三好殿にお話はされたのかな」
虎千代の言葉に弾正はぴくり、と、こめかみの筋を動かした。
「あほ言いな。言えるかや」
ぼそり、と言うと、弾正は思いつめたように続けた。
「万一のとき、泥を被るはおれ一人でええ。ご当主には一切の罪過なきこと。それくらいの覚悟が出来なければ公方の首など狙わぬわ」
「やはり、話は通していなかったようだな」
虎千代は黒姫に目で何事かを合図した。黒姫は音もなく立ち上がったのだが、そのまま部屋の奥の襖を開けようとしていた。
「なんや」
「恐らく話をしなかったは、反対されるを恐れたためではないか。お前は主君に止められることを恐れて、結局言えなかった」
「なんやと言うておるんや!」
すっ、と黒姫は障子を開けた。
そこに立っているのは、青色の素襖を身につけたひどく体格のいい若い武士だった。たぶん二十代後半くらいだろう。色白でふくよかな顔つきだが、肩幅が広くがっしりとしていて胸板の広さが目立ち、ラガーマンや水泳選手を思わせた。瞳が意外とぱっちりとしていて、そこだけが幼い顔立ちの面影をまだ残している。
「ご、ご当主・・・・・・」
弾正は愕然として目を見張った。
とすると、この人が三好長慶。
織田信長が現れるまでは、隠れもない畿内の覇者だった大大名だ。まだ若いが、体格以上にゆったりとした懐の大きさと威厳が感じられる、大将に相応しい男の人だった。それにしても三好長慶だ。こんなところに軽々しく現れるような身分の人じゃない。それがどうしてここに?
「久四郎よ。話の委細は、長尾殿より訊かせてもらった。即刻、よしなにはからえ」
と、長慶は言った。あくの強い弾正と好対照で、爽やかで濁りのない声音だ。
「この孫次郎、幼少の頃よりお前に苦労をかけておることは忘れてはおらぬ。今も苦境の続く中、もっとも危険な京洛に在住してもらって心苦しく思うている。この上、危険を冒さずともよいであろう。どうか長尾殿の言うとおりしてもらえまいか」
「で、ですがご当主、この計画は三好家が畿内で盤石たるには不可欠の策にて」
と、弾正はうろたえたが、努めて平静を保とうとする口調で続けた。
「この松永、殿に断りもなくひそかに将軍の命を狙うべく朽木谷に兵を送っていたは、伏して詫びまする。されど、これは万一にことが露見したときのためを思えばこその苦肉の策。堺に義維様を擁し、ようやくと三好家が幕府を牛耳れる機会がめぐってきたではありませぬか。この上、京都の公方義晴を亡きものにし、反対派を叩きつぶさねば、三好の天下は畿内に根付きませぬ。代々のご悲願は、殿にこそかかっておるのです」
まっすぐ自分を見つめる弾正の視線を受け止め、長慶はゆっくりと頷いた。
「久四郎、お前の言うこと道理。よう分かる。されど、公方様を直接この手にかけて天下万民、誰がこの私につき従うと言うのか」
長慶は苦い顔で、弾正を諭した。
「確かに累代、京に上り覇権を唱えるは我が三好家の悲願であった。父、元長の最期はお前の方がよう存じておろう。顕本寺でふいの敵勢に囲われた父は詰め腹を切らされ、憤懣のあまりおのれの腸を寺の天井に掴み投げて果てた。それもこれも三好家が管領家の争いに関わったがせいかと、私も随分悩んだものだ。この将軍家と細川家の因果、いかさま我が家についた呪いか業病のようじゃ。されど、我らが性根の骨を腐らせてはこの病魔は快癒せぬではないか?」
「しかしご当主、このままではいつ苦境を抜けられるか久四郎は不安でなりませぬ」
顔を伏せた弾正は暗い視線を長慶に送って、感情を訴えた。
「お前の不安も分かる。だが、もう一歩じゃ。いずれは弟たちが渡海し、堺に我らが軍勢が満ちるようになる。我らは同じ境涯、援軍が来るまでの畿内籠城軍じゃ。辛抱して、捲土重来のときを待つ、と。お前が言うたことであろう?私はまだ信じているぞ」
と、長慶は大きな懐を見せて、弾正の背をやさしく叩いた。
「私もお前に苦労をかけ通しじゃ。少し、頼りある当主にならねばな」
「ご当主・・・・・」
弾正はこれ以上の言葉なく、押し黙った。
「撤兵の件、よしなに頼むぞ。なるべく穏便にな」
弾正は平伏した。
長慶はそれを見届けると、虎千代の方を向いて言った。
「長尾殿、手痛い御忠告、心底より感謝する。この孫次郎めも人の子、まだまだ若輩ゆえ、家臣どもがなにくれとなく、心を焼いてくれるのだ。時折、この未熟さが歯痒うてならぬ」
「それは当家とて同じこと。ですがいざと言うときに馳走してくれる股肱の家来があってこその大名識ではありませぬか。それよりこちらこそ、年の差も弁えず、差し出口を利いて汗顔の至りでございました」
「長尾殿にそう言って頂けると、こちらこそ恐縮。わざわざのご訪問感謝致す」
見れば見るほど長慶は、非の打ちどころのないきちんとした若者だ。さすがに虎千代も長慶の見事さを後でことごとに感心していた。
しかし、長慶本人が来るとは、驚いた。
それにしても、虎千代が黒姫に言っていた、手筈、とはこのことだったのか。まさか弾正の主君の長慶を連れて来て直接説得に当たるなどと言う離れ業をするとは思わなかった。
「三好家は源氏の名族、恐らく当主は暗殺のことは知るまい、そう踏んだのよ」
と、虎千代は後でその事情を明かしてくれた。
「弾正は単独で動いておる。それを裏付けてくれたのが、黒姫だ。あやつが上手く、当主に接触してくれたお陰でことにあたれた」
「まあ、わたくしと軒猿衆の実力をもってすれば容易いことですよ」
黒姫は自慢げに言う。もうちょっと慎ましくしてれば評価されるのに。
ともあれ、会談は大成功に終わった。
長慶の前で弾正は即時の撤兵を認めた。実際の日時や手はずは後で相談するとは言いつつも、主君に約したのだ。これは容易なことでは破れないはずだ。事実、ここで朽木谷の陰謀は幕を閉じるかに、見えた。
しかし、だ。
やっぱり僕たちは誤解していたのだ。
あのとき平伏した弾正が腹のうちに秘めていた、真の意図のことを。
それをやがて、もう間もなく思い知らされることになる。
恐ろしい陰謀の正体がそこまで迫っていた。




