密会の真相は、昭和の男たちと迫る戦い…
久遠は握りのついた道中杖をつき、藍色の袖なし羽織に、頭巾を被っている。僕が見たところ顔を隠す気はないようだ。
(久遠はやはり、十界奈落城の人間と接触している)
連れ立っている人間の物腰や歩き方を見ても、それはほぼ間違いない。
でも、
「どこへ行く気だ…?」
その足取りは意外に軽く、背後を振り返ったり、道を変えたりと言うこともない。連れとともに一直線に、目的地へ向かっている感じだ。そしてその目的地と思しき場所も、それほど遠くではないと思われる。
もちろん、相手も変装しているから街中で情報工作を行っても、はた目にはそれほど不自然ではないはずなのだが。黒姫や信玄が放った防諜網の他に、いつ顔見知りに出くわすとも知れない(実際僕は、出くわした)場所での接触が命とりだと言うことを、久遠ほどの人間が知らないはずはないのだが。
僕と虎千代の二人で得た結論に間違いはないとは思うが、いざ尾行していくと、このように不審な点が気にならざるをえない。
「妙だな」
「虎千代もそう思う?」
僕が言うと、虎千代は声もなく、苦笑した。
「妙だと言ったのは、お前のことだ。あやつは今でも我らの虜囚のつもりでいるし、味方ではないと言っているのだろう?…真人は、あの男を信じたいのか?」
「そんなわけないだろ」
僕は勢い込んで、言った。色々あって、もはや水に流したことになっているが、僕はあの男に殺されそうになったのだ。確かに、情報工作員としての識見の豊富さや勘の鋭さは認めるし、僕たちが生きる時代を築いてくれた昭和の男として、尊敬すべき部分がないとは、言えないけど。
「僕にはっきりと、あいつは言った。どちら側でもないと。久遠は、久遠自身しか信じないと。でもだからこそ、卑怯なことはしないと思うんだ。そう言う人間じゃないって言うか」
「つまりは久遠を信じている、と言うことだな?」
「違うよ」
「違うまい」
虎千代は、にやにやしている。そうやって無理やり、僕が久遠を信頼していると言う方向に持っていきたいんだろうけど、断じて違うぞ。
「…虎千代、こんなこと、もう言いたくないんだけど、あいつには殺されかけたんだからね?」
「だがお前は、その奴を救った。なるほど、やってきた時代も立場も違うが…何か相通じるものが、お前とあの男にはある、と思ったのではないか?」
「だから、どう言う深読み?」
考えすぎである。心熱い戦国武士の社会で生きている虎千代としては、戦いの中に芽生えた男同士の友誼のようなものを期待しているんだろうけど、がちがちの昭和の男と平成男子の溝は、そう簡単には埋まるものではない。僕が久遠のことがどれだけ苦手か、言い出したらきりがないからやめとくが、個人的愛着は皆無である。
と、顔を上げたら久遠がいない。この界隈、人通りはそれほどでもないが、脇道、袋小路が多い。少しでも目を離したら、あっ、と言う間にどこへ入り込んだのか分からなくなってしまう。
「…虎千代が変なこと言うから、見失っちゃったじゃないか」
「すまぬ。…だが、打つ手がないわけではないのだろう?」
ついには虎千代も、気楽に言うようになった。僕は最近、晴明に代わって便利アイテムを取り出すなんでも屋になりつつある。
「式神飛ばして、天目の呪を使うよ」
僕は油紙で折り鶴を作ると、風の本名を呼んだ。地上からは迷宮でも、上空からなら、一目瞭然と言う例のやつである。
いくら凄腕の工作員とは言え、陰陽術で気を探られ、上空から式神に偵察されていることまでは勘づくことは出来ない。
久遠が往く道は、すぐに分かった。ぱっと見には、通り過ぎてしまうような篠の生垣があるつづら折りから、雑木林の中を下ったのである。痕跡をたどりつつ、僕たちは小路を下った。先を追う天目の呪は、約二十メートル先を行く久遠たちが、坂の下から続くY字路を向かって右に入り、竹林を通って小高い場所に出たところまでを捉えていた。
「伏勢はおらぬか」
「いないよ」
察気術で、視界の利かない薮内を探りながらも、僕の天の目は久遠を追っている。二人は雑草で埋もれた置石をたどって、奥へ入る。そこに屋根の落ちかけた廃社があった。二人はその内側へ入っていく。そうなると、空からでは何をしているのかはうかがえない。
「急ごう。…天目の呪じゃ、今二人がどうしているかまでは、判らない」
虎千代は無言で頷いた。虎千代の言う通りの待ち伏せではないとは思うが、いざやるとなれば相手も二人がかりである。
周囲に敵は見当たらないため、結局、正面切って乗り込むことにした。現場を暴くしかない。突然出現した僕たちに、目を剥いたのは久遠の連れだった。
「なんだ貴様らッ!」
「よせ、尾上。下手をすると、無事で帰れなくなるぞ」
身構えた男を、久遠は立ちはだかって制する。やはり、プロだ。尾行を警戒していた。
「後ろの連れは、関東軍とやらの同輩か」
虎千代は、あごをしゃくる。腰の柄には、手をかけてはいないが物腰から手練は、洩れなく伝わったはずだ。
「そうだ。奴は尾上、おれと同じ特務の後輩だ」
久遠は相好を強張らせたが、それも一瞬で消えた。肚を決めると、堂々と肝心なことはしゃべらない。これだから情報部員は厄介だ。
「久遠、説明は訊く。…でも、十界奈落城の人間なら、その人を劔の元へ帰すことは出来ないな」
「好きにしろ。話を聞く、と言うならな」
僕の脅しがしゃらくさいと言うように、久遠は鼻を鳴らした。
「おれから、奴に渡すものはない。目的は私信だ。おれが、預かりものを返してもらっただけのことさ」
「預かりもの?」
久遠が取り出したのは、使い古しの聖書である。ロシア正教で使う、礼拝用の旧約聖書だと言う。
「ある戦友に貸していた。必要なくなったから、引き取ったまでのことだ」
「戦友?」
久遠は、眉をひそめた。
「おれたちと同じ、特務だ。公式上は、演習で、事故死したことになっている。名は、密草葵。お前たちが知っている歴史上には、登場せん名前だ」
ハルピン機関に勤めているスパイは、多種多様だ。元々、地下で政治活動に従事する工作員もいれば、軍属から特命を受けてその道に足を踏み入れるものも少なくなかった。
「奴には目的があったし、おれには奴が必要だった。おれがこの道に引き入れた。幽霊になれ、と言ってな」
そう話す久遠の口調は、珍しく強張っていた。思わず僕は、尋ねていた。
「その人は、戦死したのか?」
ほんの一瞬だが久遠はその眼差しを、真っ直ぐには上げられなかった。
「戦死とは言わん。奴は工作員として、死んだ。終戦直後、ハルピン市街でソ連の防諜機関、スメルチに追い詰められてな」
「しかし久遠さん、奴は目的を全うして死にました」
尾上がひび割れた声で、口を挟む。それが是とするのが、特務機関員の生きざまだとでも言うように。
「奴には、腹違いの姉妹がいた。母親はロシア人だ。聖書は、その二人のためのものだった」
久遠が開いたページには、冬忍の押し花が、挟まっていた。それがこれが密草葵と言う男が、久遠に遺したたった一つの餞であったのだろう、と言う。
「馬鹿な男だ。…特務にとって、玉砕は美徳ではない。どんな手を使っても生き残るのが、真髄だ、とあれほど言ったと言うに」
「あんたも今、その話を聞いたんだな?」
「そうだ。こちらに来ていまいかと一縷の望みは持っていたが、受け取ったのは遺品だった。この世界で奴の供養が出来るのは、おれしかおらんだろう」
久遠の言葉つきは重々しかったが、視線ははるか遠くを見るようだった。
そのとき、ここまでで十分だろうと言うように、虎千代がそっ、と僕の袖を引いた。
「もうよいだろう、真人。これはわたしたちには、これ以上、立ち入ってはならぬ話だ」
そう言われると、もはやぐうの音も出なかった。確かにこれは、久遠の奥底にある琴線に触れるたちの話だし、あの時代の満州を知らない人間がうかつに立ち入ってよい話ではない。
「疑いは晴れたようだが、これから別に同道しても構わんぞ。お前は、おれたち昭和の後の時代の人間だ。いまいち不甲斐のない貴様に、おれたちが喝を入れてやろう」
「い、行こう虎千代」
「なにを焦っておるのだ」
冗談じゃない。久遠だけでも暑苦しいのに、これ以上、昭和の洗礼は不要である。
「安心しろ。尾上を無事に帰してくれる代わりに、お前たちのことは一切話さない。元々、この会見も非公式だ。劔に知れたら、首が飛ぶのは奴だ」
久遠は尾上を庇うように、言った。そう言うことなら、仕方ない。僕たちは二人を残してその場を去ることにした。
帰りがけ、虎千代は言った。
「つくづく良き目をした男たちよ。敵ながらわたしは、連中が嫌いではない。ただの一兵卒ならず、きちんと意志ある者どもだ」
虎千代が言うのには、同じ関東軍だった廣杉のことも含まれているのだろう。僕だって本質的には嫌いなわけじゃない。
その昭和の軍人たちとの衝突が、迫っている。
彼らは確かに、平成に生まれた僕たちの世界を作ったのだ。あるものは、戦犯の汚名を着せられ、またあるものは人知れず異国の草莽にその命を散らして。さっき、久遠が話したこともそうだが僕たちはあまりにも、同じ人間として生ある彼らの面影を知らない。
だが一方で知ってしまっていいものかと、ひそかに恐ろしくもなる。
これから始まるのは決して避けては通れない。
だが、憎むことなど出来はしない相手との戦いなのだから。
そして、久遠からすれば僕たちはまだまだ、甘かった。
僕たちと虎千代が去ったあと、久遠はその聖書を何に使ったのか知る由もなかったのだから。聖書は隠し地図の一部だった。忍忍の押し花が挟まれていたページ、別送の虫食い地図を載せると、単語が浮かび上がって、久遠をある場所へと導く仕組みになっている。
尾上と別れた久遠は今度は覆面をし、早馬を駆った。
そこは八海山の懐にある、洞窟に隠れた秘密の山荘だったのだ。久遠はそこで馬をつないだ。
「久しいな、久遠」
待ち受けていたのは言うまでもなく、十界奈落城の主である。劔劉志郎は、白皙の頬に亀裂ような笑みを浮かべた。
「よく、戻ってきてくれた」




