ついに対峙!撤兵を迫る虎千代に煉介さんは・・・?
色薄い夕暮れの空に、薄墨を流したように雨雲がわだかまってきている。空気がまだらに、高温と低温の二つを孕んできているのが僕たちにも分かった。もしかしたら、これから日暮れ時にかけて、またひと雨来そうな気配の天気だ。
僕たち三人が、軒猿衆のアジトに帰るとおかしなことが起きた。なんと店の戸がすべて閉め切られているのだ。そしてなぜか観音開きの大木戸に、大きく掲げられた、『閉店』の文字。鬼小島が特大のサザエのからのような拳で、木戸をノックすると中からひっそりと黒姫が現れた。
「どうぞ。すでにお待たせしております」
お待たせって、誰を?
どう言うことだろう。
事情をすでに解しているのか、虎千代は僕をみて言った。
「ああ、今宵は貸し切りだ」
入ってみて、僕はもう一度驚かされた。
中はなにもない。
建具も瓶もなにもかもが片づけられている。
戸がすべて開け放たれ、いっぱいにとりこまれた色素の薄い西日が磨き込まれたまっさらな板の間に映えて、まばゆいほど輝いている。虎千代は貸切だと言ったけど、どういうことなのだろうか。黒姫に案内されるまま、ついていくと、その理由が分かった。
奥に、誰かが独り。
ぽつん、と座って酒を呑んでいる。
肴は奈良漬けに、干し魚の焼き物が数尾。
かわらけの杯に、手酌で楽しんでいるのは。
「煉介さんっ?」
「やあ、帰ってきたか」
「か、帰ってきたかじゃないですよ」
僕の見間違えじゃない。
そこにいるのは、確かに煉介さんなのだ。
「どうしてここにいるんですかっ?」
「ううん、事情を説明するとちょっと長いんだけどさ」
「暮葉が急を報せたか」
その事情を察しているかのように、虎千代は尋ねた。
「ああ、虎千代と真人がおれを探しに戻ってきてくれたってね」
ふんわりと、煉介さんは微笑する。
煉介さんはいつもと変わらない着流し姿だ。長い髪を束ねて後ろに流して、紫色のあわせの胸をだらしなくくつろげている。小さな脇差しに傍らに引き寄せているのは、あの、巨大な太刀だ。相変わらず脱力した感じも同じなので、僕はふと、いつもの感覚で煉介さんをとらえてしまいそうになる。
「よくおれが、来るのが分かったね」
「お前の姉が消えた、その時点で予想はしていた。恐らくお前から、出向かざるを得ないようにしてくれるのであろうことを、な」
「なんだか、急いで片づけたみたいだな」
空っぽの板の間を眺めて、煉介さんは言った。
「さすがに、ひとりで来るとは思わなかったか」
「ああ。一方的に居所を知られてそのままでいられるほど、自信家ではない」
「なるほど」
いかにも戦国大名らしい物言いに煉介さんも苦笑気味に肯いた。
「だが独りで来るとなれば、もてなし方は別だ」
虎千代は僕たちを促すと、煉介さんの目の前に座った。
「黒姫、用意を頼む。すまぬな」
「はいはいっ、ただいま」
黒姫が僕たちにも飲み物を用意してくれて、やがて静かに酒宴が始まった。虎千代は手酌でさしていた煉介さんに酒をそそぐと、自分も少しそそいで口に含む。
「話は聞いた。お前の野望は知っている。そのことに口を挟む気はない」
しばし、二人は無言で杯を重ねていた。
「煉介」
と、やがて虎千代は試すように言った。
「分かっているはずだ。お前を待つものがお前を案じておる」
「ああ、それはよく分かってるさ。でも虎千代、君だって分かっているはずだ。歩きだそうと決めたら止まることが出来ないこともあるんだってことを」
煉介さんは強がる風もなく、そう言い切った。この人は、いつもそうだ。そうやっていつも澄んだ顔で野望を語る人だった。
「お前の野望は野望で尊いものだとは思うておる。しかし、それは弾正の誘いにこのまま乗ったとて、恐らくは実現すまい。取り返しのつかない事態になる前に、まずは一度、矛を納めようとは思わぬか」
煉介さんの杯が乾き、虎千代が酒をそそいだ。そうしてお酒がなくなると黒姫がすぐに立って新しい瓶子を持ってくる。
「弾正は朽木谷から手を退く」
まるで爆弾を投下するように、虎千代は言った。
「これはまもなく、確実にだ」
「なぜ断言できる?」
「理由は三つある」
と、虎千代は言った。
「ことの一つは、お前らの仲間割れだ。検非違使の暮坪道按がくちなは屋に現れ、野洲細川家が動き出したそもそもの要因は聞けば、お前たち朽木谷を攻める三人の足軽頭のうち、火車槍首の狐刀次と言うものの裏切りと訊く。この時点で、もはやこれは暗殺ではなくなる。弾正にとっては、計画倒れもよいところだ」
「虎千代、君は認識を間違っているな。三好家では、将軍を暗殺しようなどと言う話は、そうそう新しい話じゃない。将軍が暗殺を恐れて朽木谷に居を移したのは、おれたちが弾正の命を受けて朽木谷に兵を送りだすより、ずっと以前の話だ」
「暗殺は暗黙の事実だった、と言いたいのであろう。だがそれが公然の問題とならなかったは、将軍に三好家を駆逐するだけの実力がなかっただけの話よ。今なら格好の挙兵の理由ともなるし、逆賊を討つと言う名目が出来れば余計に兵は集めやすくなろう」
煉介さんはこれに、何も応えなかった。なのでか、虎千代は二つ目を話した。
「次に、畿内の情勢と弾正の思惑だ。野洲細川家の挙兵からこの方、三好家は全体的に見て、各地での小戦闘で敗退を喫し続けている。今夏、この不利は変わるまい。しかし、だ。この情勢が秋以降は一変する可能性がある」
虎千代の合図で黒姫がばさり、と何かの帳面を差し出した。
「これは、堺に詰める軒猿衆が三好家の情勢を調べたものだ。三好家の本拠は言うまでもなくそこから海を隔てた阿波(徳島県)」
そのうちの播磨灘の地図を示したものを、虎千代は取り出した。当時、堺の海、いわゆる今の大坂湾から淡路島、香川県、徳島県の一帯にかけては三好長慶の本拠地になっていたのだ。地図上には、その各領に詰める三好一族の武将たちの名前が記されている。
「まずは淡路の安宅冬康が、四国からの軍勢を渡海させるべく、急ぎ準備を進めている。軍船や物資の確保、渡海計画のめどがつき次第、安宅は本国に事情を知らせるであろう。阿波、讃岐の兵を率いる二人の三好家のいくさ上手の名は聞いておろう。三好義賢、今一人は十河一存」
僕は内心で、あっ、と声を上げた。ちょっとマニアックだけど、この二人の名前は知っている。長慶の懐刀でいずれも猛将のふたつ名を持つ名うてのいくさ上手だ。
義賢は、実休と言う名のりの方が一般的に通じがよく、例えば織田信長などは、その勇猛さにあやかって、実休が戦死したとき愛用していた刀をわざわざ探させ、自分の身につけたほど畿内の名将として名高かったそうだ。十河一存は鬼十河の名前で知られ、長慶の死後も戦国動乱にその雷名を轟かせた。二人とも長慶の軍団を率いるに相応しい、実戦司令官だ。
「この四国本軍が到着した時点で一気に反転攻勢に出る、と言うのが今、弾正たちが描いている本来の絵図よ。要は今の情勢では、現状のつなぎさえ出来ればそれでよい。孫次郎(長慶)めの腹はいかなる手立てを用いても本軍の渡下地点であり、奴らが戴くもう一つの幕府である根拠地、堺さえ死守することよ。すなわち正直、弾正自身、公方暗殺を本気で願うておることか、そもそもそれがはなはだ怪しい」
この話にはさすがの煉介さんも驚いたのか、言葉の行く先を喪っている。だが虎千代のそれは、もともと京都政界のつながりも深い長尾家が総力をかけて調べた、本格的な政情分析だ。生半可には退ける根拠は出てはこまい。
煉介さんはこれにも私見を挟むことはなく、黙って訊いていた。やがてぽつりと言った。
「最後の一つを訊きたい」
虎千代は堂々と言った。
「近々、撤兵の相談をしに行く。渡海軍の到着を待たず弾正は朽木谷から間もなく、手を退く。後方援助を断たれてまで本意を遂げる足軽衆はおるまい」
「君が撤兵を掛け合うのか。すごい自信だな」
煉介さんはさすがに苦笑して言った。
「益がないいくさはせぬ。一手預かる将なれば分かるはず」
しかし、虎千代はきっぱりと断言した。
「利よりも損が多いと分かれば、話は通じる。一般の理を口に出さずとも、元来、弾正と言う男はそういう男ではなかったか」
煉介さんは深いため息をついた。松永弾正という戦国武将の一般的なイメージは抜きにしても、恐らくはその人物眼は煉介さんの目から見ても、そう間違ってはいないのだろう。
「いずれ弾正は早々に朽木谷の謀略を手仕舞いするは、必定。煉介、お前がこれ以上、京都の政情に関わるは、労多くして益なきことだ。今、ここを発つなればまだことが公になってもほとぼりが冷めるまで、かの地へ近づかなければ滅多な火の粉を被ることはあるまい。ましてや人のために天下の大罪を被ることもない。お前なら、別の土地へ行ったとて、凛丸たちを率いて立派にやってこれよう。退くなら今しかあるまい」
「おれは退く気はないよ」
と、煉介さんは、はっきりと言った。
「今の話を聞いてもか」
「ああ、おれは京都以外で生きられないし、生きる気もないんだ。そう決めて、生きてきたんでね」
煉介さんは覚悟を決めた表情で言った。
その言葉には気負いはおろか、偽りも強がりも感じられなかった。
「ところで虎千代、少しおれの話をしてもいいかな。意見なんて、おおげさなものじゃないんだけど」
「訊こう」
と、虎千代は言った。
「こんなことを言ったら、笑われるかも知れないが、おれと弾正様はよく似ている」
異論を差し挟まず、虎千代は煉介さんが話すのを訊いていた。
「この街に生まれ、わけもわからず戦火から逃げる暮らしを繰り返しながら、なんの答えも与えられずに、それでも生きていく運命だけで生きてきた。必要なことは必死で学んだし、そうでないことはおれには関係がなくても、そこにあるものと受け止めることでこの世界を生きざるをえなかった。いつも何もかもが不可解で、混沌としている。それがおれだった」
煉介さんは言葉を切ると、虎千代の杯に酒をそそいだ。
「でも、それはそれで仕方ないことだ。現実を歪めることは嘘だ。嘘はそのまま死につながった。混沌は混沌のまま受け入れるしかない。それがおれの生き方だった」
煉介さんの声は暗く沈んだものでも、失望によどんだものでもなかった。相変わらず静かに澄んでいたが、どこか遠くを見るような響きを感じさせた。ともかく僕は、そんな煉介さんを初めてみた。
「それでもおれは、あるときこう考えるようになった。そんなあいまいな状態もいつかは終わる。今のおれに分かることを一つ一つ積み重ねていけばやがて雲が晴れてたった一つだけ太陽が射すみたいに、ごく単純な答えが手に入る。そう信じていた。たぶん、この街から出ていった弾正様も同じことを考え、捜しながら生きてきた男だ。そのはずだ。おれたちが国を盗る、ということはつまりはそう言うことなんだよ。ただ、大名になるというのではない。名前と答えを喪ったまま、生きてきたおれたちがそれを手に入れる。虎千代、生まれつき大名の家に生まれた君には理解してもらえないかも知れないが、それはすごく大切なことなんだ」
「かも知れぬ。わたしにはお前たちの気持ち、察することは出来ても理解することは出来ぬであろうがな」
と、虎千代は卑下するでもなく、共感するでもなくそれを認めた。
「おれたちは自分の国を得る。それがどれだけ手間のかかることだろうと、危険なことだろうとだ。名もないおれたちが将軍を殺害したところでどうと言うことはない。罪を得るのは名を得たものだけだ」
「お前はその名を得るためならば、あえて罪を得ようと言うのか」
「ああ」
しっかりと、煉介さんは頷いた。
「そんなところだ。おれはそのことで後悔しないために生きてきた。今だって、後悔はしていない。そのつもりだ」
「だがお前は罪を得ることを、凛丸たちに強いなかった。こっそりと独りで兵を率いたはそのためではないのか。罪を得る恐ろしさをお前の大切なものに、少しでも強いることのないように」
虎千代の今の一言が核心をついていたのか、はっ、と煉介さんは顔を上げた。そうだ。そうなのだ。煉介さんだって将軍を殺すことの危険性を理解しているはずだ。だからこそ、凛丸や真菜瀬さんたちを巻き込むことをあえてしなかった。それなのに。
煉介さんの顔に現れた動揺の波は一瞬で掻き消えた。まるで夜のしじまのような静寂に、僕たちは続く言葉も探せず、ただ黙っていた。
「そこまで分かっているのなら、君も、もう関わらないことだ」
やがて、煉介さんが口を開いた。
「正直、迷惑している。お陰で裏切り者ばかりか、長尾景虎の首を狙うものまでおれたちの間に現れてきているからな」
「余計な節介は性分だ。だが、お前も耳が痛いのではないか」
煉介さんは僕の方を見て、微笑んだ。
「まあ、それは確かに、違ってはいない」
「煉介さん」
僕は続く言葉が出ずに、その澄んだ瞳を見つめ返すだけだった。
「マコトには、迷惑かけて悪かったと思ってるよ。絢奈ちゃんにもよろしく、言っておいてくれ。あと、凛丸たちにも上手くいったら必ず迎えに行くって伝えておいてくれよ。それとさ、真菜瀬にはだけど」
煉介さんは僕に苦笑を見せると、声をひそめた。
「あいつはたぶん怒ってるだろうと思うから、頃合いをみておれから必ず会いに行くからって伝えておいてくれないか。一応ちゃんと、つけを払う気はまだ、あるからって絶対言ってくれよ」
煉介さんは空になった杯を袖で拭うと、膳の上へ返した。
「さて、色々とご馳走になったな。何か手土産でもあればよかったんだけど」
「いらぬ。それよりも、あやつらの元に無事に帰ってやることを考えることだ。我も真菜瀬と約定した。どうあろうとお前は必ず、連れ帰るからな」
「まったく、つくづく強情だな」
くっくっ、と煉介さんはとてもおかしそうに笑った。
「でもまあ、心配してくれているのは分かる。虎千代、君の気遣いだけは頂いておく。おれのために、わざわざ危地に足を踏み入れようって言うんだからな」
「お前のためではない。真菜瀬のためぞ」
「ああ、おれはおれで好きでここへ飛び込んだんだ、誰にも文句は言わせない代わり、誰にも責任を求めない。だが、ありがとう。礼代わりに、一言注意を残しておくよ。暮坪道按のことだ」
「ああ、あの検非違使か」
確か。あの異様な水干の男。あいつは煉介さんと朽木谷を攻める三人の足軽頭の一人と、つながりがあると訊いていたけど。
「あの男、以前から、おれのことを探っている。元は細川家とつながりの深い、足軽の親玉なんだ。おれに興味を持ち出したのは、君、鵺噛童子のことがあってからのことなんだが、君の素性を突き止め、その上で色々手を打っているようだ。もう来ているかも知れないが、市内にはおればかりじゃない、君を狙う刺客も放たれている」
刺客とは、まさか。その一言で、虎千代は瞳を細めた。
「思い当たる節があるようだね。どうやら道按は細川家から情報を得ているみたいだ。野洲細川家と長尾家とは古くからつながりは深い。ゆえに長尾家から、君の情報は伝わりやすい。そう考えるのは、不自然ではないだろ」
「ああ」
考えをまとめるように、深いため息をつくと虎千代は腕を組んだ。
「長尾晴景と景虎、つまり、君のお兄さんと君との関係や越後の国情まで道按はかなり把握している。だがあくまで道按は細川家外部の人間だ、越後の守護代家の内部事情まで本来は把握できるはずがない。つまりは」
「道按を動かしているものがいる、そう言うことか」
煉介さんは、こくり、と頷いた。
「恐らく、そいつは越後の国情に深い人間だ。長尾景虎、すなわち虎千代が死ぬことで直接利益を得ることの出来るもの。それがもとから細川家の家中に残っていたのか、それとも、君と同じ、越後から直接来たものの仕業か、いずれにしても今でも本国とつながりのある誰か、と考えるのが妥当じゃないかな」
「肝に銘じておく。それが、誰であろうとな」
「そうだな。忘れない方がいい。ことによったら、おれより、君の方が危地にいるかも知れないからね」
煉介さんは冗談めかして言ったが、僕からみれば二人ともすでにかなり危ない場所に立っているように思えた。
煉介さんは歩いてやってきたようだ。外へ出ると、にわか雨が降り出し、土が濡れる匂いが立っていた。黒姫が人数分の傘を持ってくる。
「途中まで送ろう。我らも、ここは棄てねばならぬからな」
「ああ、悪いね。傘まで借りちゃって」
煉介さんは本当に気楽そうに傘を差したが、僕はちょっと不安になった。さっきの道按の話じゃないけど、この二人、市内中に充満した刺客に狙われているんじゃないか。黒姫は虎千代たちの一歩後を歩いていたのだが、ふふふん、と気楽そうに鼻歌混じりだ。
「真人さん、ほらっ堂々としないと逆に怪しいではないですかっ。この辺りは、わたくしたち軒猿衆がお守りしているのですからねえ。それに、いざとなったらでっかい楯もありますし。こんのうっすらでっかい矢玉避けが」
「てっめえ、相変わらずいい度胸だな」
黒姫と鬼小島は殺気を帯びた表情で睨み合う。二人はあまり仲がいいとは言えないのか、楯扱いされた鬼小島はぴくぴくと青筋を震わせている。
それにしても、煉介さんと虎千代。二人並ぶと、男女差にしてもかなり背丈が違うのが分かる。真菜瀬さんだといつもぴったりくる感じがするのだが、この時代の女の人にしては意外と大きいのだ。
僕たち三人は、黒姫と鬼小島の少し前に一列になって歩いている。虎千代が真ん中で煉介さんが左端、僕が右の端だ。いざと言うときのために僕は傘を持って、虎千代と二人で入っている。(これは黒姫の提案なのだが、やっぱりそのとき、笑顔が引き攣っていた)相合傘と言うとまったくその通りなのだが、戦国大名然とした虎千代の横にいると何だか要人警護をしているみたいだ。
僕たちはこれから上京を通って、鴨川沿いを下るらしい。行き先が近いのか、結構連れ立って歩いてきた気がする。煉介さんの方はどこへ帰るのだろうか。
「ああ、我も一つ、お前に伝えねばならぬことがあったな」
ふと、思い出したように虎千代は言った。
「早崎一刀流という流派を知っているか」
「ああ、早崎の衆、一鵡斎と言う御老が将軍お傍に仕える女たちに武術を仕込んだ一派だろ。それがどうかしたか?」
「かささぎ、と言う女剣士が、お前と果し合いを望んでいる」
「そうか。一鵡斎、おれが斬ったからな」
煉介さんはなんでもないことのように言った。
「あやつとお前、いずれが斬り死にしようとも、我は一切関知しない言質を取られている。お前を連れ帰る約束はしているものの、剣の上のことなれば仕方なし。だが、一応、忠告はしておくぞ」
「心配は無用だ。まず、おれは果し合いに応じる暇もその気もないし。一鵡斎との勝負は水入らず、一対一の斬り合いではあったけど、まあ、正式に勝負を申し込まれたわけでもないからな。まして、おれは武芸者じゃない。ただの足軽大将だ」
「向こうはそうは思うてはおらぬようだがな」
「狙うなら、そこは勝手にすればいいさ。おれは斬らなきゃいけないときは斬るし、そうでなきゃ、極力殺し合いなんて望まない。でもたぶん、その子とは遅かれ早かれ、どこかで斬り合うだろう。まあ、適当に伝えておいてくれよ」
と、三条大橋に差し掛かる頃、雨足が強まった。
「ここで。いいかな」
「ああ。傘は持っていけ」
「悪いな。返すあてはないかもだけど」
大粒の雨だ。銀色の雨が視界を壟断するほどの勢いで、地面に降り注いでいる。夏の雨なので泥濘がかかる濡れた足が生温かかった。に、してもこんな大雨になるとは思わなかった。篠突く雨ってこんな感じだろうか。
「姉上殿によろしく、伝えておいてくれ。くれぐれも身体を大事にと」
虎千代の言葉に、
「ああ、やはり、きちんと話しておくべきだな」
と、言うと、煉介さんは表情を曇らせた。
「姉は死んだ」
はっ、と僕は息を呑んだ。
「君たちの居場所を報せてすぐのことだ」
「なんと・・・・・」
虎千代も黒姫も顔色を変えたのが、よく分かった。まさか、あれから暮葉さんが亡くなったとは思わなかったのだろう。
「覚悟の上でのことだったんだ。君たちの前から黙って消えたのも、自分の死の責任を君たちに押しつけないためでもあったと思う。だからくれぐれも、気にしないでくれ。責任は、すべておれにある」
「そうか」
たぶん、事情が許したのなら。虎千代はそのとき、煉介さんを殴ったと思う。
だって暮葉さんは、煉介さんのやっていることを諫めるために言葉以上の気持ちを表すために死んだのだ。煉介さんもそれを分かっていると言う。
じゃあ、そこまで分かっているなら、なぜまだ無益な戦いを続ける?
僕だって思った。虎千代は自分の気持ちをかけて暮葉さんに訴えかけ、暮葉さんも全力でそれに応えたのだ。その結果がこれなのか。僕はずっと、煉介さんからみることの出来ない虎千代の右手がぶるぶる震えているのを見ていた。彼女は血が出るのではないかというほど強く、拳を握って感情を押し殺していた。虎千代ほどの激情家が、どうしてもそれをしなければならなかったのは、やっぱり煉介さんの意志も信じているから、なのか。
「墓は?」
ぼそりと、虎千代は訊いた。
「まだない。もっと、ちゃんとしたときにきちんと葬ろうと思ってる。遺骸はおれたちになじみ深い寺に預けてある」
虎千代は何も応えなかった。ただ暗い眼差しを煉介さんに向けるだけだった。
「とにかくあのときは本当に助かった。道按の手から、姉を救ってくれたこと。心から感謝する」
煉介さんも察しているのか、それ以上は何も言わなかった。
「また、必ず会おう。軒猿衆への連絡方法はこれに書いておいた」
と、虎千代は黒姫にそれを渡させた。
「ああ。生き残ろう。お互いに」
傘を上げて、煉介さんが橋の向こうに消えていく。ぬるい銀幕が視界を覆う中で、その姿はたちまち見えなくなった。煉介さんがいなくなると、虎千代は少し僕の方へ寄った。雨がかかると思ったのか、僕はあわてて虎千代に傘を差し掛けた。でもすぐ分かったのだが、その気づかいは間違っていたみたいだ。
「暮葉さんはなんであんなやり方をしたのかな・・・・・?」
いつの間にか僕はつぶやいていた。だってそうだろう。
僕たちに迷惑をかけないようにって、黙っていなくなって、その上自ら死を選ぶなんて。
「道按と通じている足軽大将がいる。自分がいれば遅かれ早かれ、我らや煉介の居場所をそやつらに突き止められる。暮葉にはその配慮があったのかも知れぬ」
「でもまさか死ぬなんて・・・・・」
と言いかけてから、僕は、はっ、と気がついた。虎千代が目蓋を腫らし、目に涙をためていたのだ。虎千代の小さな唇が震え、かすかに上下する胸が何とか嗚咽をこらえていた。ずっと我慢していたのだろう。でも、煉介さんの意志を尊重し、感情を表に出すことを、懸命に抑え続けていたのだ。うかつにも僕はそれに気づかずあわてて言葉を停めた。
「おっ、お嬢、こいつはやべえです。かなり雨、強くなってきましたぜ。さっさとねぐらへ移りましょうや。・・・・あれ、どうかしたんすか?」
脳天気な鬼小島が傘の中をのぞきこもうとしてくる。僕はあわてて傘を隠し、
「ちょっと虎千代、調子悪いんだって。あ、あの先に行っててよ。すぐ追いつくから」
「だああっ、そいつはいけねえ。雨で身体を冷やしますぜ。お嬢、おれの背にっ」
鬼小島の横で黒姫はそれと察したらしい。僕はこっそり、黒姫に目配せをする。黒姫はわざとらしく大きな声を上げて、
「ああっ、もうっ、でかぶつが大傘振り回すから、わたくしの着物が濡れてしまうではないですかっ。さっさと新しいお宿に戻ってお色直しをしないと虎さまに顔向け出来ませんですよ。ほれっ、さっさと行きますよっ」
ばしっ、と音がするほど鬼小島の胴を叩いた。
「いってえっ、てめえっこの腹黒娘、なにしやがるっ!」
「誰が腹黒娘ですかっ。まったく、あんたら力士衆は毎日ばくばくばくばく食い散らして、費用が馬鹿にならないではないですかっ。体力余ってるなら人足の口でも見つけてきたらどうなのですかっ」
「んだとこの野郎」
上手く鬼小島を挑発しながら、黒姫は僕たちと距離をとってくれる。助かった。
わめきあう二人が遠ざかると、虎千代は、ぐっ、と身体を寄せてきて、僕の胸に顔を埋めた。さっきからずっと、それがしたかったんだと言うように強く、急にだ。みるみるうちに制服のシャツの胸もとの生地が熱く濡れてくるのが、感じられた。
「虎千代のせいじゃないよ」
月並みかもしれないけど、僕は、甲斐のないことを言って虎千代を慰めた。
「・・・・・救えなかったなどと、おこがましいことは言いたくない。ただ」
と、虎千代は言った。
「この狂おしさばかりは、どうにも出来ぬ」
「うん、そうだね」
自分の実感に過ぎないけど、僕は言葉を探して言った。
「でもさ、虎千代はよく頑張ったと思うよ」
そう、ただ。気持ちを真っ直ぐぶつけてなお、それが届かないことがある。そんなことは無数にある。そのこと自体は、仕方ないことだ。僕よりもっと過酷な運命を生きている虎千代には、そんなこと、十分過ぎるほど分かっているだろう。でも、そう思えるのに、胸の中に居残る悔しさだけはどうにも出来ないのだ。
「・・・・・ばかもの」
と、どうにか他の慰めの言葉を探す僕を見上げて虎千代は言った。それはいつもと打って変わってひどく弱々しい声音だった。黒姫たちは大分遠くに行っているし、この雨音でどこへも漏れる心配はない。僕は虎千代の小さな耳元で言った。
「いいよ、気にしなくて」
たぶんそれで感情の堰が壊れたのだろう。泣き顔は見られたくないと思うから、僕は目を反らしていた。
「う・・・・・う・・・・・・」
だれ彼構わず無茶苦茶に感情を吐き散らすのなら、それは子供っぽい我がままかも知れない。でも虎千代は一生懸命、煉介さんの気持ちを尊重してその矛を収めた。そしたら今度はどこかで、それを吐き出す場所だってあっていいはずだ。
「大丈夫」
甲斐のない言葉を、僕はまた言った。それがどれほど、虎千代の慰めになるだろうとも思えずに。虎千代の表情は自分の髪に隠れてもう見えなかった。でも、感情は伝わってくる。低く漏らした嗚咽は強まり、体温の熱さを伝える涙は止まる気配がなかった。この雨が一向に止む気配がないのと同じように。
とにかく、今は時間だけが頼りだ。
もうこれ以上は何も言わず彼女の気持ちが収まるまでここでじっとしていよう。
僕はそう思った。




