タイムスリップ? 500年前の京都?
童子切の煉介。
そう呼ばれた男は僕より三つか四つ上だから、二十歳前後のはずだ。背が高くて手足の長い、細長い印象を与える人だった。
不精ひげと垢だらけの男たちの中に、なぜこんな人がいるのかと思うほど、その風貌は際立っていた。
野卑な男たちの中で、煉介さんは一人だけ、そこだけ空気感が違うかのように澄んですら見えたのだ。長い黒髪を肩に過ぎるほど垂らしていて、顔のひげを綺麗に剃っていた。面長の顔に鼻が通っていて、深い庇を作った眉の下に優しげな眼差しが光っている。現代の人と比べても、まったく遜色のない爽やかな顔つきをした人だった。
そんな人が。
深い青地に、牡丹の刺繍の入った小袖に黒い糸で威した漆黒の大鎧を身につけて。
花をあしらった女物の小袖を肩にかけて、左右の腰に武骨な拵えの刀を一本ずつ差している。その姿は、大きな羽根を持った野生の鳶みたいにどんな相手でも一歩退かせるほどの気品みたいなものがあった。
そしてもっとも目を引いたのは、背中に挿した、異常に大きな日本刀だ。鞘の中の刀身も、柄も長くて一人で抜くことさえ出来るものかと思うほど。
背の高い煉介さんでもその身長と同じくらい巨大で、二メートル近く見えた。そんな大きな鉄の塊を実際、どうやって振り回すのか、それは見ているだけで息が詰まるほど迫力があるものだ。僕には彼が、その大太刀を振るう姿が想像できなかった。
「お前に命令受ける謂れはないし、それにな」
童子切の煉介は僕と若軒の間に立つと、物憂げに首を傾けた。そして、
「おれらの目的は、鵺噛童子。やつの追捕と討伐だ。違ったかな、無骨の若軒さん」
一見、物やわらかいけど、どこか芯が通った声だ。野卑な雄たけびを上げていた、男たちが静まり返る。ゆっくりした話し方とは裏腹に、その声にはどこか、圧倒的な力が潜んでいるのが分かったのだ。
「煉介、お前。わいの話を聞いてたか? わいはけじめがつかんと言うたんや」
若軒は地面に唾を吐き捨て、煉介を睨み上げた。
「血なまぐさいのが、好きじゃないと言ってるんだよな、おれはさ」
見るからに悪党面の若軒に睨まれても、煉介は身じろぎ一つしなかった。
「洛中随一の悪党のお前が言うか」
若軒の鼻筋に、嘲るような皺が浮かんだ。
「大体お前らは何でもかんでも人の首を刎ねすぎなんだよ。悪銭一枚にもならないガキの首見て面白いか?」
「野郎ども、こいつの言いざま、聞いたか?」
若軒は肩をすくめ、わざとらしく腕を振り上げて背後を見返った。
「わいらはやつに仲間を殺されとるんじゃ。これだけの郎党駆りだしてガキの首ひとつでもとらにゃあ、おさまりがつかんのじゃろうが!」
「けじめもくそもあるか。おれはここで、ガキの首を刎ねるのは、気が乗らないって言ったんだよ。これ以上話をしたいなら抜きな。ここまで話したんだ、もう小理屈じゃ収まらないんだろ?」
言うと、煉介さんは腰を落とし、ゆっくりと背中の大太刀の柄に手を当てた。
「…けっ。けったくその悪い」
ほぼ顔が接するくらいの距離で、二人は睨み合っていたが、退いたのは結局、若軒の方だった。
「まあ、ええやろ。鵺噛のことも、ソラゴトのことも始末をつけるのはおのれやしな。ただ、このことはお頭に話しとく。後で吠え面掻くなや」
若軒の合図で男たちが引き上げていく。助かった。理由は分からないけど、殺されずに済んだのだ。捨て台詞を残した男たちに相変わらず眠たげな煉介さんは、のどかそうにあくびを噛み殺して手を振っていた。後には煉介さんと、数人の男たちが残っていた。
「ふん、若軒のやつ、肝っ玉小せえくせに態度でけえんだよな」
「ったく、大将面しやがって。おれたちはお前から扶持なんかもらってねーっつの」
男たちは口々に、愚痴を言っていた。この人たちは煉介さんの家来か何かだろうか。
「お前ら、そう、かりかりするなって。あの男がいなかったら、おれらもいくさ働きが出来ないんだからさ。これがおれたち足軽、京中悪党の辛いとこだ」
ケイチュウ? アクトウ?
あなたたちはそれじゃあ、悪者なんですか? そんな失礼な質問が咽喉まで出かかった。柔らかい笑みを口元に浮かべた煉介さんは馬を曳いてくると、僕に手を差し出した。
「来なよ。君も色々訊きたいことがあるだろうし」
「まずは、とりあえず死なないで済んでおめでとう。どこから来たかは知らないけど、そのまま洛中に入ってたら、確実に死んでたろうから。特にそのなりじゃね」
僕を背中に乗せた煉介さんは、相変わらず見えない話を続けた。
「あの…煉介さん。助けてもらってありがとうございます。で…あの、ひとつ訊きたいんですけど…」
本当は、ひとつどころじゃない。聞かなきゃいけないことは山ほどあった。でも、今の状況じゃ、ひとつずつじゃないと、とても頭に入りそうにない。恐る恐る、僕が切り出そうとすると、煉介さんは心配いらないと言う風に手を振ると、切れ長の瞳をゆるく細めて、にっこりと微笑んだ。
「君は、未来ってところから来たんだろ。ソラゴトビトはみんなそう言う。ここは、『戦国時代』だってな。おれにはまあ、よく分からないけど、未来ってところは、やっぱ遠いんだろ。唐や天竺よりも」
カラ? テンジク? それってどこのこと?
「それにしても変な服だよな。まあ、今の都なら何でもありか。別に驚きはしないよ。そうだ、名前を聞いていなかったな」
「僕は成瀬真人です。そんなことより、今、未来って言いましたよね。つまり、ここって…」
「ふうん、苗字があるんだな。ソラゴトビトはみんな、偉いのか? ああ、君らには、過去って言った方が、分かりやすいのかな。つまり…」
僕はタイムスリップしたのだ。
しかも、五百年近くも前の京都に。
ありえない。
(そんなマンガみたいなこと…?)
でも事実は、全然マンガのようにいかないものだ。
に、しても。
煉介さんが話してくれたことで、何とか分かったのは、僕が目の前にしているのが、たぶん戦国時代の京都だってことぐらいだ。
「天文十五年? それって何年ですか?」
「何年って、天文十五年だけどな」
話にならない。
戦国時代の知識は…?僕は夢中で、自分の中の戦国時代の知識と語彙を検索する。
「あっ、信長…織田信長っていますか?」
「知らない。誰のこと、それ?」
「関ヶ原の合戦ってありました?」
「さあ?て言うか関ヶ原って美濃だろ? そんな遠くの話されてもな」
美濃って? そもそも美濃がどこだか僕には分からなかった。
あとは、あとは…ええっと…
「とっ、徳川家康っ」
「まあ、とにかく、詳しい話は、落ち着いてから訊くよ。ちゃんと話が通じる人間から話聞いた方がいいだろうし」
そう言って煉介さんたちが僕を連れていったのは、大きな旅館のような二階建ての建物だった。
「ここがおれらの溜まり場さ。この湯屋の二階なんだけど」
白壁の塀で囲まれた大きな門があって、頑丈そうなその入口をくぐると、そこに大きく掲げられた一枚板の看板には、堂々とした筆書きで【くちなは屋】と書いてある。
(くちなは?)
僕が首を傾げていると、中から若い女の人が出てきて煉介さんと親しげに話し始めた。
「しょーがないな。煉介まーた、拾って来ちゃったんだねー」
五百年も未来の人間を見て、軽い口調で言ったその人は、たぶん僕より二つか三つ、年上くらいの人だ。それにしても本当にみんな、驚かない。彼女は気軽に、僕の手を握った。
「わたし、白蛇の真菜瀬って言うの。よろしくね。君は?」
くちなわ、と言うのは蛇の古い言い方だ。
そう言えば昔、何かの映画とかドラマで見た気がする。
真菜瀬さんはその名前通り、色が白くてつるつるした肌合いの、綺麗な女の人だった。
「マコトくんかー、ちょっと可愛いじゃーん。どこでみっけたの?」
「鳥辺山の近くだよ。昼、鵺噛の騒ぎがあったろ」
「あー、それに巻きこまれてたってこと?」
「若軒に殺されそうになっててさ。もったいないから拾ってきた」
「ほうほう、じゃあ、もう二回くらい死にそうになったわけだー」
煉介さんと話しながら真菜瀬さんは、僕の顔をいちいち覗きこんでくる。そのたびに屈んだ襟元が崩れて大きな胸がはだけそうになる。真菜瀬さんは、やけに薄い真っ白な小袖一枚なのだが。なんて言うか、目のやり場に困る。
「この子、よく助かったよねー。鵺噛って人を食べるんでしょー?」
「さあなー。ソラゴトは喰わないんじゃないのか?」
「じゃあ、わたしが食べちゃおうかなー、なんてー」
本当に蛇みたいに身体が柔らかそうな感じの人だ。少し垂れ目ぎみの真菜瀬さんは、よく見ると眉に一筋、小さなほくろがある目の下から頬の辺りにかけて、三匹の蛇が絡みつくような形の刺青をしている。しかも受け口ぎみの唇の端には、小さな金属の塊がついていた。ボールピアス? 昔の人もしてたんだろうか。
「マコト、詳しいことはこの真菜瀬に訊くといいよ。こいつならおれと違って、世間のこと大概よく分かってるから」
「うん、分からないことはお姉さんに訊きなー。あ、まずお風呂入る?」
「え、あの…」
こうして何か返事をする暇もなく、僕は中に通されたのだった。
気がつくとすっかり日が暮れている。
見ると携帯電話の時計も、ちゃんと稼働している。つい何時間か前には、僕はちゃんと現代に生きていたのだ。学校を辞めたあの朝から、ずっと続いている現実の中に僕はいる。やっぱり夢じゃない。
それにしても、まだ何もかもが、分からないことだらけだ。
(これから、どうしよう…)
僕のことだけじゃない。絢奈のことも心配だ。
考えれば考えるほど、混乱して何も考えがまとまりそうにない。
風呂を浴びた僕が通されたのは、板敷きの小さな部屋だった。そこは頑丈な板戸で四方を囲まれていて、あるのは小さな燭台に一枚の古畳と、塗りの剥げた屏風立てが一つだけ。粗末な燈明皿の上に揺らめいているごく幽かな明かりではそれでも、部屋の隅々まで照らすことは出来ないくらい暗かった。
僕がいる部屋のちょうど真上では、煉介さんたちの仲間が二十人ほど集まって宴が始まっていた。真菜瀬さんの話からすると、この当時の湯屋と言うのは、迎えに出てきた真菜瀬さんの雰囲気でもちょっと分かる通り、いわゆる風俗関係の、つまりただのお風呂に入るだけの場所ではなかったみたいだ。やけに賑やかな声には、お店にいた若い女の子たちの華やかな声も混じっていた。
手持無沙汰にしていると、真菜瀬さんが食事を持ってきてくれた。
「どう? ちょっとは落ち着いたかな。こんなものしかないけど、良かったら食べてー」
素焼きの皿の上に、焼いた赤味噌で固めたおにぎりと、色鮮やかな青瓜の香の物になにかの茎を煮た汁椀がひとつ。単純だけどすごくいい匂いがした。その匂いを嗅ぐと僕はやっと、自分がもう長い間何も口にしていなかったことに気づいた。
「すいません。危ないところ助けてもらった上に、食事までもらって。どうやってお礼したらいいか…僕、何も出来ませんけど、出来る限りのことはしますから」
「あ、気にしなくていいよー。煉介は煉介の考えがあって君を助けたんだろうし、わたしも君に興味があるから」
目の前に座り込んだ真菜瀬さんは興味深そうに、僕の服装や持ち物を見ていた。
「煉介さんもそうですけど、真菜瀬さんも僕を見て、全然驚きませんね。僕みたいな人ってそんなに珍しくはないんですか?」
「うーん、珍しくないって言うか、今の都では何が起きてもおかしくないから。ここには色んな事情で他の国から流れてきた人がいっぱい居すぎて、よく分からなくなってるんだー。追剥ぎ夜盗は普通だし、夜は鬼だって出るしね。君たちみたいな恰好をして、どこから流れて来たのか、よく分からない人たちのこと、わたしたちはソラゴトビトって呼んでるの。つまり、嘘つきって意味なんだけど」
ソラゴト。つまり、虚言って言う、意味か―――それで、ぴんと来た。確かに嘘つきと呼ばれて当たり前だ。突然、タイムスリップしてきた僕らと話が噛み合うはずはない。
「煉介はそう言う人見ると、こうやって気まぐれに連れてきたりするんだけど、わたしも嫌いじゃないし。ほら、これも君たちみたいな人から教えてもらったものだし」
やっぱりそれはピアスだったのか。そう言って、真菜瀬さんは唇の金属片を指でいじってみせた。
「で、君はどうやって来たの?」
「それが、あんまりよく分からないんです。妹も、僕に巻きこまれてここへ来ているみたいなんですけど」
そうやって僕は、真菜瀬さんに知りうる限りのことを話した。断片的にでも思い出しながら、少しずつ。気がついたらここにいたこと、いつのまにか妹とはぐれたこと、そしてあの河原で、不思議な少女に出会ったこと。
自分でも話していて、それが僅かこの半日ほどの間に起こったことだって言うことに、どうしても実感が湧かなかったけど、取り留めもなく、話を続けるうちに僕は、こうしてここにいることの途方もなさに改めて愕然とした。もちろん納得はしていなかったし、まだまだ何もかも混乱したままだったけど、誰かにその気持ちごと話せることが出来ただけ、すごく助かった。真菜瀬さんがとても真剣に、根気よく話を訊いてくれたおかげだ。
「ふうん、そっか、マコトくんは鵺噛童子を見たんだ。それで煉介は君を助けたわけ」
そのくだりになると、真菜瀬さんは納得したようにひとり肯いていた。
「真菜瀬さん、その鵺噛童子って言うのは…?」
僕が訊ねると、真菜瀬さんはさすがに顔を曇らせた。
「実はね、今の都には、鵺噛童子って言う人を喰う鬼が出るんだ。煉介の仲間も、何人か喰い殺されてて、煉介たちもみんなでその足を追ってるんだけどまだ誰も姿も見てなくて。昨夜も二人、無骨の若軒って言う足軽の郎党が殺されたんだけど」
人を喰う鬼だって? まさかあの子が人を喰う鬼? どうしても結びつかない。
「マコトくんは、その童子の姿を見てるんだよね。―――この外套は鵺噛童子の?」
僕は、静かに肯いた。彼女が遺していったもの。破壊された妹の携帯電話と、柳の葉の刺繍の入った例の紅い外套だ。僕の手からその二つを受け取った真菜瀬さんは、丁寧にその二つを検めた。
これを遺してったのは、僕と同い年か少し下くらいの女の子だった。確かに、それくらいの年の彼女が、鎧を着け、武装している姿は異様に僕の目には映った。でも、どうしても人を喰う化け物のようには見えなかった。彼女の面差しや物腰、たたずまい、そんなものを思い出すと、上手く言えないけど、どこか気品があって凛とした印象しか思い出せないからだった。そのことを話すと真菜瀬さんも意外そうに首を傾げていた。
「でもね、マコトくん。こんなこと言いたくないけど、その子が鵺噛童子に間違いないと思う。これ、君の妹さんのでしょ? このひどい傷…見覚えがあるんだ」
と、真菜瀬さんは絢奈の携帯電話についた無惨な傷を指でなぞった。
確かに携帯電話に残された傷は、何か人間とは違う生き物がそれに噛みついた犬歯の痕のようにも見える。人を喰う鬼。そんな恐ろしい化け物が、妹の持ち物を持っていたことは僕に想像したくないことも想像させた。ただ、それでも、
「でも、真菜瀬さん。あのとき、あの子は・・・・・」
僕が言いかけたとき、板戸が開き、着ながし姿に太刀を持った煉介さんが顔を出す。
「話はあらかた済んだかい」
「はい、え、えっと、色々ありがとうございます。なんて言ったらいいのか…本当、なにからなにまで面倒みてもらって」
「ここで知り合ったのもなんかの縁だ。気にすることはないよ。ところで真菜瀬、事情は聞いたのか?」
煉介さんの言葉に、真菜瀬さんは肯いた。
「うん、大体ね。それが煉介、この子、独りで来たわけじゃないらしいんだ」
「へえ」
真菜瀬さんは簡潔に、僕の話をまとめてくれた。煉介さんはそれに小さく相槌を挟んでいたが、
「そうか…妹御をね。それは大事だ。なら、詳しい事情は後で聞くよ。まずは来て。仲間に紹介する」