駆け引きを超える真実の力!二人の初夜はもう終わり…?
「おっと、近寄るんじゃないぞ」
西條はこれ見よがしに、炭そ菌の入った小瓶を掲げて振った。
「奪い取ろうとしても無駄だ。ちょっとでもこいつの中身が漏れたら、お前らは終わりだぞ?」
「脅すってことは、まだ決心がついてないってことだろ?」
僕はあえて強気に出て、かまをかけてみた。いざと言うときまでには、可能な限り、時間を稼いだ方がいい。
「所詮ガキだな。それで、おれを手玉にとったつもりか。…本当に、取り返しがつかない目に遭ったことがないんだな?」
「本気がどうかは、見れば分かると言ってるんだよ。三島春水なら迷わず、仕掛けてくる。あんたこそ、まだ五体満足でいたいんじゃないのか?」
「ほざけ、ガキが」
僕と西條は、無言で睨み合った。
(やめろ、真人)
虎千代が、傍らで目線で訴えかけてくる。僕は見なかったことにした。だがたぶん、いざとなったら無謀なのは僕より、虎千代の方だ。僕がいなかったら、炭そ菌に感染しようが、虎千代は西條を斬ったろう。とことんんまで行くと、虎千代こそ前後をかえりみない。でもそれだけは、僕が避けなくてはならない事態だ。
「逃げるなら、逃げろ。ただし、一人でだ。仄火は、置いていってもらう」
と、言うと西條は目を剥いた。
「ど素人が偉そうに、命令するんじゃない。…この場の主導権を握っているのは、お前じゃないんだ」
このまま膠着は、解けそうにない。西條から警戒を解かずに、僕が出来るのは、呪によって風向きを変えることぐらいだった。だが西條が本気で自爆攻撃に踏み切った場合、この至近距離でどれだけ炭そ菌の吸引を避けることが出来るのか、僕にも予想がつかなかった。
「そっちこそ強がるなよ。打算的なあんたのことだ、よく考えてみれば、一人で逃げた方が得だってことが分かるだろ」
「仄火にこだわるな。いったい何に利用するつもりだ?…この女を待っている場所は、もはやどこにもないはずだぞ」
西條は、ちらりと倒れている仄火を見やった。僕はその一瞬の瞳の色を、読もうとした。
「ああ、もう秋常さんは待っていない。…お前の言う、仄火を何に利用もするつもりも僕たちにはない」
と、僕が言うと、西條は顔を歪めた。
「分からんな。…何が、言いたいんだ」
僕は、応えなかった。この男に話しても無駄だと思ったからだ。だが代わりに、口を開いたのは虎千代だ。
「今のでよく分かるよ。西條、お前は利用価値がない限り、仄火といる気は元よりないんだろう。つまり、仄火と添い遂げる気など、最初からなかった、と言うことだ」
虎千代の言うことに、西條は、目を丸くした。
「下らん。今のは、なんの話だ?」
予想できた反応だ。だから僕は言わなかったが、同じ女性の虎千代には到底、許せなかったのだろう。
「自在のすべてを偸むため、あんたは仄火を篭絡した。だがその用も済んだ今、彼女はお荷物だ。別に、どこで始末してもいい存在なんだろ?」
僕が西條の本音を代弁した。この一事を以ても虎千代は、西條を斬る気だろう。案の定、図星を突かれた西條は、凶悪に顔を歪めて吐き捨てた。
「だったらどうした?…さっきからお前らはおれに、何を言わせたいんだ?」
と、次の刹那。
問答無用で虎千代が、仕掛けた。虎千代のことだ、もはや、なりふり構わず斬る気だろう、と予想はついていた。
だがそれが、あまりにも迅い。
一撃で西條の首を、胴から斬り離す気だった。無論のこと、踏み込んだ自分が何かの拍子に炭そ菌を浴びるか否かも、畏れてはいない。
相手を殺すと決めると同時に、おのれの命すらも顧みることはしない。即座に思い極めることが出来る。それが、武人である。
「ちいッ!」
西條は辛くも、身を避けた。
殺人ウィルスの入った瓶はその手を離れ、虎千代の鼻先を舞った。その足元ででも、瓶が割れたのなら、そこですべてが了る。
「逃げろッ、虎千代!」
僕は、全力で溜めておいた呪を放った。
上手くいった。呪印を切ると虎千代のすぐ足元から、拳大の直径の竜巻が発生し、瓶を巻き上げた。瓶は僕たちの頭上高く、吹き飛んでいく。竜巻の中心は、真空だ。瓶の封が破れようと、空気感染する心配はない。
そして仕上げは、鬼子の炎だ。竜巻の真空が消えると同時に、宙を舞った瓶は鬼子の炎熱で丸ごと溶かされた。炭そ菌の滅菌には、高温しかない。一瞬で影も形も消すほどの力を溜めるのは至難の業だったが、どうやら大丈夫なようだ。
「ふざけやがって」
そして気になるのは、自由になった西條の出方だが。
僕も虎千代も、動けない。虎の子の炭そ菌を喪った今、泡を喰って逃げてくれるのが、一番だと思っていた。だがこの男もただでは転ばない。
その手が捕らえたのは、洗脳術を解かれた仄火だった。
「卑怯なッ!」
虎千代は目を剥いたが、その刃をかわすのには、最も外道にして、効果的な手立てと言わざるを得ない。
「さんざん利用して、挙句は人質か。見下げ果てた奴だな」
軽蔑を極めて、僕は言い放ったが、西條の中には僕たちが持つような感情は、すでからしてない。
「この女が欲しい、と言ったのは、お前らだ。おれにここまでさせたのは、お前らのせいだぞ。勘違いするんじゃない」
「外道め、もはや生かしてはおけぬ」
虎千代は歯噛みしたが、今度は人質だ。仄火ごと斬るわけにはいかない。
「おい、今度こそ寄るな。お前らとぬるい話をするのは、もううんざりなんだからな」
仄火は、西條の腕に抱かれてうなだれている。抵抗する兆しすらなかった。西條はその袂を割ると、中から、もう一つさっきと似た瓶を取り出した。
「よく聞けよ。仄火が最後の一つを持っている。…こいつが何か分かるな?」
「また、炭そ菌か」
西條はどす黒い笑みを顔に刻んだ。
「お前たちは知ってるか。戦場で、一番効果的に敵を足止めする方法を」
片手に仄火を抱えながら、西條はもう片手で封の紐を引き抜いた。
「怪我人や、病人を置いていく。手間のかかる足手まといをな。死人は置き去りに出来るが、死にかけは見捨てられない。お前らのような、甘い連中がいるからだ」
(仄火を犠牲にする気だ)
この男に良心の呵責はない。かつて仄火の父、自在に爆薬をしょわせて囮に放ったように、今度は仄火に炭そ菌を感染させて放つ腹積もりなのだ。外道もここまで極まると、絶句するしかない。
「やめろッ」
「もう遅い」
西條が封を放ったときだ。その手首を、細い手がつかみ上げた。なんと、仄火自身だった。まさか、気絶したふりをしていたのか。
「くそッ、何をするッ!?」
「我が父と秋常殿の仇ッ!」
さしもの西條も、これは予想していなかった。その手を離れた瓶からは、黒い炭そ菌の粉が破裂したように散布されたのだ。僕は急いで爆風を放ったが、すでに遅かった。毒の霧となった炭そ菌を、仄火はまともに被ってしまったのだ。思えば覚悟の行動とも、取れた。仄火はたとえ自分の身を犠牲にしても、秋常さんと自在の仇として西條に一矢報いたかったのだ。
「憎んでも憎み切れぬ怨敵ッ!せめてともに、地獄に堕ちませいッ!」
恨みの炎熱を孕んで仄火が幻術を放とうとした。が、西條の方が一歩早い。袖に隠していた匕首を閃かせると、抱きかかえるようにして鳩尾を突き上げた。深々と突き刺さった刃は、一気に心臓を貫いたのだった。
「赦さんッ!」
憤怒に満ちて、虎千代が仄火の仇を討とうとしたが、僕が制した。今、近づいては危険だ。
「ぐううッ、このクソ女ッ、なんてことをしやがるッ!」
西條は匕首が刺さったまま仄火をかなぐり捨てると、袖で顔を覆いながら立ち去った。恐らくはこの男も感染している。図らずも炭そ菌が、西條を逃がすのに一役買ってしまったのだ。
絶対に西條を斬る、と思い極めていた虎千代にとってそれは、痛恨の極みだった。
僕たちが駆け寄ると仄火はもう、こと切れていた。炭そ菌を肺から吸い込んでいたが、せめて苦しまずに死ねたのが、唯一の救いだった。
「秋常どの…おゆるし…」
僕と虎千代は見た。今わの際、仄火の唇がその名に象られたのを。かすかに漏らした許しを乞う言葉はもはや、虚空に消えるしかないものだったが、その死に顔はどことなく安らかに見えた。
思うさま恋人の秋常を弄んですべてを奪った仄火だったが、終焉ってみると、彼女も犠牲者だった。秋常同様、その手には、何も残っていない。結果として西條の手から奪われたものを取り返したものの、僕たちにとっても虚しい勝利ではあった。
信玄たちが到着したのは、夜明け前だ。僕たちは残った炭そ菌が全滅したことを告げると、逃亡した西條の捜索を引き継いだ。
戦闘の興奮収まらぬうち僕たちは、ひっそりと根城に帰った。ゆっくりするどころじゃない。もう朝だ。話を聞きつけてもう黒姫も来るだろうし、信玄と真紗さんたちが戻ってくれば、午後からは、会議漬けである。
ここまでツイてないと、笑う気すら起きない。僕たちはもう、どうあがいても結ばれない運命とかになっているのだろうか。
「とんだ夜になっちゃったね」
虎千代も言うことがないのか黙々と、刀の血錆びを落としている。信玄の肝いりでも駄目なんて。がっかりして、今度こそ僕に愛想が尽きたのかも知れない。
「…でも、わたしには悪くはなかったぞ?」
虎千代は、顔を上げると、微笑んだ。
「あの仄火に、秋常殿への本当の想いを気づかせたのは、真人だ。あれはただの陰陽術で出来ることではないのだろう?」
「それは…」
僕だって、そう想ってるから。あのとき自然と、亡き秋常の想いに、僕が虎千代を想う心が寄り添ったのだ。
「…直江に頼んで、仄火は秋常殿のところへ、葬ってあげたい。わたしも、あんな風に想われたら幸せだと思う」
「想ってるよ」
僕は、虎千代に言った。
「ずっと、想ってる。どんな形になっても、僕は虎千代を、想わないことはないよ」
無言で虎千代が、僕の胸に忍び込んできたのは、そのときだった。あまりにしっくりとした感じで顔を胸に埋められたので、僕は息をする間もなかった。
「続きをしよう」
彼女は言った。
「もう朝だよ」
「まだ、陽は明けてない」
「…いや、黒姫が来ると思う」
「人払いがしてある」
僕は、はっと息を呑んだ。えっ、うそ?
「武田殿のはからいだ。わたしたちは、西條が散布した炭そ菌を吸った疑いがある。症状が出ないと分かるまで、ここは立ち入り禁止なのだ」
「大丈夫なの?」
「ぬかりはない。ともかく周りの心配は、いいではないか」
虎千代は、長い髪に覆われた瞳を上げた。栗色の瞳が濡れて済んでいる。これ以上、たえきれないと言うように虎千代は深いため息をつくと、焦れたように唇を尖らせた。
「それよりもう、わたしだけを見てくれないのか?」
言葉なんかいらない。
僕も行動に身を委ねることにした。
僕はとっくに、虎千代しか見えていない。




