呪の新たな段階!邪神を葬り去る威力の代償とは…
「が…あ…」
紗布屠のうめき声が、ついに嗄れた。何しろ相手は、街ひとつ吹き飛ばすほどのエネルギーを自在に扱う化け物だ。封じ込めるなどと言う、手段がとても通じる相手ではない。しかしここまで来るのには、さすがに骨が折れた。
「真人、何をしたんだ?…この白い霧は一体…」
と、問いかけたミケルは、忍び寄ってきた気配に身震いした。
「寒い…これはまさか、冷気…か?」
「当たり前だろ、冬なんだから」
僕はうそぶいたが、無論、タネはある。
「越後の風が通じなかったんだろ?」
くしゃみをしながらミケルはいそいそと、服を着る。辺りの気温が急速に、元の真冬の越後に戻っていったのを感じたのだろう。だから、言わんこっちゃない。
「風はね」
ここが本来、雪風吹き荒ぶ越後の真冬である、と言う『理』が、紗布屠の超自然的な能力に通用しなかった。このことは、晴明が対峙したときに実証済みである。ならば、必死に考えなくはならなかった。僕なりの勝ち方を。いや、生き残りの道をだ。
「じゃ、じゃあ、一体何をしたって言うんだ」
「説明するより、見たほうが早いよ」
僕は言った。やがて紗布屠を覆った白い霧が粉を吹くようにして、乾いた音を立てて晴れていったからだ。
「これは…!」
この現象に直面したミケルの驚愕は、察してあまりある。
なぜなら紗布屠は、凍っていたからだ。
白い霧は、紗布屠を超低温の只中に叩き込んでいたからだ。それはたとえ、氷点下の越後でもありえない低温だ。これも超自然的な急激な冷却にさしもの紗布屠も、ひとたまりもなかった。さっきまで砂漠の太陽そのものであった全身は、猛吹雪をかいくぐったように霜まみれだ。
「あっ…ありえん、余が…凍るなど…」
紗布屠自身も、凍ったことが信じられない表情だ。驚愕も当然だ。ミケルもそうだが、想像のしようがない。自然の雪が、風が、凍りつかせることの出来なかったものを、凍らせたのだから。
「ありえぬ…ありえぬ理だ」
「確かにありえないな、紗布屠。…晴明やお前たちが今、生きている五百年前の『理』ではね。だが、現代に生きる僕は、知っている。あんたたちが到達できなかった、超自然の理をな」
「新しい呪を作るしか勝ち目はない。それも、お前にしか出来ぬものを」
と、僕は晴明に言われて、ついにそこへ到達したのだ。この戦国時代には、ありえなかったことを『可能』にする。それは、自然現象以上の現象を起こした、この世にこれから生まれるはずの新しい『理』を使うしかないのではないか。鬼子の『エネルギー』を手に入れた今、僕には、大抵の『実験』が可能になる。
「新しい『理』。それは、現代科学だ」
紗布屠は初めて驚愕に、その残忍な目を見開いた。
「か…がくだと…?…そんなものが…」
「お前たちが知らないことを、僕たちは経験した時間の上に立っている。となれば、することはただ一つ。新しい理は『科学』を利用することだ。それも自然現象を越えたところにある、超自然的な現象を利用するための、ね」
紗布屠の強大な力を停めるのに、越後の低温では、不可能だった。
ならば極限の低温を作り出せばいい。
発想そのものは、単純だった。
「この世で一番、冷たい物質。今、お前が浴びているのは、液化した窒素だ」
液体窒素。
それは空気中に含まれている窒素を、不純物を取り除いて液化したものだ。窒素は実際、地球上の空気の中には、酸素よりもはるかに多く含まれているものなのだが、液化した温度が最も低い。
実にマイナス一九六℃の超低温に及ぶ。人間が触れば一瞬で凍傷、細胞の壊死を引き起こすこの物質は、一九〇六年にオランダの物理学者が世界で初めて、液化に成功している。この世界のほぼあらゆるものを一瞬で凍結させることが出来る液体窒素は、自然が再現することの出来ない、科学の一つの到達点だ。
「すまん。全然、分からん。つまり、氷の妖精のすごいやつ、か何かか…?」
ミケルの発想が、この時代の人間としては正しい。近代以前の科学は錬金術で、森羅万象を説明するのは、水・地・火・風の精霊が司る四大元素だ。
「詳しいことは、分からなくていいよ。…僕も、聞いただけじゃ、全然憶えられなかった。だが、問題は存在を認識することだ。まだこの世に発見されていない新たな力の」
陰陽術の世界から見れば、近代科学の産物も『理』の産物でしかない。
なぜなら僕たちの『科学』が生み出した、新たな力はある意味ではこの世界に登場した新たな『自然現象』でもあるからだ。晴明が森羅万象を普遍の『理』を使って呪に換え、操るのであれば、当然、科学によって生まれたものも、呪で操れるはずなのだ。
「まさか」
とは確かに思った。しかし、理屈には適う。やって出来ないことはなかった。
「だが、そうだと言って、そんなにすぐ、出来るものなのか?」
ミケルが不審そうな顔をするのも、分かる。あれだけ、紗布屠に苦戦させられた僕たちだ。晴明すらも、なるほど紗布屠の力の強大さには、なす術もなかった。
「やるしかなかった。…この世界の『理』を越えた邪神の力を身に着けた紗布屠に勝つには、この世界にまだ、存在しないもので立ち向かうしか、方法はないんだ」
「じゃあもちろん、つまりはこれもただの風の檻じゃなかったってことだ」
「その通りだ」
例えばこの風の檻は、液体窒素を逃がさない。そのため液体窒素の真っ白な霧は外に漏れず、まるで冷凍庫のように紗布屠だけを急速低温の世界に陥れる。
それは、紗布屠を閉じ込めておくためのもの、ではなかった。紗布屠自身を利用して、窒素を液化する装置のようなものだったのだ。
「お…おのレッ…」
凍りついた身体を溶かそうと、紗布屠は、その身体に熱を帯びようとする。最前はあの、太陽のような圧力で振り解かれたのだが、その点についても対策済みだ。
「ぐうううッ!…ウウ…ウウアアアアッ!」
紗布屠は手負いの獣のように死に物狂いになるが、熱量は一定以上には上昇しない。霜をまとった身体は不気味な明滅を繰り返すだけだ。
「無駄だ。液体窒素を発生させているのは、お前自身のエネルギーだ。つまりお前が地下エネルギーを使って熱量を増大させようとすればするほど、液体窒素は生成され、お前は自分の力で凍りついていくことになる。…さらには液体窒素の生成で、お前の周囲の空気は急速な欠乏に陥っている。この地球上では、どんな炎も酸素なしに燃え盛ることは出来ないんだ」
文字通り、理詰めの紗布屠封じである。僕と晴明で、考えうる限りのことを考えた甲斐があった。人知を超えた紗布屠の力が、今まさに人知によって制圧されたのである。
「グっ…なぜだッ…なぜこうも的確に、余の裏を掻くッ…?」
「実験したからさ」
僕はこともなげに言う。思えば、そのために、必要だったのだ。晴明が紗布屠の鬼子を手に入れろ、と言った真の意味。それは、敵を分析し尽くせ、と言うことだったのだ。
「紗布屠、今、お前が閉じ込められている風の檻は、僕が鬼子の熱源を使って、実証したものだ」
科学を使って、呪を創る。
その作業は、死と隣り合わせでしかなかった。僕はいまだにコントロールしきれない鬼子の力を使って、液体窒素を生成する結界を作り、その中に身を置いたのだ。死ぬかと思った。
「これは、最後にして唯一の手段だ。…もしお前が一片でも、人間の心を残していたのなら、使わなかった。僕たちもお前の力を封じるのに別の手段を考えただろう。だが、もうこの世界にお前が存在する、と言うことを、僕は赦すわけにはいかない。…一花はもう、無関係だったんだ」
二指を弾くと、僕は風の檻を解いた。白い霧は空気中に霧散したが、紗布屠にかけられた超低温の呪いは、解けることはない。
「余を…消す気か…」
「そうだ。跡形もなくな」
僕はにべもなく言うと、爆炎風の呪を孕んで、近づいた。
「命乞いをしろ、とも言わない。罪を悔いろ、とも言わない。…ただ、この世から消えてもらう」
紗布屠に燃やし尽くされた一花のように。
「おのれ下郎が…」
紗布屠はうめいたが、普通の人間なら、すでに凍死している。その点でもこの邪神の化身はこの世に、とっくに存在してはいけない存在だったのだ。
「ふッ…くくくッ、良かろう。好きにするがいい。…ただ一言、言いおこう。余がこの世に存在してはならぬ人外ならば、お前は…何者だッ!?…お前の好きな『理』からいけば、お前もすでに十分、この世に存在してはならぬ人外ではないかッ!」
「最期に言いたいことは、それだけか」
僕は冷たく突き返した。すると紗布屠はそれが見たかったのだと言う風に、白い湯気を吐いて、哄笑した。
「ふふふッ、ふはははッ…良い目をするようになったではないか。…最初に見たときは、生贄の山羊でも、かようにみじめな目はすまいと思うたに」
「安い挑発だ」
「そう思うなれば、そう思っておけ。だが、忘れるな。お前ももはや、化け物だ。…人知を超えたものの末路こそ、かようなものなれ。人の皮を被ったお前も、とっくに余の側の存在よ」
爆ぜよ、爆炎風の呪。
僕は紗布屠に向かって、ため込んだ衝撃波を放った。その刹那、凍りついた紗布屠の身体は、跡形もなく吹き飛んだ。凄まじい質量の冷気が、白い瀑布のように僕たちの視界のすべてを阻んだ。紗布屠の肉体だったものはその爆風にまぎれて、あっけなく消えていった。
紗布屠がいなくなったその場所は、空気の穴だ。
欠乏した空気を補うように外気が入り込んでくる。
越後本来の寒風は、太刀風の鋭さに似ている。耳を弄する突風を、僕は聴いた。それは虎千代が繰り出す斬撃の刃風の音に似て、僕をして思わず息を呑ませた。
「大将…やったな」
ミケルが恐る恐る声をかけた。
「ああ、僕が紗布屠を消した」
風を巻いてきらきらと輝く氷の砂塵を眺めながら、僕は、うなずいた。
もう二度と、あの炎の邪神は姿を現すことはないだろう。
「お前も、もはや化け物だ」
紗布屠が、塵になる前に遺した言葉が、頭に残っていた。あの人外の邪神が僕の魂に刻み込んだ呪いだ。
(僕はもう、人ならぬものなのか…)
分かっている。虎千代のため、仲間のため、そして紗布屠を倒すため。結果的に僕は紗布屠と同じ存在になった。
(だが、お前と違う。僕はすすんで、この道を選んだわけじゃない)
人ならぬ力を得たものたちの末路。
人として、死ねない。それが代償。
(分かっている)
これからやってくる運命がどれほどに過酷だろうと、僕は受け止めてみせる。僕は肚のうちに潜む鬼子を想った。塵とともに消えていったあの邪神もまた、かけがえのない何かを僕に刻み込んでいったに違いない。
(前へ進まなくちゃ)
いつか必ず来る、命の終わりを覚悟したとしても。
朝陽とともに、辺りは一変した。紗布屠とともに怪しい魔術を行っていた天竺人たちも、いつの間にかどこかへ消えていた。冷えた身体を労わりながら、僕たちが帰途に就いたのは、もう日が昇り切ったところだった。
「よく戻ったな。風呂は、沸かしてあるぞ」
出迎えたのは、外支度をすっかり整えた虎千代だ。
「わたしたちは後発だ。二刻は身を休めて、それから出よう」
信玄、真紗さん、信長はすでに出ていると言う。様子をうかがって、襲撃はまた、日の入り辺りだ。今夜もまた、天気が荒れるらしい。
「一花と、玲の仇を討ったよ」
「よくやった。さすがは真人じゃ」
虎千代は、小さく頷いた。
「黒姫と二人、心配していたのだ。あの晴明殿を脅かすほどのものを、いかにして倒したのか」
その説明は、何ともしにくい。僕はミケルを見たが、奴はお手上げだと言うように、両手を広げた。
「なんて言うか、おれには分からん。…だが、奴らは二度と現れない。しっかり片はつけておいたぜ」
「それなら良かった」
察したのか虎千代も、余計なことは聞かない。僕が得た新たな力について二人が、一定の理解を得るまでは、まだまだ時間が掛かるだろう。
「…玲の具合はどう?」
僕は矛先を変えた。
「大丈夫だ。さっき温泉に入って、黒姫に包帯を変えてもらっていた。火傷も、それほどに重くはなかったようだ。…一花の件については、深雪殿に報せを頼んである」
僕は、ほっ、と息をついた。どうあれこれで、一段落ではある。一花の件は、本当に残念だが、深雪さんが姉妹にはきちんと話しておくと言う。
「じゃ風呂に入って、仮眠をとったら出発だな。…あとは頼んだぜ」
小あくびをしながらミケルは、装備を解きに自室へ消えた。ちょっとそこまでが限界だった。ミケルが消えたのを見計らって僕は、黙って虎千代の小さな身体を抱きしめた。
「わっ、わっ、どうしたのだ!いきなりっ」
「こうしないと、帰ってきた気がしなくて。…ただいま」
自分でもなぜこうしたのか、よく分からない。だがあの紗布屠だった氷の塵を浴びたとき、思えば僕はたまらなく心細かったのだ。覚悟している、と言うのは、恐れていることの裏返しだ。まだあんな風に、消えていきたくはない。たぶんそんな気持ちが僕に、普段しない行動を取らせたのだろう。
「いっ、いいのだが!別にいつ抱き着いてくれても構わないのだが!なんか今日はいつもと違うぞ?」
「うん、違う。いつもと。これからもっと違うかも知れない」
「ううっ、もう何を言い出すのだ、急に」
虎千代も戸惑っている。初めてかも知れない。どうせ消えてしまうなら、もっともっと深く強く、虎千代と触れていたいと。今まで躊躇していた気持ちが、不思議と崩れかけてきている。そんなこと、虎千代には分からないと思うけど。
「とにかく休め。…激闘につぐ激闘じゃ。本当はお前とミケルは、置いていこうかと武田殿とも話したのだぞ?」
「そうはいかないだろ」
今度の相手は、あの海童と三島春水だ。少しでも手を抜くわけにはいかない。
「これからは、もっと、もっと頼ってよ」
「うん?」
「いいから」
僕は言った。虎千代は怪訝そうな顔だ。でも、もうとっくに分かっているとは思う。僕が決意を新たにしたいだけだ。
僕の全ては虎千代に、この長尾家のみんなに捧げる。いつか越後の風に、僕が塵となって消えていこうとも、そんな最期を迎えても。姿形はなくとも、僕はみんなの心の中に少しでも、留まっていたい。
(これからも…そのために、戦うんだ)




