一触即発!脅し合いの会談、唐突の破局へ!
昼餐の席は一瞬にして凍りついた。
何しろ出し抜けに人が、倒れたのだ。さすがに達人が揃っているので、どよめきはしなかったが、一気にその場の緊張が増したのはすぐに分かった。
そんな中、劔の手のものたちが、倒れた男を静々と片付けた。倒れた男の顔は、紫色に染まっている。いわゆるチアノーゼと言うやつだ。そこで僕は密かに、呪印を解いておいた。これで特別な処置をしなくても恐らくは、あの男は息を吹き返すに違いない。元より、殺すつもりはない。ただ全員が命の危険を連想すれば、それでいい。
何しろこれが、この持って回った演出の目的なのだ。
自分の仕業であることを仄めかしはしたものの、僕はこれになんの説明も加えなかった。男は即座にどこかへ運ばれて行ったが、とりあえず命に別条のないことを確かめるのにはまだ、時間が掛かるだろう。
ここで僕はとっさに満座の反応を確かめた。
炭そ菌の話題を使って圧力をかけるつもりでいた劔と海童は、絶句して目を剥いている。視線は一瞬、物音の方を見たが、僕からは外していない。真紗さんと虎千代たちは、ただ息を呑んでいる。僕は事前になんの説明もしていなかったからだ。
対し平然とした面持ちを崩さない人がいる。さすがは信玄だ。信頼してくれ、とは言ったものの、僕が実際には何を起こすかは知らなかった癖に、さもこの事態すら案の内と言う微笑をたたえて、ことのなりゆきを見守っている。まったくどんなときも、小憎らしいほどに自分の役割を心得ている人だ。
われ関せず、とばかりに、冷たい白ワインを飲んでいるのは三島春水である。この人はたとえこの場に血が流れようと、平然と食事を続ける人だ。だからとりあえず、この人は、別にいい。
しかし総じてはったりのきいた演出効果は、上々だった。空気感染する殺人兵器の話をしている最中に健康な人間が一人、意識を喪ったのだ。誰もがここで、連想することはただ一つに違いない。僕が、何らかの手段で同じ現象をいつでも惹き起こせるのだ、と言うこと。
もちろん何をしたのか、僕はそれを明かすつもりはない。あえて明かさずともこの謀略家たちは、持ち前の想像力をたくましくしてしまうであろうからだ。
「あまりほめられたやり方じゃないな」
こっちを凝視していた二人のうち、最初に言葉を発したのは、海童だった。平然とした風は装っているが、恐らくこの男が一番、僕のしたことにあらゆる想像を膨らませているだろう。
「そもそもこれで、脅しのつもりなのか?」
そこで僕はあえて、すぐに応えなかった。劔がこの事態をどう見ているのか、それを知りたかったからだ。しかしこの老練な謀略家は、探りは海童に入れさせて様子を見ている。僕が何かを語り出すのを、表情を消して待っているのだろう。仕方ない。海童の挑発に少し、乗ってやることにしよう。
「確かに、ほめられたやり方じゃない。いつでも殺せるぞ、と圧力をかけて、物事を強引に推し進めようとするのはね」
僕は二人から目を離さず、皮肉を返した。ここで退いたら、今までの演出が台無しだ。海童は平静を装っているが、その実は、腸が煮えくり返っているだろう。なにしろ陽術使いの海童にとっては、このやり口が一番、痛烈なしっぺ返しはずなのだ。
「劔中佐、あなたもあなただ。海童に炭そ菌テロをけしかけようとするのは勝手だが、同じ口でさっき、自分は長尾家の敵ではない、と言ったのを忘れるべきじゃないだろう」
僕はすかさず釘を差した。沈黙は金、雄弁は銀、とはよく言ったものだ。実は海童を上手く使おうとしているこの男の方が、最も腹が黒い。
「私は君たちの出方次第で敵にも味方にもなれる、と言ったまでだ。詭弁を弄したつもりはないぞ、真人くん」
劔はゆっくりと口を開くと、噛んで含めるような話し方をした。
「それに中佐は止してもらおう。君たちの世代で、どれほどの人間が知っているかは分からないが、大東亜戦争はもう、終結したんだ」
「世間的にはね。…ただ、あなたの中ではどうだろう?」
「問われるまでも無かろう。君は松本くんに聞いて私の人生を知っているのだろうからね。私にとっては、終わりも始まりもないさ。今、ここにいることも含めてすべてが一つながりの、『真実』だ。何もかもが私を、ただ一つの真実へと導いている。私の中では必然、としか、言いようがない」
「つまりそれがあなたを導く『奇蹟』がささやく、『道を遡る』ことなのか?」
僕は久遠から聞いた言葉を直接に、ぶつけた。劔は一瞬押し黙ったが、特に何か、動揺したわけではなさそうだった。
「なるほど、久遠がそこまで話したか。…なら、逆に聞いてみたかった。君はどう思った?」
まったく想定していなかった質問だ。僕はひそかに息を呑んだ。
「君もここには本来、存在していなかった人間だ。何かの運命があってここに、導かれたとは考えたことはないか?」
「分からない」
僕は、突き返すように答えた。意表をつかれた質問だったのに、なぜか口をついて、その答えが出た。
「分からない、としか言いようがない。だがもし、運命と言うものがあるなら、あなたを止めるために僕は、何かに導かれてここにいるのだとしか、言いようがない」
「私を止めるため、か。…この姫君の、上杉謙信を守るためかね?」
「そうだ」
はっきりと答えてから、僕は虎千代に目をやった。もし奇蹟が運命の必然を生み出した、と言うことならそれは、僕が虎千代に出会ったことから始まったことだろう。
「明快だ。まず、そこをはっきりとして欲しかったのだ。真人くん、元々私と君の間には私怨はない。ただ君は、私をこの長尾家の越後を脅かす存在、としてのみ対峙しているに過ぎない、と」
「何が言いたいか、分からない」
危険な感じがして僕はすぐに、劔の長広舌を封じた。
「だがこれだけは分かる。…劔劉士郎、あなたは自分の目的のためには、他を排除することを全く厭わない人間だ」
「否定はせんよ。私は初めからそのつもりで、一貫して君たちとの対話を行っていくつもりだ」
劔は、顔色一つ変えずにうそぶいた。この男の言葉は、一片の良心も感じられない。
「なるほど。劔閣下、話はよく分かった」
と、信玄が言った。それは、ある意味で絶好のタイミングの切り込みと言えた。この上、僕が何か言い返そうとするのを、意図して遮ったかのような。
「貴殿が一度、私たちと胸襟を開いて話したい、と言う気持ちには敬意を表している。形はどうあれ何しろ、こうして私たちを十分にもてなしてくれているわけだからね」
信玄は穏やかな口調でしゃべりながら、劔と海童、双方に微笑みかけた。
「今の会話の中に、お互い勇み足や行き過ぎがあったのはともかく、実際の力を行使しよう、と言う意図が見られないことには、一定の評価をする。何しろ饗宴がそのまま処刑場になる、と言うのは私たちが生きる戦国の世の常だ」
今の言葉には、甲斐の武田信玄ならでは、と言うしかない底冷えするような凄味がある。謀殺の妙手、と言う点では、この信玄は、海童と劔の立場からすればその源流に近いところに位置しているのだ。
「分かってもらえたと思う。細菌兵器攻撃とやらについて、私は一定の理解しかないが、いざ実行の段階となると君たちが考えているほど容易くはない、と言うことを」
信玄は僕の演出に抜け目なく、便乗した。
「そうなると後は総力戦、と言うことになる。君たちがどれほどの持久力を持てるのか、それは判らないが、現時点でその拠点が限られていることは確かだ。…私たちはそれを念入りにつぶす。どんな犠牲を払おうが何年かかろうが、最後の一兵まで確実にね。やることは一つだ。非常に分かりやすい。だから言っておくが消耗戦はお勧めしない。私の『やり方』と言うものを、理解しているのならね」
信玄の脅しは、劔を図らずも苦笑させた。何しろ甲斐武田の威嚇戦術と消耗戦の凄まじさについては、歴史に残る悪評を買うほどのものだ。
「また、君たちがどんな兵器を使うのかについては、私はすでに理解をしているつもりだよ。…今、真人くんがやってみせたことは別として、暗殺と言う技術の根本は、銃器が発達した時代においてもそれほど変わってはいないようだ。いくら銃器の類が発達したとしても、例えば暗闇の中、音も立てずに暗殺を実行する技術体系においては、私たちとそれほどの変わりは無いらしい」
信玄が海童の代わりに見たのは、三島春水だ。なるほど、特殊部隊スキルの最高峰の一つが刃物を使った無音暗殺だと考えるなら、それは信玄の時代から三島春水へと連綿と続く、不変の技術体系だと言うことだ。
「ご正鵠」
一言だけ、三島春水は答えた。テクノロジーで武装した兵士も彼らが警護する指導者も、職務を離れさえすれば私生活を営む人間である限り実は、原始的な手段である『暗殺』が、最も防ぎにくいと言うのは、不変の理だ。
「誤解しないで欲しいが、これをあえて話すのは君たちをいつでも殺せる、と私が言いたいがためでは、決してない。わざわざ話したのは、『何でもあり』になると困るのは我々だけではない、と言うことだ。つまりさっき、君たちが採ったような手法は、通用しない。突き詰めればただ、無惨な殺し合いになる」
そこで信玄は言葉を留めた。絶妙の緩急だ。僕が踏み切ったアドリブのはったりを見事に利用して信玄は、こちらに話のペースを奪い取ってきた。
実際、細菌テロを実施することになったら、どれほどの犠牲が出るか僕にも想像すらつかない次元だが、信玄はアメとムチを使い分ける話法で見事に、海童・劔、双方が細菌戦に踏み切る可能性を潰したのだ。
「いいだろう、さすがは信玄公」
巌に走った亀裂のような笑みで相好を崩して、劔が感嘆の声を発したのは、そのときだった。
「無益な殺し合いをしたくない、と言うのは、私も同じだ。さっきも言ったとは思うが、私が細菌兵器を保有する目的は、ただ安全に管理しておきたいと言う気持ちだからだと分かって頂きたい。貴殿はどこまで存じ上げているか、だが、炭そ菌で汚染された土壌を元に戻すのは難しい。戦国の越後を死の大地にして、私の得られるところは何もない」
「と、なるとさっきの話は一体どうなるのかな?」
信玄が試みに、劔の真意を汲もうとしたときだ。
一発の銃声がふいに、雪の椿森に木魂した。
全員が、テーブルの下へ臥せる暇もなかった。虎千代ですら、微動だにせず事態を見守るしかない。しかしそんな中、三島春水だけはすでに動いていた。
と、言っても大きな動きではない。
左手に、仔牛肉を刺した銀のフォークを閃かせているだけだ。それを海童の首筋に突きつけていたのだ。危険極まりないが、彼女が無造作にそんな意表を突く行為に出たのか、銃声に注意が向かなければ、誰もが見ることが出来ただろう。
フォークで脅かすことで、海童の姿勢を微妙に変えたのだ。とっさにこの男がのけ反った分、顔面の高さがほんのわずか、ずれた。そこを狙って、ライフル弾が飛んできたのだ。三八式歩兵銃による遠距離狙撃だ。信長が普段撃ちまくっているので、僕はすぐに銃声を聞き分けることが出来た。
放ったのは恐らく、劔が配備した伏兵である。今の会談のうちの何が合図になったか、それは判らないが、劔がすでに海童が座る席を狙って専用の狙撃兵を忍ばせておいたことは、銃声と壁に残った弾痕から明らかだ。
戦前のものとは言え、最大二四〇〇メートルもの有効射程範囲を持つライフルだ。ここからは狙撃手の位置すらも特定できないはずなのに。
三島春水はその超人的な勘で、身近にいる劔が出した合図から狙撃の瞬間を割り出したに違いない。最小限の動きで狙撃弾を海童にかわさせた今のは、神業級の絶技と言っていい。
しかも返す反対側の手で、三島春水は何かを放った。劔の顔の横をちょうど掠めて飛んだのは、牛肉を切ったナイフだ。
「ぐっ」
それは劔の背後に控えていたもう一人の守兵の右の眼窩に深々と突き刺さった。男はくぐもったうめき声を呑み込もうとするかのように、顔を抑えて斃れた。
「劔会長、今のは悪い冗談と言うやつですかな?」
海童は平然とした口調で言った。だが声音の強張りを、ごまかすことは出来ない。何しろ今、三島春水がここにいなかったら、ここで死んだと言う自覚もなく即死していただろう。
「良人もわたしも、重々理解しております」
三島春水は唇を綻ばせると、海童の席からナイフを取り上げた。
「…会長のお立場からすれば、当然のこと。恐らくわたしがあなたの下にいたならば会長はここで、全員の抹殺をお命じになったでしょう。…それでこそ、会長です。今日のわたしたちは、それを確かめに来たまでのこと」
「殺せ」
有無を言わさず、劔が言ったのはそのときだ。
「全員生かして帰すな!」
間髪入れず、辺りに銃掃射の雨が降り注いだ。
肚の探り合いから一転、分かりやすすぎる展開になった。非常時は想定済みである。僕たちの中で対応の後れをとる人間はいなかった。
「おいッ、こっちだ!」
ミケルがテーブルを蹴倒して狙いを遮る遮蔽物にし、その間に虎千代が僕の手を曳く。銃声はその間もひっきりなしだ。火薬と弾ける木くずの匂いがそこかしこに立ち込め、視界は極端に悪い。あっという間にここは、戦場になった。
「全員無事かッ!?」
怒鳴り声を上げるミケルを、虎千代は制した。
「武田殿の方は、気にするな。いざとなったらそう言う手はずじゃ」
全滅を防ぐための唯一の方策である。後は落ち合う場所に向かって、撤退するだけだ。
「海童たちの消息は?」
「問題ない」
僕は、天目の呪を唱えた。はるか上空の目が、海童たちを捉えている。いわゆる基礎的な察気術の応用で折り鶴の式神は、海童と三島春水の気を捉えて追跡を続けるから、この雪原の藪の中を逃げられても、見失うことはない。
「よく判らんが連中の尻尾には上手く、鈴をつけたってわけだ」
ミケルは銃火の方向を確認しながら、突破口を捜す。
「劔はどうする?殺っていくか」
剣呑なミケルの台詞に、虎千代は唇を綻ばせた。
「どうする、真人」
「あえて危険を冒す必要はないさ」
僕は答えた。これは推測だが、劔の今回の狙いは僕たちと言うよりも、危険な炭そ菌を持った海童たちだ。海童と三島春水が絶好の囮になってくれているのだ、その注意をあえて、僕たちのところへ向ける必要はあるまい。
「じゃあ、二人とも準備はいいんだろうな?」
ミケルは、腰のエスパーダに手をやった。目で視るミケルに対して、虎千代は目を閉じて気を探っている。
「ゆっくり五つ、数えろ。まずおれが出て、虎姫が出る」
「いつでもよい」
ミケルたちが何を狙っているのかは、分かった。恐らく、これから乱戦になる。近接戦闘に備えた兵士たちの靴音が、実に夥しく聞こえるのだ。襲い来る敵をむしろ楯にして、銃火をくぐり抜ける。この二人らしい、無謀な戦術だ。
一、二、三、四、五。気持ちの逸りをおさえながら、数字を口に出して数えた。いよいよ、始まるのだ。
「真人は姿勢を低くしてついて来い。見失うなよ?」
ミケルは呼気を潜めると、硝煙のただなかに飛び込んだ。樹から這い降りた豹のようだ。オレンジ色の火煎がいまだ降り注ぐ、混乱の極だ。
「ぐわっ」
くぐもった男のうめき声が、いくつも同時に上がる。ミケルの『稲光』が一瞬にして、死人の山を築き上げている。重装兵士と戦うために発達したエスパーダの前には、体格差も関係ない。ミケルより逞しくはるか大きな男でも、急所をえぐり取られれば、あえなく即死する。
両眼窩、口の中、頸動脈、腋窩動脈、大腿動脈、睾丸。これらの急所は、甲冑をつけていたとしても十分有効だ。軍刀を持った兵士たちは一気に死体になった。
「銃は任せろ」
刃物を持った兵士たちに始末を任せ、虎千代は銃器を持った近接戦闘員を片付ける。鼻先で銃を突きつけられても、虎千代には当たらない。引き金を絞ったときには、目の前から消えている。
その動きは、むしろ目まぐるしさと言うものからは、解き放たれていた。死神にはそぐわない。日向の陽炎が立ったほども感じさせず、何人かは引き金に指をかける暇もなかった。
二分で襲撃者たちは、沈黙した。銃声が絶えて、耳鳴りが止まない。劔は最初のどさくさで場を逃れたらしい。開けた庭園側の方で銃声が喧しいので、海童たちを追跡する方を択んだのかも知れない。
「いつもながら、派手にやったな」
ミケルは苦笑した。溶けた雪で濡れた庭石に、真紅の血がぶちまけられ、根雪を汚している。香しいはずの椿森は、一気に生々しい臭気で満ちてしまった。和やかな昼餐から一転、地獄絵図だが、感慨に浸っている暇はない。
「さっさと撤退しよう」
うつ伏せの死体から僕は拳銃を取り出した。
「黒姫に合図を」
「やってくれ」
血と脂にまみれた刃を懐紙で拭いながら、虎千代は肯いた。
僕は、事前に渡されていた焙烙玉を屋根に放り投げてから撃った。けたたましい音を立てて花火がほとばしる。これが僕たちが無事に脱出した合図だ。黒姫たちも無事に、落ち合えるといいが。




