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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.16 ~頂上決戦、十界奈落城攻略戦、三つ巴の戦い
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緊迫の三者会談!炭そ菌の脅威、鍵を握るのは真人…?

 見間違えようはずがない。

 たとえ、ほんの一瞬でも。あの底冷えするような眼差しの気配だけは、感じずにはいられない。虎千代ならいざ知らず、かつてあいまみえたことのある僕だからこそ、肌で感じられるのだ。

(あの男がここに来ている)

 なぜだと、愕然とする間もなかった。海童がどんな手段を使ったのかは分からないが、下手をすればここで、一触即発だ。劔劉士郎がその気になれば、かつて中国東北部で起こった関東軍による戦火を越後に、そのまま再現することが出来るのだ。

「かなりの武力のようだな」

 兵器が違えど、そこに(みなぎ)る士気の高さを虎千代なども鋭敏に測りとっている。

 劔を護衛しているのは、一個小隊と言うところだろうか。劔が載った四輪駆動車には前に二人の兵士を載せていた。それに歩兵をたっぷり搭載した軍用トラックに前方を守らせ、後方には側車 (サイドカーのこと)を付けた二輪が一対、雪交じりの泥をはね上げてぴたりとついてくる。その誰もが、たっぷりと武器弾薬を備えている。

 さすがにこの雪山の谷合には、持ち込める車両は限られているが、埋設してある兵力があるとするならば、重火器だって備えている可能性がある。いざと言う事態になれば、山の形が変わるだろう。

「脅威は炭そ菌ばかりではない、と言うことだね」

 後方から信玄が馬で駆けて来て、苦笑していた。こっちは笑えないが、この稀代の策士はこの計算外の伏兵を頭に入れても、正常に機能しているらしい。

「安心したまえ、こちらは私と真紗の受け持ちだ。なるべくことを荒立てないようにしたいものだが、いざと言う時も任せておいてくれ。…それより問題は海童の方だ。以前、君が言っていたことを、そのまま信用して任せてもいいんだろうね?」

 僕は、二言なく肯いた。炭そ菌も紗布屠も、僕が解決すると言ったのだ。ここは責任の一端を担っている以上、曖昧(あいまい)な返事をするつもりはない。

「恐らく今日が、戦端開く日になろう」

 虎千代は信玄に目配せをした。

「その覚悟でいてくれ。…綾御前殿の手前、坂戸城下を火の海と言う事態は、極力避けたいがね」

「不肖長尾景虎、一命を賭しても、そうはさせませぬ」

 昭和の兵器相手だが、一剣を(たの)んで虎千代は、(ひる)む様子もない。

「あたしたちも行くわよ」

 真紗さんもいつもの笑みも浮かべない。

「もしかしたら今日は、海童、劔、両頭を一挙に暗殺出来る日になるかも知れないでしょ?」

「仕留めるなら、三島春水もだ。玲には悪いが、今度こそおれが食う」

 ミケルも僕を見ると、腰のエスパーダの柄を叩いてみせた。

「そして大将、あんたを死んでも守るぜ」

「いつもありがとう、ミケル」

 僕は言った。もうすでに決着に向けて、機は熟したのだ。

「行こう」


 椿森の行く手は閑寂(かんじゃく)の一言である。

 無論のことながら、その静寂は決して無人のそれではない。この椿森のそこかしこに、ほとんど隙なく配された緊張の為せる業である。

 紅鶴の別館は、大型の木造平家造(もくぞうひらやづく)りだ。廊下で渡殿をつなぐいわば御殿方式だが、谷裾に湧く温泉の湯殿を取り囲んで建造物が長く伸びきった構造になっていると考えていい。観たところ現代の日本旅館に近く、少なくともこの時代の建造物には見えにくい。

「どうぞ、こちらに」

 と招かれて、玄関から上がるのは五名。

 僕と虎千代、そしてミケルであり、信玄、真紗さんの組だ。武器を預けろ、とは言われなかった。丸腰になることを警戒する虎千代や信玄たち武士を気遣ってのことかと思ったが、その辺りが逆に剣呑ではある。

「抜くならどうぞ、ご自由に、と言うところだね」

 信玄は虎千代やミケルの剣を流し見ると、椿森の彼方を眺めた。下手をすると、ここが戦場になる。問題は劔と海童がどれほどの武力を埋設しているかだ。軍服をやめ、僧形の信玄も懐には拳銃くらいは呑んでいるのだと思うが、ここへ来るまでにそれを(とが)めだてしないと言うことは、むしろ恐ろしいことなのだ。

 湯殿は脱衣場がある下屋と、竹矢来で仕切られているが、その奥の斜面同様、今は不気味に静まり返って、ひと気を感じさせない。戦車の分厚い装甲も貫通するような重火器で掃射されたら、ここなど逃げ場もないだろう。

「虎穴にいらずんば、何とかってやつよ。ここまで来たんだから、もう行くしかないってばよ」

 真紗さんなど、慣れたものだ。本当に丸腰…と言うのはさすがにないだろうけど、小袖の裾をひらひらさせながら、何でもないように歩く。


 火鉢で十分に暖を取っているのか、木造の建物の中は、想ったよりも寒くない。渡り廊下からは湯殿を望む中にそれが見え(もちろん竹矢来で仕切られているが)雪を弾く硬い葉と瑞々しい花弁をまとった椿の木立が、鎧武者のようにのっそりと雪原にうずくまっていた。

「どうやらあそこのようだ」

 信玄が、庭園の彼方にあごをしゃくる。そのとき渡り廊下は絶えて、石の削り痕も真新しい石段になっていた。行く手は、崖の突端にある離れである。建物が大きく西に向かって開けている構造になっている。谷すその沢へ景色をとってあるせいだ。

 純然たる日本家屋だが、能舞台のようだ。畳が取りのけられ、板敷きの上に緋毛氈(ひもうせん)が敷かれている。床の間の大鉢にはたっぷりと重たい花のついた枝ぶり見事な椿。応接テーブルと椅子は洋式。まるで近代の軍人の迎賓施設だ。

「悪いが、洋式にさせてもらった」

 と、言いつつ眼帯をした海童は、フォーマルな格好ではない。冬季迷彩のジャケットに、鉄板入りのブーツだ。

「何しろここへ戦国時代の客を迎えるのは、初めてなんだそうでね」

 海童は傍らに将校を侍らせた劔を見遣って、皮肉めかした口調で言う。恐らくここは紅鶴の別館とは称しているが、劔たちが十界奈落城の城下に建設した隠れ家のうちの一つだ。そんな場所を僕たちとの会談場所に指定する海童も人を喰うにもほどがあるが、今のも、劔劉士郎が内心面白からぬことを知っていて、面当てで言っているのだ。

「最初からマナーなんか、求めてないんだろう?」

 僕が言い返すと、海童はこれ見よがしに肩をすくめた。どうせ、仮初(かりそ)めの停戦会談だ。傍らに座っている三島春水も一見、無腰だが、女袴の下に鉄板入りの編み上げ靴を履いているのを僕たちも、目敏く見極めている。

「問題ないさ。…ここにいる人間は、全員土足になっている。つまり、いくさ場にいるつもりで会おうと言うのだ。その流儀でいくと言うなら、こちらも異存はない」

 平然と席についた信玄に(なら)って虎千代も、土足で上がった。劔がしているように、刀を椅子に立てかけて、いつでも抜ける姿勢である。

「…どうやら、(はな)からやる気のようだな」

 僕が虎千代の横に座ると、ミケルもそれに続く。がちゃり、と重たいエスパーダの鞘についた金具が僕の足元で鳴った。ほとんどこっちもその方が、好都合だとでも言わんばかりだ。

「初めにはっきりさせておきたいんだけど、海童さん。どうせ殺し合いをするなら場所を選んだ方がいいんじゃないかしら?」

 ついに真紗さんから、剣呑な単語が出た。

「見たところ雁首出揃(がんくびでそろ)ってて、こっちは好都合でもあるわけよ。いざ暗殺となったら、こっちは別に近代兵器とやらに、頼らなくても済むわけだし」

 どん、と、けん制するように大きな音がした。劔が振り上げた軍刀の鞘尻で、床を突いたのだ。

「因縁ある君らがここで殺し合いをしたいと言うなら、好きにすればいい」

 劔は底錆びた声で言った。二人よりも上手の場を仕切る人間の声だ。

「だがそれほど興を引く見世物とは、思えんな。初めに言っておく。…私は、君たちの角の突きあいを見に来たわけではない。見ておきたかった顔ぶれが揃うと言うから、ここで座を持つのを許したまでだ」

 やはりここは、劔の私邸にも値する場所なのだ。その懐に飛び込んできた以上は、僕たちも海童も伏勢を配備してあるとは言え、ただでは出られるわけがない。

 劔は海童と真紗さんの二人を封じると、信玄と僕、そして虎千代に目を遣った。

「信玄公…並びにそこにいる成瀬真人くん、我々は一別以来だ。旧交を温めると言うわけにはいかんだろうが、出来なかった話の続きでも、楽しもうじゃないか。…そして越後守護代、長尾景虎殿、あなたには、お初にお目にかかる」

 劔は軍帽をとって丁寧に挨拶をした。やはりこの男には、侵すべからざる風格のようなものがある。虎千代も目礼し、それに応えた。

 劔と虎千代があいまみえたのは、そう言えばこれが最初である。虚無感すら含んだ厳寒のシベリアの凍気が籠もったその眼差しを、虎千代はどう見たのだろうか。

「貴殿が、劔劉士郎殿か。聞くならく十界奈落城の主にして関東軍、なる我が国の未来の軍勢をこの越後に持ち込んできた、とか」

 虎千代は色のない声音を出して、尋ねた。

「概ねその通りだ長尾殿。我々は昭和二十年と言う四百年あまり後の時代から、この天文十八年の越後にお邪魔している。だが私たちは、決して君たちの敵ではない。私のことを知っていると言うことは、久遠からも同じ言葉を聴いているはずだ。…そうだね、真人くん」

 劔は僕に、水を向けた。僕は苦笑を作ると、かすかに首を横に振った。

「話だけはね」

「上々だ」

 劔はそれに、なんの反応も示さなかった。

「では、歓迎のための昼餐(ちゅうさん)を始めようじゃないか」

 劔は案内の女性に目配せをすると、給仕の用意をさせた。


 食事は完全な洋食である。前菜から始まって全員の食事の進み具合を見ながら一皿ずつ、献立が進んでいくいわゆるフルコースの形式だが、出てくるのはなるほど、庶民の高校生の僕など、口にする機会もなかったような、高級料理だ。

「まっ、真人。これはどうやって食べるのだ…?」

 こっちもあまり見慣れない料理に気が気でない中、虎千代がしきりに話しかけてくる。箸しか使ったことのない虎千代に、いきなりナイフとフォークの食事は、違和感が強い。いちいち使い方を教わって食べるから、虎千代は何やら、苦痛を受けているような顔になった。

 さらにひどいのは、ミケルだ。ヨーロッパ人だから当然、テーブルマナーなどすっかり心得ているのかと思いきや、ナイフを片手に手づかみで物を食べそうになって、僕に袖を引っ張られた。

 そう言えばナイフとフォークの食事形式が登場するのは、十八世紀のことだった。フォークが登場する以前は、キリスト教の教えで、食事は神から与えられた神聖なものだったため直接、素手でつかんで食べるのが当然とされたのだ。

「くっ、なんだ、この罰当たりな食べ方はっ」

 十六世紀の聖職者のミケルが、ぶつくさ言って当然である。だがもう、慣れてもらうしかない。

 まさか普段はお行儀のよすぎるほどいい二人に、僕がまさか食事のマナーを施そうなどと思わなかった。

 ふと目を他へ移すと意外なのは、信玄だ。十六世紀の仏教徒の癖に、その完璧なテーブルマナーはなんなんだ。虎千代とミケルが四苦八苦するのをしり目に、涼しい顔をして食事を楽しんでいるなんて。

「なに、見よう見まねでね」

 信玄は、平然とうそぶいた。どうも、真紗さんの食べ方を真似ているようだ。ああ見えて真紗さんは、ヨーロッパ生まれだ。普段は畳に片膝立てて座って日本酒飲んで、干物手でむしって食べてる癖に。

 二人して僕たちなど存在しないような顔で、ちゃっかりワインなんか選んでて、小憎らしい。

「お口にはあったかね?」

 劔は、海童と信玄に向けて声をかけた。ちょうど明るいきつね色に揚がった白身魚のムニエルが、到着したところである。

「悪くありませんよ。さすがは劔閣下、商社マン時代から外遊経験が深いだけはあります」

 海童は面倒くさそうに答えた。その横で三島春水が、なぜかひとくちも食べもせずに黙々と平たいムニエルを切っていた。

「武田殿は?」

「悪くはないよ。海童殿と同意見だ。…いやむしろ、惜しげもなくこの貴重な料理を出してくれたことに、感謝すべきなのだろうな」

「と、言うと?」

 劔が試すように言うと、信玄はナイフで切り身を割ってみせた。

「この魚、実に真新しい。この時代、干物でも塩ものでもない魚をこのような山中で見かけることは私のような立場からでも、ほぼ、ないと言っていい。一体、どこから輸送したものやら…?」

「さすがは武田信玄公だ」

 信玄が濁した言葉が含む意図を、精確に把握したらしく劔は、顔に亀裂が浮かんだように見えるほどの破顔(はがん)を見せると、これ見よがしなうなり声を上げた。

「川底の泥の味や匂いはしないから、これは海の魚だね?」

 と、信玄は切り分けた身を口にしながら、傍らの真紗さんに問う。

柳鰈(やなぎがれい)ですよ。越後では、信濃川河口の沖合で水揚げされた鰈が、あたしたちの時代でも希少な高級魚として取引されているんです。つまりここでこれが出るってことは、十界奈落城の勢力が越後の海側にまで、ちゃっかり影響力を及ぼしていると言うことですねー」

 黙っていたが僕は、舌を巻く想いで聞いていた。たかが魚のフライ料理から、そこまで分かるものなのか。さすがこう言う面は、情報戦略と分析を主武器にする二人には、到底及ぶものではない。

「真紗の言う通りだ。ここにたった一皿だが、分かることは多い。例えば私からも言わせてもらうがこの魚のつけだれ(ソースのことだろう)だが、生の牛の乳を使っているねえ。(らく)(チーズのこと)とも違うようだ。十界奈落城殿は恐らくそれほど遠くもない場所に、牛どもを放す広い牧でもお持ちらしい」

「ご名答。…確かにこの後、臭味の少ない処女(きむすめ)の仔牛を赤い葡萄酒のつけだれで料ったものが出ることになっている」

 劔は、特に包み隠さずに二人の情報分析を認めた。この男もまた、情報のプロだ。一級品のスパイが集まったこの場で与えうる情報については、すでにきちんと把握済みに違いない。


 ムニエルの皿が下げられ肉料理が出ると、劔はおもむろに語り出した。

「さてそろそろ、本題に入るとしよう。この三者会談の目的は、海童くんが私の基地から持ち出したものの存在が、発端になっている」

 劔がついに、孤狼窟から強奪された炭そ菌に話題を向けた。

「まず結論から言おう。…勝手に持ち出したものは、返還するのが筋だが私は別に、それは求めていない。そもそもあれは、この私が現われる以前に、あの砦を蝦夷たちと築いた何者かが備蓄していた、かなりの年代物だ。もし事故があると困るので私が、管理していたに過ぎない」

 劔の長広舌を詭弁だと言うように、海童は嘲笑った。

「…まるで私たち預かっているものが、無価値で無力なものだと言いたげですな」

「そうは言ってないさ。しかし、軍事用としてはあれはまだ、不完全な代物だ。我が日本陸軍も大陸で事故を起こしたが、軍事作戦として炭そ菌を散布するには、培養するだけではまだまだ足りない。戦争を経験していないとは言え君もプロだ、それが分からぬ君ではあるまい?」

「戦争を経験しなくても、対テロ戦は経験済みですよ。炭そ菌は戦後に至っても、現役の兵器として進化を遂げてきた。『民間人』になってなお、第一線にあったあなたにそれが分からないはずはないでしょう」

 海童はすかさず、皮肉を刺した。誰も口を挟まなかったが、僕もこのやりとりを神経を研ぎ澄ませて聞いていた。信玄も何も言わなかったが、僕が心得ている、と信頼してくれているからこそと信じたい。少しでもこの場にいる諜報のプロたちに、追いつかなくてはならない。


 この会談、まず重要なのは、口火が切られた話題だ。二人が僕たちを無視して、炭そ菌の話から始めたのには、理由がある。まず、三者の立場の違いの明確化だ。

 劔がくしくも率先して言ったように、この会談の発端は何よりも海童が孤狼窟から持ち出した、細菌兵器なのである。これは現在のパワーバランスの中で、明確な変化を持った出来事であったに違いない。一旦同盟を組んだものの、劔から主力を外されていた海童たちが奪取したのは、紛れもなく大量殺人兵器なのだ。

 数で劣る海童たちは、これを手に入れたことで、少数派のデメリットを克服したに等しい。禁断の細菌兵器の行使で、守るべきものが大きい僕たちや劔は、圧力をかける立場から一転、脅威を受ける立場に晒されるようになったとみていい。会談当初から、劔はそれを、率先して封じようと動いたのだ。

 十界奈落城には、炭そ菌攻撃に対する十分な対策とノウハウがある、と暗に示すことで、海童を制止しつつ、逆に僕たちには細菌テロを防ぐ術はない、と言うことを、仄めかしたのだ。

(だとすると、劔は次にこう出てくるだろう)

 話の流れを読めば、危険は察知できる。果たして、僕が思った通りになった。


「海童くん、私は君たちと争うつもりはない。もし君たちがそうしたいと言うならば、今の君たちを全面的に支援しよう。資金や物資提供はもちろん、炭そ菌戦術のノウハウもね。孤狼窟で死んだ指原君の代わりに、君が下界の大隊の指揮を執ればいい」

「なるほど」

 海童は胸の前で両手を組むと、目の前にあったワインを一気に飲み干した。

「悪くない話では、ありますな」

「精々炭そ菌は、有効に扱いたまえ。君と春水には負けたよ」

 劔は口先だけで言うと、僕たちの表情をうかがった。

「ッ…なんですってこのクソ野郎ッ!」

「静かに」

 押し殺した声を漏らして立ち上がりかけた真紗さんを、制したのは信玄だ。炭そ菌を利用して海童と劔は初手からつるんで、圧力をかけてくる。最初から、このつもりだったのだ。

(予想していたことだ)

 考えてみれば、不思議でも何でもない。僕たちにとっては元々、一つの敵なのだ。

(すでに準備はしてある)

 僕は信玄に、軽く目配せをした。もう一歩でも後に退くわけにはいかない。問題ない、と当の僕が、言ったのだ。意を決して僕は、脅迫めいたことを言う二人に対して、口を開いた。

「細菌兵器を使うのならば、好きにすればいい。でも、注意した方がいい」

 二人は弾かれたように、僕を見た。当然、僕みたいな若造ではなく、この場は信玄が何か言い返す、と想定していたのだろう。

「劔中佐、あんたは当時関東軍の事故には関わっていなかったと思うが、日本陸軍は散布実験に失敗した。その最大の敗因は風を、読み違えたことじゃなかったか?」

 何が言いたい、と言うように二人は僕を睨みつける。ここが正念場だ。これを外すわけにはいかない。僕は密かに唱えた風の呪を発動した。

「ウウッ」

 と、その瞬間、劔の傍らにいた将校が、棒のように前へ倒れ伏したのはそのときだ。テーブルに乗り上げた軍人は額を打って気絶した。劔と海童のちょうど間である。誰もが、予想だにしていなかったことが起きた。ぴくりとも動かないふいの犠牲者に、和やかな昼餐のテーブルは一瞬で凍りついた。

「あんたたちが越後でも、風を読み違えないといいが」

 僕は皮肉をたっぷりときかせて、二人を睨み返した。

「ここではあんたたちに、犠牲者は選ばせない」




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