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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.15 ~陥落十界奈落城、シベリアの妄執、雪中暗闘
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別れの時!?目覚める新たな力、真人の決意は…?

「晴明…」

 あまりに唐突過ぎて、言葉にならなかった。ずっと、一緒にやってきたのに。こんなときに、こんなことになるなんて。まさか想像もしていなかった。

「真人、認めたくはないだろうが紗布屠の力は、私たちの想像以上だ。今の状況下では私たちは、もう戦えない。今は守るべきものを守って逃げるしかないのだ。それには犠牲が必要だ。紗布屠の力を抑えて、殿軍(しんがり)をつとめることが出来るのは、この中で私しかいない。そうなれば、話は分かるな?」

 突き放されたような晴明の言葉に僕は、気が遠くなりかけていた。

「私たちは負けたのだ。だが、今なら最小限の犠牲を払えば、負けを勝ちに転じることが出来る。迷っている暇はないぞ。…これが唯一の方法と機会なのだ」

「だめだ」

 言下に僕は、晴明の言葉を遮っていた。だって僕たちはまだ、生きている。紗布屠の力は確かに強大かも知れないが、ミケルも鎬木も生還したのだ。まだ誰も脱落なんてしていないじゃないか。

「…迎撃なら、ここで出来る。まだ皆、戦えるじゃないか。ミケルも、鎬木も、玲も、義利も…それに僕だって」

「真人」

 そのときだ。僕は思いっきり、あごを殴られた。目がくらむほどの一撃だった。晴明が殴れるはずはない。僕と晴明の間に、ミケルが割って入って拳をふるったのだった。

「代わりに殴っておいた」

 ミケルは、晴明の方へあごをしゃくった。思わず熱くなった僕の胸ぐらを持つと、ミケルは怒鳴った。

「いいか馬鹿野郎。お前が大将なんだ、ここでしっかりしなくてどうする!?いい加減しっかりしろッ、お前が今、皆の命を背負ってるんだぞッ!…少しは、頭を冷やして晴明の言うことを、聞いたらどうなんだッ!?」

 ミケルの叱咤は殴られるよりも痛烈に、僕には効いた。僕は虎千代みたいな常勝将軍じゃない、勝ちにこだわる気持ちなんてない。最悪のところ、負けたってそれでいい。でも喪うのが、嫌だった。晴明はだってもう、僕の一部なのだ。寝ても覚めても、虎千代と一緒の時も。僕と、僕の生活のすべてを共にして。最初は、あんなに嫌だったって言うのに。

「馬鹿も極まったな、不肖の弟子よ」

 いつか、堺で会ったあの時と同じ。

 晴明の声音はいつも澄んで、晴れやかだった。

「ここをどこだと心得る。戦場だ。…お前はこれから一生、あの虎姫と、仲間と、ここにいると決めたのだろう?戦場には誰かのお守りが必要な人間など、いないのだぞ。泣くでない。…もう大丈夫だ、お前なら」

 涙が止まらなかった。だって僕はあまりにも、無力だ。

「お前は、お前の出来ることをしろ。これからずっとだ。…少しでも、お前たちが犠牲にしたと思ったもののためになろう、そう思うならば」

 唇を噛んで、僕は頷いた。すぐには割り切れるものなどでは、決してない。しかし戦場はいつも、合理的な決断を迫る場所だ。晴明の意思を無駄にしてはいけないと本気で思うならば僕は、ここで頷かなければならない。

「晴明…もし、紗布屠の生身を相手にするならおれは残るが」

 この期に及んでもミケルは、晴明に申し入れてくれた。

「ミケル、お前は真人についてやれ。…いいか、私の目的は、紗布屠を倒すことじゃない。喰い止めることだ。あの男を倒すのは、あくまで生身の人間の役割ぞ」

 晴明はそこで僕を見た。今は無理だ。だが、近いうちに必ず。たとえ、どんな手段を使っても。

「僕が、紗布屠を倒す」

「その意気だ。…ミケル、玲、真人がこう言っている。ぜひ、無事に逃がしてやってくれ」

 二人は静かに頷いた。

「うちの大将は、やる男だ。必ず仇は取るぜ。…なあ、そうだよな!」

「真人くん、晴明さんのためにも必ずここへ戻って来よう」

「うん。…絶対に」

 僕たち三人は、決意を確かめ合った。晴明がそのとき、言った。たぶん、こんなことはこれから何度でもある。生き残ったものが、受け継いだ意志を絶やさぬことこそ、本当の敗北をはね返す唯一の突破口になると。

「それでいい」

 晴明は満足げに微笑んだ。

「それでこそ、この世界に私が存在する意味がある」

 そのとき、何か(おお)きなものが動き出す鳴動が、地を這って伝わってきた。こんなに傷ついていると言うのに、晴明の眼差しは限りなく澄み渡って晴れやかだ。

「教えてやる。馬鹿弟子、私が何をするために、肉体滅びてなおこの世界の理として生きていこうとするかをな。それは、『(えん)』のなるためだ。

『縁』はすべてを結びつける。そこに運命を産み出すためにな。

 思い返してみよ。私とお前との出逢いが結びとなり、さらに多くの人をひとつの場所へ結びつけであろう。お前が手に入れた『縁』のどれ一つ欠けても、お前は今の場所にいなかったかも知れぬ。つまりお前が虎姫と、ミケルや玲はじめ他の沢山の仲間たちと、今ここにいるための『縁』の一つに私は、なったのだ。

 それが五百年を生きた私の存在を、輝かしく祝福する。『縁』は運命を創り出す力を持つ、この世界で最も素晴らしい理だ」

 最期のつもりだったのか、触れ得ぬはずの僕の頬に落ちた涙を、晴明は水干の袖で拭ってくれようとした。

「達者で生きろ。お前が死ぬのはまだ、早い」

 僕は、頷いた。しかし本当は、何に対して頷いていいのか、分かってもいなかった。

「行くぞ大将」

 ミケルが僕の肩を取る。ミケルがそうしてくれなかったら、いつまでも僕はここを、去ることが出来なかっただろう。実体のない晴明に代わって玲が僕に、涙をぬぐう手巾を差し出してくれた。

「生き残ろうよ。…晴明さんのために」

 辺りがより騒がしくなってきた。宿り木に停まったはずの鳥たちが悲鳴を上げて一斉に逃げ出し、寒々しかった空気が、むっと密度を増してきた。

「行け」

 晴明は水干の袖を伸ばすと、闇の彼方を指し示した。


「吉方は、彼方(あちら)ぞッ!」


 歯を喰いしばった。僕は、晴明からトラックが離れていく、その間ずっと。少しでも気が緩んだら、想いを叫び尽くしてしまうような気がして。

 絶叫や慟哭が胸の奥からせり上がって来るのを懸命に抑えていた。

 望まぬ別れも来る。自分たちもそんな悲劇を沢山生み出してきた。そんな場所に、僕たちはいる。小銃を握り締め、運転席から背後をうかがいながら、僕は、置き去りにした闇の中から、緑色の光芒がほとばしるのを最後に見た。

 その刹那僕は、堪えていた絶叫を一気に吐き出してしまった。


「晴明ええええええ…ッッ!!」


 そこから先、僕は、無我夢中であまり憶えてなかった。迫りくる熱波の予感を肌で感じながら、冷たい闇の方へ方へと落ちていった印象ばかりが残っている。

 幸いに追手らしき人影はおろか、逃げ遅れた怪我人ひとり見なかった。紗布屠の凄まじい幻術で逃げ遅れた野盗たちが火事場稼ぎをしていることを予想していたのだが、行く手は鎮まり返って、死に絶えたような薄闇が続くだけだった。

「あともう少しだね」

 月の方角を見ていた玲が言った。玲と荷台のミケルは僕を気遣ってくれているのか、しきりに話しかけてくる。

「そろそろだ、真人。おれたち三人でさっさと、子供たちを載せちまおう」

 励ますようなミケルの声を聞きながら、僕は、晴明が遺してくれた形代を持っていたのを思い出した。人形型の憑代。それは自分に何かがあった万一の場合に、切り札に使えと、戦闘前に晴明から手渡されたものだったっけ。

「真人、ついたら運転を替われ。…そろそろ限界だ」

 久遠の顔色は紙のように白い。頭上に光る、薄い月明かりのせいではないようだ。

「頼んだよ」

 玲は僕に、噛んで含めるように言った。僕はあわてて形代を仕舞いこんだ。そうだ、まだ、何も終わっていない。それにこうやって頼られて、何かに追われていた方が、気が遠くならずに済むじゃないか。


 合流地点は、村の炭焼小屋の(ふもと)だ。背後に村人が薪を伐り出している山場があり、小屋のある丘の根が庇のある広い溜まりになっているために、避難してきた人が隠れやすいようになっていた。

「皆早く!乗るでござる!」

 避難民を手分けして、トラックに載せる。かなりの人数がいたが、どうにか逃げ込んだ全員を収容できそうだ。

「朝までには、孤狼窟には着けるか」

 一先ずほっとしたミケルが、夜空を見上げた。もしここに、晴明がいたなら孤狼窟の虎千代たちに戦況を一報することが出来ただろう。

「皆さん、本当にすみません。…わたしのせいで」

 一花さんが気に病んだように言った。

「何を言ってるんですか。あなたが気にすることじゃない」

 僕は小さく、かぶりを振る。尊い犠牲を払ったが、僕たちにだって得られるものはあった。黒姫と真紗さんが血眼で捜していた小綾さんと久遠を発見できたのも、思わぬ収穫だ。

「真人はん…姉はその…」

 恐る恐るの小綾の声に僕は、深雪さんを思い出した。あの人は今、孤狼窟で身を養いながら僕たちと小綾さんの帰りを待っている。

「これから行く場所にいます。会ってあげてください。…深雪さんは、あなたのことを心配していましたよ」

 僕がただ、それだけを言うと小綾は、はっと息を呑んだ。果たすべき約束を、僕は、やっと果たした。深雪さんは、喜ぶだろう。今はそれで十分だと思った。

「取引は続いている。私たちはただの居候になる気は、無いぞ」

 久遠の声がした。運転席から降りてきた男は、玲の手を借りていた。限界だと言ったのは、嘘でも何でもなかった。傷口が完全に開いたのか白いシャツが、夜目にも分かるほどに血でぐっしょり濡れ始めている。

「早く血留めを」

 小綾は手当の道具を持って、玲と久遠の身を支えた。

「もう一度言っておくぞ。…あの幻術師、紗布屠を召喚()んだのは、劔閣下だ。貴様と長尾景虎に今、この越後で何が起こっているのか、教えてやろう。私は、貴重な情報源だぞ」

「分かった。僕の責任において、それ相応の待遇は約束する。…玲、義利に言って刃物傷の応急手当をしてもらってくれ。あの子は、慣れてるはずだ」

「うん、ちょっと待ってて」

 玲は義利を呼びに、すぐに走った。その背に久遠は、振り絞るように声を浴びせた。

「コートにウオツカの小瓶がある。…ついでに、取ってきてくれ」

「血が停まらなくなるぞ」

 僕は注意したが、久遠はものともしない。

「この寒さで、意識を喪うよりましだ。傷を負って眠ったら、二度と目覚めない。そんなやつらの末路を、貴様は見たことがあるか?」

 シベリアに収容された諜報員の言を出されれば、口をつぐむしかない。しかし気付けどころではなかった。玲から、ウオツカの瓶を受け取ると久遠は水でも飲むようにがぶりと(あお)った。

「こいつは九九パーセント、ほとんど純粋なアルコールだ。氷点下でもこの本物のウオツカだけは凍りつかない。この酒のようになれなかった人間から、死んでいく。憶えておけ。…シベリアだけじゃない。戦場とはそう言う場所なんだ」


 そのときだ。トラックに乗り込もうとしている人たちの間から、悲鳴が上がった。

「へっ、蛇がっ」

 逃げ惑う人たちが遠のいている。僕たちは、見た。なんと、トラックの荷台から大小さまざまな蛇が群れ出してきていた。土色や(こけ)むした色、青く冴えた鱗を持つもの、見たことのない毒々しい赤や、黄色い腹を見せるもの。僕は思わず、息を呑みそうになった。

「姿を見せろ。いい加減にするんだな」

 ミケルがエスパーダを引っ提げて、人波を分ける。すると荷台と運転席の間から、人間の大きさに勝るとも劣らぬ、巨大な毒蛇がせりだしてきたのだ。平たい大きな蛇腹で鎌首をもたげるのは、紛れもなく猛毒を持ったコブラだ。

「蛇女め、車体の裏側にでも貼りついてきたか」

 大蛇は、毒腺(どくせん)からおぞましい液体を滴らせて、威嚇した。その声で、車体に群がる無数の蛇たちも一斉に威嚇を始めた。まるで蛇の女王である。

「この女の正体は、媚兎良だ。…紗布屠の幻術で、蛇になっているに過ぎない。おれは、見たんだ。おれの『稲光(ティキミスタ)』で仕留めてやる」

 エスパーダ一本で、ミケルは立ちはだかった。

「わっ、危ない!ミケル殿ッ、()まれるでござるぞッ!?」

「だめっす!さっきので分かったじゃないすか!紗布屠の幻術は、ただの幻術じゃないんすよ?あんた、無謀すぎるっすよ!」

 義利と鎬木が必死でそれをひき止めようとする。だがミケルは、動かなかった。一度だけ、試すように僕を見た。

「ミケルやめろ…」

「大将、男だろ」

 ミケルは聞かない。苦笑してかぶりを振った。

「期待してるのは、あの晴明だけじゃないぜ。おれだって『縁』とやらを信じてここにいる。皆、あんたが導いてくれるのを待ってるはずだ」


(僕は…)

 ただの、引き籠り高校生だった。勝手に親を恨んで、学校を辞めて、妹にも迷惑をかけて。人に頼りにされる存在なんかじゃ、決してなかった。他人どころか、自分の存在にだってすら、責任なんて取れなかったのに。

 でも、僕は生きてきた。この戦国乱世で。生きたくても生きられない、そんな人たちが普通にいる世界で。

 無数の『縁』があったからこそ僕は今ここへ、来れたんだ。煉介さんに会い、虎千代に会い、晴明に会い。数えきれないくらい沢山の皆と出逢ったから。

 僕がたどりついたこの場所で、どこまでも生きようと思った。何でも、投げやりだった僕が。どんなときでも、ここで生きていこうと思ったのは、僕と結びついた無数の『縁』に導かれたおかげだった。

 晴明が言った。自分は、僕たちを導くその『縁』の一つになれたんだ。そのために、生きてきたんだと。

 僕もだ。

 僕についてきた、様々な『縁』を持つ人たち。今度はその人たちを、僕が導いてやらなくてどうするんだ。僕もまた、誰かの『縁』になるんだ。

(負けられない)

 僕は、ここから何一つ喪うわけにはいかないんだ。その身を(てい)して、僕たちを紗布屠から守ってくれた晴明のためにも。

(分かったよ、晴明)


「まっ、真人…?」

 その瞬間、僕は、何も持たずにミケルより前へ飛び出していた。何も持ってはいない。だがすでに、武器なら持っている。

「僕にも、感じられる。あんたは紗布屠の護衛をしていた、媚兎良と言う女性だ」

 僕は噛んで含めるように、言葉を発すると二指を突きたてた。ちょうど、晴明がやっていたように。

「無駄な抵抗はやめろ。くだらない幻術で時間稼ぎをしようとしても、無駄だ。僕はあんたにかけられた呪を、解くことが出来る」

 すると大蛇は、鎌首をもたげて威嚇した。牙を向いて頭を左右に揺らし、巨大な頭を僕に向けて突き出そうとしてきた。足元に、無数の毒蛇たちがそれに続こうとしている。一触即発と言っていい状態になった。恐らくは一歩間違えれば、僕の身体は無数の蛇に喰い散らされて、穴だらけにされるだろう。だがなぜか、ちっとも怖くなかった。

「やめろ、真人。…お前に解ける幻術じゃない。どけッ」

「危ないっ、真人くん!」

 ミケルと玲が、必死に僕を制止しようとしている。

「大丈夫だ、二人とも」

 僕はなぜか笑った。自分でも判らなかったが、なぜか晴明が、するようだった。

「時間がない。だから、容赦はしない。今すぐ幻術を解いて、紗布屠のところへ逃げろ。さもないと、後ろのどちらかが攻撃する」

「真人、馬鹿言うなッ!お前、本当に幻術が解けるんだろうな!?」

 ミケルは半信半疑だ。だが恐らくこいつなら、僕の言った通り反応してくれるだろう。

「視えるさ。今、証拠を見せる。玲はさがってくれ」

 玲が退くのを見届けると僕は、背後のミケルに向かって言った。

「大蛇の目だけを視るんだ。…分かるはずだ。そこだけはミケル、お前が知っている媚兎良と言う人間の女の目だ」

 僕が言った瞬間だった。ミケルの身体が地を蹴り、大蛇と毒蛇の海へ躍りこんだ。呪を解くと決めたとき、僕には分かっていた。幻術を解くのは一瞬、本来、人間の媚兎良の眼差しを知っている、『僕か、ミケルでいい』。晴明じゃなくても僕だって、それぐらいなら出来る。一度もやったことはないが、今、揺るぎない自信があった。まるで一つの呪をかけるように僕はミケルに号令した。


「撃て」


 大きなどよめきが上がった。衆人環視の大マジックが成功したかのようだった。気が付くとトラックからあふれこぼれんばかりだった蛇たちはいつの間にか、そこに一匹もいなかった。



「視えた」



「真人…なんて奴だ、お前は」

 愕然と、ミケルは叫んだ。なぜかその声が、かつてないほどに震えていた。

「なんだ今のは…?何をした…?お前のお陰でおれの、おれの、技が…」

 そこからは言葉もなかった。

 僕とミケル以外の、誰にも視えなかった。

 今の刹那、ミケルはこれまでで最高のタイミングで、『稲光(ティキミスタ)』を放ったのだ。

 媚兎良は綺麗な顔で即死していた。目立った傷跡すらもないくらいだった。

 息を呑む間もない一瞬の交錯。ミケルの『稲光』は、血も凍る神業と化した。誰もが気づかぬ刹那を(ぬす)みとるように、右眼窩(みぎがんか)から眼球も潰さず脳髄だけを破壊したのだから。


「夜が明けるぞ」

 悪夢が冴え冴えと、絶えようとしている。光が溶けたように、(みぞれ)でぬかるんだ道が朝陽を受けて輝いていた。触れれば切れるように冷たく清い風が、何もかもを解き醒ましてくれる。

 でこぼこ道を避けるハンドルを駆りながら、僕は山陰から射し込む陽を浴びた。この混じり気のない、温度すらも持たない真冬の朝陽が、僕たちにとっては生還の(しるし)だった。あの陽の向こうへ行こうと、僕はアクセルを踏んだ。ここに載せた、もう誰も喪うことは無い。僕たちは、逃げ切ったのだ。

「朝だ」

 誰かが言って、荷台がどよめいた。それは悪夢に命を奪われずに逃げ延びたものたちの、安堵と喜びの声だった。よくやった、と言うようにミケルが荷台から、運転席の壁をぶん殴った。

「おれたちの勝ちだ、大将」

 朝陽を顔に浴びながら僕は、ガラス越しにミケルと拳を合わせた。


 すでにほの暗さは去り、道はその姿を現し始めていた。朝日を背負って丘の向こうに、間もなく二つの小さな影が立った。虎千代と、信長だった。晴明もいないのにどうやって僕たちの危機を察したのか、二騎、思い思いの武装で夜道を駆けてきてくれたのだ。

「真人!…うっ、わああああなんだそれは!?」

「あああっ真人くん、ブレーキブレーキッ!!」

 急ブレーキをかけて、泥にタイヤを取られるところだった。

「よくぞ、無事で戻ってきた」

 運転席から出た僕の顔を見るなり、虎千代は首に抱きついてきた。

「救援を後続させておる。武田殿が急を察してくれた」

 信玄はすでに細作を放って情報を集めてくれたのだと言う。だが、そんなことより何より嬉しかったのは、抱きついたとき、虎千代の瑞々しい黒髪の匂いが嗅げたことだ。

「久遠と小綾さんを確保した。この車両ごと、皆を引き取ってほしい」

「なんと」

 僕が簡潔に事情を説明すると、虎千代は満面の笑みだ。

「大戦果ぞ。真人、またよう、信じられぬほどの武功を上げたな!」

「うん…」

 言ったきり、僕は黙ってしまった。

「どうした、何かあったのか?」

 僕は言葉に詰まった。玲が代わりに、重い口を開いた。

「虎千代さん、僕たちは負けたんだ。…村は守れなかったし、帰って来れなかった人が出た」

「そうか」

 虎千代は、僕が紙の形代を取り出して泣いたので、戻って来ないその一人が誰か、すぐに察したようだ。さすがに衝撃を受けた顔だった。

「信じられぬ。…まさかあの晴明殿が、逝かれたとは」

「敵は、それ以上の幻術師だった。…晴明は僕たちを庇って」

 虎千代の顔が沈んだ。みるみるうちに、僕よりも傷ましい表情になった。

「すまぬ。…わたしが、もう少し早う駆けつけてさえいたなら」

「いいんだ、虎千代。これは、僕がどうにかすべきことだった」

 悔やんでも悔やみきれない。僕は、晴明が遺した形代を風に遊ばせながら、声を励ました。

「僕だってこれから、もっと、強くならなきゃ」

 虎千代は何も言わなかった。僕たちの間に、ぽっかり出来た空白のこと。その空白を埋めていた晴明が喪われ、もう二度と帰っては来ない、と言うこと。

 清々しい冬の朝陽が呑み込んでしまった。禍々しいあの地獄の(ほむら)も、晴明が彼方で発した緑色の末期の光も。

(後のことは任せて、ゆっくり休んで)

 その存在は消えてはいかない。万物の理の中に、少しずつ息づいていくはずだ。もちろん『縁』を持った僕たちの中にも。僕は朝の風に願った。いつか僕たちが朽ちるとき、必ずまた、会わせてほしい。ほんのそれまでの別れだ。



「さようなら、晴明」




「…ってコラお前ら!勝手に別れを告げるな!話をシメるなあああッ!」


 えええっ、何今のっ!?

 ばっちり晴明の声がした。すっごい近くにいる感じの声だった。僕と虎千代は、思わず後ずさった。

「まったく!これは週一連載なんだぞ!?今週死んだら私は、もういない、出番がないことにされてしまうだろうがッ!?」

「ちょっ、待って…ええっ?気色悪っ…晴明どっから話してるの?」

 僕は辺りを見回してしまった。虎千代も一瞬、目を丸くしていた。いつもみたいにいない。けど、確かに聴こえる。晴明が生きているのだ。

「今、気色悪いと言ったな、私のことをまるで尊敬しない馬鹿弟子よ。ここだよ。お前が今、風にひらひらさせてただろうが!?」

「えっ!これ!?」

 まさかの紙の憑代である。さっきすっごいピンチの時に切り札としていざとなったら使え、とか言って渡されたから、どんなもんかと思ったらまさかの。

「まさかの切り札だ、悪いか。こんなこともあろうかと、私の一部をこの形代に割いておいたのだ!」

 紙の形代が、かたかた動いて晴明がしゃべった。確かにこの中に、晴明がいるらしい。僕たちはあっけにとられてしまった。

「天才だからこそ思いつく、不死の秘法よ。私も、いざってときの脱出手段を考えねばならんかったからな。…ってこらっ、真人やめろ!引っ張ったら破れる!ダメになったら私の存在が消える!」

「僕の感動を返せッ!」

 あー泣いて損した。でも本当に際どかった。まさかだが、僕たちは、誰一人喪わずに、生還出来ていたのだ。気が付くと僕は晴明の形代を握り締めて、もう一度泣いていた。ったく、心配させやがって。






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