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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.15 ~陥落十界奈落城、シベリアの妄執、雪中暗闘
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胸騒ぎの一夜!真人、迫られる永訣の決断…

 この頃。

 日付が変わり時刻は()の刻をとうに過ぎたが、虎千代は一睡もしてなかった。

 夕暮れから何か胸騒ぎがしたのだと言う。

 そのため夜半、消灯を確認してからは、人払いをして一人黙々といくさ支度の手入れをしていたらしい。愛用の備前小豆長光に無銘長巻の寝刃(ねたば)を合わせ、新調した重藤弓(しげどうゆみ)の弦を張り替え、黒姫には愛馬の様子をうかがわせていた。

「あのう、夜半にお鷹狩りにでも出るので?」

 さすがの黒姫も、紗布屠と戦闘中の僕たちの消息を知らない。ここのところは、信玄たちと、まさに総力をあげて化学兵器を持って逃げた海童一味と三島春水の捜索にかけていたのだ。だがその夜に限って虎千代は、黙々とひとり、いくさ支度をし始めたのである。

「虎姫、精が出るではにゃあか」

 あわてる黒姫を後目に、信長は興味深そうに行く末を見守っていた。

 最近、不寝番は信長が買って出ている。銃撃戦で重傷を負ったベルタさんとゲオルグの容態を、驚くほど小まめに信長は気遣っていたそうな。

「やはり武具に触れると、心落ち着くでな」

 それが今晩の虎千代の第一声だった。信長に話しかけられるまでは、虎千代は黒姫に何を問いかけられてもはっきりとしたことは、何も話さなかったのだ。

「ふん、誤魔化さぬで、はっきり申すがや。武具に触れて心を落ち着かそうとするのは、何か気がかりがあるがゆえであろうがや。…真人がことであろう」

 みると、信長も陸軍のコートの下のホルスターに、拳銃をぶちこみ弾帯を肩がけし、ライフルまで担いで完全武装をしていた。

「連れて行け。…機を見て、ここを発つ腹積もりであろうがや」

 こいつの直感の鋭さは、達人の虎千代にほぼひけをとらない。さすがは後年、桶狭間合戦で独り、千載一遇の勝機を逃さなかっただけはある。

「いいだろう」

 勝手にしろ、と言うように、虎千代はさっさと自分の支度を済ませた。


 虎千代と信長、剣と銃を携えて出ようとしている。たった二人で馬を責める気である。

「どっ、どこへ!虎さま、雪も降り始めましたし、夜間のお馬は危険ですよう…」

 黒姫が恐る恐る取りすがるが、虎千代は意にも介さない。

「案ずるな。黒姫、それより門戸は開けておけよ」

「ははっ!…ってえええっ!?誰か来るですかこんな夜中に!?よく分かりませんですよう、せめてお話を!」

 あまりに予見の鋭い虎千代は、不確かなことは言わない。だが、もう一度確認しておく。虎千代はこの時点で僕たちと紗布屠の戦闘の経過は一切知らなかった。ただ恐ろしく優れたその危機察知能力で迫る未来を予知したのである。

「行って来給え。西南の彼方で大規模な武力衝突だ。こっちにも戦闘が波及する恐れがあるな」

 虎千代に代わって答えたのは、信玄である。この稀代の軍人もその情報網に、すでに僕たちの状況は捉えこんでいた。

「黒姫くん、私たちは敵を招き入れたら、迎え撃つ準備だ。…とにかく真人くんたちの無事を祈ろう」

 西南の空に、太陽のように明るい焔が立ったのはその直後である。


「この天才を差し置いて、調子に乗りおって」

 晴明は白い水干の袖を仰いで、彼方を見遣った。

 血のように朱い太陽は今や、この場を呑み込まんばかりである。中心が放つ光は限りなく白く、見つめていると視力を奪われそうだ。

「おい、あれは…?」

「言うまでもなく紗布屠自身よ。…お前たちにはみて、分かるまいが」

 晴明は、右手を(かざ)すと長い呪を唱え始めた。

「今のところ、あやつはお前たちのかなう相手ではない。真人たちもあれを見て、すぐに撤退を決めたのだ。…これ以上の戦闘は諦めるがいい」

「おれたちだけで逃げるのか?そんなことしたら、この村の人たちは、どうなる…?」

「青いわ、馬鹿者」

 歯噛みをするミケルを晴明は、苦々しい顔でたしなめた。

「悪いが、そんな悠長なことを話している場合ではないぞ。…私が言うのは、ここで機会を逃がせば全滅、そこですべてが終わりだと言うことだ。…真人たちが今、最低限子供たちの命は救えるよう、手立てを打っている。もしこの村を救おうと思うなら、彼らだけでも逃がしきって、反撃の機会をうかがうことだ。意味は分かるな?」

 ミケルは、容易に頷くことが出来なかった。この期に及んでの撤退だ。自分と鎬木を逃がすことになるとして、一緒に戦う決意をしてくれた人たちを戦場に迷わせることになる決断には、中々踏み切れなかったに違いない。

「…あとで、救いに来ることは出来るんだな?」

 短いが深い逡巡(しゅんじゅん)のあと、ミケルはおめくように尋ねた。

「ああ、紗布屠には勝たなくてはならない。私ではなく、真人がな」

 その言葉が、ミケルを決意に踏み切らせたらしい。

「逃げるなら、出来るだけ連れて行く。おれと鎬木で、突破口を拓く」

 晴明はそれを聞くと、嬉しそうに頷いた。

「よく言ったぞ、ミケル。いいか、まずはこの水龍の往く方角に向けて走るのだ」

 晴明は二指に宿らせた呪を、護符に籠めて解き放った。細く折り畳まれた憑代(よりしろ)は、飛沫をしたたらせてその長い身体をうねらせる小さな龍となり、闇を裂いて水色に輝きながら、するすると動き出した。

「逃げるぞッ!鎬木、そいつを吹っ飛ばして走れ!」

「えええっ、ちょっと待って…タンマっす!」

 鎬木の答えも待たず、飛び上がったミケルは、渾身の力を込めて大岩のような實陀を蹴飛ばした。両足で蹴った反動そのまま、鎬木を促して走り始める。

「あんた、無茶苦茶っすよ!タンマって言ったのに!?」

「聞いてなかったか。逃げろと言ったんだ。死にたくなかったら、ぐずぐずするな」

(ごちゃごちゃ考えるのは、やめだ)

 こう思ったら、ミケルは迅い。

「全力で撤退だ。…まずはいざと言う時の打ち合わせ通り、全員で別方向に逃げる。おれたちは真人たちと合流したのち、避難した人間の回収だ。分かったな!?」

「はっ、はいっす!てゆうかもう、はいって言うしかないっす!」

 二人は一目散に、水龍の導く方向へ走り出した。すると驚いたことに、夜空いっぱいに大きく広がった朱色の太陽が、不審な地響きをあげて膨らみ出した。

「うっ、わわわああっ…なんか知らないすけどこれヤバいっ!もしかして、ヤバいパターンじゃないっすか!?」

「つべこべ言わず走れ!」

 そうこうしている間にも、砂漠の炎天下のように太陽は熱を発して、膨張を続けている。朱色の光が辺りを包み始め、今や風景そのものの巨きさになりつつある。

「待テッ!待テッ!待テエエエエエエッ!」

 大蛇と化した媚兎良と大岩と化した實陀が、血の出るような叫び声を上げて、全力疾走するミケルたちに迫った。

「おっ、おい!追いつかれちまうぞ!」

 毒牙から液を滴らせた大蛇にすがられ、ミケルと鎬木は思わず悲鳴を上げたが、晴明はそれを見過ごして、涼しい顔だ。

「追いつかれないように、走れば良かろう。私と違い、素晴らしい肉を備えた実体があるのだ。いやあ、若いっていいなあ」

「「ふざけんなっ!」」

 悪罵を投げつけて二人がいなくなったのを確認すると、ほくそ笑んでいた晴明は両袖で表を隠した。

「…さて」

 気楽なふりの芝居は、これで終わりだ。晴明は、地獄の釜底のようになった幻術の太陽に向き直った。

「これで心置きなく、勝負が出来るな」


 晴明、()う。

 幻術の勝負は、言霊の勝負である、と。言霊の源は、人が想い感じる力、すなわち想像力だと。

「想い強かれば、それは現世の人間ばかりではなく幽世のものでも、この世界に作用出来る。とまれ大切なのは、これを成さんとする意志よ。究極は私のように人の肉体の理を超え、万物の理の中の一理として息づく、このことなのだが」

「よくわからない」

 そのとき僕はこう答えた。何だか、とりとめのなさすぎる話だからだ。

「じゃあ聞くけどさ、晴明は、そもそも何をするために生きてるんだよ?」

「私か。…馬鹿弟子、たかがこの世の言葉ごときでお前に説明できるようなれば、もはや私の存在は要らぬわ」

 晴明は狐目を細めて、ふんぞり返った。

「いいか、この世界は無数の理で成り立っておる。そのそれぞれはそのそれぞれの理において正しい。それが理と言うものの帰結だからだ」

 例えば、戦争をするのは良くないと言う理がある。これはこの命題において、正しいし、特に反対する人間もいないと思う。しかしこの世界にはもう一つの理がある。自分の大切なものを脅かされたとき、それを守るためには、どんな形においても戦いが必要だと言うことだ。

 この二つの理は相反して、本来は並び立たない。しかし、この世界にはどちらの理も存在する。どちらの選択でも、本質的に間違いではない。しかし相反する理を突き詰めればこの世界のどこかで交わり、必ずそこで間違いを生み出すのである。

「私たちは、自分たちのためこの世界のそれぞれ正しい理を切り取って生きている」

 言霊の力を使うことも、同じなのだと晴明は言う。

 晴明の言葉を僕は、言い換える。すなわち言霊の勝負とは、いわゆる『情報処理能力』の勝負なのだと。この世界に溢れる莫大な情報を処理することの出来る術師が、最強の幻術使いなのだ。

 これはいわば、史上最強の処理能力を競う情報戦だ。


「理不尽な夜の陽よ。…常闇(とこやみ)の吹雪の(ことわり)の中へ還るがいいッ!」

 いまだ降りしきる雪と底冷えする闇を味方につけた晴明は、その二指で凍れる龍を駆った。その頃には紗布屠が生み出した陽の赤が溶け込み、まるで空気そのものになってしまっていた。

「急々如律令!」

 うだるような熱を溶かして、氷の龍が幾朶(いくだ)も挑みかかる。それは一見すると無謀な試みのように見えた。今や太陽は途方もなく大きく、すべてを呑み尽さんばかりなのだ。晴明が生み出した式神は巨大と言っても、膨脹した太陽の前では微々たるものであった。

 しかし晴明は、勝算を疑わない。

 太陽に飛び込んだ龍は、強烈な光そのものを噛み破ったのである。なんと、驚いたことにあれだけ大きな太陽は穴を開けられると薄っぺらで、まるで芝居の垂れ幕のように、龍が頭を突っ込んだ場所はひびを生じて割れ、後に粉雪吹き荒ぶ、元の寒村の闇が現われたのだ。

「理は我にあり」

 二指を挑発的に立てたまま、晴明は言った。

「知っているぞ。…お前は、お前そのものが式神のようなものだ。自らが理となり、その禍々しい呪文を使って、この世界の理を()げようとしている。だが、元の理さえ捉え損なわば、お前はお前以上の存在にはなれぬ」

 虫食いだらけになった太陽は、火の粉をまとって震えた。次の瞬間、巨大な身体をうねらせた溶岩質の灼熱をまとった龍になり、その牙から岩をも融かす炎熱をしたたらせて、咆哮(ほうこう)したのだ。

「図星のようだな。…今、その呪縛を解体してやる」

 瞬く間に龍は、五つの火球を吐き出した。それは、血のように朱い羽根に全身を覆われた(おおとり)になり、燃える羽根を翻して四方から晴明を襲った。鳳が甲高い声で()くと、黒煙が(くすぶ)り、空気に焼け焦げるような異臭が混じった。

 しかし晴明は、あわてることはない。

「無駄なあがきを」

 二指に呪をまとわせると、印を切った。得意の結界だ。たちまち拡がった緑色の衝撃波に鳳は翼を(あお)られ、見る間に細って消えた。無数の呪で覆われたこの緑色の結界の中だけは、晴明の使う言霊ばかりが理のいわば『絶対空間』なのだ。

「砂漠の陽は、厳寒の山地では永らえず!遠き亜剌比亜(アラビア)の陽よ、墜つるべき場所へ、今、墜ちよッ!」

 緑色の円は晴明を中心にみるみるうちに押し拡がり、あれほどに巨大であった太陽を押しつぶし、灼熱地獄(しゃくねつじごく)の世界を元の暗い吹雪の闇へと貶めた。

「急々如律令ッ!」

 晴明が穿つように二指を差し上げたその刹那。

「ぐうッ!」

 暗闇に押しこめられた太陽は、極端にその直径を(せば)められ、ぶすぶすと燻る黒煙とともに、火の玉となって墜ちた。雪の中に(たお)れたのは、無惨な火傷を負った紗布屠だった。

「愚かな奴よ。…真人たちが焚いた篝火を式神としたな。このまま、燃え尽きて死ぬことも厭わぬか」

 再び吹き荒んだ厳寒の突風に髪をなぶられつつ、晴明は紗布屠を見下ろした。泥混じりの雪にまみれながらも、群がる炎に焦がされ紗布屠の身体は人の形を喪っていく。

(人を呪うは穴二つ、とは言ったものよ…)

 その強大な幻術ですべてを焼こうとしたものが、その炎に焼かれて果てるのだ。稀代の力を持つ幻術師のあえない最期に、勝者のはずの晴明の顔は決して、晴れがましいものではなかった。

「…愚か者め」


「晴明!やったのかッ!?」

 ミケルたちの声がした。鎬木と逃走用の馬を奪い、戻ってきたのだ。二人は危険省みず、逃げ遅れた人たちの誘導に立ち返ったのだ。

「馬鹿者、逃げろと言っただろうが。このままだと、間に合わぬぞッ!」

 晴明はふいに振りかかってきたミケルの声にとっさに反応したが、後で考えればそれが油断だった。吹き飛ばされたかに見えた鳳は、まだ火の粉となって舞っていた。晴明の背後でそれは、鋭い(くちばし)を持った鳥になって晴明の身体を貫いたのだ。

「ぐうッ!」

 炎の嘴は、晴明の白い水干を()いた。鳥は羽根を広げると、紗布屠となり、今度はその半月型の刃を振り上げた。

「ふははははッ!術師術に溺れるとは、よく言ったものよ。人を呪わば穴二つ、余を焼いた炎を味わうがいいッ!」

(おかしい。…紗布屠は焼け死んだはず)

 苦痛に顔をしかめながら晴明は、眼下で炎上する遺体を見直した。しかしそこには、さっきまで見られた紗布屠の肉体の残骸はなく、燃え残った紙が風に煽られてはためいているだけだった。

「まさか私の式神を使ったのか…」

「そうだ。紙を使うとは、中々面白い術だ。その辺りにあったもので、真似をさせてもらったぞ!」

(しまった)

 晴明は結界を張るために、そこかしこに式神を隠し入れている。恐らくその一つの人型の憑代(よりしろ)を、紗布屠は利用したのだろう。

「この天才としたことが…自分の術を(ぬす)まれるとはな」

 晴明が唖然とするほどの、幻術の才である。このとき、晴明はこの紗布屠が、生身の存在でいながら自分に近い場所にまで達したことに、内心愕然としたと言えよう。

「無礼な。学んだと言え。余の糧となれるのだ。むしろ光栄に思え」

 紗布屠は、晴明の背後に回るとその半月の刀を首に充てた。

「巨大な力を持つお前を喰らい、余はさらに大きな存在となる。真に我が糧となり、果てるがいいッ!」

 晴明に止めの一撃が、加えられると見た瞬間だ。

 二片の黒い鉄菱(てつびし)が闇をまとって飛来し、紗布屠をそこから()ね飛ばした。当たったのは一キロ近くもある、錆び止めを塗った蹄型(ひづめがた)の手裏剣だ。

「意外に当たるもんすねえ!化け物かと思ったら、意外や生身でしたっす!」

 馬上、鎬木が投げた手裏剣が、紗布屠に当たったのだ。炎をまといながら、その身体は晴明を離れて闇に墜落した。

 エスパーダを振りかざし、媚兎良と實陀の追撃を同時にさばくミケルが吠えた。

「逃げろ晴明ッ!あんたで、最後の一人だッ!」


 その頃、僕たちは最悪の逃走路を(はし)っていた。悪路なんてもんじゃない。馬でさえ、通り抜けを(はばか)るようなびしょ濡れの雑木林だ。トラックが大木に激突して全員放り出されるか、ぬかるみにタイヤをとられてスピンするか。そんな最悪の想像を何度したことか。

 運転席でさえ、そんな絶叫マシンなのだから荷台は推して知るべしだ。義利たちの悲鳴と絶叫が、頑丈な車体が跳ね上がるたび聞こえてきたが、もはや気にならなくなった。

「間に合わん。もっと速度を上げるぞ」

 久遠は、アクセルをベタ踏みだ。額にべっとりと脂汗掻いてる癖に。

「方向が間違ってると思ったら、すぐ言え。こっちは目の前の障害物を避けるだけで精いっぱいだ」

 こんな運転で、窓の外が見れるか、と僕は突っ込みを入れたかったが、玲はすでに助手席の窓から身を乗り出して、月の位置をうかがっている。

「ダメだ。ちょっと、方角がずれてる気がする」

 玲は、地図を完璧に頭に入れている。それによると雑木林を抜けているうちに本来の方向から逸れて少し、方角が違ってしまったようだ。

「風景が見慣れて来たな」

 久遠も辺りを見回しながら、言った。よく分かるものだ。

「もしかしたら少し、戦闘地域に入るかも知れん」

 久遠は言うと、ぐいっとハンドルを横に切った。すると雑木林が切れて、砂利道を降りるとそこは、村の郊外だ。

「あっ、危ないだろ!?」

 やっと障害物のない道に出たとは言え、敵がうようよしている場所だ。

「こっちの方が近いんだ。…それに時間がないと言っただろ」

 そのとき、僕は気づいた。久遠の額に浮かぶ脂汗が、尋常な量ではなかったからだ。

「久遠、もしかして…傷口が開いて…?」

 久遠は口元に皮肉な微笑を浮かべて、頷くだけだった。間違いない。三島春水に斬り裂かれた傷は、ただの傷などではないのだ。

「…私が意識を喪ったら、貴様らが運転しろ」

 えええっ、僕たち無免許ですよ!?

「ま、真人くん、僕も出来ないからね…?」

「そんな…」

「そいつには方角を見てもらえ。真人、貴様だ。運転の仕方を、よく見ておけ」

 久遠は一通り教えてくれたが、こんなの無理だ。久遠の意識が保つことを、祈るしかない。

「成瀬殿、後方に敵ッ!」

 と、荷台で義利が怒鳴った。ったくこんなときに。玲は僕の手から小銃を取ると、窓から乗り出した。玲によるとどうやら迫って来る影は一つのようだ。

「馬だ」

 バックミラーをチラ見して、久遠が言った。

「あれはお前たちの仲間じゃないのか?」

「ミケルたちだ」

 玲が言った。離脱に成功したのだ。僕は久遠にスピードを緩めるよう、頼んだ。

「敵を連れてきていないだろうな」

 後方をうかがったが、敵勢を連れて来ている様子はない。トラックは、目の前で停まった。

「もっ、もしかして真人たちかっ!?」

 ミケルは鎬木を背に載せていた。初めてみたトラックにやっぱり、声が引き()っている。

「皆は逃げたのか?」

 暗い顔でミケルは頷いた。

「避難は完了した。だが、村にはもう、戻れないと思う」

 僕は、言葉もなかった。紗布屠の凄まじい幻術は、僕たちの想像以上だったのだ。

「…そうだ、晴明は?」

 ミケルは言葉にならず、苦渋に顔を歪めた。鎬木も目を逸らして、何も答えなかった。僕は一瞬、どう言うことか分からなかった。

「どうしたんだ?」

「いや…」

 ミケルは言葉を濁すばかりだった。なんだ、一体何が起きたんだ。

「無事か、馬鹿弟子」

 いつもと違って弱々しいその声音を聞いたときの、愕然を僕は忘れることが出来ない。

「晴…明…!?」

 そこにいたのは、いつもの美々しく真新しい姿とは違い、傷つき、煤にまみれた晴明だったからだ。信じられないことに身にまとった水干は焼け焦げ、手足から血を滴らせている。そんなはずはない。だって、実体のないはずの晴明が傷つくはずはないのだ。だが、その姿は無惨に火傷を負わされ、見るからに消耗していた。

「その傷…まさか、紗布屠に?」

 僕は自分でも声が震えているのが、分かった。

「そうだ、だが案ずるな」

 晴明は言うと、口元で笑ってみせた。

「骨を折ってやると、言っただろう。この天才がお前たちだけは、救ってみせる」

 薄い地鳴りが、大地を揺るがしたのはそのときだ。その揺れは微妙な波動の衝撃波で地面を波打たせ、地に足のついた僕たちをたじろがせた。

「これは…?」

「感じられるだろう。紗布屠はまだ、死んでおらん」

 晴明は、煤で汚れた残りの護符を使い、結界を張るようだ。あまりに唐突に降って湧いた衝撃に僕は、動揺を隠せなかった。

「晴明…だめだ…」

 稀代の天才陰陽師はそれに応えず、静かに首を振った。

「さらばだ、馬鹿弟子」

 いやだ。

 まさかそんな。今、ここで晴明と別れるなんて。

「逃げろ。ここは、私が喰い止めてやる」






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