戦慄蘇る極東の亡霊の過去…!孤狼窟へ、作戦開始!
三島春水の経歴には、大きな空白が二つある。
一つは幼少期、彼女は百震の姓・三島を名乗りその孫娘だったとされているが、それは一体、誰に許されたものだったかと言うことだ。
「調べによると百震は、十歳のとき彼女を引き取っている」
真紗さんの記憶のファイル上では、戸籍に最初に表記された続柄は『孫』だが、それ以前は全く記録がなかったと言う。私生児の可能性が高い。『春水』を引き取ると百震はすぐに養子縁組を組んだ。つまり法的には、春水は三島百震の『孫』ではなく、義理の『娘』だと言うことになる。
「でも孫、と最初の続柄にあるからには血はつながっている、と考えるべきね」
百震には戸籍上、三人の子がおりその倍の孫がいるとされるが、全員が裏社会とは無関係の一般人である。彼女はそれ以外の『空白』からこぼれ落ちてきたことになる。
そもそも百震自身も、模糊とした出自の人だ。北海道の開拓農家の子として、明治三十二年に生まれたとされるが、それからの事歴は公式記録からはうかがい知れない。十代から我流の剣術と柔術を究め、今上泉を称したと言うが、真剣勝負と称した乱闘を繰り返していたに過ぎない。
二十歳になる頃、その剣腕を買われ、小樽で江連力一郎率いる日本の海賊団に入り渡航、大陸浪人になる。それからは関東軍要人のボディガードや暗殺稼業に精を出していたようだ。
ここで流儀を樹立するが、名は一震流と言う。ただの剣術ではない。大陸で培った実戦経験を元に創られたいわゆる、総合軍隊格闘で基本は日本刀術と柔術だが、大陸拳法の理論まで取り入れた実戦本位の殺人術だ。
それを三島春水が引き継いでいるとなると、確かにその並外れた実力も納得できるが戸籍上、十歳に引き取られたものだとすると春水は正味二年程度しか、百震と触れていない。
十二歳の女の子である。北海道での事件当時、百震八十七歳とは言え、易々と幼い春水に斬られるものだろうか。
そして第二の空白は、思春期以降だ。百震の死後、十二歳の春水は北帝会を引き継いだ劔劉士郎の庇護を受けていたと考えるのが妥当だが、その間の記録は存在しない。一般の学生生活を送っていた形跡もないようだ。
以降、公式の記録に登場するのは十年後、二十一歳のとき、ブカレストの地下街で起こした例の事件のときだ。そのときすでに春水は、百震が晩年目指していた日本刀術における隠密殺傷のスペシャリストとして、ほぼ完成された実力を裏社会に知らしめた。息子の玲が産まれるのは、この四年後である。
「知らなかった…」
さすがに玲は絶句していた。まさに、凄まじい経歴のお母さんだ。僕だって、そんな人が普通に僕たちの身近で主婦をしていた、なんて信じられない。
だが本当の三島春水本人を一度でも目の当たりにした人間なら、頷けないこともない。僕はあくまで嫋やかな潤いを崩さなかった、三島春水の不思議な眼差しを思い出していた。厳しい、と言うのではない。
だがどんな状況下においても恬淡として決して揺るぐことのない、瞳の色はぞくっとするほどの強靭さを孕んでいる。並みに理解できる人では決してない。
「なるほどな」
と、何かに気づいたのは虎千代だった。彼女はそのまま玲の方を見た。虎千代が関心を持ったのはやはり、祖父百震を斬殺したと言う、十二歳の時の出来事だ。
「春水殿も、玲と同じ経験をしているわけだ」
「えっ…」
玲が思わず、顔色を喪った。なるほど、虎千代の指摘する通りだ。三島春水もまた、すでに若くして修羅場に放り込まれ、生還する、と言う経験をしていたのだ。不良学生たちに暴行され、図らずも木刀一本で生き残った玲に、春水は自分と同じ可能性を感じたのだろう。
「無茶な話ではあるが、頷けなくもない。生半な実戦では、あの秘剣、成ろうはずがないからな」
虎千代は自分の佩刀を掴むと、僕たちの前で抜いて見せた。秘蔵の小豆長光である。
「人を斬ろうと言う間合いは、思ったよりも短い。それはこの剣の長さや、我らの歩幅の問題だけになく、この刀自身の個性にある」
虎千代の言いたいのは、何となく分かる。同じ日本刀、と言っても使い心地は千差万別でどれとして、それ固有の個性を持っていると言うことだろう。振るバランスや、刃筋の立て方もさることながら、致命的な殺傷を与える剣の有効射程は、意外と限られている。
一般的に剣は、『物打ち』で斬る。切っ先から数十センチの僅かな部分だ。それより浅ければ致命傷になりえず、また深すぎると攻撃の角度が変わるために剣が振り切れず、最悪の場合は刀を駄目にしてしまう。
そのため、心得のある剣客こそ佩刀は大事にする。使い慣れているからだ。
「しかるに春水殿の剣は恐らく、剣を択ぶまい」
あの虎千代が苦々しい顔で言う。あの刹那で、虎千代は見切ったのだ。あの久遠をにべもなく斬り捨てた致命の一撃。それこそは、剣さえも択ばず自在に間合いや拍子を調節出来る自在の剣である。
「無拍子のまさに向こう側よ」
僕は、思わず息を呑んだ。虎千代が苦い顔をするわけである。
そう言えば三島春水自身の言葉が、脳裏に閃いていた。
「真人くん、一つ、いいことを教えてあげましょう。刃物が、人を斬るわけじゃないの。人が、人を斬るの」
ぞくっとした。あのときはまた違う、別種の恐怖感だ。
(三島春水の腕は、虎千代より上だ)
剣客として、虎千代は決して謂わないが、今の一言はそれを認めた形になる。
「いつどこで、まみえることになるかは分からねど、これだけは覚悟してもらう」
虎千代は玲に向かって、きっぱりと言った。
「次に斬り結ぶ時には、命のやり取りになろう」
富永たちが孤狼窟に戻るまでの、中一日である。昨日からの雨は夜半に収まったが、薄い雲が空に張っている。僕たちは深雪さんを連れて龍越楼に戻ったが、いつもの静かな気だるい歓楽街の昼である。
「…とりあえずは、久遠がいなくなったことについては、目立った動揺は起きてないようね」
捜索から帰った真紗さんたちを囲んで、僕たちは遅い昼食を食べた。今日は濃い目の味噌仕立ての雉鍋である。
「心配ねえさ。あの男はいつも、勝手にいなくなって、いつの間にか戻ってきやがるもんなんだ」
富永が言うには、久遠が劔から密命を受けて単独で動く権限を与えられていることは、隊の中でも半ば公然の事実と言う。
「では隊の実質的な責任者がいるな。わたしたちが紛れこんで怪しむとしたら、誰のことだ?」
虎千代の問いに、富永は首をひねった。
「中隊長の寺内だな。だが別にあいつは、大したもんじゃねえ。ただのぼんくらだ」
寺内と言う男は富永によると、それほど有能な指揮官と言うわけでもないらしい。
「鋭いのは意外に、辻と牟礼田だ」
なるほど、一見、富永との放蕩仲間にみえる辻と牟礼田だが、それぞれその実力は隊を抜きん出ており、かなり発言力も強いようだ。
「よくそんな連中と、つるんでいたわね?」
真紗さんが怪訝な顔をした。
「ああ、あいつら強面の割に、女遊びは下手くそだからな。そこが付け目よ。連中、ちょっと女の癖と好みは悪いが、腕っ節はそれなりだから、いざと言う時は守ってもらえるだろ?」
「全く自慢になっておらん。黒姫、こやつの雉鍋、下げてよし」
「はいはいっ!」
虎千代の命でさっさと富永の皿が下げられた。
「ああーっ!何だよ、素直に協力してるだろ!?おれにも食わせろよ、鳥鍋!酒も!せめてお銚子一本くらいつけてくれてもいいだろう!?」
「富永さん、あんた捕虜でしょ。酒なんて十年早いってばよ」
真紗さんは見せびらかすように、ぬる癇をぐい飲みに注いでは、ちびちび楽しんでみせた。
「そうですよ!あーたは代わりにこれ食ってりゃいいですよ」
お粥であった。
しかも塩をちょっとかけただけの、薄い白粥である。
「もっ、もう何も話さねえからな!」
「馬鹿ねえ、それ無駄な抵抗ってやつよ。それにまあ、大事なことはみんな聞き出したから、あんたもう用済みなんだけどね」
「げっ」
真紗さんの冷たい声に、富永は途端に真っ青になった。
「こっ、殺さねえでくれ!おれ、あいつらと違って人は殺してねえって!」
「殺しはせぬさ」
虎千代が笑いをこらえながら、言った。真紗さんが、くすくす笑っている。
「ただ、当日は実地で孤狼窟を案内してもらおう」
ほっ、と富永は肩を撫でおろした。
「それに辻と牟礼田と言う連中も、上手く誘導してもらわぬとな」
「その二人が、中隊を指揮して攻勢に転じたら厄介なことになるしねえ」
この街に来ている旅隊も、全員武装兵である。彼らが態勢を立て直す前に、基地を占領してしまわないことには、僕たちには勝ち目がない。いずれにしても、時間との勝負になる。
「明日じゃ。くれぐれも、準備は抜かりなく進めよ。孤狼窟側の動きを見澄ますことも忘れるな」
それから夜半になって雲が晴れた。
「明日は天気が良いぞ。視界は、良好だ」
ミケルたちと出撃の支度を調えていると、晴明が天井から顔を出した。
「困ったもんだな」
折角、雨や雪に煩わされないでの行動になりそうなのにミケルは浮かない顔である。
「未熟者め。小雨、霙の日に紛れての行動の方が、都合が良かろう。連中は、飛び道具を持ってるんだ。視界が良いと狙い撃ちされるぞ」
お前なんかあっと言う間に蜂の巣だな、と晴明は僕を嘲笑う。
「今頃、気づいたのか真人。銃は、おれも助けられん。肝心なのは、遮蔽物に常に目をつけて、物陰から物陰に移動することだ」
ミケルも三島春水と同じだ。刃物一本で銃を持った連中の中に平然と飛び込むなんて、つくづく僕には真似が出来そうにない。
「道案内は任せるがいい。方向音痴なお前たちを、私が上空から、しっかりと導いてやる」
「おれたちがまず制圧するのは、武器保管庫だろ」
ミケルは、抜かりなく地図を頭に入れている。相手の火力を制圧しないことには、いくら奇襲とは言え、僕たちに勝ち目はない。
「重要なのは、相手の火力を我が物にすることだ」
信玄が現われて、僕たちは思わず目を見張った。軍帽を目深にかぶり、軍衣にコート、完全に陸軍将校になりすましていた。
「信玄さん、その恰好っ…?」
ぎょっとするほど似合っていた。元々、坊主頭だからかと思ったが、ちょっとそれだけでは説明しようがないほどしっくり来ている。
「松本殿が誂えてくれてね。階級は久遠と同じ中尉がいいだろう。中々着心地が好いよ。君たちの分もあるから、すぐに着替えたまえ」
こうして、僕たちも帝国軍人になった。まさか僕の人生で、軍服なんて着ることになるとは思わなかった。硬い皮の軍用のブーツを履くのも、人生で初めてだ。
「少しでも身体を服に慣らすために、今日はそれで寝てくれ。明日、点呼を行う」
信玄はすっかりその気だ。
「おい、服は三着しかないのか?真人と、おれのしかないぞ」
「真人くぅん…」
疑問に思っていると、玲が真紗さんたちに連れられてやってきた。振袖に髪を結って、女の子よりも女の子な女装だった。やっぱり、女の子組だったか。涙ぐんでいた。
「ぼくも軍服着たいよ…」
「い、いや。よく、似合ってるよ。玲、本当に完璧な変装だって」
「いやー男の子の軍服、三着しか調達出来なくって☆」
てへぺろする真紗さん。いや、かわいくないから。
でも軍服より、玲には小袖の方が違和感がない。とは言えない。
「それに玲くんには、守ってもらいたい人がいるのよ。本人のたっての希望でね」
深雪さんが、真紗さんの後ろから姿を現したのはそのときだった。
「深雪さん…」
僕は絶句した。まさか、深雪さんが同行するなんて。
「真人はん、うちのせいでえらい目にあって本当にごめんなさい」
深雪さんは僕を見ると、深々と頭を下げた。
「うちも本気どす。本気で小綾を連れ戻したいから行きとうおす。それが、うちのために命かけてくれた真人はんに出来るうちの唯一の償いどす」
「小綾さんを確認できるのは、深雪さんだけなのよ」
真紗さんは拳で、僕の肩をどついた。
「よろしくね。今度こそ本気で、深雪さん、助けてあげるんでしょ?」
僕は頷いた。小綾を連れ戻すために、深雪さんは命を懸けると言う。こっちもそれなりの覚悟を見せなきゃならない。
「案外と似合っているな、凛々しいぞ真人」
すっかり準備が出来た。
僕たちが顔を出すと虎千代は鎧に太刀、いつもの服装だった。
「わたしたちは黒姫と夜陰をついて、先行して潜入する。お前たちが武器庫を制圧したら、一斉に放棄する手はずだ」
「てわけで武田殿、そっちはお任せしていいですか?」
黒姫も夜襲用の装束に着替え、準備は万端だ。
「任せておきたまえ。そんなことより、あまり派手にやりすぎないでくれたまえよ。私たちの目的はその施設を、破壊することじゃない。そっくり頂くことなんだからね」
「分かってますですよお!いやあ、この黒姫、虎さまと先手に加われるなんて、最高に幸せですよ!ばっちり決めてみせますですよお!」
「と、言うわけだ。先んじて出る。黒姫の手綱を締めんとな」
虎千代は微笑むと、僕の軍服の胸に顔を埋めた。
「頼りにしている」
僕は、しっかりと頷いた。虎千代の命運が懸る一戦への第一歩だ。僕もその、大事な歯車の一つとして、万に一つの失態も赦されない。
かくして夜が明けた。
孤狼窟側からは、ついに目立った動きはなかった。虎千代率いる軒猿衆たちは無事に、潜伏行動を開始しているだろう。僕たちもついに作戦開始だ。
「行くぞ」
自ら武田中尉を自称する信玄の部下として、僕とミケルはついた。
まずは、富永たちの旅隊に怪しまれることなく、合流しなければならない。ここからが緊張の一瞬だ。
「油断するなよ」
ミケルが、僕に目配せする。
頷いた僕は、軍帽を目深にかぶった。
 




