やっと着いた、鞍馬山の秘境!いくさを逃れた僕たちを出迎えたのは・・・謎の温泉旅館?
「え、まさか・・・・・・」
原因は、くちなは屋?
「なんじゃと」
「そんな」
馬鹿な。下京が攻められていると言われ、嫌な予感はしていた。でもそれはくちなは屋にいるみんなを案じてのことで、まさか、くちなは屋一軒の問題で細川家が兵を出すとはまったく想像もつかなかった。
「烏滸を申すな」
と、虎千代も納得できない顔で言った。
「あれはただの湯屋に過ぎぬ。それにあそこに寄宿せし煉介とて、一介の足軽大将にしてあの弾正めの侍帳にすら、いまだ名前の上らぬ無足人ではないか」
虎千代の言うとおりだ。確か、話によると煉介さんは弾正の正式な家来ではなく、陣借り、と言っていくさの際だけ兵を出すいわば下請のような存在。将軍の次に偉いという管領細川家からすれば、砂粒のような存在だ。
「姫さまが言われること、確かに正鵠。されど起こりしことは起こりしことでござりまするゆえ、このえは有りのままを姫さまにお伝えするまででごしゃりまする。そもそもが金津様より報せを受け、姫さまを含め、くちなは屋の皆様を無事に洛中より落とす手はずを整えたは、ことが火急の要あってのため」
「委細はまず、新兵衛に訊けと申すのだな?」
口ぶりを濁したこのえに、虎千代は苦い顔で尋ねた。
「はい。思わせぶりに聞こえるやも知れませぬが、ことは直接その場にいたものより訊いた方がよいかと思われまする」
少し潤んだこのえの瞳に下界のいくさの炎が、あかあかと灯っているのを僕は見ていた。ここから眺めたところ、戦火は、下京一帯に広がっているようにも思える。もしもくちなは屋が攻め込まれているのなら、いったい、あそこは今どうなっているのだろう。
「火の手がこちらへ近づいてきやがるな」
鬼小島がふいに、顔をしかめた。
「お嬢、悪いがそろそろ出ましょう。実を言うと、俺らも金津の旦那から、くちなは屋がやべえって訊いただけで、それほど詳しい経緯は知らねえんで」
「ああ」
物憂げに、言うと、虎千代は僕の背に顔を乗せた。中世の漆黒の闇を焦がすいくさの炎は虎千代の目にも灯っていた。未来の軍神の目に、そのとき下京の大火はどんな風に映っていたのか。僕には想像するよしもなかった。
それからは意外と長い、夜の山道行だった。戦火に追われているという意識と、誰もが無言で目も合わせなかったということも作用してか随分長い間、沈黙を強いられていた気がする。僕の背に身体を預けたまま、虎千代もなんの反応も示さなかった。この時代の知識が一歩遅れている僕はもう少し詳しく話を聞く必要があったんだけど、それも上手く尋ねるタイミングを逸してしまった。僕としては、なんだか座りの悪い道行きだった。
「鞍馬へ向かうか」
突然、ぽつりと虎千代が言った。
「え?」
「なに、佳き水の香がするゆえ」
(鞍馬か・・・・・)
鞍馬山といえば、その昔、源義経が修行した場所として有名な場所だ。義経はそこで天狗から剣術を学んだと言う伝説が残っているし(新撰組と戦ったあの鞍馬天狗は、その発想から出ているんだろう)、そのとき天狗が伝えた剣術は京八流として現代でも最も古い古流剣術の一つとして保存されているそうなんだけど、天狗で有名なのは深い山の中が修験道の聖地として信仰を受けてきたためと言われる。
虎千代が言ったように水が綺麗なのも昔から知られていて、今でもたまに鞍馬山山麓の石清水を詰めたミネラルウォーターが売っているのを見るけど、現代では京都府から手軽に行ける日帰り温泉地としても、有名だったはずだ。
武田信玄が自分の領地に隠し湯をいくつも持っていたのを見ても分かる通り、戦国時代の人たちも湯治に行った。病気や怪我を治す湯治なのでさすがに日帰り入浴はなかっただろうけど、そうした湯町の街道沿いに旅籠が発達していったのだ。
「おっ、見えてきましたな」
鬼小島が言ったのでまさかとは思ったのだが、小さな山道がやがて開け、谷川沿いに大きな館が見えてきたとき、本当にここに温泉旅館があるのかと驚いた。ずらりと築かれた板塀の向こうになんと湯気が立っていて、どうやら湯殿らしき建物の屋根も見えたからだ。
山肌に合わせて作られた平屋造りの建物は、意外と大きい。走る途中、露天風呂らしき施設が見えたのであっけにとられていいたら、入り口と思しき門に篝火が焚かれ、そこに着物を来た女の人たちがずらりと出てきた。えっ、まさかと驚いていると。
「マコトくーん、虎ちゃーんっ、おっかえりぃー!」
先頭に立ってぴょんぴょん飛びながら手を振っているのは、やっぱり。
「真菜瀬さんっ!?」
「遠路はるばるお越しやす、越後のご一行さま」
まるで評判の若女将のように、真菜瀬さんがぺこりと頭を下げる。
もしかしてどこかに【長尾虎千代ご一行さま】と、漆塗りの看板が掛かっていないか、一瞬本当に気になった。
「な、なにしてるんですかっ、こんなところで?」
「え? このえちゃんたちから聞いてない? くちなは屋、ちょっと事情あって使えなくなっちゃって!だからこっちで臨時営業!」
事情あってじゃないだろ、軍勢に攻め込まれてるじゃないか。そんな深刻な事態を忘れさせる、いつもの真菜瀬さんの明るい接客スマイルなのだった。でも、まさかこんなところで、何事もなかったかのようにけろっ、としていていきなり温泉旅館の若女将に転職したわけじゃないだろう。
「さっ、どうぞどうぞ上がって。皆さん、お待ちかねですよー」
「あ、ああ・・・・」
僕たちは何だか納得いかないまま、中へ引き入れられる。すると、
「あーっ、いいお湯だった!」
入ってすぐ、右手に湯殿へ続く回廊があるのか、吹き流しになっているのだ。ちょうどそこから洗い髪の女の子が歩いてきて僕たちとぶつかりそうに。本当に温泉宿だ、ここ。と思ってみていると、なんとそれが自分の妹なのだ。
「絢奈・・・・」
「あっ、お帰りお兄い!」
「なにしてるんだよ、こんなところで」
僕はここで、色々とつっこむ気力すら喪ってしまいそうになった。
鞍馬山御湯治御遊山 御宿みづち屋。
入り口に立派な木目に彫られた大仰な額書が掛けられている。
僕と虎千代はあっけにとられてその看板を見上げていた。
「実はここ、くちなは屋の姉妹館みたいなものなんだー。うちの差配さん(オーナーみたいなもの)京都中にいくつかこういうお店持ってるからさ」
と、僕たちを案内しながら真菜瀬さんは気楽そうに言った。
つまりはチェーン店か。いかにもな民芸風の店内を僕は見回した。くちなは屋がどちらかと言えば風俗関係のお店だとすると、こちらは旅行者とか、湯治客向けの温泉旅館と言ったところなのか。修験者の宿坊ならともかく温泉宿なんて、戦国時代、そんな商売ってあったんだろうか。真菜瀬さんの勤め先ってやっぱり何か得たいが知れない。
「ちなみに、普通に女の子もつくから大丈夫。今ならくちなは屋から出張してるから、若い女の子が朝までついて納得のお値段で!」
「いや、それはいいですよ・・・・」
真菜瀬さんの営業トークは、相変わらず未成年に説明する内容とは思えない。
「お兄い、ここ、温泉も評判いいんだって。絢奈、びっくりしちゃった。虎っち後でもう一回、一緒に温泉入ろ!ここの露天風呂、すっごく大きくて気持ちいいんだよ!」
「あ、ああ後でな・・・・」
さすが虎千代も戸惑いぎみだ。僕たち、血みどろの斬りあいに街が火の海になるほどのいくさを経てきたはずなんだけど。そんなハードな展開をまったく忘れさせる絢奈たちの暢気さに脱力する。細かいことを気にしていると、みるみる肩と心が重たくなる。
「あ、あの、くちなは屋は別として煉介さんたちは大丈夫だったんですか?て言うかみんな今、ここにちゃんと逃げて来られたんですか」
「そう、みんな無事だよ。とりあえずは」
「とりあえず?」
「童子切めはどうしたか」
虎千代が聞くと、真菜瀬さんの顔にみるみる蔭が射した。
「煉介はねー、うん、ちょっと、事情があって」
なんだ。なにか、地雷を踏んだ感じだった。
でも真菜瀬さんは、すぐにいつもの笑顔を取り戻し、
「よしっマコトくん、とりあえず話は後にしよう。虎ちゃんたちも疲れてるみたいだし、まずはちょっとお風呂に入ってきなー」
え、お風呂ですか?
十五分後。
抵抗する間もなく、用意された部屋に荷物を置くと、僕は言われるままに大浴場に出た。
絢奈がすでにひとっ風呂浴びてきた、回廊の向こうの露天温泉だ。
重たい木戸を開けて板張りの脱衣場に入ると、若木の湿った香にふんわりとかかった湯気から硫黄の匂いがぷんとする。
うう、なし崩しとは言えすごく気分が落ち着いてきた。
なんだか本当に温泉旅行に来たみたいだった。親父がいなくなってから家族旅行もしていないので、こう言うのってすごく久しぶりの気がするし。
それにしても今日は色々あったのだ。虎千代のこととか虎千代のこととか、あと、くちなは屋のこととか。公私ともにもろもろありすぎて普通の高校生の僕には、話に追いついていくのが心身ともにヘヴィだ。そろそろ鬼小島みたいな、劇画タッチの心と身体が欲しくなる。この辺りで気を抜いて、心も頭の中も整理しないと、事情が濃密な戦国時代人についていけなくなりそうだ。
僕は汗まみれの着物を脱ぐと、手ぬぐい一本と手桶で脱衣場を出る。
わっ、意外とすごい。この時代なのでもちろん天然の温泉だが、野湯、と言うだけあって、湯気の向こう荒削りの岩場が延々と続き、溜りがいくつかの湯船を構成しているのがかすかに見える。
途中には無造作に楓の樹や笹の林があって、奥行きも深い。ちょうど山あいの渓流をそのまま温泉場にしたみたいだ。板塀で囲いをつけただけの野趣満点のお風呂。絢奈が喜ぶのも無理はない。
しかも時間が遅いせいか、そこにはまったくと言っていいほどひとけはなかった。
手桶で簡単に身体を流してから、僕は湯船に入った。うーっ、気持ちいい。こうしていると身体のすみずみまで強張っていた筋肉がほぐれているのが分かる。
大きく息をつくと、湯に浸かった両手を僕は動かしてみた。
中指の先から手のひらにかけて、びん、と、芯まで痛む衝撃と感触がまだ残っている。
ほんのつい、二時間ほど前だ。
信じられないけど、僕は、真剣を使って斬り合ったんだった。
指に残る痺れは、あの重たい日本刀を振ったせいと、そこから相手に剣を叩き落されたせい。やっぱりその感覚は本物だった。当たり前だけど、全然相手にならなかった。
今でも夢みたいな気分だ。本当に死ぬかと思った。
煉介さんや虎千代は、あんな修羅場を毎回渡り歩いているのだ。命のやりとりなど、日常的にみえるが、この時代の人にだって精神的な負担の重さは変わらない。あのとき丸腰の、絶対不利な状況下で長刀を持った暗殺者を斬り殺した、虎千代でさえ身体がぶるぶる震えていたのだ。
虎千代は肩を刺されたんだった。このえちゃんが応急処置をしてくれたけど、あの傷だったら、しばらくじっとしている方がいいだろう。展開は風雲急を告げる、っぽいけど、この温泉宿なら隠れているのには好都合かも。
「入るぞ」
「ほい」
ふと、後ろから声をかけられて、僕は反射的に湯船で身体を横にずらした。
すると白くて柔らかい感触の物体が、すぐ隣に入り込んでくるのが分かった。こんなに空いているのにずいぶん身体を詰めてくる。あれっ、なんか近いな。そう思っていると、その物体は何気ない声で、僕に話しかけてきた。
「ほほう、鞍馬の名湯と話に聞くが、これは悪くないな。肩の傷にちと沁みるが、いかさま、これがほどよき薬よ」
「ああ、真菜瀬さんが言ってたんだけど、ここって単純硫黄泉だから、打ち身とか切り傷に効くみたいだよね・・・・・って、ええええっ?」
リラックスしすぎてて、しばらく普通に会話をしてしまった。な、ななんとすぐ隣に、なんの躊躇もなく虎千代が入ってきたのだ。ちょっと待って、あいつ、怪我して部屋で休んでるはずじゃないの?
「ん、どうかしたか?」
でもあの、ポニーテールの髪の毛を濡れないように紐で結わえてアップでまとめてるのは確かに虎千代だ。それだけは見えた。それ以外は。いや、僕は断じて見てないぞ。
「な、なにしてるんだよっ!ここって男湯」
僕はすごい勢いでそっぽ向くと、今度は急いで自分の背中で壁を作った。
「おとこゆ?」
後ろから虎千代の怪訝そうな声だ。
「なんじゃ、湯に男女の別があるか」
「男女の区別があるかって・・・・・」
あっ、思い出した。確か、江戸時代くらいまで公衆浴場には男女の区別がないのだ。つまり、混浴が普通なのだ。でも堂々と男の隣に入ってくるって、豪気すぎないか?
「でもさ、虎千代はお姫さまなんだろ。いっ、いい一応、その、貞操観念とかそう言うのがあるんじゃないの?た、例えば許嫁とか結婚相手とかそう言う人にしか肌は見せないとか、そう言う決まりって言うかなんて言うか」
「う、ううん? かような礼法は耳にしたことはないが・・・・・ああ、そのようなものか。お前らの御世では」
そ、そう改めて言われてると、こっちも断言しにくい。
「・・・・いや、あのさ、恋人同士でもそうそう、一緒にお風呂入ったりしないって言うか。夫婦でもわざわざ混浴の温泉行かないと、一緒に入らないって言うか・・・・・」
て言うか彼女出来たことないし女の子と一緒に風呂なんか入ったことないから、それ以上は分からねえよ。
「だがまあ、我らが仲ならば、それほどに差し支えはあるまい?」
「そ、そうなの?」
うっ、何かずれてるぞ。なんかデートの辺りから、感覚の違いを激しく感じるんだけど。
「と、とにかくだ。話したいことがあってな。このえに無体を言うて、すぐに支度をしてきたのだ。そう、むげに扱うな」
そう言われると、仕方ないというか、仕方なくないんだけど、出て行けとも言えなくなる。こうなったら僕が出て行けばいいんだろうけど、出て行くということは後ろへ振り向くと言うことで。うう、どうしたらいいんだ。中腰で湯船に浸かったまま、僕はこう着状態になってしまう。
「振り向かずともよいからまず座れ。そのままでは、落ち着いて話も出来ぬ」
言われてどうにか腰は落としたけど、後ろに僕と同じように一糸まとわぬ虎千代がいると言う事実は変わらないわけで。とりあえず、うっかり別の部分が硬くなる前に、ここを切り抜けなきゃひどいことになる。て、言うかさっきまでのくつろぎの時間を返して欲しい。
「ふ、普通の場所で言えばいいだろ。何か話したかったら」
どうにか、僕は言った。
「こうでもせぬと、どこにも人の目があるゆえ」
さえぎるように虎千代は言う。いや、え、今、言ったってなんて言ったんだ。
「えっ、もしかして、誰かに監視されてるの?」
「あほうっ」
言いにくそうに、虎千代は言った。
「誰にも邪魔されずに話がしたかった。だから・・・・・ただ、それだけじゃ」
「え・・・・・」
二人きりになりたかったから。
ってこと? うう、いやちょっと待て。またどきどきしてきた。
「まずは礼を言わねばならぬな。ともかく、お蔭で危ない命を救われた。お前がいなくば今頃、路傍の埃にまみれておったところではなかったか」
「い、いやそれは・・・・・」
逆に、こっちがお礼を言いたいくらいだ。
「そもそもは越後の家督争いがことは、我が因果ゆえ。絢奈はもちろんだが、お前も巻き込むつもりは、さらさらなかった。危うい目に巻き込んだは、ひとえに我が責」
すまぬ、と、虎千代は、はっきりとした声で謝った。
「・・・・・馬鹿だな」
「だっ、誰が馬鹿かっ」
「だからそんなこと、わざわざ言わなくてもいいのに」
思わず、僕は言ってしまった。だって自分も殺されかけたって言うのに、まるでそんなこと気にしてないから。て、言うかなんでそんなに律儀なんだよ。
「謝る必要なんかないだろ。命を狙われたのは虎千代の方なんだから」
「だ、だがっ」
「虎千代が狙われてるだろうなって言うのは、分かってたって言うか。やっぱりお姫様だし、しかも普通のお姫様じゃないだろ。いつかはこんなこと起こる気はしてたよ。だから僕たちより自分のことを考えなきゃじゃないか」
上杉謙信だから。
つとめてその言い方を避けたけど、僕はそう言ったも同然だ。
「う、うむ。確かに、お前が言うとおり我が狙われるは必定であった。越後を勝手に飛び出してきたところで、それで国論が治まるわけもなし」
虎千代の声も途端に寂しそうになった。
「血のつながった兄に狙われるは情けなきことなれど、色々の人の思惑差し金あってのことゆえ、仕方がないとは思う。もちろん我が問題ゆえ、本当は我が京洛を去ってでも、お前らを巻き込まぬようすべきなのだが」
「だから、そう言うことじゃなくって・・・・・」
言葉を選びつつ、僕は話した。どうもこう言うの、苦手だ。
「僕らなら、だ、大丈夫だからってことだよ。大体、そんなことまで虎千代が背負う必要なんかないだろ」
「だが」
「そもそも僕だって戦国時代に来た時点で生き残るのは、自己責任だと思ってるし。実際、別に望んできたわけじゃないし、誰かのせいに出来るならしたいけど、そんなことしたって何も意味ないだろ。まして虎千代のせいになんて出来ないよ。さっきのことだけじゃなくって、絢奈のことも含めて、虎千代には何度も命助けてもらってるわけだしさ」
「そ、そうか・・・・・」
「それに僕たちの前からいなくなる必要もないし、越後に帰りたくないなら、帰らなくてもいいと思うよ。虎千代は今でもお兄さんと戦いたくないんだろ。新兵衛さんも、このえちゃんたちもそのことはちゃんと分かってるはずだって。だから、無理に越後に連れて行ったりしないんだと思う」
だと、思う。鬼小島はかなり怪しいけど、新兵衛さんがこれだけ長逗留してまで、虎千代のことを見守っているのは、何より彼女の気持ちを尊重したいからだろう。
「わ、わたしがいてもよいのか? お前や絢奈といてもよいのか」
「あ、当たり前だろ。僕たちだって虎千代がいなくなったら、どうしていいか判らなくなるし。僕だって、自分と絢奈の身くらいはちゃんと守れるようにするって」
その言葉が虎千代にどんな風に響いたのかは分らない。僕も、ただ自分が思っただけのことを述べた気もするし。しばらく、虎千代は考えをまとめるように黙っていた。
「・・・・・我は、危うくなったら逃げろと言うたな」
やがてぽつん、と虎千代が言ったので、僕もちょっと言葉に詰まった。
「えっとそれは・・・・・・武士はなんて言われても生きて勝ち残ることが一番・・・・って言うやつでしょ。悪かったと思ってるよ。絶対勝てるわけなかったし、虎千代の命令、守らなくて馬廻りとしては失格だったかも知れないけどさ。でも僕だって、やるときはやらないと・・・・・」
「まさか代わりに、剣を抜いて戦うてくれるとは思わなんだぞ」
ちゃぷ。
お湯が揺らぐかすかな音と、濡れて火照ったその気配が背中のすぐ傍に立ったので僕は心臓が停まりそうになった。
「と、虎千代・・・・・?」
「浪々の身なれば、与えてとらす恩賞もなし。さりとて、ふたなき命、張ってくれたお前を賞するに言葉を持ってしか出来ぬが大将として口惜し」
だっ、ちょっと待って。声を上げる間もなく、ぴたりと何か温かいものが背にくっついえくる。湯で濡れた虎千代の指が僕の両腕をとらえるように沿ってて、と言うことは背中にくっついた柔らかい、火照ったものは。うう、つまりは。これってあれだよな。
「・・・・・我はいかにして、報いればよいか?」
「い、いいいや、あのっ、その点は別に評価してくれるのは嬉しいけど、別になんか、虎千代から見返りがほしいとかそう言うのじゃなくてさ」
うう。ぴくりとも動けず、僕は身体を強張らせるしかなかった。こいつ、背がちっちゃい癖にしっかりと出るところは出てるわけで。
「わっ・・・・・わたしではだめかっ?」
「い、いや、あの、そそそそう言うことじゃなくって」
そんな話してたっけ?
次の瞬間だ。
何か硬いものが、もんの凄いスピードで吹っ飛んできて、僕の頭を直撃した。痛みで気が遠くなる。このコーン、と言う甲高い音は。あっ、これは桶だ。桶が吹っ飛んできた。
「姫さまっ、なにをなさっておりまするのですかっ!」
このえの声だ。もしかして、投げたの、あの子?
「あれほど安静になさって下さいと申し上げたのに、こんなところに。しかもこのえに黙ってかような仕儀に・・・・もうっ、早う、お離れくださいっ」
「あのな、このえ、これはその・・・・・・」
虎千代はしどろもどろだ。こいつ、やっぱり怪我してるのに無理して入りに来たのか。
「真人さま、かようなところで姫さまを寝とろうなどとっ。金津様から、誠意あるお方とうかがって信じておりましたのに。不純でござりまするぞっ」
いや、僕はなにもしてないんですが。あああ、でもいいところでタイミングよく、邪魔が入ってくれた。そう思っていると。
「てめえっこら、なに俺のお嬢と風呂に入ってやがる。ここはお嬢の貸切なんだぞっ。せっかく俺様が、お嬢のために風呂からクソどもを追い払ったってのに!てめえら下賤のクズどもは後で入りやがれっ!」
がさっ、と武装した鬼小島が藪を割っていきなり現れたので、二度びっくりした。わっ、そんなところにいたのか。て、言うか風呂に人がいなかったのって、まさかこいつのせい?
「弥太っ、おのれなにをしておるっ。かようなところで、主君が湯浴みをのぞいておったかっ!」
「いや、あのこれはお嬢、護衛と言うか・・・・お嬢の成長具合を、俺も気にっ」
と、最後まで言う前に虎千代が投げた桶が、鬼小島の顔面を正面から精確に捉えたのは言うまでもない。




