雪音の記憶、玲の択ぶ道、ミカド、何者…?
眠っている間中ずっと、玲の脳裏には雪が降っていた、と言う。
どこか、雪原にいる、と言うのではない。断続的に目が醒めるので自分が眠っている、と言うことが判るのだ。外気と体温の狭間で、ぬるくなった布団の運気や、すっかり冷えて硬くなった自分の指の感触なども、玲は憶えていた。
「でもずうっと、目を閉じるとずっと雪が降ってる風景なんだ」
闇の中に、いつまでもいつまでも、白々と。
余計な雑音は一切、聞こえなかった。風のおぼめく音すらなく、梢が騒ぐどよめきすら全く聞こえなかった。
雪だけがそこに降っている。どこへ降り積もっているかも分からずに、ただ延々と、途切れることなくだった。悪夢、とはひと口に言えないが、
いざ想像してみたらぞっとする風景だ。玲の中でそれがどれほどの体感時間だったかは分からないが、延々と雪だけが降り続ける夢なんて、僕ならどこかの時点で、気が狂いそうになっただろう。静かになす術もなく、何かがとめどなく、狂っていく。その狂おしさこそ、堪えがたいもののはずだ。
玲もまた夢も中で所在なく、白い息を吐いていた。時々、今までのことを思い出したりもしたが、ひどくとりとめのない時間の流れを前には、小石を投じたほどの慰めにもならなかった。やがて考えるのにすらも疲れ果ててしまう。そして、そんな玲を埋め尽くすかのように何事もなく、天からは雪のつぶてが降り注ぐ。
茫漠と、漠然と。
とめどなく、幽かな存在の気配すらなく。
そのうちに聞こえてきた、と言う。
存在と非存在のあわいにいるかのような一つ一つの小さな雪が、降り積もって辺りを白くする前に立てる音が。
ちりちりちりちりちり…
それは弱い火で、何かが焼ける音にも似ていた。とても微かでいて、今にも消え入りそうな儚い音なのだと言う。
(聞こえる)
初めは本当に、そうと認識しなければ、判らないほどの取るに足らないものだった。だが、そこは白紙のように気の狂いそうな空白の最中だ。やがてその音は看過しようにも、玲自身に沁み込んでいくかのように、そこに満ち満ちた。不思議なものだ。そこに音があるだけで、玲にとってただの映像に過ぎなかった降る雪が、まるで全身で感知出来るかのように感じられたのだそうな。
(身体の中を、雪が流れていく)
その感覚を言葉にすれば、ちょうどそうとしか言いようがない。玲にとって脳裏に募る雪はもはや、ただの単調なものではなくなった。そこには降るごとに、独特の拍子があることが、認識できたのだ。
ちりちりちりちりちり…
まるで自分自身が雪になったかのように。
そこまで話すと、玲はくしゃみをした。ぷしゅっ、って言った。こたつに入り損ねた猫がするみたいな、いかにも寒そうなくしゃみだった。僕は引き戸を閉め、玲を布団があるところまで連れて行った。火鉢を持って行ったが、その痩せた身体からは余計、体温が喪われている。
「ほら。病み上がりなのに、そんなことしてると風邪ひくよ?」
「ご、ごめん、変な話に夢中になっちゃって」
そうか、戸を開け放って玲は、現実の雪の音を聴いていたのだ。僕にはいぜん、聞こえる気がしなかったが、玲にとってそれは新しい知覚が拓いたような感じらしく、雪が立てる音が、物珍しかったのだろう。
「ううん、実はさ。雪の音は、今気づいたんじゃなくて、子供の頃、そんなことあった気がするんだ」
懐かしくて、と玲は、言う。
「今はこんなだけど、母さんと二人、小さい頃そんな話をした気がする」
「…三島春水が?」
僕が少し身構えたのが分かったか、苦笑しながら玲は頷いた。もはや意識の上でほとんど忘れかけていたが、あの三島春水の、玲は紛れもなく血を分けた息子だったっけ。
「一応、僕の前ではずっと、普通のお母さんだったからね」
玲は、目を細めてまぶしそうに微笑む。
そう言えば子供の頃、玲は北海道に住んでいた。今となってはそれすら真実かは分からないが、そこは三島春水の故郷で戻るとほぼ丸一日は、道内の親戚回りが続いたらしかった。僕は北海道に行ったことがないが、かの地はまた、越後に匹敵するほど想像を絶する積雪だそうだ。
吹雪の日も三島春水はチェーン付きのレンタカーを出して、道内の親戚を訪ねた。雪が降ると広い道内は場所によっては森も深く、行けども行けども、同じ風景に見えるのだと言う。
「ずっと雪の中で一日ドライブじゃ、つまらないわね」
ごめんね、と、母親は玲によく謝ったそうな。
「つまんなくないよ」
幼い玲は、かぶりを振って答えた。
「お母さん知ってる?雪が降ると、音がするんだ。ずっと。ちりちり、ちりちり…って」
それを聞くと三島春水は、目を丸くしたと言う。
「本当に?」
玲は頷いた。幼い玲は、その音が本当に好きだった。
「だから、つまんなくないよ」
「いい子ね、玲は」
三島春水は、唇を綻ばせると、にっこりと笑った。幼い玲は、シングルマザーだった母親を心配させないように、いくつか嘘を吐いていた。でもそのことだけは、誓って本当だと言えた。
吹きつけるフロントガラスに、散りかかる粉雪。晴天にちらつく雪片。針葉樹とツワブキの森の中を降りしきる牡丹雪。玲にはいつも、同じ雪の音が聴こえていたと言う。
「すごいわね、玲は」
信号待ちの交差点で、三島春水もハンドルを握りながら同じように、耳を凝らして聞いてみた。しかし目を閉じて耳を澄ませてみても、やはり雪の音は、聴こえなかったと言う。それでも三島春水は嬉しそうに、息子が夢中になって話すのを聞いた。
「いつかママにも聴こえるかな?ちりちり、ちりちり…って」
「ずっと、忘れてたよ。子供の頃、そんなこと言ってたんだ。学校に通ってる頃にはもう、全然こんなこと気にしなかったんだけど」
玲はまた、目を閉じた。
「真人くんや虎千代さんたちと、出逢ったお蔭かな」
それを聞いて僕は、少し安心した。やっぱり僕の知っている、玲だ。そこに、僕があの日、垣間見た玲の深い闇は、欠片も存在しなかった。刃物を従わせ、血肉で遊ぶ無邪気で残虐な玲の笑みは、何かの間違いであったのか、とすら思えてしまう。たとえ、
(もしも、あれが玲の本性だったとしても)
玲に剣を振るう才は、要らない。その途方もない才能が、深く鋭く玲の人格に、切り立った谷間を刻むとしたら。そんなことが再びあったなら玲が取り戻した日常は、二度と戻ってこない可能性が高い。
玲はやがて、深い眠りに就いた。僕はそっと、そこを出た。今度の寝息は、安らかだ。次に起きてくるときには、もう元の玲に戻っているに違いない。
縁に出ると、淡い粉雪が勾欄を微かに濡らしていた。
「雪の音、か…」
僕はふと、目を閉じてみた。ちりちり…と言う音は、やはり聞こえない。だが玲が持っているあの三島春水との、数少ない微笑ましい思い出だ。玲にしてみればよほど、それを思い出したのが、自分で嬉しかったのだろう。
玲が目覚めた日。
だがそれは、更なる悪夢の始まりでもあったのだ。
「皆の者、政景殿との密約、無事相成った」
と、虎千代が黄鷹の持ち込んできた坂戸城からの書付を披露したのは、それから数日経っての後だった。あの隠し湯での会談後、政景は一も二もなく、綾御前が主張する十界奈落城の討滅に、賛同する意志を示したと言う。義景の死が、よほどに響いたのだろう。
「…そう思うと、切ない戦果だね」
僕が言うと虎千代は、重たげにため息をついた。
「致し方あるまい。甥御の弔い、しかと頼む、との、姉上からの直々のお言葉じゃ」
「だが図らずも、最良の結果になった。これで情義の上で政景は、私たちを裏切る可能性は低くなったわけだ」
と、信玄は相変わらず、クールな謀略家の立ち位置を崩さない。
「で、この書状には特に書かれていないようだが、政景殿は表面上は敵対を装ったままでいてくれるのだろうね?」
「心配ご無用。その話も、綾御前様が上手く手綱を曳いてござる。海童はこの南魚沼にいまだ活動中ゆえ連中に悟られぬよう、我らを十界奈落城へ導く手筈を準備中でござる」
応える黄鷹に、信玄はさり気ない風を装って言う。
「海童がどこにいるか判らない。ことのついでだ、我らもどこか空城に軍勢を入れようと思うのだが」
「武田殿、それはしばらく」
虎千代が、すかさず信玄を窘めた。それでは、完全に国盗りのやり方である。折角政景の疑惑を解いたのに、その最も敏感な琴線を刺激しては、今までの交渉の経過が台無しである。
「政景殿はあくまで、十界奈落城討滅のために我らに合力下さる身。家督相続の件も含めて、これを好機となし崩しに我らの主張を呑んでもらおうとすれば、かえってその情義にもとりましょう」
信玄は少し、考えるとあっさりと折れた。
「なるほど、確かに調子に乗り過ぎたようだ。悪気はない、許してくれ。だが、この書状を見る限りでは、領内に入ることの出来る我らの人員は、非常に限られたものになりそうだ。その段、例えば海童たちの動向の監視や十界奈落城の入口の探索には、政景殿はどれだけ、人員を配してくれるのかね?」
「その件は樺野沢へ持ち帰りまする。ただ、『人は出さぬ、金は出す』。これが政景殿を通して、綾御前様が仰った密約における概ね、坂戸の立ち位置でござる」
「成る程、人は金で張り巡らせれば、それで済む、か。うむ、理には適っている。海童たちに私たちのほとんどは面が割れている。金で情報網の末端は補えば、我らが下手に動く必要はなくなる分、連中に察知される可能性は少なくなるわけだ」
まさにスパイマスターならではの考え方である。現代においても優れたスパイマスターはこのように、情報網に携わる人員を、色分けするのだ。金ずくの人員を張り巡らせておくのは、主要人物から足がつくリスクを軽減する何よりの予防策であった。
「『人は出さぬ、金は出す』ですかあ。考えてみれば、実に綾御前様らしいご申し出ですよお」
「黒姫、軒猿衆はお前たちだけで、領内の探索事足りるか?」
「任せて下さいですよ!てゆうか伊達に年明けから潜入してませんです。これで、綾御前様のオゴリとあらば、派手にやらしてもらいますですよ☆」
黒姫の図々しい物言いに、黄鷹は苦笑しつつ、
「費用の方は、何をいくらかけても構わぬ、と言う御方さまの計らいにござる。もちろん引き続き、こちらの軒猿衆も合力させて頂きまする」
「ええっ、じゃあ虎千代ちゃん、うちらの飲み食いもただでいいの?」
あっ、もっと図々しい人がいた。真紗さんである。
「無論、なんの問題もない。武田殿にも、真紗たちにも、これから、存分に力を貸してもらわねばならぬのでな」
たまには怒ればいいのに、虎千代も甘いったらない。
「任せてってばよ!それにしてもオゴリなんて。いやあ、悪いわねえ!」
「虎ちゃん、太っ腹ですネ!」
「いや、まあ。わたしじゃなくお金は姉上が出す、とさっきから言ってるんだが」
そんなこと聞いているはずがない。真紗さんは、ベルタさんとハイタッチである。
「まあ、折角のご厚意だ。私たちも甘えさせて頂くとしよう。ところで真紗、例の件だが、調べはついたのかね?」
「例の件…ですか?」
真紗さんは目を丸くしている。ったく、仕事のことなど、考えてなかった顔だ。信玄は仕方なく筆を執ると、仮名文字でそこに書きつける。
ミカド
そうだ。この男の名前こそが、死を覚悟したゲオルグ・ギーズが、僕たちに告げた十界奈落城、最重要人物の名前だった。
「恐ろしい男だ」
ゲオルグほどの軍人が、その男の話を口にしたときは、思わず声音が強張っていた。
「…軍人として、ああ言う指導者が一番恐ろしい。結局は何を考えているのか、判らないからだ。最後まで理由を明かされず、利用されることほど薄気味悪いことはない。奴にはそれが、平然と出来る」
この男は、現代人だ。言うまでもなく、軍事・エネルギーを中心とした現代のテクノロジーに並々ならぬ見識を持ち、蝦夷たちばかりでなく海童たちをも従わせ、視野の大きな作戦を遂行する。恐らくは、真紗さんたちと同じ、情報戦略の専門家、いやそれ以上に信玄級のスパイマスターの器量を備えた実力者である。
にも関わらず、その名はついに割れなかった。この分野はさすがに、真紗さんに頼るしか手がない、と言うのに。
真紗さんは傍目で見て、よくもまあと言うほどみるみる蒼くなった。絶対それは、さっきまで忘れてた顔である。
「ちょっ、ちょっと待って!三日待て、って言ったでしょ!?言われなくても、ちゃあんと正体突き詰めて見せるってばよ!?」
「真紗、もうすでに三日、経っているよ?」
「おっ、御館様までっ」
自業自得にもほどがある。
そもそも日本政府の情報戦略関係者のプロフィールが、隅々まで頭に入ってる、って言ったのは一体どこの誰だっての。てゆうか、綾御前のオゴリでただで飲み食いのことしか考えてなかったな。僕が信玄だったら、とっくに成敗しているレベルである。
「あと三日待とう。この体たらくでは、幼い愛息まで犠牲になされた、長尾殿の姉上に面目が立たない。…真紗、我が武田家の名にかけて、ちゃんと結果は出してもらうよ?」
思わず一歩退くほど底冷えのする目で、信玄は真紗さんに最後通告を言い渡した。
「はっ、はいッ!今度こそッ!三日、いやッ二日で絶対何とかしますってばよ!」
あの真紗さんが本気でびびっていた。情報に関することについては、全く情け容赦ない信玄だった。
「とにかく、これで坂戸への通行が自由になったら、一区切りだ」
信玄は真紗さんに十分釘を刺すと、話をまとめた。
「表面上は、長尾家の内戦を続けるふりをしながら、私たちは十界奈落城攻略作戦を遂行する。しっかり状況を整理して、くれぐれも敵に私たちの変化を悟られぬよう、慎重にことを運ぶ必要がある。私も最善を尽くすが、おのおの肝に銘じて、ことにあたってくれ」
「まったく武田殿がいると、評定がやりやすいな」
虎千代は苦笑していた。信玄の言う通り、ついにこちらが攻勢に転じ、状況が否応なく海童たちとの決着に向け、動き出している。
に、しても紛れもなく信玄は、戦国時代最強の頭脳の一人である。状況が押し詰まってきたからか、緻密でいて一切の妥協のない采配ぶりは、鬼気迫る、と言うに相応しい殺伐とした気すら漂い始めている。
「真人くん、君もそのミカド、と言う男に対して、何か思い出したことがあったなら、遠慮なく話してくれていいのだからね?」
二人で話してて信玄の声がしたので、思わずどきっとした。まあ別にやましいことを話していたのではないが、話題の当人に急に戻って来られると心臓に悪い。
「いっ、いや僕なんかとても!」
現代では僕は、しがない高校生だ。政府の情報関係者の名前どころか、新聞に載ってる閣僚すら全員言えるかどうか、怪しい。
「あ、あと『エネルギー』又は『ダム』、と言う語について、私に分かりやすい説明があったら、ぜひ教えてほしいものだな」
「は、はあ」
「君たちの時代には、十界奈落城のあった山間には、大きな『ダム』とやらがあったんだろう?大した技術だ、追いつけないまでも、ぜひあやかりたいものだ。第一あんな深山に道をひくなんて、私たちには驚天動地だよ」
信玄の脳は、相変わらず無尽蔵に情報を吸収中のようだ。何気に横文字もすでに発音がナチュラルだ。正直、僕なんかの頭脳では、到底追いつけそうにない。まさに人間スパコンである。
「あ、そうだ。春日山城下に精しい人がいます。その人をこっちに呼びましょうか?」
僕はそこで、松本さんを思い出した。真紗さんに奥只見湖のダムの存在を指摘した松本さんなら十分、信玄の話し相手になってくれるだろう。
「春日山に戻る予定があるのかい?」
「ええ、綾御前の書付を、虎千代が持って戻ると言うので。僕も、この村の特産品の買取りについてその人たちと、また話をしなくてはならないので」
「楽しみにしている。しかし、面白くなってきたじゃないか真人くん」
思わずぞっとした。凍りつくようなその目のまま、信玄がにたりと笑ったのだ。謀略の鬼、凄愴そのものだった。すでに今回の作戦のために、昼間はこの村の防衛作戦を展開し夜は真紗さんたちの集めてきた情報をもとに独自に図面をひき、この数日ほど一睡もしていないのを、僕は知っていた。
「我ら長尾家の問題だ。武田殿に負けぬようにせぬとな」
虎千代は、信玄の後姿を見送ると、苦笑をひそめた。
「頭を使えぬ我らでも、せめてこの身体、酷使せねば」
僕は頷いた。まさに虎千代の言う通り、信玄がこれだけ肩入れしてくれているのだ。こっちだって翔ぶがごとく、働かねばならない。
春日山へは、三日ほどの滞在予定だ。虎千代は直江景綱との会談ほか、いよいよ坂戸出立に向けて動かねばならないので僕だけが先に帰って来る予定にした。早速、荷駄を組んでいると、雪山から威勢のいい連中が、橇に乗った巨大な物体を運んでくるところだった。なんてでっかい猪だ。
「ふははははッ、見るがええでや真人!こたびのこの信長のにぎにぎしき戦果をッ!」
狼との雑種の大型の猟犬に囲まれて、信長がラツプと意気揚々と引き揚げてくるところだった。猪だけじゃない。獲ったのは狸、狐、兎に熊、野生の獣がてんこもりだ。こいつ、ここに来てから肉体労働しかしてない。雪焼けした顔に、熊皮の防寒着、それにラツプが作ってくれたアイヌ紋様の鉢巻をして、すっかり山の猟師だ。
「…ちゃんと会議に出ろよ」
「ふんッ、この信長に評定は不要だわ。ええからいくさの機だけ知らせえッ」
身勝手さは、ここに来て拍車が掛かっている。坂戸へ連れて行こうか迷うレベルだ。
「に、しても…うぷっ、これ、なんか臭すぎないか?」
僕は荒縄で縛られた猪を見て、言った。蠅がぶんぶんたかっているのも慣れたが、よく見ると目玉が溶けてるし、これ腐肉の匂いじゃないか。
「ああ、これか。ちと頼まれてな、わざと石室で湯を炊いて腐らしてきたのだでや」
「たっ、頼まれた?」
「でっ、出来ましたですかクソガキ」
すると袖で鼻を覆いながら、黒姫と真紗さんが出てくる。すると信長は腐った猪のお腹にぐちゃぐちゃ手を入れて。うわっ、と思っていたら、中から何か血まみれの革袋みたいなのを取り出した。
「なっ、何だよこれっ!?」
臭さが、十倍増しである。目に沁みる。ケモノ臭いのはもちろんだが排泄物と言うか、野菜くずが腐った生ごみの匂いと言うか、血が腐ったようにも。とにかく思いつく限りの臭いものを集めて凝縮した臭いだった。下手するとこれ、健康に関わる激臭である。
「これよ…うぷっ(真紗さんも涙ぐんでいた)、真人くんこれっ…あたしが呑むのよっ」
「真紗さんがっ!?ええっ、なんで!?」
ついに信玄から罰ゲーム指令でも降ったのだろうか。
「んなわけないでしょ。…おえっ(今、本当に吐きそうだった)…真田直伝の記憶じゅちゅの…封印を解くため…呑むしかないのよ」
今、「じゅつ」って言えなかったが、例の瓜生家に伝わる真田忍術の記憶の秘伝らしい。
「本当に優れた忍者はね、拷問されても白状しないように本当に大事なことは、潜在意識の中に隠したの。その記憶はこのっ…(と、真紗さんは、信長がぶら下げているくっさい袋を横目でにらむ)熊の胆と猪の腐肉と薬草を調合した秘伝の薬を飲まないと、解けないようになっているのね…」
「わたくし、これを作るのに二回ほど、気が遠くなりましたよ…」
精製に協力したらしい黒姫もげんなりしていた。
何でも話によると、真紗さんはその記憶術を使い、深宙さんの復讐で日本に戻って来る前に、戦後五十年からの日本の情報関係者のデータを、残らず暗記したそうな。
「そんなの呑まないと思い出せないんですか!?」
思い出す前に、こんなの飲んだら死ぬんじゃないか?
「ッるさいわね!あたしだって出来ればこんなことやりたくないっつーの!あそこまで言われたら、瓜生家の沽券に関わるでしょお!?…見てなさいよッうぷっ…これがあたしの…真田九度山にんじゅちゅのいきざま…だってばようッ…げえええっ」
吐いていた。いっくら美人でも吐いたら台無しだ。黒姫も、もらっていた。この瞬間ほど僕は、自分が忍者の家に生まれなくてよかったと思ったことはない。
つくづく忍者とは、過酷が売りの商売である。
でも何もそこまでしなくてもいいのに。
「春日山?」
「うん、気分転換にどうかな、と思ったんだけど」
ふと思いついて誘ったのだが、玲はそれほど乗り気ではなさそうだ。
「僕はいいよ。やっと、動けるようになったくらいだし」
玲は床上げが終わり、ラウラや子供たちと身の回りのことをやりだしたばかりだった。
「真人サン、玲サン、まだ外に出られません」
ラウラも玲を引き留めた。雪道も過酷だし、これは諦めるしかないかな。
「…でも坂戸には、僕も連れて行ってよ」
「大丈夫か、玲?」
僕は、はっとして息を呑んだ。正直、言われるとは思っていなかったからだ。まだ本人の意思は確かめていないが、僕は玲にもう剣は持たせたくはなかった。だからこそ、坂戸に行く面子には勘定していなかったのだ。
「行くんだ。僕だって、やらなきゃいけないことがあるから」
「それって、お母さんのこと?」
玲は、しっかりと頷いた。
「だってあの実川って人に、母さんは僕を殺せ、って言ったんでしょ?」
玲は重たげに息を吐くと、自分の胸を抑えた。
「僕には今の母さんが、判らない。だからこそ、ちゃんと会って、確かめなきゃって思うんだ。本当は母さんが何を考えているのか」
「三島春水に会う?」
僕は反芻した。
「それが玲の考えなんだ」
「うん」
玲の意志は固いようだ。だが、それでも言うべきことは言わなくてはならない。
「会ってさ、どうするつもりなの?」
そこで僕は努めて、冷たい声を作って言った。
「三島春水は君のお母さんだ。僕には玲とお母さんのことは分からないけど、会えば危険なことは分かってるだろう?じゃあ聞くけど、もし、三島春水と会ったとして、向こうがただで帰さない覚悟だったら、君はどうする?また、剣を取るの?」
重たい沈黙があった。玲はだがそれでも、ぎこちなく頷いた。
「母さんがその気なら、やるしかない」
「今の君に出来るとは、僕には到底思えないな」
玲は思わず僕を睨みつけたけど、ここは玲のためだ。
「はっきり言うよ。やっぱり君の中には、三島春水と同じ、人斬りの才能が宿っている。僕が見て言えるのは、その才能は今の状態なら、君を必ず不幸にする、と言うことだ。次にあの状態に陥ってしまったら多分、戻れなくなる。だから、友達として言わせてもらう」
そこで言葉を切ると、僕は玲の目を見返した。
「もっとよく、考えた方がいい」
(しょうがなかった)
玲は物凄くしょげていたが、ここは心を鬼にして正解なのだ。心苦しい思いを押し殺しながら部屋を出ると、ラウラが追いすがってきた。
「真人サン、間違ってない。玲サン、ワタシがもっと説得する」
「うん、ありがとうラウラ」
何より玲のことは、ラウラに任せておくのが一番だ。ラウラは心配そうに表情を歪めた。
「真人サンも気をつけて。海童、どこで狙ってるか分かりません」
「うん、僕はずっとミケルと行動するから」
ラウラは心配そうに僕の手を握ると、何か手渡してきた。それは一枚のスケッチだった。
「真紗サンに言われて描きました。ミカドと言う男、会った人間いる」
「本当?」
ラウラによると証言者は、十界奈落城から脱出した蝦夷らしい。真紗さんはそれをラツプのコタンに匿ってもらっているらしく、そのとき、ミカドと言う男の特徴を利きだしてまとめたのだそうだ。なんだ真紗さん、ちゃんと仕事はしてたんじゃないか。僕はスケッチを拡げてみた。
「ワタシ、聞いただけで描いた。でも一応真紗サン、その人に確かめた」
ラウラは自信なさげだったが、真紗さんが確認を取ったならまず信憑性はあるだろう。同じものは、すでに真紗さんにも渡してあるらしい。そうだ、ついでだから春日山に着いたら松本さんにも見てもらおう。戦後史に強い松本さんなら、何か手がかりを見つけるかも知れない。
僕はもう一度、スケッチを確認してみた。意外に若い。四十前後と言ったところか。筋骨隆々には見えないが、首が長く、古武道をやっている人に多い無駄な肉付きのない身体つきが特徴らしい。面長の顔に、嶮山のように切り立った長い鼻、眼差しの鋭さが一度見たら忘れられない。狷介とか邪悪、と言うよりは、どことなく、昭和の軍人を思わせる厳粛な風貌だった。
(この男がミカド…)
まだ僕たちには、その男の真の恐ろしさが分かっていなかった。
この男の正体が分かったとき、僕たちは驚愕することになる。




