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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.14 ~ 越後国主景虎誕生、大名への道、因縁の戦乱
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非業の和平会談!長尾二家、長き相克が呼ぶ悲劇…

晴景との会談をつつがなく終えてほどなく、密使が坂戸に向かい発った。予想よりも、はるかに順調な運びだった。

「後はあたしに任せておけってばよ、真人くん!」

使いを務めてくれたのは、真紗さんだった。

「本当に大丈夫なんですか?」

「あーっ、そんな顔してえ!あたしのこと誰だと思ってるの!?真紗さんだぞお?こう言うのはねえ、ちょっとはったりがいるのよ。真人くんみたいな素人さんには、任せられないってばよ!」

真紗さんは気楽そうに僕には言ったが、ある意味では自分の命を賭けることになることを承知で、気を使ってくれたのだと思うことにした。晴景の書状を携えた彼女は、黄鷹を水先案内として再び厳戒態勢の坂戸に入ったのだった。

「真紗は坂戸の兵の配備具合や、軍備を確かめて三日ほどでこっちに戻るだろう。彼女の報告次第で次の策を練る。いい返事が来たとして、油断してはいけないよ。坂戸の政景が、私より人が好いとも限らないしね。こちらも準備しておいて全く損はない」

と言ったのは、どこまでも人を信用しない信玄である。だが信玄の言うことも、もっともだ。

長尾政景。

この男はつい最近まで海童英とイコールで、虎千代の越後入国を謀略を以て阻んでいた。

いや、謀殺謀議と言う点では、海童より因縁は(ふる)い。妻である綾御前は常に、この政景が虎千代の命を狙っている、と言うことに警鐘を鳴らし続けてきた。

僕にもやはり、この人物の(はら)ばかりは判らない。史実では晴景譲位の後も、坂戸に立て籠もって抵抗したとも言われているが、早々に帰服し一門衆筆頭として長尾景虎を支える股肱の重臣の一人になった、とも言われる。

これほど長い間、名前を聞くが、そう言えば僕はこの男も顔も声もいまだに知らないのだった。


「…大永六年生まれと言うから齢は二十三、晴景公と同じく色白、細面の仁だが、知勇に厚く、配下の上田衆とのつながりも深い。中々の名君だよ。もう少し愚か者の方が良いくらいだ。帰服したとしても私なら、機会を見て必ず殺すね」

と、謀略家の極みである信玄は物騒なことを言う。だがそれは彼にとっては、最大級の賛辞でもある。これだけのことをすでに把握している信玄は、長尾政景をかなり買っているからこそ、この物言いになったのだろう。

ちょっと虎千代の顔が引き攣っていた。

「どのような結果になるかは分からねど、武田殿、わたしは伯父上には一度、どうにかお会いしとうござる」

「分かっているさ。この男も十界奈落城と相対するのに、必要な同志だ。君の親戚だから君に任せるが、いざと言う時は寝首を掻かれないようにはしておいて欲しいものだな」

虎千代が着到早々、信玄は作事場(さくじば)(工事現場のこと)に案内した。信玄が要請した物資も順調に届き、この寒い中でも狼煙を上げる物見櫓や、深い堀が割られてきている。僕が春日山に発つ前よりも、ここは更なる本格的な要塞化が進んでいた。

「何より気に入らないのは、私たちが十界奈落城を攻めている間、獲ろうと思えば、この男は春日山城を獲れるんだ。最終的には、最低でも肉親を人質に差し出してもらわなければ、信用あたわんだろうね」

この件になると、信玄の意見は恐ろしく峻烈(しゅんれつ)だ。信玄らしい、と言えばらしいが、結局政景の恨みを買う形になっては元も子もない。

「人質は要りませぬ。さればこそ、このわたしの赤心、政景殿に聞いて頂きたく」

「確かに、そう言うのが君らしいところだ。だが」

「姉上のことなれば、心配ご無用。姉とは、姉が嫁ぐ前から、その身、この景虎に預けて頂く約束をしておりまする」

信玄は大きく息を吐くと、肩をすくめた。この非情な謀略家からすると、虎千代の物言いはあくまで単刀直入過ぎて、非常識にすら聞こえるのだろう。僕はとっさに助け舟を出した。

「信玄さん、政景はひとり息子を海童たちの人質に取られているんです。そして、その子は紛れもなく、綾御前の血を分けた息子だ」

「成る程、人質を取って不信を買うよりも、人質であり母親でもある綾御前を通して問題意識を共有した方が、情の面で政景を抱きこめる、と言うわけか」

信玄の物言いは身も蓋もないが、要はいかに問題の根本に目を向けてもらえるか、である。政景は今、どう考えているかは知らないが、十界奈落城で海童たちがやろうとしていることを考えれば、すでにこの時代の武家政権と、どう転んでも共存は無理である。

(おさな)い義景子の身の安全を考えることで、十界奈落城こそ真の脅威であると言う共通認識に目を向けてもらうことが、会談の主旨である。そのためにはやはりある程度、政景の不信感を解いておくにしかる。


それから、ちょうど三日で真紗さんは戻ってきた。黄鷹の手引きでまず綾御前と接触し、樺野沢城に現われた政景との極秘の謁見に成功したのだ。

「へっへーん!まあ遠慮なくほめたまえ、感謝したまえ真人くん。まあ、あたしだからこそ出来るスゴ技って言うか、こーんなの国防総省に潜入するより簡単だから」

って言うか、スパイの難易度の尺度がよく判らない。

「ちゃんとやってきたんでしょうね?」

「当ったり前でしょ!?今が千載一遇のチャンスなんだからね。…こんなこと言うのなんだけど、義景くんの具合があまりよくないみたいなのよ」

陽魂奪解の術による昏睡は、義景の命の細い火を、ますます蝕んでいるようだ。真紗さんは樺野沢で政景に会ったのだが、政景は綾御前と交代で義景を看病することも珍しくなく、それが夜を徹することも珍しくないそうな。

「もはや一刻の猶予もありませんですよお!」

黒姫がはたと、拳を振り上げた。

「確かに、今が絶好の好機だ」

と骨の髄まで謀略家の信玄は、一ミリも同情していない。

「同情している暇などないよ。恐らく今頃、海童方からも、交渉の密使が行っていることだろう。調略すべきはまさに、今しかないんだ」

信玄の決断は、一分の隙も無い。

「それで、会談の場所は決めて来たんだろうね?」

真紗さんは少し難しい顔をした。

「折を見て綾御前様が段取りを、つけてくれる手筈にしてきたんだけど…樺野沢城の周辺になるかも、です」

「隠密行か。時と人員が限られるな。なるべくなら、この砦に近い方が好ましいのだが」

厳戒態勢の政景からすれば信玄の要望は、かなり容れにくそうだ。

「お屋形様、坂戸にはまだ、海童たちのシンパがいるんです。幼子の義景がああなって以来、政景公も憂慮しているんですが、どこで海童方に情報が漏れるとも限りません。海童はどこまで上田衆に、根付いてしまっているのか、綾御前様にも把握できていないんです」

「樺野沢を離れては、肝心の綾御前殿と御子が心配か」

「綾御前様も、出来る限りこっちの便宜は図ってくれるとは思うんですが」

「良い。人を(えら)んで、坂戸に出よう」

虎千代はここを逃さず迷わず、言い出た。

「姉上の御家の一大事じゃ。本来なれば、この身を棄ててでも助けにいかなければ、ならないところ。…脱出の手筈ならば黄鷹がつけてくれよう。どうだ?」

「それは…何とかならないこともないけど」

真紗さんの後ろから、もちろん黒姫がしゃしゃり出た。

「はいはいっ、この黒姫に任せて下さいですよ☆黄鷹殿に頼らずとも、わたくしさえいれば、虎さまにお忍びの際のご不自由は決してさせませんです!」

「いいですか、信玄さん」

信玄はため息をついて、頷いた。もう、意地を張る気はないようだ。

「ここは君たちの領土だ。君たちがいいと言うやり方で、切り拓いていくのが一番いい。私のやり方は、私だからこそのやり方だしね。ただとりあえず私はここで、出来る限りの準備はしておくよ。真人くん、緊急事態にはここが鍔際になる。ことによっては本国の救援が来るまでここに立て籠もって防戦することになろうからね。政景の調略、成否如何を問わず何を置いても、ここへは戻ってくることだ」

僕たちは無言で頷いた。

確かに信玄の言う通り政景の調略、失敗したら一気にいくさである。その際、僕たちは敵領を総大将の虎千代を守りつつ、何としてでもここへ逃げてこなくてはならない。

「ついに、海童どもといくさきゃあッ!!うふわははははッ、待ちかねたでやあ!者どもッここは派手に行こまいッ!」

大筒を担いだ信長が絶好調でやってくる。こいつはもう、始まった気でいやがる。

「まーだ出番じゃないっつうの」

「ふん、おのれらは、色々まどるっこしくていかんでかんわ!さっさと坂戸を焼き払って、政景めをここに誘き出すとええでや。このいくさで、信長が自ら選び抜いた鉄砲隊の威力を知らしめてやろうわ!そうじゃ、東の広場の空いてるとこで馬防柵を築くでや!この信長が昨夜考え抜いた三段撃ちをやってみるだわ!」

「鉄砲の無駄撃ちするな!」

いくらかかると思ってんだ。って言うかそれ自腹切って長篠の戦いでやれ。

「あの悪童の管理も抜かりなくしておくさ。まあ、あれでも、籠城戦になったら命を懸けて活躍してもらわなきゃならないからね」

信玄は意気揚々と去って行く信長に言った。

「東には出城を築く。その馬防柵は上手く活かしてくれよ?」

「任せえいッ!ふふふっ、つまり、ここだけ、織田の出城となる、と言うことではないか。おっ、良き名を思いついたわ!ここは信長丸だでや!」

信玄は結構、信長の扱いが上手い。


と、言うわけで早速、旅隊が組まれた。坂戸城下ではすでに僕が、行商として潜入経験がある。僕の護衛には引き続きミケルが随伴し、虎千代に黒姫、真紗さんとベルタさんが水先案内について、再び坂戸潜行の準備が調えられる。

「決死行になろう」

坂戸、いまだ敵地である。政景にその存在を知られている以上、今度の坂戸行きは、今までで最も危険なものになるだろう。だが長尾政景その人に会わなければ、話にならない。

雪の降りを見て真紗さんが、出立の日程を択んでくれる。天気に贅沢は、言ってられないところだ。この調略こそが文字通り、十界奈落城攻略の第一の山場なのだ。


一昼夜で僕たちは坂戸の根城に到着した。

ほどなく、黄鷹が現われ、綾御前の交渉の結果を告げてくれる。

「樺野沢城外に、上田長尾家秘伝の隠し湯がござりまする。そこなれば城中に忍んで政景殿と交渉するよりは安全でありましょう」

綾御前、やはり話が早い。虎千代の声は、思わず明るくなった。

「さすがは姉上じゃ。万事に、手抜かりのあろうはずなし」

虎千代は黒姫をやって事前に地勢を把握させた。会談場所は狭隘(きょうあい)な山地で、軍勢の出入りがかなわぬ秘境だった。ここならば城中に忍んで政景と交渉をするよりは、よほど安全である。

「で、政景殿はそこにいつ参られる」

明日(みょうにち)

義景看病の労苦を癒すためだと言う。刻限は、日が暮れてからになるようだ。

「で、義景殿はそれほどに悪いのか?」

虎千代はそこだけは気になるらしく、声をひそめて尋ねた。やはり芳しくないのか、さすがの黄鷹も口ごもったが、虎千代には答えておくべきだと思ったのか、意を決して自分の見立てを告げた。

「この一日二日が山でございましょう。この寒さで大分衰弱が進まれた様子。ここを、乗り切ることが出来なければ…或いは」

義景が死ぬ。

虎千代は強く、唇を噛んだ。

そうなれば、政景との交渉の望みは永遠に、絶たれてしまう。

「晴明殿、どうにか命、()たせる手段はないか?」

「ううん、やってやれないことはないが」

僕の後ろから、ひらりと晴明が白い水干をはためかせた。

「まず直接、本人に会って術を施さねば、いかな秘術とてその義景と言う子には届かぬ」

「その隠し湯とやらに、義景殿は連れて来れるか?」

黄鷹は途端に、表情を硬くした。

「尽力は、してみまする。されどこの雪の中ゆえ、これが命取りになるやも」

重たく暗い沈黙が、僕たちの間に落ちた。

「…明日の夜か」

虎千代は立って、根城の格子戸を開けた。坂戸城下、窓の外には重たい牡丹雪が、止む気配もなく降りしきっていた。


会談場所の隠し湯は、八海山(はっかいさん)に抱かれている。越後を代表する銘酒の名ともなっているここは古くから修験者たちの崇敬を集める霊峰となっているが、絶壁岩場が多く、現代でも中級以上の登山者ですら阻む難所をいくつも抱える。

昼の内に僕たちは黒姫たち軒猿衆に地形を案内してもらったが、確かに独りでは思わず心細くなるほどに何もかもが(おお)きい雪山だ。その亀裂に真っ白な根雪をまとった複雑な山系の折り重なりは、見るものを圧倒する。一目で自分のちっぽけさを自ずから悟らせるような、威容と言っていい迫力をたたえているのだ。

虎千代は山岳信仰の徒らしく、厳かに手を合わせていた。

幸いなことに夜半に雪は止んでいて、この日は清々しいほどに晴れた。

あの厄介な牡丹雪が行ったのはいいが、積雪は膝まで埋もれるほど、点在する林の木は丸裸になり、皆同じ方向に曲がっていた。山容を吹き降ろす極寒の爆風が、夜通しそこを蹂躙(じゅうりん)していった証拠だ。

「考えたもんだ。これなら山伝いに行けば、並みの軍勢は追ってこれまい」

ミケルはすでに逃げる算段だ。

「縁起でもないこと言うなよな」

まるで最初から交渉が決裂する、と言わんばかりだ。

「悪い、何しろこれが俺の仕事なんでな。お前たちの幸運を俺も祈ってるよ」

ミケルは自分の十字架を掲げると、神妙そうに十字を切って見せた。今さら遅いっつの。

「もう少し中を歩くぞ。山に身体を慣らしておかなくてはな」

冬の山岳戦に()れた虎千代には、一片の油断もない。不測の事態に備えて、ばっちり戦う準備をしておくのだ。

「海童めも、何か手を出してくるであろう」

坂戸着到から、軒猿衆たちに虎千代は城下の探索を命じている。十界奈落城に籠った海童たちの動向をうかがうためだが、このところ連中の消息は徹底してなりを潜めている。

「よっぽど、あたしたちに追跡されたくないのねえ」

真紗さんの言う通り、十界奈落城への入口を発見されないためだ。その点で海童の用心深さは病的なほどだった。玲についていた江戸川凛が突然消息を断ったのも、今考えてみれば海童からの見えない指示を悟ったせいかも知れない。

「いずれにしても、油断はするな。ここでも、怪しい人影が見えたら、すぐに知らせてくれ」


僕たちは周辺の安全を十分に確認してから、隠し湯へ至った。その頃には陽が暮れかけている。

政景の隠し湯は、八海山の谷合(たにあい)にあった。

ぐるりを、岩壁が囲む自然の要害だった。その背後は鬱蒼(うっそう)とした針葉樹林だが、下の雑木林には雪を被った銀杏の古木や紅葉、楓の木などが植えられており、秋の頃、紅葉はさぞ人目を愉しませる工夫がなされていただろうと思われる。

湯殿は、山小屋に少し毛が生えた程度のものだ。僕たちが行くと、板葺き屋根に乗った重たい雪を番兵が払い落としているところだった。政景の手兵は、十名前後、要人警護の必要最低限、と言ったところだろう。

「長尾景虎殿、成瀬真人殿のみ奥へ」

僕たち二人だけが、通される運びになるだろうことは分かっていた。間近に湯船の気配と香りを感じながら、僕たちは客間に入った。

雪に埋もれた庭には椿の花だけが咲き誇り、篝が焚かれているのが見えた。部屋の隅に、長尾政景らしき若い男がいた。鷹野の装束である。

「政景殿、お久しく。お目にかかるは、我が初陣の(みぎり)以来」

闇の中で政景は、瞳を向けた。信玄の言う通り、想像以上に整った顔立ちの若い男の人だった。白い瞳の色が、清かに潤っていた。

「景虎殿、見違えられたな」

政景の声音は、抑えられていた。そう言えばこの政景は、綾御前よりも若い、虎千代の伯父なのだ。

思えばこんな何年も顔を合わせたこともないような二人が、越後国人衆を率いて命を懸けたやり取りを繰り返していたのだ。

「この装束で失礼。かように鷹野を装わねば、忍んで出られぬ身」

「内々の話でござる。かくなる上は、忌憚なく腹蔵を申し上げんと単身参った次第」

虎千代は佩刀(はかせ)を鞘ぐるみ引き抜いて、政景に対座した。部屋の中に他に誰が潜んでいるか、分かりもしないのにさすがの剛胆さだ。政景は闇の中でくすりと笑った。

「やはり綾に、似ているな。女子とは思わぬ肚の太き武者ぶりよ。晴景殿が、安心されるわけだ」

少し雪解けの気配があったが、二人はやはり、まだ打ち解けてはいないように僕には見えた。

「申し出は、うかがった。この政景が、春日山に服属致せば、御身が義景の身を(たす)く、と言うことでござるか」

心なしか寒い。まだ、部屋の中から冷気と緊張感は去っていない。

「そうは申しておりませぬ。ただ、我らに坂戸の通行を自由にして頂けるならば、義景殿にかけられた陽魂奪解の術を解く手立てはある、と言うことを」

「この坂戸に兵を入れる、と言うことか?」

「春日山の兵を入れるわけではありませぬ。十界奈落城はこの北東の山間の地下にあり、軍勢を入れるは不可能ゆえ、我らと、限られた有志のみ。政景殿の手は、決して煩わせませぬ」

「それで城が一つ、落ちるものか」

政景の声音は、固くなった。

「その年で松永弾正の京勢を退け、黒田血震丸兄妹を始末したる御身ならば、言わずと知れよう。それに、よしんば、首尾よくいったとして万一海童を討ち漏らさねば片手落ちじゃ。その十界奈落城を囲むに、春日山の守兵が要ろう」

「守兵は不要にござる」

虎千代は即座に答えた。

「伯父上に守って頂く。海童めを(たお)すためなれば、この身、迷わずお預け申し上げる」

虎千代の決意は本物だった。しかし若い政景は、しれしれと嘲笑った。

「なるほど。今夜、ここへ単身忍んだはその証を立てるためか。やはりお前は、綾と同じじゃ。気に逸り、人の思惑に想いを致さぬ。私に身を預けるなどと、戯言が信に置けるものか。いくら覇龍の気性を継いだとて所詮は、ただの女子よ」

虎千代は、瞳を巡らした。次の間に、伏勢が控えているのに気付いたのだ。槍か弓か。この狭い場所では逃げ場もない。政景はこの場に虎千代が入ったところで、すでに仕物(暗殺)は成ったと、勝利を確信していたのだ。

「もっとも直截に、問題を解決する手段があるぞ、景虎殿。ここで貴殿を討ち取り、その十界奈落城とやらに持参するは如何。我はこの上田長尾衆で、越後を牛耳れればそれで良いのだ。忘れしか。それこそ、貴殿の父、長尾為景と相克を繰り返せし、我が父、房長(ふさなが)の素志ぞッ!」

(どうする)

僕は晴明と示し合わせて合図を待った。こんなことは想定していなかったことではない。ここで二人、追手の目を晦まして逃げ、表のミケルたちに急を知らせるくらいはわけはない。

そもそも政景は、虎千代の超人的な剣腕を見くびっている。後ろの納戸がどれだけ広いかは分からないが、その程度の人数は息をするように斬り伏せる剣士になっていることを、政景はどれほど把握しているのだろうか。

しかしだ。虎千代は、僕を制した。なんと戦わない気だ。納戸の奥からは色濃い殺気が漂っている。政景ですら、目を剥いて威嚇しているのに虎千代の瞳は澄んだまま、声も微塵も震えなかった。

「ご嫡子義景殿は、この景虎の甥でもござる。長尾の下らぬ家争いの果て、幼い甥の命を細らせ、死に追いやるはこの本意にあらず」

「黙れ黙れッ黙れえいッ!」

叫び散らして立ち上がった政景の声を、雷鳴のような虎千代の怒号が掻き消した。

「いい加減でお気づきあれいッ!」

裂帛の気合いである。今の気合いで一撃、太刀を浴びせられたのなら、政景はなす術もなく一刀両断されただろう。

「その片意地と疑心が、長尾家に血の雨を降らせてきたのでござるッ!」

政景は目を見開いた。

武威が違う。

格の違いが、僕から見ても肌で感じられた。いや、誰が見ても分かるだろう。

証拠にあの政景がまるで斬り捨てられたかのように、後ずさっている。今自らが死体になったかのような恐怖を、政景は味わった。

(役者が違う)

もはやその目の前にいるのは、年若の姪ではない。これが後年、上杉謙信たる長尾景虎である。晴景にはないものを、政景も感じ取ったはずだ。しかしまだ、この男は若い。二十歳にも満たない娘に、恐怖すら味わってしまった屈辱が赦せなかったのだろう。顔を無惨に歪めた政景は血気に逸り、叫び散らした。

「殺せ殺せえいッ!この痴れ者ども残らず討ち取れいッ!」

血を見るのはやはり避けられない。僕たちが身構えた瞬間だった。


一発の銃声が、山野に響き渡り、修羅場に浮かされた僕たちは強制的に我に返らされた。

僕たちは聞いた。

今のは確かに銃声だ。

ついで馬のいななく声が聞こえ、人のどよめきの中、何かがこの客間に飛び込んできたのである。

「退けえいッ!退かぬと手討ちに致すぞッ」

見上げるような大筒を肩に担ぎあげた、綾御前だった。あまりのど迫力で、政景の家臣すら手もつけられない。

「あっ、姉上っ…」

綾御前は、ふん、と鼻を鳴らすと、銃を持ったままつかつかと、虎千代の前に割って入った。そして政景に向かい、まだ白煙を上げる筒口を向けたのである。

「政景殿、ざまを見よ」

綾御前は、有無を言わせぬ口調で言った。

「今のおのれとお虎ッ、いずれが痴れ者かッ!言わずと知れえいッ!綾に言うた和睦は方便か世迷言かッ!」

格が違う。さっきの虎千代を見た時も思ったが、綾御前の迫力はそれよりも上だ。長尾家の女子って恐ろしい。天地の張り裂けるような怒声に、政景の顔面は蒼白になって硬直した。

「あっ、綾…これはッ」

綾御前の筒口は微塵も揺るがない。彼女は虎千代を振り返っていった。

「もうよい。お虎、よう案じてくれたね」

「いえ、姉上。でも、もうよい、とは…?」

不思議な物言いだった。次の瞬間だった。綾御前が政景に向けた揺るがないかに見えた筒口が、かすかに震えたのは。

「義景は、死んだ」

僕たちは、言葉もなかった。

つい先ごろのことだと言う。義景はついに、目覚めることのないまま衰弱死したのだ。

「ま、まさか。嘘じゃ!義景がッ義景が!」

政景が、啼泣を上げた。

「嘘ではない。政景殿、急ぎ、城へ戻り末期の別れを」

綾御前の目にも、涙が溢れていた。あの綾御前が、泣いた。僕は初めて見た。

「口惜しや」

綾御前は銃を棄てた。そして政景を抱きしめた。政景と二人、息・義景の死を悼む気持ちは同じなのだった。

「…われらが、もう少し早く歩み寄っておれば義景は助かったものを」

綾御前は涙をぬぐい、小さな声で掻き口説いた。政景を責めたのではない。長尾二家の長きに渡る相克を、呪ったのだった。今さら悔やんでも仕方がないことだとは、まだ思いきれない。

義景を殺してしまったのは、僕たちでもある。唇を噛んで泣き声を堪える虎千代の手を、僕は握ってやるしかなかった。


「これで、分かったであろう」

綾御前は、涙を呑んで言った。

「はじめから人質は足りている。義景を質とせずとも綾の首、ひとつあればそれで足りるのだ」


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