秘剣音無の秘密!再訪春日山城下、虎千代の提案とは…?
「三島春水が、虎千代と同じ無拍子の使い手…?」
僕はその言葉を口に出してから、今さらはっとした。確かに思い当る節はある。江戸川凛を相手に玲が木刀を振るった時だ。
(似ている)
と、あの一瞬、確かに思った。玲の剣が、虎千代の無拍子に。まさかとは思っていたが虎千代も、同じ実感を持っていたのだ。
そう言えば、あの実川を仕留めたときの玲の剣も。
一見、速くも鋭くもなく、言ってみれば嫋やかな動きですらあったのだ。それは思えば、あの犬伏城でミケルを翻弄したあの三島春水の剣に似ているばかりでなく、無拍子の剣を振るう虎千代の姿に通底していたのだった。
「そう、似ているのだ」
虎千代は緊張を隠せない面持ちで、頷いた。ずっと危惧していた実感を、現実のそれとして口にすることに虎千代ですらも、いささかの躊躇を強いられるのだった。
「それを肌で実感したのは…真人も知っていよう、あの犬伏城の対峙の折であった」
僕は咽喉を鳴らして頷いた。いつの間にか、虎千代の緊張が僕に移ってしまっていたのか。
思えば、犬伏城での対峙の折。
ミケルを切り刻んだ妖しの剣の秘密を、虎千代が見破ると三島春水は、さらなる奥の手がある素振りを見せた。
「秘剣・音無」
その剣の名は、そのときに彼女自身の口からこぼれ出たものだった。
しかし、虎千代は今、秘剣・音無など初めから存在しなかったのではないか、と僕に言うのだ。
「あの折、三島春水はただの一撃のみで、仕掛けてきたであろう?」
確か、右の撃ち下ろしである。実際、凄まじく際どい斬撃ではあった。虎千代はあれで、肉厚の桶皮胴を割られ、いわば皮一枚と言うところでその暗殺剣を回避したのだった。
正直なところ僕たちの目にはあの凄まじい斬撃こそが、秘剣・音無に見えた。だがやはり、虎千代はそこから全く違うものを見つめていたのだ。
「あの女はあのとき、わたしに報せたのだ。わたしに、おのが無拍子の存在を」
(そう言えば)
虎千代は、仕掛けなかった。二人は膠着状態に陥った、かに見えたのだ。
「もし合わせていたなら、わたしは斬られていたろう」
虎千代の言うことが真実であるなら、無拍子対無拍子である。
「まさか、相討ち…?」
どこか口惜しそうに、虎千代は頷いた。
「仕掛けていれば、まず確実にそうなっただろう」
しかるにそこを、三島春水は躊躇なく押し切ってきた。狂気の沙汰だ。だが、三島春水なら、やりかねない。だからこそ、あのとき虎千代は全身全霊を使って三島春水の技を回避する選択をせざるを得なかったのだ。
「わたしがあれを、奥義でもあり、そうでもないと言った意味が分かっただろう?」
虎千代は、苦笑した。
「わたしもあれ以来、工夫を重ねているのだ。次にあの女と対峙するときに、それがなっていなければ、恐らく斬られるは、わたしの方となろう」
これで、すべての疑問が氷解した。
玲に剣を学ばせたのは、虎千代が再び三島春水と戦うため、なのだ。
そして三島春水も、それを知っている。その上であえて、玲の才能を開花させるには、虎千代に預けた方がいいと考え、いまだに黙認しているのだ。
と、なるとそう言えばと、思い当る節は多々ある。例えばここに居候している江戸川凛は三島春水だけでなく虎千代の意図も、感じ取って玲を見守っているようだし、三島春水自身も、僕とあいまみえた時、玲の状況を探るようにしていた。
僕がにべもなく、
「虎千代は玲に『何も教えていない』」
と言ったとき、三島春水はその言葉を噛みしめるように聞き、満足げに頷いていた。
思えばそれは虎千代の元で、玲に何かを教える必要がないと言うほどに、剣才が開花しつつある、と判断していたのだろう。
そしてその上で、検分役として江戸川凛が、試験役として実川が送り込まれたのだ。
その江戸川凛だが、雪原の追撃戦で姿を消している。いなくなったところで誰も気に留めないので捨てておいたが、離脱したのはもはや玲について見るべきものは見届けた、と言う判断に基づくものだったのだろう。
ったく、やっぱりあいつスパイだったんじゃないか。つくづく達人たちの考え方には、その場の理解に苦しむ。
だが僕から見てとりわけ、虎千代と三島春水は不可解の極みだ。
自分を斬り殺すかも知れない『敵』に溺愛する息子を預ける三島春水も、その意図を知って素知らぬ顔で剣の手ほどきをする虎千代も。
剣鬼、と言う言葉すら、思い浮かんでくる。二人は玲を通していまだ、間合いの図り合いをしているのだ。
「同じ無拍子、と言っても、各々自得するきっかけも手段も、違うのだ。ゆえに似た境地に至っても、それは全き同一のものとは限らぬ。そして経験も違う。それに三島春水は恐らく、わたしより斬り覚えているであろう」
だが、と虎千代は言葉を切ると、玲の枕頭に深く頭を垂れた。
「真人の言葉も道理だ。才あるとしてもそれが、その者の生涯の幸福に資するものとなるとは限らぬ。と、なれば、これ以上の無理強いは出来ぬ。玲殿、許してくれ。済まなかった」
玲は応えない。あれから、呼吸はすれども意識は戻らないのだ。言うに言葉を択ぶがあの『覚醒』は、それほどまでに玲自身の自我を深く、穿っていたのだ。
「虎千代サン」
ラウラがそれを目の当たりにしていた。彼女は、玲が倒れてからそれこそ一睡もせずに、その容態を見守ってきたのだった。ラウラは素っ気なさそうに会釈すると、枕頭に座った虎千代を、それこそ遮るように自分も沸かした湯を満たした桶と手ぬぐいを持って座った。
「玲サンは、戦えません。もう、戦わなくていい」
虎千代を前にしてきっぱりと、ラウラは言った。それは、三島春水とおなじく、玲の剣才の蘊奥を見極めようとする虎千代の中の修羅と相対しようとも構わないと言う、ある種決然とした声だった。
虎千代だって、薄々分かっていはいたろう。
玲の剣才は、突き詰めるほどに玲を幸せにしない。それは、言っては悪いが虎千代のような、剣と戦いを極めるべくして生まれた、いわゆる後天的条件に恵まれた天才には分かり得ないのかも知れない。
あの出来事でそれは、最も残酷な形で明らかになったと思う。
その才が達する領域の快楽に溺れるほどに、自分の才の凄まじさ、それ自体に酔い知れてしまうもの。話が普通の芸術家だったのなら、その道にまい進して居さえすればいい。画家ならば、自分が信ずるところの画題を描き続ければいいし、音楽家ならば、自分が愛する旋律を技術を尽くして奏し尽くせばそれでいいだろう。
しかし玲が溺れたのは、殺人の才だ。
あれほど刃を取って人を殺すことを嫌がり、恐れていた玲が、その快楽の強烈さに思わず自我を見失ってしまうほどの。
僕はあの、刃と血で戯れる玲を見て想った。これ以上、玲にこんなことをやらせてはいけない。才能の深さだけに目を奪われ、玲の剣才を十全に目覚めさせてしまったのなら、玲の人格は、遠からず破壊されるだろう。
玲の手に、刀は必ず手に余ることになる。それは僕が、虎千代と同じ上杉謙信の命運と覇龍の感性を背負うようなものだ。
虎千代とは、違うのだ。
達人には、達人なりの勘違いがある。
あれほど人を見切るに聡い、虎千代にしてもそうだ。自分を基準にして、どこかでものを考えてしまうので、その目が曇ることだってある。だがすでに虎千代がいる場所は、血なまぐさい戦乱の最中ですら余人に到達しがたい、いわば孤高の境地なのだ。
だから僕はもう、その是非を問うことはやめにした。僕が虎千代に言いたいことを、ラウラが言ってしまったからだが、こと剣の境地に限っては、僕が虎千代と感覚を共有することなど、まずあり得ないからだ。
「さて長尾殿、これからのことだがどう出る?坂戸の攻略がなれば、我々はすぐにでも十界奈落城の攻略にかかるのだが」
信玄の問いは、いつになく性急だった。春までに海童たちの根拠地を打ち破らなければならない。越後の雪解けは遅いとは言え、ぐずぐずしてはいられないのだ。
「とりあえず、春日山に戻り急ぎ、交渉の準備を整えまする。あの黄鷹が、姉上とはつなぎをとってくれるゆえ、ほどなく政景殿とも和睦致しまする」
虎千代はもちろん即答したのだが、謀略のプロ、信玄の反応は鈍い。
「まあ順当なやり方だが、それでは弱いな。長尾政景の目から見て、君と綾御前殿は一蓮托生だ。私が政景ならば和睦の席にてはまず、話の如何より仕物(暗殺のこと)にかけられまいか、そちらを心配するね」
「なればわたしが単身、坂戸の城へ参りまする。おのれの城なれば、政景殿も胸襟を開いてくれましょう」
「君らしいね。…だが人の機微、と言うものは、状況によっていかようにも移ろうものだよ。意気は買うが、長尾政景を調子づかせる結果になってもそれはそれで困る」
そこで信玄は、僕を見た。
「君はどうだ、何か意見は?」
僕は少し考えた。最前から信玄が、僕を鍛えようとしてくれているのは分かっていた。この件については僕も、自分なりの考えを持たなくてはならない、と思っていたところだ。
「そうだね…虎千代、じゃあ、誰かに間を取ってもらうと言うのは?」
「仲立ちか」
思ってもみなかった案らしく虎千代は、目を見張った。
「だが、坂戸の国衆にはつてはないぞ」
「分かってるよ。今、必要なのは、問題意識を共有できる人だろう?」
今、海童によって越後長尾家は脅かされ続けている。
どうにか無事、当主の座に就いたものの虎千代は幾度となく命を狙われ、春日山城まで占拠された。そして今は坂戸だ。海童は政景に協力するふりをして、その実情は、幻術を使い政景の嫡男を人質に取り、十界奈落城を根拠に独立を図ろうとしている。両長尾家にとって、海童はもはや致命的な癌でしかない。その脅威を、肌で感じた人間にしか、仲立ちは務まらないだろう。
「なるほど」
たぶんほとんど同じことを思っていただろうが、信玄は興味深げに手を打った。
「で、真人くんは誰を推すのかな」
この条件に当てはまるのは、一人しかいない。僕は、きっぱりと言った。
「長尾晴景公だ」
前国主にして、虎千代の腹違いの兄、そして今は継父。かつては政景とも、執政の首座に就いた晴景の声がかりならば、政景も何がしかの反応を寄越さざるを得ないだろう。
「虎千代、お義父さん…いや、お兄さんと話は出来るかな?」
「あっ、兄上と、か…?」
虎千代は目を白黒させている。対し、信玄は珍しく声を上げて喝采した。
「さすがは真人くんだ。妙案だ、大賛成だよ。私なら断然、晴景公を使って政景をおびきだすね」
「お屋形さまっ」
んんっ、と真紗さんが信玄を咳払いで窘める。暗い謀略が過ぎる人なのだ。恐らく信玄ならば、晴景を使って政景をおびきだした後、暗殺する、と言う手筈を取っただろう。
「この件については虎千代、晴景公も被害者だと、思う」
言いにくいことを、あえて僕は言い切った。晴景の執政の邪魔になった虎千代が、命を狙われていたのは確かだし、自在の幻術に操られていたとは言え、兄妹のかなり際どい場面にも僕は、立ち会っている。
だが一縷の希望はないではないのだ。家督相続の儀の折、晴景は自らの言葉で、初めて虎千代を労ってくれた。
「数々の骨折り、重ね重ね、かたじけない」
そのときかすかだがはっきりとした声で、晴景が虎千代に言った言葉をこそ僕は、信じたい。
「虎千代のためなら、晴景公も協力してくれると思うよ」
「う、うむ…」
本質的には虎千代にだって、もはやわだかまりはない。多年、越後国主の運命に翻弄された兄妹が、元の関係に戻るのは今しかない、と僕は思っていたのだ。
ほどなく、ミケルと松鴎丸を伴って僕は自分の領地を離れた。言うまでもなく、言いだしっぺの僕がこの調略を成功させるためだ。責任は重い任務だが、僕は躊躇していない。晴景を言いくるめる、と言う意識はなかったからだ。
血を分けた肉親たちと覇権を争わざるを得なかった虎千代が、初めて血族と和解する機会を得たのだ。
戦国大名の運命として、肉親との相克は、やはり時には避けては通れないものに他ならない。虎千代はその運命とともに生きざるを得ない、そう思っていても、やはり僕には、あの晴景の言葉に胸に期すものがあったのだ。
とは言えあの虎千代が戸惑ったのは、よく分かった。なのでここは新兵衛さんや直江景綱と言った虎千代股肱の二人に助けてもらってどうにか会談に漕ぎつけるしかないだろう。そこで僕も春日山へ発ったのだ。
「留守は私が預かろう。長居は困るぞ。くれぐれも、謀略家の私の気が変わらないうちにね」
幸い信玄が、領地の防備を引き受けてくれた。あんなことを言っていたがもちろん、こんなに小さな砦を守るのには、もったいないくらいの達人だ。
そして僕自身にも、春日山に用事があった。この村の唯一の正当な収入源だった、薬種の流通を再開させることだ。果ては覚醒剤を製造するためになってしまっていたが、麻黄をはじめ、この村で栽培が確立されつつあったのは、元々は貴重な漢方薬の原料なのである。貯蔵庫にはまだ、木内先生がいた頃に調製した漢方薬の在庫が多量に遺っており、流通を安定させれば、貴重な定期収入になり得る可能性があった。
もちろん流通商品にはそれぞれ座があるため、いきなり春日山城下の店には紛れ込めないが、大口の取引先として無尽講社が松本さんと砧さんを窓口に僕たちの医療品を引き受けてくれる、と言うのだ。
「留守を頼んだよ、ラウラ」
玲の看病と護衛は、彼女に任せることにした。三島春水がこれ以上、何かをしてくるとは思えなかったが、何事も用心に越したことはない。
「真人サン、ワタシ強く言い過ぎた。虎千代サン、謝りたい」
「僕が、話しておくよ。大丈夫、虎千代だってよく分かってるさ」
あれから玲の話は、虎千代の口からは一言も出なかった。次に玲が目覚めたとき、僕も話しかける言葉を考えあぐねている。だが剣を棄てる生き方だって、この時代でやって出来ないことはない。玲が僕たちといたいと願う限り、僕も玲が剣を取って戦わずに暮らしていけるよう、可能な限り最大限の努力をしてあげたかった。
かくして再び春日山に向かう。年明けから数えてほぼ二か月ぶりだ。
領主になって定住する予定ではなかったが、思えばみるみるうちに、この短期間で僕の立場も出来上がってしまっていた。
粉雪が舞う気候が続いたが、僕が着いた頃の春日山府内は、この時季には珍しく、身が切れるほどの空気で澄んだ、どこまでも青い冬晴れの空だった。雪の残る道を来た僕は、港沿いの直江邸でようやく草鞋を脱ぐ。
「城下でも噂になっておりますぞ。ついにご領主になられたか。これで登城の沙汰があれば、晴れて真人殿も我らが同輩、これよりは我々も礼を改めねばなりませんな」
「いや、僕はそんな…」
堂々たる越後長尾家の大家、直江景綱がこの日は余計に大きく見えた。
「さて前祝いの準備は万端、整っておりまするぞ。真人殿が晴れて城持ちになられたと言うことで、皆、あなたが来るのを待ちかねていたようです」
「皆?」
僕が怪訝そうな顔をすると、聞き慣れた雷声が降った。
「おおッ、やあっと来やがったなあ小僧ッ!」
「や、弥太郎さんっ!?」
するとそこには、柿崎景家と鬼小島をはじめ、むさい連中が手に手に酒やご馳走を持ち寄って集まってきていたのだった。
「出世しといて水臭えじゃねえか、俺たち力士衆もお前の戦友だ。さっさと、祝わせやがれッ!」
鬼小島たちの目当てはまずはどんちゃん騒ぎだと思うけど、これは嬉しかった。
「照れるなよ」
良かったな、と、とミケルが肘で僕を突っつく。分かってるよ。何より久しぶりに会えた人に歓迎されるのは、素直に、嬉しい。
「小童ァッ、怪しからんぞ!越後に来たらまずわしの奢りで飲まんかと、あれほど言うておいたであろうがッ!越後は米も酒も水も魚も佳いッ!ほうれッじゃんじゃん食って、飲むがいいッ!」
柿崎景家も相変わらずの体育会系のノリだ。だがなぜだろう、何だか古巣に帰ってきたようなそんな心持だった。
「真人殿、お貌も変わられましたな」
ふいに直江景綱に、思わぬことを言われ僕は息を呑んだ。
「男子三日会わねば、まさに括目してみよと申します。いや、迂闊な物言いをしましたかな。真人殿は、もはや独りで姫様の先手として海童たちと鎬を削り、関東一の謀才と名高い甲斐の武田大膳様と渡り合う長尾家随一の才覚人」
「か、買いかぶり過ぎです」
「謙遜召さるな」
景綱は苦笑した。
「それにこれは、世辞にあらず。真人殿のためを思って釘を刺しておりまする。何しろこれからは貴殿を、誰もがその目で視て接するようになるゆえな」
「まさか」
僕、どんだけに思われているんだろう。明日、春日山城に登城することになっているのだが、今から不安になってきた。
「そのご様子では増上慢にはなりそうにはありませんから、逆を申しておるのです。居丈高に肩肘を張ることは無きにしろ、もそっと堂々となされませ。すでにあなたはあなたの器に、人がついてくる身なのです」
威を持ちませい、と、景綱は言う。僕には程遠い言葉だ。ますます緊張してしまいそうになる。
「威か。悪くない言葉だが…柄にもないことは、しなくていいんだからな」
ミケルがすかさず釘を刺す。
「だが少し、堂々としていいんじゃないのか。真人、お前は俺たちの代表だ。外で人にいいようにされるような男では困る。いざと言うとき以外は、お前は案外情けないからな」
何だか言われたい放題だな、僕。
「真人殿には、芯がありまする。私もいざと言う時なれば、心配はしておりませぬが」
景綱はそこで声を改める。
「ただ、お立場が出来て後でござる。殿中は、これまでのような俗界にあらず。堂々としているに越したことはありませんからな」
「殿中…?」
「ええ、十分注意なさいませ」
と、言う景綱の心配にこのときの僕はまだ、ぴんと来てはいなかった。
翌日は登城である。景綱に用意してもらった烏帽子と素襖を着込んで僕は、殿中の作法を逐一教わることになった。いつもの虎千代に会いに行くのと違って、領地の宛行状を出してもらう今回は、公式な謁見なのである。殿中と言えば京都にいるときに僕は、多少の作法を教わったが守護代家長尾家は室町式の格式が高く、足の運びから頭の上げ下げまで煩雑で、実に面倒くさいのだ。
だがこれも虎千代を守るがための儀礼なのである。武家の文化は常に貴人の暗殺防止の思想が背景にある。例えば上座の主人の顔を無暗にのぞきこんではいけないようになっているのもそのためだし、儀礼と格式で行動を縛り付けてしまえば、とっさに不審な動きも取りにくいようになっているのだ。
(うう…面倒くさい)
ちょっと警戒し過ぎなんじゃないか、と僕などは思ってしまうが、なるほど虎千代が長尾景虎になってからこの城は、雑多な国人衆が日々出入りするようになっているのである。
早朝、僕はミケルとともに直江景綱と供周り数名を連れて登城したのだが、行く先々で思い思いの用事を抱えた武士たちの群れに会うは、会うは。
執政に携わる景綱の元には、通りすがるだけで彼らが気づいて声をかけてくるのである。さすが景綱も憶えている範囲で応対するが、もちろん一々がどこの何家、と憶えきれるものではない。彼らの陳情や要求が、虎千代が国主になると同時に、ひきもきらず押し寄せているのだ。それでも虎千代の耳に届くのは、その中の最低限度らしいが、
「どれも本当はあだやおろそかに出来ぬのです」
彼らは虎千代の動員兵力から兵站までを担っている。大小の国人衆を手なづける努力を怠れば、彼らはたちまち、他領の侵略者に身を預けてしまうのだ。
山頂の主館に行くと、その群れはとんでもない数になっていた。
まだ僕たちが海童から城を取り返したときは、がらんとしていた溜まりの詰間がいっぱいだ。そう言えば岐阜を奪った後年の織田信長(今あいつは僕の村で好き勝手遊んでるが)も、来客の数が多すぎ、いつも立ち話で応対した、と言う。
まだ虎千代も最盛期の信長ほどでもないが、新国主になったばかりと言うことで、既得権益の確認と保証をしてもらいたい国衆が殺到し続けているのが実情らしい。
「まあ今が、一番の潮と言ったところでしょう」
まるで遊園地のアトラクションだ。二時間待ちどころじゃない。そう思っていると、人波を割って耳に痛い雷声が。
「はっはっはあ!成瀬の小童、来るのが早すぎゃせんかッ!?どうじゃ、山頂のわしの屋敷で飲んでいけいッ!」
柿崎景家である。昨日あんだけ呑んだのにテンションが同じだ。直江屋敷と柿崎屋敷は、山頂近くの尾根伝いに並んでいるのだ。
「え、遠慮します、仕事あるんで」
もう大酒と酔っ払いの相手は沢山だ。さすがにちょっとうんざりしかけていると、今の景家の声を聴きつけたのか、周りの国衆たちがざわめきだす。
「おい、あの若造、何者だっちゃ。あの柿崎和泉守様と直江大和守様と昵懇ぞ…」「成瀬真人…」「そうじゃ分かったぞ、あれがまさか…景虎公が連れて来た…」
ひそひそ声と視線が痛い。どうせしばらく虎千代に会えないなら、ここにいたくない気分になってきた。
「ちょっ、とにかくどこか別の場所で話しませんか…?」
僕が言った時だった。髭面の武士が、胴間声で話しかけてきたのだ。
「あいやしばらく!貴殿があの成瀬真人殿でござるか!?景虎公の命を受け、この春日山城をすっぱ者を率いて見事に一夜抜きしたと言う!」
ざわっ、と周囲の注目が思いっきり僕に向いた。話に変な尾ひれがついている。
「しかもあの京にては、天下の姦臣・松永弾正久秀を大向うに、景虎公を守り立て鬼神がごとき活躍を致せしとか。ふははっ、それが若くとも鬼のような豪の者かと思えば、かようなる腑抜けた姫若子とは!意外や意外だっちゃなあッ!」
あ、よく聞くと、馬鹿にされている。に、してもわざとやっているのか。芝居がかった声でそんなことを言うから、僕の元に興味本位の野次馬がわらわら集まってきては、話しかけてくる。
「喧しいぞッ!ええか聞けえッ、この成瀬真人と言う小童は喃、比叡山にて松永弾正一万五千の軍勢をたった一人で釘付けにした武功随一の男よ。おのれら、ただの腑抜けよ若子よと侮っておると後でどうなっても知らんぞッ!」
柿崎景家が火に油を注いだ。むっさい武士たちを追っ払うために大声を出したんだろうけど、見事に逆効果だ。
「腑抜けは己らじゃあいッ!ええかッ、己らが下らぬ領地や田の水の争いに、景虎公を煩わせておる間、この男は単身敵地に身を晒し、天下の大計略を携えて景虎公に注進に及びにはせ参じたのじゃッ!小娘がごとく騒ぎ立ておって己らこそ、恥を知れい恥をッ!」
どこかで見ていたのか虎千代は、くすくすと笑ってやがった。
「随分早く来たと思ったら、表で大分派手にやったようではないか」
半刻後。とりあえず思ったよりは早く、僕は虎千代の前にいた。
だがその前にえらい目に遭った。
柿崎景家に大喝された武士が憤慨して、柄に手をかけたのだ。しかもその怒りが向いたのは、おもくそ啖呵を切った景家でなく、なぜか僕だったのだ。
「おのれ若子ッ!言わせておけばッ…武士を腑抜け呼ばわりするかッ!」
さすがに柄に手をかけたのは、僕に絡んできた国衆だけだったが、一気に緊張が高まった。僕は面喰ったが、虎千代の城で刃傷沙汰は困る。
「非礼はお互い様じゃないですか。刀を退いて下さい。お味方同士、争ういわれは元々ないはずです」
「黙れッ、この期に及んで賢しらな口を」
誰もとめる暇もなかった。男が刀を抜こうとした瞬間、ミケルの影が動いた。飛燕のように飛び出したミケルは、宙がえりをするように腰をひねると、鞘から抜きかけた男の手を蹴り飛ばし、後方へ押し倒したのだった。
「何をするッ」
尻もちをついたその首筋に容赦なく、エスパーダが突きつけられる。
「おいっ、やり過ぎだってば」
「賢しらな口とやらでは分からんのだろう?」
ミケルは肩をすくめてみせる。
「お前もお前だ。少しは堂々としないから、こんな連中に舐められるんだ」
うちの連中は物騒すぎる。お蔭で興味本位で僕たちに絡んできた男たちは思い知っただろうが、薙刀を持って現れた大熊朝秀たちや黒姫と言った虎千代親衛隊が騒ぎを聞きつけて、僕たちはすっごい怒られたのだ。
「まっ、真人さんッ!ここっ、殿中ですなのですよおっ!あーたたち、分かってますですかあっ!」
「敵にせよ、味方にせよ、武士は威張り屋が多い。連中も思い知ったであろう」
虎千代は退屈していたらしく、かなり上機嫌だった。
「…ところでなんでそんなに遠いのだ、真人」
「いや、殿中の作法があるって聞いたから」
僕が素襖姿でどうにか平伏するのを見て、虎千代はくすっ、と鼻で笑った。
「全っ然似合わんなあ」
「僕だって好きでやってるわけじゃないっての」
失笑しやがったな。
「ならせねばよい。わたしと話すのにかようなものは無用じゃ。公式なものならいざ知らず、わたしも同じようにしゃっちょこばらねばならぬゆえ、身体の筋が硬くなっていかぬ。ほれ、宛行状じゃ」
「あ、ありがと」
奏者からありがたく押し戴く宛行状を虎千代は、手文庫の中から取りだして気軽に僕に差し渡した。一生懸命読んでみたが達筆すぎてあまり内容が分からない。
「中身の吟味は直江か、武田殿にでもしてもらえばそれでいい」
それより、と虎千代は僕の手を取って声をひそめた。
「たまには遊びに行かぬか。お前と二人、話しておきたいこともある」
意外な申し出だった。僕は怪訝そうに訊ね返した。
「えっ、でも虎千代まだ予定があるんだろう?」
外の溜まりには、まだ諸侯が順番を待っている。今日中に身体が空きそうには、まったく思えない。
「だから予定はないのだ。わたしがないと言ったら、ない」
「と、虎千代っ」
まさか城を脱出する気か。虎千代は悪戯っぽく笑うと、僕の口を封じ、人差し指を自分の唇に当てた。
「お前が戻ってきた。これが今、わたしにとっては一番大事な案件だ」




