救出綾御前!鍵を握るのは、伝説の軒猿、黄鷹!?
(綾御前の行方)
全身がざわついた。だが、表に出すわけにはいかなかった。なぜならそれを計算に入れての、海童からの提案だったはずだ。
それこそ、虎千代が最も知りたがっていた情報である。だが、と僕は思い直した。ここで、無暗に喰いついてはいけない。海童は脅迫を仄めかしているのだ。
「どうかしたか?」
「いや、何でもない」
底意を探るような海童の問いかけに、僕は感情を押し殺して答えた。だが、胸中に湧く疑心暗鬼は、収める術もない。
(綾御前は、海童たちに人質に取られているのか?)
いや、よく考えてみれば、僕たちは連絡の取れない綾御前が今、どんな状況下にいるのかすら、見当がついていない。海童の言うことを裏付ける情報を持っていないのだ。
「坂戸の敵城にいる綾御前との連絡を、君たちはしていたはずだ。それが、途絶えたろう?年末だ。密書を運ぶ使いが、ついに捕縛されたのさ」
海童は訥々と、綾御前の現在の状況を話し始める。
「それは、政景公の挙兵時期と規模を知らせる具体的な調査書と、それを読み解く優れた情報分析が記載された、完璧すぎる報告書だった」
綾御前はそれを、自分が実家から連れて来た奥女中たちにばらばらに託し、あるいは実家への消息の手紙に紛れ込ませたり、またあるいは、いくつかの品物を経て何人もの人間の手を渡るようにして、極めて巧妙に国越をさせていたのだと言う。
「いや、恐れ入ったよ。手の込んだ輸送手段といい、下調べの行き届いた膨大な内容といい、恐らくは今回のことに備えて、何年もかけて周到に用意されたものだったはずだ。いずれ実家の長尾本家と戦端を開くことを、あの女は想定していたのだろうな。何しろ自らが、両家の表向きの和平と引き換えに、政景公に嫁いだ身だ」
海童はその辺りのことも、よく知っている。
政景の父、長尾房長は、虎千代と綾御前の父、為景と主導権をかけて争い、両家の和睦の証としてお互いの子を娶せる、と言う条件で手打ちとしたのだ。
つまり、そう考えると房長の子である政景が、次は当然、自分が国主として威勢を振るうことが出来る立場にあると野望を抱いて、不思議ではないのだ。
「政景公は、綾御前を幽閉している。これまで私たちのような監視をつけていたのだが、今度はそれ以上に厳しくな」
「…あんたたちが監禁しているのか?」
僕は核心を突いた。もちろん海童がはぐらかすのは、想定の内だ。
「まさか。そんなことは、おれたちには任されていないさ。長尾家の内側のことだ、綾御前の処遇は、政景公の一存で決めたこと。分かるだろう、本来ならば、これほどの秘密活動をしていた人間であれば、誰であろうと命に係わるところだが」
内心ひやりとしたが、道理だ。さすがに綾御前とは言え、これほどまでに夫の家を裏切った証拠を突きつけられて、無事でいられるはずがない。
「ところが首の皮一枚でつながった。彼女には、嫡男がいる。知っているかどうかは知らないが、まだ小学生くらいのね。政景公は、この坊やをすでに後継に考えている。まさかその生母を殺すわけにはいかない」
今のは、初耳だった。あの綾御前にまず、子供がいることは驚きだったが、その嫡男と言うのは、景勝ではないのか。でも考えてみれば、景勝は弘治元年(一五五六年)の生まれであり、その誕生は今から七年も先のことなのだ。
「綾御前は、夫の政景に監禁されている。が、今は殺される心配はない。あんたたちも手出しは出来ない」
僕は、どうにかはったりを利かせてみた。しかし海童の方は、そんなことはお見通しだと言うように、薄く笑みを浮かべるばかりだった。
「まあ、そうだ。だが、例えばどうだ。その小さな子が、彼女の手元で不慮の死を得たとしたら」
事故だとしても間違いなく、政景は綾御前の内心を疑うだろう。
そのとき、首の皮一枚でつながっていた綾御前の命運は尽きる、と言うことだ。
(なんてことだ)
僕は息を呑みかけたが、海童の前だ。どうにか、表情に出るのを押し殺した。暗殺。海童たちなら、それくらい出来る。政景の監視の目を盗んで、綾御前を生きたまま外に連れ出すことは出来ないにしても。
「誤解しないでもらいたいが、私は手を出す気はない。あくまで可能性を論じている。だがどんな可能性も、いつでも起こり得る、と言うことだよ。御前の御子は、まだ幼い。今話したようなことは、毒虫に刺されたとか、日常の事故でも起こり得る範囲だ」
海童は自分が落とした爆撃の影響力を確かめるように言った。この男が脅迫を埒もない仄めかすように綾御前は今、僕たちの手の届かないところにいる。
ちゃちなはったり程度しか僕に言い返すことがないのを確認しきって海童は、思う存分、手段を弄して脅迫してきたのだ。
「よく、考えてみることだ。何しろ大事の前の小事だ。まだここにはいないようだが、長尾の虎姫とも諮って、賢明な判断をした方がいい」
虎千代の姉の命か、この小さな村の命運か。
どっちを棄てる方が賢明かは分かっているはずだ、と、海童は捨て台詞を残して去った。どちらを択ぶかだって?冗談じゃない。
「そっ、それは綾御前さまと御子さまの身柄ですよっ!」
「黒姫、落ち着けよ」
会見中から、黒姫は僕たちの真っ只中に飛び出そうとするところだった。天井板が何度か、不自然な軋みを立てていたのだ。ったく、本職の忍者の癖に僕より動揺し過ぎだ。
「こーれが落ち着いてられますかってんですよ!すぐに、虎さまにお知らせしなければ!あーっ、て言うか真人さん、お医者の一人や二人、向こうだって殺すわけじゃなし、海童に引き渡したらどうなのですかあ!?」
両手をばたばたして、とんでもないことを言い出す黒姫。混乱し過ぎだ。
「なあ、よく聞けって。海童の要求、これは、取引じゃないんだ。ただの脅迫なんだ。あいつの言う通りにしたからって、綾御前の身柄の無事が保障されるわけじゃないだろ?」
と言うよりむしろ、僕たちの泣き所として海童に利用され尽くすことになるだろう。そうなれば、これより最悪の事態を招きかねない。
「それは、あう…」
そこまで話してようやく黒姫は、我に返ったようだった。こいつ、虎千代のことが絡むと、プロの冷静な判断を忘れて情に走る悪い癖があるのだ。
「ところで黒姫、綾御前には男の子の子供がいるのか?」
「居ますですよ。あれ、知りませんですか。義景さまと言うです。当年十歳になりますでしょうか、虎さまや綾御前さまに似て、お顔立ちのお美しい御子でしたですよ」
黒姫は僕が長尾家の内情を尋ねたのを、珍しそうにしていた。当然だ、謙信以降になる米沢上杉家の歴史は、誰あろう、景勝から始まるのだ。
長尾義景。
それほど幼い年齢にして、『景』の偏諱を与えられているほどだ。恐らくは晴景公と同じように、政景はこの幼い長子を、跡継ぎとして目すべく、その名乗りをさせているのかも知れない。
「ただ、わたくしの記憶が確かなら義景さまは、蒲柳の質(病弱なこと)。一人前の長子とするためには、政景公も綾御前さまも、大分心を砕かれておられるとか」
なるほど、黒姫の言うことなら、間違いはない。
それなら、海童の言うように密謀の件が露見したとして、政景が綾御前をうかつに処断出来ない背景も見えて来る。病弱の長男がいたからだ。夫婦が今、どんな関係なのかは判らないが政景としても、義景がいる限りは綾御前にうかつな手出しは出来ないのだろう。
に、しても病弱な息子か。全くそう視えなかったが、綾御前も、意外と苦労してるんだな。
「…とりあえずこのことは、春日山に戻った虎さまにもお話して、判断を仰がねばなりませんね」
黒姫の言う通り、綾御前の消息は虎千代がずっと気にかけていた情報だ。だが春日山まで腕利きの軒猿衆を走らせても、往復で中一日はかかるだろう。海童に花川先生の引き渡しを迫られている状況で、一刻も早く坂戸へ侵入しなくてはならない僕たちにとって、このタイムロスはかなり痛い。
「ふふん、困っているようだな」
ふわりと晴明が、天井から姿を現す。まーたしばらく、姿を現さなかったと思ってたら。めんどいなあ。
「そんなこと言っていいのか、愚かであまり私を尊敬しない不肖の我が弟子よ。お前が私を悶絶するほど尊敬し、陰陽術をさらに習いたくて習いたくて仕方なくなるように、とっときを用意していたと言うのに。お前、そんな薄い反応でいいのか?」
「はいはい」
相手にしてられない。こっちは大変なときなのだ。
「虎姫のいる春日山まで行けなくて、困ってるのだろう?」
聞いてたのか。だが晴明の陰陽術だって、ここから春日山城までの物理的な距離を埋められるはずがない。それを言うと晴明は、待ってましたと言うように、にんまりと笑った。
「ふふん、そーおだろう。お前のそおーゆう反応を待っておったのだ」
限りなくうざい。何だろう、毎度毎度この絡みは。
「あの、時間が掛かる話なら後にしてくれないかな?」
晴明は僕の言うことを完全にスルーだ。
「ついてくるがいい。もんのすごいものを見せてやろう」
連れて来られたのは、診療所の一角だった。誰も使っていない奥の空き部屋だったのだが、いつの間にやら注連縄が張られ、陰陽道の五芒星の入った紺色の暖簾が無造作に掛けられていた。
「旅館のお風呂場みたいだな…」
「何か言ったか真人」
黒姫とともに不承不承、暖簾をくぐるとそこに奇妙な祭壇が設置されていた。呪符を貼られた二本の柱の間に大きな鏡が置かれ、榊の若葉に油揚げがご丁寧に供えられていた。
「中々のものだろう。子供たちに頼んで、作ってもらったのだ」
当然のように晴明が言う。全く私的な用事で、村の子供たちを使うなよな。
「ふふん、驚くのはこれからなのだ」
僕の嫌味も聞こえないのか晴明は上機嫌で言うと、複雑な印を切った。するとだ。かたかたと銅鏡がひとりでに動きを起こし、そこから発した光が二本の柱の間で、像を結び出したのだ。まるでスクリーンだ。
「こっ、これ…!?」
僕は目を見張った。二本の柱の間には、確かに何もなかったのだ。それがどういう仕組みになっているのか、なんと銅鏡の光をそこに溜め、不可思議な風景を現出させていた。光り輝くスクリーンの向こうにあるのは、仄暗いお堂のようなのだが、同じようにそこに座ってこっちを見つめている姿が出現したのだ。
なんとそれが、虎千代だった。
晴明の言う通り、次ぐ言葉もない。
「上手くいったな。もういいぞ虎姫、聞こえるか。何かしゃべってみよ」
虎千代は晴明の声に、はっと気づいたように顔を上げると、普通に話し始めた。まるでスカイプだ。いや、それ以上かも知れない。向こうは春日山城のはずだが、これほどに離れた距離にいるはずの虎千代がすぐ目の前にいるのだ。
それから会話テストをしたのだが、返答が少し遅れてくる以外は、なんの問題もない。
「晴明殿、これはすごいぞ。陰陽術とはこれほどのものなのだな」
虎千代にしてみれば、前代未聞の技術だ。たぶん今までで一番、びっくりしている。
「そーうだろう!びっくりしたであろう!そうやって驚くがいい。その反応が欲しかったのだ!どうだ真人、私の陰陽術も日々進歩しているのだよ。さすがに五百年のちのお前たちの世界にも、これほどのものはあるまい!?」
「うん、ウェブカメラみたいだよね」
ついうっかり、禁句を口走ってしまった。晴明は、見たこともないくらい愕然とした顔になった。
「まっ…まっ、まこっ…とっ!…おまっ!おまっ」
晴明はそのまま消滅しそうな顔になった。さすがに悪いことをしてしまった。
「す、すごいよ晴明!さ、すが!さすがだなあ!僕も、こんなすごい術、全然予想してなかったよ!あー、習いたい!尊敬するなあ!習いたくて習いたくて仕方ない!僕ももっと陰陽術真剣に晴明から習わなくちゃあ!」
と、余計な茶番はあったが、電話はおろか、郵便すらない時代だ。晴明がいて本当に良かった、と思う。
僕たちはその場で、海童の会談結果を虎千代に報告できたのだ。綾御前の息子に関しては虎千代も、よく知っていて思わず痛ましい表情になった。
「海童め、卑怯な手を使いおる」
その息子が、脅迫の材料に使われたと知り、虎千代は口惜しげに唇を噛んだ。
「でも、効果的だ。僕たちは、綾御前の現状を知らなすぎるからね」
海童の脅迫が、威力を発揮しているのはひとえに、僕たちが綾御前との連携を取れない現状こそが問題なのだ。
「坂戸城下には、わたくしたちも年明けから潜入しておりますが、城中は不穏な噂が流れるばかり、本当のことは分からずじまいだったのですよお」
「城下にも細作どもの流言が、蔓延しておろう。ともかく何としても、姉上の直接の声を聴かねばならぬ」
と、言うと虎千代は、自分の髪留めに手をやった。思い出した。確か虎千代は綾御前との秘密の暗号解読表をいつもそうやって身に着けているのだった。
「奥の手を使う。黒姫、今からわたしが作る伝文をそのまま、坂戸城下の謂われた通りの場所へ置いてこい。これが駄目ならば、姉上のことは考えねばならぬ」
「ははっ、分かりましたですよ。で、でも虎さま、秘密の接触はこれまで何度も図りましたですが…」
黒姫はさっと顔を曇らせた。
「最後の手段と申したであろう。今、書く伝文は直接、姉上に宛てたものではない。姉上が使う忍びの頭へ向けて宛てたものだ」
そうだ。自らも隠密活動を行う綾御前には、黒姫たち軒猿衆をもしのぐ忍者たちが、常に付き従っているのだった。
「名は黄鷹だ。聞いたことくらいは、あろう」
そのときだ。虎千代が口にする名を聞いて、黒姫の顔色が思わず変わったのは。
黄色い鷹。
その異名で呼ばれる男は、軒猿衆で随一の忍術の使い手であると言う。その事歴は旧く、虎千代たちの父・為景に仕え、あらゆる隠密活動に従事したとされる。黄鷹の通り名を聞くだけで、北陸一円の忍びは一人残らず震え上がる、と言われたらしい。
そもそも長尾家が使う軒猿の異名は、中国の賢帝、黄帝に由来する。司馬遷の史記によれば、黄帝はすべての敵を降し、史上初の中国統一を果たした英雄であった。そのため軒猿衆の中でも、『黄』の名を戴く黄鷹は、まさに伝説的な存在なのだと言うのだ。
「ま、まさか今もご健在であられたのですか…?」
まだ信じられないと言う黒姫に、虎千代は、はっきりと頷いてみせた。
「わたしも会ったのは子供の頃、一度か、二度だがな。新兵衛によれば天文六年、姉が坂戸長尾家に嫁して後はずっと、この黄鷹が付き従い、姉を盛り立てたのだそうだぞ」
黄鷹は忍術のエキスパートとして、情報活動に従事することになる綾御前をも育てた、と言う。これもすべて為景の命令だった。
しかし、そんな人がいたのだ。綾御前の忍びが特に、生え抜きと言われるわけだ。
「黄鷹はおのれが育てた忍びを皆、姉上付きにし、自らは単独で姉上の後見を続けていると謂う。坂戸の姉上と連絡が取れなかったときは、この黄鷹を頼れ、とわたしも非常時の伝達方法を聞いていたのだが、まさか使うことになるとはな」
虎千代が書いた伝文を、黒姫はその場で丸暗記してみせた。
「よし。その伝文をわたしの言う場所へ置いて来い。一昼夜のうちには必ず連絡が来る」
「で、どこへ行けばいいの?」
虎千代は簡潔に僕に、答えた。
「雲洞庵だ」
雲洞庵は、坂戸山にほど近い金城山の麓にある僧院である。開闢は奈良時代、養老元年(七一七年)に藤原房前が、母親の菩提を弔うために建立したとされる。中世になって上杉憲定が禅院の大本山として再興したことで、上杉家ともゆかりが深い。
だが上杉謙信の歴史を知るものにとっては、違う意味で有名だ。幼き世継ぎ、上杉景勝と、その股肱の側近、直江兼続が学んだ寺なのだ。
虎千代に伝文を託され、明朝、僕たちは村を発した。少し髪を短くし、僕は半僧半俗の旅僧を装った。墨染めの法衣を羽織り、編み笠を被っている。
ミケルとラウラ、それに玲と松鴎丸は黒姫たち軒猿衆に伴われ、行人姿に扮している。従者たちは布で顔を覆っていても、別段、不自然ではないからだ。
「ふっ、ふう。真人さんも七方出(忍者の隠語で変装を意味する)が、中々板についてきたではないですか」
多くの配下を従える黒姫は、油商の娘になっている。寒さ深まる北国では、油は貴重品でどこでも歓迎されていた。
「すまぬが後は、頼んだぞ。わたしはわたしで、春日山を離れられぬ」
虎千代は、苦渋に満ちた顔をしていた。諸侯の年賀参りにも疲れ切ったのだろうが、たぶんたまりにたまった宿題のつけを、今、払わされているのだと思う。気分は夏休み最終週の小学生である。
「そんなに宿題大変なの?」
「う、ううむ、それもだが。ここにいると、いつも誰かに見られているようで、落ち着かぬのだ」
国主も大変だ。とにかく虎千代は、宿題をすると称して一日決まった時間は、城内の毘沙門堂に籠っているらしいが、元々アウトドア派の虎千代にとっては、さぞや辛い毎日に違いない。
「ともかく、年賀の挨拶もそろそろ終わりだ。ここ数日のうちには、必ずめどをつけてそちらに行くからな」
「う、うん。いいよ、とりあえずは無理しないで」
「そ、そうはいかん。何しろ、わたしの身内のことだ。絶対行く」
虎千代は苦し紛れに言ったが、背後に積み重ねられている冊子の山は例の宿題だろう。数日で片付く量なのだろうか。この分では、虎千代はあてにならないかも知れない。
ここ数日の悪天候が去り、往く道は冬晴れの雪道である。陽の光で溶けかけた樹氷が透き通って、枯枝に光っている。
向かう上田庄は、三国峠からの北の出口であり、関東からの越後への表玄関である。最も古くは、新田源氏の領内であったと言う。
それが関東管領を任じられた上杉氏の入国によって駆逐されるに及んで、現在に至る。言うまでもなく、上杉氏は平家である。鎌倉以来の源平の相克は、こんなところでも繰り広げられているわけだ。
雪道でほとんど人に行き会わなかったので心配だったが、宿場町としての上田庄はさすがに人の行き来が見られた。命がけで冬の三国峠を越えてきたのか、ほっと息を吐いている商隊などもいて、僕たちの姿もそれほど目立たずには済みそうだ。
かねての軒猿衆の忍び宿で、僕たちはまずは旅荷を下ろす。関所も難なく越えられたのだが、坂戸城下は見たところ、厳戒態勢と言うわけではなさそうだ。
「いや、分かりませんよう」
番頭に扮した忍び頭から、黒姫は事件の報告を受けていた。ここ数日、城下で辻斬りに見せかけた暗殺が横行しており、町衆を装った軒猿衆ばかり五人、立て続けに斬殺されたのだ、と言う。
話では、朱柄の杖をつき、盲人を装った怪しい尼僧が、たびたび目撃されているようだ。
「…母さんだ」
玲と僕は息を呑んで顔を見合わせた。三島春水がすでに、この街を徘徊している。あの女が、防諜に動くことは予想の範囲内だったが、さすがに肝が冷えた。虎千代のいない現状では、なるべく鉢合わせしないに限る。
雲洞庵へは、日暮れ前に伝文を出すことにした。黒姫は配下を幾手にも分けて警戒させた。三島春水だけではない。海童の息のかかったものや、政景の細作が、僕たちの一挙手一投足をうかがっているかも知れないのだ。
黄鷹を知る者によれば、この男は綾御前の陰のような存在なのだと言う。幼い頃から綾御前に忍術をはじめとした情報活動のいろはを仕込み、配下を任せると、黄鷹は姿を消した。それからは五年でも十年でも、黄鷹は綾御前の前に現われる必要があるときしか、姿を現さなかったと言う。
「忍び殺し」
常に単独で行動したのは、その不気味な異名を任務として自らに課していたからだ。元来、軒猿衆は忍者同士の闘争に長けているとされた。それは黄鷹のような忍びを、為景公は育て上げてきたと言うことに起因するのだろう。
神出鬼没、正体不明のはずの忍びを捜し出し、その術を打ち破った上で殺す。黄鷹こそは、軒猿衆に課せられた最も暗い任務を体現する幻の忍びだったのだ。
虎千代の言う一昼夜は、それからあっという間に過ぎた。
黄鷹からの連絡らしきものは、その間、全くなかった。
「おかしいですねえ」
黒姫も、さすがに困り果てていた。虎千代が明かしてくれたのは、長尾姉妹の間ばかりで守られてきた極秘の情報なのだ。もしそれが上手くいかなかったとして、僕たちはなんの次善策も打てないのだ。
「もう少し、待ってみたらどうかな」
「そう言いますけどねえ、ことは一刻を争うですよ」
黒姫のいらだちも、もっともだ。このままでは海童の脅迫に屈することになる。もちろん花川先生を奴らに渡す気は元よりないが、こうなっては四面楚歌だ。
「その雲洞庵とやらに、足を運んでみたらどうだ」
ミケルは武器の手入れをしながら、僕に提案してきた。
「味方とは言え、相手は暗殺者なんだろ。そう言う連中は、病的に敏感なんだ。こっちが進んで安全を立証しない限り、姿を現さない気かも知れんぞ」
ミケルの言うことも、最もだ。僕たちに姿を見られることを嫌って、容易に連絡をしてこないことも、考えられる。
僕はミケルを連れて黒姫と、雲洞庵に向かった。そこは深い山の中にある山門だ。伝文は鐘楼のある目立たない場所に、貼りつけてあると言う。
「に、してもこの一昼夜、誰も来てないようですよ」
黒姫は監視を、雲洞庵一帯に張り巡らせていた。それによれば、黄鷹らしき不審な男が山門に現われた形跡はなかったらしい。
「やっぱり、気づいてくれなかったのかな」
緊急時は、決まった場所に決まった方法で伝言を残す、と言う接触方法だ。これでは黄鷹がそれに気づいてくれなければ、いつまで経っても連絡を取れないのだ。
「あれっ…伝文がないですよ!」
黒姫が愕然と声を上げたのは、そのときだった。小さなお札に模した伝文だったが、それが人の手で、確かに最近、剥がされた形跡があると言う。糊はまだ、粘着力を遺していた。
「ああ、あんたらが連絡くれた人かあ?」
するとだ。顔を見合わせた黒姫と僕の頭上から、男の子の声が響いた。男の子?思わず首を傾げたが、それは明らかに声変わりのしていない少年の声なのだ。
「あ、ちょっと待って!今、降りるから。よっ、と」
ふわり、と小さな影が、僕たちの前を飛びすがった。隼のように身軽な動きだった。だがどう見ても、為景公に仕えた老練の忍び者には見えない。僕は率直に、胸に兆した嫌な予感をぶつけていた。
「まさか君が、黄鷹!?」
「そうだけど」
少年は、あっさりと頷いた。まさかそんなはずはない。だって僕より、年下だぞ!?




