さらば天文十七年春日山大掃除!それぞれの年の瀬は…?
この城の朝は、色濃い朝霧の中で始まる。
夜半のうちから耳を弄する風が、間断なく屋敷曲輪を吹きつけてくる。それでも朝のうち霧は凝ったようにそこを去っていかない。地上からすればその理由は、一目瞭然だっただろう。
僕たちは、雲の中に住んでいた。
越後の冬は、晴れ間が少ない。もう慣れてしまったが、毎朝雲の中で目覚めているようなものだ。
なのでほとんどの朝、僕たちは、ばりばりと霜柱を踏みしめて歩くことになる。
それでもこの城の朝は早い。僕がかなり早く起きたつもりでも少し明るくなった頃には、女房衆が炊ぎの香ばしい煙を立てており、各部屋の暖を取るべく、火鉢を持って濡れ縁を渡り歩く姿がもう出てきている。
こんな風に、ここはどこにも人が絶えたことがない。夜勤を終えた衛兵が引き揚げてくると、新しい人員が引っ切り無しと交代していく。毎日、どれだけの人数の人たちでこの城が運営されているのか、まるで想像もつかない。
天守台に行くとすでに何人かが、たたずんでいた。ここには実は守兵を置いていない。この時間だけ、と言う虎千代の御達しがあったからだ。しかしその時間ともなると、どこからともなく人が集まって来て、天守台の裾は、毎朝ちょっとした人だかりになっている。
この上で、虎千代が『朝嵐』を奏しているのだ。
「あ、成瀬様」
「お、おはようございます…」
僕の姿を見つけると、皆、そろって会釈してくる。何だかそれが照れ臭い。思わず、お辞儀で返してしまう。
「もう始まっておりまするぞ」
今日、僕を見つけたのは祖父・能景の代から長尾家に仕えていると言う古老だった。
「姫様の琵琶は、この老いぼれの長きの楽しみでござってなあ」
老人は息子に代を譲って長いが、まだこの城中にいるのだと言う。
「ほんきに姫様、帰って来られただっちゃなあ」
楼上からは、風に乗って幽かな揺らぎの音が、響いてきていた。この山の切り立った風にも、虎千代の琵琶は紛れて消えない。まるで一体のものに感じるのだ。
「春日山の風は佳い」
虎千代が折に触れて言ったのが、よく分かる。風の本名を読むことが出来るようになった今だからこそ僕にとっては、格別の音色だった。
天守台の狭い階段を、僕はそっと駆け上がった。あの日あれほどに、凄絶な立ち回りのあった板の間には、静謐な朝の光が落ちているだけだ。するのは幽かな衣擦れの音、そして虎千代がその指で爪弾く、弦が擦れる音色。
「おはよう」
演奏を邪魔しないよう、僕はそっと言うと、部屋の隅に座った。ここは驚くほど、天井が高い。
「黒姫か」
虎千代は、見当違いのことをなぜか言った。僕は座ったまま言い返した。
「いや、僕だけど」
「真人は分かっている。入口から来たからな」
虎千代は演奏をしたまま、少し、おとがいを上げた。
「この天井裏におるな。今、楼に入るお前を見て戻ってきたところだ」
すると、がたりと天井板の一部が外れ、黒姫が落ちてきた。
「なっ!何するですかっ、こんの狐妖怪ッ!あーた、真人さんにずっと憑いてりゃいいじゃないですか!わたくしの朝の楽しみが、台無しではありませんかっ」
「いやあすまぬなあ、黒姫殿であったか」
続いてふわり、と降りてきたのは白い水干の晴明だった。
「天井板に貼りついて、息を荒くして虎姫をうかがっておる変態がいたゆえ、つい、敵方の曲者かと思ったぞ」
「曲者じゃねえってんですよ!毎度お馴染み黒姫だってんですよ!」
いや、曲者だろ。もはや突っ込む気力もない。虎千代公認ストーカー、天井裏の怪人、黒姫は春日山でも絶好調だ。
「いやー、やはり春日山のお山はいいですねえ。あまりに身体に馴染むものですから、ついつい朝早く起きて、虎さまの寝所でお寝息をうかがいたくなりますですよお」
「寝所がこの頃騒々しくてならん。よく見たら、曲者だらけではないか。備前と相談して、宿直は交代番にするがいい」
虎千代は迷惑そうに黒姫を叱りつけた。そうだ、ここへ来てから、公認ストーカーがもう一人、増えたのだった。僕がここへ来る間にも、虎千代の寝所の戸の前に座布団を敷いて、寝こけている朝秀を見た。
「ええっ…この備前も一緒に景虎さまのお褥に…寝てもよいのですかあ…うふふふふう…駄目ですよう、そんなところ触っちゃ…あ、いえ、景虎さまさえよろしければ全然。うっふうふふふ…あ…わたしい…幸せですう…」
寝言が不気味だった。黒姫に匹敵する逸材だ。
「それより黒姫、府内の様子はどうじゃ」
虎千代は朝嵐の演奏を収めると、話題を替えた。
「はっ、ははっ!この数日で、いくつか忍び宿と思われる宿所や店を潰し、自在の残党と思われる連中を残らず捕縛いたしましたですよ!」
虎千代は春日山城を獲ると、間もなく領内の大掃除を始めた。
黒姫ばかりでなく、虎千代自ら手勢を出し、要所に関所を設け、春日山への脅威を徹底的に排除したのだ。念入りに領国の封鎖を行った後に、内外の目ぼしい諜報拠点を一つずつ、虱潰しにすると言う電撃作戦だった。
成功の背景には、何と言っても自在の死がやはり大きい。指揮系統を喪ったことにより、あの男が張った村上忍者たちの諜報網はほぼ壊滅に追い込まれた、と言って良かった。
「後は海童一味の行方ばかりか」
と、虎千代はため息をつく。虎千代と黒姫が全力を挙げて探索したにも関わらず、あれから海童英に関係する人間の消息は、一人として知れなかったのだ。自在を犠牲にすることでいち早く痕跡を消した海童たちは、魚沼以東に逃げ込んだと思われる。
坂戸の政景の元に身を隠した彼らは、時が経てば再び、春日山城下に潜入し、情報工作を再開するだろう。
「連中のことは、追々考えていけばそれでよい」
「御意に!来年こそは、必ず連中の素っ首を、虎さまの御前に!毎日一個ずつ、もうずらあっ、と並べてみせますですよ☆」
黒姫は景気がいいんだか、物騒なんだかよく判らないことを言う。
「期待しておる。来年は兵を挙げねばならぬが、今年はここまでにしておこう」
虎千代は朝嵐を袱紗に仕舞うと、陽が昇り切った後の山景に望んだ。
「さて残るは、城中の煤払いか」
さて、いつの間にか年末だ。この戦乱の山城にも、ようやく穏やかな年明けがやってこようとしていた。師走も残りわずかになったこの数日は、城内は大掃除一色である。新年の一区切りに露払いとなるのは、戦国大名の城も同じことだ。
長すぎる旅から、やっと腰を落ち着けた僕たちも、常住の人たちに混じって連日掃除の手伝いだ。まさに気の休まる暇もない。
「おおい小僧!仕事納めだッ!人手が足りゃあしねえ!とっと、こっちに手伝いに来やがれッ!」
寝所を用意してもらった直江屋敷で雑巾がけを手伝っていると、鬼小島が僕を呼びに来る。実はまだ、僕がどこに住むかが決まっていないので、折に触れて柿崎屋敷からもお呼びが掛かるのだ。
「武器の虫干しだよ。長旅で大分傷んだからな。手入れ手伝いやがれ」
「ええっ!?だってそっち、ミケルが行っただろ?」
「バーカ、いくさ道具の手入れはなあ、男の仕事なんだよ。お前も、男なら燃えろ。野郎は残らず、柿崎屋敷に来やがれい」
ええっ、僕、武器使わないし。何か断る口実を探していると、奥から洗いざらしの布巾を被った和風なラウラが、わら箒を持って出て来る。
「真人サン、ここ大丈夫。ミケルの様子、見て来て下さい」
「う、うん…」
すっごいタイミング悪い。僕、行きたくないんだけど。
「ラウラさん、厨、終わったよ」
ラウラと同じ格好で、玲が出て来る。こいつ、僕より早起きして参加してると思ったら、掃除やお裁縫がすっごく得意で女子力が高すぎる。気がつけば僕との相部屋もおっそろしく綺麗になっていて、あっと言う間に、直江屋敷の女房衆に一目置かれる存在になってしまった。
「あ、じゃあ、玲も」
「ダメですっ、玲サンはワタシたちと、今度は本丸の虎千代サンのところに行きます」
僕はあっさり追い出そうとした癖に、ラウラはすかさず玲を確保しようとする。なんだこの疎外感。
「男は全員集合なんだよね?」
鬼小島は傲然と胸を張った。
「あったりめえだアっ、男は全員だッ!男なら、武器で燃えやがれッ!」
「僕、真人くんとお手伝い行くよ」
玲は即決していた。僕だけそんな修羅場に連れてかれてたまるかと思って焚きつけたのだが、知らない、と言うことほど恐ろしいことはない、とつくづく思う。
「まっ、真人くん!これっ…?」
玲の顔から、血の気が引いていた。なんの弁解も出来ない。粗莚いっぱいに投げ出されたのは、殺人兵器である。柿崎屋敷の軒先に行くとそこは、血なまぐさい中古武器の見本市だった。独特の臭気が辺りに立ち込めている。これだけの武具を見ると、そんな気がする。
お城には雑兵用の番槍や刀、胴丸などが常備されているのが普通なので、定期的な手入れは一斉にやらないと片付かないのだ。
それは仕方がないことだが、現代から来た僕たちにこの光景は、やっぱりきつい。いずれも実際の戦闘に使われた道具なので、柄巻が黒く沁みていたり、血溝に汚れが詰まっていたり人の脂がついたままのものがあったり、色々地獄絵図なのである。
言うまでもないことだが、特に鬼小島のそれが凄まじく、あの人間が二、三人まとめて細切れになる巨大長巻やら、鉄骨建材みたいな極太槍やら、ぶっとい人斬り庖丁やらが無造作に並べられている。
「あの長旅だ。血の脂の匂いが沁みついたまま、ろくに手入れも出来なかったからな。一回徹底的にやらねえと、安心して年が越せねえや」
ふと見ると隣は柿崎景家がいつも振り回している大きな十字槍が、どんと置いてある。あれ、柿崎家のものだけかと思ったら。どさくさに紛れて真紗さんが持ち込んだ管槍や鎖鎌、ベルタさんのものらしい狩猟ナイフや小銃までずらっと置かれている。
「邪魔だ。そこ、どいてくれ」
誰かと思ったら、ミケルだった。自分用のエスパーダと、ラウラのレイピアが包まれた菰をどさりとそこに拡げていた。
「お前ら、なんで来たんだ?武器、持ってないだろ」
ミケルが怪訝そうな顔をする。いや、鬼小島が男は全員参加だとか言うから。
「妹に、連れて来いと言われたのか?」
「違うよ。玲は、僕の手伝いに来てくれただけで」
僕はあわてて言った。二人の関係、うっかり忘れてた。しかし、そんなに嫌そうな顔しなくてもいいじゃないか。ミケルは自分の武器を並べ直しながら、じろりと僕を睨んだ。
「おれは、悪いことを言った、とは思ってないぞ。今だって、そう考えている。戦う気のない者は、武器を持つ資格なんてない。中途半端に関わろうとするのは、どんな場合も許されることじゃないんだからな」
さすがにそれは僕も、反論出来なかった。僕だって、ろくに武器も扱えないながら、虎千代たちがいる場所に出るから分かる。でも今それ、玲に言わなくてもいいだろ。
「兄さん、反省してない」
どきっとした。いつの間にかラウラが怖い顔で、僕の後ろに立っていた。
「玲サンに、ひどいことした、分かってるはずなのに。いつ、謝れる?仲直り、いつするの?」
「う…」
ミケルの顔が引き攣っていた。さすがのミケルも、ラウラには頭が上がらない。
「悪かったよ。口で言えばすむことを、わざわざ乱暴な真似をした、それは、悪かった。今、謝るつもりだったんだ。本当だってば」
「嘘。兄さん、口ばかり。どうしてちゃんと謝らない?」
ずいっとラウラが玲との間に立ちはだかって、ミケルは思わず後ずさった。
「兄さん、ワタシじゃなくて玲サンに言う。ワタシ聞いた。約束した!」
「ラウラ、理解してくれ。男同士って言うのは、色々あるんだ。謝る…って言ったってな。そんなに簡単にはいかなくて」
「そう言う問題じゃない。ミケル、アナタの部屋、玲サンが掃除した。兄さん、部屋、汚いままだったから。全部、玲サンが掃除した!」
「だから悪かったって!おれが悪かったよ!」
ついにミケルが悲鳴を上げていた。理屈はどうあれ長尾家では、なんと言っても女の子が強いので逆らっては勝ち目がない。
「まだやっておるか」
あれっ、虎千代がやってきた。大掃除と言っても城主の部屋は別で、虎千代の身の回り一切は、ほとんど人任せで楽だと思ったのに、虎千代は青い顔をしていた。
「全く、黒姫と備前のお蔭でひどい目に遭うたわ」
怖ろしいことにその一言で全員、何があったか察した。
やっぱりストーカー大戦争が勃発したのである。
本丸の虎千代の間では、黒姫率いる軒猿衆と、大熊朝秀率いる虎千代親衛隊が、大掃除の縄張りをめぐって熾烈な争いを繰り広げていたのだ。
「くおおの新参者がッ!虎さまのお持ち物の整理は一切、この黒姫の役目だってんですよおッ!」
「だっ、だったらこの備前は、景虎さまのお褥の一切をお掃除致しますう!黒姫さん独り占めなんて狡いですよう!」
「でわッ!わたくしは、虎さまの御召し物を!」
「ふっ、不埒な!…あなたのような不純な人に、景虎さまのお寝間着やお下着を、任せるわけにはいきませんですうっ!」
二人は虎千代の持ち物と生活スペースの全てを巡ってぎゃあぎゃあ争いを始め、身一つになった虎千代は手回りの品を辛うじて持ち出して、どうにかここまで脱出してきたと言う。
「愛刀と着る物ばかりは、どうにか保護してきた。連中に内緒で、しばらくここに置いてくれぬか」
と、心底憔悴した虎千代。それにしても前途多難である。つまりこれから、毎年あれが繰り返される、と言うことなのだから。
「虎千代サン、ミケル、玲サンに謝った。仲直りしました。もう、大丈夫です」
「仲直り?」
「ああ、おれがこいつを武器で脅した件だ。謝ったよ。でもな、何度も言うが、おれはこいつのためを思ってやったんだ。三島春水の息子かも知れんが、剣の才能は別だ」
「剣才は、別、か」
虎千代は意趣を含んだ言葉をつぶやくと、玲に向き直った。
「玲殿、せっかくだからお答えを聞いておこう。ご決心はつかれたか。この世界でわたしたちと戦うか、それとも、すぐに現代に帰る方法を探すか。後者なれば、わたしが一筆書くゆえ、年明けにでも京都の無尽講社を訪ねるがいい。あそこなら安全だ。真人の妹もそこで、現代に帰る機会を待っている」
玲は答えかねているようだった。唇を戦慄かせ、反射的に何か答えようとしたが、あわてて打ち消してかぶりを振った。まだ迷いは晴れていないのだろう。虎千代も、すぐにそれと察したようだ。
「なに、まだ時間はある。あわてることはない」
虎千代は気楽に言うと、無造作に足元の剣を拾った。それは虎千代がちょくちょく普段使いにしている、備前鍛冶無銘の、細身の愛刀だった。何をするんだろう、と見ていたら、虎千代は柄を突き出して玲にそれを手に取るように促したのだ。
「取り扱いはご存知であろう?」
玲は虎千代の意図を図りかねているようだった。だが、剣を握ってみろ、と言うことらしい。玲は息を呑んだが、やがておずおずと虎千代の佩刀の柄を握った。
「お母上は、剣の手ほどきは?」
玲はかぶりを振った。
「何も。…刃物の扱い方は凛さんや海童社長に、少し。教わった、だけで」
「構えてござれ」
言われるままに、玲は剣を構えた。体育の必修とかでやったのだろう、現代剣道の普通の正眼だ。
「まず利き腕の力を抜かれよ」
虎千代はそっと言うと、丁寧に玲の指をとった。
「利き手でそれほど握り締めては、これは扱えぬ。しっかと致すは、手綱を締めるこの左手」
虎千代は左手の握りを改めると、少し離れて玲の様子を見た。
「どうじゃ、これだけで様になっておろう」
ミケルたちの方から反応は返ってこなかったが、僕は思わずはっとした。虎千代が少し手ほどきしただけだし、玲自身も半信半疑だ。それでもだ。玲の細長い身体が正中線を隠して剣を構えている姿は、自然とあの女を連想させた。
まさかだ。似ているのだ。
(三島春水に)
僕は確かに、背筋が寒くなるのを感じた。
あの凄惨な気を、一瞬でも連想させるだけ、玲には何かがある。それは間違いないと思う。それにしてもいつもながら恐ろしいのは、玲の中に埋もれていたそれを、苦も無く発見して取り出して見せた虎千代の剣才だ。
「悪い冗談だぜ、鬼姫」
ミケルは舌打ちはしたが、その玲を見て馬鹿にした顔はしなかった。
「玲サン、才能あるかも知れません。とても綺麗な構えです。ねえ、兄さん」
ラウラなどは、眼を見張っている。
「あの、僕…そんな」
玲は自分で戸惑ってしまっていた。
「剣は人殺しの道具ばかりにあらず。無心で体を整えれば、心も自然と整おう」
虎千代は玲の手を取って、今度は納刀の仕方を教えると、親切そうに言った。
「もし玲殿さえよければ、その剣は進呈する。ここは達人ばかりじゃ。相手には不足はすまい」
「は、はい…」
望んでもいない真剣をぽんと与えられ、玲は困った顔をしていた。
(どうしたんだろう…?)
そのとき、僕は不思議だった。虎千代はどうして玲に、丁寧に剣を勧めたんだろう、と。確かに剣術は精神の修養には、なるかも知れない。だが、虎千代の一刀を預ける、と言うことは、必然的に玲が望んでいない道に、足を踏み入れる確実な第一歩となりえるのに。いつもながら、剣を通して物を見る虎千代の真意を、僕がようやく悟ることになるのにはまだ少し時間が必要なのだった。
「こるあああっ、真人くうんっ、なんで働いてるらあっ!?今年はもう仕事納めらって言ってるらあ。お姉さんとお酒を飲みやさいっ!」
厄介な酔っ払いが来た。すでに大トラになっている真紗さんだった。
どうやら柿崎家は庭で、大宴会を催しているらしかった。すでにそこにはベルタさんが持ち込んだバーベキュー用のグリルに炭火が熾され、肉やら魚やら野菜やら、焼きおにぎりやらが盛大に焼き上がっていた。もうもうと黒煙が立ち上り、焼き討ちにあったかと疑うレベルだ。
「弥太郎めはどうしておる!?…煙たいっ!さっさとこの煙を止めぬかっ!」
さすがにこれは虎千代に、大目玉を喰らっていた。
冬の春日山に暖かな陽が落ちている。
そこで僕はふと、空を見上げた。
こんなのどかな一日はでも、絶えてなかった。
この広大な城にはまだまだ、僕の常の棲み処になるようなそんな実感はない。でもこの過酷な戦国時代に生きる僕が今年も虎千代と、
(生きている)
と言うことは、一年の暮れにふと強い思いが兆す密かな実感だった。
「夜は天守台に出ぬか」
虎千代が、本丸に去るしなに僕に言ったのは、昼間の騒ぎがようやく収まった頃だ。まだ宴会を続ける皆を後目にこっそりと屋敷を脱け出した。
虎千代は一人、夜食を用意して待っていた。
炭桶に熾き火がばっちりと焚かれ、干し大根の古漬けと菜を刻んだ醤に、お櫃からよそったばかりのおにぎり。それと差し向かいの小さな鉄鍋でぐつぐつ煮えているのは、海の滋味を吸った大振りの岩牡蠣だ。
この時期獲れたての岩牡蠣の身は、豊饒そのもの、噛めば清らかな海水の潮味が果汁のように沁みて生でも美味しいのだが、芯から温まるには鍋物がどとめを刺す。
赤みそと甘めの酒で仕立てた牡蠣には、何と言っても葱が欠かせないと言う。特に香りの強い葱の青いところを大きめに刻んで煮込むと、いくらでも食べられる。
牡蠣の身は煮過ぎると、固くなる。それでも生臭さが気になる人はよく煮た方が味が沁みていいが、出来るなら半煮えが一番美味しい。灼ける舌と口の粘膜を気遣いながらも、虎千代と二人、無言で貪ってしまった。
「美味しいね」
貝のだしが沁みたスープがまた堪らない。これをおかずに柔らかく蒸らしたおにぎりにかぶりつくと、止まらなくなりそうだ。北陸の食の豊かさである。
「越後に来て良かったな」
「そうか」
「…あ、いや、食べ物だけじゃなくてさ」
僕は思わずあわてて言い足した。
「わたしとお前だけだ。わざわざ繕わずとも、いいだろう」
虎千代は、弾けるように笑った。
「実はずっと真人と、ここでこれが食べたかった。来年からは、中々食事も自儘にならなくなりそうだからな」
灯りの揺らめきを瞳に映しながら虎千代は、寂しげにつぶやく。
そう言えば家督相続の儀が、この春日山城本丸で行われたのがつい昨日のことだった。当初の予定通り媒酌を上杉定実公が務め、虎千代は晴景の娘となり、そのまま長尾家の家督を相続したのだが、それはあくまで簡素化した儀礼上の手続きである。
虎千代にとっての本番は、明くる年頭の新年の儀にある。景虎、として総代を正式に引き継いだ彼女を、長尾家当主と戴く諸侯が、どれほどに列席するかである。これから虎千代の戦いは、はっきりと二極化するのだ。
長尾景虎としての政務、そしてこれからも続く、西條・海童たちとの戦い。
「頭がこんがらがりそうだ。中々これまでの一筋縄ではいくまいな」
「大丈夫だよ」
僕は、即座に答えた。今日もてんてこ舞いだったけど、どんなときも虎千代についてきた人たちがこの城には、いっぱい居る。
「前にも言ったと思うけど、僕は虎千代と一緒にいたいと思ってここに来たんだ。それはどんなときも、忘れてないよ。長尾景虎になろうと、上杉謙信になろうと、それは同じだから」
僕がこの、小さな女の子に出逢ってから三年経った。
彼女がもう、あの上杉謙信であることに寸分の疑いもないけど、僕にとってはとっくに、虎千代は、どこまでいってもただ、虎千代なのだ。
「だからさ。来年もまた、こうやってご飯食べようよ」
僕が言うと、虎千代は嬉しそうに頷いた。
食事を片付けると、僕たちはあの晩と同じ、天守台の勾欄に望んだ。街明かりはすでにないが頭上に冬の星座が、はっきりと見えるようになっていた。海鳴りに似た夜風がうごめく音がするだけで、静かな晩だった。珍しく僕たちの間に、今夜は何も割って入るものはなかった。
雨の気に少し濡れた夜風の中で、直に僕が触れた虎千代の唇は冷たく感じた。キスする瞬間、ふと小さな肩を縮めた彼女が急に愛おしくなった。気がつくと僕は月明かりに潤う黒髪ごと、その小さな頭をいつもより強く抱き寄せていた。