春日山城主に!歩み寄る兄妹、蘇る絆は…
「自在…」
血潮滴る腕を抑えて、うずくまっているその男を僕は見直した。この男が、自在だって?目の前にいる男は、忍び装束を着てさえいるが、剃りこぼった坊主頭に生えた毛もまばらな、みすぼらしい小男だった。
だが見れば見るほど虎千代の言う通り、この男があの自在なのかも知れないと、そう思えてくる。晴景と言う人間一人を完全に狂乱させてしまった、あの凄まじい幻術もそうだが、虎千代を睨みつける目は殺気鋭く、猛禽類のどう猛さを思わせる切り立った鼻の下の口元は、この期に及んでなお、不敵に歪められていたからだ。
「顔を見るのは初めてだったな。だが、初めて会うとは思えぬ。お前には、大分世話になったからな」
「うッ…くうッ」
虎千代の皮肉を、傷ついた自在は、うずくまったまま聞いている。脇差は左肩の肉を貫通し、深々とそこに突き刺さっていた。
「ぬかったな自在よ。忍びたるもの、殺す、と決めた人間の前になど、そうそうは現れぬものだ」
虎千代は冷たく冴えた刃を、傷ついた自在に向けた。
「思えば、大仕掛けの謀よな。春日山の城まで獲っておいて、わたしに何をさせたいかと思うたら、おのれの幻術で、兄上を斬らせることとは」
春日山城ひとつ使って虎千代に晴景を斬らせる。
考えてみれば、なんと壮大な陰謀である。
確かに、この期に及んでも春日山城を占拠した海童がその姿すら見せないのは、おかしいと思った。海童たちは僕たちが本丸に到達すると見るや、一目散に城を棄てて逃げた。つまりは虎千代を襲ったゲオルグの目的は、僕たちを挑発して本丸に誘き寄せることだったと言うことだ。
「長尾景虎は、夜陰、兵を率いて城を奪い、実の兄を手ずから斬り殺した、か。非道忍人のそしりは免れまい。そして、お前たちはそれをいくさの口実に、国内外から兵を募る。考えるだに、天晴な謀略よ」
「ふん、小娘が利いた風な口を」
自在は額に脂汗を浮かべながら、不敵に返した。
「何をどう繕おうと、結果は同じではないか。長尾景虎、お前は実の兄から城を分捕ったのだ。盗人の分際で、偉そうな口を利くでないわ」
「盗人か」
虎千代はそこで、凍りつくような殺気を放つと、必殺の間合いを詰めた。
「わたしが盗人ならば差し詰めおのれは、詐欺師であろうが」
一聴して怒気は感じられない。しかしその剣気には、死の気配が籠もっている。あの自在が、思わず息を呑んだ。自在はおのれの死のイメージを、この上ないほど如実に感じたに違いない。虎千代が見せたのは、幻術ではない。が、そのイメージは、死を畏れぬはずの練達の忍びですら、畏れさせた。
「来い」
虎千代は短く、静かに言った。
「どうした?傀儡屋は操り人形なくば、人前には立てぬか」
自在は無言だった。呼気ばかりが、聞こえてくる。肩で息をしているのだ。そのたびに肩肉に突き立った脇差の傷口から、珠のような黒い血が、頻繁に滴っていた。止血しなければ、自在と言えど、無事ではいられまい。だが、動けない。まるで蛇に睨まれた蛙だった。
「いっ、言わせておけば、小娘、このわしを愚弄しおって」
と、反駁すると、自在は息を呑んだ。
「おのれがごときっ、横道者には、いつかっ仏罰がっ…天罰が降ろうぞ!」
「存外信心深いのだな、自在よ」
虎千代は鼻で笑うと、自在をおののかせた。
「多くの人をたばかったお前には、地獄が相応しい。末期の偈でも唱えるがいい。安心して、浄土を踏め」
「誰がッ!誰がだああああッ!?」
全身のばねを使って、自在が飛び上がろうとした刹那だ。
振り下ろしの斬撃が、自在を捉えた。
叩き伏せるような一撃は右肩に喰い込み、自在の腕をそこから両断した。付け根から落ちた腕は、不気味な呪印を描くかのように、指を縮こまらせていた。無様な蠅のように自在の身体は、音を立てて墜落した。魂ぎるような悲鳴が、辺りに木魂した。
「ぐあああああッ!おのれえいッ!おのれえええいッ!」
もはや小手先のまやかしなど、そこには通用しない。
幻戯の邪法を使って多くの人間を誑かしてきたこの男ですら、身を以て知っただろう。虎千代と相対することによって自分が、生死の際に追い詰められ、人間一箇に過ぎない存在にまで、貶められたことを。
化け物などいない。そこにいるのは、両腕の自由を封じられ、死に瀕したただ一人の男だった。
「分かったッ!分かったああッ!助けてくれッ!頼むッ命だけはッ!知ってることをすべて話すッ!だから命はッ、命だけはッ」
こうなるともはや、抗う気持ちもない。溢れる血汐にまみれながら、自在は懇願した。
「お前から聞く話はない」
虎千代に駆け引きは通用しない。斬る、と決めたときから、すでに自在を見る目は、屍を見るそれと変わりがなかった。
「今、とどめをくれてやる」
血走った自在の目が、恐怖で極限まで見開かれた。涙に潤んだその目に、虎千代の刃が映る。自らの血が滴るその刃の冴えが、自分が最期に見る光景なのだと知らしめられた男の身体は硬直し、自分でも言うことを聞かないようだ。
腰を沈めてその首を、虎千代が討とうとしたその瞬間だ。
紫煙が突然、一帯を満たした。
黒姫が使うので、見覚えがある。これは忍者が火薬を調合して作る煙幕だ。
瀕死の自在と、虎千代の間合いも、その煙が壟断した。
「仄火かっ!?ようやったあッ!」
やはりだ。自在が娘の手柄を喜ぶのが、声だけ聞こえる。
「逃げるか卑怯者」
剣を振るおうとする虎千代に、僕はすぐに取りついた。これでは、間違って自在以外の人間を斬ることになり兼ねない。挑発するように自在が嬉々として捨て台詞を吐いた。
「残念だったなア、長尾景虎ッ!この恨み、預けておくわッ!」
だがさすがに老練の自在の声は、遠近感を悟らせない。
「おのれこそはわしが、喉笛に喰いついても殺してやろうわッ!喰らい獲ったおのれめの肉を、わしの糞にして垂らしてやろうわッ!残りは犬の餌じゃッ!待っておるがいいッ!兄から分捕った城でな!」
血の出るような哄笑を残して、自在の声は消えた。
「あわてることはあるまい」
虎千代は眉をひそめると、僕に向かって肩をすくめてみせた。
「虎千代サンッ、無事ですかっ」
ラウラの声がした。煙幕が張られて、兄妹は脱出する二つの影を目撃したのだ。
「曲者、柿崎屋敷の方へ逃げました!ミケル、跡追ってます」
「あい分かった」
虎千代は悠々と、自在の血のついた刀を懐紙で拭った。
「奸賊、春日山より逃すまじ」
虎千代の一声で、柿崎勢五百名が山狩りに出た。
自在は血を撒き散らして尾根伝いに逃亡したようだ。人の血の匂いを憶えた軍用犬の群れが、容赦なく追い立てる。
「明かりは盛大に焚け」
と、虎千代は命じた。相手は闇に乗じて幻術を使う。明け方の薄暗闇でもそれは、まだまだ効果を発揮するに違いない。
「自在は埒も無きが、今一人、凄腕がいるゆえな」
自在を救いに来たのは、やはり仄火のようだ。犬伏城で僕たちを襲った自在の娘は、自分を拉致した西條によって完全に洗脳されてしまったようだ。
「麓を封鎖して、山上へ追い込むのだ」
虎千代はすでに城下の直江景綱に命じて、麓一帯を軍勢で封鎖させている。
戦国の山城は麓はともかく、尾根は伐採して見晴らしをよくするために、隠れ場所は少ない。なので、降り口さえ封鎖してしまえば、追い詰めるのはそう難しくないのだ。
「今度と言う今度は、逃がしゃしねえですよ!」
同業者として自在に煮え湯を飲まされている黒姫は軒猿衆を配し、隈なく目を利かせる。西條のときもそうだったが、忍者には時をやり過ごす秘伝がいくらでもあるのだ。手負いの自在とて、侮れない。
「それでも西條の時とは違いますですよ!どれだけ上手く逃げようと、血の匂いばかりは隠せませんからねえ!」
黒姫は犬の群れを使って、効果的に包囲網を狭めていく。ものの四半刻もしない間に僕たちは自在らしき松明の陰を発見することが出来た。暁闇にぽつりと一点、火盗蛾のようにさまよう灯が揺らめいている。
「自在のあの腕では、松明は持てまい」
虎千代が目をすがめて、言った。明かりを持っているのは言うまでもなく、先刻自在を助けに現われた仄火だろう。
「馬鹿な連中ね。もともと夜目が利くんだから、明かりなんて棄てればいいのに」
と言う真紗さんは、敵の迂闊さにむしろ、苛立っているようだ。
確かにこのままでは、松明が格好の目印だ。
ところは天守台の尾根から、はるか北西に降った春日山の背側の台である。小規模ながら、ここにも狭隘な山道を監視する櫓があった。
「何あれっ!?」
真紗さんが途端に突拍子もない高声を上げたのは、追手が包囲したその櫓の麓で、四人が睨み合っていたからだ。そのうち二人は、傷ついた自在と仄火である。だが、もう一人は。
「西條オッ」
問答無用で飛びかかろうとする真紗さんを、虎千代とベルタさんがあわててせき止める。
「コラアアアアッ、ベルッ何邪魔してんの!ぼさっとしてないで、銃貸しなさい銃っ!」
真紗さんが乱入したら返って、取り逃すことになる。その西條と自在たちをエスパーダを使って釘づけにしているのが、誰よりも早く追跡に走ったミケルだからだ。
「遅かったな」
ミケルは、さすがに達人だ。瀕死の重傷を負っている自在を庇っている仄火を上手くコントロールして、西條をも動かせない。
「すまぬな、ミケル」
虎千代が剣を抜いて割って入ると、ミケルは片頬に皮肉そうな笑みを浮かべて、剣を退いた。
「礼ならいい。まあ先に仕留めても良かったが、こいつは他人の仇だ。今夜はこんなものにしておいてやる。いいかい、これで借りは返したぜ」
ミケルは真紗さんたちに向かって片目をつむった。真紗さんと代わった瞬間、ラウラに手を借りていたが、あの矢傷を負った足で三人、駆け引きだけでよく留めていたものだ。
「ふっふーん!ざまアーないわね、西條」
クールなミケルより年上の癖に、どこか大人気ない真紗さんである。
「絶っ対、逃がさないわよ。今度はこの城のど真ん中に穴掘って首まで埋めてやるってばよ!」
「いや、真紗、それは…あの、ちょっと…」
虎千代の顔が引き攣っていた。いやここ、虎千代のお城だ。折角取り返した春日山城に、そんな残虐なモニュメント要るわけない。
「数日、客として住まわせてもらったが中々、いい城だな長尾景虎公」
西條は杣人のように藁沓を穿き、細身に防寒用の熊毛の羽織をまとっている。薄髭を生やしていたが、その風貌は完全に元通りだ。
「気に入ったら、そのままいても構わぬのだぞ。見晴らしは悪いが、ここにも地下牢はあるからな」
「慎んで遠慮する」
鼻で笑うと、西條は皮肉を返した。
「この前も、中々いい休暇だったがね。俺もそろそろ仕事をしなくちゃいけないんでね」
「この囲みから、逃げられると思うか」
虎千代が言った時だ。西條はふと、視線を外した。見たのは、青みがかってきた夜明けの空だ。
「海童さんたちはもう、逃げきったんじゃないか?」
僕たちの中からそのとき、大きなどよめきが上がった。西條の視線の先、大きな影が空を横切ったのだ。
「あれは…?」
竹で骨組みを作った、グライダーのようなものだった。この時代の人間には見慣れないが、僕や真紗さんたちには一目で分かった。飛行物体は天守台のある方角から、一直線に海際の山麓に下降していった。
「まさか、お前たちは海童どもの囮か」
虎千代が言った。なるほど、夜目が利くはずの自在たちがどうして松明を棄てなかったのか、これで説明がついた。天守台の裏からグライダーを使って城を脱出する海童たちの囮になったのである。
「なんだ、これは…?」
しかし次の瞬間、僕は不可思議なものを見た。頭上を飛ぶ不気味な物体と虎千代の言葉に、ここまで逃げてきた当の自在が声を震わせたのだ。
「おっ、囮だと!?なんだそれはッ聞いておらぬぞ。どっ、どういうことだっ!?これは一体っ、仄火ッ、婿殿ッ!」
「聞いての通りですよ義父上。作戦は終了、直ちに状況から総員撤収です。そして義父上、あなたの役目は今を以てここで終わりだ」
西條は言うと、吠えかかる自在の膝裏を蹴ってそこにひざまずかせた。自由を喪った身体に、西條は黒い帷子のようなものを無理やり着せ、荒縄で縛り上げた。
「なっ、なにをするかっ!?なっ、なんだこれはっ!?」
自在の声が上擦っている。西條が着せたそれは、一瞬にして傷ついた自在の身体の自由を奪った。それもそのはず、その帷子のようなものには、どっしりと重たい何かが詰まっていたからだ。
「ああ、火薬ですよ。おれと仄火も撤退しなければならないんでね。義父上にはぜひ、その露払いを務めて頂こうと思いましてねえ」
「誰も近づくなッ!」
導火線と見られるものを手にした仄火は、松明を翳して僕たちを脅した。なんと言う光景だ。実の娘が、父親を人間爆弾にして起爆すると言っているのだ。
「馬鹿な真似はやめろ」
「そうよッ!西條ッ、あんたこんなことしてただで済むと思ってるのッ!?」
ばっちり虎千代の背後に隠れていたが、真紗さんの剣幕だけは、巻き添えも恐れぬ勢いだった。
「ただで済むか、だと?こっちの台詞だ。瓜生真紗、そして長尾虎千代、お前たちにはこれから思い知らせてやる。この城にいつか、お前たちの墓穴を掘ってやる。ただでは済まさない」
西條は仄火に目眼で合図した。すると仄火は手にした火縄に、躊躇なく点火した。
「なッなにをしおるッ仄火ッ!おっ、お前!くそおうッ!揃いも揃ってこの父をたばかりおってからに!西條ッ、おのれ初めからわしを消すつもりで近づきおったなッ!この外道がッ!おおいっ、何とか言わぬかッ!」
「その通りですよ、義父上。いや、むしろ義父上のこと、とっくに気づいておられたかと思っていましたが?」
血の出るような憎悪を浴びせられても、西條にとっては、毛ほども感じるところもないらしい。
「忍びたるもの、外道であれかし、と仰ったのは、誰あろう義父上が教えではありませんか。かように喜んで頂けるとは私も、あなたの猶子として、術を頂いた甲斐があります。義父上、この上はあなたは、もう不要です。どうぞ安心して浄土をお踏みください」
「西條、貴様ぁッ!」
自在は絶句した。憤怒が極に到った顔に太い血管が浮き、血が噴き出そうだった。だがこの男は外道として育てた西條に、一言も返すことが出来ない。自らもそうして生きてきたからだ。自業自得とは言え、憐れと言わざるを得ない。
「ほっ、仄火…」
ついに窮した自在はすがるような目で、実の娘を見た。しかし、それも無駄だった。血を分けた娘の瞳の色は、これから爆死する自分の姿を見ても、古沼の水面のように何の動きも見られなかったからだ。
「くたばれッ!この糞どもッ!地獄に墜ちろッ!呪われてしまえッ!」
末期の憎悪を吐き尽した自在に仄火は、何も応えなかった。次の瞬間、僕は視た。仄火の茶色い目に、不可思議な焔のようなものが浮かんだのを。
「お逝きなされい」
仄火は、僕たちの方を指さしてそっ、と自在に命じた。するとどうだ。自在の意に反して、その身体が激しく足踏みを始め、こちらをぐるりと振り向いた。
「走れ」
まるで犬に命じるように西條が言った瞬間だ。爆弾をまとった自在が、全速力でこっちに向かって走り出したのだ。
「来るぞ」
なんてことをするんだ。あれは、人間爆弾だ。自在は首だけをひねって、あらん限りの罵倒を西條たちに放ったが、身体は全速力でこっちに向かって来るのだ。
「全員、離れろ」
松鴎丸とベルタさんが、銃を構える。この上は、自在を殺して動きを封じるしかない。
「じゃあ、後は頼んだぜ」
捨て台詞は、真紗さんに向けたのか、それとも虎千代に向けたのか。西條は寄り添う仄火の肉体を抱き寄せると、頸を掻っ切る仕草を見せた。
「たっ、助けてくれえいッ!だっ、誰かあっ!」
自在の絶叫がこだます中。確かに訊いたその西條の姿が、僕がその最後に見た、西條の姿だった。
「ぎいいいいやああああっ!」
導火線が火薬に到るその刹那。
松鴎丸が、自在の膝頭を撃ち留め、バランスを崩した自在のこめかみを、ベルタさんが撃ち抜いた。憐れな人間爆弾と化した自在はまるで土下座でもするように、顔から地面に落ちて死んだ。
けたたましい爆音と爆風が、その男の無様な遺体を跡形もなく吹き飛ばしてしまった。自在は死んだ。しかし、その遺体はひとかけらも残らなかった。それはまるでその幻のような男が、初めからこの現世に存在していなかった、とでも言うようだった。
かくして春日山城はたったの一晩で、虎千代の手に落ちた。
それは電撃的成功ながら、どこか苦い勝利でもあった。長い間、僕たちを苦しめた自在は仕留めたものの、海童、西條以下、主要な工作員たちの身柄は一人も確保することが出来なかったのだ。
また、さらに言えば彼らの目的は初めから、虎千代に春日山を陥落させることだった。つまりは長尾景虎がついに武力行使に出たと言う既成事実を作ることが目的だったのだとしたら、彼らはその目的の半分は達したことになるのだ。
「辛い点で見ればそうだが、結果は良しとしよう」
と、虎千代は苦笑しながら僕に言う。
確かに考えてみれば、虎千代は兄、晴景殺害の汚名を着せられるところだったのだ。それを防げただけでも、よしとしよう。
「さて皆のお蔭で、春日山に戻れた」
すべてが落ち着き、大広間に皆を集めた虎千代は、僕たちを集めて戦勝を寿いだ。長尾家の家紋である大きな九曜巴の紋を背負って虎千代は上座に就いた。
その虎千代の下に柿崎景家、直江景綱に列して、僕たちが集う姿は壮観だった。大河時代劇ではよく見る絵図の中に、僕たちがいるのだ。
「マコっちゃん、虎ちゃん、なんか殿さまみたいですネ?」
殿さまなんだよ。て言うか今頃気づいたのか、ベルタさん。真紗さんは上杉謙信と武田信玄の話を、ベルタさんに何度となくしたそうなのだが、アバウトなベルタさんの頭の中に忍者と山本勘助の話以外は、どうも入りにくいようだ。
「さてまあ、堅苦しい話はとりあえずここで抜きでよかろう」
と、それから虎千代はあっさりと上座を降りて、こっちに来る。形式通りの口上が終わったら、無礼講だ。鬼小島や真紗さんが酒瓶を集めて騒ぐ中、僕は虎千代に伴われて、本丸の濡れ縁に出た。
「真人に、一番にこれを見せたかったのだ」
と、虎千代は言った。
手に届くほど間近に、目が醒めるような蒼が、視界いっぱいに広がっている。蒼天は地の果てまで人の郷を覆い尽くしていた。
あの晩は分からなかった春日山の景だ。
「どうだ、春日山は」
あの虎千代が珍しく、誇らしげに僕に言う。僕は圧倒されて言葉もなかった。
これがまさに、軍神、上杉謙信が守りきった春日山の風景なのだ。
「真人、お前たちのお陰だ」
地の果てを見つめる虎千代の目が、澄んだ潤いを帯びていた。
「本当にありがとう」
「…じゃあ、後はお兄さんのことだね」
吹き上がる海風に髪をそよがせる虎千代に、僕は言った。微妙な問題だが、見過ごすわけにはいかない。自在の幻術で乱心した晴景公はあれからすぐに正気に戻ったが、やはり元々病弱なのが祟ったのか、公に姿を現さない。
当然、虎千代との会談も実現しないままだ。
「兄上はつつがない様子じゃ。母上の話では、受け答えもしっかりしていると」
だが虎千代について、語る言葉はないと言う。
「お前には言うが、堪えなかったと、言えば嘘になる。兄上はわたしの存在を疎まざるをえない立場につかされ、人知れず苦しんでいたのかも知れない」
虎千代は自責の念に駆られて言う。確かに、妹にとってかわられるやも知れない晴景の苦しみも人に言えないものだろう。虎千代が当主以上の働きをする限り、下手をすれば、国主の座をとってかわられるばかりじゃなく、自分の命そのものにも関わるのだ。
「でもそれは、虎千代のせいじゃないだろ」
「そう、なのだろうか」
「そうだよ」
虎千代が退け目を感じることじゃない。時代が上杉謙信を択んだのだ。
「少し時間が掛かっても、話は出来ないことじゃない。…だから、根気よく待つしかないよ」
僕は虎千代をそう言って慰めた。
「まずお兄さんをそそのかす人はもう、いないだろ?」
「うむ。それはそうなのだが」
むしろその迷いは虎千代自身、覚悟が決まらないことにもあったのだと思う。
年月によって掘られた二人の溝は、それほどに深い。向こうも同じように思っているのだと感じているなら、肚を割るほどに打ち解けるのは時間が掛かるだろう。
「晴景殿と茶席を設けます」
と、申し入れたのは、虎御前だった。虎千代のお母さんだ。
「あ、兄上とでござるか」
「ええ。良いでしょう。わらわがもてなします。親兄妹、水入らずで」
ほたほたと笑って、虎御前は言った。
こう言う時、育ちがいい人は、遠慮がなくてむしろいい。思っていると虎御前は、僕の方をじっとみて言う。
「ああ、それと真人殿も。貴殿ももはや、わらわが身内じゃ。しかしお虎も良い婿を見つけたものじゃなあ」
「むっ、むこっ、むこぉっ!?」
僕も虎千代も、豆が咽喉に詰まった鶏みたいな顔になった。
「いえーあの母上、真人はいずれはわたしの婿になる人なれどー、その話には順序と言うものが」
珍しく分別臭いことを言う虎千代を無視して、虎御前は僕の手をとって拝むようにして言った。
「お虎をよろしくお願いいたしますねえ。この子もねえ、ほーんと小さいときから乱暴な子だったのですけれど、根はよい女子なのですよう」
「はっ、母上っ!余計なことをおっ!」
綾御前といい、春日山に来てから、すでに身内認定されている僕なのだった。
茶席は城中で設けられた。
冬曇りの、火鉢の必要なほど寒い、昼下がりである。
虎御前が茶釜に湯を注し、手ずから茶を点てた。晴景公はあの日と同じ藍染の素襖を着ていたが、正気に戻った顔は驚くほど端正で、その話しぶりもとても控えめに見えた。
「虎」
と、虎千代に茶碗を渡すとき、晴景が初めて声をかけた。
虎千代は臣下の礼をとって、丁寧にその茶碗を両手で受けたばかりである。
「数々の骨折り」
そのときかすかだがはっきりとした声で、晴景が虎千代に言ったのはそのときだ。
「重ね重ね、かたじけない」
虎千代は黙って、茶を喫した。
この日の二人は、これ以上の言葉を交わしていない。それほどに二人の距離はまだ遠い。しかしだ。その雪解けは僕の目の前にすでに、かすかだが目に見える形で始まろうとしていた。
上杉定実を通じて、長尾晴景が虎千代に国主の座を譲位する、と打診があったのは、この茶席があってほどなくのことだった。譲位は当初の予定通り晦日、僕たちの天正十七年がようやく、終わりを告げようとしていた。