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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.13 ~越後へ!春日山動乱、深雪の攻防
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晴景が乱心!?酷烈、兄妹対面の結末は…?

空気の気配が変わり、心なしか月が薄れてきた。

空が白めば、間もなく夜明けだ。

直江邸に柿崎景家が到着して虎千代に状況を報告をしたが、坂戸の兵と思われる占拠兵は()()うの体で逃げ散り、城内は平穏を取り戻しつつあると言う。解放された宮司たちによると、彼らは雑多な統率の兵たちで中にはこの春日神社のことをよく知らないものもいたようだ。

「母上から頭目は、隻眼(せきがん)の男と訊いたが、それは確かなのか」

虎千代が念を押して聞くと、景家は無言で頷いた。

「城内の噂ではどうやら、村上方の忍びのようだと。仰せの通り出家の頭を()りこぼり、眼は隻眼、刀の(つば)を眼帯代わりに当てておったとか」

「海童に間違いないわね」

断定するように真紗さんは言う。彼女が捕えた守備兵の一人から聞きだしたところによると、長尾景虎(とらちよ)の他は、二人の女忍びを見つけ次第殺すよう、彼らは厳命されていたらしいのだ。言うまでもなく、真紗さんとベルタさんだ。その点からも、その隻眼の男は、海童に間違いないと思われた。

「連中はこの春日山を占拠しておる間に、他国よりも、兵を率いれる算段やも知れませぬぞ」

「さもあらん。されど、この越後の冬は深し、武田殿は手強し」

越後の雪解けと、武田信玄の信濃撤兵が本格化しない今のうちは、村上義清は動けないと、虎千代は踏んでいるのだ。

「ともかく連中は、どうあってもこの長尾景虎を、逆賊に仕立てあげたきようぞ」

皮肉気に言うと、虎千代は彼方の闇に沈んでいる本丸を見上げた。獣が哭くような風は、朝の気配をまとい、清かに冷えだしていた。

「本丸さえ獲れば、府内はまず安泰にござる」

(ふもと)の街中は直江大和守景綱なおえやまとのかみかげつなが、万難を排して守備していると言う。

「本丸を包囲してくれ」

虎千代は柿崎景家に命じた。

「我らだけで中に入る。不審者は、構わず捕えよ」

虎千代は皆を促すと、本丸への道を昇り出した。


虎千代の往く道は、何者も阻まなかった。

はるか頭上に設置された二楼の(やぐら)は、無人のようだ。

ベルタさんや松鴎丸はじめ、狙撃班が油断なく見澄まして近づいたのだが、すでにそこにいた物見は、泡を食って逃げてしまったらしい。

「ふん、有象無象どもめ」

柿崎景家は兵をやってそこに弓兵を配置させしめ、逆に見張りとした。そこからみると、本丸も同様の無人に見え、死んだように静まり返っていた。だが晴景を人質とした海童たちは、必ずあの中のどこかに潜んでいるのだ。

この春日山城急襲も、いよいよ最後の局面だ。虎千代は本丸門前に到ると、総員に武器を検めさせ、突入の準備を促した。

「頃は良いか」

僕やラウラ、真紗さんが頷くのを見届けると虎千代は下知した。

「門破れ」

こうして僕たちは何の妨害もなく、屋敷内に入った。

(ここが春日山城の主殿か)

いわばこここそ、首相官邸のようなものだ。

僕は堂々と正面から入り込み、虎千代と辺りをうかがった。生きものの気配はまるでしない。そこには、どこか茫漠(ぼうばく)としただだっ広い薄暗闇が展開されているばかりだ。

「おかしい」

とは、虎千代は言わなかった。ただ訝しそうに夜目を利かせて、寒気が(こご)った板の間や、ほの暗い外明かりを浴びている濡れ縁に目をやるばかりだ。

「確か、だ。母上は逃げてきた、そう言うていたな」

虎千代は黒姫たちに確かめた。そうだ、虎御前は春日山城が占拠されたその日に、不穏な情勢を察して落ち延びてきたのだが、それはこの主殿から脱出してきた、と言うことなのだ。

夫人のことをそのまま奥、と言うように、虎御前もこの為景以来の居館のどこかに詰めていたに違いない。また現当主、晴景にも奥さんがいるはずだ。つまり、彼女たちがいる以上、この屋敷が全く無人と言うことは、有り得ないはずなのだ。

「行くぞ。皆の者、女房衆の発見を急ぐべし」

「心得ましたですっ!」

「じゃあ、あたしたちもね?」

室内用の武器を用意しながら、真紗さんが尋ねる。

「ああ、顔は備前が見知っておろう。ベル殿は海童の一味発見に全力を」

「分かりましたですう!」「OK虎ちゃん!」

「ラウラたちは、外から回ってくれ。松鴎丸、外へ、不審者が抜け出るのを注意すべし。不審なものがおれば構わず撃て」

「ああ」「任せてください」「心得申した」

三人は同時に、返答した。

全員の意気が揃うのをみると、虎千代は満足げに頷いて、

「ではまた、奥の間で会おう。夜明けは近いぞ」


虎千代は大広間を通り、一気に主殿に入るルートを選択した。溜まりの間を通り、ほぼ真っ直ぐに晴景のいるはずの場所へ向かう。

不思議なものだ。ここまで通ってきた場所は、時代劇で言えば諸侯が集い評定をする間だったり、主人が客を引見する間だったりするのだが、人がいないとそこはまるで大きな空白そのものであるかのように、がらんどうであり過ぎる。どこか不自然である、と言っても過言ではない。

「城暮らし、と言うのはかようなものよ。日中は客が絶えぬことはないが、いくさでもない限り、人が満ちる、と言うことは案外少ないからな」

僕の実感に、虎千代は苦笑で応えた。お城で暮らす人ならではの見解だ。恐らく、お父さんのときからそうだったんだろう。

「どうもここまでで、誰もおらぬようだ」

虎千代は、空位になった上座を眺めて言った。普段なら、そこでこの城の主が、訪問者を検見(けみ)するはずの場所だ。

「連中はもう、逃げたのではないですかねえ?」

黒姫もそうは言ったが、訝しげな表情だ。僕たちは、最悪の場合、ここに立て籠もられ、火をかけられるかも知れない、くらいの覚悟でやってきたのだ。それがこうもあっさり、奥まで来れるとなると、拍子抜けするしかない。

「すでに我らの襲撃を察知していた、と言うことか」

虎千代もいまいち、納得しきれていない顔だ。と、言ってこの広間の向こうにあるのは、晴景の寝室か納戸かくらいである。

「景虎さまあっ、(くりや)の納戸に閉じ込められていた方々を、発見しましたですう!」

真紗さんと朝秀の組が、人質を発見したようだ。

「閉じ込めたのは、海童たちと見て間違いないわね」

真紗さんが女房衆から聞いた話によると、城の下手(しもて)で火の手が上がったとみるや、武装した男女が数名現れて、

「急ぎ、納戸に籠れ」

外の様子に構うな、死にたくなければじっとしてろ、と脅されたのだと言う。指揮したのは、やはり海童のようだ。

「と、言うことは連中はそのまま逃げたのか?」

虎千代の問いに、朝秀はふるふると首を振る。

「分かりませんですう。ただ、皆さまから(うかが)った話ではここに、わたしたちが攻め込んでくると脅されたとのこと」


納戸に女たちを圧しこめると、彼らは外から帰ってきた金色の髪をした大柄な男と合流したそうだ。ゲオルグが戦況を伝えたのだろう。

すると海童らしき男は、

「ほう、鬼姫が来たか」

いかにも嬉しそうに隻眼を細め、全員に支度を命じたと言う。


「それはいくさの備えにてはなかった、と言うことか」

「はいい。閉じ込められた方々はいつここで殺し合いが始まるか、恐ろしくて息を潜めていたようなのですけれどお」

彼らの姿は、居館内にはない。ここまでの戦闘中も、姿を現したのは、海童に戦況報告に来た、ゲオルグただ一人に過ぎなかった。

「ったく、やる気あるのかしらねえ海童さん」

真紗さんなどは、腹立たしげにため息をついていた。いや、やる気がない方が、こっちは都合がいいんだけど。

「戦う気はない。されど、城を獲ってわたしたちを待ち受けていた、か」

虎千代がそのとき、意味ありげにつぶやいた。真紗さんの何気ない一言が、軍神と言われた彼女の直感を何らかの形で刺激したようだ。

「に、しても兄上じゃ。兄上の姿は無きか」

と、虎千代が言った時だ。

「景虎様っ、早く!一刻も早くお助けをっ!」

一人の年老いた女房が人に伴われて、虎千代の前にふらふらと現れた。彼女はなんと、手傷を負っていた。


現われたのは、晴景の妻に仕える乳母(めのと)だと言う。真紗さんたちが解放した女房衆たちの中にいたのだが、怪我を負わされていたせいか、発見が遅れたのだ。

その女房が息も絶え絶えに訴えた内容こそ、僕たちを驚かせた。

「兄上が?」


海童が立ち去った後で、女たちが閉じ込められた納戸を開けたものがいた。

「お館さま」

最初は晴景自ら、軟禁された自分たちを解放しに来たのだ、と思っていた女たちは、その姿を見て凍りついた。

晴景は鞘を払ったままの抜き身を、片手に引っ提げていたからだ。

「いいから来よッ!」

晴景の目が、血走っている。その晴景が口角泡を飛ばして、女の名前を呼ばわった。それはなんと、晴景の正室だった。


義姉上(あねうえ)を?」

傷の手当てを受けながら、乳母は何度も頷いた。


晴景の正室は言うまでもなく、あの上杉定実の娘である。別人の形相と化した晴景は、怯える自らの妻の喉首(のどくび)に白刃を突きつけると、髪の毛を引きずるようにして連れ出して行った、と言うのだ。

「無体はおやめをっ!」

取りすがった乳母を、晴景は斬りつけた。寸でで女たちがそこに覆いかぶさって庇ったが、あの温厚な晴景が年老いた乳母を、手討ちにせんばかりの勢いだったらしい。


「信じられぬ」

虎千代は、うなるように言った。続く乳母の話によると晴景は虎千代が春日山城に攻め込み、自分の首を欲していると、勘違いしていたようなのだ。それを訊き、さすがの虎千代も痛みに堪えかねたように、顔をしかめた。


「もはや、妹ではない。景虎の名を負った時点であやつは、悪鬼じゃ」

金切声を上げ、晴景は叱咤した。

「この上は夫婦、自害して果てん」

泣き叫ぶ自分の妻を殴り、引き倒して、晴景は抱え上げるようにして奥へ消えた。


「奥とは、寝室か?」

黙って乳母は、真上を指さした。そここそ、春日山の真の山頂、この越後府内が果てまで見渡せる場所である。

「天守台か」

虎千代は、薄く白んできた空を見上げた。


身が切れるような海風が、夜を吹き飛ばしている。夜の闇を司っていた雲はほとびて、今はほの(くら)い青が、頭上を覆っていた。呼吸器に沁みるほどの寒風に、潤む目をこすって見上げた先に、その春日山最上部がそびえていた。

目指すは天守台は、二階層の板葺(いたぶ)き屋根だ。本殿に比べて質素だが、頑強なつくりの堀立柱で支えられている。戦国大名ならではの非常時造りの物見櫓(ものみやぐら)である。

往時は為景がここで、越後治国の想を練ったのだろうが、病弱の晴景は険しい坂と急な階段に守られたこの場所には、近づくことも珍しかったようだ。しかし今、そこはどろどろと(かがり)の火が焚かれ、妖しく躍る影が映っている。

「ついさっき誰か、あそこに籠ったようです」

ラウラたち外から(まわ)った班が、何か争うような物音と女性の悲鳴、そしていかにも妖しく盛る室内の火が灯るのを確認していた。

(あわ)れ晴景公、まさか御乱心を…」

と言いかけた朝秀が、虎千代を(はばか)って、あわてて口をつぐむ。虎千代は、皆を下がらせると、一人、進み出た。

「わたしだけで行く。皆は本丸の方を、頼む」

「僕も行くよ」

すかさず僕は進み出た。肉親同士、余人を交えずと言っても、虎千代一人で行かせるのも危険だと思った。

「お兄さんと、ちゃんと話がしたいんだろ?」

「ありがとう、真人」

一瞬はっとした顔をしたが、虎千代はその言葉で察したようだった。

血を分けた兄妹の関係とは言え、遠く年も離れ、身分すらも隔たっている。そして今は、家督騒乱の当事者同士だ。二人の溝は、本人たちだけでは、むしろ埋まりはしないだろう。

「わたくしたちと松鴎丸さんたちは、ここで見張りますですよ」

海童の残党が潜んでいる可能性も高い。黒姫たち軒猿衆と松鴎丸の狙撃班がぐるりを取り囲み、唯一の入口にはラウラとミケルがついた。

「真人、ここは任せろ。鬼姫と決めて来い」

「二人とも気をつけて」

短剣を腰に携えた二人は油断なく壁の両側に貼りつき、僕と虎千代を送り出してくれた。

望んだ形ではなかったが、ついに兄妹の対面だ。


僕と虎千代は頭上からこぼれ落ちる幽かな明かりだけを頼りに、黙々と急階段を上った。上階の展望スペースは、雨風もしのげる板の間になっているようだが、戸を開け放っているようで、日本海から上がった潮風が、風穴に吹き込むようにして容赦なく侵入(はい)りこんできていた。

いかにも非常用と言う、目の前に立ちはだかるほどに急で狭い階段を、僕と虎千代は黙々と上がる。屋内なのに身が切れるような寒風が、虎千代の前髪を、しきりになぶっていた。

この先に晴景がいる。実の兄が武装して待ち受けていると言うのは、どんな気分だろうか。それとなく黒姫たち家来をも遠ざけた虎千代を、とにかく一人にさせたくない、と僕は思った。連れていかれた定実公の娘の安否はまだ定かではないが、照明の点けられた天守台の二階は、不気味に静まり返っている。

「何か、変な音がするね」

僕がぎくりとして思わず足を停めたのは、そのときだった。晴明に教わるままに僕は印を切り、魔除けの呪を唱えていたのだが、雲を晴らして清かに澄み始めた朝風の中に低くうねるような異様なものの音が混じっていることに気が付いたのだ。

「いや、これは…声かな?」

僕がつぶやくように言うと、虎千代もぎょっとして足を停めた。そうこれは音ではなく、声だ。低くうねるような、地鳴りにも似た幽かな音だが、これには一定の節と韻律(いんりつ)があり、誦経(ずきょう)(経文を暗誦(あんしょう)すること)の声のように僕には聞こえたのだ。

「誰かお経を読んでる?」

「兄上か」

虎千代は思わず見えぬ階上を見渡そうとした。まるで線香の煙のようにか細い()だが、その声は確かに、僕たちの行く手から漏れてきている。経文に精しい虎千代は目を閉じて僕よりさらに耳を澄ませていたが、やがて小さく手を振ると、

「行こう」

構わずにまた、段に足をかけた。

「どうしたの?」

少し、間があった。

「いや」

何でもない。だが、案ずることはない。

そんなことを虎千代は、どこか要領を得ない口調で言った、と思う。

「それより見ていてくれ、真人。これから、兄上と話す」

意を決した口調で虎千代は言うと、柄に手を当てた。

「いざと言うときは、頼む」

珍しく虎千代は、僕に言った。それは晴景を自分が斬るのを止めてくれ、と言う意味だったのか、それともなりゆきで兄を斬ってしまっても自分を支えてくれ、と言うつもりだったのか、それは分からない。

意外に広い板の間に戸はなかった。

僕たちの気配を感じて、勾欄(こうらん)に手をかけていた素襖の男がこちらを振り向く。足元でさめざめと打掛を着た女が泣いていた。無惨なほど痩せこけたその男の目が、おぼめく炎をありありと映して不気味に潤んでいた。

「来おったか、この女畜生(めちくしょう)が」


「げにお前と言う女子の恐ろしきよ、景虎」

男の声はどこか上擦り、震えていた。尖ったあごに比して意外に分厚い唇から、(かに)(あぶく)を吹くように白いものがこぼれだしている。

「いかに汚き手管を用いて、ここまで攻め込みしか。この晴景が、父の衣鉢を継がんと、この春日山にどれだけ心血を注いだか、おのれには分かるまい。女子の癖に、いくさばかりを能にしおって。よいか。末子(ばっし)鬼子(おにご)ゆえ、寺へ放り込んで坊主にしてしまえばよい、と親父に言うたは、この晴景よ。それがのうのうと、わしの座を狙おうとはッ。どいつこいつも馬鹿にしおってッ!わしが嫡男なのだ!いくさが強いばかりでなぜ皆、女子のこやつを盛り立てる!?くそおおッ、くそおッ!おのれさえッ、おのれさえ長尾家に産まれなければッ!」

(なんだ…?)

思わずあっけにとられた。

異常と言う他ない。晴景が年若の妹にぶつけてきたのは、腹の底からの罵倒だった。何年、いや何十年と降り積もってきたであろう嫉妬と憎悪、何より疑心暗鬼に震える声は、人間の風貌をこれほどまでに歪ませてしまうのか。ともかくも目の前にいる男は、ただ完全に気がふれてしまっているようにしか、僕には見えなかったのだ。

「何とか言わぬか。知っての通りこの兄が、お前の命をずうっと狙っていたのよ。憎いか、この兄が憎かろう!殺したかろう!何とか申さぬか!ああああああッ!?」

鬼の形相で絶叫する腹違いの兄を、虎千代は、どこか憐れむような表情で見ている。

「ヒャッ…ハハハハハッ!フフフフフウ、良かろう!良かろう!この春日山、わしの首とともに呉れてやろう。ここでわしを斬るがいい。今、我が妻を(あや)めようほどになあ」

「ヒイッ」

と、晴景は自分の妻の髪を引っ掴んで持ち上げた。助けを求め、絶叫するその咽喉元に銀色に濡れた太刀先を突きつける。

「まさか実の兄は斬れぬ、とは言うまい?この国が欲しかろう。されば、国主の座とともに、血濡れた兄殺しの汚名をも被るがいいッ」

「やめろっ」

僕は晴明に教わったままに、風の印を切った。いざとなったらここに火を放っても、人質だけは、救おうと思ったのだ。

すでに非常事態だ。僕と虎千代の誤算でもある。まさかここまで手遅れだとは。残念だが、間違いない。話し合いどころか、晴景はとっくに、理性と言うものを喪っていたのだ。

「今さら何を惑うか。景虎、この城が欲しいのであろう。そしてわしが邪魔なのだろう。だから、余計な手間を省いてやろうと言うのだ。まずはこの女からッ!」

「殺すな」

分かった、と虎千代が言ったのは、その瞬間だった。

「義姉上は、無関係です。そもそもは越後守護、上杉定実公より、兄上に嫁した身。兄上がそこまで言うならば、そのまま実家に帰しまする。その代り兄上が自裁す、と言うならば、この景虎が介錯を」

「ほッ、ほう!ほうッ!ほほおおッ!」

すると妻を刺そうとした晴景の手が停まった。狂気に潤んだ目が、得体の知れぬ歓喜を帯びて再び虎千代を捉えたのだ。

「そおかあッ!わしを斬るかッ!?うふう!ふふふぅッ、わしを斬ると申したな景虎!良かろうぅッ!良かろうッ!ならばそうしてもらおうかッ!」

もはや完全な狂人だ。晴景は嬉々として叫ぶと、刀を棄て虎千代の前に座り込んだ。

「斬れッこの兄をッ!」

「虎千代…」

声を出してから僕は思わず、自問した。これは、仕方のないことなのか?やはり、虎千代は、実の兄を殺さなくてはならないのだろうか?

虎千代は応えなかった。ただ、無言で僕の方を見ただけだった。そのとき僕は、気が付いた。同じ、眼差しだった。あいつがついさっき、いざと言う時は頼む、そう僕に言ったのと。

ゆっくりと腰を落とし足を開くと、虎千代は柄に手をやった。その冴えきった目つきは、もはや肉親をみるものとも思われない。

「殺せ殺せこの外道がアッ!殺すがいいッ!」

半狂乱で叫ぶ晴景の首を、一撃で抜き撃つつもりだ。

虎千代の居合なら、一瞬で片が付くだろう。

でも、本当にそれでいいのか?

「兄上、(かたじけな)し」

虎千代は軽く目礼すると、佩刀(はかせ)鯉口(こいくち)を切った。

「お覚悟」

いいのか。僕は、それで。虎千代の人生が取り返しがつかない選択をしてしまう、かも知れない。そんなとき、身を挺して守るつもりで僕は、彼女にここまでついてきたんじゃないのか。虎千代だってそれを(たの)みにしてくれていたはずだ。

ずっとだ。

虎千代は、お兄さんを信じていた。鬼小島や、綾御前、誰が何と言おうと、兄が自分を殺そうとしている、と言うことなど、虎千代は信じようとしなかった。結局、そこで待っていたのは、残酷な現実だった。でも虎千代はやっぱり、実のお兄さんを殺したくなんか、ないんじゃないか。晴景が本当に、虎千代を憎んでいたとしてもだ。

(やめろ)

やめてくれ。僕だって、そんな虎千代、見たくない。

「うフわハハハハハッ!殺せえいッ!早く殺してくれえいッ」

あらぬことを絶叫する晴景の首が血しぶきを上げて、宙に舞う。

そう思えた、瞬間だった。

長刀を抜刀するかに見えた、虎千代だが。

なんと手にしたのは、脇差だった。なんと彼女は長刀を抜くふりをして、脇差を抜き払い、片手で振りかぶると、手裏剣を撃つ要領で。


投げたのだ。


脇差は一直線に、晴景の脇を通り抜けてはるか背後に飛んだ。開け放った部屋の隅の、天井付近である。途端、

「ギャッ」

と言う獣じみた悲鳴とともに、大仰な音を立てて板の間に何かが墜落(ついらく)してきたのだ。それは左肩を脇差で貫かれた、黒装束の男だった。

「真人、兄上たちを」

虎千代の声が降り、僕はようやく我に返った。男が落ちてきたとみるや、なんとあの半狂乱だった晴景が、糸が切れた操り人形のように気絶し、ばったり前に倒れこんだからだ。

「ううううう…くっそおッ!おのれえいッ!騙されているふりをしおったなッ!」

「騙されている…ふり?」

半信半疑で聞いた僕に、虎千代は頷いた。

傀儡(くぐつ)の術よ。尾張で見たであろう。さっき真人が聞いたあの低い()は、この男が兄上に術をかけていたときのものに相違なし」

「まさか。さっきのは、それで…?」

やっと、虎千代の不審な態度の謎が解けた。虎千代は、すでに気づいていたのだ。傀儡によって晴景が、乱心せしめられていたことを。

「あの偈を聴いた瞬間、ぴんと来たぞ。あれには我ら、再三苦しめられてきたからな」

虎千代は長刀を引き抜くと、虫けらでもみるような目でのたうつ男を見下ろした。

「久しいな、自在」

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