刀が使えない?!傷を負った虎千代、戦えるのは僕だけ・・・どうする?
虎千代の指示でなるべく細かい路地を選んで逃げた。その間にも男たちの声が追ってくる。しかし虎千代があわてていないせいか、不思議と恐怖感はなかった。
「人数が集まる前に下京に落ちるぞ。さすがに多勢では勝ち目がない」
「う、うん」
その辺りの判断はさすがだ。僕も恐怖で足腰が動かずにいたが、虎千代がてきぱき局面を見極めて動くのでいつのまにか何とか走れるようになった。
「とりあえずどこぞへ潜もう。お前はともかく女子の装束では走れぬし、それほどの働きも出来ぬ」
あれで? と思ったが、やはり虎千代でも、今の格好が心許ないようだ。
「だからあの場はああせねば逃れられなかった。普段の装束なれば、あのまま若軒の素っ首ひとつ、かすめ取れたのだが」
はったりでもなく虎千代は、淡々と僕に言った。あのとき。わざわざ虎千代が当て身で倒した男の首を切り落として見せたのは、いわば相手の意表を突く脅しだったのだ。
それにしてもその一瞬。足軽の首を刈って立ちふさがった虎千代の迫力に若軒以下誰も手出しを出来なかった。あの低く静かに響く声にすれっからしの足軽どもですら居すくんで、思わず後ずさりをした。
あれが大将の器と言うものなのか。血塗れの首を引っ提げて、太刀を構える虎千代はまるで別人みたいに恐ろしかったけど、どこか心静まるような美しさがあった。
新兵衛さんの言うように虎千代に武士として、多くの人を従わせる威光がある、と言うのは、そういうことなのかもしれない。
あのとき。僕の身に走った寒気は疑いようもないものだったにしても―――
「なんじゃ、いかにしたか。我が顔に何かついておるか?」
そう言う虎千代は、さっきまでの女の子の顔に戻っている。
「な、なんでもないよ」
「妙な奴じゃな」
虎千代は不思議そうに顔をしかめた。
「ならよいが。そうじゃ、そう言えばおまえにこれを返しておかねばな」
と言って、虎千代が僕に渡したのは、あの人斬り包丁だ。げっ。そう言えば、こ、これってついさっき人の首とか手とか切り落としたやつじゃないか。
「い、いいよ。虎千代が持ってれば。僕だと満足に使えやしないし」
「いや、これはもはや脅しにしか使えぬ。腰が伸びて肉は斬れぬゆえな。やはり、大和鍛冶のなまくらよ。得物がこればかりとは、しくったわ」
「腰が、伸びた?」
「ああ」
虎千代が説明してくれた。腰が伸びた、と言うのは衝撃で刀が曲がって反りがなくなったと言うことだそうで、あまりに硬いものを斬ろうとするとそうなるらしい。
「案ずるな。こうなれば鞘にも収まらぬが、とりあえず放っておけば半日がとこで元には戻るわ。だが頼みの綱の獲物がこれでは、これ以上の働きは出来ぬ。若軒の人数が集まる前に何とか下京の煉介に渡りをつけたいが」
とは言うものの、と僕たちは辺りを見回した。京都の街は一見鄙びているようで、入り組んで広いのだ。町小路の中へ潜り込んでしまうと視界が土塀や民家で遮られ、現在位置が分からなくなってしまう。
と言ってうかつに大通りに出たら、たちまち若軒の人数に見つかってしまうだろう。
「まだまだ日が落ちぬな。暮れてくれば闇に紛れて、人波にとけ込めるのだが」
虎千代は低い生け垣の民家へ裏口から入り込むと、土間に下げてあった編笠を二つと小袖を一枚、盗んできた。
「さりとて動かぬわけにもいくまい。様子をうかがって大路へ出よう。血刀は目立つゆえ、この小袖に包んで鞘ごと隠せ」
「う、うん」
時刻はそろそろ夕暮れにさしかかる頃だ。辺りを憚りながら僕たちは再び移動を開始した。紫色ににじんだ雲の彼方に大きな塔頭の影がみえる他はどこまで行っても同じ路地のようで、得体の知れない不安に駆られる。僕たち以外の人影をみるのは稀だが、遠くで騒ぎの声が聞こえると若軒の足軽たちの包囲がどこまで迫っているのか、心許ない気分にすらなってくる。
煉介さんたちはどうしているだろう。黙って出てきてしまったことが今更悔やまれる。
「大路に出てもそう不安がるな、京は人が多い」
僕の顔色を見ていたのか、わざと虎千代は明るい声を出した。
「いざとなれば我が支えるゆえ、お前はともかく走って味方に急を報せよ。なに、一人でもこのなまくらがあれば数刻は立ち回ってみせるわ」
「虎千代・・・・・」
そんなわけないじゃないか。虎千代は気丈に言ったけど、刀は使いものにならないし、今の姿では満足に立ち回れるはずがない。
「案ずるな。満足な刀がないなりにもやりようがある。この格好でもさっきのていたらくのようなお前よりは幾分ましじゃ」
確かに虎千代の言うとおり、こんな僕が役に立つか。無理だ。僕の実力じゃあの若軒たちに立ち向かったところで相手になるはずもない。でも。でもだ。
「・・・・馬鹿言うなよ。虎千代だけ置いて一人で逃げるなんて、そんなこと出来るわけないじゃないか」
半ば反射的に僕は言っていた。
「と、虎千代は女の子なんだろ。こういうとき普通、かばうのは男の方じゃないか」
「虚仮な。お前ごときが一人で身を守れるか」
「や、やってみないとわかんないだろ」
もちろん、自信はなかった。刃物と血の滴るあの場にいて僕は凍りついたようだったし、なにが出来るとも思えない。だけど、やるしかない。いくら場慣れしてるとは言え、やっぱり虎千代は女の子なのだ。
「大丈夫だよ、僕は自分で何とかする。それより自分のこと大事にしなきゃいけないのは虎千代の方だろ。虎千代、お前のことを待ってる人が僕より沢山いるじゃないか」
虎千代は言葉に詰まって押し黙った。でも次の瞬間、僕は殴られた。僕の頬に鈍い痛みが走ってそれからようやく彼女に殴られたのだと気づいたくらい、それは鋭い一撃だった。
「阿呆」
と、虎千代は言った。
「その場の情に任せて詰まらぬことを申すな。お前が去んで置きざられる人間が確実におろうが。我ばかり生き残っては絢奈に顔向け出来ぬ。数の問題ではないわ」
それに、と虎千代は続けた。
「こちらも死ぬつもりで申しておるわけではない。常に死する覚悟でしていると言うだけの話。さもなければああして、悪党とは言え人の首も斬れまい」
憶えておけ、と言うように僕の肩を掴むと、虎千代は言った。
「犬とも言え、畜生とも言え、武士は克つことこそ本にて候。何はさておき、生きた者の勝ちぞ」
そのときの虎千代の瞳の色の深さを、僕は忘れることが出来なかった。同年代の女の子の目ですら、僕はじっくりのぞき込んだこともなかったんだけど、その眼差しには目の当たりにしたとき、ふと誰をも立ち止まらせるような得体の知れない迫力があったのだ。
その底知れない迫力はさっき虎千代が、足軽の首を切り落としたときより、もっと強い。
そこには数知れない記憶からの様々な色が塗り込められていたのかも知れない。
そんなことを直感的に僕に思わせるほど―――
それは複雑な色だった。
そうこうしているうちに日が陰ってきた。あまりに二人の時間に慣れすぎていたせいか。やはり僕たちは油断していたのだろう。見慣れたような風景が現れ始め、くちなは屋へ戻れる希望が湧きだした。
路地の様子をうかがおうと、辻の角に出たとき、網笠をかぶった武士とぶつかりそうになった。
「わっ」
すると、その出くわした男が体当たりするように。
抜き合わせ片手で斬りつけてきた。不意打ち、一番反応しづらい間合いの攻撃だ。
なすすべもなく、その一撃が虎千代の小さな身体に叩き込まれた。
僕は、真っ正面から虎千代が斬られたと思った。しかし、それは違った。一瞬早く虎千代は攻撃に合わせて飛び上がっていた。斬撃をかわして身をひねった反動を利用して、相手の剣を振りおろした肩口を蹴ったのだ。
「ぐっ」
虎千代は距離をとって体勢を立て直そうとする。切り下ろしをいなされた相手も同じだ。
跳び蹴りでバランスを崩した虎千代も危うく、僕の身体にぶつかって受け止められた。
「虎千代っ!?」
「案ずるな、大事ない」
とは言いつつも刃を避けきれなかったか、その小さな左手の甲から血が滴っている。小袖の肩口の布が破れて、傷口から沁みだした血が滲みだしてきていた。
「肩をやられてる」
「大声を出すな、剣は振れる」
と、虎千代は相手から視線を外さずに、言った。
「それよりあやつ、使える」
狭い路地だ。男は片手に剣をぶら下げたまま、僕たちを見下ろすようにしてたたずんでいる。そのゆっくりとした仕草は、これから人を殺す人間の雰囲気とは思えない。
虎千代の言うように男は、若軒たちとはどこか違う空気を醸し出していた。素肌に胴丸、といった足軽たちとは違い、きちんと着物は来ていながらもどこか身軽そうな格好をしている。ブッ裂き袴に、紺の袖なし羽織。どのような場所でも機敏に動ける服装のようだ。
「旅の兵法者か」
虎千代は言った。いわゆるプロだ。
「鍛えた剣で、女子を斬るか。腕が泣くぞ。はした金で、無骨の若軒めに雇われたか」
相手は応えはしなかった。代わりに、無言のまま足音もなく間合いを詰めてくる。
「さがれっ」
僕は突き飛ばされた。その虎千代の右手を斬り落そうとするかのように、上段から大振りの右袈裟が狙ってくる。
男の剣は、煉介さんのものに似ていた。無駄がなく、決して大振りをしたりはしない。刃筋が立てて直接の急所よりも相手の動きを停める手足の血管を狙う。振り下ろされた刀は、風を切り裂く音がする。命を狙う不吉な風鳴りがした。
一閃は虎千代の小袖の端を切り落とした。どうにかかわしたという感じだった。
そのまま男の攻撃は流れるようで終わらない。
さらに踏み込んでの左の切り上げ。刃は虎千代の左手首を掠める。丸腰のままの虎千代は、反撃する術もなかった。さらに右の横薙ぎに切り立てられると、さすがに足場を失いかけた。
バランスを失った小さな身体を狙って正面から、諸手突きが身体ごと入り込んでくる。
肩をひねって、ようやく虎千代は串刺しを避けた。でも、さっき斬られた肩の肉を抉られる。その反動をついて右の指拳で虎千代は相手の咽喉を狙ったが、間合いが遠くて当たりが浅かった。
「ふん」
その攻撃をいなして間合いを詰めた男は柄を握った手ごと、虎千代の身体に体当たりした。逆効果だ。小さな身体は衝撃を受け、路地の壁に打ちつけられ、一瞬、呼吸が停まって動く間を失ってしまった。
その頭を真っ向から狙って、もう一度、上段の一撃が振り下ろされる――
もうだめだ。見ていられない。
「まっ、待てっ」
「おっ、お前」
気がつくと僕は、曲がった刀を持って相手に斬りかかっていた。虎千代が殺されると思った。無我夢中だ。振りおろした一撃は空振り、かすりもしなかった。足軽とも違う。相手はプロだ。流れるように動き、相手の攻撃動作に僕は巻き込まれた。
たちまち、反撃の拳を顔面に喰らう。
ごりっ、と顔の真ん中で鼻骨が肉に突き当たる音がし、吹き飛ばされた僕は思いきり壁にぶち当たった。背中を打った衝撃は内臓に響いて脂汗が浮き出た。
それでもなんとか踏ん張ったが、いなされて殴られただけで気が遠くなった事実に愕然とした。
そこで男はようやく、僕に気づいたようにみえた。小さく舌打ちして剣を構えなおす。切っ先が僕に向いた。よかった。これで、完全に標的が虎千代から僕に代わった。
やるしかない。気が遠くなりながらも僕は、必死で自分に言い聞かせて立った。
涙とともに熱い痛みが奔る。ぼたり、と音を立てて膝に鼻血の塊が滴ったのが判った。
「来いよっ」
「阿呆、なにをしておる。逃げぬかっ」
虎千代の声だ。痛みに耐え切れず目をつぶると、その声が近く遠くと反響する。
全力で柄を握りしめ、切っ先を相手に向ける。
こうしていると、僕でも身が引き締まる気がするから不思議だ。
強く握るほど切っ先は無様にぶれた。重たい剣は、僕の腕にのしかかって思うようにならない。腰が伸びて人を斬れるかも判らない剣。でも、鉄の棒だ。殴れば、それなりの効果はあるはず。そして当たらなくたって、虎千代が逃げる時間稼ぎにはなる。
構えで腕が判ったのか、男は攻撃してきたりはしなかった。
かすかに間合いをとって、僕の喉辺りに向けた切っ先をわずかに開く。かかってくるように誘いをかけているのだ。
やるしかない。
「わあああっ」
腹の底から叫んだつもりだが、かすれて声にならなかった。
すくむ身体を励まして、刀を振り上げる。
男の身体に体当たりをするように、近づく。足を踏み込むごとに死へ近づくのだ。
でも、不思議と死の恐怖はなかった。
感覚はどことなく水を漂うみたいに無感覚だった。
痛みと涙で歪んだ意識には、びゅううっ、と言う風の音しか届きはしなかった。
切っ先を男の身体めがけて正面から斬り下ろす。
ぶん、と重い刃鳴りが目の前を通り過ぎていく。
刃は、男に届きもせず、空を切った。
大分近づいたつもりが、まだまだ間合いが足りなかったのだ。
(しまった)
大振りの一撃をいなしつつ、男は篭手を撃つような要領で僕の剣を峰から叩き落とした。
びん、と芯まで手が痺れ、暴れ回りそうな衝撃が脳天まで響くのが分かった。もう駄目だ。あっ、と言う間にやられるかと思ったけど、こんなにあっけないとは思わなかった。バランスを崩した僕の首筋はガラ空きだ。そこに男の剣が叩きこまれる。そうしたらそのまま首が落ちて、もう何もかも、終わってしまっていたはずだった。
でも、次の瞬間だ。
刃は僕の上に落ちてはこなかった。
「おのれっ」
膝をついた僕がどうにか振り返ると―――
なぜか飛びかかる虎千代の小さな身体に押され、男がバランスを崩すのが見えた。
叫ぶ間もない一瞬だ。
それが、なぜかゆっくりと見えた。
虎千代は武器を持っていないはずだ。
長身の男が虎千代の生半可な攻撃で態勢を崩すとは思えない。
ふと、その首筋辺りに夕陽で何かが煌めいている。あ、あれは。見世棚で買ったべっ甲細工の簪だ。それが男の頸の肉を貫いて深々と突き刺さっていた。
「ぐうっ」
それは反撃に十分なダメージと動揺を男に与えた。
今だ。
男が咽喉を鳴らして呻きながら思わず急所に突き立った簪を引き抜こうとすると、その腰にあった脇差がすらっ、と引き抜かれ、今度は夕日に白刃が煌く。
脇差を抜いたのは虎千代だ。
あっ、と男が剣を振り上げ反応しようとした瞬間、虎千代は逆胴を払った。
どちらが速かったのか、同時だったのか最初は判らなかった。
でもだ。男が反応するまでは、虎千代の動きからさらにひと動作遅かったのだ。
その間に虎千代は、大きく足を開き、腰を沈めて渾身の一撃を極めていた。
もう、次の手合いはなかった。
ボン、と弾力のある、硬いゴムボールを思いきりアスファルトに叩きつけたような音。
人を斬る音はそんな音がするのか。
男の身体がぐるぐる回転しながら血と肉を吐いて暴れると、その凄まじい一撃が男の命を奪ったのが確実に見えた。
まさに致死の一撃だ。
もがくように足をもつれさせて男が倒れると、血の臭いのする砂煙が立ち上った。
うつぶせに倒れたはずの男は、もう赤黒い濡れたぼろきれでしかなかった。
その身体は真っ二つに寸断され、二度と立ち上がることはなかったのだ。
「・・・・・殺ったか」
切っ先を振り下ろした姿勢のまま、虎千代は肩で息をしていた。それは残心をとっていたわけじゃなかった。さっきの一撃で体力を使い果たしたのだ。だってあれから一時間近く、頼れる武器もなく命を狙われて戦い抜いてきた。無理もない。虎千代とは言え、死の恐怖に晒されてストレスの負荷は計り知れないはずだった。
やがて血と脂で濡れた刃の切っ先が頼りなく震えだした。ついに堪え切れなくなったように刀を取り落とし、虎千代は膝をつきかけた。
倒れかかるその身体を僕はどうにか受け止めた。
「逃げろと言うたに阿呆が」
こころなしか震える声で言うと虎千代は気丈に微笑んだ。
買ったばかりの小袖も結い上げた髪も血に塗れていた。
「死んだか」
くどいように、虎千代は訊いた。僕は肯いた。相手はもはや、どう見ても立ち上がることはない。すると悪寒が走ったように、僕の腕の中で虎千代はぶるぶると震えた。虎千代の身体の震えを肌で感じて、僕はまるで自分の身体を焙られるみたいな、いたたまれない気分になった。初めて分かった気がした。その小さな身体は、決して剣豪のものでも軍神のものでもないのだ。虎千代だって、やはり、僕と同い年の女の子なのだ。
「この様では、軍神も遠いな」
強張った頬だけで苦笑すると、虎千代は返り血で濡れた指で地面を指した。
「剣を拾え。あの男のものが使える。まだ追手が来る」
「おったぞっ」
ざわっ、と、周囲に人の気配がしたのは次の瞬間だった。僕は男の刀を拾った。でも、虎千代は体力を消耗し尽くしていて、しばらく戦えそうにない。走って逃げることもできそうにない。僕しかいない。
(殺されても、やるしかない)
さっきのように無駄なことは分かっていた。でも、虎千代は戦えない。
戦えるのはもう僕しかいないのだ。
そうこうしている間に、人数が集まってくる。足軽たちの群れは二十人近い。狭い路地を四方から固め、僕たちがどこにも逃げることが出来ないように包囲を狭めてくる。虎千代も手を打つ気力を失くしたのか、なすすべなく僕の腕に捕まって立ち尽くしている。
やがて僕と虎千代は追い詰められ、壁際に詰められた。
「潮時や」
群れの中から現れた若軒が、唇の端に白い泡を浮かせて楽しそうに叫んだ。
「ここで二人仲良う首にしたるわ」




