一夜春日山抜き!海童たちの姿は…?
うなりを上げて飛んできたのは、恐ろしく頑丈そうな投槍のような矢だった。虎千代が地に立った矢を引っこ抜いてみたが、鏃は鋭い四角錐形の長大なもので、まともに喰らえば甲冑どころか、標本の昆虫のように地面に刺し留められるほどのものだった。
「あれはロングボウ、中世イングランド兵を代表する兵器の一つね」
真紗さんが言った。主にイチイや楡の木で造ると言われるこの単弓は、十三世紀、十字軍遠征において目覚ましい戦果を挙げ、ヨーロッパを席巻したとされる。西洋の分厚い鋼の鎧を貫通し、最大射程距離五百メートルに達したと言うこの兵器は、マスケット銃全盛になった十七世紀においてもなお戦場で威力を発揮したとされる。
「当時の銃火器に決して劣らない威力、そして何よりマスケット銃にはない速射性と射程距離は、全ヨーロッパ、中東の兵士たちを恐れさせたそうよ…って、あっぶねえっ」
とかなんとか言ってる真紗さんの頭の上を、ロングボウの矢が貫通していく。そんなことろで解説してるからだ。
真紗さんの話を聞くまでもなく、ロングボウの威力は抜群だ。一撃で人の腿ほどの欅の木を軽々と貫通した。鋼を射抜く鏃はボドキン(千枚通しのこと)と呼ばれ、無類の貫通力を誇ったそう。こんなの喰らったらひとたまりもない。
「あのロングボウ、使うのとても難しい。中世でも使える人、お金もらってとても尊敬された」
本場イングランドでもヨーマン(独立自営農民)と言われる土豪たちに、領主がボーナスを与えてまで、習熟させたほどだと言う。ベルタさんによるとゲオルグは、自費でイギリス本国に研修に行き、この武器を習得したのだそうだ。
「ゲオルグの家は代々、狩人の家。ライフルも得意、でも弓や動物捕えるトラップ作るの、もっと得意」
無暗に鉄砲を使うと、音や煙の匂いに愕いて獲物が狩場に現われなくなる。祖先の教えでゲオルグの家では、ライフルの他に伝統の弓術がずっと伝わっていたと言う。エリート猟兵になった彼はさらに研鑽し、それを軍事技術にまで高めた。
弓の優位性は、銃に射程距離と速射性を追い抜かれてからかなり減退したが、何と言っても利点はその隠密性にある。闇の彼方からの狙撃は銃ならば、どう繕っても発射時のマズルフラッシュや硝煙から居場所を特定されてしまうが、弓ならばその心配は皆無である。
ましてこの時代は、戦場から弓を駆逐したライフル銃もない頃だ。ベルタさんと松鴎丸たちが一斉射撃で応戦すれども、漆黒に紛れて動くゲオルグを捉えることは出来ない。ひょう、と幽かな風切り音とともに、銃手が射抜かれた。
虎千代は直ちに、撃ち方をやめさせた。
「これではそこに撃て、と言うているようなものぞ」
「でも!これじゃ、一方的にやられるだけじゃない!?」
「落ち着け」
虎千代は真紗さんを諌めた。
「こうなれば白兵で迂回して、あやつを仕留めるしかあるまい。まずは矢の飛んでくる方向を見極め、機をうかがうのだ」
「白兵で、って…?虎千代ちゃん、分かってる!?この坂、罠だらけなのよ?」
「それは百も承知だ。ミケル、傷の具合はどうだ」
と、虎千代は、肉を抉られたミケルに尋ねた。処置が早かったせいか、トリカブトの毒性からは、ミケルは免れたようだ。
「でも傷は深い。虎千代サン、ミケル、しばらく動けない、思う」
ラウラの心配は最もだ。緊急処置で解毒は上手くいったように見えたと言え、その足ではミケルは戦うことも困難だ。
「景虎様、出るなら我らが囮になります」
と、進み出た松鴎丸の鉄砲組にも、重傷者が出たようだ。
「無理はするな、と言うたはずだ。今に策を考える」
と、虎千代は言ったが、かなり追い詰められている。鉄砲も危険、そして肝心の白兵部隊も足並みが揃わない状態では、恐らく移動しながら狙撃を続けて来るゲオルグを捕えることは不可能だ。さすがの虎千代が、二の足を踏むのも分かる。
「と、虎ちゃんあれっ!」
ベルタさんが叫んだ。山上に大きな花火のようなものが騒々しい音を出しながら、立ち上ったのだ。あれは紛れもなく手製の狼煙だ。
「くそっ!」
ベルタさんはデンマーク語のスラングを叫びながら銃を撃ったが、梢に硬質の残響音が虚しく響き渡るだけだ。
「どうするのっ、向こうも加勢が来ちゃうじゃない!?」
「致し方なし。このままでは、黒姫にも迷惑をかけてしまうな」
虎千代は意を決して柄に手をかけた。もしかしたら単身一か八か、視界が利かない上、トラップだらけの斜面を突破して、命がけでゲオルグに斬りつける気だろう。だがいくら虎千代でもそれは、無茶だ。
「待った、虎姫、早まるのではないぞ」
と、虎千代を留めたのは晴明だった。
「真人、こう言う時こそ我が陰陽術の腕の見せどころではないかっ!なぜそこで、キメ台詞を言わぬか」
いや、僕にキメ台詞なんかないし。それに、僕が知っているのは、風を読み、操る術だけだ。この状況を打開できる手段が思いつくはずもない。
「馬鹿め、それが未熟だと言うのだ。私が風の本名を教えたのは、火付をする手伝いをさせるためではないぞ。風を読むとは即ち、風と和し、意志の疎通をしあうことだ。お前はあれで今宵の風を手なづけた、などと思っているだろうが、まだまだそれは甘い。もっと風の声を聴くのだ」
「そんなこといきなり言われても」
僕は大陰陽師じゃない。それが言われてすぐ出来たら、苦労はしない。
「御託はいい。目を閉じて今宵の風を聴け。仕方ない、今日は私が手助けしてやる」
「う、うん」
言われた通り、目を閉じて外界の刺激を遮断した僕に、晴明は何やら印を切り、呪をかけたらしい。
「良いか。この世界は、風で満たされている。つまりはその風を読めば、おのずと良き通り道は、風が知らせてくれる。風になれ。そして風と語るのだ」
晴明の声が降った瞬間だった。
眠りに落ちるように、五感がすとんと寸断された。
刹那、僕は自分の中を流れる風の音を聴いた。
まるで僕そのものが風穴になったかのようだった。そこを吹き渡る風は清々しいほどに冷たく、森の夜気をまとっていて、清かに湿っていた。まるで地下水の沁みた道をたどって出口を求めるかのように、その風は僕に行き渡って声なき声を聴かせたのだ。
「この辺りで良かろう」
晴明が柏手を打つと、身体中に沁み渡った風の音は、跡形もなく消え去った。驚くことに今の瞬間まで僕の意識は、この夜山の彼方遠くへ持ち去られようとしていたのだ。
「え…?」
「さあ、寝ぼけるのもいい加減にしろ。風はどこへ向かって吹いている?」
乞われるままに僕は、もう大分、夜目の慣れてきた斜面を見上げてみた。すると不思議だった。紛れれば自分の身体さえ溶けていきそうな無明の闇の中にかすかにひんやりとした風が、僕にも感じられたのだ。
「分かった」
僕の口から反射的に行くべき方向が、飛び出した。
「せ、晴明殿、風の通り道とは?真人は…一体、どうなったのだ?」
「きっかけを与えてやったのさ。私のお蔭でどうやら真人は一つ、極意を掴んだようだな」
「極意…?」
いや、僕、何も変わってないけど。
「元からあったが、使っていない感覚が目覚めたのさ。察気術の本来は、こうして風から危機を察知する能力のことなのだ。我ら平安の時代よりもさらなる昔、人がまだ獣がましき頃は、人は風を窺って危機を回避してきたのだ」
どうだ、この坂は登れそうか、と晴明が尋ねて来る。罠まみれの斜面だ。さっきまでは、一歩進むのも不可能に見えた。だが不思議なことに、今その漆黒の闇を前にしても、なぜか微動だに出来ないような危機感はなりを潜めていたのだ。
「大丈夫…だと思う。いけるよ」
僕はその感覚をはっきりと言葉にしてみた。何故だかは、分からない。しかし、今のうちに自分が肌で感じていることを信じていけば、何故か大丈夫な気がしたのだ。
「いやっ、真人くん…これ以上、怪我人出たら、作戦は失敗するのよ!?」
「でも、このままだって立ち往生だろ?」
真紗さんは、言い返しては来なかった。ただ不安そうに虎千代を見た。
「真人を信じろ、虎姫。精確にはこの天才陰陽師の薫陶の賜物をな」
「分かった。わたしは真人を、信じる」
虎千代は間髪入れずに、決断した。
「案内を頼む」
虎千代に一切の躊躇はない。僕もその分、覚悟して頷いた。
「雛の巣立ちだ。もう少し、私がお膳立てしてやる」
と晴明は言うと、一枚の折り鶴を取り出して呪をかける。
「真人、これを手のひらに載せて、そのまま吹くがいい。後は風が導いて、山の上に案内してくれよう」
「分かった」
僕はその小さな折り鶴を手のひらに載せて軽く息吹をかけた。すると、まるで本物の鳥であるかのように鶴は動き出し、闇の向こうへちらちらと白一点、揺らぎながら飛び去って行った。
「皆の者、あれを見失うな」
虎千代は一にも二も無く、鶴を追って斜面を登った。
狼煙が上がって、人手が集まり出している。
僕たちが斜面を登り始めた頃、すでに敵はゲオルグばかりではなかった。彼方から、オレンジ色の火の玉が降りかかるのが見える。恐らくは、火矢を撃ちかけているのだと言う。
しかも燃える矢は地面に突き立って、金臭い炎を発しだした。これもゲオルグが臭水を沁み込ませた干し草でも置いてトラップにしていたに違いない。一転、漆黒の闇は、方々に上がった爆炎に融かされた。
「大木の蔭に身を隠せ」
松鴎丸たち鉄砲隊は、危険な応戦を続ける。辺りが照らされて、こちらの姿が向こうから丸見えなのだ。僕たちが迂回するまでは、囮となってどうにか生き残ってもらう以外にない。
それにしても、これだけ戦闘が本格化しても肝心のゲオルグの姿は、誰も捉えられない。真紗さんによると優れた猟兵とは、影のように山岳を移動し、獲物にも気づかれぬまま、狙撃を行う、と言う。
僕たちは遥か頭上をひらひらと舞う折り鶴を追いかけて、奔った。正直なところを言っていつトリカブトを塗った毒矢が襲ってこないか、内心、恐怖でいっぱいだったが、僕が自分で先導を買って出たのだ。もし、やられるなら虎千代以下、戦闘が出来る人たちの身代わりになって倒れるしか、僕に出来そうな役目はない。
「よし、そろそろ上だ」
法上から弓を撃ちかける敵勢が見えるや、虎千代は抜刀し、矢の雨の降るにも構わず跳んだ。一瞬で僕を越えて、飛燕のように、弓兵たちの間に殺到した。
「わっ」
矢を番えていた足軽たちは、反応する暇もない。一瞬で弦を断ち切り、手足の腱を割いて行動不能にしてしまう。接近戦闘にさえなれば、虎千代に敵はない。瞬く間に弓兵は沈黙した。
「さすがは虎千代ちゃん。やるう!」
手鎖を持った真紗さんも、現代人とは思えない手並みだった。ひと息で三人、手鎖で武器を封印しつつ、叩きのめしてしまった。だがその目は油断なく、もう一人の標的を捜している。一人で僕たちをあそこに釘づけにする絶技を見せた、猟兵の姿だ。
「後はゲオルグね。どこにいるのやら」
と、虎千代は真紗さんを下がらせた。この時代の武器を持った侍大将が、こっちへ向かってきている。
悲鳴を上げて逃走する足軽たちの中で、供も連れず、緋縅の具足に身を固めた男は、熊毛を植えた天狗の惣面をしていた。
「長尾平三景虎殿とお見受けした。いくさ傷の醜面ゆえ、惣面にて失礼。言うまでもなきことなれど、これより先は、往かせること敵いませぬ」
「なんの、良き武者振りよ。坂戸の伯父上が武者か」
虎千代は悠々と相対し、半身の下段に剣を構えた。男は面頬の下で破顔したと思われるが、政景の名は出さない。
「お認めなされたな。夜陰に乗じてこの春日山に忍び、晴景公の首を狙うとはこれ、国盗人たること誰の目にも明らかなり。お覚悟召されい」
「良かろう。この景虎、国盗人などと謂わるる覚えなし。ゆえに、逃げも隠れもせぬ。かかって参られい」
男は異形の武器を持っている。あれは確か弓の弦に、槍の穂先を取りつけた、はず槍、と言う特殊な槍だ。接近戦闘にすぐに対応できない弓兵の弱点を補う武器だが、扱いには習熟が要る。なにしろ湾曲した長い弦の先についた穂先は千変万化し、通常の素槍とは異なる刃圏を有する。
鎧武者の和弓は、携帯用の半弓ではない。源平以来の長大な滋藤弓だ。しなりで撃つ、日本の弓は長さ二メートル以上に達する。穂先を取りつけるとなれば、それは槍と言うよりは鞭だ。
対峙する虎千代の剣は、二尺七寸三分、備前光忠である。虎千代の身長に比しては長大な剣ではあるが、言うまでもなく間合いは相手の半分に満たない。
「兄を人質に取れるは、海童めかそれとも、伯父上の名代か」
「たわけたことを」
ゆらり、と虎千代は、はず槍の刃圏一歩手前に立つ。その足取りは雲の上を歩くように軽いながら、一糸も乱れることはない。
「答えずともよいわ。今、そこへ行く」
「御託はよろしい。いざ、来ませい」
男が語尾を発するか、しないうちであった。
ふいの突風で紙が舞うように虎千代は、その間合いを侵した。ふわり、とそこに舞い落ちて立った、そんな感じにしか見えなかった。
それは決して速い、と言うものではなかった。だが誰にも予想が出来ない。無論、槍を構える鎧武者にも全く反応が出来ないタイミングであった。
「おのれっ」
男が、あわてて槍を引き戻そうとした刹那だ。
次は、まるで視えなかった。
パン、と何か張りつめたものが裂けるような音がしたばかりだった。
槍を引き戻した男の前方に、虎千代はいない。
身体ごとそこを飛びすがって、右の脇構えに真後ろにたたずむばかりだ。軽く下げた剣線のまま、反対の拳で柄を叩いた。と、足元に敷き詰められた砂利の上に黒い血の珠が、ぽとりと落ちた。
男は気づきもしなかった。あの槍を戻した刹那、虎千代によってすでに頸の動脈を掻き斬られていたのを。それは兜と胴丸の、僅かな隙間だった。普通の武者が相手を組み伏せ、牡蠣殻でもこじ開けるように、馬手差しを突きこむその場所を、虎千代の剣は苦も無く、飛び違いざま確実に捉えていたのだ。
「なっ…?…あああっ」
熱い血潮が噴きだしたまま、男は槍を棄て、あわてて腰の打ち刀を抜こうとした。抜けなかった。柄に手をかけたまま半回転し、頭から倒れた。虎千代がつけた傷は、頸の一撃だけである。然るに、鎧武者は沈黙し、二度と起き上がることはなかったのだ。
さすがは虎千代だ。
古豪の侍大将を一撃で斬って落とすと、討って出てきた人だかりが思わず、後退った。
「時が惜しい。まとめて来るがいい」
一剣、虎千代は立ちはだかると、冴えた声で言った。
「長尾平三景虎これにあり。我はと思わんものはこの首、獲りにくるがいい」
虎千代の挑発は、もちろん陽動のためだった。
なんと御大将自ら、囮になろうと言うのだ。
景虎の名乗りは功を奏し、人員がそちらに割かれることになる。
その間に黒姫が各所に放火し、柿崎景家率いる本隊が正門を堂々、突破すると言うことだ。
「皆の者、声を張れッ!鬨を作れッ!不逞の奸物ども、この春日山から出てゆくがいいっ!」
入り乱れる長柄武者たちを斬り伏せながら、虎千代の叱咤が響く。鋭い金属音と濡れ雑巾で床をはたくような音とともに、方々で血しぶきが吹き上がり、恐怖を押し殺す緊張の怒号が満ち満ちた。
敵勢がこちらに集まってきている。しかし、予想外の人数だ。虎千代や真紗さんを筆頭に、大熊朝秀が率いてきた薙刀部隊が支えるが、人波に押されそうだ。
「あと少しの辛抱ですう!」
背後で鉄砲隊の銃火が降り注いだのは、そのときだ。
松鴎丸たちとベルタさんだ。業火に包まれ始めた斜面を突破した彼らは、間髪入れずの援護射撃で飛び出して来た鎧武者たちを撃ち白ませた。
「すまん、虎姫!出遅れたッ」
ラウラに伴われて、ミケルもどうやら急坂を上り切ったようだ。坂を上るのはかなりきつかったようだが、解毒が効いたのかミケルもまだ戦闘不能には陥っていない。
「全員無事だったかっ?」
僕たちは頷いた。一時はどうなることかと思ったが、一人の脱落者もなく、春日山城に侵入できた。
「にしても、あの南蛮の猟兵はいずれに消えたか」
そう言えば、僕たちを苦戦に陥れたあのゲオルグ・ギースの姿がない。どこへ消えたのだろうか。
「虎ちゃんどいてッ!」
ベルタさんが叫び、反射的に真紗さんが虎千代を庇った。二人の視線は、遥か頭上を向いている。
「屋根だ」
いち早く察気術を使った晴明が言った。ゲオルグは狙撃兵のように、屋形の屋根に潜んでいたのだ。虎千代が動きを停めるのを待ち、確実に仕留めようとしていたのだろう。あの巨大なロングボウを引き絞り、虎千代に向かって放つところだったのだ。
番えた矢をゲオルグが放すのと、ベルタさんが銃火をほとばしらせるのが、ほぼ同時だった。弾丸はゲオルグの太い二の腕を掠め、血をしぶかせた。矢は狙いを外れ、大きく回転し、真紗さんの足元に突き刺さったのだ。
「あっぶねえ!ちょっ、ちょっとベル!」
外したのが分かるとゲオルグは、弓を担いで逃げた。すかさずその影を松鴎丸たちの弾丸がなぞる。
「逃すなっ、撃ち落とせっ」
「もうよい」
虎千代はゲオルグの影が消えたのを確認すると、松鴎丸たちを留めた。
「そろそろ、我らが身を隠す頃合いよ」
黒姫の陽動が次に始まった。
軒猿衆たちが派手に爆薬を打ち鳴らし、辺りは真昼のような大騒ぎになった。ついで正門が突破されたことを示す狼煙が上がり、制圧が順調に経過していることを告げた。
「何とか間に合ったな」
ここまで来ると虎千代の声も少し、落ち着きを取り戻し始めている。
僕も少し冷静になってきたので、辺りを気遣う余裕が出てきたが、城館の守兵たちはあわてるままに武器を取って外へ出て来るばかりで、意外にあっけない。そう言えばこの春日山城は、歴史的に見て攻城を受けたことがない。
広大な城郭群も板葺き屋根の室町式の城館であり、石垣もなければ矢間のある城壁もない。堀切と御土居くらいが精々、防御施設と呼べるものだろう。つまりは、それほど立て籠もりに適していないのである。
登山までの道のりは険しいが、いざ曲輪の中へ侵入してしまえば、襲撃はそれほど手こずらない。虎千代の図は当然ながら的中した。さすがに自分の生まれ場所だけあって、どこがこの施設の泣き所かなどは城方以上に熟知していたのだ。
「和泉め、春日神社辺りまでは至ったか」
虎千代は迫る松明の群れと馬蹄の響きをうかがいながら、言った。正門が突破されたのだ。そこからすぐ上がった曲輪が守るのが、春日神社なのである。ここから見ても櫓から応戦する火矢が消え、景家の兵が充満しているのがよく分かる。あちらは血なまぐさい戦はもう終わりだろう。差し詰め夜襲にパニック状態になっている神官や下女たちに、顔見知りの柿崎景家が事情を含めて慰撫しているところだ。
「さーすがは景虎さまっ、大成功ですう☆」
朝秀たち女子隊は、それだけで大喜びである。
「者ども、逸るな。まだいくさは終わっておらぬわ」
虎千代はすかさず朝秀たちを諌めた。
「ここまでどうにか絵図通り来たが、問題は本丸の突破ぞ」
本丸屋敷がある天守台の直近にあるのが、直江邸だ。僕たちが行くとそこはすでに、黒姫たち軒猿衆が篝を焚き、陣所を整えて待っていた。
「なーんか案外と、呆気ないですねえ」
黒姫はまだ、暴れたりないようだ。
「ふん、ここが最初から守り難きは、向こうもよう知っておろう」
意味ありげな視線を交わすと、虎千代は山頂を見上げた。
この直江邸の真上が本丸である。
春日山山頂の尾根には、厳重に塀をめぐらし、巨大な櫓に守られた主館が拡がっている。天守台と言われる場所には、太い支柱で組まれた高台が設けられ、城下町から城郭一帯を一望のもとに見渡せる設計になっていると言う。
「兄上は紛れもなくそこだ。黒姫、海童の姿をここまで見たか?」
「海童だけじゃなく、連中の姿は全然ないですねえ。恐らく敵は、坂戸に率いられた政景殿か、それに加担する黒川清実の手勢のみかと思われますですよ」
「隻眼の男、城を領したは、母上の話を信じるならば海童のはず」
「本命は全員、本丸にいるかも知れない、ってことね?」
虎千代は無言で頷いた。
「そう言えば、まだあの女の姿も見えんな」
ミケルが訝ったのは、三島春水の不在だ。玲の件でも何となくうかがい知れることではあるが、三島春水ばかりは海童たちの思惑に染まって働くことはあまりないようだ。
「長尾家のごたごたには、関心がないのだろう」
虎千代は苦笑した。その代わり虎千代本人とその剣腕に、三島春水は関心を抱いている。
「で?どうするの?一気に突入しちゃう?」
「それしかあるまいが、手段を択ばねばなるまい」
本丸の居館にこそ、非戦闘員である晴景の妻はじめ虎千代の一族や、女官たちが詰めている。
「まさか、本丸を吹き飛ばすわけにはいかぬからな」
と、虎千代はいつもの黒姫の調子を皮肉った。
「なっ、とっ、虎さまなんてことをっ!いくらわたくしでも、その辺りは弁えておりますですよお!」
「虎ちゃん、ゲオルグその本丸、逃げ込んだかも知れない」
ベルタさんが銃の発射準備をしながら言った。
「べっ、ベル!中では撃たないのよ!?」
「分かってる。本丸まだ、大きな櫓ある」
ベルタさんが心配しているのは、ゲオルグの狙撃の可能性だろう。確かに彼女の言う通り、この直江邸から本丸に到る坂を見渡せる位置に、巨大な櫓がそびえているのがここからでも分かる。
「屋敷は中も外も広い。兄上を捜す上は、手分けをしよう」
虎千代は突入時、家探しをするのに必要な人員を決めておく。
虎千代は僕と黒姫、真紗さんとベルタさんは朝秀たち、ラウラとミケルは松鴎丸たちと、グループには必ず中の非戦闘員たちに顔が利く人間を選りすぐっておく。
「皆、いい?向こうは最悪、火をかけたっていいのよ。それだけは絶対阻止しないと」
「させませんですう!」「やらせるもんかってんですよ!」
真紗さんの気合いに、朝秀と黒姫が争うように声を上げる。
「皆、頼むぞ」
虎千代は言った。そうは言ったがもちろん、最初に突入する肚である。
「夜が明けるまでに必ず、この城の平安を取り戻さん」